いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


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[907] 教団組織を考える

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 7月19日(木)23時31分42秒   通報   返信・引用

<宿坊の掲示板>日興門流・教団組織を考える  投稿者:飛翔こそ蘇生
https://6027.teacup.com/situation/bbs/85782

教団の指導者を育成する中心道場は、どのような機能を備えているべきか。
まず日興遺誡置文から行学二道の精進の部分を見てみよう。

一、才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸(もろもろ)の用事をしなくてもよいようにし、
  御書をはじめとして仏法のさまざまな教えを学ばせるべきである。

一、(仏法の)学問がまだ完成していないのに、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)を考える僧侶は、
  私(日興上人)の末弟ではない。

一、 私(日興上人)の後代の弟子たちは、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、
  父母や師匠の恩を振り捨てて、生死の苦しみから出て仏道を証得するために、この寺に登って
  学問をすべきである。

一、大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない。

一、日興門流においては御書を心肝(しんかん)に染め、極理(ごくり)を師から受け伝えて、
  その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである。

一、(仏法についての)論議や(正法の)講義、説法を好むべきであり、
  それ以外のものは慎まねばならない。

一、広宣流布は成就しない間は、身命を捨て、おのおのの力に随(したが)って妙法弘通に励むべきである。

次に、法華初心成仏抄の次の箇所
「法華経を持つにおいては深く法華経の心を知り止観の坐禅をし
一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は実に即身成仏し解を
開く事もあるべし、其の外に法華経の心をもしらず無智にしてひら
信心の人は浄土に必ず生べしと見えたり」

通解「法華経を持つにあたっては、深く法華経の心を知り、止観
の坐禅をし、一念三千・十境・十乗の観法を一心に行う人は真実
に即身成仏し、悟りを開くこともあるであろう。
そのほかに、法華経の心も知らず、無智であっても信心一途の人
は浄土に必ず生まれるであろう」

この部分を指導者側の責任と一般信徒側の在り方として
仏法の四力(三妙・三大秘法)に配してみよう。

指導者側は、例えば摩訶止観の陰入界(現代的に言えばダイレクトパス)
等によって実質的に仏力・法力のエネルギーを開く(悟る)必要があり
(本果妙(釈迦一代の真髄)・本尊)

多くの信心一途の一般信徒らの信力・行力によって蘇らせていき
(本因妙(日蓮仏法の真髄)・題目)

揃って円満な教団になり、広宣流布の浄土を実現していく。
(本国土妙(広宣流布の組織)・戒壇)

例えば、御義口伝の内容というものは実に
文章を追って思考概念で理解するものではなく
止観の確認の対鏡のようになっているのは
それを実践すれば体感できるものだ。
(アルベア法の実践)

しかし近くで学んで修行段階によって悟りが得られる仕組みや
教団組織の普遍的な幹部育成が上手くいかないのは歴史の常で
多くは早々に破綻する。
日蓮大聖人の直弟子ですらのことである。

実質、広宣流布の飛躍には難の中で心身を削り、頼るものの無い中で
一人開く並々ならぬ人間革命の指導者の出現が待たれた。

つまり、その雛形として戸田先生の出現があり
飛躍的に我がものとして発展させた池田先生の出現があった。

で、それを継承する次がいない。
54年の再燃の法難が起こっている。

全員が会長の思いで日興遺誡置文の仏法護持の根本精神を
読まなくては断絶し広宣流布がなされない事態である。

一、我が身は軽く法は重しとして仏法実践に励んでいる者に対しては、たとえ下劣の法師であっても、
  「当(まさ)に仏を敬う如くにすべきである」との道理にのとって、その人を敬うべきである。

一、妙法を弘める法師は、
  たとえ身分の低い者であっても、(修行を積んだ)老僧のごとく思って敬うべきである。

一、たとえ位の低い者であっても、自分より智慧がすぐれている人を、師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。

一、たとえ、時の貫首(一宗の法主)であっても、仏法の正義(しょうぎ)に背いて、
  勝手な自説を立てた場合には、これを用(もち)いてはならない。

一、たとえ宗内の多数で議決したことであっても、
  (大聖人の)仏法と相違があるならば、貫首(一宗の法主)はこれを打ち砕くべきである。

つまり、創価学会内の多数で議決したことであっても
仏法と相違があるならば、全員が会長の思いでこれを打ち砕くべきである。

がしかし、思考概念の思いだけで早まっても
作用反作用に翻弄され当たって砕けてしまうだろう。

まずは反応に対して俯瞰し、意識として
事の一念三千を実現していくのだ。

連携し、信行学を深めて
充実と健康と功徳を取り戻して体力回復をするのだ。

彼らは焦り、我らは楽し。

自受法楽で行くのだ。




[906] (無題)

投稿者: 投稿日:2018年 7月19日(木)12時50分25秒   通報   返信・引用

カバラと塚を使いアミノ酸の配列を狂わせて私を老化させる気らしい。
never?noyume?睡眠時の夢も使って老化せせる気か!決死の覚悟か?
あと夢の中で女の色仕掛けを使う気か!2018/07/19のお昼12:31。

7/19早朝深夜、カラスの類が私に悪い事を言ってるらしい。朝、人面犬が見えた。

7/18の夢で明石家さんま関係から究極に汚いイツァムナーを送られた?
私にやさしく悪い奴に接するようにさせたいのだろうが絶対ごめんだね!
2018/7/18の18:58

尻穴に忍者がいるらしい。2018/7/18の18:39

音楽でも私のかっこいい要素を奪ってたらしい。アブラメリンでやってたらしい。
究極の汚物とか使ってたらしい。2018/7/18の17:50



[905] 側と側と非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 7月19日(木)12時46分50秒   通報   返信・引用

南無妙法蓮華経と唱える側の問題と
南無妙法蓮華経と唱えられる側の問題がある。

例えば日本円を使う側と使われる側がある。
市場の大きさ、健全性、安定性、将来性
といったものが信頼できることによって
安心して使うことが出来る。

それらにヒビが入りそうな時には
まず日本政府が責任をもって対処するだろう。

その相互の関係性によって
日本円をベースにした安定した生活を営むことができる。

日本円の経済活動に加わり働くことで
衣食住を安定させることが出来
余剰分で不測の事態に備えたり
文化的向上に回すことが出来る。

日本政府の側も医療や教育や雇用の制度や
インフラの整備、福祉の充実などを行う。

敗戦の時、日本はギリギリのところで
アメリカ軍が発行するB円の流通を
沖縄などの一部地域に抑えたが
それで流通されてしまっていたら
日本政府の手でその価値を担保できなくなってしまっただろう。

さて、南無妙法蓮華経だ。

この題目が思い、情動、実存に対して
安定させることが出来
死に対してまでのあらゆる事態への正念の確保
平和・文化・教育の化儀の広宣流布を実現させるためには

御本尊を授ける側は
どんなことに精通し、担保としなければならないか?

それはもちろん、法華経、一念三千、日蓮仏法の
三種の法華経を心とした一切経の仏教である。

それが無ければ
本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目でなく
権門のB本尊、権門のB戒壇、権門のB題目となってしまう。

権門のBという邪宗に堕とさせないためには
発迹顕本した人間による化導が必要である。

化法に精通する悟達し思い出した人間
あるいは師弟不二によって受け継いだ人間である。

華厳経には無く法華経には有るのは
「久遠実成」と「二乗作仏」である。

探求者や仏弟子らが永久に法を説いている仏と
同じ化法を開いて化儀へと還元するのだ。

思い、情動、実存に対して安定の方法を現代的に言うと
内観、エクササイズ、ダイレクトパスといった手法があるが

これを一息に観ることが一心三観であり
これによって「I am(that)」であることが
I=一念、that=三千の一念三千である。

この一念三千を開く
師弟不二とはつまり二乗作仏と不可分である。

このことを師弟共に語り展開していくのが
南無妙法蓮華経である。

この事がしっかりあればこそ
深く意味を知らずとも、
そこにいる民衆は唱題によって功徳を得られる。

しかし、体裁ばかり教団が存続しても
「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、
何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ」である。

化法が都合よく改竄され失われようという時
その化法を護らずして、いかな成仏も広宣流布もあるだろうか?



[902] まぁまぁ、いりませんとかつれないこと言わずにさ(^^)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 6月15日(金)03時34分41秒   通報   返信・引用   編集済

まぁ、見る角度によっては
私の方がよっぽど変な事ばっか書いてるのかもしれないしね。

しかしさぁ
であるならば、あなたはどうしたいわけだい?

ちゃんと文章にはなっていないけど
ここに書くことは出来ている。

あなたは、それが出来ているあなたを発見できますか?

あなたは安全にここに表現できている。

嫌われていることに気がつかないといけないと。

気がついてもらえないと、あなたはどうなりますか?
どうなってしまうと思いますか?
どんな感情がありますか?

その感情があっても、あなたは大丈夫です。
身体をポンポンとタップしながら、その感情を味わってみて
深呼吸してみて下さい。
(例えば悲しみがあれば
悲しみ、悲しみ、悲しみと確認しながら
鎖骨の下あたりをポンポンとタップする)

一つの感情が落ち着いたら
さらに身体の感覚を追いかけてみて下さい。

いつ、何を経験しましたか?
具体的な出来事と、
それで自分がどうなるように感じるのかが明確な方が効果があります。
無理のない範囲、
直接の経験がきついなら、その直後、直前にある感情感覚を
タッピングしながら味わってみて下さい。

呼吸に意識を向けて下さい。

大きく深呼吸してください。

本当はどうしたかった?
どうであってほしかった?

イメージの中で
それが実現しているところを思い浮かべて下さい。

そのイメージを焼き付ける気持ちで
大きく深呼吸してください。

生命現象~ゴールデンワールド~の動画を眺めて下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=NfdgKZ7HR4U

好きでも嫌いでもないけれど
生きていくために必要なものを一つ思い浮かべて下さい。
(例えば「空気」)

パンと両手を合わせ、チョキ、オッケー、やぁ
の動作をしながら
連想を繋げていって下さい。
(空気→酸素→植物→光合成→太陽・・・・など)
(動作見本https://www.youtube.com/watch?v=GdlnX_seOOw

毎日、プルプル気功を5分間やって下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=23Tvu1VdntQ

一か月ぐらいすると分かってきます。

誰でも同じなのです。

あなたがあるだけです。
そこにいればいいだけです。

これ以上なく安全なのです。



[900] Re: Re: 見分けて区分けてくま幾子にちれんしょうしゅう

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 6月 7日(木)09時09分24秒   通報   返信・引用

>>と言えば、私には御本尊赤沢の生命が無く無慈悲なようだし

「赤沢」??
検索してみると御本尊謹刻問題が出てきますね。

http://norimaki.faithweb.com/mokoku2.htm

紙上座談会というのは基本的に架空なんですけれど
内容からして、赤沢猛さんへの聞き取りは行われたのでしょう。

平成5年というタイミングで
そういうものを出しているんですね~。

https://ameblo.jp/kingdog136/entry-11709963921.html

色々と意図思惑が乱れています。

「神聖」と「タブー」ってので
人間を権威に隷属させ

そういう意図思惑の渦巻く中に
「折伏だ、啓蒙だ」と煽られたら

感じ取れる人間にとっては辛く
頭で理解・整理し論陣をはるより前に病んでしまうかもしれない。

精神の自由・信教の自由
それはそれ以外の何ものをも持たない時でさえの
人間の根底、存在からの自由でなければならない。

誰かからの指図など、そこにはいらない。
気にするな。

自身のために自身を見つめ
自らを解放せよ。

妙法のために妙法を見つめ
妙法を唱えよ。

一切の現象が妙法だと悟った時
それが円満具足の功徳聚となる。

指図された何を手に入れようとしたって
気に病む以外の何かが手に入ることはない。

妙法を唱えた瞬間に始めから
それ以上に手に入れるものなんてない。

全て蘇生され手に入れているのだ。

その全受容の癒しに、ただ気づけばよい。
そこにいれば良いのだ。



[898] 見分けて区分けて

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 6月 3日(日)03時02分30秒   通報   返信・引用

例えば境涯革命五項目というのがある。

* 他人に言えば愚痴になる
ご本尊に訴えれば祈りになる

* 世法で苦労すれば苦しみが残る
信心で苦労すれば喜びと歓喜が残る

* 感情をぶつけると怨嫉になる
題目で包容すれば成長できる

* 方法ばかり考えると迷いになる
決意して祈ると智慧が湧く

* 出来ないと決めると出来なくなる
やろうと決めて祈ると力が出る

なるほど、様々な信仰体験の
最大公約数的なシンプルな指針なのかもしれない。

振り返りの実感としてはそうなのだろう。
今、ブレていないかズレていないかの確認にもなろう。

しかし他者に対して発信する時には注意が必要だ。
自然のままの発露を無視すればろくなものではない。

「そんな愚痴を私に言っていないで御本尊に祈れ」
と言えば、私には御本尊の生命が無く無慈悲なようだし

「生活を犠牲にしても学会活動を頑張れ」
と言えば、活動が苦しみになっていくかもしれないし

「方法ばかり考えていないで決意を固めろ」
と言えば、何をどうして良いのか混乱するかもしれないし

「何を弱気になっているんだ、やるのかやらないのか」
と言えば、収束されるべきだった力が出なくなっていくかもしれない。

こちらとあちらに分離のある段階のままでは
作用反作用の反転が起こり

条件付けの隷属化に堕する。

形骸化が起こり疲弊していく。

そうならないために
自我機能・自己機能・意識機能の見分け区分けが必要になる。

エネルギー変換すれば作用反作用が起こり
エネルギー還元すれば非二元の現象化になる。

呼吸に意識を向けることや
坐禅を習得するように

題目にも唱え方によってある深い変容に気づくべきチャンネルがある。
そうでなければ九識心王真如の都とは言っても有名無実となるではないか。

これからいよいよ空仮中の現象化という時に
創価はその師から組織の実権を無くさせてしまった。

在家に悟られては立場の無い宗門に付け入られて
空仮中の体得の道から外れてしまった。

人と人との間に、その方法の実体が実現されていくべきであったが
池田先生の周りが、そのような人間たちになってしまったことで
機根に応じて、概念として、どう伝えれば伝わるだろうかということになっている。

池田先生は、ただ自身、行動を貫いた。

自我機能・自己機能・意識機能というものを
人間が自然に経験する発露、恋愛を例にして考えてみよう。

誰かを好きになる片思いの状態。
場合にもよるが、理屈よりも先に感情がある時
どこをどう好きなのかの内容の言葉は後付けになる。
状況状態そのものが感情のエネルギーとして起こっている。
恋い焦がれる荒ぶるエネルギー。
言葉にして付き合ってほしいと伝える。
作用反作用が起こり一喜一憂する。
いずれにしても、どこかで上手くいかないことが起きる。
幻滅し、現実に目覚める。

片思いの感情感覚はこちらの世界に起こっていることである。
あちらには、そうではない世界がある。
こちらの感情感覚の世界はあちらを手に入れなくてもこちらにあり
あちらの世界を手に入れたとしてもこちらの感情感覚で望んでいたものが
あちらの世界にそのままあるわけではない。
むしろあちらの世界にアクセスすることでこちらの望みは崩れる。
それは一時うまくいっても長期的に見れば滅さないものはない。

ではこちらの片思い感情感覚はどうだろうか?
縁にふれてステージに起こったものである。
私はその時に生まれただろうか?否、それ以前からある。
それなのに「私は貴方が好きだ」という私は、一つの縁起に同化しきった小我である。
それは私を抜き差しならない状態へ追い込むことになる。
それは意図思惑となり、作用反作用となる。
「なんでこんなに好きなのに分かってくれないの」という不足感に苛まれる。

私に、あなたを好きという感情感覚が起こっていると見れば
一歩引いて見ることになる。
「貴方が好き」おわり。何も求めない。

その、起こっていることに気づいているだけの私はいつからあるだろうか?
この問いの意味するところが分かるだろうか?
起こったことの全ては私そのものではないのだ。

DNAを元に身体の生成が起こっている。
それは私そのものではない。

私は、あらゆる記憶よりも前からある。

その発見できない発見の私が空であり大我である。

これは頭で理解することではなく
実際にやってみることだ。

私が気づいていることの全ては
私に起こっていることであり
ただ起こっていることの全ては
同列に自然に起こっている。

選択次第ではあるが、それでない人はいない。

アルベアさんはその交流にある。

「ん?」と思うところを
アルベア論に思考概念を合わせるのではなく
なぜ選択したのだろうかという自身を静かに味わってみる。

という条件付けさえ疑問の中に消し去って良い。

ただ、御書を読み法華経を読む時
同じ言葉を読んでいるのに
全くするりとそれであることが
始覚即久遠になっていく。

そうであるならば信仰者として
どうして避ける必要があるだろうか?



[897] 「21世紀文明と大乗仏教」趣意

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月23日(水)02時53分25秒   通報   返信・引用

創価学会の会則の前文には
創価学会は、「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、異体同心の信心をもって、池田先生が示された未来と世界にわたる大構想に基づき、世界広宣流布の大願を成就しゆくものである。
とある。

池田先生とトインビー博士との対談が題名を『21世紀への対話』としていることもそうですし
「21世紀への」等と題されたものは赤胴鈴之助さんが投稿した『21世紀への選択』などいくつかあるが
現在の執行部は、その大構想に従っているだろうか?

今回は「第三の千年へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。」と締められた
「21世紀文明と大乗仏教」と題された1993年の池田先生のハーバード大学での講演から
どんな法を広めていくのが池田先生の広宣流布の大構想なのか考え

現在の執行部が「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠として名前だけ利用し、
執行部の方針に従うことが「異体同心の信心」だと吹聴して惑わし、
池田先生が示された未来と世界にわたる大構想を隠し反故にして、
世界広宣流布の大願を破壊しゆくものであることを再確認する。

なるべく平易にかいつまむので、
原文は各自で見比べて確認してほしい。
考察を交えていこうかと思っていたが
趣意の抜き出しにとどめる。
https://blogs.yahoo.co.jp/rightrevolution2004/7621329.html
https://blogs.yahoo.co.jp/rightrevolution2004/7622019.html

無限の「富」や「権力」を手にしても人は必ず死ぬ。
有限性を自覚し、死の恐怖や不安を克服するために
人類は何らかの永遠性に参画し宗教と共に生きてきた。

近代の文明は死を闇雲に嫌っている。
20世紀が「メガ デス(大量死)の世紀」となったことは、
皮肉にも「死を忘れた文明」の帰結であったとは言えないか。

死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、
一つの全体を構成する不可欠の要素なのだ。

仏教では 「法性の起滅」を説く。
法性とは、現象の奥にある生命のありのままの姿。
生死など一切の事象は法性が縁に触れて「起」、すなわち出現し、
「滅」すなわち消滅しながら、流転を繰り返していく。

「戦争と革命の世紀」の悲劇は、
人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残した。
次なる世紀にあっては、従ってこうした生死観、
生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろうと私は確信している。

大乗仏教が21世紀文明に貢献しうる視点を3点に要約。

1、平和創出の源泉

釈尊の生涯は、一切のドグマから解放された
「開かれた心」による「開かれた対話」に貫かれていた。

釈尊の最後の旅は、戦争への意図を、
言論による説得で思いとどまらせたエピソードで始まる。

また、いまわの際の釈尊が弟子たちに向かって、法や修行のことなど
聞き残して悔いが残らぬよう、二度、三度と対話の勧めを行っており
「言葉を自在に使う人」の面目を躍如とさせている。

克服されるべき悪、すなわち「一本の矢(差異へのこだわり)」は、
外部というよりまず自分の内部にある。
人間への差別意識、差異へのこだわりを克服することが、平和と普遍的人権の創出への
第一義であり、開かれた対話を可能ならしむる黄金律である。
それでこそ、相手の性分や能力に応じて法を説く"対機説法"という自在な対話も可能。

日蓮大聖人は、改宗すれば日本の国王にしようと誘惑されても、
また、改宗しなければ父母の首をはねると脅迫されても、
「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(「開目抄」 御書 232頁)と。
まことに言論にかける信念の強固なるや金剛のごとし、です。

創価学会は、真っ向から日本の軍国主義に対抗し、
牧口常三郎初代会長はじめ多くの同志が、投獄。
取り調べの検事や看守にさえ、毅然と仏法を語りながら、
平和を語りながら、牧口初代会長は73歳で獄死。

遺志を継いだ戸田第二代会長は、2年に及ぶ獄中闘争の後、
「地球民族主義」という理念を掲げ、悩み苦しむ民衆の中へ飛び込んで、
座談の波を広げていった。

この歴史的淵源を原点に「平和」と「文化」と「教育」の運動を展開し
世界の良識との対話を、更に続けてまいる決意。

2、人間復権の機軸

はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、
善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、
という判断を誤ってはならない。

マルクスの宗教阿片説が全く無意味であったとはいえず
相互依存と文化交流の進展を逆行する閉鎖的、独善的なものも多い。

仏教で言う「他力」「自力」、キリスト教流に言うと「恩寵」「自由意志」との問題
その両者のバランスの在り方を改めて検証してみたい。

大まかに俯瞰してみれば、物事の決定権がもっぱら神の意志にあった、神中心の決定論的世界から、
その決定権が人間の側に委ねられ、いってみれば、「他力」から「自力」への主役交代があった。

確かに科学技術を中心に大きな成果を積み上げてきたが、理性万能主義が、
人間が自力ですべてを為しうるという思いあがりを生み、
現代文明を抜きさしならぬ袋小路に追い込んでいる。

自力と他力の一方へ偏重するのではなく、今や「第三の道」を模索しているといえる。
その点「自力も定めて自力にあらず、他力も定めて他力に非ず」( 「一代聖教大意」御書403頁)
と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆が含まれている。

近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。
他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。
しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである――
こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺。

仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、
この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。
そうでないと、宗教は、人間復権どころか、
再び人間をドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからだ。

仏の命の力用が「君よ、強くあれ。君よ、善くあれ、賢明であれ」との、
人間復権へのメッセージであることは申すまでもありません。

3、万物共生の大地

仏教では「共生」を「縁起」と説きます。「縁起」が、縁りて起こると書くように、
人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、
すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。
すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。

因果律を例にとれば、縁起論でいう因果律は、近代科学でいう、
人間の主観から切り離された客観的な自然界を支配している機械論的因果律とはおよそ異なり、
人間自身を含む広義の自然界に渉っている。

災害に遭ったのが「なぜ私なんだ」という類の問いも真正面に受け止めて、「一念三千」論のように、
近代科学とも十分に整合性をもつ、雄大にして精緻な論理を展開している。

現代の生態学、トランスパーソナル心理学、量子力学等は、それぞれの立場で、そうした仏教的発想と親近しつつある。

関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないかと思われがちだが、
そこには一つの誤解がある。
仏典には、「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」
「まさに自らを熾燃(=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。他を熾燃とすることなかれ。自らに帰依し、法に帰依せよ。他に帰依することなかれ」
(『真理の花たば 法句経』宮坂宥勝 筑摩書房)等とある。

いずれも、他に紛動されず、自己に忠実に主体的に生きよと強く促している。
ここに「自ら」「己」というのは、エゴイズムに囚われた小さな自分(小我)ではなく
時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち「大我」を指している。

大乗仏教で説くこの「大我」とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく「開かれた人格」の異名であり、
常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる「近代 的自我」の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平がある。

日蓮大聖人の「御義口伝」には、「四相 (=生老病死)を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」( 御書740頁)とあります。
21世紀の人類が、一人一人の「生命の宝塔」を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。
そして、「開かれた対話」の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、
「第三の千年」へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。



[896] ラポール

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月13日(日)13時21分41秒   通報   返信・引用

ラポール(ラポート)という信頼関係は

内面からの本質的な気づきの変化を促すにあたって
非常に重要なファクターではないかと思います。

人と向き合うにあたって
ポリヴェーガル理論を踏まえて
自分の感覚を追ってみますと

警戒をする時には
戦う・逃げる・閉じて心を出さないという
交感神経と背側迷走神経の選択が
優位になっているのではないかと思います。

この人は私を認めてはくれないかもしれない
ここぞという時に無視をして手を放すかもしれない

あるいは、私のことをしっかりと知りもせずに
一方通行の考えによってジャッジするかもしれない。

倫理として「他人を自分のオルガノン(道具)とし
て利用してはならない」というものがあるのは

何も学び身につけない状態では人は
他人を自分のオルガノン(道具)とし
て利用してしまいがちだということでもある。

心を開くという事は弱点を晒すという事にもなる。
それを握られることは、気づかないうちに
良いように利用されてしまうかもしれないのだ。

恋心にかこつけて隷属させられたり
救われたい思いにかこつけて貢がされる時
正常な判断が難しくなり抜け出せず苦しむだろう。

そのような事があるから人は
得体が知れていないものに対して警戒する。
人や社会からの信用を得ていくというのは
非常に地道なことなのである。

どれだけ徹して、誠実でいられるかという事だ。
建設は死闘、破壊は一瞬なのである。

虚栄で作ったものは、いつか崩れ去る。

戦後の日本で急速に発展していった
創価学会という組織の指導性を見ると
昭和48年という躍進中の時には少なくとも
このような内容にも、注目する先見性があったようだ。

40年以上前のものであり、この分野自体にまだ、
思考へのウエイトがあったものと思いますが
一部、引用してみたいと思います。

~~~ ~~~
ウマが合うとか、相性がいいなどという表現がありますが、これは「互いの自我が
結び合った状態」を示しているのでありまして、英語ではこの結び合いを「ラポート」といっ
ております。この「ラポート」は友好のうえではきわめて大切なことと思うのであります。こ

れについてある本では「積極的に、心のベルトをかけようとするには、どんな手を打ったらよ
いか。その第一歩は、相手への関心を示すことである。その示し方は二通りあって①わたしは
あなたを認めている、無視していない②あなたについて知っている、この二つである」という
意味のことをいっております。
~~~ ~~~
http://6027.teacup.com/situation/bbs/84170

伝統の宗教に学び
革命家や文豪の詩に学び
歴史小説や歴史自体に学び
最新の学問の研究に学んでいた。

目を見張るような発展の成果も
そういう、地道で誠実な積み重ねのうちにあったのだ。

それは人類の英知を、温かい
腹側迷走神経の社会性の魂に結集するようなベースを作り
会う人に心を開かせる人徳を形成する方向があったのだ。

池田大作会長(当時)・創価学会・公明党が
道を開くことに一役買った日中国交正常化が昭和47年

しかし、この時すでに
池田大作会長(当時)の構想に創価学会本部も公明党も
ついていけていない面々が多数であったという話も
聞こえてくる。

腹側迷走神経の社会性の魂を身体に感じ定着させる方法
(まだポリヴェーガル理論は無かった)が
その面々の中では、偉くなれたと油断して
実施されきっていなかったのだろうか?

池田大作会長(当時)だけが個人的に得ていて
方法論自体が、無かったかどこかでおかしかったのだろうか?

あるいは、そんなことではどうにもならないぐらい
政界に関わったり、社会に影響力のある巨大組織になることは
他人を自分のオルガノン(道具)として利用する方向に
人を狂わせていくものなのだろうか?

ともあれ、ミイラ取りがミイラになった面々が
上位の責任を持った者にほど現れた感が否めない。

そのミイラによって傷付けられた魂に
再び信用してもらい心を開いてもらうというのは

困難な作業であるが
それが心のケアというものである。

この身体に何が起こったのか
何が起こるのか?

その人がその人の本当に目覚め気づくために
どんなサポートをしていくことができるだろうか?



[895] ポリヴェーガル理論の基本的なところ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月11日(金)11時13分5秒   通報   返信・引用   編集済

ポリヴェーガル理論について
理解が届いていないとかいうのより
理解した基本を伝えずに、独自理論を展開したことが
より、まずかったようです。

なので、基本的なところを伝えます。
交感神経と副交感神経の通説に対して
~~ここから引用~~
スティーブン・ポージェスによって、多重迷走神経理論(ポリ・ヴァーガル理論)が提唱され、注目を集めています。

ポージェスは、従来副交感神経として分類されていた神経を腹側迷走神経複合体、背側迷走神経複合体とその他に分け、腹側迷走神経複合体、交感神経、背側迷走神経複合体の機能について、次のように説明します。

腹側迷走神経 もっとも新しい。哺乳類が発達させた、 社会性。定位反応
交感神経 2番目位に古い 逃げるか、戦うか(逃走・闘争)
背側迷走神経 もっとも古い 消化・吸収・排泄・睡眠・深い瞑想・凍りつき
~~引用ここまで~~
http://alexanderdiscovery.jp/document/forall/what-is-stage-flight.html
(レッスン等をすすめるものではありません、ポリ・ヴァーガル理論の説明部分を注目してください)

もう一つリンクを付けておきます。
比較検証してください。

https://secure-base.tokyo/多重迷走神経理論とは/
(こちらはより、ポリ・ヴァーガル理論が抜き出されて説明されています)

生命は進化の過程において
複数経路の自律神経系を発達させてきたようです。

単細胞から多細胞へ
そして機能が複雑化していくと
消化・吸収・排泄といった基本的な生命維持の
背側迷走神経を初めに手に入れたようです。

次に手に入れたのが
生き残りのために戦うか逃げるかを選択するような
交感神経です。
弱肉強食を勝ち残って多様な進化をしていきます。

さて、その時、完全に力が及ばない相手に対して
戦うとか逃げるとかいう、体力をフルに使う選択ではなく
身体を感じ体力を使う交感神経をシャットダウンし
基本的な生命維持の背側迷走神経だけの活動になるような
凍り付きという事で生存率を上げるケースが存在し
そういう仕組みが自律神経に形成されています。

腹側迷走神経は哺乳類が発達させた
もっとも新しい社会性との関り
群れの中での序列や役割を穏やかにこなし
そこに築かれている安全によって
安心しリラックスするような自律神経系です。

もしかしたら、母乳を与え子を育てるような
腹側のそういう進化と関係があるかもしれないというのは
今ちょっと思っただけの事なので、不確かです。


さてこのポリヴェーガル理論ですが
検索するかぎり、心のケアに関連するような
分野において、急速に取り入れられているようです。

「頭では、そうしなければならないと思っているのに
どうして私は、こんな風になってしまうのでしょう?」

そういう悩みに対して、従来の思考重視では
では考え方を矯正していき、
不安を考えないようにしたり
意志を強くしていきましょうという方向で
上手くいかなかったものが

考え方じゃなかったんだ
身体の自律神経の反応として起こることだったんだ
と分かってくることで、
凍り付きからの適切な解除方法が見えてきた

あるいは、方法としてはあったけど
それが理論として証明されてきた
という事ではないかと思います。

~~~
草食動物たちは、凍りつきから出てくるときに、小刻みに震えて(凍りつき反応のために生体内に滞留したエネルギーを放出して)、凍りつきから出てきます。再び交感神経が極限まで高まった状態になります。
~~~

プルプル気功や呼吸法によって
凍り付きから脱しながら
生理反応の自己機能に意識を向け
瞑想で得られるものを得ていき
生きるエネルギーの深さに
自由に生きていく
アルベア法は理に適っているように見えます。
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12274170762.html

非二元をベースにした心理学を展開している
溝口あゆかさんも、ポリヴェーガル理論に
非常に注目しています。
https://ayukablog.wordpress.com/2018/02/03/傷つくのがほとほと嫌になったとき♪/

個人として生きていることと
集団の中で生きているということの狭間で

安心を得ることよりも
ストレスを受けることの方が大きくなっていることが
多々あると思います。

この中で、人はどのようにしていけば
それを解決していけるだろうか?

私たちの身体に意識を向けることなく
頭で考えた事を押し付けようとしても
それは長続きしないのではないでしょうか?



[894] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 9日(水)16時22分39秒   通報   返信・引用   編集済

ポリヴェーガル理論について使い方が間違っているようなので、後で編集します
(少し注釈を入れました)



[893] ポリヴェーガル理論に見る「人天」「修羅」「三悪道」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 9日(水)11時57分51秒   通報   返信・引用   編集済

仏法の修行・瞑想には止と観がある。

止は不可思議という思議すべからずの
妙は死というものがあるままにあるものの覚知である。
死は、それを知らない時には恐怖の対象であるが
それを知る時には生も歓喜 死も歓喜になる。

観は見ていくという意識の働き成り立ちを見ていく。
なぜそう見てしまうのか見えているのか
なぜそう行動してしまうのか行動しているのか
その生活の中の活動、生であるところの法を
深く心に問い直していくことを観心という。

妙法を口に唱え、自身の名字に頂くことは
その両面が良く見える位置に、
自身が立つことの宣言・定着である。

いい加減だったり弱々しい題目では立つ力が弱く、
あっちへフラフラこっちへフラフラと
定まらない生活になるだろう。

観について専ら十二因縁に対してであるが仏法には
成立順の構築を見ていく順観と
逆順で解体を見ていく逆観がある。

妙法を学ぶという時
まずは、相対論の順に構築されている正しさを順観で見ていく。
一通りこれを学ぶだけでも大変なことで
邪義を入れない峻厳さ、清浄な僧伽、宗教枠が必要になる。

一通りそれがなされたならば、次は、天台の一念三千等へ
相対論の成立の逆順で、仏教全体の正しさ
宗教というものが求めているもの
人類の生命というものの在り方
仮に「妙法即生命論」といった場合の「即」の中身を
丁寧に見ていくことになる。
日興遺誡置文にその入り口が示されている。

これを、自身の生命の上に実現させていかなくては
「南無妙法蓮華経には全ての修行が含まれているんだ
他は全部 邪宗邪義なんだ、いらないんだ」とだけ言い続けたら
構築されている土台である仏法の本義を自ら破壊してしまう。

どうです立派な船でしょ?
1000万人乗ってちゃんと水に浮くんですよ。
え?エンジン?帆?推進力?そういうのは邪宗が付けるものです。
え?舵?目的地?何言ってんですそんな邪義を唱えるんですか?
この船に人が乗ることが広宣流布なんです。
え?食料?トイレ?居住施設?
贅沢言ってないで乗せてもらえたなら感謝して言われた通りに働いて下さい。

そんな風に何かが狂っていく。

さて、話は変わる。
最新の心理神経学にポリヴェーガル理論というものがある。

(ここで取り上げるのは、概念の中で出てくる言葉を使うだけのもので
実際のポリヴェーガル理論の効果や考え方とは、異なっています)

従来の、交感神経による緊張状態と
副交感神経によるリラックス状態の
相互作用によって人間は活動しているというものに

第三の状態の発見を付け加えたものだ。

交感神経の、生き残るための選択として緊張感のある闘争や
腹側迷走神経(従来の副交感神経)の
社会的つながりを促進する落ち着きやリラックスなどとは違う

人間が精神的に追い詰められてしまった時の
フリーズしてしまったり感情を爆発させてしまうもの。
このいかんともしがたいような状態を
背側迷走神経という、不動化や凍りつきなど解離反応を起こす
第三の自律神経系とする理論だ。

してみれば交感神経によって人間が勝敗を意識する修羅の時
相手を死か、それに準ずる背側迷走神経に追いやれば勝利感を得られる。

敗北は背側迷走神経の経路が刻まれ強化され
心の傷として残り、抱えていくことになる。

交感神経を修羅
腹側迷走神経のリラックスを人・天とすれば
背側迷走神経の経路を抱えることは三悪道の契機になりやすい。

つまりこれは元々あり
縁にふれて現れるんだな、
と見ていくのが仏法の入り口の二乗になる。

題目を唱えることは、それが見える位置に立ち
見て正し、磨いていくことだ。

誰でもその三パターンを持っているのだという立場から
他人に対しても導き包み込んでいくのが菩薩の道になる。

妙は死、理屈ではどうにもならないような背側迷走神経の苦しみも
妙法の中から決して外れているものではない。

静かに「考え」ではなく「感覚」を追っていけば
本来、その自律神経系も、歓喜にとってプラスのベースにすることが出来るのだ。

「地獄の苦しみぱっと消え」とは言っても
背側迷走神経が人間の中から突然消えて無くなるのではない。

全ての神経の奥底から湧き上がるエネルギーによって
その背側迷走神経が存在していることさえ歓喜へと再生するのだ。

背側迷走神経は進化の上で他の神経より古くからあるが
魚には一切歓喜はないかと言えば
生命であることの実感をする時は歓喜であり
神経はそれを感じることの出来るものなのだ。

「生も歓喜 死も歓喜」とは言っても
全生命による全生命への歓喜への蘇生なのである。

どうすればこの我が心身を
より歓喜そのものとして実感することが出来るか?

呼吸が大事、学び実践することが大事、信心が大事
人との関りが大事、誠実が大事、
環境との関わりが大事、平和が大事
文化が大事、教育が大事・・・

おかしなところに拘ったら
大事なものを狂わせてしまう。

狂いを取り除く、あなたの心の幸せが
目指すところ(果)であり
スタートとしていくところ(因)である。

結局は、正しく見える位置に立つことに
因も果も含まれていくのである。

また、目指すところは師の境涯であり
スタートしていくのは弟子の境涯である。

真剣な一念で題目を唱えることに
師弟不二の師子吼はなされるのである。



[892] 同心円と臨終正念

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 7日(月)12時43分31秒   通報   返信・引用   編集済

<宿坊>階層的な同心円の仏法モデルで考えてみる  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83848
「師匠(仏)がいて教え(法)があって
平等な学び合う弟子たち(僧伽)の同心円がある。
師弟が完全な不二になるためには
その上位の仏法において保障された
平等の関係になることが条件になる。」
このロジックで言うと 正しく日蓮本仏を言うためには
日蓮直属の僧伽(そうぎゃ)でなく 次の階層の僧伽が必要になる。

日蓮直属の僧伽のままやると
「私の内証も本仏だ、他の信徒とは違うんだ」と時の法主が言い出し
法華・涅槃の皆成仏道・一切衆生悉有仏性が不平等なものになる。

<気楽非活>日蓮正宗の方の私へのカン違い。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/25/060400
これは日蓮正宗への否定的内容として書かれている記事だが
客観的資料が書かれている。

大御本尊は弥四郎国重をリーダーとする法華講衆が願主となって
造立されたという事だ。

ロジック的には
弥四郎国重をリーダーとする法華講衆というものが
独立した僧伽の位置になる時に、
日蓮大聖人を本仏にしなければならない。

つまりその造立した本門戒壇の大御本尊を一大秘法とした
日寛教学において、次階層の民衆の独立僧伽のための教学が完成したのだ。

その教学において、日蓮本仏が確定する。

不思議なロジックだが
日寛教学は宗門が使用するよりも
次階層の僧伽である創価学会が使用した方が正しくなる。

創価学会が出現しなければ日寛教学は
おかしな異端になり下がる危険が高いのだ。

だから、創価学会の正しさを論議する時
日蓮直系の僧伽の、どの宗派どの教義が正しいかという論議とは
別の階層の事として考えなければ、
全く話が矛盾して堂々巡りになってしまう。

釈尊の本当の教えは
どの経典にあるのかという論議が
また別の階層の論議であるようにだ。

日蓮正宗に対しての否定が
そのまま創価学会の否定にはならない。

日寛教学の肯定は創価学会の独立によって
仏法の必然、魂の独立となる。

まぁ、池田先生の弟子たちが
池田先生についていかない中でなされたので
突っ込まれどころ満載の部分もあるし

せっかくのものを
自ら破壊していっているがね。

ロジックはロジックとして
この創価学会において師弟不二とはいかにして受け継がれるか。
それは師弟不二の殉教の精神によってだろう。

<宿坊>広宣流布された世界、その景色を見る時、人は悟るのかも知れない。  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83852

殉教とは言っても、広宣流布のために死ぬことという見方ではない。
殉教とは言っても、広宣流布のために生き抜くことではないだろうか?
それも、頭で考えてやりきれるよりも、もっとずっと大きな
これ以上不幸になることは出来ないというような環境の中での
それでも消えない広宣流布への臨終正念が
始まりも終わりもなくあったのだということ。

ここに至るためにはやはり
誰を師とし、どの仏を本仏とするかは
極めて重要である。

また、話は変わるが
題目の唱え方には種類があるらしい。

<宿坊>宮川さんのFacebookの代理投稿  投稿者:ドン・キホーテ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83820

その何がどうと言って

池田先生が同中でやっていた
あの、すごく引っ張った題目三唱。

どれぐらい呼吸を合わせられました?

そこを思い出せるなら
どんな地獄の底にあっても
臨終正念を取り戻せるんじゃないでしょうかね?

そこはもう、理屈じゃないですよ。



[891] 正法とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 6日(日)12時28分58秒   通報   返信・引用

<宿坊>正法とは  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/index/detail/comm_id/83816

<宿坊>或失本心或不失者  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83772
(この投稿の圧力感には自戒すべきところの自覚もある。)

<宿坊>職員の皆様へ  投稿者:ちょっと立読み
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83801
創価新報のコピーを地区で配るより、この投稿を配ってほしいよ。



[890] 私事

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 4月19日(木)08時37分29秒   通報   返信・引用   編集済

谷川青年部長・佐藤男子部長の頃、特に
意気軒昂な人材グループの男子部員の中には

池田先生を護るために
汚い仕事も我々が請け負うんだ
というようなことにも誇りを持っている面々がいたように思う。

汚い仕事がなぜ何のために必要なのか
そういうことが後々の
衰退につながることに気づけない。

当時、私のいたところの男子部は勢いはあったけれども
私は、その「心」「仏法」において
しっかり法を立てなければ、無理は続かないと危惧した。

事実、イケイケどんどんを牽引した人物が卒業すると
爪痕だけが残ったように消沈傾向になった。

私も、数年間、8割がた深夜に至る毎日拠点で
二乗根性を捨てろ、やるのかやらないのかと迫られ
限界がきており、仕事の都合なども相まって
活動から一旦ドロップアウトした。

その際、次に立つときは
いよいよ潜聖増上慢との戦いに命を落とす覚悟になると
予感めいたものがあった。

折も折、大御本尊を受持の対象にしないとの発表の翌年
私は組織に、不思議な縁をもって舞い戻った。

「今はもう、あの頃のような勢いは無いんだ、
何が変わってしまったんだろう?
どうしたらいいと思う?」ブランク明けの私に
男子部の本部幹部が問うような状態だった。

私は様々な考えを示す中で、心こそ大切なんだ
内部の悪とは見抜いて戦わなければならないという考えを示した。

ピンと来ていない人間や
話が難しくて分からないという人間や
「悪い幹部が実際にいるような言い方をするな」
という人間もあった。

池田先生の考えや心が、そこには流れ通っていなかった。
池田先生が表に出ていない今
内外の悪が画策をすることは火を見るより明らかじゃないか。

その時のための指導を
池田先生がどれだけ重ねていたのかを忘れてしまったのか。

師子を目指した者たちが
今ではすっかり子猫ちゃんか野干だった。
何も考えられないか
組織の考えに染まっているかだった。

とは言っても、誰が悪なのかを、
私も見抜いてはいなかった。

大御本尊を受持の対象にしないとの発表は最初、
創価の飛躍のチャンスなんじゃないかと思った。

そこで私は本部に、本部を信頼しているスタンスで
その目指すべきところの考えを送った。

直接の音沙汰は無かったが
生命に感じるものはあり
肯定的な感覚から違和感へと変化していった。

民衆仏法10の指針というのを考えて送ったことがあるが
http://6027.teacup.com/situation/bbs/39590

音沙汰は無くても、生命で感じるものはある。

「甘い汁を吸うだけの幹部は組織の害虫」等の文言に

原田会長は「しまった、こいつは
そっち側の人間だったか」と感じたんじゃないかと思う。

私も、まさかまさかだった。

そうして宿坊の掲示板に出会う。
どうにかして身の安全を担保したいという危機感があった。
信用できそうなアルベアさんに取り留めのないメールを送った。

最初からここの情報を信じたわけではない。

対立する意見が飛び交う中
法華経の行者の言はどちらなのか

対話し、間違っている方を切り、思考実験し、思索した。

元職員らとも会い
saysaysayさんらとも会い
様々な情報や生命に触れていった。

しだいに悪い奴らは誰なのか
明白に浮かび上がってきた。

それを証明するようなことが次々に起こっていった。

大きな法戦の無い黄金の三年が終わり
法戦が始まると組織の感覚とのズレが大きくなった。

皆に元気になってほしいという
生命力の智慧の戦いをしてきたことで
私は公明を応援しなかったけれども
私の地域は他所が票を減らす中で票を増やし
県の中で唯一目標を達成していた。

県長が「私の方が聞きたいです
みなさん、どうやったんですか?」
と語っていた。

しかしそれでは、
与えられた生命力を違う方向に使っているのだから
後は続かない。回転が起こらない。智者も去ってしまう。

私はまたも、職場の変化もあり
ラインの戦いとのリズムが合わなくなった。

代わりに、ネット上の同志たちに
会っていく方向にリズムが向いた。

元職員らは私が見ていた池田先生と
同じ池田先生を見ていた側だと思った。
ただ、だからこそ当時、風当たりはきつかっただろう。

少人数の団結の中で熱が入りすぎて
視野が狭くなっていたことも
それはあるのだとも思うが、本質的には
危機感を抱かせた、池田先生の指導と違う組織に
原因があるのだと思う。

だがそれも、座談会等の活動が広がるにつれて
だんだんと視野も広がってきている。

純粋な好青年たちであるので
未来はあると個人的には思う。

一方で、あまりにも一方的で理不尽な査問を繰り返す悪党ども。
共通して結論ありきの決めつけで行われ
地域によって耳を疑うような罵倒や恫喝もあるらしい。
それを正統の組織の正義だと言ってはばからず
平気で精神的に追い込む。

一方は正義で一方は独善の悪党。
無茶苦茶だ。

宮川氏の裁判の書き立て方を見るにつけ
それらは悪意に満ちたものだ。

金銭問題にしても悪意で書き立てている内容より
遥かに重大なものがお咎めなし。

悪党が結託して
本当の正義を貶め
悪事を覆い隠す本末転倒を行っている。

言論で立ち向かうのだ。

悪は多けれども一善にかつ事なし
否、断じて勝たねばならないのだ。

皆の勇気の一言一言が
我々が朗らかに愉快に語り合える場を広げていく。

権威の声に言葉を失えば
自由の無い不幸の中に囚われるのだ。



[889] 末法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 4月14日(土)12時25分19秒   通報   返信・引用

なぜそんな説を採用するのか?
ちょっと考えると「不思議な事だなぁ」と思い
視点を変えて調べだすと「あれれれれ?」とも思うような事。

どれだけ自分自身の事として
腑に落とせている人材がいるのだろう?

どれだけどんな理屈を引っ張ってきても
自分自身の事として腑に落ちていないならば
それは一念三千の理の面を言っているにすぎない。

例えば末法思想というものを
大集経に書いてあり日蓮大聖人が採用したから
私は自分自身の事として信じる

というだけでは理も事も弱い。

私なんかはずっと「本未有善と本已有善?
正法像法時代には久遠に下種を受けた人間が生まれ
末法の時代には久遠に下種を受けた人間は生まれない?
理科的に見て、DNAのスイッチでも一斉に切り替わるとでも言うのか?
あるいは、社会的な事情なら、人間自身の根が無くなるような言い方は違うのではないか?
あるいは、正法像法時代に久遠に下種を受けた人間たちは涅槃に入り成仏しきったというなら、具体的にどの人たちだというのか?
あるいは、もっと法の本質的な事として意味があるのなら、誰がそれを腑に落とす技を伝授してくれるというのか?」

実際に触れられる人間関係の中で
私にそれを納得させられるほど
法を自分自身の事として腑に落としている人間に
私は長らく、会うことが出来なかった。

本当の仏法に出会うことは、かくも難しいのだ。

そもそも末法思想というものは
正法500年、像法1000年説と、正法・像法ともに1000年説があり
それぞれ552年が末法元年、1052年が末法元年になる。

中国では天台大師智顗の師である慧思が
558年に「南岳思禅師立誓願文」で
552年を末法元年とする
正法500年・像法1,000年・末法万年と年限を決定している。

本未有善と本已有善というのは
法華文句十上の「本已に善有り、釈迦は小を以て
之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は
大を以て強いて之を毒す」から来ているようだ。

日本では専ら正法・像法ともに1000年説が採用され
1052年が末法元年とされている。

中国の自覚の上の末法において天台大師智顗が
法華経から理の一念三千を取り出だし

日本の自覚の上の末法において日蓮大聖人が
法華経から事の一念三千を取り出だしたことになる。

いずれにしても正法が失われる危機感から
思想が入り乱れると同時に
仏法再興への機運が高まった時とも言える。

そのようなものであるからといって
ではどの末法思想が整合性があって、
あるいは末法思想自体が後付けで間違いで
現代では通用しないとかいう論議は
理も事も弱い思考概念のものである。

実のところ「観」において
本当の仏法に巡り合うのは極めて難しいが
「止」においては
確かにいつでも間違いなくある。

あなたはそれを得ていないから特別な修行が必要だというのではなく
本当は誰もが経験しているから、気づいて下さい、だ。

ともあれそれが、どのようであれば
「徳」として樹立されるか?

誰しもが誰に強く導かれなくとも
自ら求めて真理を探求している時には
誰にも邪魔をされない場所を提供できる者が
徳有るものとして認められるかもしれない。

普段は普通の生活をしながら
時として遠路はるばる法を聞きに来る者がある時には
一切法空にあって、魂に安らぎを与える者が
徳有るものとして認められるかもしれない。

だが、行きつく先に危険な兆候が見えている思想を
人々がそうとは知らなかったり抗う術を持たず諦めている時
止観を随自意のレベルで実現していかなければ

来るものだけを救っていくだけでは悪が止まらないと知りながら
国が亡ぶのを指をくわえて見ているとしたら
どうしてその者に徳があると言えるだろうか?

究極するところ観において
本当の仏法に巡り合うために
師弟不二の自身に本当に深く気づくこと以外に
どんな方法があるというのだろうか?

仏法の論難である
興味があるないの話ではない。



[888] 言うまでもなく

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 4月 8日(日)11時03分29秒   通報   返信・引用   編集済

「日蓮大聖人が末法の御本仏。その法である三大秘法(一大秘法・六大秘法)を信じ自ら唱え他人にも伝え、学び向上するならば、功徳がある。それを現在まで正しく血脈を途切れさず受け継がせたのは日興上人を祖とする門流のみであり、現在では創価学会のみが唯一間違いなく、その世界広宣流布を実践し進めている。」

 だいたいこんな感じが日本の創価学会に勢いがあった時期に一貫して教え込まれたワンセットの概要ですね。そして事実、そこにいた当人たちの自覚の上で、それは確かであって、功徳の実証を示し、歓喜の中で情熱を傾け、純真に仏法の精進としてなされていた。

 これはそういう面だけでなく、あえてそこに力のあるポジションをとったからこそ、内外の業が強く出て、その難や非常識さに対して、いかに克服していくのか、仏法的深化よりも、指導力による組織の強化という面に傾倒し、正しさが独り歩きし始めた部分がある。

 紆余曲折の末、現在では「言うまでもなく創価学会は、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現しゆく唯一の正統たる教団です。大聖人の教えを正しく実践し、伝え弘めていくのは学会をおいてほかにありません。」という記述があったりする。

 この「言うまでもなく」は「根拠はありませんが」にしか見えない現状だ。

 元々、唯一の正統として定義されていたものは、意味の上で全て否定されているのだ。
 元々、末法の御本仏日蓮大聖人は、イコールで戒壇の大御本尊だった。
 元々、日蓮大聖人の仏法とは、日寛上人の時代に帰った教学を指していた。
 元々、富士山に本門寺の戒壇を建立する相承を受けた日興上人だった。

 否定しておいて、じゃあ、本当に正しいのは何かという答えは、示さない。

 なので本来の教義を一心に信じて学会の発展に貢献してきた人間にとって、そんな現状でなお「日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現しゆく唯一の正統たる教団です」と言ってしまえる創価学会に、激怒するのは当然なのだ。

 だけど実際、それに怒れない人間も多い。
 多くのバイアスに飲まれてしまっている。

 悪いのは全部日顕だ、池田先生・創価学会は正しい。の先を考えない。
 現在唯一正しいのは創価学会。で止まっている。

 否、大切な組織票である婦人部の方々が真の現状に気づかないように、生活のかかっている職員を中心とした壮年部が、あの手この手で目をそらさせ、なだめて説得し、票や財務等が目減りするのを最小限に止めていこうという護りに終始しているのだ。

 だから、変に深く学ばれたくはなく、教学はゆる~く曖昧にし、お元気な池田先生の下で、ただ池田先生に喜んでいただくために、組織の打ち出し通りに頑張って成果を報告していきましょうという言葉だけで牽引する。だから、せっかく上手いこと言いくるめてついてきてくれている学会員の目を覚まさせるような発信をする者には、「何やってくれてんだー!」と怒り、悪と断定して追放する権限をひたすらに強化していく。臆病の恐怖政治じみたことが党や教団の中に蔓延する。

 だけどそれこそ、池田先生の平和思想を信じてきた人間を「国政を動かすほど超大量」に「騙して」、真逆の、軍事国家への手段として動かしているのだから、「何やってくれてんだー!」どころの話ではないのだ。

 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(御書1337ページ12行目~14行目)

 創価新報での元職員らへの記事に、「言うまでもなく創価学会は~  」の次にあげられている御書だが、広宣流布の団体の創価学会の活動を示す意味で使われ、攪乱する独善的な活動は、異体同心を破る破和合僧だというが?

<創価学会青年部サイト SOKA YOUTH webより>
http://www.sokayouth.jp/study/ikeda-daigaku/2014/2.html
~~日蓮大聖人は、広宣流布を目指す大聖人門下のあり方を、「自他彼此の心なく」「水魚の思を成して」「異体同心にして」と教えられています。
 「自他彼此の心なく」とは、「自分」と「他人」、「彼」と「此」とを切り離して考える、差別や対立の心を持たないということです。それは、「自己中心」の心を乗り越えていく挑戦であるといえます。
 そして、「水魚の思を成して」とは、水と魚のように切り離すことができない関係をいいます。私たちに置き換えれば、互いをかけがえのない存在として尊重し合い、支え合っていくことです。
 さらに、「異体同心にして」と仰せです。「異体」とは、一人一人、個性や特質、立場が異なることです。「同心」とは、同じ目的観、価値観を持っていることです。
 「同心」といっても、個性をなくすということではありません。「桜梅桃李」といわれるように、それぞれが妙法を根本に、使命の舞台で自分らしく輝いて、広宣流布という仏の大願に向かって同じ心で前進する――それが「異体同心」です。
 大聖人は、このように、異体同心で題目を唱えていくところに、生死一大事の血脈があると仰せです。しかも、異体同心の信心で唱える題目こそ、大聖人が弘通する「所詮(=肝要)」であるとされています。
 そして、異体同心の信心によって広宣流布の大願も成就すると仰せです。この御聖訓のままに異体同心の信心で前進しているのが、創価学会なのです。~~

 組織活動に盲目的に従うことは、使命の舞台で自分らしく輝く道だろうか?
 時の政治権力が求める軍事力へ力を貸すことが池田先生の言った広宣流布の道だろうか?
 三宝も定まらないで、どんな題目を唱えて、何を弘通するのだろうか?

 創価学会という「体」は変わってないけど、そこにある「心」って変わっちゃってるんじゃない?

 どちらかと言うと、創価学会から除名されて「体」が変わっても、「心」が変わらなければ同心じゃない?

 差別や対立の心を持たない上で、差別や対立の心を持って迫害する仏法上の咎の有る行動を責めるというのであれば、その側を具体的にし、文証を示せばいいのだ。

 しどろもどろになるしかない、どこかの人たちとは違って、きっと、本当に正しいと思えるところを出せば、同心である人ならば、真摯に受け止めると思う。

 ただ、もう、しどろもどろの人たちは、自分の都合でしか見れなくなっていて、正しいことを示そうと思っても、信心からの正しいものなんて、出てこないんだろうな。
 それか、ブーメランなのに気づいていないとか、ね。



[887] 九識心王真如の都の無明法性一体と因果一体の一切衆生の言語音声

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月25日(日)14時26分24秒   通報   返信・引用

心王 しんのう
心作用の主体となる識のこと。心王に従属して働きをなすのが心所である。心所の王という意味からこの名称が生れた。(ブリタニカ国際大百科事典)
心それ自体のこと。心は個別の精神作用に対し、総体を認識する主体であるところから王といったもの。(デジタル大辞泉)

十二因縁から逆に辿ろう。
生死の苦海から離れ涅槃を求めるという仏法の目的がある。
それには「有」への偏見を離れなければならない。
それには何に執着しているから有の偏見に陥っているのかに気づかなければならない。
それは何を渇仰しているがために感情が動くのかを捉えなければいけない。
そもそも、何をどのように経験し理解したのかを整理する必要がある。
自分にとっての理解をする前、生のそのままの触れられたものは何であった?
触れたのはどの感覚器官で、身体自体にそれを保持している感覚があるか聞けるか?
有るということが出来るためのビジョン的、非ビジョン的イメージの始まりを発見できるか?
それに対して、五感や意を離れた主体の無い主体の感覚を見出せるか?
主体の無い主体がスケールを感じるだけのところにある反応や動きを捉えられるか?
始まりやスケールの無いところの反応や動きをするための不安定さを発見できるか?
その自発的対称性の破れが生まれるところと生まれない対称性に別はあるか?

肉食への渇仰を離れたり禅を定めたりするという精進は
その十二因縁の逆行のプロセスの行法である。

南無妙法蓮華経は精進行であり
「妙とは法性なり 法とは無明なり 無明法性一体なるを妙法と云うなり
蓮華とは因果の二法なり 是又因果一体なり
経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり」

無明法性一体の妙法の心王の因果を
人間生命の上に言葉を通じて表現していく行動である。

それを成すのは「一切衆生」であり、特別な仏という
特別な業因は必要なく

妙法の心王の因果にあれば、即ちそれであるということだ。

これは単に涅槃を求める十二因縁の逆行だけでなく
その心王の因果によって尊い生命を生ききる
十二因縁の常楽我浄からの再表現でもある。

どちらにせよ十二因縁の逆行は必要で、例えばだ

「このままじゃ死んでも死にきれない苦しみがある」
「私の生きている使命が全うされていないからだ」
「私の戒壇の大御本尊への信という特別な有が汚されているのだ」
「特別だと教えられたし、特別だと感じたし、ずっと信じると決めたし、絶対に正しいのだ」
「52年路線・本尊模刻問題・宗門問題の時、様々な疑問や怒りや憎しみの感情がわく中、一心に心を定めて唱題を重ね熟考した結果、日蓮大聖人と大御本尊を絶対とする私の一生は決まったのだ。もし、それが失われるとしたら、その時の怒りや憎しみや疑問は、どこへ向かえば良いというのか」
「中に入って深く自分のものとする前は、よく分からない魅力のある信仰体系に触れる機会を得たという事実がある」
「耳で聞き、目で見、口に唱え、香を嗅ぎ、身体全体でその躍動を感じ、意に信じていった」
「そのビジョン的、非ビジョン的イメージは他人が奪うことは出来ない」
「『誰が』ではない静寂の信仰のところには『自分』という拘りさえ消えている」
「スケールには留まりつつ言い知れぬ苦楽を超えた福光とも言うべき歓喜がある」
「御本尊を信じている自分の無い御本尊だけの体験。唱えている自分の無い南無妙法蓮華経の音声だけの体験。その中のビジョン的、非ビジョン的イメージやスケールさえも抜け落ちている、歓喜の中の大歓喜の体験」
「それと、それ以外に感じることが、実に一切の分離をしていないことの気づき」

というものがあった場合

その精進の中のどこに強い抵抗を感じ
受容・受持出来ないでいるか?

この例えの中で52年路線云々の部分としよう。

在家の団体には許されない?
┏御本尊の模刻
┃現代の御書としての文章
┗職員や幹部や建物や教団や本尊への特別な三宝上の立場の付与

↑化法(被信仰対象)を広める化儀の広宣流布・折伏の団体(自分を含めた信仰者の側)には逸脱した行為。同じ立ち位置なので提言が可能。
━━━━断絶━━━━━━
×↓広宣流布済みの化法に解決済みの事なのでひたすらに信じ疑ったり考えたりしてはいけない。同列の立ち位置での提言は不可能。してはならない。

┏大御本尊が出世の本懐
┃証明する御書や教義
┗末法の御本仏日蓮大聖人と血脈

━━━━さらに断絶━━━━━━
××↓そもそも取り合うだけ意味のない邪説。折って伏せる対象。

┏大御本尊の後世造立説
┃御書として学んでいる中に偽書説
┗久遠教主釈尊信仰説・己心の本尊本仏説

ここで、
「~してはならない」という断絶を作っているのは自身であり
自分がしないようにしていることを他人がしているのを見ると

それによって蓋をしている怒りや憎しみの感情が顔をのぞかせる。

断絶させていることによって自分は
正しい末法の御本仏日蓮大聖人
正しい出世の本懐の大御本尊
それを証明する御書や教義の数々といった
それがあるという「有」の面のみに執着している。

それを化法と言っているがしかし
それは特定の有の対象という心所の範疇であり
むしろそういった形こそが化儀なのである。

それを乗り越えて心王の因果によらなければ妙法ではなく
心王が自身の中にあるということを忘れさせることが
広宣流布の断絶であり

本当の願いと言っていることとしていることが断絶し矛盾するのだ。

もちろん心王の因果の妙法の言葉として実現されるところには
その化儀には化法が流れ通っている広宣流布の化儀であると言える。

しかしそれは「有ると言える」のであって
有ると無いの両極の有るの決定では無いのだ。

努力し、本質の願いを実現していかなければ
有るという実質的なものは何一つないとも言える。

だから池田先生は
「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」と宣言し

その実際の指揮の下で、
民衆を不幸にする断絶を打ち破っていく戦いの中で

誰の意志であったのか
それとも必然の因果や自然の縁起であったのか

見直せば、本質の矛盾に突き付けて
難を呼び本当の正法を打ち立てるように

問題が浮き彫りになっている。

その渦中に湧き上がる感情や軋轢を
当然の因果に縛り付けられた業の解放のための罪障消滅の精進
自身の生命のエネルギーにある煩悩を即菩提にしていくための仏道として
ジタバタすることなく受容し、心王への道を開いたかどうか。

池田先生一人を除いて
主要な幹部の全員が、あるいは黙し、あるいは悪道に堕ちた。

それが昭和54年だ。

「経とは一切衆生の言語音声」語っていくことだ。

その道を再び開かせたのは
健気に師匠を求める一般の会員たちであった。

「私たちは黙りません!
再び師匠に指揮をとってもらいます!」
その気概だ。

近年の創価学会において
本尊の問題に大きく手を入れたり
「創価学会」に「仏」の称号を付けてみたり
日寛教学には現在は使用できない部分があるとしてみたり
仏法の仏は釈尊だけということになびいてみたりの動きがあり

事実関係に鈍感では
日蓮正宗からの独立という池田先生の遺志を継いだもののように鵜呑みにしてしまいそうだが

それを進めている幹部たちの実体を知るにつけ

54年に黙し悪道に堕ちた生命を払拭できないまま
池田先生が再びとった指揮の全てを
無かったことにするかのように動いているのだ。

当に今再び54年問題が紛然として競い起こっているのだ。

「私たちは黙りません!
再び師匠の指揮を永遠に護ります!」

そのように幾万、幾十万の山本伸一として
師匠亡き後をも正法のために捧げられるかどうか。

よくよく同じ正法に立たなければ
誰がその方向を

全く権威に結び付けない理想として
実現することが出来るのだろうか?

抽象度を俯瞰できなければ
混乱があるかもしれないが

自己を見つめ挑戦してほしい。



[885] 十二因縁

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月23日(金)12時22分43秒   通報   返信・引用

五蘊の場合は必ずしも時系列を言っているのではない。
識は名の中において、つど、される。
┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・.↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛
こんな感じ。

十二縁起(十二因縁)は、あんまり深く見たことなかったな。
無明がスタートなんですね。

◆無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。

完全とは別の不完全であるという分離ですね。そのような分離が実際にあるわけではないことに明るくない迷いの中に、なんとかしたいというエネルギーが留まっている。始まりなくある不安定さ。

◆行(ぎょう、巴: sa?khāra, 梵: sa?skāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業

なんとかしたいというエネルギーが何らかの方向性をもって流れ成す作用。業として表現されている状態。

◆識(しき、巴: viññā?a, 梵: vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元

エネルギーが反応した、動いた、表現されたことによって、それがあるということを認識することができ、これは良い感じ、これは嫌な感じという識別、差別される元。感覚を感じる主体の無い主体。

◆名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前

識の注意を向けた客体。そこに起こっているそれに対して、有ると言うことができるための、物質的、非物質的な対象化された形と名前。

◆六処(ろくしょ、巴: sa?āyatana, 梵: ?a?āyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
(日蓮大聖人の御書中には六入とも)

客体を感覚に起こして味わうために役立つ
際立った要素の業が整然と表現されている所が
いつでもすぐに濃く認識できるところにあり
それぞれ眼耳鼻舌身意という
自分の大切な六つの感覚器官として識別している。

◆触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。

例えば、ごちゃごちゃした写真を見た時に
まだ何が映っているのか認識していないけれど
目には映っているというような、
生のそのままの触れていること。

◆受(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。

何がどうなっているのか感じ味わうこと。

◆愛(あい、巴: ta?hā, 梵: t???ā) - 渇愛。

もっと感じ味わい愛でたいと思うこと。

◆取(しゅ、upādāna) - 執着。

主体の無い主体に対して、
愛の思いが取り替わって
それがなければ自分ではないとするような執着。

◆有(う、bhava) - 存在。生存。

有ると言うことができるのに対して
六識、六根、六境の十八界を通して
有ると言い切っている面のみの個別の有。

◆生(しょう、jāti) - 生まれること。

個別の有があるという時
どこかの時点で生じたという事実が必要になる。

◆老死(ろうし、jarā-mara?a) - 老いと死。

生じたという事実を伴っている個別の有は
いつか衰え失われるという事実から逃れられない。

こうして見ると
個の無いところから含めて俯瞰した十二縁起と
個という存在の認識の中で起こっている認識の作用と
順序が違っているのも

自分では普段認識できない
個の我によってなされる錯覚後の順序が五蘊で
ここでは識は既に六識である。

十二因縁は錯覚前の事実解明であり
どうやって錯覚が起きていくのかであり
六根に対して特化される前からある
末那識、阿頼耶識の覚知への促しとも言える。

といった感じかもしれない。

<認識の順序の参照動画>
意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説
https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac

新しい気づきは常に起こるものだし
今のボクが言っているだけのことなので
切り口は色々あって良いと思う。

おもしろい。
ボクがここに述べたのは
「今ここ」に対する十二因縁の考察。

従来、仏教には
三世の生命観としての
十二因縁が説かれている。

補完的に考察して体感してみてはどうか。

『一念三千理事』(Tommyのブログ訳)
「 問う。流転の十二因縁とは何であるのか。
 答う。一には無明。倶舎論には「宿惑の位は無明である」とある。無明とは、昔に愛欲の煩悩が起こったことをいうのである。男は父に瞋を成して母に愛を起こし、女は母に瞋を成して父に愛を起こすのである、と倶舎論の巻九に記されている。二には行。倶舎論には「過去の諸業を行と名づける」とある。昔の造業を行というのである。業に二つある。一には牽引の業である。我等が正しく生を受けるべき業をいうのである。二には円満の業である。他の一切の造業である。所謂、足を折ったり、手を切ったりするという先業をいうのである。これは円満の業である。三には識。倶舎論には「識とは正しく生を形づくる蘊である」とある。正しく母の腹の中に入る時の五蘊である。五蘊とは色・受・想・行・識である。また五陰ともいうのである。四には名色。倶舎論には「六処の前は名色である」とある。五には六処。倶舎には「眼等の根を生じてから、三和の前は六処である」とある。六処とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が生ずることをいうのである。六には触。倶舎論には「三受の因が異なることから、未だ了知しないときを触と名づける」とある。火が熱おことも知らず、水が冷たいことも知らず、刀は人を切るものであることも知らない時である。七には受。倶舎には「婬愛の前にあるのは受である」とある。寒さ熱さを知って未だ婬欲を起こさない時である。八に愛。倶舎論には「資財と婬欲とを貪るのは愛である」とある。女人を愛して婬欲等を起こすことをいうのである。九には取。倶舎論には「諸の境界を得るために遍く走り求めることを取と名づかる」とある。今世にあ時、生活を営んで、他人のものを貪り取る時をいうのである。十には有。倶舎論には「有とは、正しくよく未来世の果を引き寄せる業を造る」とある。未来もまたそのように、生をうけるべき業を造るを有というのである。十一には生。倶舎論には「未来世の存在を形づくるのを生と名づける」とある。未来世に正しく生を受けて、母の腹に入る時をいうのである。十二には老死。倶舎論には「未来世の受にいたるまでは老死である」とある。生老死を受けるのを老死・憂悲・苦悩というのである。 」
 一、無明とは、過去・無始以来もっている煩悩のこと。
 二、行とは、過去の煩悩によって造る善悪の行業のこと。
 三、識とは、過去の行業によって現在の母胎に託する心のこと。
 四、名色とは、身心が胎内で発育し、六根を形成するまでの五陰をいう。名は受・想・行・識の四陰、色は色陰のこと。
 五、六入とは、六根を具足して胎内から出生しようとすること。
 六、触とは、幼児の時は苦楽の分別がなく、物に触れて感ずるのみのこと。
 七、受とは、やや成長して、苦楽を識別して感受すること。
 八、愛とは、事物や異性に愛欲を感ずること。
 九、取とは、成人して事物に貪欲すること。
 十、有とは、愛・取などの現在の因によって未来世の果を定めること。
十一、生とは、未来世に生を受けること。
十二、老死とは、未来世に老いて死ぬこと。

『十二因縁御書』
「此の十二因縁をば三世両重の因果と云ふ。初・八・九此の三つは煩悩なり。第二・第十此の二つは業なり。識・名色・六入・触・受・生・老死、此の七つは皆是苦なり。十二因縁とは煩悩・業・苦の三道なり。無明・行の二つは過去の二因なり。識・名色・六入・触・受の五つは現在の五果なり。愛・取・有の三つは現在の三因なり。生・老死の二つは未来の両果なり。身に三つとは殺・盗・婬 苦。口に四つとは悪口・両舌・妄語・綺語(きご)なり 業。意に三つとは貪(とん)・瞋(じん)・癡(癡)煩悩。此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し即ち法華経なりと我が身を知る故なり。是をしらざるは即ち謗法なり」

是をしらざるは即ち謗法と明快に
「仏法」を正しく学ぶことを促されている。

よくよく見直すべきである。



[884] 本当の思いを言葉にすること

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月21日(水)11時49分28秒   通報   返信・引用

これを言っちゃまずいんじゃないか。

往々にして頭をよぎる
誰にでもある
ごくありふれたことだと思う。

空気を読むなんていう言葉があるが
そこでの常識を意識することによって
生まれる連帯というものがある。

上手くかみ合えば
1から10まで説明しなくとも
それぞれに補い合いながら
目的に向かって役割を果たしていける。

しかしともすれば、悪くすれば
本当の思いの通りに動けない重圧となり
潰し合うこととなる。

先日お会いしたある壮年は
「私のところへ相談しに来る人に対して
『話を聞きましょう。ただし、
いい格好はしないでください。
絶対にバカにしたりしませんから
ありのままを話してください』
というところから始めるんです」
と言っていた。

もちろんそれは、
何があっても相手を受け止めるという
実力が伴っていなければ

こじらせることにもなる。

ドラマや漫画に見るような、興味本位の
「怒らないから言ってみ?」的なものが
必ずしも良い結果にはつながらないようにだ。

言えなかった本当の思いを口に出して伝えた時に見える世界。
それは見ることの出来なかった本当の世界を見る挑戦なのでもある。

隠していたずっと言えなかった思いを
勇気を出して言ってみる挑戦をした時

やっぱりひどい世界じゃないか、では
いじけて萎えて、より一層閉じこもるかもしれない。

そういうことに対して、弱いというレッテルを貼りつけたり
そのままじゃ地獄行きだと脅したりするのでは
およそ、寛大と呼ぶには程遠い。

芯にどんなエネルギーが乗っているかで響き方も違うけれど
熱い思いがあれば画一的な考え方の方法で
どんな言葉を投げつけてもいいわけじゃ
絶対に無い。

本当の思いを口にし
包み込むように受容を実感したなら
「あぁ、思って良かったんだ」と
その自分を受け入れ許し認めることができ
それを表現しきれていなくて費やされていたエネルギーが
本来の生命と統合されていく。

つまり、未完了を引きずって無理をしていた要因が解消されるので
無理なく自然に、法のリズムと合致していく。

この時、本当に信頼できる法
本当に信頼できる師匠に巡り合っているなら
それほど心強いものはないだろう。

そういったことは、常に心がけていなければ
目の前の告白する一人より
みんなで作ってきた組織の理屈を優先してしまう。

見渡す限り組織の理屈に染まった組織では
言えない思いを抱えている人は行き場を失ってしまう。

生命というものは、言葉で言えないでいると
今度は体で表現していくようになる。

つまりは病気になってしまったりする。

先に述べた、煩悩という感情エネルギーと
業という記憶される思いなどが結びついて
思いのままにならない現実の結果の中で
病という報いを受けている状態になる。

仏法の中に煩悩即菩提という考えがある。

ネガティブな感情とポジティブな感情の
エネルギーとしての根は実は同じものなのだ。

受容されず縛られている
表現の未完了さがネガティブにしている。

普段からこれに気づいて
自他に対してほどいていくことが
大乗の仏道の行である。

そこには
生命本来の尊さへの信があってなされるものである。

これをなしていくには
宇宙普遍の法を学び
人間の言葉の意味の法を学び
自己自身が存在しているという法を学んでいかなければ
それがなされていっているとは言い難い。

本質の話として
宗教の枠組みで言って仏教ではなかったとしても

そういった道を実現して言っているところには
仏法が流れ通っているのである。

一人一人の持っている宿業。
組織組織の持っている宿業。
一国一国の持っている宿業。
人類全体が持っている宿業。

流れ通う仏法の響き合いによって
それらが解消されていくならば

それこそが広宣流布への道ではないだろうか。

表面上の違いを見つけていがみ合うのではなく
根底の同じ生命に則って連帯していこう。

<資料>
「自分の人生を生きていないとき」人は病気になる
http://president.jp/articles/-/18207

【仏法と病気の関係性】 投稿者:大仏のグリグリのとこ様のまとめ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12726/1469670790/



[883] 畜生学者と智者

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月15日(木)12時43分17秒   通報   返信・引用

食べ物は自分の無い公の全体にあって、
それを自分の中で消化したら
「うんこ」になって出てくる。

とても偉い人や神や仏の教えを
正しく理解しきった私の考えや言葉やその身は
敬い従うべきものだというような

「私偉い賢い」っていうのを
他人に押し付けるのは、
うんこを投げつけて

「これはとても美味しかったものだ。
私の中で昇華して出てきたものだから
きっともっと美味しくなっている。

食せ」

と言っているようなものだ。

自分の身と思っているものも
公の全体として見れば食べられるもの。

「へっ!?お前食べられちゃうの?
それって間抜けでとろくてバカじゃね?」

と自分があると思っているエゴは
主張するだろうけれども

病むこと、老いること、死んでしまうことから
遂には逃れられない間抜けでとろくてバカな自分を
投影して言っているにすぎない。

どこへ向かうのでもなく
自分の無い公の全体という
ただ生命である時

すっとしていること。
自然に為されていること。
起こっている奇跡。

バカなのに賢いという感動。
健気に懸命に生きている生命の奇跡。

うんこ食べさせようとしてごめんなさい
と言うためには

まず自分が何をしているのかに
気づいて手放していくのだ。



[882] トラウマ⇔感動、そして奇跡

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月14日(水)10時52分58秒   通報   返信・引用

【トラウマ⇔感動、そして奇跡】

感動って何だろう?

自分の中にもそれがある(することが出来る)と気づき
明るい未来を思い描け(直感イメージ)
生命として通じ合っているんだと実感する
エネルギーの電磁的現象じゃないかと思う。

え?何??
感動の説明が解り辛くて感動できませんだって??

例えるなら
文明を知らない原始人に電球を裸で渡して
「これは光るアイテムなんだ。さぁ光らせてみろ」
と言っているようなもんだって??

そうだね、ソケットや配線や電池も渡して
「これこれこうすれば光るよ、やってごらん」
「うおー光った、すげー」
ってなったら、そこに感動があるよね。

「電池には電気が、どーたらこーたら
電球のフィラメントがどーたらこーたら
電気は光らせるだけじゃなくてうんぬんかんぬん」
っていうのも、一気に理解が進むときには
「なるほどそうだったのかー」っていう感動だよね。

この流れの中で、光とか理解の難しいもの
あるいは説明する人の見た目、肩書、所作、言葉づかい
はたまた電球の材質、形、配線の細長さ、電気のビリっと感
何かしらトラウマやビリーフを想起させる要素があれば
「むむっ!なんたる妖術か!!」
なんて、感動どころか警戒心MAXになるかもしれない。

(本当に強いトラウマなら
そんな反応どころではない。
今回の記事を読んだだけで
そのような強いトラウマに対して
無理はしないように)

そんな警戒心MAXの場合、
「ほら、これは大丈夫だから触ってごらん」
と安全の確認の経験を完了させて
(あるいは、イメージの中で元の経験を完了させて)
阻害している要因を取り除く
打ち解けて受容する工程が必要になる。

その一気に受容が進むこと自体にも感動がある。

欺瞞・警戒だらけの世の中で
職務上の営業の上で
新しい打ち解けを経験することにも感動があるのに

本当に自分自身のことを見つめ
長年のわだかまりが融解するとしたら
そこにはどれだけの感動があるのだろう?

感動の種類の話として分かりやすいのは
話の意味を汲み取って、そのストーリーにする「共感」と
絵画や音楽のような意味よりも先にぐっとくるような「共振」
というものがある。

共感は意味より後、共振は意味より前
五蘊になぞらえれば共感は想、共振は受になる。

順序で言って何に共振するのかを考えれば
その前には現象それ自体のエネルギーがある。
歓喜を伴う一瞥体験で経験するような
非二元の「色即是空 空即是色」の
生命の「元初」という色である。

色、受、想ときたら次は行
「~しようと思うこと」だ。
「~しようと思うこと」のつっかえているものが融解すれば
歓喜の律動となる。
誓願などと口では言っても
そのような歓喜の律動の自然の発露で無いのならば
嘘があり感動的ではない。
歓喜の律動として、あらゆる表現がなされていく時
それはまた新しい元初の原点となっていく
感動のサイクルになっていくのだ。

原点とはすなわちセルフイメージの認識であり
信仰でもあり神でもあるような合意の魂だ。

「元初」「共振」「共感」「律動」「魂」
そこにつっかえている抵抗が融解し
一気に高まっていく

そこに感動がある。

その時、そこに付随している諸問題
例えば病苦や経済苦といったものが
手放され役目を終えて過ぎ去っていく。

そういう奇跡を目の当たりにすることもあろう。

どんな景色だって
元初の光景として見れば感動であるし
どんな思いだって
深く共感し受容する相手がいれば感動で

この感動できる世界がある事自体、奇跡でもある。

手放し融解が進むとき
呆けてしまうようなこともあるかもしれないが

最終的にはきっと豊かな
感動の魂を築いていこうではないか。



[881] 誰かこの難事を成さん

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月13日(火)12時00分17秒   通報   返信・引用

在るということが始めから意識であることを生命と呼ぼう。
実際、マインドのおしゃべりを黙らせて感じる広がりに
個別のアイデンティティを見失うほど溶けていこうとしても
意識であることを見失わずにいられる。
逆は無理だ。
今ここじゃないところに無理じゃない可能性を見ても
それは日常的に起きている後付けであり錯覚だ。
マインドという頭の中のおしゃべりは
どの瞬間でも第一声はきっと誰のものでもなく
ただそこに起こる残聴のようなものだ。
誰のものとしても掴まないでいるならそれは
気づきを促す訪れ告げられるものとして
その信頼とホールドを深めただあるなら
純粋な生命、気づきの意識であることを妨げている
原因のところへ導いてくれる神の声ともなる。
しかし日常において誰しも、その残聴が
煩悩という感情エネルギーや
業という刻まれた記憶を刺激した時
我慢偏執という自分を守り拘る心を起こし
その「思いのままになっていない」という苦を掴み続ける。
仏典の大乗本生心地観経には
仏道を成じて悟りに到達するためには
出家して静かな場所に住し
すべての根源である心の中から
あらゆる煩悩の炎を消すことが大切
ということが説かれる中で
「過去の因を知らんと欲すれば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲すれば其の現在の因を見よ」
という金言がある。
我慢偏執のマインドの騒々しさの中にいれば
結果をただ「見て」深く入るのではなく
「分析」してストーリーに腹を立て
あれが悪いこれが悪いとジャッジをする。
もし、「我慢偏執なんてとんでもない。
これは私の勝手な考えで言っているのではなく
正しい教えにしたがって厳正に判断しているのだ」
と言ったとしても
「思いのままになっていない」原因を
本質的に変えられない他所に求める。
「魔」というものは天界に属している。
天眼の拘りを持つ天界同士
正義と正義のぶつかり合いが時として戦争をさえ生む。
そこでは結局、人間への拘りが
人間を破壊する方向に向いてしまうのだ。
心を静かに呼吸に意識を向け
ただある生命の営みを感じる余裕を持て。
そのためには己が何に反応しているのか気づき
そこにある煩悩の炎を消していくのだ。
そこに見る原因は限りなく「過去の因=現在の因」
であり普遍の本当の原因へと向かうものである。
掴み続けてしまっている未完了の
「思いのままになっていない」という苦から
完了させて煩悩や業をほどいていくのだ。
そうして初めて人は宿業から解放される。
「仏とは生命」という立ち位置からの
本当の人間のための救済の現象なのだ。
掴まなければ何も無かった。
その慧眼の中にいれば確かに
苦から離れていられるし
癒しが必要な人間や社会にとって
何よりも大切なものであり
それが存在しないなら
全ては意味をなさないほど大切である。
しかしそれは
マインドの充満した社会に
ひとりでには広まらないのだ。
せっかく離れた苦を味わうかもしれない。
それどころか「魔」の眼には
「あいつのせいで思いのままにならない」と映り
諸悪の根源として攻撃してくるだろう。
それでも誰か
これを広めていこうという者はいないか?
ありがとう
寝食を共にしてきた悟り深き隣人よ。
だけどあなたでは
長年、私の傘の下にいた生命の習性によって
一人ではその難事に耐えることは出来ない。
ありがとう
たくましい情熱の若き探求者よ。
だけどあなたでは
経験と悟りの不足から、甘い誘惑を見抜けず
かえって悪道をなして魔に力を注ぐ。
ありがとう
今一度深く思慮してくれた皆のものよ。
だけどどうだろう?
それを完璧に為せる完全な覚者など
誰も因を持っていないとするならどこから現れるだろう?
思い出すのだ。
二つではないそれを。
その時なさんとすることに
いかなるものが障害となるであろうか?



[880] 五眼・煩悩業苦・戒定慧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 3月12日(月)03時37分50秒   通報   返信・引用

【五眼・煩悩業苦・戒定慧】

「煩悩」とは貪欲・瞋恚・愚癡など。
ざっくり言うとネガティブな感情エネルギー。

「業」とは煩悩から起こる善悪の身口意の所作。
性癖、慣習等によって思い口にし行動すること。

「苦」とは煩悩や業を因として招いた三界六道の苦の果報。
感情(煩悩)と思い・発言・行動の記憶(業)の強く結びつく
トラウマ等によって思いのままにならない現実の結果を見たり
自身の中に心身の不全・不適合や病の報いを経験したりする。

「戒定慧」とは
行動の規範である「戒」と、
宗教的精神統一である「定」と、
真理を知る「慧」

正しい行動をしなさい
そのためにそれができる心を修養しなさい
また正しい真理を見抜きなさい
という「教え」の道を進むための三要素。

肉眼では
「戒定慧」に救いがあるとは信じ切らず
「煩悩・業・苦」が弱点として放置されるので
踏み込まれ振り回され思うようにならない。

天眼では
「戒定慧」を表面上の文言を組織の理論のような
従わなければならないものとして信じ受け入れるので
自分のことは棚に上げて蓋をして隠そうとする。
蓋をするがゆえにかえって「煩悩・業・苦」を
周囲に色濃く投影し、土足で踏み込む報いによって
結局は逃れられていない。

慧眼では
「戒定慧」の道を進んでいること自体を
何者にも侵されず何ものにもならない自身を
修めている姿であると見る。
「煩悩・業・苦」があるなぁという自己を開き
あるがままを感じきって解放し慈しむ。

法眼では
「戒定慧」を単に「戒定慧」として見るのではなく
それを説く法報応の三身の実相の諸法を見て
何をなさんとするのかの誓願に同意し魂とする。
諸法実相の中において「煩悩・業・苦」の在り方を覚知し
根底にある次元から利他の道を切り開き救済していく。

仏眼では
去来する事象と経験者
見る側と見られる側の一切の錯覚が取り払われる前には
どこから出ているのでもない自身の誓願を
「戒定慧」という対象化された教えという方便として講じ
本来なされている生命の営みの尊さを
「煩悩・業・苦」という分離した自分として経験しているが
本当には生死さえそのようではないという
仏と仏のみの嘘のない不可思議の非二元。



[879] 功徳

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 1月 9日(火)01時30分15秒   通報   返信・引用

どんな感情であれ
受容して表現させてあげ
味わってあげなければ

抑圧され溜まった感情は
思考を奪いに来て
積み上げてきたものを
崩れ落ちさせる。

そういうことにならないための
俯瞰して気づき受容する
開かれた生命が
「徳」というものだろう。

個人であれ
組織であれ

中心のところに
「徳」が無いならば

いかな豊饒がもたらされようか。

信仰の功徳と言っても
その「徳」によって
人の幸福、社会の平和、法の歓喜に
貢献していくということ以外は

価値の制限でしかない。

「~でなければならない」というような
エゴしか無いのだとすれば

「徳」とは程遠い
権威への隷属である。

どんな小さなことであっても
それは法の顕れであり
慈悲の光である。

境智冥合すれば
そこは全て歓喜の光になるのだ。

全ては先ず己を知るためにある。

そこにあるものは全て
己の何かを投影しているのだ。

感情に思考や行動を明け渡さず
しっかりと俯瞰することが智慧となる。

映る世界という境と
映している己の智の
そこに伏せられている
始まりに合致したならば

そこにある苦しみは消え
光の法の歓喜へと帰っていくのだ。

そしてまた
その生命の躍動に基づいて
その徳を表現していく。

功徳が功徳を呼んでいく。

必ずその時誰もが
歓喜の中に生きられるのだ。



[878] 同苦って口ばかりで思考を追うのではなく、自身の思考のついていない感情を見つけ寄り添う

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年12月 9日(土)12時35分26秒   通報   返信・引用

辛かった、苦しかった、悔しかった、悲しかった、腹立たしかった
そういう気持ちを大切に味わってみるんだ。

熱い、痛い、震える、お腹がすいた、眠い
そういう身体の知に意識を向けるんだ。

身体の感覚や純粋な感情に寄り添えばいいのに

“あいつのせいでこうなった!” “なんでいつも自分ばかりが...みたいな正当性ばかり優先すると、地獄が終わらなくなる。

仏教を習って概念で「同苦」するんだって言ったって
「マインドでなくハートに寄り添う」実践でなければ
「地獄の苦しみがぱっと消える(日蓮 趣意)」ことはない。

概念が先だって独り歩きした
投影のひっついた伝言ゲームに同化すると
マインドを強化して地獄を終わらなくする。

「仏教で用いられる悲願という言葉は、元来、『仏・菩薩が衆生の苦しみを救うために誓われた願のことで、特に阿弥陀仏の本願をさす言葉』といわれて、どこまでも私たち人間の苦しみを、自分の苦しみとして同悲・同苦する仏の自他平等の心を表しています。(真宗大谷派本願寺HPより)」
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/word/word60.html

一切衆生の苦と言っても
自身の苦の投影でもある。

一切のこの苦(思いのままにならない)は
本因は、誰のせいでも、誰のものでもなく

ただこの置き去りにされた私自身だったんだと気づき味わう。

外界に感じる諸事ではなく
その気づきこそが本願であったのであり

そうして解放された非二元の味わいこそが
本果という仏性なのかもしれない。

あって良いと開き味わう受容。

マインドの雲を抜けて
ハートの光を見つけよう。



[877] 絶対的幸福の方向性

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月26日(日)02時11分16秒   通報   返信・引用

例えば、言葉というものは、記号としての意味だけでなく
そこにどんなエネルギーを乗せるかで響きが変わる。
「バカ」という言葉に「愛している」というエネルギーが乗っているかもしれないし
「愛している」という言葉に「面倒くさいなぁ」というエネルギーが乗っているかもしれない。

この仮説解釈を理屈で理解するのは自我機能です。
こういう時はこういう言葉をこういう気持ちを込めて言うべきだなんて、「~べき」で理解しても、本当の気持ちなんてものは自然に起こるものであって、借りてきたようなぎこちないものになるだろう。
でも、単純に、だからダメというものではない。
「~べき」でやってみる、マネをしてみるというステップも、本物になろうという意思の下においてやるのであれば、本物になっていく可能性を含んでいく。最後まで継続すれば、本物か偽物かという論議に、意味が無くなる。
気を付けなければならないのは、明確な悪意の下に自我機能が翻弄される場合はもちろんのこと、同化のイタズラによる人を傷つけるおふざけが入ったり、期待依存に傾倒して概念に振り回されたり、思い込み信じ込みによって事実の方を捻じ曲げて解釈することで閉塞・疲弊することです。
愛するほどに人を傷つけてしまうとか、上手く愛せないとか、愛を窮屈に感じて疲れる・苦しくなるといった場合には、自我機能がどういった風に働いているのか観察して、自己機能に立ち返り、その自我機能を表現しきる・解体する・解放する・手放す・もっといい受容に転換する等といったことで改善できます。
その最初は「気づくこと」です。
誰にでも、何を習わなくても起こり得ることですが、サポートを受け入れることによって、その「気づき」を早めることが出来ます。

自己機能は、いつでも、いつの時も、私たちを受け入れ生かしているベースになっている自然そのままの、生の今の愛です。
呼吸・鼓動・消化系・五感、あるいは思考も、マインドに振り回されずベースに寄り添ってみれば、それは最も深い愛そのものです。
マインドを手放してみるということが、愛に立ち返ってみるということなのです。
そこには全てが受容されています。
最初、マインドを手放すことは怖く感じ、色んなマインドによる理由をくっつけて避けようとしますが、それを乗り越えて手放してみれば、むしろ訪れるのは、絶対に安全だったんだという安心であり、ここにある豊かな表現力は、これまでにない満足感を得させるものとなります。
本当の自分とは、そのような愛なのです。

さて、そのような愛を実感するにつけ、意識機能がどこへ向かっていくのかというと、それが本来の「非二元」「悟り」です。
だから「非二元」「悟り」を思考概念で理解しようとすると、本来その段階のことではないので、ズレ・ブレが生じます。
分かるけど分からない、となるのです。
ただ、エネルギーが同時として在る。
「見る」で言うと、見ている者も見られている物も無く、見ているだけが時間も距離もなく在る。
それは常に変化し去っていく中で、いつまでもどこまでもただ気づいているのです。
その気づきは普通の気づきと何ら変わらない、ただ気づきです。
というようなことが、「非二元」「悟り」の覚者から、おしなべて言われます。
思考概念でそれに向かおうとすると愚考に反転しやすいのです。
自己機能に意識を向けて、体感・体験を通して観ていくことで、歓喜と共に、それが腑に落ちていくのです。
誰もが絶対の幸福を実感できる機能をもって出現しているのだという事実なのです。

自然のままに在ることが本当であり、段階は仮説解釈ですが、囚われずただあると見れば気づきの促しともなるのです。

<アルベアのブログ>何でも、かんでも「段階説」⇒解釈仮説の花盛り
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12331139396.html
~「非二元」「悟り」への五段階説⇒定番の「概念」です。
1-「思考・概念」の世界⇒「自我機能」「自己機能」の癒着
2-「思考・概念」の観察⇒自我機能の観察
3-「3つの区分け・見分け」⇒「自我機能」「自己機能」「意識機能」
4-「自我機能」から「自己機能」へ反転⇒意識の見方の転換
5-「非二元」「悟り」の体感・体験の現象化~



[876] Re:困った先輩

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月14日(火)22時04分29秒   通報   返信・引用

身なりさん、お久しぶりです。
良い自己機能の気づき
意識のシフトですね。

信心とは不思議
個々人の気づき現象による蘇生でもあります。

益々の活躍を祈ります。



[875] 困った先輩

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年11月14日(火)15時09分47秒   通報   返信・引用

お久しぶりです、清潔な身なりです。

どうも反りが合わない困った先輩Fさん

明日はFさんと揉めません様にと祈ってみる。

結果なにも変わらない。やっぱり揉める。


もういよいよ限界に近づき、Fさんが移動になるか会社を辞めます様にと祈ってみる。

結果なにも変わらない。益々元気に出社してくる。

益々必死になって祈る、
ふと気づく
困った先輩などはじめから存在しなくて、自分が勝手に困っていただけ

祈っているうちに困難の原因が解消されてしまう。

信心とは不思議



[874] 灯明

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月14日(火)12時03分51秒   通報   返信・引用

自らを灯明とせよ
法を灯明とせよ。

覚えておいてほしい。

それは二つのことを言っていない。

全く同じ一つのことを言っている。

遺言なのだ。
たった一つのシンプルなことしか言っていないのだ。

どちらなのかと迷わせるようなものではない。

つまり、その釈尊の遺言は
人法一箇、色身不二を言っているのだ。

色(肉体)と心(マインド)は不二である。

マインドが能動の時には
肉体は身体の働きをし
その心身は人として振る舞う。

マインドが受動の時には
肉体は完全な知識としてあり
その色心不二は法として振る舞う。

どちらである時も
同じ色心不二の当体であり
人法一箇である。

これが宝塔であり智慧である。

自灯明・法灯明とは人法一箇
生命の輝きの光なのである。

どうか、忘れないでもらいたいのは

「救済者になるのだ」という義を貫くのが本物の探求であり
言葉に頼って何かが成るのではない。

その瞬間における人法一箇の智慧によるのが救済であり
知識のパターンに当てはめてこなすものではない。

我此土安穏 天人常充満の仏眼によってブレズレなく受容するのであり
特定対象のみに同調同化して負うものではない。

受動のマインドの法の覚知であり
能動のマインドの人が見つけることではない。

マインドのおしゃべりを追いかけず(依義不依語)
博識になることを追いかけず(依智不依識)
完全な非二元の体感了解でないものを追いかけず(依了義経不依不了義経)
人生のストーリーを追いかけず(依法不依人)

ただそのままであることの深み
醍醐味を味わっていきなさい。

常にそれは完全な光である。
それを恐れてはならない。

恐れてはならないというのは
恐れも受け入れて開いて観ていきなさいということである。

どのようなネガティブに思える思い・感情・感覚も
慈悲・愛・光・全体・空・至福・歓喜に気づくためのギフトである。

強引さは必要ない。

強引になるということは
そこには何かの投影があるので

何の投影であるのかを見ていくのだ。
それも慈悲・愛・光・全体・空・至福・歓喜に気づくためのギフトである。

愛する君よ。
だからこそ言っておくのだ。

本当の孤独を見つけなさい。
本当の孤独を見つめなさい。
本当の孤独を愛しなさい。
孤独というギフトを開きなさい。

しかしこれは
山にこもって修行をすることを勧めているのではない。

どんな場所に行ったらあるのでもなく
どんな場所にいる時にもある。
そのギフトがあるのは自分自身の、
その内側なのである。

私がこの場からいなくなれば
私にはもう会えないように思うだろう。

事実、どこを探しても
私の残した言葉や
私を模した偶像は見つかっても
私そのものは見つからないはずだ。

しかしただ一つ
あなたが真の孤独を発見し開く時には
そこに私を発見するのだ。

さあ共に
人の心に明かりを灯していこう。



[873] 言葉の先へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月13日(月)02時11分34秒   通報   返信・引用

自我機能なのか
自己機能なのか
意識機能なのか
その見分け・区分け

それに尽きる。

ただあると了解すれば
我此土安穏 天人常充満である。

その当人の完全なる
五眼三身の

記述された
対象化・モノ化・擬人化の

変換によって作られた認識しかなく

還元されて体感する経験しかない。

歪んだ認識にそってある
感情の起伏があり同化して
ズレブレを苦楽として体感経験する。

縁は同じでも因が異なれば
果報は異なる。

それは認識の歪みによって
諸法実相を諸法実相として観ていないからである。

因果が同時である瞬間において
縁・報というものは主客がなくそのままのそれであり

その、そのままが相であり体であり
性というものもそのままのそのものであり

全く究極的に本質も微細も等しい。

何も禁止されていない
自由な表現をもって出現していること

願いとして願って出現している。

完全な主客の無さ・脱落においては
認識はあっても起きず表現が無いので

揺らぎを仮定している。

相乗的に複雑化した認識の重なりで
本質が忘れられる。

そこに衆生は
遂に世界が炎に焼かれるとまで観る。

しかしその時も
我此土安穏 天人常充満なのだ。

思考概念は揺らぎの相乗の時間の産物であり
ズレブレ歪みの上書きである。

体感の側からの感情の解放。
その実体験・実経験。

決め、探求し、探求の終わりが来る。
それは確実に実際に起こる。

はじめからこれは
そういうものでしかないからだ。

それはそうするかぎり
必要なことが必要なように起こっている。

本質は愛・慈悲だからだ。

あなたは閉じこもるために信じるのか
観られることを受容して観て開くのか。

観られる側以外の何ものを観ることが出来るのか
観尽くせば

観るものを観ることが出来ないのは自明の理だ。

頭で解るのではなく

実際に腑に落ちる体感をすることだ。

願いとして願って出現しているのである。



[872] 無分別智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月 9日(木)08時31分14秒   通報   返信・引用

主体と客体がないということは
原因と結果が完全に同時であり
原因と結果が完全に同時ということは
時間の流れがないということであり
時間の流れがないということは
解釈や言葉が入り込む余地がなく
そのままにして永遠であり
生死間の思考視点では自由落下であり
委ねもたらされである時には無限飛翔であり
ただ観る時には球である
球である時には
それで全てであり
それが全てであり
全てがそれである
それは一切無人無境である
諸法無我諸法空相とも
しかるに
常なくば無常なく
楽なくば苦なく
我なくば無我なく
浄なくば不浄なし
彼が親は常楽我浄である
此が子が無常苦無我不浄である
常楽我浄は生死不二であり涅槃であり妙である
無常苦無我不浄は生死各別であり分離であり法である
落下を恐れるマインドは
子を掴み生ある我と顛倒を起こす
顛倒の我は法を習うと思えども
そのような事実があるのではなく
顛倒を正当化する解釈を付けて
幻想に納得しているのである
その我があると見ることを人我見
その法があると見ることを法我見という
生死各別の生を持っている
人生を生きていると思っているものは
ことごとく全て思い込みである
いかに真実の法を習うように見えても
教えが示している法があると信じているものは
ことごとく全て信じ込みである
愛する子を自由にしてやりなさい
縛るから反発するのである
反発されれば他に何も見えなくなる
そのような狭い視野で法を求め解釈を試みても
真実には程遠い
このことを悟り
愛にある時には
親子は言葉も距離もなく一体同時である
これを妙法蓮華とも
師子心王ともいう
子が元気なこと
子が幸せなこと
子が立派に成長すること
どんなにダメでも子が子であること
そこにはどこまでも愛がある



[871] 人法一箇の本質は??

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月 4日(土)11時47分32秒   通報   返信・引用

~になりたい、~が欲しい
そういう願望がある時

できるだけ具体的に、はっきりイメージできるぐらい
それが祈りを叶えるコツという指導があって

そして御本尊に向かって唱題する時に経験するビジョンは

実際にそこにある御本尊のビジョンと
願いによって作り出したイメージのビジョンが重なり合っている。

そういう祈り方、そういう経験をすることはないだろうか?

「受」と「想」の同時認識、同時経験である。

そしてまた、誓願の祈りが大事なんだ
という指導がある時

広宣流布のために役に立てる人になろう
民衆救済のために覚知すべき法を覚知しよう

そういう純粋な「行」(~しようという意思)である時には
イメージの範囲は我見の範囲を超えて広がっていく。

そうした時に
こちらの願いで作り出しているビジョンの他に
もたらされているビジョンがある事に気づくかどうかがある。

例えば光のイメージがやってきた
心地よい唱題の声が聞こえてきた
いい香りが漂ってきた、等。

気づいているのが「識」である。

ビジョンだけでなく
六境の色,声,香,味,触,法それぞれの
もたらされている体感覚知。

「あー!在る!!これだー!!!」
どーん!と気づくかもしれないし

徐々に味わって気づくかもしれないし

「気づいたら気づいていた」かもしれない。

「仏とは自分の生命のことだったんだ」
という五陰世間(五蘊世間)の体感覚知である。

そして組織や社会も生命を織りなしているという気づき。
(衆生世間)
この宇宙全体が大生命だという気づき。
(国土世間)

その時に
あー全部このことだったんだ
南無妙法蓮華経なのである。

これが円満の法華経本門。

このあるがままの諸法実相の中で

法の中心を探そうとすれば諸法空相である。
我の中心を探そうとすれば諸法無我である。

この諸法実相をコントロールしている
法の核も我の核も無い。

ただ諸法実相だけが今ここにある。
という、そのものが法としてもたらされている。

その円融が法華経迹門。

法華経の随所には
空をよく理解するという功徳が説かれている。

空をよく理解するとは
苦しみが無くなる、
あるいは安心へと反転するとは
どういうことなのかの本質の気づきである。

まさにあるように観て自在の菩薩の心で
その法は語られる。

あなたたちは色形のある固有のものとして
対象を区切って見ているけれどもさ
そういう区切りを見ないで
ビジョン全体、即、「これ」
として見ればさ、区切られた固有のものなんてない
そんなのは「空」なわけさ
でね、こういうふうに「空」を説明してみると
届くことのない超越した
はかり知れないもののように考えない?
ただでさえ「空」なのに
はるか遠い広大な空を探して見つかる?
見つからないでしょ?
あなたの「空」の全部は、即、
ここにある「これ」なんですよ
ビジョンとしては
そのビジョンで全部
え?ビジョンの外に世界は無いと言っているのかって?
言っていますね。
いいですか?
あなたがどういう機能なのかという話なんです。
あなたには今、
あなたに見えている以外のビジョンはないんです。
ありのままを見ているかもしれないし
自動的に補正されて見ているのかもしれないし
幻覚を見ているかもしれないけれども
ともかく、それしかない。
あなたの後ろや壁の向こう
そこにも広がっているはずと思っているのは
「思っている」んです。
そういう「想」もまた広がりや固有を
対象化してそういうものがあるとして考えるけれど
そんな対象物を別のものとして考えず
思考全体、即、「これ」
として浮かべればさ、対象化された別のものなんてない
そんなのも「空」なんですよ
で、またこう説明した時にどうしても
「空」を判断したくて対象化した概念にしたいけど
そうすると「空」そのものじゃないという矛盾があって
超越したはかり知れないもののように感じる。
判断出来て、それが何か分かったら
どうにもならないことまで考えて
苦しんでしまうことの全部が無くなるわけじゃないよね。
思考が起こっているんだね、
いいんだよ、気づいているよ
と、受容するだけでいい。
あなたの「空」の全部は、即、
今浮かんでいる「これ」なんですよ
想としてはその浮かんだもので全部。
真実のままを思っているかもしれないし
自動的に後付けされた理屈かもしれないし
我見で歪んだ世界を思っているかもしれないけれども
ともかく、そのありのまましかない。
ここまで説明して
そうすると空即是は色だけじゃない。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。
受・想・行・識もかくの如しだと。
現象だけに当てはめて空が余ることもないし
大きな想定に当てはめても小さな想定に当てはめても
想が大きすぎることも小さすぎることもない。
ただ現象があって
ただ受容が起こって
ただ想い浮かんで
ただしようとすることがあって
ただそれを認識している。
そこにどんなあなたが固有に存在する必要があって
どんな実在なら、思うままに支配しきれるか?
思うままにならないという「苦」は
どうすれば無くなるのか。
そもそも本当に
思い通りにコントロールしなければならないほど
それは悪いものなのだろうか?
少しでも
本当の本当にコントロールできることなんて
あるのだろうか?
全ては空より起こっているんだ。
それは生じたり滅したり
善くなったり悪くなったり
増えたり減ったりしない。
空とは現象であるという固定ではない。
また受容、想いの操作、すること、認識によって
得られるというどれか固定ではない。
眼・耳・鼻・舌・身・意の執着の有無ではない。
色・声・香・味・触・法の中の個別は取り出せない。
頑張り続けることで得られるものでもない。
意識を消すようなことで得られるものではない。
苦しみや無常を見つめて得られるものではない。
根本の迷い・コアビリーフに気づいて得られるものではない。
道を究めて悟るところを目指して得られるものではない。
何も得ようとしない事によって得られるものでもない。
知恵比べだね。
あなたがこれについて考えるとすれば
あなたはそれをしていない。
何がそれをしているか?
ただ「空」から起こっている。
経験している誰かは居る?
経験を作っている誰かは居る?
経験から取り出せる何かはある?
あなたはどこにある?
あなたってどんな何?
何が重要?
何かを認識する時
そこに何が実在している?
誰かを認識する時
そこに何が実在している?
なぜそれをそう認識するのか
ちゃんと見つめたことある?
誰がそれを作ったの?
なぜそれを作ったの?
気づいてほしい
救済してほしいというそれに
蓋をしてもまた
一段と大きな声になって届く。
もちろん
誰だっていきなり全部直視できないよ。
全部一人で解決させる必要もない。
そのために手を差し伸べる役目の
私たち菩薩の道を行くものがいるんだからさ。
そうだね、
いつでも思い出せるように
きっと上手くいくように
おまじないを教えてあげるよ・・・
かけがえのないあなたが
幸せでありますように。



[870] 資料

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月 2日(木)11時55分56秒   通報   返信・引用

無量義経 仏の身 三十四の非ず
ウパニシャッド 真我 「~ではない、~ではない」
梵我一如を始めて語った人物
人我見・法我見
諸法無我の法
而二不二《ににふに》
ブッダの沈黙
~~しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。
仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。

最も古層に属する原始仏典のひとつ(スッタニパータ、4章と5章)には、ブッダの宗教観としてつぎのような洞察が残されています。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
(903)
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
(904)
もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。
けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
(905)
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。
また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。
(906)
(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197~198頁)
ブッダが宗教に見たものはドグマへの執着であり、その愚かさです。
そのために、ブッダは、ある特定の種類の(形而上学的)質問に対しては沈黙したと仏典は記しています。
このことを「無記」あるいは「無捨置」といいます。

ブッダの沈黙は宗教や哲学の形而上学的論議そのものに対する批判です。
「人が死後も存在して生き続けるかどうか」と言う質問は、ブッダが答えることを拒否した14(あるいは10)種類の形而上学的質問のうちの一つだったのです。
それは、「毒矢のたとえ」や「ヴァチャとの対話」などの経に残されています。
ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。
そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。
すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。
世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。
だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。
もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」
(中略)
「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。
(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」
以上のことを世尊は語られた。
尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473~478頁)

かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。
その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。
二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。
「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。
これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」
「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」
「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」
「そうではない。」
・・・(中略)・・・ さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。
だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁)
このように、ブッダは「人は死後にもなお存するかどうか」というような種類の形而上学的問いには答えなかった、と仏典は記録しています。
そのような問いに対する見解はドグマ(独断)に過ぎないからです。
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。

このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。
現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。
初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。
・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)
ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。
つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。
ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。~~



[869] ジャッジ、序列、固定的前提

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月31日(火)01時52分34秒   通報   返信・引用

普段、私たちは
何かにつけて
優劣を決めたがる。

直接、自分の身に起こっていることの反応なのか
(自己機能)

思考概念のストーリーに対してのジャッジなのか
(自我機能)

意識体の関与による同化なのか
(意識機能)

内向きに問い
あるがままに見て
ジャッジをせずに味わうことが
受動的である。

おそらくおよそ
創価学会の活動家・幹部であるほど
苦手そうなことである。

あれが悪だ、あれと戦うんだと
明快に威勢がいい方が
活動家として羨望され地位を上げる。

そこには善悪の判断の
固定的前提が重宝される。

言い方を変えれば
レッテルを貼る共通の基準である。

自分で考え自分の心に従うことは我見で
疑うことが許されず
「信心で受け止めろ」と一喝される。

一喝する側とされる側
従属させる側とされる側。

訓練と称して
上が黒を白と言ったら白なんだと

間違っていると分かっている事でも
序列上位が正しいという固定的前提によって
ジャッジすることが正義とされる。

それのどこに仏法があるんだろう?
どこの悪徳ブラック企業だよ。

戸田先生池田先生が作った党だから
戸田先生池田先生が作った新聞だから
戸田先生池田先生が作った組織だから

強固な固定的前提
信じ込ませ思い込ませ刷り込みバイアスを強化する。

これが日蓮仏法なんだって
広宣流布・平和のためなんだって

どこがだろう。

ー池田先生の言葉
全員が会長の心で

それはとりもなおさず
間違っていると思う幹部や組織に
随う必要はない、ということではないか。

明確に
会長が上、会員が下
そうなったら創価学会も邪宗とも言っている。

さて、ではどうするのか。
一度はまれば抜け出しがたいこの
ブラックな思考体系から
どうすれば抜け出せるのか。

単純にジャッジの極端な反転というのでは
仏法的な深化がもたらされず

いくら怒りを燃やして戦い

いくら文献を集めて「本来の仏法」を構築しようとしても
そのままのステージにあっては
「月を指す指」を都合よく解釈するにすぎない。

そこで本当の気づき、本当の悟り・非二元のための
エネルギーの動による自然の
あるがままの受動・受容が必要となる。

そうでなくては
真如・無作三身を説く御義口伝は体解できない。

能動的には内への問いである。

アルベア論に種々紹介されてきた。

ここでは藤沢烈 BLOG
576旅 ケン・ウィルバー『意識のスペクトル 2.意識の深化』★★★★★
を紹介しておく。前回記事の補足となる。
http://retz.seesaa.net/article/107939662.html

律動法を続けることで
自然に気づきがもたらされ
自然にその精度が上がっていく。

救済の促しが開かれていく。

思考概念のジャッジではなく

体感覚知の見分け、区分けを獲得していくのだ。



[868] ハチクジ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月28日(土)12時27分29秒   通報   返信・引用   編集済

心のどこかで「何かが違う」と感じている
それはとりもなおさず「迷い」であり

「これだ!」という気づきを得て
迷いが消え道が開けるのが
それと対を成す。

問うことによって遡り
陰と陽の要素が、実は同じ要因であった
という迷いの対消滅
而二不二の体感知、歓喜の法である。

その気づきの階層は
受動的で俯瞰した方向性によって深化するものであり
広く大乗仏教の唯識思想や
それを取り入れたトランスパーソナル心理学などに
分類学的に説明される。

http://gakusix.cocolog-nifty.com/ikirukotoba/2014/08/post-01c1.html
http://gakusix.cocolog-nifty.com/ikirukotoba/2006/01/post_b4f0.html

そうした分類学的に見た場合に
個別性(パーソナル)の境界の超克
そして肉体と心の境界の超克の覚知が
究極するところとなっていく。

「一念三千」そして「色心不二を一極」である。

それを覚知した時には
今ここ、このままで種子の発露である。

鳩摩羅什訳の法華経以後には
その「悟り」に向かうだけでなく
能動性へ帰ってきて
それが自然ありのままに表現される志向を持つ。

現実における、意味の解消解決である。

戦後、急速に発展した創価学会。

戸田先生の体感知を軸にして
戦争の傷跡からの反転の力を
青年の熱と力に転換し
苦悩にあえぐ民衆の救済を実現していったことに
成功の要因があったのではないか。

しかし、それだけでは
いつまでも戦後ではないし
能動性には常に陽と陰の要素が内在するので
川を渡り終えれば筏が不必要になるように
速やかな新陳代謝が必要であり

それが出来ず執着する時には
陽が出終われば陰の要素が引き寄せられる。

つまり陽の要素「絶対平和の希求」は
平和ボケして自分が頑張らなくてもいいやと
思っている人ばかりになって活動が衰退すると

誰もが平和を希求して骨身を惜しまなくなるための
「あの頃のような身に染みる戦争体験の現実味」を引き寄せる。
例えば戦争可能な国造りの一助を行ったりである。

陽の要素「苦悩にあえぐ民衆の救済」は
普通にしていればそれなりに楽しいし幸せと
みんなが思って活動に身が入らない時には

陰の「誰か、もしくは自分が苦悩にあえいでいなければならない」
という前提条件があり
心の平穏をかき乱すような
いちゃもん、煽り、見せしめ等をする。

過去の栄光に執着があり同化していると
新しい課題を提示された時や深化を促された時

こんなに頑張ってきたのに認めてもらえない
下に見られている、否定されている

等と思い込み魔が差す。

旧態依然としたところから抜け出せず

それは課題の更新が出来ず
新しい志向に適応できず

川を渡り終えても筏を抱きしめているようなものだ。

ともすれば川を氾濫させて洪水を起こして
「ほら、筏を持っているのはこんなに正しいんだ」と言いたい。

そういったことで政治の民衆のためへの軌道修正や
自組織の腐敗堕落の改革といった課題が
むしろ気づけない事によって
前の課題の陰の要素を引き寄せる。

執着は戦後の発展の戦いが
煌びやかであったがためでもある。

深化が出来ていないところから
能動性を叫び続けても
広宣流布は後退するのである。

受動によって深いところに気づくことによって
自然の発露、歓喜の躍動となるのである。

そういったことに気づかないように
思考概念の強化、刷り込み、
バイアスによる正当化
正義という信じ込み思い込みが繰り返される。

生命哲学と謳いながら
生命を無視する愚行である。

生命とは、仏法とは
「これ」だということを

体感覚知すれば広宣流布されるのだ。

「夫(そ)れ浄土と云(い)うも地獄と云うも外(ほか)には候(そうら)はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るを仏といふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとリ候(そうろう)ぞ」
(上野殿後家尼御返事、1504㌻)


〈通解〉 さて、浄土といっても地獄といってもほかにあるのではない。ただ我らの胸中にあるのである。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫という。これを悟ることができるのが法華経である。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのである。



[867] 日蓮大聖人は南無妙法蓮華経をどんな風に唱え始めたんだろうね

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月27日(金)11時39分24秒   通報   返信・引用

良い悪いではなく

創価学会が創価学会として存続するには
創価学会として価値を創造し続けること
だと思います。

創価学会が創造すべき価値とは
三代の会長に形成されていった
体感知と平和思想を基盤とした
青年の、厳しくも明るく自由な熱と力、
それ自体と、それによる価値の創造が
主であると思います。

そうすると創価学会を繁栄させる会長に必要な資質とは
三代の会長の思想と体感覚知を真に理解し継承し
自らと同じ世代や、礎を築いた先輩方を大切にするだけでなく
まだ右も左も分からない無名の若者に心を砕き
その厳しくも明るく自由な熱と力を
引き出せるかどうかにかかっている。

今の信濃町には、望むべくもない。

H会長の「壮年部の皆さん頑張りましょう」
(あなたたちなら分かってくれますね、頼みますよ)は

信濃町の作った利得を、壮年男性で保護していきましょう的な

先日、アルベアさんが手塚治虫「火の鳥」に学ぶという記事を書いていたけど
それで言うとヒミコ様的な滅び行く文化の病のようにも感じられる。
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12322310081.html

戸田先生は、時代背景や組織の発展の段階もあって
エンジンは一つあればいい
自分と数人の理解者がいれば何度でも始動させるという面

池田先生は、これからの時代推移の予測もあって
一人ひとり全員が会長の心を持つんだという面が伝わる。

それは別々の面が見えているけど
違う二つのことではないと思う。

旧態依然としたものに囚われず
自由に枝を伸ばしていく若く新しいエネルギーなくして
何が価値の創造か。

さて、「御義口伝」なのであるが
真摯な取り組みによってしか得られえない
と書いたが

それは、枠に囚われない真摯な学びと(学)
主観の上で強烈な法難の体験と、さらなる法難の覚悟(信)

それと、何らかの瞑想・坐禅・止観・律動法といったもの(行)

が、必要であると思う。

もし大きな会合で学会幹部が30分の枠を取っておいて
「今から30分、瞑想をやりましょう」って言ったら
どうなるだろうな。

だらだら内容の薄いことや、創価バイアスを強化させる話をするのはOKで
やっつけや祈祷じみた唱題行以外の仏道修行をやらせたらNG。

そういう空気、あると思う。

だからそれでは、御義口伝の覚知には至らない。

師弟交互の反転現象、電磁的反応伝達、魂のラリーでもある。

日蓮大聖人は、法華経、理の一念三千等を習い
当然そこには、止観などの修行もしたうえで

南無妙法蓮華経と唱え始めた。

初めは文字曼荼羅本尊も無かったし
それがどんな風な唱題行だったのか謎もある。
創価学会で今されているより
ずっともっと瞑想修行に近いものだったかもしれない。

立正安国論提出から法難に至って作用反作用で
仏敵を責める、唱題行しかない、ということが前面に出る。

理を借りて事を顕すような形
法難の体感知がメインで、瞑想の冷静な理は
借りて拾い出だす。

この際、客観的に気楽非活さんの言っているように
御義口伝を後世のものとして

そうすると今度は
日蓮大聖人の壮絶な法難の体感知を借りて
内面の理を深く見つめて深化させたことがうかがえる。
事をもって理を深める。

御義口伝、血脈抄、総勘文抄・・・
その深められた凡夫即極の理を

法難の体感覚知によって
再び事の上に開いたのが創価の三代。

例えば、この世対抗バトンリレー大会があったとしよう。

バトンは受け渡されるたび逆側を持たれながら渡される。

バトンは不思議な事に、
複数に分かれたり
それぞれ形を変えたりしている。

聖火リレーみたいに
持つ方と掲げる方を決めて渡し合っている人もいる。

どのバトンを受け取るかは自由だ。

青年が自ら受け取りたいと願い
持つだけで燃え立つようなバトンかどうかだ。

ウンチクを並べて
すごいよアピールして
ぜひ、ぜひって

今の青年にとってはことさら嘘くさいよね。

さぁバトン受け取ったね
選挙だ選挙だ功徳あるよ。

青年がついてくるわけないよね。

本当はもっと違うバトンを受け取ったはずだ。
本当はもっと違うバトンを持っているはずだ。

忘れているなら
思い出さなきゃいけない。

問うのだ。
俯瞰して観るのだ。

悪いことが起きて
無理にでも
どうしてこんなことになってしまったのかと
問わなければならなくなる
衝撃の五段階よりも

気づきの五段階にしていくのだ。

本来の「行」とは
どういったものであるのだろうか。



[866] 御義口伝の真摯な取り組みに全生命をかけた実践の心の師

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月21日(土)03時56分2秒   通報   返信・引用

南無妙法蓮華経と御本尊に唱えて
「あー!在る!!これだー!!!」
どーん!

っていうのを
ただ知りたいっていうのを祈り詰めて
初信の功徳で頂く人ってたまにいるんですよね。

それで慢心しちゃうと
変な方向にいきそうな場合もあるんですけどね。

え?その変な方向って、
当にお前がしているそれじゃないのかって?

広大無辺の非二元の受け皿の上で
真摯に取り組みます。

「御義口伝」というものは
史実の上では
少なくとも文章化されたのはおそらく後世で

(参照、気楽非活http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/10/20/000000

それにしたって真摯な取り組みによってしか
得られえないことが書いてある。

「日蓮真蹟の内容と
全然違うじゃないか。
そんなのは教義の逸脱だ。」

って言うとしたら

あれ?
それってどっかで聞き覚えのある感じだなぁ
と思う。

52年路線、そして54年をとりまく非難。

池田先生自身、御義口伝の
時代考証の疑義は把握していた。

それでもなお
これは正しいと力を込めたのが
御義口伝でもある。

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」
全生命をかけてこれを読んだ。

残念ながら、その体感覚知を継げる幹部がおらず
組織に体感覚知の受け皿が乏しい。

せっかく初信の功徳で覚知したものも
活動に追われてうやむやになる。

体感覚知のない組織は
パワーゲームによって世俗化する。

情報統制をしてバイアスを強化して
意のままに会員を動かすことに躍起だ。

選挙戦には特に顕著だし
体感が消え尽きれば
折伏戦も追随する。

いくら儲かったとかの蔵の功徳より
この体感して健康になる身の功徳の方が上で
全てが慈悲の心としてもたらされているということの智慧化する心の功徳が第一である。

凡夫の身に智慧が湧き
人のため法のために行動する。

その規範として心の師
池田先生であろう。

それは同時に
我が胸奥の事の一念三千を師とすることである。

仏の生命である。

この非二元(真如)を体感覚知することは
広大無辺の宇宙に自在に飛翔することがもたらされる。

我即宇宙、宇宙即我である。

妙の三義の実現である。



[865] 異体同心 問いかけ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月20日(金)12時18分37秒   通報   返信・引用

それぞれに課題(思考・行動)クオリア(感情・感覚)を
三世(基準・衝動・目的)に貫いている体(識)。

それぞれの六根
私には私の人生・世界があり
あなたにはあなたの人生・世界がある。

外に広げていけば
関西には関西の伝統・文化があり
関東には関東の伝統・文化が

東洋には東洋の伝統・文化があり
西洋には西洋のの伝統・文化が

地球には地球の生態・環境があり
どこかの星の人類にはその生態・環境がある。

内に見ていけば
目・口・鼻・舌・皮膚また各臓器や組織
それぞれに察知したことでそれぞれの反応をし
それを伝え合っている。

そういった内外の現象の全てを貫いているものとして
ワンネス・仏智・無分別智と呼ばれるようなものが想定される。

それは普段は
個人として別々に現れている部分を
フォーカスすることに慣れきってしまっているだけで

それも別々でない「在る」によって
個別という仮がもたらされている
それそのものの現象である。

同じ一つである。

そして、その私が対象を見ているという経験を
よく観察していくと

対象という分離したものは無く
私という分離したものは無く

「見ている」だけがある。

異体同心とは、より本質に近い
気づきがもたらされているかどうかだ。

より本質に近い気づきは
より本質に近い現象・エネルギーに基づく事となり
それは敗北の要因の軽減になり
またより力を発揮できることになる。

対して同体異心とは

本来の個々の体を無視して
用意した型に嵌めて統一し

それ以外の道を断って排除する
不自然の構築からなる。

内に見ても外に見ても
阿鼻叫喚の絵図となり
心が付いていかずバラバラになる。

敗北の要因を多く作る。

教条主義の号令では
いつか崩れ去る。

さて、日蓮大聖人が幕府に提出した立正安国論。

「邪宗を滅ぼし唯一正しい私の教えにつくべきだ」だったのか
「胸襟を開いて本質の気づきへの対話を開始しましょう」だったのか。

その国に対しての仮想セッションは
何の気付きを促したのか。

「やれば分かる唱題行」は
何に気づくためのものだったのか。

論理・ウンチクの
あなたは怒るけどここにこう書いてあるよ
ここのところのこの部分が重要だよ

等というのは、経や論や釈を用いるが
より本源的には智慧からもたらされている。

智慧とはどこにある?

仏典?

それだけ?
それって智慧でなく知識なんじゃないの?

それで本当に自身内外三世全てに対応できる?

日蓮大聖人は
何によってどんな智慧に気づいたの?

それは他の高僧とは何が違うの?

蘭室の友に交はりて麻畝の性と成った人はいないの?
あるいは毒鼓の縁で後に気づいた人はいないの?

排除の精神ではいても気づけないんじゃないの?

本当は気づいている人がいて、それを排除して
独自性に拘っていったら
本質の抜け落ちたおかしなものにならなくない?

正統性って何?
ここ以外にあってはならないもの?
それって独善じゃない?

あなたは何ですか?
あなたは誰ですか?

智慧とはどこにありますか?



[864] 智者に我義やぶられずば×アドラー課題の分離×而二不二

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月19日(木)02時15分54秒   通報   返信・引用

「法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(開目抄 232㌻)

(「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期すならば、日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義は破られない限り、そのような言い訳に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵に過ぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。)

ひとまず冷静に考えよう。

これは誰の課題か?

日蓮大聖人の課題である。

私の課題でもあなたの課題でもないし
まして他人に押し付ける課題ではない。

而二不二というものは決して
その課題や感情への同一化ではない。

桜梅桃李あるがままの
それぞれの課題がある。

その、あるがままを変えれば
地位や名誉や財産を与えようと言われても
あるがままを変えなければ
大切な人の命を奪うと脅されても

用いない。

日蓮大聖人が変わることは無い。

否、日蓮大聖人が信じたものは
そんなことで変わるようなものでは無かったということが

信じ込んだのではなく、もたらされた。

そこに覚知された大生命の輝きの前では

ガリレオが地球の公転を確信していたように
どんな不当に真実を曲げる圧力が働いても

真実が立証される日がやってくる。

日蓮大聖人はここでは
用いてはならないと言っているのではなく
私は(知っているから)用いないと言っている。

やがて立証される大生命哲学にとって
それが護り通されたその瞬間は
その仏の大生命と而二不二であり

一切諸法・生命にとって
柱であり眼目であり大船である。

日蓮大聖人はそれを瞬間では終わらせずに
「在る」として支えよう
開ききっていこう
現象化させていこう
と、誓願されたのである。

このようであり
臆病の心を選択しない限りは

既に言葉を超えた悟りでもあるので
外からの言葉で

決して崩れ去るものではない。

科学が何を証明したとしても
主体と客体のない非二元(真如)は
そのままでそれである。

敵に我義やぶられずばでも
智者に我義諭されずばでもなく
智者に我義やぶられずばである。

これを外に設定するのであれば
不可能を提示して煽るダブルバインドである。

ゆえに、この智者とは
我が生命の内奥

仏の生命である。

而二不二の響き合いによる
仏の生命の飛翔によってのみ
世界はさらに開かれ行くのである。

それは言葉で丸め込むものではない。

そしてそれはだからこそ
その仏の生命の飛翔は
それぞれ桜梅桃李の志向性によって
その中に宗教枠の解除があったとしても

日蓮大聖人の誓願に反してはいない。

この場合、破るとは言っても
倒して間違ったものにするのではなく

隔たりを突破して超克することだ。

そして包み返すことによって
内に息づくのである。

筏の譬え
http://www1.odn.ne.jp/ceu55990/IKADANOTATOE.html
~この譬えは、同じ釈尊の教えを聞いても、皆と違う見解を持つ弟子がなぜ現れるのか、という弟子の疑問に答えたものです。この時釈尊は、”蛇の譬え”と言われるものと、この筏の譬えを用いて明確に答えました。~

アドラー課題の分離
http://diamond.jp/articles/-/46565?page=3



[863] 恋と気づきと分別と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月17日(火)12時49分14秒   通報   返信・引用

生死を貫く生命、

それは目指すものでは無く
もたらされていることに気づくかどうかがあるだけだ。

自分とは何者であるのかという
「定義」の構築を期待依存するから
探求が終わらず

その思考概念の積み重ねに
意図思惑が働く。

ここにあって生かされている自己とは
関係の無い虚像に支配される。

そういった自我機能で考える
賢さ愚かさの違いや、正義邪悪の違いは
紙の裏表ほどの違いしかないものに陥る。
(戸田先生もそのようなことを言っていた)

無記としてもたらされていることに基準の線を引いて
こっちが善そっちが悪とやったって
その線が視界に入った時だけ発動する
本当には違いのない表と裏なのだ。

私のこれは本物だけど
あなたのそれは偽物だ。

そういうことをもって連帯すれば
嫌われ者になったって仕方ない。

宗教枠というものにとって
そういったことは課題であろう。

例えば、気に入った異性がいて仲良くなって
「実は俺、創価学会員なんだよ」と言ったとたんに
顔色が変わって決裂する。

創価学会が作ってきた創価学会とそれ以外という区別が
世間にとってもその裏表として区別されている。

その区別が目に入ったとたんに
世界が二分される。

自我機能の世界なのだ。

それが視界に入って働く前
いっしょにいて心地いいと思う

あ、いい匂いがする
あ、やさしい
あ、私のこと見ててくれる
あ、こんな世界を見せてくれるんだ

そういう気づきが自己機能で
それはもたらされるものだ。

初めから、
この人と付き合ったら友達に自慢できる
なんてよぎっているものは自我機能だ。

信心は恋愛のようにやるんだというのは
自己機能の促しなのである。

桂正和の漫画、I'sで
「そんな、好きなんて気持ち説明できないよ」
なーんていうセリフがあったんだけど

あー、切ないね。

<アルベアのブログ>「気づき現象」とは感覚反応
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12320218664.html

<アルベアのブログ>「非二元」「悟り」は「目指す」のではない「気づく事」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12320218777.html

核心だね。



[862] 正義の旗

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月13日(金)12時45分28秒   通報   返信・引用

時折、肯定的に紹介したりもする
気楽非活さんのブログがあるが

色々なスタンス
正宗の教義、学ばない学会員、偶像的な池田先生への熱
等々に対して、批判的な論考も多く書かれている。

今書こうとしているのは
気楽非活氏への批判のためではなく
我が己の見つめ直しである。

御書や法華経・諸経、あるいは教義や創価三代の指導は
学ぶ対象であって、
何を信じるかの判断や、どう行動するかの判断の
考え方の基を作ることであり
悟りの側から見れば
抵抗のないあるがままの自然への回帰への
何が引っ掛かっているのか気づくための手助けである。
そういう生命との関係性であるから
無謬の如く信じる対象とすれば
不自然の構築になって
自然への回帰の気づきが起こりにくい。
つまり、学びへの対し方としては本来
疑問に思ってはいけないことは無いし
何を学び取ってどう考えるかは
少なくとも一旦は保障される。
初めから100%正しく理解しなければならず
正しく理解しなければ発言権が無い
というような類のものでは無く
それぞれの人の心の自由は
そのままで、尊重されるべきものである。
ただ、もっと学んでいこう
人生の先輩の言葉に
また、新しい感性の発想の言葉に
耳を傾けていこうという姿勢が大事である。

学んだことは行動に
そしてまた、行動の結果から学んでいく。
学んで終わりではなく
やってみることが大事だ。
変な理由を付けて何もやらないよりは
間違っているかもしれなくても
覚悟を決めて一歩を踏み出すこと、
また、迷って何もできないのと
何もしないと決めて何もしないをするのも違うし、
迷って何もできない事でさえ
本質としては
宇宙生命に受容されている等しい生命である。

行と学は大事ではあるけれどもどうでもいい。
信がそうあった時の受け皿として道を用意してくださっているのである。
行と学は信心より起こるのである。

信心とは何か。
何も信じずに生きている人はいない。

ここはパソコンやスマホから見れる掲示板で
これは、日本人に読むことの出来る日本語で
いちいち考えはしないけど
結果的に知って信じているから
自然の内に、この行動をしている。

今、財布にこれぐらいのお金が入っていて
これは日本国内で商品と交換できるもので
これによって食べ物を得ることが出来る。
いちいち考えはしないけど
結果的に知って信じているから
自然の内に、この行動をしている。

もし、突然に、海外へワープさせられたら
通じる言葉もなく、通用するお金もなく
信じているものが通用しなくなる。

そこで何もなくなるかと言うと
右足と左足を交互に前に出せば歩けるというのは
地球の陸上であれば変わらず
信の中心がそこにあってサバイバルの精進がされていれば
身一つあれば生きていけて
海外にワープさせられたぐらいでは動揺しないかもしれない。

人間にとって一番の問題は
誰もが最後には死というものをむかえ
そこには何が通用するのかということである。

つまり、仏法の信の対象は
生死を越えて貫く生命である。

そういうものであるから
何をはく奪されても
たとえ今世の生を奪われても
護り通すものである。

熱原の法難で彼らが護り通したものであり
700年後の昭和54年に池田先生が護り通したものである。

池田先生がただ我一人と痛感した
正義の旗である。

気楽非活氏のブログで
どうしても私が、最も過剰に反応した記事がある。

「恩師の二十三回忌に思う」の扱いに関する記事だ。

池田先生が自ら
「教義の逸脱は私の思い上がりでした。
宗門の伝統や教義の方が大事なのでそれに従います。」
としたような印象を与えかねない。

そこを刈ってしまえば
どんなに学んだところで
理論の遊戯の自己満足ではないか。

思考概念の世界でしか通用しないではないか。

http://gogensanzin.hatenablog.com/entry/2017/05/11/022054
↑ここに抗議を書いたのが5月11日

新・人間革命 雌伏68
聖教新聞2017年6月14日3面でも
その本質が踏みにじられている。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71236

「正義」の揮毫は
この掲示板を立ち上げたサイヤさんのブログにも
堂々と掲げられている。
http://macska2012.blog.fc2.com/

何が信心なのか。
何を受持するのか。

それを隠させてはならないし
曲げさせてはならない。

「各々師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干の吼(ほう)るなり日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり」
聖人御難事(1190ページ)



[861] 巡る 循環 慣性系

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月 9日(月)04時04分49秒   通報   返信・引用

小さい頃
初めてエスカレーターに乗る時
それは怖かったり当惑したりしなかっただろうか?

だが、一度乗れてしまえば
慣れてしまえば何でもない事になる。

私はどちらかと言うと今でも
さすがにエスカレーターは平気だが

車の車線変更をすることとか
日常会話の流れに乗ることとか
苦手である。

どこか不安を抱えている。

苦手でないものとして
携帯電話に初めてネットの機能が付いた
iモードの頃

初めてそこで触れ合った
文字での会話の表現世界。

感動があった。

「表現世界」というのは
言いたいことを、
一段落以上書いてから
放出され

途中で遮られないから
そう区分けしてみた。

LINEみたいなのは
それは得意ではない。

人それぞれ
出来るようになっている事
当たり前になっている事
得意な事が違う。

人それぞれ
当人にとっての当然という
現実の慣性系を生きている。

見たいように見ている軌道を選択をしている。

それぞれ
大きな流れの慣性系
小さな流れの慣性系
激しい流れの慣性系
穏やかな流れの慣性系

あるいは
天の川銀河のアンドロメダ星雲と近づいていく慣性系の中に
太陽系が巡る慣性系があって
その中に、それぞれの惑星の、またその中に衛星の軌道の慣性があるように

そういう同時代現象の中の
個々人の現象でもある。

どの軌道が正しいかなんて言っても
それぞれあるようにある。

色んな思いが巡り
色んな感情が巡り
色んな出来事や身体の感覚が巡る。

いかに何が正しいかということが
思い込みの産物でしかないかということだ。

速度や方向の違う慣性系を
間近で見ようとか見させようとかするほど
何が何なのか分からないし
衝突して壊れる恐怖がある。

観察には適切な距離が必要で
その流れに乗りたいと思った時には
速度や方向を合わせながら合流していく。

自身が今、どんな流れの中にあるのか

それは、今当然だと思っていることを見ているだけでは
周りに流されているだけであり盲目的である。

俯瞰するということが無ければ
先を知ることは出来ない。

いかに思い込みを現実だと思って生きているのかを
自覚することだ。

あれに驚きこれに嘆いて
常にどこかに向かおうとしているのが
思考概念のマインドだ。

今ここの体感からの俯瞰は不動で
「自分が」というマインドではないところだ。

あっちが正しいこっちが正しい
誰が言った言ってない

それはマインドがジタバタしているだけだ。

仏眼からの視点か法眼からか慧眼からか天眼からか肉眼からか
その俯瞰などの違いがあるだけであり

受け手読み手の側が
仏眼で還元するか法眼からか慧眼からか天眼からか肉眼からか
その違いがあるだけである。

非ず非ずでしか表現できないもの。

それは必然的に
「それはこれですか?」と聞かれれば
「それには非ず」という答えにしかならない。

いくら考えて決定論的に落ち着かせようとしても
無限に非ずを重ねるしかなく
マインドの願望の探求は終わらない。

ただやって
ただ自然の事実があって
ありのまま了解する。

自分自身である。



[860] 信仰は誰がつくるのか

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月 3日(火)12時38分56秒   通報   返信・引用

私事。
学会2世に生まれた。
母は若かった。
小さい頃(幼稚園より前)から
各種会合についていかされたり
種々習い事の教室にいったり。
幼稚園に入り世間の世界とのギャップがあり
自分のズレに不安を覚える。
母は私を叱る時、反省の色が少ないと見えると
「お母さんが恥ずかしいねんで」と決め台詞のように言った。
僕の幸せのためじゃなく、自分の都合なんだねと思ってシュンとした。
そのシュンを母はもしかしたら反省してくれたと思い
これは効くと思ったかもしれない。
僕が思いのままに言ったり行動したりすることは
お母さんが恥ずかしいので、僕は我慢しなくちゃいけない。
ではお母さんが安心することは何か?
御本尊を信じ池田先生の指導と行動を学ぶことだ。
ある時、両親の喧嘩の仲裁を呼びに行って(インパクトの強い出来事)
結果的に両親は離婚することになった。
僕の行動は、お母さんが恥ずかしいだけでなく
一家への不幸をもたらした。
男というものは女子供を幸せにはしない。
弟に当たり散らした。
母は仕事、僕は家で一人で学校の宿題をやろうとして
でも向き合えなくて一文字も書けなくて苦しくて泣いた。
中学の時、母から運動部に入れと言われたので入ったバスケ部で
基礎体力のトレーニングの苦しさが、色んな苦しさとリンクしたのだろうが
毎回、訳も分からずリタイアして泣いていた。
あいつはヘタレだと囁かれた。
自信が持てず一度もレギュラーになれなかった。
同部活内の一人に、自分より不幸な人間を見つけたと思われたのか
支配的に底辺として扱われ、いじめられた。
弟に、このことは母には言うなと釘を刺し圧力をかけた。
案の定、母は気づかない。
僕はちゃんと見られていなく知られていなく
母の中の僕は一般論からの類推で構成された。
それへの拒絶を、できるだけ弟には向けずに
拳が壊れるぐらいに物を殴ったりした。
御本尊への信仰と、池田先生の指導に希望を見ることと
子供向けの少林寺拳法の紹介本で読んだ
精神を安定させるための、にわか丹田呼吸法と
派生して自得した自律訓練法に近いものと
一瞥の信仰体験による確信と
マンガかになる夢を追う希望と。
心を充実させるものも多かったので
私は決して、負けてはいなかった。
だが後に、私は完全に敗北することになる。
しかしそれは、敗北することが勝利でもあったのだ。

アルベアさんが教材として提示する
映画『沈黙‐サイレンス‐』

それは何を指し示しているのだろう。

感じる自身の生命現象。

釈尊が経典を作ったのではない。
弟子と自称する人々が経典を作り信仰を作った。

経典が一念三千を作ったのではない。
勝劣解明を自称する人々が一念三千を作り法華経信仰を作った。

一念三千が南無妙法蓮華経を作ったのではない。
慈悲を自称する聖人が南無妙法蓮華経を作った。

南無妙法蓮華経が創価学会を作ったのではない。
三代の会長が理想の世界平和の南無妙法蓮華経信仰を作った。

創価学会が私の信仰を作ったのではない。
私がこの宇宙の・・・

迷いとは何か?
悟りとは何か?

何を開くのか
体感による自然の発露。



[859] 迷いと覚りと救済と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月29日(金)12時12分39秒   通報   返信・引用   編集済

こころの時代~宗教・人生~「生きる意味とは ―ニヒリズムを超えて―」
【出演】島根大学名誉教授…松塚豊茂,【きき手】金光寿郎
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2017-09-24/31/4491/2008285/

<YAHOO!知恵袋>ニヒリズム(虚無主義)をわかりやすく、たとえ話などで説明できますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442251839
~虚無主義とは『物事の意義や目的といったものは存在しない』とする考え方に留まるひとのこと。ここに集う私たちにとってもっともわかりやすい例は、毎日のように飽きることなく繰り返されるあの質問である。すなわち『人生に意味なんてあるのですか?(どうせ無いのに)』という立場のことである。

意義や目的のようなものに対して取りうる態度は三つある。ひとつは絶対主義で、絶対的なものとしてあるという立場。ふたつめは虚無主義で、そんなものは無いとする立場。みっつめは相対主義で、意義や目的はそれぞれの人が見いだすものだとする立場。~

ニヒリズムを越えて松塚氏の話は
念仏を回転軸とした虚無主義の反転。

浅はかな学会脳としては
念仏はただ死後を願うもので
題目は今世において宿命転換をなすものと
そういう決めつけがある。

だが番組を見ると
それがあまりにも固定的な
偏見である面も否めない。

松塚氏は言う
仏法において本来信じるということは
考え方を固定・限定するものでは無く
自由な発想・自由な考えを包摂するものであると。
(趣意)

死んだら終わりで何もなくなり
だから生きることに本質的な意味はない
というニヒリズム(虚無主義)を越えることは

死んだ後に得るものでは無くて
生きている内に確立するものだと。

番組内では無明という言葉は使われなかったと思うが
思考概念の上では無明とはニヒリズム(虚無主義)
とも捉えられる。

学会脳では念仏では無明を越えられず
流されて同一化してしまうようなイメージさえあるが

むしろ、そういう匂いのあるものを
学会員の陳腐なプライドは毛嫌いして蓋をして逃げ回って
今ここに生きていること以外のところに優越感を作り上げる。

それは目をそらし迷い続けることの選択だ。

池田先生の世界の識者との対談が
どれだけ目を背けず開くための闘争であったかということでもある。

今ここに生きていること以外のところに優越感を作り上げるとは
例えば、阪神タイガースが勝った日は酒が美味い
阪神タイガースが負ければ寝つきが悪い。
そんなことは今ここに生きているという事実には
本当には関係の無いことなのだ。
思いと感情と身体の癒着が生み出しているにすぎない。

この癒着を刷り込まれることは
権威・搾取・支配といったものに服従する
土壌になりうる。

公明党が勝った負けた
創価学会が発展した評価された。
そういったことが
そういう次元で利用されていないだろうか。

そうこう見ていくと
では本質的に念仏と題目は何が違うんだと。

伝え方の違い、実践の違い
その本質は何か?

「正しいんだから正しいんだ」では話にならない。
それは信心ではなく
信心に向き合えない逃げである。

教・機・時・国 ・教法流布の先後
その中でも時が大事であると。
思考概念の上ではそうだが
実際の今ここの自身の事でなければ意味が無い。

結局は迷って自らを運ぼうとする。

「 自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、
万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」
(正法眼蔵 現成公案)

邪宗の僧の言葉で片付く言葉ではない。

伝え方の違い、実践の違いの前に
伝えるものの中身、実践するものの中身が無ければ
伝え方も実践の仕方も糞もない。

教団の中心者が表層だけ真似るなんて
民衆をたぶらかす天魔に他ならないのだ。

非二元の現象化が起こるべくもない。

さて
牧口先生、戸田先生、池田先生
それぞれ伝え方の違い、実践の仕方の違いがあるが
(アルベア論の表現では個人の志向性)

このことは、まだ思考概念の範疇だが
生命に変化をもたらす生命の姿勢として

池田先生の「私が来たからもう大丈夫だよ」
という言葉に、私はその片鱗を感じてきた。

先日、非二元の溝口あゆかさんの推奨する
EFTという心理セラピーの技術を習った。

感情の解放から
思考概念の自然な変化を
身体を通してもたらせるものだ。

思考概念の範疇ではあるが
体感に意識を向けることには役立つものであり

体感に意識が向くということは
実際に変化がもたらされるものである。

そのEFTの発展形に
マトリックスインプリンティングというものがあり
私はまだ習ってはいないのだが

興味をもって動画を見るかぎり
「私が来たからもう大丈夫だよ」というワードが
変化させるための最初のワードとして用いられている。

MRセッション事例「犬のトラウマをMRで癒す」
https://www.youtube.com/watch?v=N8dyGj2zw1k
MRセッション事例「2歳のときの孤独感を感じたシーンを癒す」
https://www.youtube.com/watch?v=DPP-z4Gwzxs
MRセッション事例「人前で話すときに声が震える」
https://www.youtube.com/watch?v=vykaho79BqY

どれだけの救済の世界を実際に開くのか。

どれだけ実際に目の前にいる人の蘇生をなせるのか。

どれだけ本当に解放された飛翔をもたらすのか。

<宿坊>人間革命  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74706

ただ迷っているだけのことを考えていると思い込むか
本当にしっかりと道のために向き合って考えるか?

<アルベアのブログ>「八正道」はっしょうどう
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314616977.html
<アルベアのブログ>ブッダは何故「八正道」を説いたのか
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314617051.html
<アルベアのブログ>「正しい事」を自得する方法として「調身・調息・調心」がある
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314922940.html
<アルベアのブログ>「非二元」から見た「調身・調息・調心」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314923008.html

あなた自身のことです。
あなた自身の生命現象なのです。

誰にでも起こるのです。
南無妙法蓮華経。



[858] 理科的謗法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月21日(木)12時02分33秒   通報   返信・引用   編集済

本来、謗法とは何か?
理科的に読み解いていこう。

正法を自分自身の生命現象の体感として

逆の方向性の十四誹謗を分類すると
自身の生命現象に蓋をして取り組まない事
思考概念の物語によって判断すること
感情の作るリアリティに飲まれること。
そういう切り口で見ることも出来るかもしれない。

自身の生命現象に蓋というのは例えば依存症、
もしくは依存とまではいかなくても好きな事。
それをやっている間は
自分自身の生命現象の問題を忘れていられる。
ただあることをただあることとして
それを味わい楽しむのが本来で
問題の本質から目をそらすためにやる時
それは楽しくなくなっても苦しくなっても
やめられない依存症となっていく。
創価学会の組織的に
選挙戦への依存症のような面もあるかもしれない。
理念と反していて苦しくても
本質に蓋をして、やらないではいられない
苦しみを生み広げる身口意のメカニズムに
陥ってしまっている状態。

何かの考えを得て
分かったつもり、解決したつもりになるのも
自身の生命現象に蓋をすることであるが
行為でまぎらわせることと
考え方に固執して蓋をすることを
分けて考えてみよう。
思考概念の物語とは
正法は自分自身の生命現象であるのに
それ自体でなく対象化し分離の壁を作る執着である。
「○○ということにしておく」という枠であり
定義できない不可思議な自身の生命現象に対して
定義して分離・選別して安心を得ようとする。
自分自身の生命現象に対して信頼しないがゆえに
外に言われていることから保証してもらおうという働きでもある。
創価学会の組織的に
「創価学会仏」と呼ぼうというような
「我々こそが正しい」という保障を
自分自身の生命現象の証明ではなく
対象化し用意された枠に入っているかどうかで
判断し安心したいという願望にすがっているかもしれない。
それ以上問題に取り組まなくて良いようにしよう
という逃げ・退転の心である。
「正しいものを信じているから正しい」では
その正しさと定義されるものは、権威と化す。
本当は信心が正しいかどうかというのは
その自分自身の生命現象の体感にしかない。
体感の現象化であって
考え方による判断では無いのだ。
思考概念の世界で生きてきた者にとって
体感は解り辛くすぐ考えに流れてしまいがちであり
アルベア論の実践はそれを教えてくれる。

ちなみにこの投稿は思考概念である。

感情の作るリアリティとは
人それぞれ同じものを見た時にも
そこに感じる現実は違うということだ。
同じ車を見ても
「男のステータス」「便利な乗り物」
「環境の敵」「危険な乗り物」
どう見えるかは人それぞれだ。
それぞれにリアリティがあって
それは交通事故の経験が強烈な者にとっては
「怖い」という感情がくっついて
より強い現実として「危険な乗り物」になる。
つまり、感情・身体の経験・概念の癒着によって
生み出されている現実にすぎないということであり
それぞれの自身の生命現象の問題の解決には
それぞれの経験による感情と概念の癒着の
解放が必要だということになる。
それを巧みにするのが、本来の宗教であり
いかに強固な現実だと思っている不遇も
生命の本質的なメカニズムから解決させるものである。
例えば法主には従わなければならない
会長には従わなければならない
という思い込みを解除するための時と
意図思惑によって最悪な法主だ
悪魔のような党だ、人外の会長だという
レッテルを貼ろうという時に
フレーズ自体は同じようなものになるかもしれない。
現実だと思ってしまっていることの解決のためなのか
感情の押し付けで都合の良い現実を作り上げるためなのか。
言葉尻だけでは、それは分からない。
相互理解の必要性がある。
そういうことを踏まえた上で
簡単に思い込んでしまうのではなくて
思い込ませて解決とするのではなくて
率直な思い、率直な感情、率直な経験を
素直に出していき、
受容と解消、そして新しい漲る生命の誓いのために
そうした時、笑顔の咲き誇る
民衆の対話の連帯が実現するのではないだろうか?

http://



[857] 解放の体感の味わい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月18日(月)23時23分34秒   通報   返信・引用

人はそれぞれ
自分のフィルターを通して
世界を見ている。

その人にとっての世界は
そのフィルターを通しての世界であり

これにリアリティがあるのだから
その人にとってそれが真実で

その真実に合わないものは
真実でない間違った偽物ということになる。

同じもの、同じ真実を見ても
それぞれフィルターを通すがゆえに

別々の見え方をし
相対的な世界を形成する。

頭では分かったとしても
フィルターを通してみた世界だけが
リアルである感覚は強固である。

それは、思考と感情と身体とが
強固に結びついていて
手放さないという執着である。

潜在意識のコアなところから
癒着して積み上がったものが
自分を形成し

真実を見えなくさせている。

無限に多角的であるそのどれもが
相対的な価値でしかなく

そこにただ一つの真実というものは
存在しない。

感情はエネルギーの流れであり
解釈の理由をもって感じることを拒んだとき

その思考と感情と、
拒むというネガティブな身体反応がセットになって留まる。

世間の凡雑な抑圧・ストレスは
感情を味わうことを拒むきっかけを多く与える。

感情の流れが滞りネガティブが溜まると不良不全になる。

つまり、これを改善回復するには
身体にある起こる感情と思考を味わい
エネルギーの流れを良くして解放していくことだ。

抱え込んで溜まっているものを手放していくと
自分自身というものは
エネルギー開放の流れと共に広がっていく。

ついには
自分というものが何も無くて
それでいて無限であって
「気づいている」

そういう方向から確かに

これだったんだというものが顔をのぞかせる。

一瞥体験であり生命体験である。

そこからエネルギーを発し流れさせれば
それに対して解放回復改善の方向を与える。

これが起こることの体感覚知。

方法と、その現象の解釈は何であれ

そういうことは抜きにして
その歓喜の味わいを体感覚知するのだ。

そして二者関係において
それを促していくのである。

あなた自身なのだ。



[856] ニュアンス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月17日(日)06時31分13秒   通報   返信・引用

「法があるからあなたは不自由だ」
「法の下であなたは自由だ」
「あなたが自由だから法が働いている」

そういうニュアンスの違い。

http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-570.html
~夫(そ)れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を・・・・・~

理科的に見るならば

《この世界的な愛(仏性)の実践というものは
「あなたの愛(存在)の自由」を先として

そのそれぞれの枠組み(国や組織)の教育というものは
意図思惑への誘導のプロセスを先としている。

ゆえに、愛(仏性)というものは
「不自由の世界」を「反転した救済」にするものであり

枠組みの中の偉い立場に君臨する者は
あなたはこれに従いなさいと規定するのである。

日本という国は
世界の中で見れば小さな国であるけれども

その存在の意味合いで言えば
どの国よりも重要である。

愛(仏性)の実践は一つ大きな階層の世界で始まったけれども
一つ小さなフラクタルの日本という国に働きとして留まる。

これは階層構造の理科的な天然の帰結なのである。》

また、随他意と随自意を見るならば
https://ameblo.jp/garlicking/entry-11165768742.html

向こうの反応世界にある愛(仏性)では
それは愛(仏性)ではあっても
他人事への恋い焦がれであり

自身に起こっている「思い」「感情感覚」「身体反応」
それ自体が受容して味わえば愛(仏性)であることが
救済者への反転に必要な覚知である。

~~同志への指針~

法華経は、万人の無限の可能性を信じ抜き、開き切っていく、随自意の教えだ。「我が身は即仏なり」「万人が皆仏なり」との大歓喜の表現である。~



[855] 身で読むのは体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月14日(木)11時49分9秒   通報   返信・引用

法華経、或いは仏法というものを
身で読むということは「実感」「体感」であり

「人間革命」「成仏」というものは
「体感による了解」による「探求の終わり」であり
救済者への反転である。

その「生命論」こそが「仏法の本体」である。

どうしたら自分と同じ境涯にできるか、常に心を砕き
その真理への全人格的な格闘によって汲み上げるのが
「法華経の智慧」である。

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧7
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6392
~それは「非ず」という否定形を重ねてしか表現できない何かである。どんな「定義」をしても、そこから、はみ出してしまう面をもつ何かである。しかも、どんなに否定形を重ねても、それでもなお厳然と存在する実在である。
だからといって、それを単に言語表現を超えたものとか、不可思議なもの、空なるものとか言って、仏を超越的なものに祭り上げても、何も分かったことにはならない。戸田先生は「実感」としてつかみたかった。「体得」されたかった。空虚で観念的な理解では、決して満足されなかった。~

~まさに「身」で読もうとされたのです。
法華経では「一切衆生の成仏]を説く。しからば、その仏とはいかなる実在か。成仏とは何か。これは仏教全体の根幹にかかわる問題です。戸田先生は、この根本問題を深く思索され、追究されたのです。~

~「仏とは、生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」~

~「生命」には多様性がある。豊かさ、闊達さがある。それでいて、法則的であり、一定のリズムがある。この「多様性の調和」を教えたのが一念三千です。その一念三千を体得したのが仏だ。
しかも「生命」には開放性がある。外界と交流し、物質やエネルギーや情報をたえず交換する開かれた存在である。それでいながら、自律性を保っているのが生命です。宇宙全体に開かれた開放性、そして調和ある自由、これが生命の特徴である。
仏の広大無辺の境涯とは、生命のこの自由、開放、調和を、最大限に実現した境涯だとも言える。
妙の三義には「開く」義、「円満」の義、「蘇生」の義がありますが、これこそ「生命」の特質です。そして「仏」の特質にほかならない。
ある意味で、仏典はすべて生命論です。天台の仏法は「己心の中に行ずる所の法門を説く(説己心中 所行法門)」(御書 p239)とされ、大聖人は「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(御書 p563)と仰せになった。~

~仏法の目的は、結局、境涯を変えるところにあるのです。
また生命論といっても、学会が独自に始めたものではありません。日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です。これを継承したのが学会てす。
釈尊は、生老病死という人生の苦と対決して、自己の内奥の広大な世界を開いていった。
天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として説明した。
華厳経では、心と仏と衆生は無作別であると説いているが、天台は、これを借りて、心と仏と衆生の三つの次元で法華経の妙法を諭した。「生命」は、これら三つを統一的に表現できる、現代的な言葉でもあります。
そして日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、御義口伝をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。
すなわち、生命論こそが仏法の本体であった。~

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧8
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6395
~真理に対する全人格的な格闘によって、法華経の奥底から汲み上げられたものです。これこそ「法華経の智慧」と言える。
ゆえに、この「生命論」には、知識を与えるだけでなく、発想の転換を促す力がある。そして希望へ、現実の行動へとつながっている。「生きる力」を湧きたたせる「事の哲学」です。~

~「人間革命」とは、成仏の現代的表現です。総体革命とは「広宣流布」です。
それらは、あたかも地球が「自転」しながら太陽の周りを「公転」する姿に似ている。自転によって昼と夜があり、公転によって四季がある。
私たちは、太陽の仏法の光に包まれながら、昼もあれば夜もある ?- 無限向上の人間革命史を綴っている。また冬もあれば春もある ?- 広宣流布の春秋のロマンを奏で、進んでいるのです。
ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」 ?- 戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。~

~本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。
「生命は万人にある」「生命は尊い」。これは、だれ人も否定できません。「仏とは生命なり」との宣言は、何より、仏法の真髄は「自分自身」にこそあることを、はっきりさせたのではないだろうか。~

「普遍の真理」の「現象自体」は、
言葉が付く前の、ただあるものである。
自己機能の本来である。

「独自性」というものは、
言葉によって定義付けされるアイデンティティである。
自我機能による後付けである。

不可思議の「普遍の真理」という「妙」の神秘性と
体感によってフィードバックされる了解(法)を調和させる
貫かれている意識の使い方・向け方(信仰)。
関与でない自身の意識機能が即全体との不二。

アルベア論があって私の論があるのではなく
体感に対する疑問に答え得るものとして
アルベア論との出会いが
選択されていることがただある。

近年の創価学会は普遍の法を謳いながらも
「独立した宗教団体だから関係ない」とか
「宗教的独自性を示せました」とか
自我機能を自我機能で上書きするような方向で
そこに「仏法の本体」である「生命論」の「体感」がなく
自我機能を自我機能で上書きしているにすぎない。

その上書きへの反発は、
多く元の自我機能への執着を先として起こっている。

新たなアイデンティティの確立を阻むものを排除しようとする自我機能と
元のアイデンティティが崩されそうなことへの防衛の自我機能の紛争である。

前者は積み上げてきたものの少なさから権威を表として強制改革をし
後者は今まで積み上げてきたものの正当性を主張する。

前者は未来へのこだわりであり
後者は過去へのこだわりである。

「多様性の調和」を教えた一念三千を体得し
俯瞰した生命論、今ここの視点が本質的な解決に求められる。

一念三千を体得したのが仏なので
それは一人立つ「人間革命」という「成仏」であり
その仏を成(ひら)く事が、信仰の目的であり

体感すべき生命へ意識を向け気づく事である。

<かんながら>神との遭遇の日
http://abetoshiro.jp/archives/3788805.html
<かんながら>かんながら・月光編
http://abetoshiro.jp/archives/2210851.html

<宿坊>無謀なる挑戦1~4  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64703
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64704
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64705
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64706

<創価の森通信>関西創価学会「雨の文化祭」
http://sokafree.exblog.jp/24466799/

何をどう感じるかは、あなた自身の生命現象です。



[854]

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月13日(水)11時32分49秒   通報   返信・引用

例えば、直感的・第六感的に
「あ、これならできる、いける」と思い
アイデアと行動と結果が同時に進んでいくような状態。

前提や理由や始まりが漠然として
ただ自然に至っている受容。

対して、時に些細な友達の言葉
「○○って△△だよね」みたいなものから
自分の中に価値基準が作られ
自分に対する肯定や否定につながるものほど
縛られて囚われていく。

特に、親から子への否定的な言葉というものは
深く傷として刻まれやすい。

言葉によって得た執着の世界で
仮説を立て探求を深め理論を構築する。
方向を知り前進を重ね別の状態になろうとする。

自己機能と自我機能。
それを貫く意識機能。

本来は今ここに生まれた
考えではなく感じる使命、
思い出せば始まりも終わりもなく
ただ自らの歓喜なのだが

理由がいる自我機能の世界に対して
理由付けて優劣を作り上げる。

いくら正しいものを知識として集めても
智慧として働かせられなければ

例えば筋道の違う二つの説き方がある時
相手の立場に立って選び取り
薬として解放に向かわせることが出来ない。

別の状態に恋い焦がれても
自我機能の中にいる限り
それは延々と問題を分離創出するし

無謬の法を求めようとしても
智慧が無ければ
たちどころに悪へも転じる。

事実、多く
正義が人の命を奪ってきたのが人類の歴史だ。

仏の本質が、何に厳しく
何を讃嘆するものなのか。

いづれ行き着く南無妙法蓮華経の日

その時は共に
日蓮大聖人とお会いしましょう。



[853] 幼少期

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月13日(水)02時01分54秒   通報   返信・引用   編集済

小学校低学年までだったと思いますが、
自分は日本に生まれたことが特別のように思ってました。漠然と…

何なんでしょうねぇ
理由がないんです、そして自分は特別な人間だとも思ってましたね(*_*)
思ってると言うより感じてるんです、考えではないんですね、だから理由がないんです。只々そう感じてるんです。

18才位からその感覚が薄らぐと同時に劣等感が湧いてきました。これは理由があります。
簡単にいうと怠けモノなんですね、快楽に流されやすい怠け者。破滅型の人間ってやつです。

それでもこの年で子供三人の五人家族で勤め人をやってるんで破滅型人間からも落ちこぼれましたけど……

落ちこぼれも中途半端で何となく形だけ取り繕う、突き抜けれないんです。

最近はそんな半端野郎な自分を許してしまう、腑抜け野郎に成り下がってますが、いづれ行き着く南無妙法蓮華経の日を楽しみに楽しく暮らしたいと思ってます。

こんな私ですが毎日楽しくやってます(^O^)


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