いまさら やめては だめなのだ

反宿坊板、及びそれに類する掲示板へのリンクはご遠慮ください。 串投稿もご遠慮ください。 他者に対する発言は充分な根拠を示してください。



カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


833件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[491] 私は週刊誌拒絶は極自然だと思いますね

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月27日(水)08時19分18秒   通報   返信・引用

お久しぶりです(^o^)

蘇生さん、時間が空いたときは読ませもらって勉強してます(^o^)

大多数の会員さんは嫌な思いがすると思います。その裏で誰が何のためにやったを考えるより、その策略に惑わされずみんな祈って広宣流布の道を進む。
それで大きな意味があると思います。

犯人探しは、そのエネルギーと情報源が有る方はおおいにやって行くべきですが、やらない会員さんをお花畑だとか組織依存だとか蔑むのは論外です。

写真を投稿している方に、そのような発言が見られるので反感をかうのだと思います。

一人残らず救って行くのが創価学会です。




[490] 厳護朗様

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月27日(水)02時58分6秒   通報   返信・引用

ふーむ、なるほど。

信平狂言訴訟を取り扱うような
週刊誌など学会員が見るものじゃない

という概念作りにも一役買っているようですね。

当時活動家なら
みんな知ってる
最高裁が「訴権の濫用」と断じた前代未聞の“狂言訴訟”

訴訟はコラージュ画像みたいな
出来心の面白半分でできるものじゃない。

まぁ週刊誌の作文は
コラージュ画像レベルだけれど。

このチグハグさ
黒い意思。

例えるならば
~~日蓮大聖人は依智に滞在すること20日余り。その間に鎌倉では放火が7~8度あり、人殺しが耐えなかったのです。幕府では、讒言する者どもが「日蓮の弟子たちが火をつけたのだ」」というので、「そういうこともあるだろう」ということで、大聖人の弟子らを鎌倉に置いてはならないと、その対象者として260人程の名前が列記されました。そして、「その者たちは、皆、遠島へ流すべきである」「牢に入っている弟子たちは頸をはねるべきである」との声が上がりました。しかし「放火」などは、持斎や念仏者の策謀だったのです。まさに『三障・四魔・紛然として競い起る』です(御書P.916)。日蓮大聖人は「日蓮は仏になるための第一の味方は、東条景信であり、法師では良観、道隆(どうりゅう)、道阿弥陀仏であり、また平左衛門尉、北条時宗殿がおいでにならなければ、どうして法華経の行者となれただろうかと喜んでいるのである」と仰せです。~~
http://www.sol.dti.ne.jp/~sasaki-y/a010/b0005/c0031.htmlより

どのような讒言が
どのような意思で
どのように行われたか

また「第一の味方」を明らかにしよう
との検証だと思いますよ。

広宣流布の進退に関わることです。

週刊誌拒絶の囚われからの脱却も含めてね。



[489] 宿板の週刊誌貼り付けについて

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月27日(水)00時02分51秒   通報   返信・引用

こんな例えはどうでしょう・・・。

ご自分の娘さんの裸のコラージュ画像をネットで拡散されていたとしたら・・・。

この裸は娘のではない!

誰の裸体か検証しよう!

あの人ならやりかねないかな(笑)



[488] 宿命転換

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月25日(月)11時10分36秒   通報   返信・引用

人間だけが自身の不完全さに気付く。

気付くから、本来差別の無かったものに
差別を付けていってしまう。

博愛・個別愛・嫉み・憎悪

翻弄されて権力悪とハラスメントの
不幸な連鎖が生まれる。

親子・兄弟・友人・同僚・先生生徒・上司部下・国家国民・国際関係・・・

権力悪と言っても、その本質は社会的地位の中だけにあるものでもない。
あれもハラスメントこれもハラスメントと、実に多く定義されている。
https://kw-note.com/notation/harassment/

本来は信頼すべき
あるいは従うしかないと認識される相手からの
不条理な要求や特質の否定。

期待依存に対する裏切られである。

こういったダブルバインドから逃れるために往々にして
人は搾取へと反転し、新たなダブルバインドを生む。

参照:ダブルバインド 一般webページ2つ+アルベア論
http://mora110.blog.fc2.com/blog-entry-40.html
http://bright-ms.net/?p=1097
「不二」ということ3⇒二重拘束(ダブルバインド)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/335

群衆の中のハラスメントの心理を学ぶ作品の
一例として「少年時代」を挙げておく。
(web上で全部見れるところは見つからなかった)
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20050726

この人類の抜け出せないでいる繰り返しは
制度の充実や物質的裕福や利便性だけでは解決できない。

そしていくら考えても、思考概念でも解決出来ないでいる。

ともすれば抑鬱に沈み
食べ物の味もなく、世界も色を失い
無機質な生活は時に人を死へといざなう。

それを「弱い人間」として
間違いに気づけないまま世界は回る。

時代は必ず、もう一度本当の宗教の心を必要とする。
その心によってしか本当の解決は出来ないのである。

アルベア論に言う「非二元」とは、その心を示している。
宗教の枠に囚われない自然の心として広く捉えている。

ともあれここでは仏法を基調として話を進める。

仏法における気づきとして、
権力悪・ハラスメントの連鎖の本質的な淵源は
誰が悪いというものでもなく
「生老病死」の未解決が問題の本質なんだと
見抜いたことにある。

なかんずく「死」の問題が重要である。

この問題を考えるにはパラドックスが付き纏う。

だから考えても仕方がないと諦めるのか
だからこそ向き合って挑戦し続けるのかが問われる。

命を粗末にしてはいけない、絶対に長生きするべきだ。
反対に、どんなに長く生きようとも中身のない無駄な享楽に
明け暮れるくらいなら命を賭して殉教の精神で戦うべきだ。
というのもある。

凡夫はこれに迷うが
多少なりとも向き合うのであれば、苦しみながらでも
その分だけ価値的に生きられるのではないかと思う。

さてひるがえって仏法を、その中でも小乗より大乗、
大乗の中でも法華経、なかんずく日蓮仏法を見れば
日蓮仏法はこのパラドックスを悠々と楽しむ境涯を
得るための道を指し示しているのである。

日寛上人の臨終の姿等は、まさにそういったことを体現した姿である。
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-155.html

悟りの境涯なのである。

ではどうすればそのような境涯を得ることができるのか。

それはひたぶるな御本尊への信心による唱題行によって
今一瞬の中に永遠があるのだと覚知していくことにある。

永遠なる生命に立脚した絶対的境涯の意識から
諸法に移ろう自我を見つめ直し
どんなパラドックスも悠々と乗り越えていく

つまり

生というも死というも
二にしてしかも二にあらずという
不二を体得するところを絶対的幸福境涯と言うのです。

一面には

負の連鎖を生むネガティブダブルバインドから抜け出し
歓喜の連鎖を生むポジティブダブルバインドへと
生き方を反転させ飛翔を生む方法である。

これを変毒為薬とも宿命転換とも言う。

ポジティブダブルバインドの一例は

「気づいていますか?
あなた自身が南無妙法蓮華経であることを」

という問いになる。

yesと答えればもちろん
自身が南無妙法蓮華経という自覚がある。

これはnoと答えても
気づいていないだけで
自身は南無妙法蓮華経ということになる。

この時点で聞法下種と発心下種が成立するので
本来的にはこれで折伏は完了である。

そう、折伏とは本来、生命の本質の
気づきを促すことなのである。

これは相手への抜苦与楽の行動であり
自身にとっては歓喜の中の大歓喜の生き方なのである。

広宣流布、生命の世紀の実現とは
生命の気づき運動の歓喜の中でしか実現しないのである。



[487] 気づきの力と師弟不二

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月24日(日)02時30分13秒   通報   返信・引用

思考概念が優位である状態の
策略というものは「思い込み」である。

思考概念では及ばないと開いて
ただ「今ここ」に即すことを気づきという。

戸田先生が三十四の非ずを開いた
「仏とは生命なんだ」という気づきは

法華経を思い出すという感覚を呼び
「我、地涌の菩薩なり」という体験を呼び
劇的な創価の復活を実現させる。

気づきというものは気づいてみれば
「ああ、なんだ、そんなことか」というものでもあり
今まで行き詰っていたのが何だったのかと思うほど
フッと軽くなって全てが動き出すものである。

戸田先生のそれは「獄中」であった。

池田先生は戸田先生に師事し
並々ならぬ努力と想いによってその力を発揮していたが

まさかが実現、不滅の金字塔の大阪の戦いにおいて
自得の気づきによる上乗せがされたのではないかと思う。

参照:創価学会 師弟の誓願
https://www.youtube.com/watch?v=V_oVVv6q41w

売れるものは全て売って、病身をおして
常識的には不可能としか思えない壁に立ち向かう。

想像を絶する「億劫の辛労」の中
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」
との気づきに至る。

これは言葉にすれば
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」であるが

文上だけを追っても答にはならない。

題目にせよ御本尊にせよ
それまでも、これ以上ないほどにもちいて来たのだ。

だからこれは、もっと深い、空の体感なのである。

もっと言えば、戸田先生と池田先生の師弟における
「仏とは生命なり」に対する上乗せとしての
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」なのである。

同じく悟った空の体感、委ねるべき仏智の在りかであり

つまりは、この師弟共通の仏智こそ
いわゆる創価学会仏の仏智であり

これに同じく気づいてバージョンアップさせてこそ
師弟不二と言えるのである。

このバージョンアップは
気づき即技化の実践によってなされる。

弟子には弟子の戦い方があるという事でもある。

そしてこの創価学会仏への気づき即技化の
バージョンアップの戦いが、いかに大きな力であるかは
まさかが実現、不滅の金字塔の示すところである。

さてこの創価学会仏は
深く大御本尊様へ結び付いている。

大御本尊を受持しないという事は
よほどの師弟不二の未曽有の戦いで
ミラクルなバージョンアップでもなさない限り

創価学会仏を捨てると言っているようなものだ。

創価学会仏を捨てた創価学会など
そんじょそこいらの宗教に劣る存在となる。

美しい生命尊厳の世紀どころか
醜悪な欲望泥沼の世紀へまっしぐらなのである。



[486] 邪教化とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月23日(土)15時07分20秒   通報   返信・引用

何のことはない
日蓮仏法の肝要は受持即観心であるのに
その受持を蔑ろにしている事による。

もちろん、大御本尊を受持しない
とした事に顕著であるが

その淵源、本質は
生命の真実に対する臆病なのである。

信心とは勇気の異名であり
人間の完成を目指す観心の精進なのである。

人間の完成とは、人間の条件の練磨であり
人間の条件とは六波羅蜜に見られる。

昭和53年2月会長講義「観心本尊抄」③
https://www.youtube.com/watch?v=o3Z1fxF8U2M

この池田先生の講義の中で語られる
誤った宗教において六波羅蜜が
どのように現象化するかという事が

悉く現在の執行部の主導する
創価の中に現れているのである。

これを邪教化と言わずして
何と言うのであろうか?

池田先生が表に出られていた時には
池田先生の勇気(慈悲と哲理)に
よって主導されていたが

昭和54年以来、池田先生を除いては
いかに臆病が蔓延っているかだ。

今こそ、池田先生の弟子ならば
信心の利剣である勇気をもって
臆病の無明を断ち切っていく時である。

深く信心を起こして
自身を見つめなおし
それを磨いていくことが
崩れ得ぬ絶対的幸福境涯への
唯一の道なのである。



[485] 傲慢とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月22日(金)10時26分57秒   通報   返信・引用

華やかな上辺に一喜一憂し
そのためにならどんな
汚い手段をも使うことが

あたかも蓮華の法に叶って
いるかの如き蒙昧こそが傲慢。

創価の三代にわたる死身弘法に
文の上では報恩感謝でも
心が背いていることが

邪教化という謗法の現象化を
起こしているのである。

「心こそ大切なれ」である。

「運が良ければ」
とは、「信心が素直であれば」でもある。

素直に永遠の法に信心していれば
必ずや、一切の希望を見出せぬ
「牢獄(外には敗戦模様と学会の壊滅状態
内には師も弟子も共に獄中、そして師の死)」
のような、絶望のどん底という大功徳を受ける
ことが出来る。

ここで初めて人は、自身の身命と向き合い
その偉大さを知ることになるのだ。

これは生死を超えた覚知であり
生死を超えた大功徳であるので

当世ばかりの表層に一喜一憂するような功徳とは
比べるべくも無いのである。

されば自身の身命との向き合いなくしては
本当の殉教精神も本当の戒壇も成立しない。

この境智に向かうときには人は
例えば自身の余命がわずかと宣告された時のような
まずは拒絶し、次に怒り、信心の取引をし、
それでもどうにもならないことに抑鬱に沈み、
そして静かに受け入れた時、大生命との一体を知る。

あえてこれを拒まないで進む勇気
の異名が信心なのである。

体験による体感・覚知によって
悟ってしまえば

拒絶する必要がない
怒る必要がない
取引の必要も抑鬱に沈む必要もない
常に大宇宙の生命と一体であることを知っているからだ。

これは死をも克服することであり
もはや何が起こってくるとも
恐れるものは何もない。

いまさらやめないことが
歓喜の中の大歓喜になる。

「一心欲見仏 不自惜身命」こそ
南無妙法蓮華経である。

この生き方だけは誰にどう映ろうとも
傲慢などでは決してないのである。

いかなる難があろうとも
だから行くのだ 君と我。



[484] 運が良ければ

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月21日(木)12時00分27秒   通報   返信・引用


戸田先生は「この信心をちゃんとしていて、運が良ければ牢屋に入れる」(趣意)と云われたという。ご自身の獄中での悟達の体験を云われたものである。公会堂での講義の際も、指の間に小さな隙間を作り、「皆さんの功徳がこれくらいだとしたら、私はこの公会堂くらいの功徳をいただいた」とも云われていた。戸田先生のご境涯が伝わってくる逸話である。

私自身を振り返ってみよう。ちゃんと信心しているだろうか。組織活動は褒められたものではないが、座談会の御書講義くらいはしている。唱題は日々2時間、三千万遍、四千万遍を目指して精進に余念は無い。仮にちゃんと信心しているとして、運が良ければどうなるだろう。きっと創価を除名になって大御本尊の元へ帰れることだろう。

少し運が悪かった場合は除名にならず、創価学会の発迹顕本を推進することになるかもしれない。私の認識では現在の創価は邪教化しつつある。大御本尊を受持の対象としないという会長。身延の土産曼荼羅まで大聖人の出世の本懐に含まれるという論を展開する教学部。これらの戯言が許されている創価がまともだとは決して云えない。

しかしながら創価邪教化に気付いている会員はごく稀である。ほとんどの会員は757万票を獲得し、14人もの国会議員を送り出したことに大喜びをしているだけである。そうなると必然的に気付いた者がやらざるを得ないのである。追い出されたら仕方がないが、創価に留まる限りは恩返しをするのがまっとうな人の道であろう。

方法論もそのための戦術も五里霧中である。しかし創価の発迹顕本を残りの人生の我が使命と定めたからには、いまさらやめる訳にはいかない。唱題を続け思索を重ねる中に見えてくるものが必ずあると確信している。御本尊に祈り続けて拓かれない道は無い。三世十方の仏菩薩、梵釈諸天が必ずや道を指し示すであろう。

そしてとっても運が悪かった場合、大金持ちになって幸福な人生を送り、子や孫に見守られながら安らかに息を引き取ることであろう。創価の発迹顕本も成し遂げられず、大御本尊の元へも戻れなかったが、私の使命ではなかったとするしかなかろう。しかしそこまで運が悪いとは思わない。これが最悪でこれ以下は無い。

ここしばらく仕事が忙しく、仕事と唱題以外に余裕が無かったが、先生と創価への恩返しの闘いはこれからも続く。いまさらやめるつもりもなければ、やめる理由もない。ほとんどの会員からは「悪鬼入其身」の姿と映るのであろうか。誰にどう思われようが問題ではない。闘う男の顔をした末法の荒凡夫であり続けるとしよう。

余談だが私の若いころ「レインボーマン」という、子供向けの実写番組があった。その主題歌の三番の歌詞に「いまさら やめては だめなのだ」とある。この三番の歌詞の「愛と勇気」を「御本仏」に、「海」を「難」に置き換えてみると、現在の私を表わしているというのはちょっと傲慢かな。(笑)YOU TUBE はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=IYYE8MdJYXE

http://macska2012.blog.fc2.com/



[483] 観心「の」本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月21日(木)10時23分30秒   通報   返信・引用

日寛上人が「形見と思え」「遺言と思え」と
言い置いたのは、観心本尊抄の題号は
「観心の本尊」と「の」の字を入れて
読むことを言い置いた。

この意義について通説はとやかく
色々あるが

日寛上人以降、その境智に肉薄し
広く宣揚する実践を実行出来たのは
創価の三代にわたる師弟によってしか
成されていない事実を鑑みるに

さらなる意義を模索しようと思う。

これには日寛上人の書写した御本尊には
二乗が書かれていない事の論考と連動している。

従来、御本尊は十界が揃って書かれるものであり
日寛上人以降の最近の法主の書写御本尊にも
十界は揃って書かれているようである。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52151
http://6027.teacup.com/situation/bbs/52155

二乗に結び付くのは「空を見る慧眼」であり
空を覚知することによって
虚空に十界の揃った御本尊が顕れる。
上に貼った蘭夢様の体験は、
まさにそういったことではないかと思う。

「空論」の大切さは戸田先生も池田先生も認識されており
戸田先生の生命論は「空論」を抜きにしてはありえない。

ここで、あれ?ちょっとまって、と思う人もいると思う。
五眼において大切なのは「仏眼」ではなく「慧眼」なのですか?と。

そもそも「仏眼」とは一般的説明で言って
(5) 仏陀の所有している,前記の四眼をすべてそなえた「仏眼 (ぶつげん) 」をさす。
ものであって、四眼と切り離されてはいない。

四眼「即」仏眼
九界「即」仏界
凡夫「即」極

そういうところになる。

さて、「観心本尊」の中心に「の」を見るのは
「空」を見ることに通じる。

字の造りも面白い。
中心から渦を巻いて回転させるような字だ。

「観」とは、自身の見ることの中にある永遠性
であり、生死よりも奥の、全ての生かしている
慈悲の生命現象である。仏眼である。

「心」とは、生命現象から起こるエネルギーの
行動であり、慈悲の生命現象の気付きを伝え
救済していく技である。法眼である。

「の」とは、一切の現れを所有していない
空である。回転・転換の中心に位置し
無作の智慧をもたらす。慧眼である。

「本」とは、教えの書物・台本ストーリー
・手本・根本・本当の真実等に従っていく
生き方である。天眼である。

「尊」とは、苦しみを感じているその肉体が
実のところ偉大な宇宙生命が敬い生かしている
尊極のそのものなのである。肉眼である。

生かし生かされ
教え教えられる

その回転の中心に「の」の字の「空」がある。

「のの字の空」とは、己心の本尊である。

己心の本尊を観るから他心の本尊も見えるし
自他不二も了解されていく。

これを「観心の本尊」と言うのである。



[482] 一生成仏

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月21日(木)03時11分37秒   通報   返信・引用   編集済

一生成仏と言えば広宣流布と並んで
我々が信心をやっている大目的の一つであり
生まれてきた目的であります。

この掲示板において
色々と論考してきていますが
少々の話題の脱線をすることがあっても
それを目指すことはブレないのです。

スーパー摧邪人様やアルベア様を始めとして
多くの同志の言葉を
自身の生命感覚から
さらなる仏法の深淵へ向かうために綴ってきました。

五眼三身なんて誰も深くやらないような法門を
ずいぶん好き勝手言いやがってとお思いかもしれませんし

実際、資料も少なく
好き勝手言ってきたものですが

五眼三身ステップアップの論考などは特に
生命感覚として手ごたえのあるものです。

さて

別にこれを確認してやろうという事では
無かったのですが、事のついでと言っては
言葉が悪いですが、

【音声御書】一生成仏抄という
(日蓮正宗の人が作ってるけど
御書の読み上げだけなので普通に御書)
youtubeを見て「びっくりポン」ですね。
https://www.youtube.com/watch?v=hcOTfL9Yp74

奇しくも図らずも、ここ最近は
一生成仏抄の説明をしていたようなものです。

一生成仏抄(創価教学研究室(赤鬼のブログ))
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52417.html

つまりは
一生成仏抄は五眼三身から導かれたものであり
五眼三身は一生成仏抄の因であり文底である
のではないかと思います。

一生成仏抄は佐前の御書ですが
五眼三身の原理を加味してみると
数々の重書の基礎になっているとも思います。

日蓮大聖人が、五眼三身の重要性を
知っていて説かなかったとすれば
それは意味深ですね。

私の提唱の五重の相対にも絡んできます。

純粋な五眼三身で考えると
アルベア様の言う「枠が外れる」
方向性も十分に持っています。

しかしあるいは
日寛教学にも深く関わりそうです。

五眼三身の論考は続きそうです。



[481] 臆すれば自滅

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月19日(火)09時57分49秒   通報   返信・引用   編集済

~~オカルトとは、目で見たり触れて感じることのできない何かである。
概要
本来は「隠されたもの」という意味であるオカルトは昔から、不可思議なもの、または非倫理的なものにつけられるレッテルである。従来は、現代では科学的であるとされている万有引力なども、見えないものを論じているとしてオカルトのレッテルを貼られていたこともあり、時代によってその意味、対象は異なる。~~
(ニコニコ大百科より抜粋)

日蓮仏法は元より目に見えない不可思議な妙法を
信じるものであり、オカルトというレッテルを恐
れての世俗的な教条主義・組織主義・権威主義・
拝金主義等に流されるならば、既にそこには日蓮
仏法の心は潰えている。

日蓮正宗からの破門後に御観念文が変更される前は
御本尊様を物質としての文字曼荼羅というだけでなく
「久遠元初自受用報身如来の御当体」として
根本尊崇・本有尊形(ほんぬそんぎょう)・
本来尊重(ほんらいそんじゅう)という字義の体裁は
あったわけであるが

教義的支柱を日蓮正宗の権威主義に依存していたため
檀家が独自に御本尊様について講義するなど
恐れ多い謗法になるリスクばかりのことだったろう。

神秘のベールに包まれた
ただただ信じる対象。

破門された時、創価学会には
御本尊様について説明できる人間が皆無だったことが
浮き彫りになったのではないか。

この事に気付かれたら、会員が日蓮正宗に流れる
ということを恐れて、

ただ池田先生の人徳だけを頼り
日顕宗撲滅キャンペーンを張り時間を稼いで
その間に、会員を流出させないという保身優先の
教義改革を画策し

また、頼りにしている池田先生も
体の弱い身の上でありながら御高齢であるため
池田先生が亡くなられた場合
社会的影響力が減り、創価学会存続の危機に
なることを恐れて、各方面への癒着を
強化していったことが考えられる。

54年問題から続く学会首脳陣の「臆病」が
事態を悪化させ続けているのである。

御本尊売込み計画
http://6027.teacup.com/situation/bbs/51785

など、生命の真実からかけ離れた行為である。

臆病風に吹かれて信じ切ることが出来ないならば
自滅しか道は無いのだ。

大御本尊を受持しないという発表前の
2014年9月時点でも、
↓こんな揶揄をされる有様だ。
https://signifie.wordpress.com/2014/09/08/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%81%94%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%EF%BC%9F/

さて
私の生命論から言うならば
当然、南無妙法蓮華経の功徳は本物であるし
日寛本尊に祈って受ける功徳も本物である。

しかし、生命感覚の無い臆病の一部幹部からの
悪しき波及に流されれば、悪道へと堕ちる。

個々人の深く見つめなおした信心が肝要である。

さて

御本尊を不敬にして悲惨な死に方をした人間というのと
強引な折伏や行き過ぎた指導によって自殺した人間では

実際のところ、どちらが多いのだろうね?

何が本当の折伏で
何が本当の謗法(十四誹謗)なのか
見つめなおす必要がある。

http://blog.livedoor.jp/ipsilon/archives/1900216.html
このブログの言葉には
全部が大正解とは言わないまでも
真実が含まれていると思う。

「生かされるまま生きる」なんて
良い言葉ですよ。

「億すれば自滅」とは戸田先生と池田先生の
師弟不二に深く関連する言葉である。

「億すれば自滅」と心に決めて
楽しく朗らかに行きましょう。



[480] 難来るを以て安楽

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月17日(日)10時58分13秒   通報   返信・引用   編集済

「心地観経に曰く
『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』」
(御書231ページ)

これは重書である開目抄下に書かれている
重要な法門です。

見方の一つとしては
結局のところ、「これしかない」と言える。

「今をどう生きるか?」との問いであるからだ。

「今ここ」が重要なのである。

って言うと説教くさいけれども
まぁ、このことだけは説教が必要かもしれない。

と言っても、爾前経的な教えに従うための説教で終わらせず
「法華経の非二元」の「開かれた生命の自得」のための説教
にするつもりである。

こちらとしてはそのつもりだが
後は聞く側の「自得実践不二」によるところとなる。

「開かれた生命の自得」のための説教というのは例の、
「外から教えられたことを信じるな」という説教である。

つまりは、いつものように
「ぷるぷるして奇跡を味わい輝いていこう」って話に最終はなる。

(いつものやつ、難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452

では考えていこう。

まず、何も教えられていない「肉眼」の状態では
複雑な人間社会の中で起こることには
ただただ振り回される。当然だよね。
まして天災になど成す術はない。

次に「因果」を教えられ「善業を積みなさい」
という教えに付き従う時点では「天眼」である。
それがたとえいかに高く深い教えであっても
外からの教えに従う限り、その範囲の縛りを受けている。
気付かない限り、いつまでも苦しい
歴劫修行なのである。
事後・認識後の思い込み・妄想の世界である。
もちろん正しい対処によって回復も見込めるが
根本原因が解決されず、同じことがまた起こる。
現代文明に顕著である。

よって、この先の段階の

まずは自身の自得によって
社会に変革をもたらせるかが
いかに人類の文明にとって
有益であるかを認識すべきである。

気付きは本来、全く特別なことではない。
現代文明の常識が阻害し
人間の特質を押し殺してしまっているために
気付きを無視してしまっているのだ。

池田先生が言われる「全ての目的を人間のために」
というのは、この気付きを促しているのである。

現代文明の悪しき常識から解き放たれる手法は
実は世界に様々に散りばめられている。

この気付きである「慧眼」の連帯が
地球の文明をステップアップさせるのである。

アルベア論にも紹介される
アシュタールも、その一つだろう。

アシュタールが「現在の因」を
どのように捉えているか動画を見てほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=0VfmEP4xyDc

時代の全体性の気付きは、この方向なのである。

次なる「法眼」は「法」と付いているから
一見すれば、それを勉強すれば身に着くように感じるが
そうではない。

むしろ、学ぶとともに
現実のものとして
思い込みではない「法のため」「民衆のため」
つまりは人法一箇に南無する闘いを
やりきること、やり尽すことで
自ずから然る法が体得され、見通せることである。

つまり、知識よりは技なのである。

一人一人が池田先生となって闘い
「法のため」「民衆のため」の技を体得するのである。

「仏眼」は、そういった生命活動そのものへの昇華であり
一切諸法の中心の静寂で明晰な歓喜の中に座すことになるが
人知では知ることの出来ないゆえに、言語の認識後の
思考の中には無い。

ただ認識のすり合わせの確認にかろうじて日蓮仏法がある。
「難来るを以て安楽」(御義口伝)等である。

開目抄 大白蓮華より 先生の講義 第13回 なぜ大難に遭うのか
(創価教学研究室(赤鬼のブログ))
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1794950.html

さて

難の遭い方にもスケールの階層構造がある。

個人で受ける難は、苦しいようだがそれはまだ小さい。

難を受けている集団の先頭に立って苦しんでいる人を護るのは
直接その個人に受けているかに関わらず個人が遭う難より
大きな難に遭っていることである。

御義口伝には
~涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」と云云、
日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。~
とある。

これがどういうことかは
分かる人には分かる。

分からないとお嘆きの方は
「味わうという選択」を読んで下さい。
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/469



[479] 生命感覚から自我機能を俯瞰する

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月16日(土)10時16分35秒   通報   返信・引用

生命感覚から自我機能を俯瞰するとは

今「そこ」で働いている自我機能が
中枢の自己機能に近い問題のことなのか
末端の些細なことに過剰に反応しているのかの
全体を見ることである。

本来、枝葉は変わっても、中心には影響がないが
自我機能が強い人は
「これじゃなきゃダメ」という思いが強く
柔軟に現実に対応することが出来ない。

目の前の現実を否定しても
起こっているものは起こっている。

本来は何が起こっていることも
なるようになっている
自己の生命と不二の
躍動そのものなのである。

日蓮仏法も本来
この躍動する生命の業に振り回されない
九識に立脚し
心のエネルギーを自在に使う技法でもある。

己心のマインドマップの中心を
南無妙法蓮華経にし
全てを自然に振舞う智慧である。

ここに不二の世界が同期し
自然に浄化・蘇生の新陳代謝が活性化するのである。

マインドマップにおいて
思考・概念による思い込み・信じ込みの
自我機能の枝が肥大化していないか

悩み・迷い→その理由→その理由→その理由→その理由
希望・夢→その依存先→願望の思い込みの紐付け→比較成功ライン
壁・苦難→邪魔な存在→その理由→排除方法→その根拠→その依存先

このように
自ら思い込みの中に生きることを増強していないか

そういうことを消しても
自己という存在は消えないし
出会うものには出会うし
出会わないものには出会わない。

マインドマップは上手く使えば
俯瞰の練習になる。

↓参考ページを2つ貼ります。
http://www.almacreations.jp/seminar/mm/about.html
http://www.ashi-tano.jp/?p=3661

おまけ
実際に夢が叶った秘密のマインドマップを公開!潜在意識の書き換え方
https://www.youtube.com/watch?v=HynXRhbgGO0

実際に何でもいいから書いてみて
見返す時に、かえって自我機能にはまり込まないように
俯瞰することを意識してみてください。



[478] 意識とエネルギーと文字曼荼羅本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月14日(木)10時57分34秒   通報   返信・引用

日蓮仏法において
全ての仏(覚者)の悟りの根源の一法を
南無妙法蓮華経と名付け
無始無終であることが説かれている。

法華経が法華経になる前
全ての諸法が概念化される前、現れる前
未だ何も起こっていない始まりにも無くならない

しかも概念化されても現れつくしても
何も欠けることなく
そのまま同じであり続け終わることがない。

そのような不可思議を顕しながらも
決して人間というスケールを蔑ろにするのではなく
むしろ積極的に知的かつ
エネルギー活動的かつ現実の実体として
妙の三義「開く」「円満・具足」「蘇生」
の活動をする生命そのもの
ひいては日蓮大聖人そのものとして
弟子が信行学を通して不二を体得する対鏡として
文字曼荼羅本尊という必然的選択であったに違いない。

そのことを念頭に置いた上で
何を信じているかによることのない
普遍的な意識とエネルギーの世界を探るために
イメージ化されたビジュアルの世界を見ていこう。

エネルギーはたぶん、あまり文章化できないのだ。

ビジュアルを見ていくにあたって
気持ちいい唱題、気功などによってその身に感じることが
正解であり、ビジュアルは
「そんな風に感じる人もいるんだなぁ」と
あれこれ考えずになんとなく見て、
嫌な感じを受けるものは、見なくてよいと思う。

まず単純なエネルギーイメージを二つ





これに飛翔というイメージを加えると



このような感じでしょうか。

あるいは、もう少し意識機能のイメージを
加えると、アルベア論でも紹介された
アレックス・グレイの世界観でしょうか。

(ここから画像貼り付けでなくリンクにします)
http://chaosophia218.tumblr.com/post/122776161897/dmt-the-spirit-molecule-dmt-is-a-molecule

アルベア論(動画あり)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/35
アルベア論(解説)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/41

飛翔は死後にもリンクするイメージかと思います。

逆に、生まれるというイメージを見てみましょう。

http://chaosophia218.tumblr.com/post/122761243427/do-we-plan-our-lives-before-we-are-born-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/143313635517/ernst-haeckel-comparative

そうしていくと
生命・人間・意識・宇宙とは何なんだ。

「人はどこから来てどこへ行くのか」
「この宇宙のエネルギー活動はどうなっているのか」
「人間の意識はどこまで知ることができるのか」

そういう意識機能によって
不思議なエネルギー世界の探求となる。

http://chaosophia218.tumblr.com/post/140042574707/robert-fludd-the-cause-of-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/123019484642/the-greatest-illusion-in-this-world-is-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/127851128787/jakob-b%C3%B6hme-aurora-detail-die-morgenr%C3%B6te-im

http://chaosophia218.tumblr.com/post/146052146857/george-franklin-the-solar-system-1882
http://chaosophia218.tumblr.com/post/141450569942/carl-g-jung-modern-man-in-search-of-a-soul

http://chaosophia218.tumblr.com/post/135706904197/the-infinity-master-creative-symbol-this-symbol
http://chaosophia218.tumblr.com/post/125418822752/megalithic-or-366-geometry-according-to
http://chaosophia218.tumblr.com/post/125085473132/quantum-experiment-shows-time-is-only-an-illusion

http://chaosophia218.tumblr.com/post/144139414387/agnes-giberne-passage-of-the-comet-of-1843-close
http://chaosophia218.tumblr.com/post/124136101507/interdependent-universe-everything-is-connected

http://chaosophia218.tumblr.com/post/135578931982/thomas-jefferson-jackson-see-the-dynamics-of-the

http://chaosophia218.tumblr.com/post/135246809767/athanasius-kircher-sciathericon

http://chaosophia218.tumblr.com/post/134394266662/the-clavis-mystica-en-giro-torte-sol-ciclos-et
http://chaosophia218.tumblr.com/post/134125974887/tower-of-silence-a-tower-of-silence-is-a

このような神秘さが信仰の対象となっていくが
対象化して表現した時

そこに人間の都合がどんどん介入していき
それぞれ違った形が形成されていく。

真実のエネルギーの神秘さ
概念として形骸化
名聞名利の道具

そういった変遷が起こるのである。

http://chaosophia218.tumblr.com/post/130933939357/jacobs-ladder-jacobs-ladder-is-the-colloquial
http://chaosophia218.tumblr.com/post/140136147512/wolfgang-killian-the-alchemical-tree-of-life
http://chaosophia218.tumblr.com/post/142626124987/george-ripley-alchemical-diagram-based-on-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/125923445727/siddhachakra-mahayantra-siddhachakra-is-a-popular

画像は下記のサイトから選んだ。

http://chaosophia218.tumblr.com/

あまり引き込まれすぎずに見るようにしてください。



[477] 物理・仏法・創価三代・アルベア論等の統合論考

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月13日(水)00時05分4秒   通報   返信・引用

まず、前に紹介した戸田先生の悟達を論考したブログ
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-25.html
から

~~ 十一月中旬、元旦から決意した唱題は、すでに二百万遍になろうとしていた。
 そのようなある朝、彼は小窓から射しこむ朝日を浴びて、澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目をあげていた。
 彼は、何を考えていたのだろう。何も考えていなかった。…… あえていうならば、ここ数日、再三読みかえしている法華経の従地涌出品第十五だけが、頭の片隅に残っていた。
 ………
 ―― 是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。一一の菩薩、皆是れ、大衆の唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将(ひき) いたり。況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況や ……

 彼は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。
 夢でもない、幻でもなかった。それは、数秒であったようにも、数分であったようにも、また数時間であったようにも思われた。はじめて知った現実であった。喜悦が全身を走り、―― これは嘘ではない、おれは今ここにいる!と、自分で自分に叫ぼうとした。

 彼は一瞬、茫然となった。両眼からは熱い涙が溢れてならなかった。彼は眼鏡をはずして、タオルで抑えたが、堰を切った涙はとめどもなかった。おののく歓喜に全生命をふるわせていた。
 彼は涙のなかで、「霊山一会、厳然未散」 という言葉を、ありありと身で読んだのである。彼は何を見、何を知ったというのであろう。~~

という部分について考えてみる。

「澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目」
「彼は、何を考えていたのだろう。何も考えていなかった。」

ここに思考概念を離れた純粋な「行」の姿勢が見える。

そして経文の上ではない自身の体験として虚空会を
その身で読んだのである。

言い換えると、生命の不思議な構造に気付いた
ということなのだ。

虚空とは何か?
アルベア論に紹介された頭がない方法から

「虚空に足を踏み入れ、」を見てみよう
https://www.youtube.com/watch?v=rajrobiiAfs

意識機能を「虚空」に置くと
開かれた世界のための受容能力となり
明晰さだけになる。

この開かれた受容能力により
自己認識がスケールごとの法の範囲となる。

Powers of Ten (パワーズ・オブ・テン) 日本語字幕
https://www.youtube.com/watch?v=dXat7KJfauw

これは1977年までの科学で解明された範囲のスケールである。

頭がない方法で言われる階層
https://www.youtube.com/watch?v=f2eF52V6yIs
が視覚的に分かりやすいのではないかと思う。

この見方は、まるまる物理に変換される。

宇宙白熱教室の第一回と第二回をリンクする。
(第一回は10の28乗から-28乗の世界まで
語られているが画質が劣る)
http://www.dailymotion.com/video/x2twut2
https://www.youtube.com/watch?v=QizmLY8G0OQ

いろいろ述べたいところはあるが
第二回において

「牛」を仮に「球」だとして考える方法が紹介される。
次に「太陽」を「球」だとして考える方法が紹介されたとき

ホワイトボードに書かれた「まる」に対して
受講者から「それは牛です」という意見が出る。

「そうだね」と流されるわけであるが

対象を「球の数式」としてとらえた時
それは「牛」も「太陽」も違わないという
物理学の非二元とも言える。

このようなシンプルな捉え方によって
深淵へと向かっていくのである。

この挑戦には自ずから強い信念が必要ともなる。

思考によらない振動や周波数の純粋な「行」をきっかけとし
意識を自我機能から外した開かれた明晰の中で
向き合っている事のシンプルな体感から
無分別の一法へ帰し命(もとづ)く

このように考えていくと
伝統・しきたり・あるいは新解釈・資金や人員
そういったものも組織運営には必要で
実質、世界に運動を広げ世界平和を実現するためには
不可欠な部分もあるであろうが

その根底には
「いずれ科学が証明」する部分である
「悟り」について
より深い選択をし生命感覚の人を増やしていかなければ
かえって世界平和を遅らせたり破壊することにしか
ならないとの断言に至るのである。

もう少し良いですかね?

前々回紹介した「NHKスペシャル 神の数式」で
究極の、宇宙の全てを説明できるための数式を導くためには

ブラックホールの中心を解明することが大きな意味を成す
と考えられている。

宇宙の始まりの瞬間と
行きつく一つの終わりであるブラックホールの中心が
数式上同じであるからだ。

物理学者は、始まりと終わりを解き明かすことが
全てを解き明かすことであると信じているのだ。

幾度か私は
「何と何が同じか考えるんだ」ということを言っているが
もちろんそれは自己と対象でもあるが
究極的には始まりと終わりになっていくのである。

そして始まりも終わりもない「同じ」に至ったところが
無分別の一法なのだ。

方便品には
「仏と仏」だけがよく知っている諸法実相が説かれ
本門の虚空会では
「釈迦と多宝」を中心に荘厳なドラマが繰り広げられる。

「同じ」や「反転」や「階層」を了解していくと
これが生命そのものであると了解されていくのである。

戸田先生と池田先生は
この同じ立脚点に至った。

それが師弟不二である。

次はあなただ。
まずは「法華経の智慧」をどこまで深く
生命感覚で読めるかである。



[476] 南無する祈りと場の反転

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月10日(日)10時02分48秒   通報   返信・引用

すでに従来の思考概念での教学の話ではなくなっている。
創価の組織内の個々の感覚でも、難しい質問等には
「題目や御書は教えられて分かるものではなく
自らによって悟っていくものだ」という
真実でありながらも無責任な伝承が一部あるようだ。

個人に留めるから創価学会総体として技化がなされない。
体験談を聞いてその場では奮起してもそれきりになる。

本来であるならば、これらの体感・体験を体系化して技化しなければならない。
戸田先生は実験証明と言われたが、実験証明は踏まえて発展しなければ
ただの自己満足で終わってしまい社会貢献に昇華されない。

非二元を解って読めば、池田先生の「法華経の智慧」には
(非二元的に既に池田先生という別の個ではないという読み方をすれば)
「世界の平和を、世界の非二元の連帯によって実現しなさい」と読める部分がある。
真の世界平和は、それによってしか成し得ない。
非二元の人間を育てるのが真の教育であり
非二元の喜びを分かち合うのが真の文化である。

非二元は思考・概念ではない体感・覚知である。
体感・覚知の技を体系化して伝承するのが、本来組織がやらなければならないことである。
「世界平和の技が習得・練磨される場」なら「世界」は応援を惜しまない。

ところが、だ!
体験発表の内容から組織の都合のものを褒めるように修正され
あらゆる伝達情報は組織の都合で編纂される。
世界平和はただのパフォーマンス(←気付けない)で
組織の都合(権威・金・保身)を尊ぶのが文化で
文句を言わないロボットを作るのが教育となっている。

思考・概念の自己都合によって成されることの全ては
結局のところ、いかに愚かしいかだ。愚考なのだ。

前回「NHKスペシャル 神の数式」を紹介したが
その中に自発的対称性の破れという理論がある。

完全な法則から不完全な現実が生じることによってしか
世界は存在していない。

「御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、
人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経
に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰す
るなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは
南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、
又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二
なるを一極と云うなり」

完全な「迹門不変真如の理」から
不完全に見える「本門随縁真如の智」として
起こっているありのままが無作三身であり
他ではない「我等」の色心不二を悟ったときの
真実が南無妙法蓮華経なのである。

現れ得ていない「完全な法」に帰すると
思考・概念で考えれば何もなくなってしまうようであるが
そうであってそうでないのが「空」であり
思考・概念の囚われが消えると
ありありと体感されるのが三身である。

消したら現れた。これが「南無」であり「反転」である。

光を消したら暗闇が現れた。
雑音を消したら静寂が現れた。
別々のものの一切を消したら非二元が現れた。

御書には繰り返し、別々だと思ったら利益は無いと説かれている。

「我の場」を仮に赤血球だとすると血管の中を進んでいる「我」になる。
「我の場」を仮に酸素だとすると肺という場所で乗り込み
適切な細胞に着いたら降りる「我」になる。

これは自分の意思でそれをしている「我」という思い込みを消しても
その働きには影響しない思い込みで反転が可能だということだ。

実際には何を「我」だと思い込んでいるのかというと
「自分は自分だ」と思い込んでいるのである。

これも反転が可能なのだが、いかんせん癒着がひどく
相応の技が必要となるのである。

日蓮大聖人が示したことのメインは唱題行であるが
御書の中で「とにかく」題目を唱えるしかない
といった印象を受けるのは、思考によることのない
純粋な「行」としての技の習得を促しているのである。

唱題行は一面にはアルベア論の
「聖なる周波数528Hz」の体感の獲得であるようだ。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/628

創価学会の中で「何が功徳を消している」のか
一人でも多くの人に気付いてもらいたい。



[475] 階層構造

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 8日(金)09時12分49秒   通報   返信・引用

素粒子<原子<分子<混合物質<細胞内の組織<細胞<人体の組織<部位<
人間個人<
人びと<町<都道府県<国<地球<惑星たち<太陽に同化した太陽系<
天の川の中の一角<天の川銀河<銀河団<超銀河団<大規模構造<
観測限界<それぞれの観測限界それぞれの法則を持つ宇宙たち・・・

ただし観測限界を超えていることは、一切の影響をしあわない事であり
この世界には実際に存在していないただの概念であるという事でもある。

これは距離による階層で遠くを見れば遠くを見るほど過去であるが
距離ゼロと観測限界の向こうは、通常の時間概念は消える。
時間概念が消えるという事は、通常の連続した空間から消えている。

それぞれのスケールにおいて
それぞれのひとまとまりの慣性系である。
一つの方向性を持った一つの法の塊である。

重力が大きければ大きいほど時間はゆっくり進む。
光速に近ければ近いほど時間はゆっくり進む。
絶対零度に近ければ近いほど時間はゆっくり進む。
質量がゼロに近ければ近いほど時間はゆっくり進む。

(専門家ではないので間違いはあるかも)

量子の階層では観測されるまで可能性が同時に存在している。

法の階層を見てみよう。

無分別の一法>全体性の業のまとまり>全体の素の生命現象>
解釈伝達の仏法>王法>世法>家庭内ルール等>個人ルール>
技の習得やアレルギーや持病(肉体の法)>遺伝的情報>微細な毒素等>
個別の生命現象>過去の個別の業因>無分別の一法

法で見る階層性である。こうしてみると距離という分離は消えて
「今ここ」の範囲の認識になる。

物事を立体的に見るためには
適正な距離の二点以上の同一機能によって観測し
その中心の、本来何もない「空」に像を重ねる。

これが、そのスケールに対する
「見ること」という意識機能である。

複数の自己機能の集合の統合の認識が
意識機能なのである。
ゆえに、偏った見識でなく
俯瞰しなければ物事を立体的には捉えられない。

強い自我はそれを阻害する盲目の働きとなる。

普段、身近な物体を見る時には
右目という自己機能と
左目という自己機能を
統合する意識機能が
それを立体的に見ているのである。

この、特に意識することのない意識に
慣れすぎてしまっているために
それだけが意識だと思い込んでいるのである。

ともあれ、それぞれのスケールに合った
観測の統合による
意識機能によって標準が編纂され
ストーリーや概念として伝達される。

その標準の中の一つが解釈伝達の仏法である。
それぞれの意識は標準との比較によっても
物事を立体的に捉えることが可能となるのである。

これは目的の実現化への道しるべである。

地図や羅針盤であって、実際の実現化には
技化された行動が必要となる。

何を技化するのかと言えば
エネルギーの階層構造に主体的に関与する技である。

エネルギーは生命活動を起こし現しているものである。

宇宙エネルギー>銀河エネルギー>太陽エネルギー>
地球エネルギー>種のエネルギー>個別社会エネルギー>
個人エネルギー>化学反応エネルギー>原子エネルギー・・・

文章を追っても答はない。
そこにいるあなたに起こっていることを見なければならない。
概念ではない実際なのだ。
その実際の方が正解である。
この文章は、一つの道しるべであり
あなたの実際に合わないのであれば
この道しるべの方が間違っているのである。

とはいえ、何かしら技を身につけなければ
その実際も分かり得ない。

今までの常識という概念に縛られすぎているからだ。
概念は実際ではないという事だけは体感しなければ
始まらないのである。

技については
難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452

余談

物理に興味がある方は
NHKスペシャル 神の数式がオススメ
https://www.youtube.com/watch?v=9J8g7Mqlgw0&list=PLB1zV0xlLrkydN7aq6UiwA69o2lLyfKlw



[474] Re:闘っている男の顔

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 6日(水)08時49分39秒   通報   返信・引用

「闘っている男の顔」のエピソードから
私が真っ先に連想したのは
池田先生とローザ・パークス女史との出会いです。

会ってすぐに分かった。
この人は私と同じだ。

というような書き方がされていたように思います。

共通点を探ってみます。

●まず、闘う前提に「強いコンプレックス」の存在があると思います。

小林節教授
生まれつき左手の指が無い

ローザ・パークス女史
差別を受けている黒人である

池田先生
「戦争の悲惨さを痛感し、国家神道ひいては宗教というものにノーという姿勢であった」が
「戸田先生に心酔し自分がその宗教に身を置くこととなる」。病弱の身でもあった。

スーパー摧邪人様
大御本尊への信を持ちながら、お目通りできない状況が続き、ついに教義からも消される。

●闘いは、魂からの叫びを行動に移したら、気付いたら先頭に立っていた。という感じがあります。

小林節教授
宗教法人法改悪に立ち向かったら気付いたら自分しかいなかった。

ローザ・パークス女史
公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み逮捕されて公民権運動の引き金となった。

池田先生
戸田先生が求めているのはこうなんだと示していったら先頭に立っていた。

スーパー摧邪人様
破邪顕正之書を作成。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=5256

●先頭に立っても臆さない。やめない。

小林節教授
国民怒りの声を設立し権力の暴走に歯止めをかける。

ローザ・パークス女史
「公民権運動の母」として活動。

池田先生
平和・文化・教育の理想の実現に世界を翔ける。

スーパー摧邪人様
「いまさら やめては だめなのだ」を設立。
女性会長、創価・宗門の発迹顕本にも言及し執行部の暴走に歯止めの運動。

●方向性としては、決して自分のためだけでない「法のため」「民衆のため」の行動である。

小林節教授
人権の尊重される自由な日本のため。

ローザ・パークス女史
人権の尊重される本当の平等のアメリカのため。

池田先生
数百年先を見据えた、本当の自由と平等、平和・文化・教育のため。

スーパー摧邪人様
日蓮大聖人の正統、戸田先生の明言された法のため。

闘っているか闘っていないかで言えば
間違いなくスーパー摧邪人様は闘っていますよ。
顔に現れるかどうかは自己機能なんで
「論」はともかくとしても
ぷるぷる運動ぐらいは健康法的に
やってみるのも良いものですよ。

戸田先生も自分の卑屈を直すのは苦労したと語られていたと思いますので
ぷるぷる運動で何か変わるならめっけもんです。

病院で治るものは病院で治せばいい
気功で治るものは気功で治せばいい

やることをやって、それでもどうにもならない時こそ
信心の出番です。



[473] 闘っている男の顔

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月 5日(火)16時20分21秒   通報   返信・引用

小林節教授が横浜の集会で披露してくださった「闘っている男の顔」のエピソードが、最近気になっている。(エピソードの詳細は下記リンク先)

http://6027.teacup.com/situation/bbs/48655

創価学会の発迹顕本を今生の我が使命と定め、仕事に唱題に挑戦し続けているが、果たしてこれで本当に闘っていることになるのだろうか。私は闘っている男の顔をしているのだろうか。先生は現在の私を見て、闘っている男の顔をしていると云って下さるであろうか。

昭和54年当時、北条副会長は先生をお護りしようと必死に闘っていたと聞き及ぶ。しかしそれは、先生の目にはそうは映らなかった。正木元理事長が男子部長時代、必死に闘い疲労で倒れんばかりの時も、先生からは、それは流れに乗って動いているに過ぎないと、厳しく指導されたと聞く。

これらの話を聞けば私の今の闘いなど、児戯に過ぎないと思われてくるのである。2003年から2007年にかけて日々一万遍唱題を続けていた時は、文字通り止暇断眠の日々であった。酒も煙草も断ち、睡眠時間を得るために夕食は毎晩、サンドイッチを腹に詰め込むだけの5分間のみ。そんな生活を4年以上続けていた。

この日々と比べても今の生活は余裕があり、毎晩一時間、晩酌しながらテレビを見ている。かつての4年間はそんな暇はなかった。先生から「これからが勝負」という伝言をいただき、今を来るべき闘いのための修行時代と定めたのではあるが、現在の私の生活が先生の目にはどのように映るのであろうか。

他人の目を気にしてもしょうがないと云うが、先生の目は他人の目ではない。自身の内奥の目である。我が内証である仏性の眼ともいえよう。現在の自身の生活がその眼に晒されていると思えば、自然と背筋が伸びてくる。これでいいのかという自問の中に、次への挑戦の萌芽が存在することは論を待つまい。

上記には私の自信の無さがよく表れている。これは私の傾向性であり、云い替えれば宿命ともいえよう。この書をものすることにより、この宿命に挑戦しているとも云えるのかもしれない。表面上には現れない生命の傾向性としての宿命転換を、なしつつあるというのは思い上がりであろうか。

あちこちと話が飛んで、とっ散らかった文章になってしまい、読まれる方には申し訳なく思うが、残念ながら今の私ではこれ以上まとめることができない。私の現状を知っていただこうと書き始めたものだが、余計に解らなくなったとお叱りを受けそうだ。しかしそれも含めて現在の私だと思っていただければ幸甚と思う。

毎朝の洗面の際、鏡に映る自分の顔を見て、先生に「闘っている男の顔をしているね」と云っていただけるよう、今日も一日がんばろうと決意を新たにしている。かつて創価学園の卒業式の日に、たまたま玄関ロビーで先生にお会いできた際、「スラっとした好青年だね」と云っていただいた時のように。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[472] Re:Re: 非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 5日(火)08時56分28秒   通報   返信・引用

たびたび見ていただけること。
書いていただけること。
大変にありがたいことです。

おっと、私の掲示板ではありませんでした。

祈り続け、挑戦し続ける管理人
スーパー摧邪人様に出会えるのは
「いまさら やめては だめなのだ」だけ。
先生に応援のメッセージを
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/464

さて
「泥のついた一万円札」
尾崎豊に思いをはせて
狭い範囲の個人の都合である
甘酸っぱい恋の思い出に浸っているところに

泥のついた一万円札を見せられて
やっと育ててもらった家族の恩を思い出す。

えてして人間というものは
見せつけられて初めて気付く。

「現金な存在」ですね。

目の前にあるのは一万円の価値の一万円札ですが
ついている泥は円の価値に置き換えられない
戻ってこない日々への感謝の投影なんですね。

思い出を持っているその人
またはその思い出に共感した人にしか
見いだせない価値です。

戻ってこない思い出となった段になって
つまり、失って初めて気付く。

人間とはそういうものです。

非二元というのは逆説的に
今すべてを失えば
今すべてに感謝できるという事でもある。

普段、普通は自分の肉体は自分が所有していると
思って生活している。

だけど「見ていること」の中心の意識を
よくよく観察してみると
それは肉体を所有していない。

何一つ所有しておらず、全てを失っている。
観察と投影以外の事は初めから何も起こっていないのだ。

外の世界を見るとき、人の姿を中心に見、人の考え方を中心に見るから
自分に、「人としての常識を持っている人」を投影しているのである。

この人という投影を忘れた上で
純粋な「見ること」という機能においては
何か対象を見るとき、自分はそれと同じスケールなのだ。
それがそのまま投影だからである。

この「見ること」という意識の投影は
本来、極小ともなり極大ともなるのである。

ただ、普段人間というスケールを投影して生きていて
そのスケールだけで十分に生活できていると
思い込んでいるので、適応して他のスケールを
カットして忘れてしまっているのである。

そしてこの本来は透明で空っぽな「見ること」自体を見るとき
全てを創造しているエネルギーの発見となるのである。

厳護朗様の持ってくるものは
時々、破格のものですね。

ありがとうございます。



[471] Re: 非二元

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月 4日(月)23時27分55秒   通報   返信・引用

> さて、例えば
> 私の財布に入っている千円札も
> あなたの財布に入っている千円札も
> 同じ千円の価値です。


飛翔こそ蘇生さん、ご無沙汰しております。

ふと思い出してしまったので少しだけ・・・。

「北の国から」の一場面。
純が渡された一万円札2枚。
それには泥がついていた。

超有名な場面である。

知っている人も、知らない人も
「泥のついた一万円札」
でググってみてください。

特に何が言いたいってことではありません(笑)



[470] 信仰の認識化前の尊厳

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 4日(月)19時34分39秒   通報   返信・引用

人の命を知らないで
どうやってそれを輝かせるだろう。

大切なものを知らない
心無い世界が全ての希望を奪った。

全ての光を失った真っ暗な世界で・・・

小さな光にも気付いた。

激流に押し流されながらも
光を通さない黒い粘土に押しつぶされながらも

境界面に達する
その時まで

最後のたった一文字までも。

もう何も持つことの出来ない彼らに
信仰と言ってもこんな押し付けられた概念を
さらに押し付ける事など何の役に立つだろう。

眼前にある慟哭は
ただただ生命の嘆きが
何を求めるのかの真実だけを映していた。

ここにそろった苦しみは
ここに光があることを教えてくれた。

苦しみを知っているから
もう一度人生は輝くのだ。

誰も押し付ける権利などない。
自己自身こそが世界を反転させる光なのだ。

そんな気付きの光明の日々も
いつしか過ぎ去り

まだ不完全であることを
補う生命の洞察をしていた。

あるときあまりにも眩しく輝く光を見つけた。

この輝きは何なのか
辿り理由を見つけた。

重い病に

絶対負けない
だから皆も負けるな、と。

励まし続ける一人の姿があった。

疑ったことで一番大切な人の命を失ったことがある。
だからもう騙されても最後まで人を信じる、と。

励まし、同苦し、信じ抜くその姿は
生命を完全に輝かせている姿であった。

君が生きている今日は
世界の明日の希望。

君の光を僕も運ぶよ。



[469] 味わうという選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 4日(月)03時24分54秒   通報   返信・引用

人間は賢い生き物であるとは
誰が決めたのであろう。

この定義による挑戦によって
数々の発見もされてきたのであろうが

数々の間違いもあったのではないだろうか。

特に「分からないことの大切さ」を
置き去りにしてしまっているのではないだろうか。

私の書いてきた事には
それは分からないんだという内容も含まれている。

分からないのだから分からなくて正解である。

古来、法華経というものは
その美しいストーリーと音律によって
民衆に愛されてきた半面

仏教学的に読もうとすると
難しくて何が言いたいのか分からないと
嫌われてもきた。

自分を賢いと思っているから
分からないことが許せない。

そして、その対象である
法華経を憎む。

無限地獄の業である。

そもそも、法華経の最重要の
寿量品のテーマである如来の寿命は

認識する側には分からないのである。

認識する側の九界の最高位の
不退転の菩薩の智慧でも

仏の智慧だけは
どれほど深いところから来ているのか
思考で推し量ることが出来ないと説かれているのだ。

つまり、仏法を学び実践し
何があっても退かない決意をし
考え抜いた上で「分からない」が
法華経の正解なのである。

「分からない」と言語化される前の
分からない感覚。

この感覚の中にはまだ自分が無い。

この感覚を受けて「分からない」と
認識したところから自分がある。

「分からないと」認識して
多くの人は
「自分は頭が悪いからだ」
「勉強が足りていないからだ」
そして
「遊んでばかりいたからだ」
「親がしっかりしていなかったからだ」
「もともと頭の悪い家系なんだ」
等々、ストーリーを延々と追う事しか出来なかったり

あるいは
「もともとでたらめで真理なんか含まれていない」
「自分には自分の信念があるからそれはいらない」
等々、我見に閉じこもってはねのけたりする。

でも本来、思惟できないと説かれているものを
素直に信じるならば

ああ、これが「思惟できない」「分からない」って
感覚なんだなぁ、と、ただ味わえば良いのである。

分からないってことを分からせてくれるこの自己機能ってすごい!
こんなにも分からないを味わえる自分ってなんてすごいんだろう!

そういう発見が気付きでもある。

この法華経の言語化前の分からない感覚、
法華経の非二元の感覚を体感しておけば
どこで法華経の非二元の力が働いているかのレーダーになるのだ。

そしてそこに意識を合わせれば
その大きさや方向性に影響を与えることが出来る。

それはもう魂の不可能の克服でもある。
奇跡の一瞬一瞬を生きるという事だ。

「分からない」ということは
大切ですごいことなのである。



[468] 自然に仏界にいたるべし

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 3日(日)10時08分7秒   通報   返信・引用

私が、かつて法華経の智慧を読んだ時
一番驚き、そしてワクワクしたのは
妙音菩薩のその大きさである。

身長、四万二千由旬
宝塔の八十四倍
地球の二十四倍ぐらいの大きさ
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8779

私は法華経の智慧を目を輝かせて読んでいた。

法華経の智慧を笑って読めるのは
君ぐらいのものだよ、なんて言われた。

それはともかく
戸田先生の悟達を中心に
論考されているブログの記事を見つけた。
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-25.html

いろいろあるが最終的に
「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書234P)
とは、法華経の非二元に立てば自然に仏界が開かれる
という事である。


さて

「今日は空に海があります」



私が言ったらどうだろう?

もし
「あなたに一万円あげます」
と言って千円札を渡したらどうだろう?

「あなたはおかしなことを言っている」
「九千円足りないじゃないか」
等々

「言葉として現れた現実」と「思い込んでいる思考」との違いに
自我機能が拒絶反応を示し、現れたものを素直に味わえない
のではないだろうか。

それが疑う心であり、その反対が信心である。
信じるべきは「人間の思惑」のない
全てを起こしているそのままの「久遠の法」なのである。

何が見え、何が聞こえ、何を感じたとしても
そのままちゃんと全て現れているのである。

信心をしていて
「何でこんなことが起こるんだ」
というのは思惑に囚われているためであり

その思惑を外すための現実として
「こんなこと」が起きているのである。

だからただ気付けばよいのである。

「大地はささばはづるるとも
虚空をつなぐ者はありとも・
潮のみちひぬ事はありとも
日は西より出づるとも・
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」
(祈祷抄P1351)

分かるだろうか?
これは非二元から読めば
「絶対に祈りは叶う」という「思い込み」ではなく
「すでに全て叶っていること」の
「確認の基準」でもあるのだ。

本当の祈りとは本来
思考や思惑による作為を離れて
意識機能による法との融合にあるのである。

無分別の一法との境智冥合が完全であれば

否、全ての存在は境智冥合が完全であるので
全ては「なるようになっている」のである。

それをどれぐらい輝かせるかの
挑戦への飛翔なのである。



[467] 非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 2日(土)00時44分32秒   通報   返信・引用

隣の芝生は青いなんて言いますけれども

さて、例えば
私の財布に入っている千円札も
あなたの財布に入っている千円札も
同じ千円の価値です。

交換してみても価値は変わりません。
交換したら自分が自分でなくなる
なんてことは無いのです。

さてさて
もし道に、これ見よがしに千円札が落ちていて
それが実は偽札だったとします。

これには千円の価値はありません。

これは本物か偽物か
自分で観察して見破るのも

他人に、それは偽札だよ
と教えてもらうのも

偽札が見破られたという事実があるだけで
価値は変わりません。

「自分で見破りたかったのに」なんて
言ってみても、
自分でやったところで
価値がないものは価値がないのです。

さて、給料日に給料をもらいます。
これは仕事の対価ですが
仕事をしたのは過去や見込みであり
その瞬間はお金をもらったという事実があるだけです。

仮に会社の経営が悪化して給料が出ず
資産家の親せきが不憫に思って
もらえるはずだった同額のお金をくれたとします。

この場合は仕事の対価ではなく
ただの気まぐれな同情です。

それでも、お金に変わりはありません。

人間にできることは、せいぜい認識することです。
「なんで千円札なんだ」と思ってみても
一万円札にはなりません。

不幸を感じようが幸福を感じようが
世界はありのままにあるだけです。

人は何かを変えたい変わりたいと思って
思索や行動をする時に
「あーでもないこーでもない」と
思考錯誤、創意工夫、四苦八苦するわけですが

他の人から「そーじゃないよ」と言われると
時としてカチンときてしまうわけですが

事実だけを見れば
自分の「これじゃない」も他人からの「それじゃない」も
一つの努力に対する多角的視点の一つなのです。

このように認識に対して自分を介入させても
感じ方が変わるだけで事実は変わりません。

これは対象物を出発点としても
何も変えられないという事です。

出発点として何かを変えられるのは
対象化される前のありのままの法を出発点とした時です。

これが久遠なのです。
久遠はいつでもどこにでもあるという事です。

そこにはまだ自分が存在していない
一切が無分別の領域なのです。

自覚できるとも自覚できずとも
一人残らず本来ありのままに
久遠の凡夫なのです。

本来のありのままなので
これを無作と言うのです。

そういうわけなので
単なる気の持ちようなんて話ではないばかりか
唯一の事実を変革できる方法なのです。

だから非二元が空想なのではなく
認識後の世界に対してする人間の思考の方が空想なのです。

これは本質論なのです。
この本質から再度認識を改めていくのです。

例えば
なぜ恥ずかしい感情の捉え方を変えると楽に幸せになるのか
http://kokoo.jp/feel-ashamed
嫉妬を解消し理想の状態を手にする方法
http://kokoo.jp/jealously

このような文章も
どれぐらいそれに向き合うかという事でもあるのです。



[466] 五眼三身ステップアップ その7

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月30日(木)10時18分10秒   通報   返信・引用   編集済

苦しい・辛い。

人々は往々にして
立ち向かうか逃げるか諦めるか
しかない中で

立ち向かうのが正義
逃げるのは悪
諦めるのは負け
と思い込む。

立ち向かい個人の怒りを外に向ければ
断絶の働きとなり悲しみが生まれる。
今までどれぐらい
正義のための戦いで悲しみが生まれたのだろう。

正義とは幸福の世界を広げるはずなのに
不幸の世界ばかりが広がっていくのである。

正義正義と声高に叫んでみても
かえって悪ともなる。

かといって
悪を見ておいてこれと戦わないのは
悪と同じである
というのも真理である。

その悪と戦う正義において
悪とはならない正義になるためには何が必要なのか?

「苦しい・辛い」への
向き合い方の転換が必要なのである。

十界は互具である。
この身は九界にして「末法の荒凡夫」である。

「苦しい・辛い」は本質的になくならないのだ。
何をしても形を変えて現れるだけである。

九界の「末法の荒凡夫」として現れきることだ。

苦しみ(地獄)を苦しみとして受け入れ味わい
これを慈しみ(菩薩)心の豊かな人生を楽しむ。

九界が「今ここ」に同時に存在しているのである。

そうすれば、九界として現れさせてくれている
この世界はことごとく慈悲であり
寂光土(仏界)となるのである。

ここに十界がそろうのである。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽
にあらずや」(四条金吾殿御返事、1143ページ)である。

この十法界を心として戦うとき
悪とはならない正義の在り方を実現できるのである。

この世界のありのままを味わい尽くすことで
地獄即寂光も生死即涅槃も自然のうちに解っていく。

ありのままなので全ては道理である。

これが仏法なのである。

上野殿後家尼御返事(地獄即寂光御書)創価教学研究室(赤鬼のブログ)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52073.html

最後に、「最後まで今を輝いて生きるために」
そんな思いの詰まった曲を紹介する。

『光るなら』
https://www.youtube.com/watch?v=_BUPN32zD-I
『七色シンフォニー』
https://www.youtube.com/watch?v=BirSO_72Qec

苦しみを味わうことを恐れないで下さい。
同苦はきっと輝く明日への飛翔なのですから。

終わらない今を生きる飛翔こそ蘇生より。


難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452



[465] 「末法の荒凡夫」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月29日(水)23時23分6秒   通報   返信・引用

なるほど

やっぱり大御本尊への信心と
ひたぶるな題目の人はすごいですね。

「末法の荒凡夫」とは
心躍るというか
シビれるというか

カッコ良すぎですよ。

「我々はどこから来たのでもない
どこへも行かない。
今の一瞬一瞬を輝ききって生ききる
末法の荒凡夫である。」
っていう、戸田先生の
大宣言ではないかと思います。

あまりにも眩しい、
その宣言あっての太陽の仏法なんだと
思います。

「今ここ」

思いは一つですよ。

ちょっとクセの強い
荒凡夫が集まってるんで

ウマの合わない人もいるかも
知れませんが

戦いは進みつつあるので
準備が整ったらお声掛けしますね。

その時は、どうぞ
よろしくお願いします。



[464] わたしはだあれ

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 6月29日(水)16時50分27秒   通報   返信・引用

「あなたは誰」と問われました。

 私  は  誰  ?

「何処より来たり何処へ行かんとするか」

戸田先生の云われた「末法の荒凡夫」という表現が好きです。
そう、ただの凡夫です。

世間の人々とちょっと違うのは、名字即位にいること。
その中でも学園出身者であること。
池田先生と創価学会に絶大な恩があること。
そして、創価の邪教化を憂いていること。

創価学会の発迹顕本を他人事としていないこと。
何が出来るか分からないながらも、
何かをするために今を過ごしている荒凡夫。
そう、それが今の私、スーパー摧邪人。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[463] 通じる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月29日(水)07時28分56秒   通報   返信・引用

大御本尊様は生身の日蓮大聖人様。

それではスーパー摧邪人様
あなたは誰ですか?

2500万遍、誰の名前を呼んだのですか?
どこに現れましたか?

禅問答みたいですか?

日蓮大聖人は、全ての生命の問題を
解決したのです。

1遍1遍が一切無駄のない
南無妙法蓮華経です。

すごいことです。

2500万遍を突破の功徳、計り知れません。

必ず三世に渡って全てが開けます。
おめでとうございます。

それぞれの使命
最後までやめない。

一切は変えていけます。
ありがとうございます。



[462] 祝、そして・・・

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 6月28日(火)13時56分20秒   通報   返信・引用

2003年からエクセルで付け始めた唱題表によれば、昨晩2500万遍を突破したことになります。再来年の誕生日まで2年と3ヶ月、3000万遍目指して続けていくつもりです。さらには2019年の11月を今から700万遍を超える唱題を以て迎えようと考えています。

3年後の11月に何があるかといえば、昨年自ら延命を果たした原田会長の任期が来て、待望の創価学会第七代会長が誕生するのです。しかしただ手をこまねいていては、本部内で通説となっている通り、谷川佳樹がその席についてしまうことでしょう。

創価学会の会長だけは誰がなってもいいと云う訳にはいきません。四代、五代、六代はつなぎでしたから、北条、秋谷、原田でも良しとしましょう。しかし第七代はそう云う訳にはまいりません。実質的な先生の後継者に当たるのですから。

会則改正に異を唱え、現執行部を天魔と断じ、女子部会長論を以て男尊女卑の学会本部の改革を論じてきましたが、いまだ具体的な行動に目処がついていません。信濃町の友人に論書を送ったりましましたが、所詮友人内部での戯れ事に過ぎません。

春先から仕事が忙しくなり、思索や文書をものする時間が取れなくなったことも、具体的な行動を起こすことへのブレーキとなっています。しかしこれさえ、次のステップのために必要なことと捉え、精進を重ねている日々です。

今の時期は法人税の納付や年金の基礎算定に追われています。月々の給与や来月には賞与もあります。毎月の源泉税や住民税の納付なども経験があれば簡単なことなのでしょうが、実務経験の無い私にはすべてが未知との遭遇です。

周囲や税理士に助けてもらいながら仕事をしていますが、夕刻の帰社時間には脳が疲れ切っています。週末ともなれば、帰路、歩きながら寝てしまいかねないほどの疲労感です。しかしこれも、次の闘いのための準備と心得ています。

一昨年、母校の創価大学で、「これからが勝負」というご伝言を先生よりいただきました。何事が出来するのかと思っていたところ、その半年後に会則改正がありました。当初悩んだ私も、これこそが先生の云われた「勝負」であると気付きました。

そうとなれば後は単純です。しかるべき時のために今を過ごせばいいのです。仕事に追われている今も、この程度のことでへばっていたら、しかるべき時に使い物にならないと、鍛えていただいているのだと自然に考えられます。

「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ。」先生のお好きなホイットマンの詩の一節です。創価学会の発迹顕本という決められた決勝点を目指す日々は続きます。

追伸: A氏の論を「九重の劣」と断じた私の意見に、A氏からの明確な返答はありませんでした。それ故私の中では、この判決は確定したものなっておりますことを、ご承知おきくださいますようお願い申し上げます。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[461] 五眼三身ステップアップ その6

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月28日(火)03時13分20秒   通報   返信・引用

信心とは何かを考えてみよう。

信心なんてものは
信念として表れてこそのもの。

なんでもかんでも「はい」と
付き従うのは、思い込み。

ロボットになってどうする。

自分で考えて判断できるのが信念だ。

言葉は学ぶものであり信じるものではない。
信じるのは自身の生命尊厳の法だ。

だから外から信じさせられているものは
捨てよと言っているのである。

信心が純粋に
生命尊厳の法に直結するためには
苦しめる側になるか
苦しめられる側になるかの
選択がある時

断じて苦しめられる側の民衆の先頭に立って
民衆を守り抜く以外には無いのである。

理不尽に対しては
断じてノーと言っていいのだという事だ。

「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」
とは、意識機能の使い方の指南である。

個別のストーリー都合によって
師の言葉を知識として使うのは
心で師を使っているので
師を軽んじているのである。

法である自己機能の活性化により
湧き起こる知恵が、そのまま
師と同じになるのが理想である。

これが実は可能なのである。

立脚点は明確である。
南無妙法蓮華経だ。

誰が唱えても
南無妙法蓮華経は
南無妙法蓮華経なのである。

その境地に向かって
五眼三身のステップアップをすれば良いのだ。

あとは責任感の範囲と深さである。

今までがどうかは関係ない。
仏法は現当二世である。

今決めてしまえば良いのだ。

そして有言実行していけば良いのだ。
それだけである。

それが師弟不二なのだ。

今、その人間が続出すべき
時が来ているのである。

つづく・・・かな??


難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452



[460] 五眼三身ステップアップ その5

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月27日(月)03時14分35秒   通報   返信・引用

さて
五眼のステップアップを
アルベア論の言葉で言うと
意識のイノベーションになる。

言い換えが出来るという事は
普遍性があるという事である。

つまり
正反合ではなく正正同になる。

もともと有る無作の生命論に
立脚するからそうなるのである。

背くべきものがない
必然の調和の立脚点である。

同じ自己責任が
すでにそこにある。

自己責任という事は
自得という事である。

私がすでにそこにいることを
見ているのである。

私がやりたかったことを
すでに誰かがやっていて

誰かがやりたかったことを
すでに私がやっている。

全体性がもたらす
智慧のエネルギーが

法界の中で現象化し

それを個々のストーリーとして
見ているだけなのである。

それが仏智である。

それを分からずに
自分の得ばかり考えるから
軋轢が生まれ
不幸が生まれるのである。

見られることに応じて
ストーリーを持った個として認識されるのが
応身であるが、悟らずば自我機能である。

思いを起こす心のエネルギーが報身である。

ストーリーのない自己機能というのは
実は法そのもので法身である。

アルベア論というものは
非ストーリーの法の振動と
飛翔のためのストーリーによって

自在の智慧のエネルギーを増幅し

自我の相対的ストーリーを振りほどいて
非二元の絶対的ストーリーである
無作への飛翔を
自得するためのものなのである。

「心こそ大切なれ」ゆえである。
これは、報中論三ゆえでもある。

慈悲は慈悲を見る。
愚考には語り掛けない。

全ての人は
一念三千の慈悲の光を放つ
無作三身という当体であることを

ただ気付けないでいるのだ。

つづく・・・かな?


難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452



[459] 五眼三身ステップアップ その4

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月26日(日)00時39分59秒   通報   返信・引用

例えば、素晴らしい登山家がいたとする。

どんなことを思って、どんな山を
どんな準備をして誰とどんなふうに登り
そして登った経験から
どんな教訓を得て
次に登る人は何を気を付けなくてはならなくて
どんな準備をするべきで
どんな成長がもたらされるのか
等々

これが一念三千とする。

山を登ったのは私です。おわり。

これが五眼三身である。

もっともその時の「私」は
「あなた」でもあるわけだが

それを含めても

山を登ったのは私です。おわり。
なのである。

そうであるならば
御書に説かれている量と
その重要性は比例しない。

五眼三身はただ寿量品だけに実体がある法門である
このことが重要なのである。

その事は四条金吾釈迦仏供養事(釈迦仏開目供養事)
に説かれている。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51768.html

分かるだろうか?

私の論を「なるほど」と思って
同じようにやってみようというのでは
五眼三身を聞きながら、一念三千しか見えていないのである。

私の論など忘れ去って
自分を縛るものは何も無いと生きるのが五眼三身なのだ。

ただし始めから縁しないのと
学んでから忘れるのでは違う。

構造を知らずに分解しようとすれば壊れてしまう。
構造を知っていればスムーズに分解できる。

どの部品がどことつながっているのかは知っておいた方が良い。

壊さずに取り外せたら忘れれば良いのである。

開目とは自我が見ている全ての抑圧からの解放であり
生命の開放である。

それは無認識認識の体感覚知であり
歓喜の中の大歓喜なのだ。

つづく


難しいと感じる方へ
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[458] 五眼三身ステップアップ その3

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月25日(土)00時11分3秒   通報   返信・引用

法眼において智慧のエネルギーによる
理から事への変革に徹し
業の流れの同一のパターンが
解っていくのであるが

それでもなお
見える法はそれぞれであり

因と果も厳密には同時にならない。

無分別の一法とは何か?
その法はどこにあるのか?

これが解決しないのである。

ならば一念三千の法門はそのままでは
理から事への変革の法眼までの法門なのである。

三如是の三身を中心軸として反転し
飛翔することが仏眼なのだ。

御書の十如是事
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52262.html

を見るとそういう内容になっている。

思考が先立つが
平易に自分の言葉で論を進める。

法は眼に見えているのか
法は眼に見えていないのか

これに迷うのであるが

見えていない理も
見える化された事も

そう見ることは法眼止まりであり
対象化されたストーリーなので同時とならないのだ。

つまり、ステップアップしてきたこの「見ること」
そのものの「今ここ」こそが実在であり

対象化された見えるも見えないも、
それは夢のようなものなのである。

御義口伝には、それぞれの品で一番大事なのは
題号であるとされている。

そしてまた寿量品とは
南無妙法蓮華経如来寿量品第十六

「この南無妙法蓮華経如来寿量品第十六という題号は、
日蓮大聖人の御身にあたる大事なものである。これこそ
神力品第二十一において、上行菩薩として釈尊より付属
を受けた実体なのである。」と。

ステップアップしてきたこの「見ること」
そのものの「今ここ」こそが
無始無終にして常住不変の
不死の一法なのである。

人間の肉体は死ぬように見えるけれども
この「見ること」は死なないのであり
その寿命は無限であり
一歩も動かず何も変わらないのである。

変わるのは夢のような世界と
それに対する認識だけ。

この世界を考えると同一の「見ること」が
無始無終にして常住不変に連なっており
すでに見終わっていて
すでに見られ終わっている。

完全に人知を超えた部分が多々あり
順を追って説明しなければ
ただのぶっ飛んだおっさんの妄想である。

仏眼からすれば、
全てはすでに仏であり寂光土であるので
すでに広宣流布された世界である。

逆らわなければ全ては最良の
仏の計らいしか起きないので
人知ではあずかり知ることは出来なくとも
委ねて「見ること」を楽しんでいく世界である。

つづく


難しいと感じる方へ
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[457] 宿坊の掲示板から<保存版>

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月24日(金)14時25分19秒   通報   返信・引用

<保存版>我が青年よ!馬上豊かに剣高く・山本伸一  投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/50068(1)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/50099(2)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/50105(3)

≪出だしを抜粋≫
2008年3月3日付聖教(1) ・・今、この時の為・・・

強烈な
魂の光が
激しく
光り始めた

おお 偉大なる青年よ !
精神の王者を妬む
いかなる権力者をも 絶対恐れぬ青年よ !
いかなる強敵(ごうてき)にも 戦い勝ち切る青年よ !
今日も
正義と善の炎に燃えゆく
あの素晴らしく青年よ!

この神々しき
紅顔の青年たちが
厳として
立ち上がり
厳として
動き 走り行く!

そこから
万雷の拍手が鳴り響く
新時代が始まる。
そして煌々(こうこう)と
新しき太陽が昇る如く
全世界は変わっていくのだ・

あの深き信念の青年は
威張り腐った
見栄っ張りの王侯たちを
嘲(あざ)笑っている。
賢者である青年たちは
すべてを明快に知って
その正体を見抜きながら
権力者らを
笑い飛ばしていくのだ。

驕り(おごり)ゆく彼らの前途には
平和の道も
充実の道も
絶対にない。
ただ荒涼として
人民の怒りの風が吹いている。

青年は厳しい。
青年の英知は
冷徹に輝いている。
驕慢な
知識階層に対しても
卑しき権力者に対しても
増上慢の
気取った連中に対しても
あまりにも鋭敏に
悪を見破る君よ!


悪党は
真実の豊かな人生の
喜びを知らない。
つまりは哀れな人間たちだ。
いついつまでも
己に執着している。
慈愛も価値もない。
人目を盗んで 皆の努力を
食い尽くしていく奴らだ。

十七世紀フランスの詩人
ラ・フォウンテーヌは
憤怒(ふんぬ)して喝破(かっぱ)している。
・・いつの世にも庶民は苦しんできたのだ。おえらがたの愚劣な行いのために・・
だからこそ青年が
厳正に監視するのだ!

おお 君の戦いには
剣が鋭く
舞があり
芸術がある。

明敏な君の姿には
天の男子として
使命が輝いている。

眼は涼しく
その意思は鋼鉄の如く
強く光る。

狡賢く(ずるがしこく)
貪欲な連中には
清く潔き君たちの魂の
英邁なる高みを
知ることはできないのだ



[456] 五眼三身ステップアップ その2

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月24日(金)14時11分59秒   通報   返信・引用   編集済

慧眼の段階では
仏は解っても成仏は
理の上であり未来の成仏である。

どうにもならない現実が
まだ眼前には山積したままなのである。

観察する眼は得ても
それを解決する主体が
変わっていないのである。

次のステップは

師とは何者か?
寿量品の仏とは何か?

今までは教え与えてくれる存在であった師を
今度は自身が再現するための
生命の肉薄の闘争の開始である。

誰に言われるからでもなく
そして無理をして奮い立つのでもなく

ただ成された視点の変化によって
もたらされた自身を

あるがままに臆することなく悠々と貫く。

自身の生命による

業の因果、縁起、生滅の法への
変革の挑戦である。

ひたぶるな観察と練磨と格闘によって
世界に現れつくしている法を認識し
本当の生命の尊厳の広宣流布の歩みを
進めていくのである。

これは変革の
智慧のエネルギーの
行使の世界である。

世界を法の現れと見る

これは法眼であり
九識論を絡めてみると
その実、業の流れを見ているのである。

つづく


難しいと感じる方へ
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[455] 五眼三身ステップアップ その1

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月24日(金)08時05分13秒   通報   返信・引用   編集済

仏とは何か?

それは、説明は探せばいくらでもあるだろう。
でも、説明のための説明には実体がない。

いくら説明を聞いても
「とどのつまり仏ってなんなのよ」
と、延々と納得できない。

しかし、それもそのはずである。

全ての既成概念を取り払っても
消えることのない実感を得たいのに
新しい既成概念を取り入れて
補完しようとする逆の作業になっているのだ。

ちょうど、
貫きたい信念があるのは自身の中なのに
他の誰かへの期待や依存に始終している
という事なのである。

例えるなら
トイレに行きたいんだけども
便とは何か、尿とは何か、トイレとは何か
という説明で解決しようとしたり
誰か他の人が行ってくれるから大丈夫だ
と期待依存しても何も解決しないようなものである。

この状態は、生き辛さとなって現象化する。
「誰もわかってくれない」という壁を
自身で作り上げて、自身で憎んでいるのだ。

苦しみ続けて失って初めて気付くか
ほだされて信念を曲げ諦めて最悪の結果を招くか
期待や依存や既成概念を捨ててフリーになり自己自身で解決するか

そういう選択肢になる。

法華経の寿量品の法門である五眼三身から
正しい道のりを考えるならば

期待や依存や既成概念を捨ててフリーになる事が
正しいステップアップとなる。

脱組織主義と脱組織依存は表裏であり
捨てることのできる概念の全て信じているものを
捨てて自我を消すことで脱却できるのだ。

そこに初めて、自己責任の仏の実態を
発見することが出来るのである。

五眼のうち肉眼とは
本能のまま欲望のまま世界を見る眼

天眼とは
与えられた概念に期待依存し
使命を信じて見る眼

慧眼とは
自我を消した中道からの発見・判断の眼である

五眼は九識論とも対応して考えられるが
最終的にはどれがどの法門かという事は
意味が無くなるのでもあるし
ここでは割愛する。

この段階で方便品が解るようになる。
ここで解る仏は方便品の仏である。

つづく


難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452



[454] 精密な空想からの飛翔

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月23日(木)10時33分34秒   通報   返信・引用   編集済

人間に精密な空想などいらない !  投稿者:螺髪  投稿日:2016年 6月22日(水)20時21分20秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/50005
~~「わが人生を燃やしゆけ」(2014年元旦=第二部)=抜粋=

あの「深く大きく境涯を開き、目の覚めるような自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む」の正木理事長の「今日の発心」が載った日の第2部の紙面二載った池田先生の「詩」です。(※私自身は池田先生ご自身の詩だと感じています)~~

全文でコピペします
http://www.ningenkakumei.com/
(日めくりカテゴリ別・人生 より)

~~昇りゆく太陽の如く わが人生を燃やしゆけ

 おお実在する/人生にあって/決して一生涯/希望を失うな!
 いかなる過酷な戦いにも/吹奏楽を奏でながら/断じて/歩み抜くのだ!/勝ち抜くのだ!/永遠なる太陽の輝き/永久に/わが人生を燃やしゆくのだ!
 忍耐そして宿命/不安そして苦悩/それらは皆/仮装した運命と思え!
 汝は汝自身らしく/その運命に負けずに/決然と前へ進むのだ。
 そこに/生命の勝利の証明がある。/一切を幸福への運命として/勝ったことを知るだろう。
 生命!/大宇宙に溶け込みながら/永劫に流転しゆく/不思議なる生命。
 永遠に/不可能を可能としながら/人類の夢に見た/民衆の生命尊厳と/平和の文化の/王朝の世紀を創るのが/賢者たちの/願いであり誓いだ。
 我々は/今日も/新しい人生を/生きるのだ!
 一生涯/汝自身を成長させながら/自分自身を革命させながら/新しい人生を/生き抜いていくことは/なんと素晴らしいことか!
 極めて/基本的な行動であるべき/生活は/汝自身の成長によって/価値ともなり/無価値ともなる。/進歩ともなり/退歩ともなる。/幸福ともなり/不幸ともなる。/生きがいともなり/堕落ともなる。
 自分自身の出発点を/どのように捉えるか/位置づけるかによって/その人の多くの問題からも/涌き出ずる奔流のように/歓喜を見出すことができるのだ。
  人生に/幻滅があってはならない。/あらゆる苦悩も/素晴らしい人生を磨き/鍛錬しゆく劇として/捉えるべきだ。
 人間に/精密な空想などいらない。/虚栄に走って/幸福を摑もうとする必要も/全くない。
 汝は汝自身らしく/全生涯を通して/魂の無限の広がりを/望みながら/生き抜いてゆくのだ。
 負けてはならない!/汝自身との勝負が/人生である。/人びとの成功など妬む必要は/全くない。
 いかに地道であれ/絶えまなく/汝自身の現実の/生活の高山に/挑みゆくことだ。/険しき絶壁に登りゆく/あの登山家の心境は/爽快なものだ。
 社会的に高度な/職務も/それはそれでいいだろう。/しかし私は/私の行動から/決して動揺せぬ/意味のある明確な/幸福と平和の哲学を/打ち立てていきたい。
 我らの正義の友は/自分自身を/感動させながら/世界の果てまで/越え進む。
 あらゆる茨を/取り除きながら/あらゆる卑劣なものを/打ち倒しながら/太陽の昇りゆく光とともに/追随を許さぬ/日の出の威厳をもった/人生をば/永遠の生に結ぶ。
 揺るぎなき/正義の剣を持ちながら/夜明けの荘厳な道を/日の出の晴れやかな道を/真夜中の勝利のための道を/生き抜き/勝ち抜き/不滅の我らの王宮へ/進みゆくのだ。

「勇敢に堂々と歩みゆけ!わが人生の大道を」より
聖教新聞2014.1.1付 桂冠詩人の世界~~

http://www.geocities.jp/keikansekai/
ここに写真入りPDFファイルありました。
見栄え良くプリントアウトできると思います。

http://www.3colorflags.net/lime/sintyaku/sintyaku/200209244.txt
こちらは2002年
勇敢に 堂々と 歩みゆけ!
わが人生の大道を

ここにも「人間に 精密な空想などいらない」とあります。

精密な空想からの飛翔こそ
人間の本有無作であり
生命論の法華経の非二元の生き方なのだ。

本来をありのままに
輝かせるから蘇生なのだ。



[453] 改名しました

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月22日(水)10時45分30秒   通報   返信・引用

「革命こそ蘇生」改め「飛翔こそ蘇生」です。

経緯は宿坊の掲示板アルベア論スレッドの

ストーリー「物語」 投稿者:アルベア 投稿日:2016年 6月21日(火)05時00分32秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/558
観察・区別 投稿者:革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月21日(火)15時06分31秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/559
観察・区別 革命こそ蘇生様 6/21.15:06 投稿者:アルベア 投稿日:2016年 6月22日(水)04時31分25秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/562
飛翔 投稿者:飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月22日(水)09時35分36秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/563

です。

この中で、

>「末法の御本仏の出世の本懐は

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)

に見られる法華経非二元の境地から

無始無終の寿命を記し残したとも

見れるかもしれないと思います。」


「見れるかもしれないと思います。」ではなく「見てしまう」のです。「見て」

「見られる」ことが同時に起きているのです。「対象化」するから「ストーリー

」になるのです。そうすると、いつまでも「見る側」「読む側」なのです。体感

覚知すると「見て」「見られる」という「不二」感覚が自然に現象化されるので

す。ここにあらゆる事象が「不二」であった事が「了解」されるのです。「境地

冥合」という現象が体感されるのです。

戸田先生の「三十四の『非ず』」が自然に「わかってしまう」⇒「了」となるの

です。「法華経の智慧」を「事」で読むこととなるのです。<

と、語られていますように

ぷるぷる運動?
火の呼吸?
やさしさに包まれたならってユーミンじゃん

仏法に何の関係があるの?

と思われることもあるかもしれませんが

その実
大御本尊様のことを語らせていただいているのでもあるのです。

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)は
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52407.html

弘安2年10月の御述作であります。

大御本尊様が生身の日蓮大聖人であるならば
その境地は三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)
に見られる法華経の非二元なのであります。

「無分別の法とは一乗の妙法である。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵のなかにも、それぞれが十法界の法を具足している。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばないところはない。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心のなかに収まって瞬時も離れることがない。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、このほかには仏の法はないのである。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのである。」

「この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのである。このゆえに我が身は本覚三身如来の身体なのである。法界にあまねくいきわたり、しかもそれは一仏の徳用であるから一切の法は皆これ仏法なのである。と釈尊が説かれたとき、その座につらなっていた、もろもろの四衆・八部・畜生・外道等は一人も漏れずに、皆ことごとく妄想の僻目・僻思いが、たちごころに散り止んで本覚の寤に還って、皆仏道を成じたのである。
 仏は寤の人のようなものであり、衆生は夢を見ている人のようなものである。ゆえに生死にとらわれた虚妄の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道ともいうのであり、ただ一つの法門である。」

「生と死との二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顛倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めがないので、死ぬという終わりもないのである。とすれば既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓箭にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空のなかに満ちたとしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭ということもない。
 善に背くのを悪といい、悪に背くもを善という。ゆえに心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである。善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのである。このゆえに善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのである。心で分別した思いを言い表すのが言語であるから。心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声にあらわしたものをいうのである。
 凡夫は自身の心に迷ってそれを知らずに悟らないのである。仏はその心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのである。神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのである。この自在の神通は一切の有情の心に具わっている。ゆえに狐や狸がそれぞれに通力をあらわすことは皆、心の神を分々に悟っているからである。
 この心という一法から国土世間も出てくるのである。一代聖教とはこのことを説いたのであり、これを八万四千の法蔵というのである。これは皆ことごとく釈尊一人の身中の法門である。」

「我が身と天地とが一体不二であることをもって、天が崩れるならば我が身も崩れ、地が裂けるならば我が身も裂け、地水火風が滅亡するならば我が身も滅亡すると知るべきであろう。しかるにこの五大種は過去・現在・未来の三世は移り変わっても、五大種は変わることがない。正法・像法・末法と三時は異なっても。五大種は同じであり盛衰転変することはないのである」

「結局、己心と仏身と一体であると観ずれば速かに仏に成るのである。このことを止観輔行伝弘決にはまた「一切の諸仏は、己心は仏心と異なるものではないと観ずるゆえに仏になることができたのである」と述べている。
 このことを観心というのである。実に己心と仏心とは同じ心でえあると悟れば、臨終を妨げる悪業もなく、生死界にとどまるに妄念もないのである。
 一切の法は皆これ仏法であると知ったならば、教訓をしてくれる善知識も必要ないのである。そして、思うままに思い、言うままに言い、為すままに為し、振る舞うままに振る舞うというその行住坐臥の四威儀の所作は、皆、仏の御心と和合して一体となるから、過失もなく、障害もない自由自在の身となる。これを自行というのである。」

「我らは迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もあり、理解する力もあり、善悪をも分別し、時節を考え知ることができる。
 しかし宿縁に促され、生を仏法流布の国土に受けたのである。善知識の縁に値えば因果を分別して成仏できる身であるのに、善知識に値っても、草木に劣って、身中の三因仏性をあらわさずにそのままにしてしまう理由があるであろうか。
 このたび必ず必ず、生死の夢を覚まして本覚の寤に還って生死の紲を切るべきである。今から以後は夢のなかの法門に心をかけてはならない。
 三世の諸仏と我が一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべきである。」

等々という事を
自然のうちにその身に起こす術を
「技化」していくことをしているのです。

御本尊様と
それを信じる側に違いがあると思うことは
二元論です。

それを越えていくことが
境智冥合であり、法華経の非二元なのです・

「よくわかる仏法用語ワイド版・境智冥合
 (月刊誌『第三文明』 1988(S63)年8月号より抜粋転載)
というのを見つけたので貼っておきます。
http://d.hatena.ne.jp/gsg48566/20150426/1430004777



[452] 難しいと感じる方へ

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月20日(月)10時14分41秒   通報   返信・引用

大丈夫、いきなり分かったら
逆に怖い。

勉強を重ねて研鑽を重ねてきた
人たちも、全然分かってないから。

でも、誰でもやってみれば
実感していける。

普通の教学や自己啓発等では
思考に寄りすぎてしまう間違いがある。

実感していけば今まで分からなかった
それぞれの人の体感の実録が
分かるようになる。

教学や自己啓発等の本当の意味が
分かるって事。

もし、興味があるなら
まずはアルベア法の体操と
心のずっと奥のほうを読み聴く事を
日々、やってみる事だ。

アルベア法
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/533
1-スワイショウ運動 1分
2-ぷるぷる運動   1~5分
3-火の呼吸     1~5分
4-スワイショウ運動 1分

ぷるぷる運動と火の呼吸は
アルベア法のリンクに動画があります。

スワイショウは手を
ぶらんぶらんさせる。
http://kikou.info/page/cat2/181.php

心のずっと奥のほうの
詩を読んで曲を聴いてみる。
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/437

体感への到達の実感は
必ずやってくる。

生命の詩
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/365
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/366
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/367
これは道しるべとして
たまに見ると良い。

仏智の世界
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/445
これが分かっちゃったら
起こる事の全てが歓喜になる



[451] 宿坊の掲示板から

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月20日(月)03時09分54秒   通報   返信・引用

どこの会合(出陣式)へ行っても  投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2016年 6月19日(日)22時17分12秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49801
忠告  投稿者:ひかり(正義の師子同盟)  投稿日:2016年 6月19日(日)21時18分20秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49797
日曜討論  投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2016年 6月19日(日)16時24分54秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49786


環太平洋軍事演習に中国海軍が参加  投稿者:ラカニエンヌ  投稿日:2016年 6月19日(日)18時24分27秒
環太平洋軍事演習とは米国を中心に環太平洋諸国が行う軍事演習。それに中国海軍艦船(戦闘艦)も参加します。6月29日からハワイ沖で。中国を日米安保の仮想敵国とする皆さん!中国は米国と戦争をするツモリなど微塵も持っていない。敵国と仲良く軍事演習するはずが無いのです。安保法制の唱える中国海軍の海洋進出と云う考え方が如何に皮相なものか、このことからも明らかですね。

北朝鮮が本当に核ミサイルを日本に撃ち込んで来るのか?  投稿者:ラカニエンヌ  投稿日:2016年 6月19日(日)16時54分22秒
東京新聞論説編集委員で防衛問題の専門家である半田滋氏は明確に否定しています。北朝鮮脅威論者の頑なさを揶揄して信心のようだと言われていました@2016年6月18日明治学院大学講演会

2000年代の...  投稿者:ラカニエンヌ  投稿日:2016年 6月19日(日)14時37分56秒
所謂ゼロ年代の佐藤優氏の著作を読むと、北朝鮮への武力征伐が露骨に語られていて驚きます。このような人物が池田先生をイエス キリストの再来と持ち上げています。佐藤優氏は創価学会の言論人を手玉に取っているように感じます。

『個人を幸福にしない日本の組織』  投稿者:SaySaySay  投稿日:2016年 6月19日(日)16時41分22秒
『個人を幸福にしない日本の組織』(太田肇)という本が、今の創価学会組織の実情を言語化してくれていると思います。
(特に第三章までと第七章以降)
根本的には池田先生のご指導を文証として破折するのですが、組織の現況がどう悪いのか、説明する言葉を探すために、この本は手助けしてくれるでしょう。
この著者は個人を大切にするという信念から、全体主義と闘っています。その視点は小林節さんに近いでしょう。
池田先生は「人間主義と全体主義は正反対」と言われていました。
小林節さんは「今の創価学会と公明党は池田先生と真逆」と言われていました。
この正反対、真逆の構図が、この本からも理解できるかと思います。

EUの母   投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年 6月19日(日)15時13分15秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49781
≪省略≫
・・・転載終わり・・・


アフリカの大地に一人立つ創価の同窓生、ご主人を亡くし、一人で子育て、大学教授として
戦う婦人部の方がいますが・・女性は剛し。

いつの間にか、獣たちに乗っ取られてしまった、
我が学会組織・・学会再建には女性会長、また女性副会長を待望。
少なくとも、SGI理事長は女性を・・


広布一筋・・

【秋谷、原田らの関係、教義変更の背景】ヨッシーさんの論考を再掲します  投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2016年 6月19日(日)12時50分59秒
以下から一部を抜粋し再掲します。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/21993

秋谷氏の影響力、原田会長、原田主任副会長の関係がわかります。

師弟不二アーカイブはこちらです。ヨッシーさんの他の関連投稿をご覧いただくとよくわかります。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=5182
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

現在

創価教学確立への動向

*規則改正により創価教学の確立が急務である。路線対立(分裂)回避す
 るためには、何が何でも池田存命中に決めなけれぱならなかった。

*秋谷・森田(康)らが非常な危機感を持っている。

*戸田会長以来、皆が日寛上人教学を学んできた、学会教学=日寛上人
 教学であった。今日までは論理的に一枚岩であった。

*が、このようになった今日、日寛上人教学に変わる、超える教義を見い
 ださねばならない(これからの学会教学の構築)。

*秋谷・森田らが中心となり、東大・創大など、ある程度の論客を集めて
 勉強会を開始した。理論武装が焦眉の急である。

*谷川らの若手は、今まで腰を据えて教学をやっていない。

*1月29・30日の記事は、教学部が書かなかった(書けなかった)の
 で谷川・菅野・宮田らが書いたが、あの『教学部解説』では戦えない。

*当然、方向は既に決まっている。「相伝教学=日寛教学」からの脱却
である。

*相伝を信ずる者は宗門に行ってもしょうがない。

*学会は、「大聖人の教義」を追究する。「大聖人直結の教学」。現代の仏
 教研究の成果をふまえ、その上に「創価教学」を築く。まず路線・方針
 を決めてしまう。教義は「後から付ければよい」(谷川)

*宗創一体時代は「相伝教学」できた。これからは直に御書に教義を求める。

*信仰としては、大聖人(仏宝)、日興上人(僧宝)は否定しない。歴代も
 日達上人までは、認め良しとせざるを得ない。

*仏意・仏勅の学会を切った時点で、大聖人の仏法は創価学会に移った。

*宗門に対抗するには、大聖人直結・御書根本以外に道はない。

*今さら、どこからか大聖人の御本尊を手に入れて(買い入れて)、学会
 の中心本尊とする訳にはいかない。

*日寛上人教学を学んだ者だからこそ、宗門に対抗できる。

*創価学会によって、現在に民衆仏法として蘇った。
………………………………………………………………………………………

ここから分かるのは、
①秋谷や森田(康)ら古参幹部を中心とする「相伝教学=日寛教学」からの
脱却を目指す強力な勢力が存在すること。
②その勢力が教学部(=池田先生)の反対を押し切って、準備不足と分かって
いながら見切り発車で、原田会長に「大御本尊との決別」宣言を発表させたこと。
③谷川ら若手を使って弁明の「教学部解説」を書かせたが、“使えない”と
思っていること。
④なぜ、教学部(=池田先生)の反対を押し切ってまで、見切り発車で、
発表させたかというと、「路線対立(分裂)回避するためには、何が何でも
池田存命中に決めなけれぱならなかった」からであること。

たしかに、ここで言うように、「大御本尊と決別」するかどうかは、会内でも
意見の分かれるところでした。池田先生が亡くなった後で、今回のような発表
を行えば、路線対立から学会が分裂する恐れがあったのは事実でしょう。
それを「回避」するためには、「何が何でも池田存命中に決めなけれぱならなかった」。
「何が何でも」というのは、たとえ池田先生が反対したとしても、ということでしょう。
先生が反対しても先生の存命中に公式に発表してしまえば、会員はまさか「先生の意向
に反対してまで会長がやっている」とは思わないであろうし、聖教等に先生のコメント
が、賛成とも反対とも、全く載らないでいれば、会員は勝手に「先生は黙認している」
と受け止めるであろう――そう高をくくって原田会長は発表に踏み切ったというのが
事の真相ではないでしょうか。

問題は、なぜ、秋谷らは先生の意向を無視できるか? 原田会長らはなぜ秋谷らに
付き従ってしまうのか?
です。

端的に言えば、秋谷らは先生を「永遠の師匠」とは思っていないからです。
自分たちと同じ「戸田門下」の一人、単なる「3番目の会長」としか
見ていないので、先生のご意向といえども「絶対」とは思っていない。
だから、第一次宗門問題の時、宗門との決別に突き進む池田先生にブレーキを
かけようと、秋谷が聖教の写真資料部からマジック事件の写真を出させて、矢野絢也に
渡し、矢野が旧知のジャーナリスト・内藤国夫に流して週刊誌に掲載、
それを宗門側が学会攻撃に利用して、池田先生を会長辞任に追い込んだ――
こんな裏工作を先生のお元気な時から、平気で行っていたのです。
お元気な時ですら、こうですから、いわんや、池田先生が病に倒れた2010年
6月以降においてをや、です。

原田会長は秋谷と同じ杉並支部の出身。秋谷が原田(光)の家を折伏し、
原田(光)の家が親戚の原田(稔)の家を折伏したという間柄です。
結局、秋谷は会長時代、本部は事務総長の原田(稔)、聖教は代表理事の原田(光)
という自分の折伏の系統を使って押さえていたわけです。
そんな間柄の原田(稔)が秋谷に逆らえるわけはない。
原田の師匠は実際には、池田先生ではなく、秋谷だったのです。

本来、先生の側に立つべき長谷川が、当初は「原田会長が嘘をついている」と言って
いたのに寝返ったのは、いつもの変わり身の早さと言えばそれまでですが、
「池田先生に判断力はあっても、自分の意思を押し通す統治能力はもはやない」
と見限ったからではないかと言われています。

谷川は、「現況分析」を見ても分かる通り、秋谷らから見れば「若造」。
「会長にさせてやる」と言っておけば、なんでも言うことを聞く「パシリ」にすぎない。

こんな人間の上下関係であるから、秋谷らはまるで「イスラム国」の覆面兵士のような
八尋配下の弁護士らを使って、教学部ら抵抗する勢力のクビを次々に切り落として見せ
しめにすれば、第一庶務とかに残る最後の抵抗勢力も恐れおののいて何もできないだろ
うと、ここでも高をくくっているわけです。
実際、今は、池田先生が自分で判断を下し、それを実現しようとしても、だれも先生の
手足となって動くことができないような「異常な状況」が生まれているのです。



[450] 振舞ってこそ味わえる

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月19日(日)01時27分55秒   通報   返信・引用

知的理解を超えた体感の部分というものは
ただ在るだけで、伝えようと思うときには
それを一度、知的理解の記号に置き換える
ことになる。

つまり、その時には
理解していることを言葉にしているのではなく
ただ在る感覚を
「言葉にしてみたらそうなる」のである。

書き手自身、言葉にして伝えてみて
初めて「ああ、そうか」とフィードバックされることも多い。

インプットとアウトプットの
バランスの重要性でもある。

そもそも根底が知的理解では無いのだから
これを完全に知的に理解しようとしても
「理解に苦しむ」だけである。

物理学という学問の在り方を知ると面白い。

物理学というものの一面は
物事を逐一細かくとらえるのではなく
いかに本質を大雑把にとらえるかという挑戦である。

些細なブレや、積み上げた固定観念から
いかに飛躍して本当の真実に近づけるかという事である。

「理解に苦しむ」ことを越えるには

あるがままに「不思議を味わう」必要があり
それは既成概念を外すことによってもたらされるのだ。

だから、不完全なら不完全なりにも
アウトプットをする必要がある。

「こんなことを言ったら怒られるかな?」
「変に思われるんじゃないだろうか?」
「誰にも解ってもらえるはずがない」
等々という弱さは、自己中心的な保身であるので
これを越えていかなければ
「同じ」「不二」「即」等を味わいきることは出来ないのだ。

体をほぐし
心をほぐし
自然のままに振舞う中で
御本尊の縦横無尽さを知ることが
境智冥合していくことなのである。

だから御本尊様は
権威とセットのものとして
固定的に感知することは好ましくない。

大御本尊への絶対の感覚も
権威や固定観念から解放して
自身の境涯の振る舞いとして
その不思議を味わっていく世界が
本有なのである。

そうであるならば
権威からの解放を唱えることとなり
それを良しとしない権威からの圧力は必然であり
それこそが正法の証明である。

このことを体感していけば
御書がすらすらと分かるのである。

まずは、出来ることから
池田先生のようにやってみることだ。
そして不完全なら不完全のまま
感謝して味わうのだ。

臆しない
疑わない
等はこの事に対してなのである。



[449] 飛翔

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月16日(木)03時28分57秒   通報   返信・引用

公明党が全部悪いわけでは無いであろうし

四人組だけが悪のすべてでは無いだろう。

池田先生のメッセージが
どんな人にも、その立場のままで
心に響くのは当然であろうし

認識のズレを直すための言葉も
自らの偏狭を自ら外し飛翔しなければ
排除の攻撃にしか受け取れないままだ。

偏狭の伝達は人の自由を奪う。

飛翔の伝達は人の生命を開放する。

その手には何を握りしめて
拳を振り上げているのか。

その手を開かないと
諸天は寄って来ない。

まやかしを排し
裸一貫で対峙すれば

対峙した分だけの境涯へと
開かれてゆく。

包み包まれる相互の調和の宇宙。

その交響曲そのものの在り様が
自身の今そのものなのだ。

臆しない
恐れない

自らが妙法の光となる時には
その意識の光を向ける世界では
いかなる魔王であろうとも
妙法を助ける働きしかすることが出来ないのだ。

しかもそれも
向こうにある働きではなく
自身にある働きである。

この世界の全ては
自身を作っている世界であるし
この世界の全ては
自身が作っている世界である。

そうであるならば無作とは何か?

それを覚知し体感するのが
悟りである。

注意深く観察するのだ。

メッセージは必ず現れるのだ。

観察するということは
やってみて観察し
区別していくことであり

何と何が同じであるかに
気付いていくということである。

焦る必要はない。

せめぎあいだった世界が
三世の如意の世界に変わるのである。

大歓喜の世界である。

今まで無理だと思っていたことも
必ず出来るようになる自身になるのだ。



[448] 「戦争法」・・・ガクブル

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月15日(水)02時44分32秒   通報   返信・引用

公明党議員も創価学会職員も答えられない質問  投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2016年 6月14日(火)20時07分39秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49403
~【質問者】一般の会員
【回答者】公明党議員及び創価学会職員~

正論を言うだけで、相手は答えられない。

なぜ安保法を「戦争法」と呼ぶのか?  投稿者:ご参考までに  投稿日:2016年 6月14日(火)19時30分41秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49398
~このように集団的自衛権と個別的自衛権が重なる範囲などありません。
公明党パンフレット「戦争を防ぐ平和安全法制」にある佐藤 優氏の発言「閣議決定は、集団的自衛権と個別的自衛権が重なる範囲を明確にしたものだ」(4頁)は誤りです。~

めちゃめちゃ気合の入った
資料に基づいたHPを作ってる!

【佐藤優 × ナイツ】今を生きる幸福論(テキスト化)  投稿者:虹と創価家族  投稿日:2016年 6月14日(火)16時07分28秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49372
【佐藤優 × ナイツ】今を生きる幸福論に疑問  投稿者:虹と創価家族  投稿日:2016年 6月14日(火)16時55分32秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49378
ピントのずれなどという問題ではない  投稿者:過疎地の男子  投稿日:2016年 6月14日(火)17時20分47秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49379

デジタル大辞泉の解説
ぶんぱ‐かつどう〔‐クワツドウ〕【分派活動】
一つの団体内部で、信条・利益などの相違から派閥をつくって、主導権を握ろうと争ったり、団体の基本方針とは別の行動をとったりすること。

団体の基本方針である会則に
「各人が人間革命を成就」
「初代会長牧口常三郎先生、第二代会長戸田城聖先生、第三代会長池田大作先生の「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の広宣流布の永遠の師匠である。」
「世界平和の実現および人類文化の向上に貢献する」
「この会は、前条の目的を達成するため「創価学会総本部」を東京都新宿区信濃町に置く。」
等とある。あれ?目的がおかしくなってる「創価学会総本部」の方が分派活動だよ??

これだから、投票しないのです  投稿者:虹と創価家族  投稿日:2016年 6月14日(火)11時33分4秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49345
~公明党は時流に流され公約を変えてしまう。
「裏切られた感」が、会員の中で更に拡大するね。~
~公明党、参院選公約発表 40年超える原発の運転、事実上容認~

ファイル公開:「集団的自衛権と公明党支援」の資料  投稿者:ClearSky  投稿日:2016年 6月11日(土)21時43分55秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49113
~参考までに、3枚だけ載せておきます(アップロードしてある資料は約50ページ)~

見やすい、分かりやすい資料!

日米間の密約  投稿者:生涯広布(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年 5月13日(金)17時46分31秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/46470

集団的自衛権を、日本の「官僚」と「米軍」(日本以外では通常、交渉は「官僚」対「官僚」)の間で交わされた
密約を加味して考えると、アメリカが戦争を始めれば、それが世界のどこであれ、日本は
「米軍の指揮下」に入って参戦する。という図式になる。

地区部長語る!  投稿者:ひかり(正義の師子同盟)  投稿日:2016年 5月24日(火)02時08分34秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/47445
~F地区部長「なんだよ。上の連中が言ってることしか聞いてないの? 時事放談で石破と藤井と、まあ二人自民党の大御所が出てた。藤井は元財務大臣、石破は地方創生大臣ね。
藤井が言ってたぞ、『安保関連法を通したのは良くなかった、戦争ができるようになった』って。どういうことなんだ?説明してくれよ。自民党だって『戦争できるようになった』って言ってんだよ。」

幹部「せ、戦争は、できない、んでしょう?」

F地区部長「いや、あんたはどう思うのか、知りたいね。戦争できるって、テレビで藤井がアッケラカンと言うから、ぶったまげたんだ。なんだ、やっぱりか。もうそれが普通の認識なのに、票ほしさに、学会員にだけそう言っといても信じるだろうと値踏みして、パンフなんか作って、だましてんだろ?」~



[447] 秀逸

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月15日(水)02時39分23秒   通報   返信・引用

次世代  投稿者:ジョーカー  投稿日:2016年 6月 9日(木)23時33分41秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48961
~反対意見に対して、「排除」を選択した。すべての前提が、会の方針は正しく、それに合わせられない人がおかしいという構図。~

在り方が反転している、その根っこは何か?
秀逸な問い。


広宣流布後の未来  投稿者:蘭夢  投稿日:2016年 6月14日(火)00時56分54秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49314
~例えていうなら、厨房に入る時、今日は何を食べようか、何を料理しようかと考えているのである。
よし、今日はステーキにしよう。
そして、分厚いステーキ肉をもって、厨房に入るのである。
その時、自分自身が何を調理するのか、覚えている人、忘れている人がいるのだ。
そして、忘却の人は嘆くのだ、こんな生肉、食べれないよ。まずいよ。
そうだろう、調理していないのだから、塩、コショーして、焼かねば、ステーキとならない。
しかし、忘却の人は、わからない。調理するという事すら忘れているのである。
智慧とは、そのことを思い出すこと。~

必要なものは全て揃っている。
そのことに気付くかどうか。
秀逸な比喩。


【如説修行と不軽菩薩の実践】6/9  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月13日(月)10時18分27秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/49239
~多種多様な生命体の塊である地球上で
「仏法を聞くことができない」状態~

言わずもがな秀逸な論考。
だからこそ生命感での再論考が見える場合もある。
生命の躍動自体を仏法と捉え
「仏法を聞く」=「生命のエネルギーに即す」と見た場合
有情非情にわたり、そこに躍動の体感があれば仏法であり
最も「仏法を聞くことができない」状態なのは
何かに追われ例え素晴らしい教えを見ても
狭い概念で文言だけに囚われて
何の歓喜も湧くことのない自我の強い人
かもしれない。
どちらにせよ、ぞっとする話。



[446] 不思議メモと体感

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月14日(火)04時01分45秒   通報   返信・引用

単純に、知識や思考
理屈で言っているんじゃないってこと。

まぁ、煮詰まって凝縮しただけの感覚というものは
一般的に言うと「重い」だけかもしれないけどね。

創価不信仰断言仏と書いてあるから
8年前ぐらいのメモだと思う。

「もうこの信心はやりません」と言って
仏法の変革のサイクルと
智慧のエネルギーを覚知したあたり。

横に死際之他者生存神とある。
希死念慮(自殺願望)に囚われた人
(死んでしまった人も死なせなかった人も)
に関わった経験からの

それでもどんな人にも
生の希望を与えたい想いと願いだね。

私の場合は割と、
苦しみ抜いた経験が
体感のベースにあるということ。

純粋な人類の一員として
感謝の思いに立って

苦しまない誰もが出来る方法で
生命の真実の姿を伝えたい。

生かされている自分がどんな姿なのかを映す鏡を
顕し示したいということだね。

そういう眼で見てアルベア法というものが
いかにすごいものかということだ。

「非二元」のための身体操法 投稿者:アルベア 投稿日:2016年 6月11日(土)05時23分34秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/533

「え?そんなことで可能なの!?」
「びっくりぽん」

なのだ。

一方の私は
格闘の技法を研鑽中かもしれない。

ありがとうございます。



[445] 仏智の世界

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月12日(日)02時55分2秒   通報   返信・引用

自己性のストーリーはそれぞれに違う。

だが、行きつくところとして
目指しているのは

人と人とが
完全に平等に
唯一共有できるもの。

なぜかならば
それだけが

「人間とはどこから来てどこへ行くのか」
との問いに答え得るからだ。

そうであるならば「それ」は
三世性を帯びていなければならない。

「それ」を求めるのは本来
人間が幸福を求めるにあたって
必然なのだ。

「それ」の始まりを思索すると
諦めない限り
始まりに行き当たらない。

ここに至って
始まりとは諦めなのだ。

そのような時間的無限性が

人と人だけでなく
人と自己
人と宇宙に対しても

諦めない限り
完全な平等の共有が続いている。

無限の包容力が
そこにはある。

終わりがないという世界に生きることは
勇気がいる。

それはすでに
有限の幸福を手に入れたとき
それが惜しくなるからだ。

有限の幸福を選択した人間にとって
無限の世界に生きる人間は恐ろしい。

有限の幸福を選択することが
狭量な世界に生きる臆病者であることを
まざまざと見せつけられるからだ。

だから、あらゆる有限の力をもって
囲い込み縛りつけ迫害する。

これもまた必然なのだ。

有限の始まりも行きつかない。

有限も無限なのである。

それらは意識しないことには認識できない。

狭量な当たり前に支配されているからだ。

狭量な当たり前を意識から外せば
自然と認識できるということでもある。

教えられてきたことを反発するのではなく
ただ外して無かったことにする。

忘れる。

そして本当の意味を思い出す。

無限に学び
無限に忘れ
無限に思い出す。

思考の世界ではない。

起こることの中身である。

宇宙の新陳代謝が
全てを蘇生させていく。

生命が開かれるとそうなるのである。

この意識の円満は全てを変化させていくのだ。

不可避の仏智の世界なのである。



[444] 想うことを諦めるから難しくなる

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月 9日(木)11時01分25秒   通報   返信・引用

なぜ人は難しく考えてしまうのか。

こう思うんだけど
無理なんじゃないかな?って諦めて

策で代案を考えようとするから難しくなる。

想うことは自由なんだ。

戦争になんて行きたくない。
戦争なんて起こってほしくない。
温かみのある社会に生きたい。
平和の中で人生を輝かせたい。

この主語を
「私たち地球の家族は」として
共有し実現したい。

純粋にしてシンプルにして
大きな願い。

そう願う自由。
そう生きる自由。

その自由を
誰も奪っていない。

奪えるはずがない。

いつでもここにある。

ただ諦めて
出来ない理由を考えて

そうやって考え出した
出来ない理由を攻撃して

自分は頑張っていると思い込んで

頑張っていると認めてもらいたくて仕方がない。

全部、自分なんだ。

でもそれは頑張っていると認めてもらったところで
本当の自分の願いは叶わないし
本当の自分の思いは救われない。

「大願」に生きよ。

師匠の示した人生である。
池田先生が開き創った広布の道である。

生ききれ!

生ききって本当の自分を救うのだ!

それが最高の幸福の人生なのである。



[443] JACK様筆録 6/4小林教授 その2

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月 8日(水)10時33分29秒   通報   返信・引用

6/4の話 小林教授の憲法講座
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48764
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48766
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48768

6/4の話 参加者から小林教授への質問およびその回答
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48742
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48762



[442] 6/4小林節慶應義塾大学名誉教授のお話のメモから

投稿者: 革命こそ蘇生 投稿日:2016年 6月 7日(火)00時12分14秒   通報   返信・引用

宿坊の掲示板でJACK様が素晴らしい
6/4の話 小林節慶應義塾大学名誉教授のお話
の筆録を書いています
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48605
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48610
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48614
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48655
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48658
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48673
http://6027.teacup.com/situation/bbs/48679

私も、自分のメモから
何が生まれるかチャレンジしてみましょう。

どうも私のメモは
小林節慶應義塾大学名誉教授のお話を
そのまま持ち帰り伝えるためではなく

自分の生命現象に組み込んで
使いこなすための面があり

文章化できない部分も
あるかもしれません。

というか拙いです。
普段、こんなことしませんからね。

池田先生との出会いは20年前
48歳の時。受け入れた。

宗教というもうものは
地球上におよそ無数にある
生物種の中で、人間のみが持っているもの。

人間だけが自分の不完全性に気付くのであり
完全性への憧れが宗教を生む。

この人間だけの特権を
全部、バカにはしない。

しかし経典というものが出来上がると
その解釈の違いが出てきて
ビジネスへと変貌していく。

池田先生が作った組織の
800万人の中には不完全な人間がいっぱいいる。

創価学会→分裂

信教の自由には
受け入れる自由と吐き出す自由がセットである。
日本人はこれが理解出来ていない。

海外では、例えば発言の自由なら
しゃべる自由と黙る自由がセットにあるのは
当たり前の感覚である。

日本では例えば裁判では
結社の自由によるものとなり
法律上、教団が上であり
教団が勝つようになっている。

第三文明の出会いから立正安国論を読んだ。
良いこと言っていると思った。

ケネディースクールに1年行った。

日蓮の伝記を読んだ。
ああいう生き方をしたい。
疑問に思ったら立ち止まって考える。

正しいと思うことに命を惜しまない。
男なら。
学問の世界で思索し政治を科学し
権力が悪に走ったら立ちはだかる。

戦争法。

野党も利権。

体の限界も近いが私財を投入して戦う。
頭に血が上っての判断はダメだ。

死ぬときに後悔しない。

池田先生とのやりとり。

(天ぷら会食、書簡の経緯はJACK様の話に詳しい)

一番尊敬できる人は池田先生。
自ら学び戦い悩み人を口説く。

知識が熟成し智慧となっている。

「庶民のために」という視点では
創価大学→役に立たなかった
公明党→作ったんだけど変質

松下村塾は
今の日本の岩盤を築いた。
が、政治家になろうと思ったら
苦労せずになる。
そうでない人もその志も
いつのまにやら地位の維持になる。

正義のために戦わない。

自公の議席数2/3を阻止する。

過去は過去、今は今。

王国、神の権威から
民主国家の時代へ
民法・刑法
ジョージワシントン。

骨格 憲法。

99条は
公務員は憲法を守りなさいとなっているが
自民案では全国民が守るものとなる。

今まで権利だったものが義務になる。

何を思っても自由
人に倫理を押し付けるな。

日の丸を素通りしたら非国民として処罰。
君が代を歌わなかったら非国民として処罰。

そういう法律が作れるということ。

本当は自由民主党という「名前」は良い。

自由というのは、それぞれの個々
別々の違いを認めること。
違って当たり前で
ごちゃごちゃ言い合うということ。

それを民主的に議論して
多数決で一旦決めてみて
トライ&エラーを繰り返し向上していく。

本来の、そういう
「庶民が自由になれる社会」
を目指す。

2/3の議席数に至らなければ
話し合いをせざるを得なくなる。

おおらかに話し合う政治を取り戻す。

以上


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