いまさら やめては だめなのだ

反宿坊板、及びそれに類する掲示板へのリンクはご遠慮ください。 串投稿もご遠慮ください。 他者に対する発言は充分な根拠を示してください。



カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


803件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[511] 飛翔こそ蘇生さん

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月30日(土)18時36分57秒   通報   返信・引用

ありがとうございます。

宿板での『長の一念』での「原田会長を中心に」とは、その通りかもしれませんね!

しかし、ちょっと無謀かな?(笑)

ここのリンクを貼るのは・・・。




[510] バイアスと仏法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月30日(土)15時05分28秒   通報   返信・引用

厳護朗様ありがとうございます。

安易に「何でもあり」にするのは危険で
深い思慮が必要というのは確かですね。

元の流れに戻しつつ
今回も厳護朗様の話によって
気づかせてもらったことも
多々ありますので

バイアスと仏法の関係等を
考えてみたいと思います。

というのも、考えてみると
国土世間、三災七難、立正安国の話に
これによって整合性がつく可能性すら
あるからです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/44121
「広宣流布の暁には、こうした噴火なども起こらなくなるのでしょうか」との質問に対し
戸田先生は、
「山も成・住・壊・空という四劫を繰り返しているのだから、その生成過程で噴火を起こすことはなくなりはしないだろう」
「しかし、たとえ、噴火を起こしたとしても、それによって民衆が苦しむという事態を、避けることはできるはずだ」
と教えて下さっています。

この考えは
正常性バイアスを解く事によって
災害の被害を最小限に留め
力強く再建する考えに近いのではないかと思います。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2073084&id=77499640

意図的な思惑でない場合でも
認識の歪み(バイアス)によって

人は多く気付けないままに
誤った行動を起こしてしまう。

また、気付けたとしても
上手く修正できない場合には
かえってこの上ない苦しみを
味わうのではないかと思います。

法華経とはそういった個々のバイアスに
戒律や瞑想だけによって対処的に沈めるのではなく

その根っこにある信念(スキーマ)から変革し
http://manualtherapy.web.fc2.com/ninnti3sukiima.html

主体能動的に、社会へ世界へと波及させていく生き方

つまり人間革命に帰結するのではないかと思います。

しかし生きている限り
偏向性と現れるにせよ
志向性と現れるにせよ
バイアスがゼロになるということは
無いと思います。

歴劫修行と言われる所以ではないかと思います。

では、「悟り」に科学的根拠を求めるには
どういったところになっていくのか。

そもそも「悟り」とは
何を指し示しているのか。

まだまだ懐疑的で怪しさの抜けない
分野かとは思いますが考えてみたいと思います。

「悟り」とは
身体機能をはじめとした三世間の持つ仏智である
一念三千の自然の力に、思惑を挟まずに委ねる体感
ではないかと思います。

例えば「気功」と言うと怪しげに受け止める方も
いるかもしれませんが

仏教の修行法も一部関わっている

科学的に証明できる
「効果的な有酸素運動」です。
http://www.waseda.jp/sem-tsujiuchi/Karadanokagaku236qigong.pdf

これに思惑を挟まずに委ねるとどうなるか。

オートパイロットという概念があるようです。
http://cctw.jp/seminar/get_a_dream/

おそらくは
ストレージに近い概念に対しては
自己防衛の本能によって
バイアスが強く働くと思います。

「法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか」
とは、乱暴で強引な強さでは決してなく

ただバイアスの反作用に負けずに
慈悲(勇気)をもって

ポジティブダブルバインドの折伏を
していきなさいということだと思います。



[509] 犯罪者的?

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月30日(土)13時22分21秒   通報   返信・引用

同罪に近いかもしれませんね!

名誉毀損する意図はないにしても、画像だけ一人歩きして、アンチに利用される。

まぁ、あのパンツ好きな人には理解できないでしょうけど・・・。

では、これで終わりにしますかな。



[508] 名誉毀損、無断転載

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月29日(金)17時48分8秒   通報   返信・引用

まぁ、その辺りでしょうね。

別板でのあれやこれや
でもありますし

この板でのこの件は
この辺りで手仕舞いと
したいと思いますが

厳護朗様もよろしい
でしょうか?



[507] 刑事罰かはわかりませんが

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月29日(金)14時57分45秒   通報   返信・引用

厳護朗さんは書きにくい雰囲気ですので私の方から

出版社に出版停止や回収命令がでてもおかしくない記事を転載してますから、先生はじめ創価学会への名誉毀損は間違いないですね。

出版社の了解を得ていない無断転載でしょうから、出版社側から訴えられても負けるでしょうね。

双方とも訴えないのを見越してアップしているだけのことです。

写真掲載に関しては蘇生さんも擁護しないほうが無難だと思います。



[506] 仏法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月29日(金)00時41分55秒   通報   返信・引用   編集済

清潔な身なり様

人として学会員として
正常な心情と思います。

矛を収める度量と
相手への気遣いは流石です。

さて

厳護朗様

リベンジポルノでも
リベンジポルノ的でも
良いですけど

こちらは、先生の随筆や
日蓮大聖人の御書
日寛上人の文段
日興上人の遺誡置文に
反している事など

色々あげているのですが

そちらは
◯◯だったら嫌でしょ?
△△だったらどうするんですか?



回りくどい感情論しか
言っていないわけです。

「心の師となるとも心を師とせざれ」

ここが曖昧になるから
「先生の指導は◯◯だけど」と

心を優先して
金儲けに走ったり

一般論を優先して
「大御本尊はここに無いから
受持しなくて良い」
などとなってしまっている
創価学会の現状があるのです。

教学を通して指摘しても
「お前は二乗根性が強い」
なんて、かえって責めたりして
「幹部だから偉い」みたいな
こともまかり通しているんです。

でも、心情や一般論で
全部解決するんなら
仏法いらないわけですよ。

仏法は厳しいのです。
ちょっとの油断で
魔に破られてしまいます。

大御本尊も受持しないし

学会員ってだけで
正しい信心をしてるって

思い込みじゃないですか
それは。

全ての事は一旦、善悪無記です。

例え核ミサイルでも
地球に迫る隕石を破壊すれば
善であるようなものです。

学会幹部でも仏法を軽んじ
生命の尊厳を踏みにじれば
それは悪です。

しかし、あの画像アップは
受け取る側がどうであれ
発信する側は
リベンジポルノ的な意図では
書いていないんですよ。

また

リベンジポルノって
刑事罰の対象ですから

「あいつは犯罪者的だ」って
言っているようなものなので

だったら、例えではなく
具体的に何に抵触するのか
その根拠を示さないと

この掲示板の注意事項に
反します。

だから、こんなレベルの
感情のバイアスを植え付けた
信平狂言訴訟って

一体、なんでこんな事に
なっているのか

がぜん観察し
本質を見抜く必要性は

そういったことを相手取っている
人からすれば

あるんじゃないですかね。



[505] (無題)

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月28日(木)18時24分57秒   通報   返信・引用   編集済

> リベンジポルノその他の
> 概念も再確認してね。

誰も『リベンジポルノ』だとは言っていないのですがね・・・。

『リベンジポルノ的』だと言っているです。

そういう性質があるということです。

清潔な身なりさんの例え話もわかりやすいですね!

> もし蘇生さんの実名顔写真、住所家族情報付きで連続殺人犯でっちあげの記事が近所に撒かれたと考えて下さい。

私も顕正会の輩が新聞をまきちらかして、こちらが駆け付けると「何で妨害するの?」などと言ってくるときに、似たような例え話をすることがあります。



[504] サイヤさんとんでもないないです。(^^ゞ

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月28日(木)17時00分59秒   通報   返信・引用

サイヤさんの掲示板に、脱線気味のコメントをしたこちらの不手際です。

ちょっと前に宿坊板では女性会長を望む声があがってましたよ。サイヤさんが半年まえから発信されてたことに追いついて来たんじゃないかな(^o^)

私も題目を糧に日々の仕事、子育て、活動とこなすので精一杯です。まだまだ先は長いです(^-^)



[503] 無視できません。

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月28日(木)16時54分45秒   通報   返信・引用

蘇生さん

難しいことは抜きにして、大切な人の捏造記事を事実の周知のためとは言え、ネットにアップされたら普通の人は無視できません。

それに打ち勝つことが求められる組織では無いはずです。ただそれだけです。

彼らの手段は誤ってます。ネットにアップすることがどういうことかまだ判ってないのです。
自分は匿名でアップしているのですから卑怯としか言えませんよ、先生をネタにした回収命令レベルのデマ記事をネットにアップすることは後生まで引きずる罪です。蘇生さんもおわかりになりますよね。

私ははしゃいでアップを続けている、何とかの住人が異常だと言ってるだけで蘇生さんを責めているのではありません。お気を悪くさせてすみませんでした。



[502] まずはお詫び

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月28日(木)16時16分50秒   通報   返信・引用

お久しぶりです、身なりさん。

ここ数ヶ月宿板は訪れておらず、画像については何も知らずに発言していました。全体を把握せずに身なりさんの最後の一言だけに噛みついたこと、お詫びいたします。

婦人部を先頭に現場でがんばっていることは、うちの奥方を見ていれば分かります。決してそれを否定するものではありません。各人各様の使命があるように、それぞれの闘い方があると思います。私は私の闘いを誰かに強要したことはありませんよ。

写真(画像)については未だに把握していませんので発言は差し控えます。

原田会長が受持の対象としないと真っ向から否定した大御本尊です。私からすれば無数劫無間地獄の罪だと思いますが、多くの会員はそうは思わず、以前はそういう時代であって、今はこういう時代なんだと思っているようです。(友人談)

私とて何をどうすれば良いのか、いまだ五里霧中です。唱題と思索を続けてまいります。

とりあえず、お詫びまで。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[501] 一人立つ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月28日(木)15時06分36秒   通報   返信・引用

だから、

イケディアンの住人様が
リベンジポルノ的な事を
しているのではなく

最高裁に訴権の乱用と断罪
されるような
虚言リベンジポルノを仕掛けた
信平信子と
その裏にうごめく人達がいる
という事実を

どれぐらいショッキングな
内容を書かれたのかという
事実の提示によって示されて
いるという事を

まず立て分けて考えないと
論点ずらしなんですよ。

リベンジポルノその他の
概念も再確認してね。
http://synodos.jp/society/8056



全員に同じ闘いをしろと
誰も強要はしていないのだけど

無視する事が出来ないというのが

感情のバイアスが働いている
と言っているのです。

そして、

打倒日顕宗、打倒共産党と
組織をあげて闘っている
創価学会を

気持ち悪いとしか思っていない
一般人が多数いる事実を考えると

気持ち悪い闘いをするべきで
ないと言うのなら

そこから直さなきゃいけない
ということで

そのためにはやっぱり
感情のバイアスを解かないと
いけないということに
なるんですよ。

組織に依存し頼っているうちは
出でよ幾十万の山本伸一と
言われた、その一人にはなれない
のです。



[500] 学会員である誇りを胸に

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月28日(木)13時51分22秒   通報   返信・引用   編集済

蘇生さん

>「一人残らず救って行く」ためには
「君は闘わなくて良いよ」という人はいない。

>各人が闘って自分で勝ち取らなければ
真の幸福は訪れず、救われないのだ。

もちろんそうですが、みんながそれぞれの闘いがありますよね。みんなが古い写真集みて執行部の悪事を暴く集団んて、気持ち悪くて誰も入会しませんよ。
そんな強さをみんなが持つのなら組織はもはや必要ない気がします。
力だけが取り柄の父でも、組織に着いて朝晩祈るだけで幸せな家庭を築けました。難しいことはわからなくても信じて祈るだけで幸せになれる組織に戻せるひとが、難しいことでも考えてやればよくないですか?

もし蘇生さんの実名顔写真、住所家族情報付きで連続殺人犯でっちあげの記事が近所に撒かれたと考えて下さい。

それを私がこれは執行部が仕組んだデマですから信じないようにと、その家族情報付の実名顔写真をネットにアップしたらどうですか?一生消えませんよ!どこでどう形をかえてその顔写真が拡散されるか分からないのですよ、アップする必要性を感じますか?というか絶対だめでしょ?

一歩引いて考えてほしいです。

彼らは少なくとも手段を間違えてます。



[499] リベンジポルノ的との表現について

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月28日(木)13時01分40秒   通報   返信・引用

Wikipediaの『リベンジポルノ』の概要には以下のようにあります。
「インターネット普及による情報化社会である時代においては、写真・動画がネット上で流出・拡散すると削除が困難となり、半永久的にネットに存在し続けるデジタルタトゥーとなりやすい。」

あのパンツ好きの方には少し考えてもらいたいところです。



[498] 信心の一念の強さ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月28日(木)09時46分7秒   通報   返信・引用

今も昔も、創価学会の悪口は溢れていて

だから学会の正しさを証明するためにも
みんな真剣に闘ってきた。

インターネットを検索すれば
あること無いこと

創価学会の活動をまじめにやるなんて
迷惑な社会のゴミクズ
おめでたいバカ

そんな論調もあるが

今の学会本部についていくことは
それが現実のものとなる事を危惧する。

信平狂言事件なんて元より勝って当然の
今では何の論難にもならない
最高裁のお墨付きである。

こんなことに
あまりにも局所的に
感情のバイアスが形成されているのは

「カメはウサギに勝つ」という事を
必要以上に盲目的に信じているようなもので

そんな人間を騙し利用するのはたやすい。

つまり逆に言えば
この感情のバイアスを解いていかない事には

利用され盲従させられている学会員を
解放していくことが出来ない

という事が見えてくる。

であるならば
週刊新潮の信平の記事の画像のアップは

大御本尊を受持しないとされても
疑問も持たず、あるいは疑問を持ちながらも
結局、創価学会についていけば大丈夫だという

文証理証現証ではない
形成された感情のバイアスだけに
従ってしまっている
最前線の純粋な学会員たちを

解放し救っていく手立ての一つである。

人間はえてして
見せつけられなければ気付けない。

リベンジポルノとは
本人が公表する気の無い「事実」を
私的に知り得た他人が勝手に公表すること。

論点がずれる。

「監視しなければならない」とか
そういう発想が生まれること自体

危険な権威主義の片鱗である。

どこのどんな勢力を恐れて
一触即発の冷戦を繰り広げようというのか。

現在の創価学会は
正々堂々と正しい信仰を
貫くことが出来ず

その後ろ暗さから
あらゆることを恐れ臆病に

仮想敵を設定しては攻撃することでしか
自分の存在を確認し安心することが
出来なくなっているのだ。

本来の信仰に立ち返るならば
生命と御本尊は一体であり

恐れるものは何もないのである。

日寛上人の法門には
「我々の凡眼に写る板曼荼羅・紙幅の曼荼羅は仮かりに事物に寄せて顕された」
「我等衆生の信の一字の処、即ち己心の仏国土に戒壇本尊は建立される」
「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」
とも言われている。

何事も信心の一念の強さによって突破すべきである。

現在の創価学会執行部は
最高の「人間尊敬の教え」を、
最低の「人間蔑視の教え」に、すり替えてしまっている。
法華経の智慧に学ぶべし。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6621



[497] 言い方が悪いかもしれませんが

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月28日(木)07時22分29秒   通報   返信・引用   編集済

リベンジポルノ的に思えてなりません。

あの画像が半永久的に漂うのです。

国会図書館にもあるじゃないかとは、次元が違います。

人の噂も七十五日レベルではありません。
鎌倉時代や一昔前とは違うのです。

今まで、あそこまで纏まった精細な画像は流れていなかったと思います。

アンチが先生を歪めるために利用する危険があるのです。

その都度、破折すればいいこと?

広範なネット内を四六時中監視しますか?



[496] 週刊新潮の信平の記事

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月28日(木)03時49分1秒   通報   返信・引用

宿坊の掲示板の
イケディアンの住人様の週刊新潮
の信平の記事のアップの事を
ここでスーパー摧邪人様に言っても
しょうがないですよ。

スーパー摧邪人様は
現状の創価学会に対する認識が
甘いんじゃないですか?
ということを
週刊新潮の信平の記事の件とは
関係なしに言ったんじゃないかと思いますが。

私はもともと
こんなにこの話にタッチする
つもりじゃなかったのだけど
どうも、そうもいかないようですね。

信平狂言事件って、考えてみると
池田先生の遭った「難」です。

三流週刊誌の記事と言うなら
むしろ決然と論陣を張り
悠々と見下ろし
真実を射抜く必要がある。

釈尊の九横の大難や
日蓮大聖人の法難はつぶさに学んでも

池田先生の遭った難は
学んでいいものと学んでいけないものが
あるのはおかしい。

弟子として仇討ちを誓わねばならない。

大御本尊への回帰を急ぐ
とは言っても

「一丈のほりを・こへぬもの 十丈・二十丈のほりを・こふべきか」
ですし

悠々と見下ろせない
感情のバイアスを
乗り越えなければならない。

「一人残らず救って行く」ためには
「君は闘わなくて良いよ」という人はいない。

各人が闘って自分で勝ち取らなければ
真の幸福は訪れず、救われないのだ。

中途半端が一番いけない。

ほどほどでも良いよというのは
日蓮仏法においては無慈悲である。

しかもなお
誰から言われたという事でなく
内からの、自身と御本尊の誓いによって
晴れやかに歓喜をもってである。

関連する随筆を
いくつかリンクします。

http://ameblo.jp/2014-kc/entry-12138264099.html

http://d.hatena.ne.jp/peppie/20060520/p1

http://d.hatena.ne.jp/peppie/20040316/1079404556

http://d.hatena.ne.jp/peppie/20030818/1189410048

「救う」ということが
温情によって「救ってやる」という風に
勘違いがあると、おかしな組織になる。

本当は職員たちの方が
浄財によって生活させてもらっている立場
なのにあべこべになっているのだ。



[495] 「一人残らず救って行く創価学会でなければならないのです」

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月27日(水)22時45分0秒   通報   返信・引用

サイヤさんお久しぶりです<(_ _)>

今の現状はその通りだと思います。それでも地区には婦人部を先頭に踏ん張っている会員さんが何百万と居ます。
組織を蘇生させる手立てを考えることはとても大事ですが、みんなしてマッチョになって闘う必要があるのでしょうか?

写真をひけらかし強くなれというのは乱暴が過ぎると思います。

大御本尊への回帰を急ぐことが近道であると私の中に確信があります。



[494] 一人残らず

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月27日(水)16時05分34秒   通報   返信・引用

基本に立ち返ると

法体の折伏は
日蓮大聖人の三大秘法

化儀の広宣流布は
創価の三代の戦い

その両者を繋ぐ教学が
日寛教学。

現在の創価学会が
これに適っているかというと

大御本尊を受持しない。
日寛教学を使用しない。
池田大作全集を打ち切る。

宗門と決別したのだから
独自路線で良いんだと言いながら
その主軸は不明。

あえて言えば
認定権を持つ時の会長が中心。

これは日興遺誡置文に反するが
御観念文には日興上人は残っている。

支離滅裂ですが
異をとなえたら処分。

これでは
何によって誰を救うのか

全く創価学会が変質して
しまっているという
話なのですね。

スーパー摧邪人様の話は
正論だと思います。



[493] 一人残らず救って行くのが創価学会です

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月27日(水)12時55分29秒   通報   返信・引用

「一人残らず救って行くのが創価学会です」

私はそうは思いません。このように云うと若干語弊がありますので云い直しますと、現在の創価はそうではないと思います。もしそうであるなら創価を除名処分となった3人が、ブログで騒いでいることの説明がつきません。大聖人の仏法は全民衆を救済する思想であり、その方法を指し示したものです。かつての創価学会はそうだったかもしれませんが、現在の創価は一人残らず救おうなどと考えているとは思えません。

現場レベルではまだその思想が残っているかもしれませんが、創価を離れ宗門へ走った人間に対する仕打ちを見ると、それも疑わしいと云わざるを得ないかもしれません。最近友人の一人が宗門へ行きました。仮にAさんとします。以下は伝聞ですが、Aさんが宗門へ行きしばらくして、組織から「打倒 A」と書かれた書面が回ってきて、仏壇に供えて祈るようにという話があったと云います。

これを聞いたとき、「そこまで落ちているのか、この組織は」と正直思いました。中枢部が腐敗すれば自ずと末端も浸食されていくのでしょうが、私の地元はまだそのような感じは受けません。地域差が大きいのでしょう。副本部長の家内は部員さんのために毎日走り回っています。家内も私の考えを知っており理解していますが、「本部と現場は別物」といって、学会活動に余念ありません。

宗門が懶惰懈怠にして大聖人の仏法を世に埋没させていた中、その法を世に問い世に弘めていったのは創価学会です。この事実は紛れもないものです。大聖人の仏法を現代社会に蘇生させたと云っても過言ではないでしょう。創価学会の出現が無ければ、宗門は日蓮系の田舎の一宗派のままであったことでしょう。全民衆の救済を可能にする日蓮仏法であるにもかかわらず、宗門の徒輩は自らの食い扶持くらいにしか考えていなかったのでしょう。

そう考えると創価学会の存在意義は比類なきものと云えます。この部分は私ももろ手を挙げて賛同します。しかしその創価は現在、邪教化しつつあるというのが私の認識です。その理由は各所で述べているので割愛しますが、比類なき存在であり大恩ある先生が育んできた創価が、このまま腐って行くのを黙って見過ごすことは私にはできません。それ故に声を大にして各所で述べています。(最近減っていますが・・・)

私の認識が誤りであり、創価は邪教化などしておらず、今後も大聖人の仏法を宣揚しつつ、一切衆生を救済していくというのならそれでいいのです。愚かな壮年部が一人、誤った認識のもとに騒いでいただけのことですから、時と共に消え去っていくことでしょう。しかし内外の情勢を見る限り、私の認識は当たらずといえども遠くないところにいると考えます。それ故に思索を重ね唱題し続けているのです。

追伸: A氏の論は私にとって「九重の劣」ですので見るに値しません。毛嫌いしている訳ではありません。生身の日蓮大聖人であらせられる御本尊を「シンボル」とする論に、如何なる価値を見出せというのでしょう。いつかイササカ先生が云っていましたが、「普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず」との御文に明確に表されていましょう。(開目抄)

http://macska2012.blog.fc2.com/



[492] 清潔な身なり様

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月27日(水)10時03分24秒   通報   返信・引用

お久しぶりです。

一つの日蓮大聖人の御書の解釈
教義や本尊論でさえ
その捉え方は千差万別十人十色。

54年問題の捉え方も
その解決に向けた手法も
イデオロギー同様
様々な違いがあって当然ですね。

南無妙法蓮華経を考えるにあたって
生命論として生命現象を見ていくならば

事象は、とても平らで差別がなく
本来平等で境目が無いのです。

とは言っても実際の現実には
様々な差別が存在し
人はそれに苦しむわけです。

依存したり拒絶したりね。
それは「これが正義」という
固定化された思惑が存在しているのです。

この差別を生み出しているものは何か?

もう一度捉えなおそうと思ったら
なかなかスマートにはいかないことも
あるかもしれない。

それが良いやり方かどうかは
ここでは判断はしませんが

あえて極自然に拒絶反応の起こる
事柄を取り上げることによって

見る側、見られる側の
この生命現象は
どういった風に起こっているのか

自己観察、俯瞰の観察の
機会ではあるかもしれません。

自身の生命現象は
全部が南無妙法蓮華経なので

この生命現象の自身と向き合わないことは
法華経に背を向けている事でもあるのです。

犯人捜しのような事は置いておいても
この機会に自身の生命現象を観察するのも
飛翔への一歩になるかと思います。

毛嫌いせずにアルベア論を見てみると
何か発見があるかもしれませんよ。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/414-442

まぁ、言っても
上級者向けの、さらに粉動されないための強さ

崩(くず)れることのない自由自在の生命活動(常)、
生きていくこと自体を楽しむ絶対の幸福感(楽)、
何物にも粉動(ふんどう)されない円満かつ強靱(きょうじん)な主体性(我)、
何物にも汚染されない清浄(しょうじょう)な生命(浄)、
以上の四つに象徴される最高の境界(きょうがい)。

の仏界への挑戦といった感じかもしれませんね。

参照:仏界の引用元
http://www.geocities.jp/kokoronoshikumi/hokekyo.3000.wakariyasui.html



[491] 私は週刊誌拒絶は極自然だと思いますね

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月27日(水)08時19分18秒   通報   返信・引用

お久しぶりです(^o^)

蘇生さん、時間が空いたときは読ませもらって勉強してます(^o^)

大多数の会員さんは嫌な思いがすると思います。その裏で誰が何のためにやったを考えるより、その策略に惑わされずみんな祈って広宣流布の道を進む。
それで大きな意味があると思います。

犯人探しは、そのエネルギーと情報源が有る方はおおいにやって行くべきですが、やらない会員さんをお花畑だとか組織依存だとか蔑むのは論外です。

写真を投稿している方に、そのような発言が見られるので反感をかうのだと思います。

一人残らず救って行くのが創価学会です。



[490] 厳護朗様

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月27日(水)02時58分6秒   通報   返信・引用

ふーむ、なるほど。

信平狂言訴訟を取り扱うような
週刊誌など学会員が見るものじゃない

という概念作りにも一役買っているようですね。

当時活動家なら
みんな知ってる
最高裁が「訴権の濫用」と断じた前代未聞の“狂言訴訟”

訴訟はコラージュ画像みたいな
出来心の面白半分でできるものじゃない。

まぁ週刊誌の作文は
コラージュ画像レベルだけれど。

このチグハグさ
黒い意思。

例えるならば
~~日蓮大聖人は依智に滞在すること20日余り。その間に鎌倉では放火が7~8度あり、人殺しが耐えなかったのです。幕府では、讒言する者どもが「日蓮の弟子たちが火をつけたのだ」」というので、「そういうこともあるだろう」ということで、大聖人の弟子らを鎌倉に置いてはならないと、その対象者として260人程の名前が列記されました。そして、「その者たちは、皆、遠島へ流すべきである」「牢に入っている弟子たちは頸をはねるべきである」との声が上がりました。しかし「放火」などは、持斎や念仏者の策謀だったのです。まさに『三障・四魔・紛然として競い起る』です(御書P.916)。日蓮大聖人は「日蓮は仏になるための第一の味方は、東条景信であり、法師では良観、道隆(どうりゅう)、道阿弥陀仏であり、また平左衛門尉、北条時宗殿がおいでにならなければ、どうして法華経の行者となれただろうかと喜んでいるのである」と仰せです。~~
http://www.sol.dti.ne.jp/~sasaki-y/a010/b0005/c0031.htmlより

どのような讒言が
どのような意思で
どのように行われたか

また「第一の味方」を明らかにしよう
との検証だと思いますよ。

広宣流布の進退に関わることです。

週刊誌拒絶の囚われからの脱却も含めてね。



[489] 宿板の週刊誌貼り付けについて

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月27日(水)00時02分51秒   通報   返信・引用

こんな例えはどうでしょう・・・。

ご自分の娘さんの裸のコラージュ画像をネットで拡散されていたとしたら・・・。

この裸は娘のではない!

誰の裸体か検証しよう!

あの人ならやりかねないかな(笑)



[488] 宿命転換

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月25日(月)11時10分36秒   通報   返信・引用

人間だけが自身の不完全さに気付く。

気付くから、本来差別の無かったものに
差別を付けていってしまう。

博愛・個別愛・嫉み・憎悪

翻弄されて権力悪とハラスメントの
不幸な連鎖が生まれる。

親子・兄弟・友人・同僚・先生生徒・上司部下・国家国民・国際関係・・・

権力悪と言っても、その本質は社会的地位の中だけにあるものでもない。
あれもハラスメントこれもハラスメントと、実に多く定義されている。
https://kw-note.com/notation/harassment/

本来は信頼すべき
あるいは従うしかないと認識される相手からの
不条理な要求や特質の否定。

期待依存に対する裏切られである。

こういったダブルバインドから逃れるために往々にして
人は搾取へと反転し、新たなダブルバインドを生む。

参照:ダブルバインド 一般webページ2つ+アルベア論
http://mora110.blog.fc2.com/blog-entry-40.html
http://bright-ms.net/?p=1097
「不二」ということ3⇒二重拘束(ダブルバインド)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/335

群衆の中のハラスメントの心理を学ぶ作品の
一例として「少年時代」を挙げておく。
(web上で全部見れるところは見つからなかった)
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20050726

この人類の抜け出せないでいる繰り返しは
制度の充実や物質的裕福や利便性だけでは解決できない。

そしていくら考えても、思考概念でも解決出来ないでいる。

ともすれば抑鬱に沈み
食べ物の味もなく、世界も色を失い
無機質な生活は時に人を死へといざなう。

それを「弱い人間」として
間違いに気づけないまま世界は回る。

時代は必ず、もう一度本当の宗教の心を必要とする。
その心によってしか本当の解決は出来ないのである。

アルベア論に言う「非二元」とは、その心を示している。
宗教の枠に囚われない自然の心として広く捉えている。

ともあれここでは仏法を基調として話を進める。

仏法における気づきとして、
権力悪・ハラスメントの連鎖の本質的な淵源は
誰が悪いというものでもなく
「生老病死」の未解決が問題の本質なんだと
見抜いたことにある。

なかんずく「死」の問題が重要である。

この問題を考えるにはパラドックスが付き纏う。

だから考えても仕方がないと諦めるのか
だからこそ向き合って挑戦し続けるのかが問われる。

命を粗末にしてはいけない、絶対に長生きするべきだ。
反対に、どんなに長く生きようとも中身のない無駄な享楽に
明け暮れるくらいなら命を賭して殉教の精神で戦うべきだ。
というのもある。

凡夫はこれに迷うが
多少なりとも向き合うのであれば、苦しみながらでも
その分だけ価値的に生きられるのではないかと思う。

さてひるがえって仏法を、その中でも小乗より大乗、
大乗の中でも法華経、なかんずく日蓮仏法を見れば
日蓮仏法はこのパラドックスを悠々と楽しむ境涯を
得るための道を指し示しているのである。

日寛上人の臨終の姿等は、まさにそういったことを体現した姿である。
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-155.html

悟りの境涯なのである。

ではどうすればそのような境涯を得ることができるのか。

それはひたぶるな御本尊への信心による唱題行によって
今一瞬の中に永遠があるのだと覚知していくことにある。

永遠なる生命に立脚した絶対的境涯の意識から
諸法に移ろう自我を見つめ直し
どんなパラドックスも悠々と乗り越えていく

つまり

生というも死というも
二にしてしかも二にあらずという
不二を体得するところを絶対的幸福境涯と言うのです。

一面には

負の連鎖を生むネガティブダブルバインドから抜け出し
歓喜の連鎖を生むポジティブダブルバインドへと
生き方を反転させ飛翔を生む方法である。

これを変毒為薬とも宿命転換とも言う。

ポジティブダブルバインドの一例は

「気づいていますか?
あなた自身が南無妙法蓮華経であることを」

という問いになる。

yesと答えればもちろん
自身が南無妙法蓮華経という自覚がある。

これはnoと答えても
気づいていないだけで
自身は南無妙法蓮華経ということになる。

この時点で聞法下種と発心下種が成立するので
本来的にはこれで折伏は完了である。

そう、折伏とは本来、生命の本質の
気づきを促すことなのである。

これは相手への抜苦与楽の行動であり
自身にとっては歓喜の中の大歓喜の生き方なのである。

広宣流布、生命の世紀の実現とは
生命の気づき運動の歓喜の中でしか実現しないのである。



[487] 気づきの力と師弟不二

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月24日(日)02時30分13秒   通報   返信・引用

思考概念が優位である状態の
策略というものは「思い込み」である。

思考概念では及ばないと開いて
ただ「今ここ」に即すことを気づきという。

戸田先生が三十四の非ずを開いた
「仏とは生命なんだ」という気づきは

法華経を思い出すという感覚を呼び
「我、地涌の菩薩なり」という体験を呼び
劇的な創価の復活を実現させる。

気づきというものは気づいてみれば
「ああ、なんだ、そんなことか」というものでもあり
今まで行き詰っていたのが何だったのかと思うほど
フッと軽くなって全てが動き出すものである。

戸田先生のそれは「獄中」であった。

池田先生は戸田先生に師事し
並々ならぬ努力と想いによってその力を発揮していたが

まさかが実現、不滅の金字塔の大阪の戦いにおいて
自得の気づきによる上乗せがされたのではないかと思う。

参照:創価学会 師弟の誓願
https://www.youtube.com/watch?v=V_oVVv6q41w

売れるものは全て売って、病身をおして
常識的には不可能としか思えない壁に立ち向かう。

想像を絶する「億劫の辛労」の中
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」
との気づきに至る。

これは言葉にすれば
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」であるが

文上だけを追っても答にはならない。

題目にせよ御本尊にせよ
それまでも、これ以上ないほどにもちいて来たのだ。

だからこれは、もっと深い、空の体感なのである。

もっと言えば、戸田先生と池田先生の師弟における
「仏とは生命なり」に対する上乗せとしての
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」なのである。

同じく悟った空の体感、委ねるべき仏智の在りかであり

つまりは、この師弟共通の仏智こそ
いわゆる創価学会仏の仏智であり

これに同じく気づいてバージョンアップさせてこそ
師弟不二と言えるのである。

このバージョンアップは
気づき即技化の実践によってなされる。

弟子には弟子の戦い方があるという事でもある。

そしてこの創価学会仏への気づき即技化の
バージョンアップの戦いが、いかに大きな力であるかは
まさかが実現、不滅の金字塔の示すところである。

さてこの創価学会仏は
深く大御本尊様へ結び付いている。

大御本尊を受持しないという事は
よほどの師弟不二の未曽有の戦いで
ミラクルなバージョンアップでもなさない限り

創価学会仏を捨てると言っているようなものだ。

創価学会仏を捨てた創価学会など
そんじょそこいらの宗教に劣る存在となる。

美しい生命尊厳の世紀どころか
醜悪な欲望泥沼の世紀へまっしぐらなのである。



[486] 邪教化とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月23日(土)15時07分20秒   通報   返信・引用

何のことはない
日蓮仏法の肝要は受持即観心であるのに
その受持を蔑ろにしている事による。

もちろん、大御本尊を受持しない
とした事に顕著であるが

その淵源、本質は
生命の真実に対する臆病なのである。

信心とは勇気の異名であり
人間の完成を目指す観心の精進なのである。

人間の完成とは、人間の条件の練磨であり
人間の条件とは六波羅蜜に見られる。

昭和53年2月会長講義「観心本尊抄」③
https://www.youtube.com/watch?v=o3Z1fxF8U2M

この池田先生の講義の中で語られる
誤った宗教において六波羅蜜が
どのように現象化するかという事が

悉く現在の執行部の主導する
創価の中に現れているのである。

これを邪教化と言わずして
何と言うのであろうか?

池田先生が表に出られていた時には
池田先生の勇気(慈悲と哲理)に
よって主導されていたが

昭和54年以来、池田先生を除いては
いかに臆病が蔓延っているかだ。

今こそ、池田先生の弟子ならば
信心の利剣である勇気をもって
臆病の無明を断ち切っていく時である。

深く信心を起こして
自身を見つめなおし
それを磨いていくことが
崩れ得ぬ絶対的幸福境涯への
唯一の道なのである。



[485] 傲慢とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月22日(金)10時26分57秒   通報   返信・引用

華やかな上辺に一喜一憂し
そのためにならどんな
汚い手段をも使うことが

あたかも蓮華の法に叶って
いるかの如き蒙昧こそが傲慢。

創価の三代にわたる死身弘法に
文の上では報恩感謝でも
心が背いていることが

邪教化という謗法の現象化を
起こしているのである。

「心こそ大切なれ」である。

「運が良ければ」
とは、「信心が素直であれば」でもある。

素直に永遠の法に信心していれば
必ずや、一切の希望を見出せぬ
「牢獄(外には敗戦模様と学会の壊滅状態
内には師も弟子も共に獄中、そして師の死)」
のような、絶望のどん底という大功徳を受ける
ことが出来る。

ここで初めて人は、自身の身命と向き合い
その偉大さを知ることになるのだ。

これは生死を超えた覚知であり
生死を超えた大功徳であるので

当世ばかりの表層に一喜一憂するような功徳とは
比べるべくも無いのである。

されば自身の身命との向き合いなくしては
本当の殉教精神も本当の戒壇も成立しない。

この境智に向かうときには人は
例えば自身の余命がわずかと宣告された時のような
まずは拒絶し、次に怒り、信心の取引をし、
それでもどうにもならないことに抑鬱に沈み、
そして静かに受け入れた時、大生命との一体を知る。

あえてこれを拒まないで進む勇気
の異名が信心なのである。

体験による体感・覚知によって
悟ってしまえば

拒絶する必要がない
怒る必要がない
取引の必要も抑鬱に沈む必要もない
常に大宇宙の生命と一体であることを知っているからだ。

これは死をも克服することであり
もはや何が起こってくるとも
恐れるものは何もない。

いまさらやめないことが
歓喜の中の大歓喜になる。

「一心欲見仏 不自惜身命」こそ
南無妙法蓮華経である。

この生き方だけは誰にどう映ろうとも
傲慢などでは決してないのである。

いかなる難があろうとも
だから行くのだ 君と我。



[484] 運が良ければ

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月21日(木)12時00分27秒   通報   返信・引用


戸田先生は「この信心をちゃんとしていて、運が良ければ牢屋に入れる」(趣意)と云われたという。ご自身の獄中での悟達の体験を云われたものである。公会堂での講義の際も、指の間に小さな隙間を作り、「皆さんの功徳がこれくらいだとしたら、私はこの公会堂くらいの功徳をいただいた」とも云われていた。戸田先生のご境涯が伝わってくる逸話である。

私自身を振り返ってみよう。ちゃんと信心しているだろうか。組織活動は褒められたものではないが、座談会の御書講義くらいはしている。唱題は日々2時間、三千万遍、四千万遍を目指して精進に余念は無い。仮にちゃんと信心しているとして、運が良ければどうなるだろう。きっと創価を除名になって大御本尊の元へ帰れることだろう。

少し運が悪かった場合は除名にならず、創価学会の発迹顕本を推進することになるかもしれない。私の認識では現在の創価は邪教化しつつある。大御本尊を受持の対象としないという会長。身延の土産曼荼羅まで大聖人の出世の本懐に含まれるという論を展開する教学部。これらの戯言が許されている創価がまともだとは決して云えない。

しかしながら創価邪教化に気付いている会員はごく稀である。ほとんどの会員は757万票を獲得し、14人もの国会議員を送り出したことに大喜びをしているだけである。そうなると必然的に気付いた者がやらざるを得ないのである。追い出されたら仕方がないが、創価に留まる限りは恩返しをするのがまっとうな人の道であろう。

方法論もそのための戦術も五里霧中である。しかし創価の発迹顕本を残りの人生の我が使命と定めたからには、いまさらやめる訳にはいかない。唱題を続け思索を重ねる中に見えてくるものが必ずあると確信している。御本尊に祈り続けて拓かれない道は無い。三世十方の仏菩薩、梵釈諸天が必ずや道を指し示すであろう。

そしてとっても運が悪かった場合、大金持ちになって幸福な人生を送り、子や孫に見守られながら安らかに息を引き取ることであろう。創価の発迹顕本も成し遂げられず、大御本尊の元へも戻れなかったが、私の使命ではなかったとするしかなかろう。しかしそこまで運が悪いとは思わない。これが最悪でこれ以下は無い。

ここしばらく仕事が忙しく、仕事と唱題以外に余裕が無かったが、先生と創価への恩返しの闘いはこれからも続く。いまさらやめるつもりもなければ、やめる理由もない。ほとんどの会員からは「悪鬼入其身」の姿と映るのであろうか。誰にどう思われようが問題ではない。闘う男の顔をした末法の荒凡夫であり続けるとしよう。

余談だが私の若いころ「レインボーマン」という、子供向けの実写番組があった。その主題歌の三番の歌詞に「いまさら やめては だめなのだ」とある。この三番の歌詞の「愛と勇気」を「御本仏」に、「海」を「難」に置き換えてみると、現在の私を表わしているというのはちょっと傲慢かな。(笑)YOU TUBE はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=IYYE8MdJYXE

http://macska2012.blog.fc2.com/



[483] 観心「の」本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月21日(木)10時23分30秒   通報   返信・引用

日寛上人が「形見と思え」「遺言と思え」と
言い置いたのは、観心本尊抄の題号は
「観心の本尊」と「の」の字を入れて
読むことを言い置いた。

この意義について通説はとやかく
色々あるが

日寛上人以降、その境智に肉薄し
広く宣揚する実践を実行出来たのは
創価の三代にわたる師弟によってしか
成されていない事実を鑑みるに

さらなる意義を模索しようと思う。

これには日寛上人の書写した御本尊には
二乗が書かれていない事の論考と連動している。

従来、御本尊は十界が揃って書かれるものであり
日寛上人以降の最近の法主の書写御本尊にも
十界は揃って書かれているようである。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/52151
http://6027.teacup.com/situation/bbs/52155

二乗に結び付くのは「空を見る慧眼」であり
空を覚知することによって
虚空に十界の揃った御本尊が顕れる。
上に貼った蘭夢様の体験は、
まさにそういったことではないかと思う。

「空論」の大切さは戸田先生も池田先生も認識されており
戸田先生の生命論は「空論」を抜きにしてはありえない。

ここで、あれ?ちょっとまって、と思う人もいると思う。
五眼において大切なのは「仏眼」ではなく「慧眼」なのですか?と。

そもそも「仏眼」とは一般的説明で言って
(5) 仏陀の所有している,前記の四眼をすべてそなえた「仏眼 (ぶつげん) 」をさす。
ものであって、四眼と切り離されてはいない。

四眼「即」仏眼
九界「即」仏界
凡夫「即」極

そういうところになる。

さて、「観心本尊」の中心に「の」を見るのは
「空」を見ることに通じる。

字の造りも面白い。
中心から渦を巻いて回転させるような字だ。

「観」とは、自身の見ることの中にある永遠性
であり、生死よりも奥の、全ての生かしている
慈悲の生命現象である。仏眼である。

「心」とは、生命現象から起こるエネルギーの
行動であり、慈悲の生命現象の気付きを伝え
救済していく技である。法眼である。

「の」とは、一切の現れを所有していない
空である。回転・転換の中心に位置し
無作の智慧をもたらす。慧眼である。

「本」とは、教えの書物・台本ストーリー
・手本・根本・本当の真実等に従っていく
生き方である。天眼である。

「尊」とは、苦しみを感じているその肉体が
実のところ偉大な宇宙生命が敬い生かしている
尊極のそのものなのである。肉眼である。

生かし生かされ
教え教えられる

その回転の中心に「の」の字の「空」がある。

「のの字の空」とは、己心の本尊である。

己心の本尊を観るから他心の本尊も見えるし
自他不二も了解されていく。

これを「観心の本尊」と言うのである。



[482] 一生成仏

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月21日(木)03時11分37秒   通報   返信・引用   編集済

一生成仏と言えば広宣流布と並んで
我々が信心をやっている大目的の一つであり
生まれてきた目的であります。

この掲示板において
色々と論考してきていますが
少々の話題の脱線をすることがあっても
それを目指すことはブレないのです。

スーパー摧邪人様やアルベア様を始めとして
多くの同志の言葉を
自身の生命感覚から
さらなる仏法の深淵へ向かうために綴ってきました。

五眼三身なんて誰も深くやらないような法門を
ずいぶん好き勝手言いやがってとお思いかもしれませんし

実際、資料も少なく
好き勝手言ってきたものですが

五眼三身ステップアップの論考などは特に
生命感覚として手ごたえのあるものです。

さて

別にこれを確認してやろうという事では
無かったのですが、事のついでと言っては
言葉が悪いですが、

【音声御書】一生成仏抄という
(日蓮正宗の人が作ってるけど
御書の読み上げだけなので普通に御書)
youtubeを見て「びっくりポン」ですね。
https://www.youtube.com/watch?v=hcOTfL9Yp74

奇しくも図らずも、ここ最近は
一生成仏抄の説明をしていたようなものです。

一生成仏抄(創価教学研究室(赤鬼のブログ))
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52417.html

つまりは
一生成仏抄は五眼三身から導かれたものであり
五眼三身は一生成仏抄の因であり文底である
のではないかと思います。

一生成仏抄は佐前の御書ですが
五眼三身の原理を加味してみると
数々の重書の基礎になっているとも思います。

日蓮大聖人が、五眼三身の重要性を
知っていて説かなかったとすれば
それは意味深ですね。

私の提唱の五重の相対にも絡んできます。

純粋な五眼三身で考えると
アルベア様の言う「枠が外れる」
方向性も十分に持っています。

しかしあるいは
日寛教学にも深く関わりそうです。

五眼三身の論考は続きそうです。



[481] 臆すれば自滅

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月19日(火)09時57分49秒   通報   返信・引用   編集済

~~オカルトとは、目で見たり触れて感じることのできない何かである。
概要
本来は「隠されたもの」という意味であるオカルトは昔から、不可思議なもの、または非倫理的なものにつけられるレッテルである。従来は、現代では科学的であるとされている万有引力なども、見えないものを論じているとしてオカルトのレッテルを貼られていたこともあり、時代によってその意味、対象は異なる。~~
(ニコニコ大百科より抜粋)

日蓮仏法は元より目に見えない不可思議な妙法を
信じるものであり、オカルトというレッテルを恐
れての世俗的な教条主義・組織主義・権威主義・
拝金主義等に流されるならば、既にそこには日蓮
仏法の心は潰えている。

日蓮正宗からの破門後に御観念文が変更される前は
御本尊様を物質としての文字曼荼羅というだけでなく
「久遠元初自受用報身如来の御当体」として
根本尊崇・本有尊形(ほんぬそんぎょう)・
本来尊重(ほんらいそんじゅう)という字義の体裁は
あったわけであるが

教義的支柱を日蓮正宗の権威主義に依存していたため
檀家が独自に御本尊様について講義するなど
恐れ多い謗法になるリスクばかりのことだったろう。

神秘のベールに包まれた
ただただ信じる対象。

破門された時、創価学会には
御本尊様について説明できる人間が皆無だったことが
浮き彫りになったのではないか。

この事に気付かれたら、会員が日蓮正宗に流れる
ということを恐れて、

ただ池田先生の人徳だけを頼り
日顕宗撲滅キャンペーンを張り時間を稼いで
その間に、会員を流出させないという保身優先の
教義改革を画策し

また、頼りにしている池田先生も
体の弱い身の上でありながら御高齢であるため
池田先生が亡くなられた場合
社会的影響力が減り、創価学会存続の危機に
なることを恐れて、各方面への癒着を
強化していったことが考えられる。

54年問題から続く学会首脳陣の「臆病」が
事態を悪化させ続けているのである。

御本尊売込み計画
http://6027.teacup.com/situation/bbs/51785

など、生命の真実からかけ離れた行為である。

臆病風に吹かれて信じ切ることが出来ないならば
自滅しか道は無いのだ。

大御本尊を受持しないという発表前の
2014年9月時点でも、
↓こんな揶揄をされる有様だ。
https://signifie.wordpress.com/2014/09/08/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%81%94%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%EF%BC%9F/

さて
私の生命論から言うならば
当然、南無妙法蓮華経の功徳は本物であるし
日寛本尊に祈って受ける功徳も本物である。

しかし、生命感覚の無い臆病の一部幹部からの
悪しき波及に流されれば、悪道へと堕ちる。

個々人の深く見つめなおした信心が肝要である。

さて

御本尊を不敬にして悲惨な死に方をした人間というのと
強引な折伏や行き過ぎた指導によって自殺した人間では

実際のところ、どちらが多いのだろうね?

何が本当の折伏で
何が本当の謗法(十四誹謗)なのか
見つめなおす必要がある。

http://blog.livedoor.jp/ipsilon/archives/1900216.html
このブログの言葉には
全部が大正解とは言わないまでも
真実が含まれていると思う。

「生かされるまま生きる」なんて
良い言葉ですよ。

「億すれば自滅」とは戸田先生と池田先生の
師弟不二に深く関連する言葉である。

「億すれば自滅」と心に決めて
楽しく朗らかに行きましょう。



[480] 難来るを以て安楽

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月17日(日)10時58分13秒   通報   返信・引用   編集済

「心地観経に曰く
『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』」
(御書231ページ)

これは重書である開目抄下に書かれている
重要な法門です。

見方の一つとしては
結局のところ、「これしかない」と言える。

「今をどう生きるか?」との問いであるからだ。

「今ここ」が重要なのである。

って言うと説教くさいけれども
まぁ、このことだけは説教が必要かもしれない。

と言っても、爾前経的な教えに従うための説教で終わらせず
「法華経の非二元」の「開かれた生命の自得」のための説教
にするつもりである。

こちらとしてはそのつもりだが
後は聞く側の「自得実践不二」によるところとなる。

「開かれた生命の自得」のための説教というのは例の、
「外から教えられたことを信じるな」という説教である。

つまりは、いつものように
「ぷるぷるして奇跡を味わい輝いていこう」って話に最終はなる。

(いつものやつ、難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452

では考えていこう。

まず、何も教えられていない「肉眼」の状態では
複雑な人間社会の中で起こることには
ただただ振り回される。当然だよね。
まして天災になど成す術はない。

次に「因果」を教えられ「善業を積みなさい」
という教えに付き従う時点では「天眼」である。
それがたとえいかに高く深い教えであっても
外からの教えに従う限り、その範囲の縛りを受けている。
気付かない限り、いつまでも苦しい
歴劫修行なのである。
事後・認識後の思い込み・妄想の世界である。
もちろん正しい対処によって回復も見込めるが
根本原因が解決されず、同じことがまた起こる。
現代文明に顕著である。

よって、この先の段階の

まずは自身の自得によって
社会に変革をもたらせるかが
いかに人類の文明にとって
有益であるかを認識すべきである。

気付きは本来、全く特別なことではない。
現代文明の常識が阻害し
人間の特質を押し殺してしまっているために
気付きを無視してしまっているのだ。

池田先生が言われる「全ての目的を人間のために」
というのは、この気付きを促しているのである。

現代文明の悪しき常識から解き放たれる手法は
実は世界に様々に散りばめられている。

この気付きである「慧眼」の連帯が
地球の文明をステップアップさせるのである。

アルベア論にも紹介される
アシュタールも、その一つだろう。

アシュタールが「現在の因」を
どのように捉えているか動画を見てほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=0VfmEP4xyDc

時代の全体性の気付きは、この方向なのである。

次なる「法眼」は「法」と付いているから
一見すれば、それを勉強すれば身に着くように感じるが
そうではない。

むしろ、学ぶとともに
現実のものとして
思い込みではない「法のため」「民衆のため」
つまりは人法一箇に南無する闘いを
やりきること、やり尽すことで
自ずから然る法が体得され、見通せることである。

つまり、知識よりは技なのである。

一人一人が池田先生となって闘い
「法のため」「民衆のため」の技を体得するのである。

「仏眼」は、そういった生命活動そのものへの昇華であり
一切諸法の中心の静寂で明晰な歓喜の中に座すことになるが
人知では知ることの出来ないゆえに、言語の認識後の
思考の中には無い。

ただ認識のすり合わせの確認にかろうじて日蓮仏法がある。
「難来るを以て安楽」(御義口伝)等である。

開目抄 大白蓮華より 先生の講義 第13回 なぜ大難に遭うのか
(創価教学研究室(赤鬼のブログ))
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1794950.html

さて

難の遭い方にもスケールの階層構造がある。

個人で受ける難は、苦しいようだがそれはまだ小さい。

難を受けている集団の先頭に立って苦しんでいる人を護るのは
直接その個人に受けているかに関わらず個人が遭う難より
大きな難に遭っていることである。

御義口伝には
~涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」と云云、
日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。~
とある。

これがどういうことかは
分かる人には分かる。

分からないとお嘆きの方は
「味わうという選択」を読んで下さい。
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/469



[479] 生命感覚から自我機能を俯瞰する

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月16日(土)10時16分35秒   通報   返信・引用

生命感覚から自我機能を俯瞰するとは

今「そこ」で働いている自我機能が
中枢の自己機能に近い問題のことなのか
末端の些細なことに過剰に反応しているのかの
全体を見ることである。

本来、枝葉は変わっても、中心には影響がないが
自我機能が強い人は
「これじゃなきゃダメ」という思いが強く
柔軟に現実に対応することが出来ない。

目の前の現実を否定しても
起こっているものは起こっている。

本来は何が起こっていることも
なるようになっている
自己の生命と不二の
躍動そのものなのである。

日蓮仏法も本来
この躍動する生命の業に振り回されない
九識に立脚し
心のエネルギーを自在に使う技法でもある。

己心のマインドマップの中心を
南無妙法蓮華経にし
全てを自然に振舞う智慧である。

ここに不二の世界が同期し
自然に浄化・蘇生の新陳代謝が活性化するのである。

マインドマップにおいて
思考・概念による思い込み・信じ込みの
自我機能の枝が肥大化していないか

悩み・迷い→その理由→その理由→その理由→その理由
希望・夢→その依存先→願望の思い込みの紐付け→比較成功ライン
壁・苦難→邪魔な存在→その理由→排除方法→その根拠→その依存先

このように
自ら思い込みの中に生きることを増強していないか

そういうことを消しても
自己という存在は消えないし
出会うものには出会うし
出会わないものには出会わない。

マインドマップは上手く使えば
俯瞰の練習になる。

↓参考ページを2つ貼ります。
http://www.almacreations.jp/seminar/mm/about.html
http://www.ashi-tano.jp/?p=3661

おまけ
実際に夢が叶った秘密のマインドマップを公開!潜在意識の書き換え方
https://www.youtube.com/watch?v=HynXRhbgGO0

実際に何でもいいから書いてみて
見返す時に、かえって自我機能にはまり込まないように
俯瞰することを意識してみてください。



[478] 意識とエネルギーと文字曼荼羅本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月14日(木)10時57分34秒   通報   返信・引用

日蓮仏法において
全ての仏(覚者)の悟りの根源の一法を
南無妙法蓮華経と名付け
無始無終であることが説かれている。

法華経が法華経になる前
全ての諸法が概念化される前、現れる前
未だ何も起こっていない始まりにも無くならない

しかも概念化されても現れつくしても
何も欠けることなく
そのまま同じであり続け終わることがない。

そのような不可思議を顕しながらも
決して人間というスケールを蔑ろにするのではなく
むしろ積極的に知的かつ
エネルギー活動的かつ現実の実体として
妙の三義「開く」「円満・具足」「蘇生」
の活動をする生命そのもの
ひいては日蓮大聖人そのものとして
弟子が信行学を通して不二を体得する対鏡として
文字曼荼羅本尊という必然的選択であったに違いない。

そのことを念頭に置いた上で
何を信じているかによることのない
普遍的な意識とエネルギーの世界を探るために
イメージ化されたビジュアルの世界を見ていこう。

エネルギーはたぶん、あまり文章化できないのだ。

ビジュアルを見ていくにあたって
気持ちいい唱題、気功などによってその身に感じることが
正解であり、ビジュアルは
「そんな風に感じる人もいるんだなぁ」と
あれこれ考えずになんとなく見て、
嫌な感じを受けるものは、見なくてよいと思う。

まず単純なエネルギーイメージを二つ





これに飛翔というイメージを加えると



このような感じでしょうか。

あるいは、もう少し意識機能のイメージを
加えると、アルベア論でも紹介された
アレックス・グレイの世界観でしょうか。

(ここから画像貼り付けでなくリンクにします)
http://chaosophia218.tumblr.com/post/122776161897/dmt-the-spirit-molecule-dmt-is-a-molecule

アルベア論(動画あり)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/35
アルベア論(解説)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/41

飛翔は死後にもリンクするイメージかと思います。

逆に、生まれるというイメージを見てみましょう。

http://chaosophia218.tumblr.com/post/122761243427/do-we-plan-our-lives-before-we-are-born-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/143313635517/ernst-haeckel-comparative

そうしていくと
生命・人間・意識・宇宙とは何なんだ。

「人はどこから来てどこへ行くのか」
「この宇宙のエネルギー活動はどうなっているのか」
「人間の意識はどこまで知ることができるのか」

そういう意識機能によって
不思議なエネルギー世界の探求となる。

http://chaosophia218.tumblr.com/post/140042574707/robert-fludd-the-cause-of-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/123019484642/the-greatest-illusion-in-this-world-is-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/127851128787/jakob-b%C3%B6hme-aurora-detail-die-morgenr%C3%B6te-im

http://chaosophia218.tumblr.com/post/146052146857/george-franklin-the-solar-system-1882
http://chaosophia218.tumblr.com/post/141450569942/carl-g-jung-modern-man-in-search-of-a-soul

http://chaosophia218.tumblr.com/post/135706904197/the-infinity-master-creative-symbol-this-symbol
http://chaosophia218.tumblr.com/post/125418822752/megalithic-or-366-geometry-according-to
http://chaosophia218.tumblr.com/post/125085473132/quantum-experiment-shows-time-is-only-an-illusion

http://chaosophia218.tumblr.com/post/144139414387/agnes-giberne-passage-of-the-comet-of-1843-close
http://chaosophia218.tumblr.com/post/124136101507/interdependent-universe-everything-is-connected

http://chaosophia218.tumblr.com/post/135578931982/thomas-jefferson-jackson-see-the-dynamics-of-the

http://chaosophia218.tumblr.com/post/135246809767/athanasius-kircher-sciathericon

http://chaosophia218.tumblr.com/post/134394266662/the-clavis-mystica-en-giro-torte-sol-ciclos-et
http://chaosophia218.tumblr.com/post/134125974887/tower-of-silence-a-tower-of-silence-is-a

このような神秘さが信仰の対象となっていくが
対象化して表現した時

そこに人間の都合がどんどん介入していき
それぞれ違った形が形成されていく。

真実のエネルギーの神秘さ
概念として形骸化
名聞名利の道具

そういった変遷が起こるのである。

http://chaosophia218.tumblr.com/post/130933939357/jacobs-ladder-jacobs-ladder-is-the-colloquial
http://chaosophia218.tumblr.com/post/140136147512/wolfgang-killian-the-alchemical-tree-of-life
http://chaosophia218.tumblr.com/post/142626124987/george-ripley-alchemical-diagram-based-on-the
http://chaosophia218.tumblr.com/post/125923445727/siddhachakra-mahayantra-siddhachakra-is-a-popular

画像は下記のサイトから選んだ。

http://chaosophia218.tumblr.com/

あまり引き込まれすぎずに見るようにしてください。



[477] 物理・仏法・創価三代・アルベア論等の統合論考

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月13日(水)00時05分4秒   通報   返信・引用

まず、前に紹介した戸田先生の悟達を論考したブログ
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-25.html
から

~~ 十一月中旬、元旦から決意した唱題は、すでに二百万遍になろうとしていた。
 そのようなある朝、彼は小窓から射しこむ朝日を浴びて、澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目をあげていた。
 彼は、何を考えていたのだろう。何も考えていなかった。…… あえていうならば、ここ数日、再三読みかえしている法華経の従地涌出品第十五だけが、頭の片隅に残っていた。
 ………
 ―― 是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。一一の菩薩、皆是れ、大衆の唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将(ひき) いたり。況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況や ……

 彼は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。
 夢でもない、幻でもなかった。それは、数秒であったようにも、数分であったようにも、また数時間であったようにも思われた。はじめて知った現実であった。喜悦が全身を走り、―― これは嘘ではない、おれは今ここにいる!と、自分で自分に叫ぼうとした。

 彼は一瞬、茫然となった。両眼からは熱い涙が溢れてならなかった。彼は眼鏡をはずして、タオルで抑えたが、堰を切った涙はとめどもなかった。おののく歓喜に全生命をふるわせていた。
 彼は涙のなかで、「霊山一会、厳然未散」 という言葉を、ありありと身で読んだのである。彼は何を見、何を知ったというのであろう。~~

という部分について考えてみる。

「澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目」
「彼は、何を考えていたのだろう。何も考えていなかった。」

ここに思考概念を離れた純粋な「行」の姿勢が見える。

そして経文の上ではない自身の体験として虚空会を
その身で読んだのである。

言い換えると、生命の不思議な構造に気付いた
ということなのだ。

虚空とは何か?
アルベア論に紹介された頭がない方法から

「虚空に足を踏み入れ、」を見てみよう
https://www.youtube.com/watch?v=rajrobiiAfs

意識機能を「虚空」に置くと
開かれた世界のための受容能力となり
明晰さだけになる。

この開かれた受容能力により
自己認識がスケールごとの法の範囲となる。

Powers of Ten (パワーズ・オブ・テン) 日本語字幕
https://www.youtube.com/watch?v=dXat7KJfauw

これは1977年までの科学で解明された範囲のスケールである。

頭がない方法で言われる階層
https://www.youtube.com/watch?v=f2eF52V6yIs
が視覚的に分かりやすいのではないかと思う。

この見方は、まるまる物理に変換される。

宇宙白熱教室の第一回と第二回をリンクする。
(第一回は10の28乗から-28乗の世界まで
語られているが画質が劣る)
http://www.dailymotion.com/video/x2twut2
https://www.youtube.com/watch?v=QizmLY8G0OQ

いろいろ述べたいところはあるが
第二回において

「牛」を仮に「球」だとして考える方法が紹介される。
次に「太陽」を「球」だとして考える方法が紹介されたとき

ホワイトボードに書かれた「まる」に対して
受講者から「それは牛です」という意見が出る。

「そうだね」と流されるわけであるが

対象を「球の数式」としてとらえた時
それは「牛」も「太陽」も違わないという
物理学の非二元とも言える。

このようなシンプルな捉え方によって
深淵へと向かっていくのである。

この挑戦には自ずから強い信念が必要ともなる。

思考によらない振動や周波数の純粋な「行」をきっかけとし
意識を自我機能から外した開かれた明晰の中で
向き合っている事のシンプルな体感から
無分別の一法へ帰し命(もとづ)く

このように考えていくと
伝統・しきたり・あるいは新解釈・資金や人員
そういったものも組織運営には必要で
実質、世界に運動を広げ世界平和を実現するためには
不可欠な部分もあるであろうが

その根底には
「いずれ科学が証明」する部分である
「悟り」について
より深い選択をし生命感覚の人を増やしていかなければ
かえって世界平和を遅らせたり破壊することにしか
ならないとの断言に至るのである。

もう少し良いですかね?

前々回紹介した「NHKスペシャル 神の数式」で
究極の、宇宙の全てを説明できるための数式を導くためには

ブラックホールの中心を解明することが大きな意味を成す
と考えられている。

宇宙の始まりの瞬間と
行きつく一つの終わりであるブラックホールの中心が
数式上同じであるからだ。

物理学者は、始まりと終わりを解き明かすことが
全てを解き明かすことであると信じているのだ。

幾度か私は
「何と何が同じか考えるんだ」ということを言っているが
もちろんそれは自己と対象でもあるが
究極的には始まりと終わりになっていくのである。

そして始まりも終わりもない「同じ」に至ったところが
無分別の一法なのだ。

方便品には
「仏と仏」だけがよく知っている諸法実相が説かれ
本門の虚空会では
「釈迦と多宝」を中心に荘厳なドラマが繰り広げられる。

「同じ」や「反転」や「階層」を了解していくと
これが生命そのものであると了解されていくのである。

戸田先生と池田先生は
この同じ立脚点に至った。

それが師弟不二である。

次はあなただ。
まずは「法華経の智慧」をどこまで深く
生命感覚で読めるかである。



[476] 南無する祈りと場の反転

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月10日(日)10時02分48秒   通報   返信・引用

すでに従来の思考概念での教学の話ではなくなっている。
創価の組織内の個々の感覚でも、難しい質問等には
「題目や御書は教えられて分かるものではなく
自らによって悟っていくものだ」という
真実でありながらも無責任な伝承が一部あるようだ。

個人に留めるから創価学会総体として技化がなされない。
体験談を聞いてその場では奮起してもそれきりになる。

本来であるならば、これらの体感・体験を体系化して技化しなければならない。
戸田先生は実験証明と言われたが、実験証明は踏まえて発展しなければ
ただの自己満足で終わってしまい社会貢献に昇華されない。

非二元を解って読めば、池田先生の「法華経の智慧」には
(非二元的に既に池田先生という別の個ではないという読み方をすれば)
「世界の平和を、世界の非二元の連帯によって実現しなさい」と読める部分がある。
真の世界平和は、それによってしか成し得ない。
非二元の人間を育てるのが真の教育であり
非二元の喜びを分かち合うのが真の文化である。

非二元は思考・概念ではない体感・覚知である。
体感・覚知の技を体系化して伝承するのが、本来組織がやらなければならないことである。
「世界平和の技が習得・練磨される場」なら「世界」は応援を惜しまない。

ところが、だ!
体験発表の内容から組織の都合のものを褒めるように修正され
あらゆる伝達情報は組織の都合で編纂される。
世界平和はただのパフォーマンス(←気付けない)で
組織の都合(権威・金・保身)を尊ぶのが文化で
文句を言わないロボットを作るのが教育となっている。

思考・概念の自己都合によって成されることの全ては
結局のところ、いかに愚かしいかだ。愚考なのだ。

前回「NHKスペシャル 神の数式」を紹介したが
その中に自発的対称性の破れという理論がある。

完全な法則から不完全な現実が生じることによってしか
世界は存在していない。

「御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、
人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経
に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰す
るなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは
南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、
又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二
なるを一極と云うなり」

完全な「迹門不変真如の理」から
不完全に見える「本門随縁真如の智」として
起こっているありのままが無作三身であり
他ではない「我等」の色心不二を悟ったときの
真実が南無妙法蓮華経なのである。

現れ得ていない「完全な法」に帰すると
思考・概念で考えれば何もなくなってしまうようであるが
そうであってそうでないのが「空」であり
思考・概念の囚われが消えると
ありありと体感されるのが三身である。

消したら現れた。これが「南無」であり「反転」である。

光を消したら暗闇が現れた。
雑音を消したら静寂が現れた。
別々のものの一切を消したら非二元が現れた。

御書には繰り返し、別々だと思ったら利益は無いと説かれている。

「我の場」を仮に赤血球だとすると血管の中を進んでいる「我」になる。
「我の場」を仮に酸素だとすると肺という場所で乗り込み
適切な細胞に着いたら降りる「我」になる。

これは自分の意思でそれをしている「我」という思い込みを消しても
その働きには影響しない思い込みで反転が可能だということだ。

実際には何を「我」だと思い込んでいるのかというと
「自分は自分だ」と思い込んでいるのである。

これも反転が可能なのだが、いかんせん癒着がひどく
相応の技が必要となるのである。

日蓮大聖人が示したことのメインは唱題行であるが
御書の中で「とにかく」題目を唱えるしかない
といった印象を受けるのは、思考によることのない
純粋な「行」としての技の習得を促しているのである。

唱題行は一面にはアルベア論の
「聖なる周波数528Hz」の体感の獲得であるようだ。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/628

創価学会の中で「何が功徳を消している」のか
一人でも多くの人に気付いてもらいたい。



[475] 階層構造

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 8日(金)09時12分49秒   通報   返信・引用

素粒子<原子<分子<混合物質<細胞内の組織<細胞<人体の組織<部位<
人間個人<
人びと<町<都道府県<国<地球<惑星たち<太陽に同化した太陽系<
天の川の中の一角<天の川銀河<銀河団<超銀河団<大規模構造<
観測限界<それぞれの観測限界それぞれの法則を持つ宇宙たち・・・

ただし観測限界を超えていることは、一切の影響をしあわない事であり
この世界には実際に存在していないただの概念であるという事でもある。

これは距離による階層で遠くを見れば遠くを見るほど過去であるが
距離ゼロと観測限界の向こうは、通常の時間概念は消える。
時間概念が消えるという事は、通常の連続した空間から消えている。

それぞれのスケールにおいて
それぞれのひとまとまりの慣性系である。
一つの方向性を持った一つの法の塊である。

重力が大きければ大きいほど時間はゆっくり進む。
光速に近ければ近いほど時間はゆっくり進む。
絶対零度に近ければ近いほど時間はゆっくり進む。
質量がゼロに近ければ近いほど時間はゆっくり進む。

(専門家ではないので間違いはあるかも)

量子の階層では観測されるまで可能性が同時に存在している。

法の階層を見てみよう。

無分別の一法>全体性の業のまとまり>全体の素の生命現象>
解釈伝達の仏法>王法>世法>家庭内ルール等>個人ルール>
技の習得やアレルギーや持病(肉体の法)>遺伝的情報>微細な毒素等>
個別の生命現象>過去の個別の業因>無分別の一法

法で見る階層性である。こうしてみると距離という分離は消えて
「今ここ」の範囲の認識になる。

物事を立体的に見るためには
適正な距離の二点以上の同一機能によって観測し
その中心の、本来何もない「空」に像を重ねる。

これが、そのスケールに対する
「見ること」という意識機能である。

複数の自己機能の集合の統合の認識が
意識機能なのである。
ゆえに、偏った見識でなく
俯瞰しなければ物事を立体的には捉えられない。

強い自我はそれを阻害する盲目の働きとなる。

普段、身近な物体を見る時には
右目という自己機能と
左目という自己機能を
統合する意識機能が
それを立体的に見ているのである。

この、特に意識することのない意識に
慣れすぎてしまっているために
それだけが意識だと思い込んでいるのである。

ともあれ、それぞれのスケールに合った
観測の統合による
意識機能によって標準が編纂され
ストーリーや概念として伝達される。

その標準の中の一つが解釈伝達の仏法である。
それぞれの意識は標準との比較によっても
物事を立体的に捉えることが可能となるのである。

これは目的の実現化への道しるべである。

地図や羅針盤であって、実際の実現化には
技化された行動が必要となる。

何を技化するのかと言えば
エネルギーの階層構造に主体的に関与する技である。

エネルギーは生命活動を起こし現しているものである。

宇宙エネルギー>銀河エネルギー>太陽エネルギー>
地球エネルギー>種のエネルギー>個別社会エネルギー>
個人エネルギー>化学反応エネルギー>原子エネルギー・・・

文章を追っても答はない。
そこにいるあなたに起こっていることを見なければならない。
概念ではない実際なのだ。
その実際の方が正解である。
この文章は、一つの道しるべであり
あなたの実際に合わないのであれば
この道しるべの方が間違っているのである。

とはいえ、何かしら技を身につけなければ
その実際も分かり得ない。

今までの常識という概念に縛られすぎているからだ。
概念は実際ではないという事だけは体感しなければ
始まらないのである。

技については
難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452

余談

物理に興味がある方は
NHKスペシャル 神の数式がオススメ
https://www.youtube.com/watch?v=9J8g7Mqlgw0&list=PLB1zV0xlLrkydN7aq6UiwA69o2lLyfKlw



[474] Re:闘っている男の顔

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 6日(水)08時49分39秒   通報   返信・引用

「闘っている男の顔」のエピソードから
私が真っ先に連想したのは
池田先生とローザ・パークス女史との出会いです。

会ってすぐに分かった。
この人は私と同じだ。

というような書き方がされていたように思います。

共通点を探ってみます。

●まず、闘う前提に「強いコンプレックス」の存在があると思います。

小林節教授
生まれつき左手の指が無い

ローザ・パークス女史
差別を受けている黒人である

池田先生
「戦争の悲惨さを痛感し、国家神道ひいては宗教というものにノーという姿勢であった」が
「戸田先生に心酔し自分がその宗教に身を置くこととなる」。病弱の身でもあった。

スーパー摧邪人様
大御本尊への信を持ちながら、お目通りできない状況が続き、ついに教義からも消される。

●闘いは、魂からの叫びを行動に移したら、気付いたら先頭に立っていた。という感じがあります。

小林節教授
宗教法人法改悪に立ち向かったら気付いたら自分しかいなかった。

ローザ・パークス女史
公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み逮捕されて公民権運動の引き金となった。

池田先生
戸田先生が求めているのはこうなんだと示していったら先頭に立っていた。

スーパー摧邪人様
破邪顕正之書を作成。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=5256

●先頭に立っても臆さない。やめない。

小林節教授
国民怒りの声を設立し権力の暴走に歯止めをかける。

ローザ・パークス女史
「公民権運動の母」として活動。

池田先生
平和・文化・教育の理想の実現に世界を翔ける。

スーパー摧邪人様
「いまさら やめては だめなのだ」を設立。
女性会長、創価・宗門の発迹顕本にも言及し執行部の暴走に歯止めの運動。

●方向性としては、決して自分のためだけでない「法のため」「民衆のため」の行動である。

小林節教授
人権の尊重される自由な日本のため。

ローザ・パークス女史
人権の尊重される本当の平等のアメリカのため。

池田先生
数百年先を見据えた、本当の自由と平等、平和・文化・教育のため。

スーパー摧邪人様
日蓮大聖人の正統、戸田先生の明言された法のため。

闘っているか闘っていないかで言えば
間違いなくスーパー摧邪人様は闘っていますよ。
顔に現れるかどうかは自己機能なんで
「論」はともかくとしても
ぷるぷる運動ぐらいは健康法的に
やってみるのも良いものですよ。

戸田先生も自分の卑屈を直すのは苦労したと語られていたと思いますので
ぷるぷる運動で何か変わるならめっけもんです。

病院で治るものは病院で治せばいい
気功で治るものは気功で治せばいい

やることをやって、それでもどうにもならない時こそ
信心の出番です。



[473] 闘っている男の顔

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月 5日(火)16時20分21秒   通報   返信・引用

小林節教授が横浜の集会で披露してくださった「闘っている男の顔」のエピソードが、最近気になっている。(エピソードの詳細は下記リンク先)

http://6027.teacup.com/situation/bbs/48655

創価学会の発迹顕本を今生の我が使命と定め、仕事に唱題に挑戦し続けているが、果たしてこれで本当に闘っていることになるのだろうか。私は闘っている男の顔をしているのだろうか。先生は現在の私を見て、闘っている男の顔をしていると云って下さるであろうか。

昭和54年当時、北条副会長は先生をお護りしようと必死に闘っていたと聞き及ぶ。しかしそれは、先生の目にはそうは映らなかった。正木元理事長が男子部長時代、必死に闘い疲労で倒れんばかりの時も、先生からは、それは流れに乗って動いているに過ぎないと、厳しく指導されたと聞く。

これらの話を聞けば私の今の闘いなど、児戯に過ぎないと思われてくるのである。2003年から2007年にかけて日々一万遍唱題を続けていた時は、文字通り止暇断眠の日々であった。酒も煙草も断ち、睡眠時間を得るために夕食は毎晩、サンドイッチを腹に詰め込むだけの5分間のみ。そんな生活を4年以上続けていた。

この日々と比べても今の生活は余裕があり、毎晩一時間、晩酌しながらテレビを見ている。かつての4年間はそんな暇はなかった。先生から「これからが勝負」という伝言をいただき、今を来るべき闘いのための修行時代と定めたのではあるが、現在の私の生活が先生の目にはどのように映るのであろうか。

他人の目を気にしてもしょうがないと云うが、先生の目は他人の目ではない。自身の内奥の目である。我が内証である仏性の眼ともいえよう。現在の自身の生活がその眼に晒されていると思えば、自然と背筋が伸びてくる。これでいいのかという自問の中に、次への挑戦の萌芽が存在することは論を待つまい。

上記には私の自信の無さがよく表れている。これは私の傾向性であり、云い替えれば宿命ともいえよう。この書をものすることにより、この宿命に挑戦しているとも云えるのかもしれない。表面上には現れない生命の傾向性としての宿命転換を、なしつつあるというのは思い上がりであろうか。

あちこちと話が飛んで、とっ散らかった文章になってしまい、読まれる方には申し訳なく思うが、残念ながら今の私ではこれ以上まとめることができない。私の現状を知っていただこうと書き始めたものだが、余計に解らなくなったとお叱りを受けそうだ。しかしそれも含めて現在の私だと思っていただければ幸甚と思う。

毎朝の洗面の際、鏡に映る自分の顔を見て、先生に「闘っている男の顔をしているね」と云っていただけるよう、今日も一日がんばろうと決意を新たにしている。かつて創価学園の卒業式の日に、たまたま玄関ロビーで先生にお会いできた際、「スラっとした好青年だね」と云っていただいた時のように。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[472] Re:Re: 非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 5日(火)08時56分28秒   通報   返信・引用

たびたび見ていただけること。
書いていただけること。
大変にありがたいことです。

おっと、私の掲示板ではありませんでした。

祈り続け、挑戦し続ける管理人
スーパー摧邪人様に出会えるのは
「いまさら やめては だめなのだ」だけ。
先生に応援のメッセージを
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/464

さて
「泥のついた一万円札」
尾崎豊に思いをはせて
狭い範囲の個人の都合である
甘酸っぱい恋の思い出に浸っているところに

泥のついた一万円札を見せられて
やっと育ててもらった家族の恩を思い出す。

えてして人間というものは
見せつけられて初めて気付く。

「現金な存在」ですね。

目の前にあるのは一万円の価値の一万円札ですが
ついている泥は円の価値に置き換えられない
戻ってこない日々への感謝の投影なんですね。

思い出を持っているその人
またはその思い出に共感した人にしか
見いだせない価値です。

戻ってこない思い出となった段になって
つまり、失って初めて気付く。

人間とはそういうものです。

非二元というのは逆説的に
今すべてを失えば
今すべてに感謝できるという事でもある。

普段、普通は自分の肉体は自分が所有していると
思って生活している。

だけど「見ていること」の中心の意識を
よくよく観察してみると
それは肉体を所有していない。

何一つ所有しておらず、全てを失っている。
観察と投影以外の事は初めから何も起こっていないのだ。

外の世界を見るとき、人の姿を中心に見、人の考え方を中心に見るから
自分に、「人としての常識を持っている人」を投影しているのである。

この人という投影を忘れた上で
純粋な「見ること」という機能においては
何か対象を見るとき、自分はそれと同じスケールなのだ。
それがそのまま投影だからである。

この「見ること」という意識の投影は
本来、極小ともなり極大ともなるのである。

ただ、普段人間というスケールを投影して生きていて
そのスケールだけで十分に生活できていると
思い込んでいるので、適応して他のスケールを
カットして忘れてしまっているのである。

そしてこの本来は透明で空っぽな「見ること」自体を見るとき
全てを創造しているエネルギーの発見となるのである。

厳護朗様の持ってくるものは
時々、破格のものですね。

ありがとうございます。



[471] Re: 非二元

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月 4日(月)23時27分55秒   通報   返信・引用

> さて、例えば
> 私の財布に入っている千円札も
> あなたの財布に入っている千円札も
> 同じ千円の価値です。


飛翔こそ蘇生さん、ご無沙汰しております。

ふと思い出してしまったので少しだけ・・・。

「北の国から」の一場面。
純が渡された一万円札2枚。
それには泥がついていた。

超有名な場面である。

知っている人も、知らない人も
「泥のついた一万円札」
でググってみてください。

特に何が言いたいってことではありません(笑)



[470] 信仰の認識化前の尊厳

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 4日(月)19時34分39秒   通報   返信・引用

人の命を知らないで
どうやってそれを輝かせるだろう。

大切なものを知らない
心無い世界が全ての希望を奪った。

全ての光を失った真っ暗な世界で・・・

小さな光にも気付いた。

激流に押し流されながらも
光を通さない黒い粘土に押しつぶされながらも

境界面に達する
その時まで

最後のたった一文字までも。

もう何も持つことの出来ない彼らに
信仰と言ってもこんな押し付けられた概念を
さらに押し付ける事など何の役に立つだろう。

眼前にある慟哭は
ただただ生命の嘆きが
何を求めるのかの真実だけを映していた。

ここにそろった苦しみは
ここに光があることを教えてくれた。

苦しみを知っているから
もう一度人生は輝くのだ。

誰も押し付ける権利などない。
自己自身こそが世界を反転させる光なのだ。

そんな気付きの光明の日々も
いつしか過ぎ去り

まだ不完全であることを
補う生命の洞察をしていた。

あるときあまりにも眩しく輝く光を見つけた。

この輝きは何なのか
辿り理由を見つけた。

重い病に

絶対負けない
だから皆も負けるな、と。

励まし続ける一人の姿があった。

疑ったことで一番大切な人の命を失ったことがある。
だからもう騙されても最後まで人を信じる、と。

励まし、同苦し、信じ抜くその姿は
生命を完全に輝かせている姿であった。

君が生きている今日は
世界の明日の希望。

君の光を僕も運ぶよ。



[469] 味わうという選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 4日(月)03時24分54秒   通報   返信・引用

人間は賢い生き物であるとは
誰が決めたのであろう。

この定義による挑戦によって
数々の発見もされてきたのであろうが

数々の間違いもあったのではないだろうか。

特に「分からないことの大切さ」を
置き去りにしてしまっているのではないだろうか。

私の書いてきた事には
それは分からないんだという内容も含まれている。

分からないのだから分からなくて正解である。

古来、法華経というものは
その美しいストーリーと音律によって
民衆に愛されてきた半面

仏教学的に読もうとすると
難しくて何が言いたいのか分からないと
嫌われてもきた。

自分を賢いと思っているから
分からないことが許せない。

そして、その対象である
法華経を憎む。

無限地獄の業である。

そもそも、法華経の最重要の
寿量品のテーマである如来の寿命は

認識する側には分からないのである。

認識する側の九界の最高位の
不退転の菩薩の智慧でも

仏の智慧だけは
どれほど深いところから来ているのか
思考で推し量ることが出来ないと説かれているのだ。

つまり、仏法を学び実践し
何があっても退かない決意をし
考え抜いた上で「分からない」が
法華経の正解なのである。

「分からない」と言語化される前の
分からない感覚。

この感覚の中にはまだ自分が無い。

この感覚を受けて「分からない」と
認識したところから自分がある。

「分からないと」認識して
多くの人は
「自分は頭が悪いからだ」
「勉強が足りていないからだ」
そして
「遊んでばかりいたからだ」
「親がしっかりしていなかったからだ」
「もともと頭の悪い家系なんだ」
等々、ストーリーを延々と追う事しか出来なかったり

あるいは
「もともとでたらめで真理なんか含まれていない」
「自分には自分の信念があるからそれはいらない」
等々、我見に閉じこもってはねのけたりする。

でも本来、思惟できないと説かれているものを
素直に信じるならば

ああ、これが「思惟できない」「分からない」って
感覚なんだなぁ、と、ただ味わえば良いのである。

分からないってことを分からせてくれるこの自己機能ってすごい!
こんなにも分からないを味わえる自分ってなんてすごいんだろう!

そういう発見が気付きでもある。

この法華経の言語化前の分からない感覚、
法華経の非二元の感覚を体感しておけば
どこで法華経の非二元の力が働いているかのレーダーになるのだ。

そしてそこに意識を合わせれば
その大きさや方向性に影響を与えることが出来る。

それはもう魂の不可能の克服でもある。
奇跡の一瞬一瞬を生きるという事だ。

「分からない」ということは
大切ですごいことなのである。



[468] 自然に仏界にいたるべし

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 3日(日)10時08分7秒   通報   返信・引用

私が、かつて法華経の智慧を読んだ時
一番驚き、そしてワクワクしたのは
妙音菩薩のその大きさである。

身長、四万二千由旬
宝塔の八十四倍
地球の二十四倍ぐらいの大きさ
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8779

私は法華経の智慧を目を輝かせて読んでいた。

法華経の智慧を笑って読めるのは
君ぐらいのものだよ、なんて言われた。

それはともかく
戸田先生の悟達を中心に
論考されているブログの記事を見つけた。
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-25.html

いろいろあるが最終的に
「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書234P)
とは、法華経の非二元に立てば自然に仏界が開かれる
という事である。


さて

「今日は空に海があります」



私が言ったらどうだろう?

もし
「あなたに一万円あげます」
と言って千円札を渡したらどうだろう?

「あなたはおかしなことを言っている」
「九千円足りないじゃないか」
等々

「言葉として現れた現実」と「思い込んでいる思考」との違いに
自我機能が拒絶反応を示し、現れたものを素直に味わえない
のではないだろうか。

それが疑う心であり、その反対が信心である。
信じるべきは「人間の思惑」のない
全てを起こしているそのままの「久遠の法」なのである。

何が見え、何が聞こえ、何を感じたとしても
そのままちゃんと全て現れているのである。

信心をしていて
「何でこんなことが起こるんだ」
というのは思惑に囚われているためであり

その思惑を外すための現実として
「こんなこと」が起きているのである。

だからただ気付けばよいのである。

「大地はささばはづるるとも
虚空をつなぐ者はありとも・
潮のみちひぬ事はありとも
日は西より出づるとも・
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」
(祈祷抄P1351)

分かるだろうか?
これは非二元から読めば
「絶対に祈りは叶う」という「思い込み」ではなく
「すでに全て叶っていること」の
「確認の基準」でもあるのだ。

本当の祈りとは本来
思考や思惑による作為を離れて
意識機能による法との融合にあるのである。

無分別の一法との境智冥合が完全であれば

否、全ての存在は境智冥合が完全であるので
全ては「なるようになっている」のである。

それをどれぐらい輝かせるかの
挑戦への飛翔なのである。



[467] 非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月 2日(土)00時44分32秒   通報   返信・引用

隣の芝生は青いなんて言いますけれども

さて、例えば
私の財布に入っている千円札も
あなたの財布に入っている千円札も
同じ千円の価値です。

交換してみても価値は変わりません。
交換したら自分が自分でなくなる
なんてことは無いのです。

さてさて
もし道に、これ見よがしに千円札が落ちていて
それが実は偽札だったとします。

これには千円の価値はありません。

これは本物か偽物か
自分で観察して見破るのも

他人に、それは偽札だよ
と教えてもらうのも

偽札が見破られたという事実があるだけで
価値は変わりません。

「自分で見破りたかったのに」なんて
言ってみても、
自分でやったところで
価値がないものは価値がないのです。

さて、給料日に給料をもらいます。
これは仕事の対価ですが
仕事をしたのは過去や見込みであり
その瞬間はお金をもらったという事実があるだけです。

仮に会社の経営が悪化して給料が出ず
資産家の親せきが不憫に思って
もらえるはずだった同額のお金をくれたとします。

この場合は仕事の対価ではなく
ただの気まぐれな同情です。

それでも、お金に変わりはありません。

人間にできることは、せいぜい認識することです。
「なんで千円札なんだ」と思ってみても
一万円札にはなりません。

不幸を感じようが幸福を感じようが
世界はありのままにあるだけです。

人は何かを変えたい変わりたいと思って
思索や行動をする時に
「あーでもないこーでもない」と
思考錯誤、創意工夫、四苦八苦するわけですが

他の人から「そーじゃないよ」と言われると
時としてカチンときてしまうわけですが

事実だけを見れば
自分の「これじゃない」も他人からの「それじゃない」も
一つの努力に対する多角的視点の一つなのです。

このように認識に対して自分を介入させても
感じ方が変わるだけで事実は変わりません。

これは対象物を出発点としても
何も変えられないという事です。

出発点として何かを変えられるのは
対象化される前のありのままの法を出発点とした時です。

これが久遠なのです。
久遠はいつでもどこにでもあるという事です。

そこにはまだ自分が存在していない
一切が無分別の領域なのです。

自覚できるとも自覚できずとも
一人残らず本来ありのままに
久遠の凡夫なのです。

本来のありのままなので
これを無作と言うのです。

そういうわけなので
単なる気の持ちようなんて話ではないばかりか
唯一の事実を変革できる方法なのです。

だから非二元が空想なのではなく
認識後の世界に対してする人間の思考の方が空想なのです。

これは本質論なのです。
この本質から再度認識を改めていくのです。

例えば
なぜ恥ずかしい感情の捉え方を変えると楽に幸せになるのか
http://kokoo.jp/feel-ashamed
嫉妬を解消し理想の状態を手にする方法
http://kokoo.jp/jealously

このような文章も
どれぐらいそれに向き合うかという事でもあるのです。



[466] 五眼三身ステップアップ その7

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月30日(木)10時18分10秒   通報   返信・引用   編集済

苦しい・辛い。

人々は往々にして
立ち向かうか逃げるか諦めるか
しかない中で

立ち向かうのが正義
逃げるのは悪
諦めるのは負け
と思い込む。

立ち向かい個人の怒りを外に向ければ
断絶の働きとなり悲しみが生まれる。
今までどれぐらい
正義のための戦いで悲しみが生まれたのだろう。

正義とは幸福の世界を広げるはずなのに
不幸の世界ばかりが広がっていくのである。

正義正義と声高に叫んでみても
かえって悪ともなる。

かといって
悪を見ておいてこれと戦わないのは
悪と同じである
というのも真理である。

その悪と戦う正義において
悪とはならない正義になるためには何が必要なのか?

「苦しい・辛い」への
向き合い方の転換が必要なのである。

十界は互具である。
この身は九界にして「末法の荒凡夫」である。

「苦しい・辛い」は本質的になくならないのだ。
何をしても形を変えて現れるだけである。

九界の「末法の荒凡夫」として現れきることだ。

苦しみ(地獄)を苦しみとして受け入れ味わい
これを慈しみ(菩薩)心の豊かな人生を楽しむ。

九界が「今ここ」に同時に存在しているのである。

そうすれば、九界として現れさせてくれている
この世界はことごとく慈悲であり
寂光土(仏界)となるのである。

ここに十界がそろうのである。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽
にあらずや」(四条金吾殿御返事、1143ページ)である。

この十法界を心として戦うとき
悪とはならない正義の在り方を実現できるのである。

この世界のありのままを味わい尽くすことで
地獄即寂光も生死即涅槃も自然のうちに解っていく。

ありのままなので全ては道理である。

これが仏法なのである。

上野殿後家尼御返事(地獄即寂光御書)創価教学研究室(赤鬼のブログ)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52073.html

最後に、「最後まで今を輝いて生きるために」
そんな思いの詰まった曲を紹介する。

『光るなら』
https://www.youtube.com/watch?v=_BUPN32zD-I
『七色シンフォニー』
https://www.youtube.com/watch?v=BirSO_72Qec

苦しみを味わうことを恐れないで下さい。
同苦はきっと輝く明日への飛翔なのですから。

終わらない今を生きる飛翔こそ蘇生より。


難しいと感じる方へ
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452



[465] 「末法の荒凡夫」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月29日(水)23時23分6秒   通報   返信・引用

なるほど

やっぱり大御本尊への信心と
ひたぶるな題目の人はすごいですね。

「末法の荒凡夫」とは
心躍るというか
シビれるというか

カッコ良すぎですよ。

「我々はどこから来たのでもない
どこへも行かない。
今の一瞬一瞬を輝ききって生ききる
末法の荒凡夫である。」
っていう、戸田先生の
大宣言ではないかと思います。

あまりにも眩しい、
その宣言あっての太陽の仏法なんだと
思います。

「今ここ」

思いは一つですよ。

ちょっとクセの強い
荒凡夫が集まってるんで

ウマの合わない人もいるかも
知れませんが

戦いは進みつつあるので
準備が整ったらお声掛けしますね。

その時は、どうぞ
よろしくお願いします。



[464] わたしはだあれ

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 6月29日(水)16時50分27秒   通報   返信・引用

「あなたは誰」と問われました。

 私  は  誰  ?

「何処より来たり何処へ行かんとするか」

戸田先生の云われた「末法の荒凡夫」という表現が好きです。
そう、ただの凡夫です。

世間の人々とちょっと違うのは、名字即位にいること。
その中でも学園出身者であること。
池田先生と創価学会に絶大な恩があること。
そして、創価の邪教化を憂いていること。

創価学会の発迹顕本を他人事としていないこと。
何が出来るか分からないながらも、
何かをするために今を過ごしている荒凡夫。
そう、それが今の私、スーパー摧邪人。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[463] 通じる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 6月29日(水)07時28分56秒   通報   返信・引用

大御本尊様は生身の日蓮大聖人様。

それではスーパー摧邪人様
あなたは誰ですか?

2500万遍、誰の名前を呼んだのですか?
どこに現れましたか?

禅問答みたいですか?

日蓮大聖人は、全ての生命の問題を
解決したのです。

1遍1遍が一切無駄のない
南無妙法蓮華経です。

すごいことです。

2500万遍を突破の功徳、計り知れません。

必ず三世に渡って全てが開けます。
おめでとうございます。

それぞれの使命
最後までやめない。

一切は変えていけます。
ありがとうございます。



[462] 祝、そして・・・

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 6月28日(火)13時56分20秒   通報   返信・引用

2003年からエクセルで付け始めた唱題表によれば、昨晩2500万遍を突破したことになります。再来年の誕生日まで2年と3ヶ月、3000万遍目指して続けていくつもりです。さらには2019年の11月を今から700万遍を超える唱題を以て迎えようと考えています。

3年後の11月に何があるかといえば、昨年自ら延命を果たした原田会長の任期が来て、待望の創価学会第七代会長が誕生するのです。しかしただ手をこまねいていては、本部内で通説となっている通り、谷川佳樹がその席についてしまうことでしょう。

創価学会の会長だけは誰がなってもいいと云う訳にはいきません。四代、五代、六代はつなぎでしたから、北条、秋谷、原田でも良しとしましょう。しかし第七代はそう云う訳にはまいりません。実質的な先生の後継者に当たるのですから。

会則改正に異を唱え、現執行部を天魔と断じ、女子部会長論を以て男尊女卑の学会本部の改革を論じてきましたが、いまだ具体的な行動に目処がついていません。信濃町の友人に論書を送ったりましましたが、所詮友人内部での戯れ事に過ぎません。

春先から仕事が忙しくなり、思索や文書をものする時間が取れなくなったことも、具体的な行動を起こすことへのブレーキとなっています。しかしこれさえ、次のステップのために必要なことと捉え、精進を重ねている日々です。

今の時期は法人税の納付や年金の基礎算定に追われています。月々の給与や来月には賞与もあります。毎月の源泉税や住民税の納付なども経験があれば簡単なことなのでしょうが、実務経験の無い私にはすべてが未知との遭遇です。

周囲や税理士に助けてもらいながら仕事をしていますが、夕刻の帰社時間には脳が疲れ切っています。週末ともなれば、帰路、歩きながら寝てしまいかねないほどの疲労感です。しかしこれも、次の闘いのための準備と心得ています。

一昨年、母校の創価大学で、「これからが勝負」というご伝言を先生よりいただきました。何事が出来するのかと思っていたところ、その半年後に会則改正がありました。当初悩んだ私も、これこそが先生の云われた「勝負」であると気付きました。

そうとなれば後は単純です。しかるべき時のために今を過ごせばいいのです。仕事に追われている今も、この程度のことでへばっていたら、しかるべき時に使い物にならないと、鍛えていただいているのだと自然に考えられます。

「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ。」先生のお好きなホイットマンの詩の一節です。創価学会の発迹顕本という決められた決勝点を目指す日々は続きます。

追伸: A氏の論を「九重の劣」と断じた私の意見に、A氏からの明確な返答はありませんでした。それ故私の中では、この判決は確定したものなっておりますことを、ご承知おきくださいますようお願い申し上げます。

http://macska2012.blog.fc2.com/


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