いまさら やめては だめなのだ

反宿坊板、及びそれに類する掲示板へのリンクはご遠慮ください。 串投稿もご遠慮ください。 他者に対する発言は充分な根拠を示してください。



カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


833件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[541] Re:お好み焼きもピザも

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月17日(水)09時56分22秒   通報   返信・引用

ピザなんてこの世に存在してはいけないとは
言っていない。

どんな食文化を持っている人たちも
等しく地球上に生きる尊厳なる生命である。

ただ、今生においてお好み焼きを食す
と決めてお好み焼き屋に入った客に対して

ちゃんとした説明もなくピザを出す。

「お好み焼きを食べに来たんですが」と問うと
「いいですか、ピザは偉いんです、文句を言わず
食べてください」と強要される。

周りを見ると、確かにみんな文句を言っていない。

しぶしぶピザを食べていると
「一つのテーブルで注文するピザにはノルマがあります」
と言われる。

周りを見ると、確かにみんな食べきれない量を注文したり
外部の注文を取って宅配しに行ったりしている。

「やっぱりこんなのおかしいです」と盾突こうものなら
見せしめに虐められて裏切り者の「悪」に仕立て上げられる。

こういう体制を
気づかれないようにちょっとずつ作り上げた。

「ほらみろ、あそこのお好み焼き屋だって
たこ焼きと焼きそばが美味しいだけだ。
それに比べてウチのはちゃんと丸くて平たいし
いろいろ乗っているんだ。
悪はあいつらで、ウチは正義だ。
あいつらがいかに悪か徹底して学ぼう」

ということをする裏で
本当のお好み焼きのレシピをごまかしていき
単に「丸くて平たくていろいろ乗っている食べ物」
としていく。

これをお好み焼きだと信じられないのは
命がおかしいんだ。
信心とは、まず信じることでしょう。
と、信心を逆さまに曲解させる。

もう、何が正しいのか麻痺してしまい
従うことが正しいんだという所にしか落ち着くことが出来ない。

でも、お好み焼きに情熱をかけた三代目までの言葉や
お好み焼きを開発した始祖の言葉が残っていて
熱心に調べれば間違いに気づく。

多くの人は、考えても苦しいだけなので
見ないふりをし、それを提示されると怒り出す。

でも、そんなことには負けずに、ある人が
熱心に調べ上げて、さらなる究極のお好み焼きに
気づいたとする。

世界の中でこのことを知っている者は
ただその一人だけである。

このことを一言でも言い出すなら
父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による
迫害が必ず起こってくるに違いない。

しかし、言わなければ無慈悲と
同じことになってしまう。

どうすべきかと考え
開目抄や池田先生の指導などの文
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7247
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7245
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7250
(他、参照:青年教学2級試験教材
世界広布の翼を広げて
教学研鑽のために 開目抄
700円 65ページ~66ページ)

に、言うか、言わないか、の二つを
照らし合わせてみた。

すると、言わないでおけば、
今世では何ごともなくても、
来世には必ず無間地獄に堕ちてしまう。

もし、言うなら、三障四魔が必ず競い起こって
くるということが分かった。

この二つの中では「言う」ほうを
選ぶべきである。

命惜しむべからず。

必ず究極のお好み焼きを完成させ
広宣流布していくのみである。




[540] 良薬も毒薬も

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 8月17日(水)09時36分4秒   通報   返信・引用


まぁ、お好み焼きとピザはあくまで譬えであって、共に「じき」であるからというのは不可でしょう。久遠元初自受用報身如来を受持するか否かということを寿量品の金言から引用すれば、「是好良薬」の良薬と「飲佗毒薬」の毒薬の違いです。同じ「薬」が付くからといって、同列に論じられるものではないですよね。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[539] お好み焼きもピザも

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 8月17日(水)07時28分46秒   通報   返信・引用

「それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ」

と考えると・・・。



[538] 異議なし

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月16日(火)16時16分26秒   通報   返信・引用

お好み焼き論法に異議なし

蘇生さん、判りやすい文章をありがとうございます。

原田会長が何をしたのか私にはわかり兼ねますが、結果として会員さんと大御本尊を分断しようとしていることは間違いないですね。

どこをどう正して行くのか妙法に照らし慎重に考え、勇敢に実践していくのみです。



[537] すり替わり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月16日(火)15時00分38秒   通報   返信・引用

仮に広宣流布すべき正しい法を
「お好み焼き」としましょう。

執行部の批判
あるいは創価の邪宗化として
論議している事が
仮に、お好み焼きの切り方が
おかしいという次元の事であれば

それは時代によって変わっても
お好み焼きはお好み焼きであり

http://rocketnews24.com/2012/02/20/184593/
こんな風に騒いでも

どっちもどっちです。

しかし、それらの論議で言っているのは
もう完全にピザとすり替えた上で
それをお好み焼きだと言い張っている
次元で問題視しています。

それを広めても広宣流布にならない。

御本尊を中心に
御書の通り
三代の会長の指導通りが
中心であるはずが

原田会長中心にすり替わっている。

しかも、組織内では
おかしいと言う奴がおかしい
という論調で処分される。

こういった前提を考えると

創価学会の言うことにただ従って
打ち出しの内容だけ実践すれば良いというのが
間違いだと断言できるかどうか

という事になるのは仕方がないのです。

なぜなら、その理論は

「さぁみんなで隠蔽に協力しよう」
「日和見的に組織の一部となろうじゃないか」
「世間を欺いても勝てば良いんだよ勝てば」

というような事であり
それって世間的に言うと

間違いなく組織悪であり

それの蔓延を助長させてしまうのが
「知ってなお従う」という行為で

その反対が、声を大にして叫ぶ、です。

「原田会長は創価学会の最大の実践者たちである婦人部と、御本尊・御書・池田先生を分断しようとしている」と、声を大にしなければ

広宣流布のために広めるべき法が
無くなってしまうのです。

久遠元初自受用報身如来の概念の喪失を
考えてみると

秋谷前会長の時から

既に信仰のための組織から
私欲のための組織へと
スライドしている事が見え隠れし

中心とするものを曖昧にし
黙って従わないやつが悪いという
ダブルバインドの構築の
チャンスをうかがっていたという
ストーリーが見えてくる。

ここに向かうために
徹底してバイアスがかけられてきた
という事ではないかと思う。

多くの人は、そのため
気づくのが難しい。

だが、池田先生は
法華経の智慧等によって
生命の真実への気づきの促しをし

2006年以降
組織内の悪と闘うことを
促した。

池田先生の意思に近づくには
バイアスの解除が必要であり

そのためには自我機能の鎮静化の
技法の習得は役立つのである。

自己観察によって対象化しない
ありのままへの反転によって
本当の広宣流布は進む。



[536] 久遠元初自受用報身如来

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 8月15日(月)11時31分45秒   通報   返信・引用


今の創価学会員でこの単語を知っている人は何割くらいいるのだろう。昭和の時代の経本には載っていたが、今では影も形も無い。教学で教えることも無いから、専門に学ぶか興味を持って調べるかしない限りは、知らない単語であろう。昭和の時代、大御本尊を賛嘆する言葉として、御観念文に載っていたものである。

百六箇抄の「下種の法華経教主の本迹」には、「自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」とあり、自受用身如来とは大聖人のことであることが明らかである。そこに報身とあるのは、大御本尊はその智慧を文字曼荼羅として顕しているが故である。

しかして日蓮仏法は人法一箇であるが故、大御本尊即日蓮大聖人である。大聖人は一身即三身・三身即一身であらせられ、「我本行菩薩道」の文の底に秘し沈められた大法を悟られた末法の御本仏である。その御本仏が「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」た大御本尊を、「受持の対象としない」としたのが現在の創価である。

さて、昭和の時代、大御本尊は久遠元初自受用報身如来であらせられた。いつ、そうではなくなってしまったのであろう。変わっていないならば、「受持の対象としない」などと云い出す訳が無い。しかし変わったとはついぞ聞かない。ということは、創価が正しいならば、大御本尊は元よりそうではなかったということになりはしないか。

現在の創価が正しいとすれば、昭和の時代に大御本尊が久遠元初自受用報身如来であらせられたことが誤りだったということになる。つまり、ずっと騙され続けてきたということだ。三代会長を筆頭に創価は八百万会員をずっと騙し続けてきた極悪の宗教団体であったことになる。史上まれに見る詐欺団体であったことになる。

いや、そうではなく、創価も宗門に騙されていたのだと云い出すのであろうか。三代の会長は宗門に騙され続けた愚か者であったとでも云い出すのであろうか。それとも現在に至って、種々の学問的成果により認識を改めたので、受持の対象としないとしたとするならば、それ相応の説明が会員にあってしかるべきと考える。

しかるに創価は会長の趣旨説明と教学部の解説、及び各部の代表幹部の座談会で会則改正を追認しただけで、会員に対する詳細なる説明は行われていないというのが私の認識である。教義に関するこれほど重大な変更に関し、これだけで済まそうとする中枢幹部は、会員をバカにしていると云わざるを得ないと考える。

日蓮仏法の究極であり信仰の中心である大御本尊が、宗門のもとにあることについて我慢ならないという心境は理解できる。平成生まれの大御本尊を知らない世代が増えつつあるが故に、宗門との決別をさらに図るために取られた措置なのであろうが、明らかに誤った措置であり、創価邪教化の措置と云わざるを得ない。

御書に大御本尊への言及が無いのは今に始まったことではない。「余は二十七年なり」の解釈を変えただけで、大御本尊への信を覆そうとする無茶振りであるが、大多数の会員は大した関心を持っていないのが現状である。そもそも聖教紙上の三面、四面に載せた記事だけで済まそうとしていること自体が問題であろう。

創価は何処へ向かおうとしているのであろうか。大御本尊を離れて日蓮仏法は無い。会員の受持する御本尊は創立より現在に至るまで、すべて宗門の法主が書写した御本尊である。この事実をどう考えているのだろう。日興上人は冨木日常が御本尊書写したことについて非難していないと宮田教授は論じている。

原田会長は大聖人御真筆の御本尊とその書写御本尊はすべて「本門の本尊」だとしている。大聖人を末法の御本仏と仰いでいない徒輩や、首題の下に「日蓮」ではなく自身の日号を記して躊躇わない輩が書写した本尊まで、大聖人の出世の本懐に含まれるとする解釈は、どうあっても私には受け入れられるものではない。

ならば、どうすれば良いのか。他所での発信の繰り返しになるが、創価と宗門が共々に発迹顕本を成し遂げ、新たなる「真・僧俗和合」の時代を築いていくべきと考える。創価は第七代会長を女子部から選出し新時代を築く。宗門は法主の息子が法主にならないよう、日興遺誡置文の通り妻帯せず聖僧たるべきと考える。

その他やるべきことは多岐に亘るであろう。即座にすべてが出来る訳もない。しかしこれは、やらなければならないことである。どのような困難が立ちはだかろうが、どれだけ時間がかかろうが、私たちの世代で出来なければ次の世代に託し、日蓮仏法の正統を絶やさぬために、やり遂げなければならないと考える。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[535] 化法化儀と創価と宗門

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月14日(日)00時57分50秒   通報   返信・引用

確かな教義の必要性というものも
これは、本尊を語ると同じく
パラドックスであり

今ここの非二元の悟りのためもあるが
令法久住のためのセーフティーネットの
ような側面を含むようなものであり

また、教義を本格的に整備するなら
時代や形態に合わせた整合性のための
防衛的な面も少なからず含まれる
ことにもなるのであろう。

何にしても思考概念による枠取りである。

これからの創価が
どのような道を
選び取るのだとしても

その道標は

化法が化法たりえてこそ
化儀が化儀たりうる
という線を逸脱すれば

唯一の正統というものを失い
悪徳商法まがいの新興宗教の
内の一つ、あるいは
ただなんとなく雰囲気で寄り集まって
いるだけの、何の特別な変革の力もない
ゆるい集まりという存在になる。

日蓮仏法としては化法あってこそであり

もう一度、化法における
本門の一大秘法の戒壇の大御本尊が
その意義に符合することを
論考する。

一閻浮提総与についてもう一度考える。

一閻浮提とは
地球上で巡り巡る 十法界
であり、それぞれの個である応身は
その内に生死と現れる。

これは「一」と「閻浮提」に
分解できる。

つまり「一人」と
その一人が観じる「世界」であり
「一閻浮提」は「一は全、全は一」
に通じるのである。

一人とは日蓮大聖人
世界とは十法界であり

この人法一箇の戒壇の大御本尊は

その総(すべ)ての「今ここ」に対して
無始無終にわたって
その瞬間瞬間の中心に与(くみ)して
方向性を決めている仏の智慧という

久遠元初自受用報身如来の当体である。

と読めば

これはもう本門の意義として
一大秘法に違いないということだ。

つまり、わずか一時でも実在した時点で
無始無終の総ての「今ここ」に
法体の折伏が完了しているということであり

平たく言うと、人間の到達できる
同心の部分で一体化する
悟りそのものが、その法体である。

この次元で言えば
今どんな所にあるかだとか
いつ隕石が衝突して失われるとか
そういうことで失われるものではなく
全く影響しない。

とは言うものの、大御本尊は現存しており
日蓮正宗が護っている所にある。

このような言い回しをするのは
現状のような創価の実態となった今では

冷静に俯瞰して考えれば
嫉妬に狂い己義を構えて
法華経の行者を迫害する様は同じであり

一方だけを「謗法の地」と決めつけるのは
甚だ公平さに欠ける。

そして、さらに冷静に考えれば
どちらが日興門流を守ろうとしていて
どちらが日興門流を捨てようとしているか

そう考えると、実際に大御本尊を
受持しないと言う創価学会の方が
邪教の度が強いのではないかとさえ
思われる。

創価学会が日蓮仏法の正統を取り戻すには
何らかの日蓮正宗との関係の改善を試み

大御本尊をどういう風に
「扱わせて頂けるか」という
発想に立たなければならないのは

常識的な判断としてあり得るのである。

これは既にスーパー摧邪人様が
述べているところであり

深く深く思いを巡らせての言葉である
ことは冷静に思いを巡らせれば
あきらかなのである。

さて、私の論においては
戒壇の大御本尊が正しければ正しいほど

創価学会の中心の
化儀の広宣流布の旗印としての
御本尊を設定したとして

その正しさも増すのだということも
無くも無いのだが

あまり言うと
思惑によって台無しになりかねないので

まぁそういう気のある人間には
この論を譲る気はない。

執行部はそろそろ
話し合いの場を設けて
創価学会の体質改善へ
大きく舵を切ることを
真剣に考え出さなければならないだろう。



[534] 生命感覚から受持即観心を考察

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月13日(土)02時54分40秒   通報   返信・引用   編集済

「即」という字が
どういう時に使われるかを考えれば

娑婆即寂光、九界即仏界、煩悩即菩提、生死即涅槃
凡夫即極

と言った具合に
相反するものの信心による反転を
示しています。

受持即観心は勤行唱題の感覚が
すんなり納まるようでもあり
普通はありえないことなのかどうか
ちょっと分かりにくいですね。

しかし受持即観心は
日蓮仏法の真髄の一つでもありますので
あらためて考えてみましょう。

観心の本尊のところで
観心に仏眼と法眼を配しました。

十界で言えば仏と菩薩ですが
「観心」とすれば「因果倶時」の
いわば「菩薩仏」になります。

「菩薩仏」の表現は法華経の智慧に見られます。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8353
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8359
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8630

一方、受持するのは「人」です。

そう考えると凡夫即極とほぼ同意になるようですが

しかもその深い意味まで
生命感覚から読み解けるものです。

人界は「聖道正器」(仏道を成ずる正器)
でもあります。

つまりそれは「開かれた”受”容性」と
言っているものが「聖道正器」です。

「受」を中心に見れば
「受持」と「信受」です。

つまり「受持」には
「観心本尊」に「の」の字の「空」が隠されていたように
「信」という「空」が
ここにも隠されているのです。

「開かれた受容性」は肉身であり応身です。
この肉身は法が現れたものであり
法が持(たも)たれているので「持」は法身です。
「信」は信心・信念であり法の現れ方を左右する
智慧のエネルギーとなり報身です。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/54048
「報身の智慧は上に冥じ下に契ふ」 法華文句 巻九の下

日蓮仏法は報中論三の自受用身の仏法であり

「受」中心の見地から「信」中心の境智への転換を
自身で決めてやりとげる必要があります。

自得でなければ至れないのです。

で、この「信心」が難しいのが信心の難しさです。

「信」に対して信心と信念と書きましたが
「空」の中にある純粋な「信」という報身を中心とすれば
信心と信念として現れるはずだという事です。

それはつまり

報身から法身の側を見れば
一念三千の法本尊である御本尊を
信受する信心であり

報身から応身の側を見れば
人の振る舞いであり
人類普遍のヒューマニズムを
信じ持(たも)って生ききる信念となるのです。

この両面がそろって初めて人法一箇であり
「菩薩仏」となるのであり

報中論三即菩薩仏ということなのです。



[533] 高志向と行動・意識と技化

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月11日(木)01時46分1秒   通報   返信・引用

物事を対象化し、
外の事として不平不満を
生じるのは、ズレ・ブレとなる。

その不平不満は
外の事であるのだから
それは今ここの幸不幸には
直接は関係がないのに

それの同調と否定とが
自身の存在の肯定否定と思い込み
同調され、評価されることを
望む世界が六道である。

ただしこれは
「上の事には黙って現場でがんばれ」
という次元の話ではない。

高い志向性を持つならば
今ここの問題という
意識の使い方を会得するべきであり
本来、仏法はその技術の結晶なのである。

六道の人間的感覚の概念から言えば
あたかも事象を起こしている本質への
ハッキングの技術であり
自身が事象の中心の法自体となるので
あらゆる事に対して
意識の使い方を行使することによって
今ここの問題とすることが出来るのである。

これは肥大化した我見があると出来ないので
人間的な自我を「がんばらせない」ことが
必要となる。

つまり、あっちにある我見にも
こっちにある我見にも付き合う必要がなく
あるがままを観じ、必要なところへ
心を行使していくのである。

私が「がんばる必要のなさ」に気づいた
きっかけのテキストを紹介する。
http://shuchi.php.co.jp/article/1531

がんばるというのではなく
不慣れなゾーン
今までは内に秘めて自己満足していただけの
理想の池田先生と同じ志向性の振る舞いを
表に出す。

まずはこれが境涯の変革速度を
考えられないレベルにする。

生命真実が思考概念を追い抜くのである。

本当は、これがあっての
五眼三身ステップアップである。

観察し経験すること
今ここという法に意識を置くこと
理想を実現させる意志によって救済の技を展開すること

技化には中心と呼吸によって集中力を高め
エネルギーのリズムを発動させる。

参考として武道の達人は自己機能と意識を
使いこなしているのである。

柔道の神様『三船久蔵十段』

http://iinee-news.com/post-5650/

柔道の姿の美しさは
身のこなしに無理がないから。
言い換えれば
正しい心の持ち方による。
中心規律こそ柔道の神髄である。

http://blogs.masoyama.net/?eid=581

私の考えでは、武道ということは、まず己に勝つことである。
人に勝つということは、決してただの一度も考えたことはあ
りません。人の力は分らない。 どんな強い奴がでてきて、あ
るいは勝てないことがあるかも知れない。しかし、自分さえ
まけなければ、人に決して敗れることもない。

格闘技の神様 『塩田剛三』

https://www.youtube.com/watch?v=7DiNQgAbH0Y
https://www.youtube.com/watch?v=KLt9JPPvQMM

http://plaza.rakuten.co.jp/dagekinoshinzui/11000/

師であり弟子であり、弟子であり師であるという常に真の
謙虚さ、これを持って接しないと、人の心も体もよく理解
することが出来ないと思います。

集中力即ち中心線の力。これはあらゆるスポーツに通じると
思うんですけど、中心線の強さ、ぶれないということ、これ
がやっぱり大事ですね。



[532] 意識の使い方によってパラドックスを克服

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月10日(水)05時03分32秒   通報   返信・引用

拘りというものは、見方によっては
信じていなければ存在しないもの
という疑念の裏返しかもしれません。

そういう意味では拘りが薄くなるのは
良い方向です。

どちらにしても元々から
外にある、別々であると思えば
無益である。

方向は合っている。
安心して味わい楽しみ
再選択は可能である。

非二元の域に達しようとする時
必要であるのならば必然としてもたらされる。

何にしても、個別に悟りの本質としての
外に見る本尊の不必要を語るのと

究極の大乗の仏法として、全体に対して
御本尊の必要不必要を語るのは次元が異なる。

拘らなくて良いとは言っても
そもそも拘り抜いた確たる信心があった
からこそ、あれこれと探求を重ね

その功徳によって拘らずに深いありのままへと
向かえるのかもしれません。

非二元から無分別の一法の同心を見れば
個別の私も個別の大御本尊も本当は無いと見るのですが

非二元とは二元から切り離されたものではなく
二元の世界に即しきった帰結が非二元です。

仏法は明快なものであるし
仏法は曖昧なものでもあるのです。

こういったパラドックスの克服は
思考概念ではないところの
意識の使い方をマスターすることによって
その自己確認の中で獲得されていくのです。

それは無限に多面的な
球のようであり、その開かれた受容性は
ブレ・ズレが一切なく動じることがないのです。

思い込み信じ込み押さえ込みでない
八風に侵されない信心は
本当にはそこにしかない。

概念では伝えられない奇跡である。

奇跡というものは、たまたまなんだけど
思惑ではないたまたまだからこそすごい。

ひとしく南無妙法蓮華経と開けば
過去も未来も寸分のズレもなく
奇跡の完全さであることを体験していく。

我々にとってはたまたま創価学会
たまたま大御本尊に巡り合っていることが

栴檀の浮き木に出会っている以上の
「考えることが出来ない」である。

宗教の枠組みを消しても
たまたま大御本尊であることが
我々にとっては完璧であったのだ。

大御本尊は
信仰の根幹であるからこそ
人間的感覚の思考概念では
語りきることはできない。

それは我見による法への不正となるからだ。

信仰の根幹であるからこそ
「あるがまま」「なるようになる」ことに
委ねるしかないのである。

これは無責任になれと言っているのではなく
「広宣流布の想い」によって
「なるようになる」を起こしていくのである。

例えば「なるようになる」とは次の動画のような状態である。

https://www.youtube.com/watch?v=xA_9cjvdqxk
伝説の対局【ブンゴ無双www】麻雀知らなくてもなんか笑えるwww

こういうことを起こして確認し
再選択した御本尊を対鏡として
思考ではなく感応を体感すると

一瞬一瞬が、
「あなたはもう久遠元初から和了ってますよ」
という状態が了解されていくのだ。

授けられし天和状態である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%92%8C_(%E9%BA%BB%E9%9B%80)

御本尊に巡り合っているのは
仏智による授かりものなのである。

日寛上人も間違いなく大御本尊によって
それだけの境智を得

創価の三代にわたる会長も
間違いなく大御本尊によって
広宣流布を進めたのである。

これは「一は全、全は一」であるから
一人によって、何を信じている人をも
救いきっているのである。

その意味でも拘りがなく
選択は自由である。
宗教の枠組みの消失も
影響を及ぼさないのである。

極論、人間の思惑での定義では御本尊を
いかようにでも語ることができ
鰯の頭も信心からという事になるし

非二元を二元と切り離してしまえば
御本尊も仏法も何も無くなる。

あるがままだからこそ
奇跡は奇跡である。

思惑は及ばない。

https://www.youtube.com/watch?v=G3Lvwp-2duE
【天和】世界初!生放送対局にて炸裂!【役満】

信心・御本尊とはこういう奇跡であって

https://www.youtube.com/watch?v=j0JBvkJu1_U
小島武夫のイカサマ つばめ返し

こういうことをしては
功徳は得られないのだ。

だから、いくら思惑を働かせたからと言って起こるものではなく
完全に授かりものである。

多重なパラドックスだ。
文章の伝達は概念であり
説明して、説明が終わることが無い。

等々とした上で、拘りを捨てても
その個別の志向性にとっての完全さの中で
必要ならば消えないし
必要ないならば残らない。

そして消してみないと現れない景色も含めないと
あるがままの完全さにはならない。

難しい、怖い、勇気がいる。
でも自身で確認し自得する以外にない。

難しく考える必要は無い。
「おもしろそう」と思うところだけ拾えば良い。



[531] 乱暴お許し下さい。

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月 8日(月)22時54分36秒   通報   返信・引用

最近あたまのなかが変化しているようなんです。

ひとしく南無妙法蓮華経

なんかこんな感じのことを思うようになっているというか、口で言い現すのは難しいのですが

恐れず言うと戒壇の大御本尊への拘りが薄れていくような、法本尊の無終性へ惹かれているような感覚なんです。

ゆっくりとお題目を唱える今日この頃です。



[530] 一は全、全は一

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 7日(日)10時42分50秒   通報   返信・引用

「一は全、全は一」というのは
古今の覚者が法の在り方を現した
共通する表現であるが

日蓮仏法においては
妙法蓮華経は妙法蓮華経である
という事に尽きる

と言ってしまえば話が終わってしまうので
話を展開していこう。

まずは一般的考察で頭をほぐそう。
http://ayaemo.skr.jp/blog/2011/07/post-1749.html

「一は全、全は一」には
どうも捉え方が二つある。

極小と極大(あるいは始まりと終わり)
という捉え方と
一人と全体という捉え方である。

極小と極大(あるいは始まりと終わり)は
法の階層構造で書いたことが当てはまる。
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/475

つまり全ての事象を法として捉えた時には
途中の捉え方がどうであれ
極小と極大は共に必ず無分別の一法となり
極小=極大という事が成立する。

ただし、これは
極小、極大、始まり、終わりと言っても
「今ここ」を離れて求めても無益である。

無始無終とは、今の一瞬であることを
池田先生の講義(読み手は違うが)
から聞き取って頂きたい。

https://www.youtube.com/watch?v=SC58Hjg0qdg
昭和53年2月会長講義「観心本尊抄」⑤

無分別の一法とは妙法蓮華経であり
この両極の間に現れた刻々と変化する一瞬一瞬が
南無妙法蓮華経である。

日寛教学を紐解くと
http://www.geocities.co.jp/sarariwoman/hokkeko/nichikan_2.htm#3
~「直達正観」(直ちに正観に達する)とは、
久遠名字の妙法を受持するところ直ちに正観に達
する意で、文底仏法における即身成仏のことです。
すなわち、「文底仏法の直達正観」こそが「事」
の真実の意味となります。~とあります。

すなわち妙法を唱えた時、実には直ちに正観に達する、
つまり即身成仏を得られるのであるが
それは人間の我では捉えられない一瞬の中にしかなく
人の我であれこれ付け足すから、凡夫となるのである。

余談とはなるが、普段の人間の目で捉えられない
一瞬の世界が実在することはハイスピードカメラ
という科学技術からも考察できる。
https://www.youtube.com/watch?v=XdeLP6ctkXM
サイエンスZERO- 1兆分の1秒を見よ

さてこの南無妙法蓮華経の真実の在り方を
人の我を挟まない日蓮大聖人の「文底仏法の直達正観」
真の事の一念三千から書き顕したのが御本尊である。

「一は全、全は一」のもう一つの捉え方
一人と全体とは、この時点で

一人とは「人本尊」の「久遠元初の自受用報身の再誕、
末法下種の主師親、本因妙の教主、大慈大悲の、日蓮大聖人」
であり、

全体とは瞬間瞬間に備わる法本尊として書き顕すべき
その内得の全てである。

つまり「一は全、全は一」のもう一つの捉え方とは
一人の末法の御本仏日蓮大聖人
=真の事の一念三千という宇宙生命の全て
という事である。

ただし、内得した法とは皆成仏道の法華経
の法本尊である。

だから
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と
我等衆生との三つ全く差別無しと解りて
妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の
血脈とは云うなり」とは

末法の御本仏日蓮大聖人と(=開目抄)
その内得の法本尊と(=観心本尊抄)
衆生の一心欲見仏の強盛な信心とが

全く差別無しと解りて
妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の
血脈とは云うなりなのである。

つまり
末法の御本仏日蓮大聖人と
末法の荒凡夫である一人一人は

体は別々であるようだけれども

その内得できる法本尊は
全く差別が無く同じであるという事が

異体同心の真の意味なのである。

逆に言えば、ここにおいての心は
特定の個という枠は消失しており
円融の真実となるが

実際にはかえって桜梅桃李の個性光る
円満の智として展開するのであり

これが不可思議な
南無妙法蓮華経の姿なのである。



[529] 頭の片隅

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 6日(土)18時13分40秒   通報   返信・引用

私もどちらかと言えば
諸天供養を明文化するか
どうかというのには
中立です。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/40346

形式の採択の問題であり
まぁ、思い入れの有る無しも
あるでしょうから
その辺りの折り合いの問題。

それよりは
厳護朗様が体感によって語っている
「頭の片隅に置いておく」事の大切さ。

こういった部分は
どんな枠を取り払っても残る
生命の真実に通じているわけです。

そういう部分を信心で磨けば
技になっていくんだと思います。

素晴らしいです。
教えられるものがあります。



[528] (無題)

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 8月 6日(土)14時36分34秒   通報   返信・引用

>いや、ティーティーティーでよく通じましたね(笑


頭の片隅に置いておくことの大切さでしょうか・・・。
「ティーティーティー」から数日後に、車でラジオを聴いていたら、この曲が流れてきて、ハッと!
しかし、曲名がわかっていなければ気付けなかったでしょう。
10年以上前に使っていた携帯電話の着メロがこれでした(笑)
曲名など気にせずに音だけで選んでいたのですが、同僚から「ライディーンだ!」と言われたのを、ずっと記憶していました。
これもなければ気付くことはありませんでした。

「頭の片隅に置いておく」ことの大切さ。

新経本で諸天供養がなくなったと言って右往左往している方々もいらっしゃいましたが、数ヶ月前の大白にそれを正当化できるヒントが出ていたことも気付けずにいることに、単なる批判のための批判で、「頭の片隅に置いておく」こともなく上辺だけのもので、そこに一念もなにもないのだろうと感じてしまいます。

また同志への激励も、この「頭の片隅に置いておく」がなければ、上辺だけの激励で終わってしまうことでしょう。

先生はどうだったか。

言うまでもありません。



[527] がん細胞

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 5日(金)00時39分10秒   通報   返信・引用

そのものずばり
yahoo知恵袋で
人類は地球にとっての「がん細胞」みたいなものですか??
という質問がありました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128130327

>どこに視点を置くかで、いろいろな考え方ができる。

なるほど。

>がん細胞というよりは、そこにいる浄化能力を
持った生物を殺してしまう、エイズウィルスに近
いのではないでしょうか。

なるほど。

何にしても人間感覚から見れば
人間にとって都合の悪い
「戦争や差別の繰り返し」や
「環境汚染」等を生み出しているのは
他ならぬ人間自身であり

また地球上で育まれた生態系全体の健康な調和を
その中の進化形の一つにすぎないはずの人類が
あまりにも他を蹂躙し増殖する様は「癌細胞」
と映るかもしれません。

起こされた問題の一つ一つに
人類の英知をもって取り組んでいくことももちろん
池田先生の行動の軌跡を見ても正しい道のりです。

とともに、仏法ではこの「人の我による見方」自体の
転換を促しています。

つまり人間の都合で
「人間は地球にとっての癌細胞」という投影をすれば
結果として人間にとって
「人間は地球にとっての癌細胞」と反ってくる。

誰かを排除しなければならないと考える
ことが出来るということは
誰かから排除しなければならないと考えられる
可能性がゼロではないことを意味する。

人間の我という有情の世界は相対的であり
善も悪も、その見方によって変化する非絶対なのです。

「百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る」
(全集239㌻)

であり、一念三千を完成させるには
非情にまで一貫する宇宙生命の
真実の姿に気づく必要がある。

ここにおいて人間の我を離れれば
反ってくるべき悪業が無く
自然の持つ浄化作用の活性化により
絶対的な蘇生という結果が得られるのです。

この飛翔こそ蘇生ということです。

人間の我で、死が怖いのは当たり前。
人間の我で、悪いと見えることが起これば
苦しいのが当たり前で
しかも、未だ起こっていないことにまで
その苦しみを投影してしまうのです。

この投影は逆のことにも起こります。
未だ実績を上げていないことにまで
偉さを投影させようとし
地位に就いただけで偉いと思い込む
権威主義は民衆を苦しめます。

法華経の智慧には癌に関して
何度も言及されています。

いくつかリンクします。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8045
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7749
http://6027.teacup.com/situation/bbs/33557
http://6027.teacup.com/situation/bbs/30900
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8868

今、創価学会は勢いのある拡大・行動の時期を経て
大きくはなったものの
形骸化・内実性の崩落が進行している。

内実のためにもう一度
より深い生命論に立ち返らなければならない。

南無しなければならない。

まぁ「~しなければならない」なんて言うと
人間の我のバイアスとして伝わっちゃうんですけど。

何を選択するのも自由ですよ。

禅僧の言葉でこういうのもあります。
「内 虚にして 外 事あるのみ」
http://ameblo.jp/hamamatsu-zen/entry-11442100419.html

組織の活動に従うのも自由。
宿坊の志士に加わるのも自由。
アルベア論の新天地を探すのも自由。
ただ己の道を行くのも自由。

ちょっと、歌でも聞いてみるのも自由。

https://www.youtube.com/watch?v=dJ9ve_EGYmw
たしかなこと - 小田和正

https://www.youtube.com/watch?v=buD4al--Veg
ワイルドアットハート - 嵐



[526] 蘇生さんありがとうございます(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月 4日(木)14時31分51秒   通報   返信・引用

ご紹介のYouTubeみました。

なかなかおもしろいですね、考えされられます。

この地球という星の人という生き物は、癌細胞かもしれないですね!?



[525] 宇宙生命

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 4日(木)11時27分57秒   通報   返信・引用

公開したての
面白い動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=vKoMlGEeZAk
宇宙は生きている?

~~2016/08/03 に公開
"私たちは何者で、どのように地球上に出現したのか?”
ある人々はより単純に、猿があるときバナナを噛むのに飽きて、棒を武器にして、自分たちに似た生き物や周囲のあらゆる生き物を殺しに出かけた、と信じています
ほかの人々はといえば、世界は、私たち自身を含めて、天の彼方に住む父なる存在が創りだした、と考えています。
ですが、突然、すべてが語られている通りではなかったとしたら?
もし宇宙が生命体で、私たちが脳内の神経細胞のようなちいさな細胞にしか過ぎないとしたら?
そもそも宇宙が生きている、なんてことはありうるのでしょうか?!~~

巡り合わせのリズムを感じますね。



[524] ウェーブ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 4日(木)10時47分21秒   通報   返信・引用

ティーティーティーってこれ?
https://www.youtube.com/watch?v=kdalyjjfVxY
YMO - Rydeen (Budokan 1980)

いや、ティーティーティーでよく通じましたね(笑

音楽は偉大ですね。
歌詞は無くとも、その波のハーモニーで
人の心に響く。

https://www.youtube.com/watch?v=Q3oItpVa9fs
CYMATICS: Science Vs. Music - Nigel Stanford

この動画は音と波とエネルギーの関係の
不思議さが実験証明的に表現されてます。

このような波を理解すること
あるいは体感することが
法の理解の一つかもしれません。

素粒子の振動から宇宙の成住壊空まで
リズムでないものは無いのかもしれません。

物質の世界に波が現れ起こるという現象です。

面白いところでは、素数を
波を使って解明する研究があります。

https://www.youtube.com/watch?v=z128keOxlKs
〔NHK白熱教室〕オックスフォード白熱教室 第1回
この第1回のテーマは「素数の音楽を聴け」です。

番組の中で「数の原子」と呼ばれる素数が
波の性質を持っているのだとすれば

まだ現れていない法理法則そのものもまた
全て波で構成されているのかもしれない。

もっと身近に人間のスケールで見てみても

心臓の鼓動もリズム
1日の太陽光の変化もリズムと
様々に折り重なっている。

鼓動と寿命の関係は前に考察したので
今回は1日の太陽光の変化を見てみましょう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jieij1980/80/1/80_1_28/_pdf

地球上に生きる生物にとって
1日の太陽光の変化は
生体リズムの基礎となっているようです。

また、1年しか生きない生物群であれば
1年というリズムが
その生き死ににまで調和している。

この世界は、めくるめく
壮大な交響曲でもある。

この波の巡り巡りの在り方が
生死一大事血脈である
妙法蓮華経の五字であり

その法、エネルギーの在り方に
立ち返るならば
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と
我等衆生との三つ全く差別無しと解りて
妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
ということになる。

宇宙のリズムに適った波への
調和なのである。

ところでRydeenには歌詞を付けたものもありますね。

https://www.youtube.com/watch?v=M_4nGY9at9M
E-girls / RYDEEN ~Dance All Night~ (Music Video)

ダンスっていうのはリズムに乗って躍動する生命ですね。

バイアスの確執を解除して
宇宙と自身の体の持つ
自然のリズムに調和していく。

シンプルなぷるぷる運動が功を奏すのです。

功を奏すっていうのは
功徳を奏でるって読めますね。

境涯を開けば宇宙の全ては
功を奏していて

無駄なことなんて何もないのです。

それを自ら受けるのが
自受法楽とも自受用身とも言うのです。



[523] 厳護朗さんYouTube見ました!

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月 3日(水)19時53分28秒   通報   返信・引用

知りません(-"-;)

多分、田舎すぎて放送されてません。
レインボーマン(アニメ)は見てましたが……



[522] Re: ティーティーティーですか?

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 8月 3日(水)07時08分49秒   通報   返信・引用   編集済

清潔な身なりさん

あぁ~、やっとわかりました(笑)

「ティーティーティー」ってなに言ってるんだろう?と思っていましたが、あの音楽のライディーンですね!
https://youtu.be/WH1tVdv7jlw

私の言っているライディーンはアニメです!



[521] バイアスと十四誹謗と鎮静化

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 3日(水)03時39分59秒   通報   返信・引用

バイアスがそんなにいけないものと
言うのなら仏法にも説かれているはずだ。

と、考えてみるとこれは
功徳を消すバイアスはそのまま
十四誹謗にあたる。

http://d.hatena.ne.jp/kasiini/20081027/p2
01:驕慢=おごりたかぶって正法をあなどること。
02:懈怠=仏道修行を怠ること。
03:計我=我見と同義。誤った考えに執着すること。
04:浅識=自己の浅薄な知識に執着して正法を求めようとしないこと。
05:著欲=欲望に執着して正法を求めないこと。
06:不解=正法の教義を理解しないこと。
07:不信=正法を信じないこと。
08:ひんしゅく=顔をしかめて正法を非難すること。
09:疑惑=正法を疑い惑うこと。
10:誹謗=正法を謗り、悪口をいうこと。
11:軽善=正法を信受している人を軽蔑すること。
12:憎善=正法を信授している人を憎むこと。
13:嫉善=正法を信授している人を妬むこと。
14:恨善=正法を信受している人を恨むこと。

秋谷元会長は多く指摘されている。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/25342
http://6027.teacup.com/situation/bbs/28775

こういう性根のバイアスだ。

松野殿御返事には
十四誹謗は、在家出家の両方にわたるのであるから、謗法の罪を恐れなければならない。

と説かれているが
指導者の立場の側がバイアスにとりつかれたまま
情報を発信していけば、それが伝播し
組織総体が謗法と化す。

十四誹謗のうち
バイアスをバイアスと認識して
解除していくにあたって

懈怠というのは最も特殊かもしれない。

自分に対してにしろ
他人に対してにしろ
無理な努力の強要となれば
かえってバイアスを増長するかもしれない。

それぞれバイアスの正しい解除には
智慧等の六波羅蜜の人間性の練磨が必要である。

ともあれ十四誹謗のバイアスを
全解除出来れば

唱える題目は日蓮大聖人のそれと
同じになる。

自我機能の鎮静化によって
自身が仏と開かれていくということだ。

絶対的幸福境涯という一生成仏への方途である。

と、簡単に言ってみたが
当然そんな簡単にできるなら
今頃みんな仏様だということになる。

というか、これは本当は逆で
みんな本当は仏様でもあるけれど
種々のバイアスによってそれに
気づけなくなっている。

これを凡夫という。

我々にとってもちろん受持即観心ではあるが

バイアスの鎮静化というのがどういう方向か
世界的に平和の活動家として有名な
禅僧の話に一度耳を傾けてみよう。

https://www.youtube.com/watch?v=8iVtXoVccDk
ティク・ナット・ハン~『涅槃(ニルヴァーナ)、自由への道』

話を聞くだけでは
どうしても思考概念にとどまるので
528hz等の周波数と
エネルギーイメージ等のビジュアルが
ミックスされた動画を視聴してみよう。
(好みのものを好みの長さで)

三視点切り替えメッセージ系
(物質面、エネルギー面、言語面)
https://www.youtube.com/watch?v=95AdjZbb96U
https://www.youtube.com/watch?v=_IlOLzXkxEA
https://www.youtube.com/watch?v=N9EQKfBVoC4

深層意識飛翔向進系
https://www.youtube.com/watch?v=tZrBRQn6K0A
https://www.youtube.com/watch?v=6xpI00ShS4M
https://www.youtube.com/watch?v=UqvrbZgPDB4

非分離変動エネルギー系
https://www.youtube.com/watch?v=NR351WlGC4I
https://www.youtube.com/watch?v=w6sbrmcrSuo
https://www.youtube.com/watch?v=3h2mJnvRbZ8

無我循環調和系
https://www.youtube.com/watch?v=EXQVV2gebDI
https://www.youtube.com/watch?v=AsPtT-WELvQ

人によっては人や物に自分自身を感じるような
非二元感覚の一面が引き出されるかもしれない。

また意識の使い方と
自己機能の祈りと存在そのものの関係性が
体感として身に付く
きっかけになるかもしれない。



[520] 日寛教学とバイアスと組織

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 2日(火)02時35分16秒   通報   返信・引用   編集済

日寛教学が無ければ
どれほどのものが成り立たないのか
今の大多数の教学力では
分からないのでしょうね。

整合性とかどうでもいいとか
言い出したら、もはやカオス。

この場合
他人は変われど我は変わらじ
時流になんか負けません。
羊千匹より獅子一匹です。

さて
日蓮大聖人の御書を
学術的にではなく生命感覚から
文底まで読もうと取り組み

仏眼までの道筋を示した時
日寛上人の遺言の「の」の字が
感動的なまでの意味を成したのです。

これは日寛教学があって御書があるのでも
日寛教学と御書が別々にあるのでもなく

御書を生命論で読み解いた帰結が
必然として日寛教学だということです。

これは非常に重要です。

世間一般の組織というものは
バイアスを解除し尽したら崩壊します。

指揮系統の序列
行動の理念
利害の仕組み

そういったものはバイアスがあって
組織として動ける。

例えば愛国心なんていうのも
バイアスでしょう。

これが解除されると組織が崩壊するというのは

例えばマルチ商法でがんばって
大きなグループを作り上げ
そろそろ自分で頑張らなくても
収入が確保できると思ったら
瞬く間にグループが崩壊した
なんて話もあります。

熱が冷めバイアスが解除されると
そういったものは何も残らない。

じゃあバイアスの解除って
創価学会を崩壊させようって話なのかというと

四人組バイアスによる
悪い部分だけ崩壊させようって話です。

創価学会自体は蘇生させる話です。

思考概念で作り上げた学術的なものは
バイアスの解除によって崩壊しますが

人間はどんなバイアスを解除しても
生老病死からは逃れられない以上

生老病死を出発点とした生命感覚から
積み上げたものは崩壊しないのです。

ゆえに、この路線を行っています。

もうひとつ
池田先生自身が四人組バイアスの外の存在であること。

池田先生が、辞任させられたのち組織の運営を皆に任せたのは
いかなる組織内の悪が起こってバイアスを解除する
必要性が出てきたとしても
それを解除しても先生と会員との間柄は
何一つ変わることが無いようにするためだとしたら

バイアスを解除して困るのは
悪いことをしている奴らだけです。

むしろ四人組バイアスは
池田先生と会員の分断の方向です。

池田先生の弟子を自負するなら
何が形を成した時
何と戦うべきかは明白だと思うのです。

もともと54年も
宗門の権威のバイアスの解除を志向していたら
みんなバイアスの反作用に耐えられず
裏切ってしまったということではないかとも思います。



[519] 日寛教学

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 8月 1日(月)21時17分24秒   通報   返信・引用

後れ馳せながら、『学会3世の憂うつ』というブログに軽く目を通してみました。
その中で『ゆとり世代学会員の本音①:「本門戒壇大御本尊なんて知らない」』とのタイトル記事に対する読者のコメントへの青蓮氏の返信に以下のものがありました。
「私の上の世代の創価学会員は日寛が大好きですが、彼の教学は今後廃棄される第一のものになると思います。おそらく学会本部は、その方向ですでに動いているはず。」

これを読んだとき、たしかに青蓮氏同様に私も日寛上人の六巻抄などは勉強したことなど無いに等しいかもしれません。
数年前に実家に六巻抄があるのを見つけ、それを勝手に持ち出して、いま私の手元にあるのですが、そこには父か母かはわからないですが多数の線や書き込みがされていました。
それを見るだけでも、私の親世代は日寛教学を重視していたんだなぁ~と、考えさせられるものでした。
おそらく、現執行部も私の親以上に日寛教学を学んできたことでしょう。
それが今回の会則変更で、日寛教学に対する学会の考えを変更してきたことは、ただならぬことでしょう。
しかし、その学んできた者が敢えて、それに着手してきたことを考えると、現実をしっかり見極めたものであり、先生の訓練を直に受けてきた賜物なんではないかと、ふと考えさせられました。



[518] 大多数

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 1日(月)07時33分54秒   通報   返信・引用

学会3世の憂うつ読んでみました。

改めて現状を知ると
ひっくりかえりそうになります。

言葉は悪いですが

師弟ごっこ
友情ごっこ
信仰ごっこ
の政治結社

それを
「なにか問題でも?」と
あっけらかんとしている。

そんな大多数がいる。

とりもなおさず
それは創価学会執行部が
そういう方向にもっていってるってこと。

まともにちゃんとした信仰や師弟を
考えて指摘したら処分。

こういう時だからこそ
むしろこの掲示板の意義は大きいと考えます。



[517] 私も確か一度きり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月 1日(月)07時00分2秒   通報   返信・引用

こんなことになると
分かっていたら脳裏に焼き付けておいたんだけどな。

ライディーン分かんない。

そういうインパクトの
関連記憶があれば覚えておけたんだろうな。

かすかに
親に言われて広宣流布的なことを
祈ったような気がする。

登山関連で一番記憶にあるのは
いつもお土産にもらってた草餅の味。



[516] ティーティーティーですか?

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月31日(日)21時54分37秒   通報   返信・引用

実は私は一度きりで記憶も曖昧なんです。

桜 お土産 古い木 階段

なんだかサイコメトラーエイジみたいですが、途切れ途切れの記憶だけですね。父と祖父と新幹線で行きました。

都知事選決まったみたいですね。
他県民なので何ともですがしっかりやって貰いたいです。



[515] 正本堂での御開扉

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月31日(日)18時20分31秒   通報   返信・引用   編集済

私も学会三世ですが、何度か大石寺に登山しております。

正本堂での御開扉もうけております。

その時の率直な印象は「ライディーンみたいだなぁ~」です。
https://youtu.be/kYYOaHd5Rxs

飛翔こそ蘇生さんと清潔な身なりさんは近い世代のようなのでわかりますかね?(笑)



[514] Re: 本門戒壇の大御本尊なんて知らない

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月31日(日)18時08分12秒   通報   返信・引用

誤解を恐れずとんでもないもしもの話をひとつ

隕石が大御本尊に直撃して焼失したら

正直たまに考えてしまうんです。

現存しているが故にこだわってしまってるのではないか、自身のなかの御本尊に祈り輝かせていくと理解した方が、しがらみから抜け出れるのではないかと


サイヤさん、
気を害してしまったらすみません(_ _)
ただあと三十年もしたら大御本尊を直接参った人がどれだけ残っているか、考えると怖くなります。



[513] 本門戒壇の大御本尊なんて知らない

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月31日(日)15時10分51秒   通報   返信・引用


「学会三世の憂うつ」というブログに表題のような記事があったので読んでみた。管理人の青蓮氏は、親子ほどの年の差はあるが母校の後輩にあたる。石原さとみとも同じ校舎で過ごした世代らしい。(ちょっと羨ましかったりする)(笑)

私らの世代は、本門戒壇の大御本尊が日蓮大聖人の出世の本懐であると信じ、創価学会の中で育ってきた。しかし宗門からの破門後に生まれた世代は、大御本尊を知らないということに改めて気付かされた。これはこれで驚くべき事実であったが、考えてみれば至極当然なことである。しかし私の意識はそちらへ向いたことが無かった。

いい機会なので平成生まれの会員のことを考えてみよう。彼らは大石寺へ参詣したことも無ければ、大御本尊の御開扉の経験も無いのである。見たことが無ければ何の感懐を抱くこともなかろう。受持の対象としないといきなり云われても、そう云うものかと思うくらいが関の山と云うところであろう。それはそれで仕方が無い。

私の世代であっても、大御本尊を賛嘆してきたのはそういう時代であったからで、宗門と訣別した現在はそういう時代でなくなっただけと、簡単に割り切っている者も多い。私からすればどうしてそんなに簡単に割り切れるのか不思議なのだが、こだわりを持ち続ける私の方がおかしいと思うものが大半である。

仮に宗門と訣別せず、登山会も御開扉も継続していたとしたら、大御本尊を大聖人の出世の本懐でないとする論は出てくるはずがない。そう考えれば訣別したが故の自己正当化の論でしかないことが明白となろう。独立した教団であるから、教義も化儀も独自に決めることができるのは当然かもしれないが、それば日蓮仏法ではない。

私は大聖人の仏法を信仰しているのである。創価の教義はそこから徐々に逸脱しようとしているというのが私の見解である。それ故に創価が邪教化しているとするものである。若い世代は創価により目を覆われていると考える。しかしそれも当然かもしれない。創価が自身に都合の悪いものを晒す訳もないからである。

私は私の信ずる道を行く以外に手段を持たない。私の認識が誤っていたなら、潔く自らの意見を引っ込めることに吝かではない。しかし智者に我が義が破られないうちは、声高に自らの主張を世に問うていきたいと考える。これこそが今生人界の思い出としなければならないものと信ずるからである。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[512] 成仏は持(たも)つにあり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月31日(日)07時26分7秒   通報   返信・引用

どんな意見であっても
堂々としていれば良いんですよ。

案外なるようになるものです。

「心はたくみなる画師の如し」

オートパイロットと
アシュタールは、ここに関連している。

池田先生の思い描いた
最高の未来だけ
自分が実現させると決めて
目指していれば

今はどう関連するのか分からなくても
必要なことが起こるのです。

難もそうやって起こるけど
いざ本当に起こると
びっくりしちゃってたじろいじゃう。

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」

堂々と持つことです。

「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に
仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安
穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかど
も・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは
約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」です。



[511] 飛翔こそ蘇生さん

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月30日(土)18時36分57秒   通報   返信・引用

ありがとうございます。

宿板での『長の一念』での「原田会長を中心に」とは、その通りかもしれませんね!

しかし、ちょっと無謀かな?(笑)

ここのリンクを貼るのは・・・。



[510] バイアスと仏法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月30日(土)15時05分28秒   通報   返信・引用

厳護朗様ありがとうございます。

安易に「何でもあり」にするのは危険で
深い思慮が必要というのは確かですね。

元の流れに戻しつつ
今回も厳護朗様の話によって
気づかせてもらったことも
多々ありますので

バイアスと仏法の関係等を
考えてみたいと思います。

というのも、考えてみると
国土世間、三災七難、立正安国の話に
これによって整合性がつく可能性すら
あるからです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/44121
「広宣流布の暁には、こうした噴火なども起こらなくなるのでしょうか」との質問に対し
戸田先生は、
「山も成・住・壊・空という四劫を繰り返しているのだから、その生成過程で噴火を起こすことはなくなりはしないだろう」
「しかし、たとえ、噴火を起こしたとしても、それによって民衆が苦しむという事態を、避けることはできるはずだ」
と教えて下さっています。

この考えは
正常性バイアスを解く事によって
災害の被害を最小限に留め
力強く再建する考えに近いのではないかと思います。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2073084&id=77499640

意図的な思惑でない場合でも
認識の歪み(バイアス)によって

人は多く気付けないままに
誤った行動を起こしてしまう。

また、気付けたとしても
上手く修正できない場合には
かえってこの上ない苦しみを
味わうのではないかと思います。

法華経とはそういった個々のバイアスに
戒律や瞑想だけによって対処的に沈めるのではなく

その根っこにある信念(スキーマ)から変革し
http://manualtherapy.web.fc2.com/ninnti3sukiima.html

主体能動的に、社会へ世界へと波及させていく生き方

つまり人間革命に帰結するのではないかと思います。

しかし生きている限り
偏向性と現れるにせよ
志向性と現れるにせよ
バイアスがゼロになるということは
無いと思います。

歴劫修行と言われる所以ではないかと思います。

では、「悟り」に科学的根拠を求めるには
どういったところになっていくのか。

そもそも「悟り」とは
何を指し示しているのか。

まだまだ懐疑的で怪しさの抜けない
分野かとは思いますが考えてみたいと思います。

「悟り」とは
身体機能をはじめとした三世間の持つ仏智である
一念三千の自然の力に、思惑を挟まずに委ねる体感
ではないかと思います。

例えば「気功」と言うと怪しげに受け止める方も
いるかもしれませんが

仏教の修行法も一部関わっている

科学的に証明できる
「効果的な有酸素運動」です。
http://www.waseda.jp/sem-tsujiuchi/Karadanokagaku236qigong.pdf

これに思惑を挟まずに委ねるとどうなるか。

オートパイロットという概念があるようです。
http://cctw.jp/seminar/get_a_dream/

おそらくは
ストレージに近い概念に対しては
自己防衛の本能によって
バイアスが強く働くと思います。

「法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか」
とは、乱暴で強引な強さでは決してなく

ただバイアスの反作用に負けずに
慈悲(勇気)をもって

ポジティブダブルバインドの折伏を
していきなさいということだと思います。



[509] 犯罪者的?

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月30日(土)13時22分21秒   通報   返信・引用

同罪に近いかもしれませんね!

名誉毀損する意図はないにしても、画像だけ一人歩きして、アンチに利用される。

まぁ、あのパンツ好きな人には理解できないでしょうけど・・・。

では、これで終わりにしますかな。



[508] 名誉毀損、無断転載

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月29日(金)17時48分8秒   通報   返信・引用

まぁ、その辺りでしょうね。

別板でのあれやこれや
でもありますし

この板でのこの件は
この辺りで手仕舞いと
したいと思いますが

厳護朗様もよろしい
でしょうか?



[507] 刑事罰かはわかりませんが

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月29日(金)14時57分45秒   通報   返信・引用

厳護朗さんは書きにくい雰囲気ですので私の方から

出版社に出版停止や回収命令がでてもおかしくない記事を転載してますから、先生はじめ創価学会への名誉毀損は間違いないですね。

出版社の了解を得ていない無断転載でしょうから、出版社側から訴えられても負けるでしょうね。

双方とも訴えないのを見越してアップしているだけのことです。

写真掲載に関しては蘇生さんも擁護しないほうが無難だと思います。



[506] 仏法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月29日(金)00時41分55秒   通報   返信・引用   編集済

清潔な身なり様

人として学会員として
正常な心情と思います。

矛を収める度量と
相手への気遣いは流石です。

さて

厳護朗様

リベンジポルノでも
リベンジポルノ的でも
良いですけど

こちらは、先生の随筆や
日蓮大聖人の御書
日寛上人の文段
日興上人の遺誡置文に
反している事など

色々あげているのですが

そちらは
◯◯だったら嫌でしょ?
△△だったらどうするんですか?



回りくどい感情論しか
言っていないわけです。

「心の師となるとも心を師とせざれ」

ここが曖昧になるから
「先生の指導は◯◯だけど」と

心を優先して
金儲けに走ったり

一般論を優先して
「大御本尊はここに無いから
受持しなくて良い」
などとなってしまっている
創価学会の現状があるのです。

教学を通して指摘しても
「お前は二乗根性が強い」
なんて、かえって責めたりして
「幹部だから偉い」みたいな
こともまかり通しているんです。

でも、心情や一般論で
全部解決するんなら
仏法いらないわけですよ。

仏法は厳しいのです。
ちょっとの油断で
魔に破られてしまいます。

大御本尊も受持しないし

学会員ってだけで
正しい信心をしてるって

思い込みじゃないですか
それは。

全ての事は一旦、善悪無記です。

例え核ミサイルでも
地球に迫る隕石を破壊すれば
善であるようなものです。

学会幹部でも仏法を軽んじ
生命の尊厳を踏みにじれば
それは悪です。

しかし、あの画像アップは
受け取る側がどうであれ
発信する側は
リベンジポルノ的な意図では
書いていないんですよ。

また

リベンジポルノって
刑事罰の対象ですから

「あいつは犯罪者的だ」って
言っているようなものなので

だったら、例えではなく
具体的に何に抵触するのか
その根拠を示さないと

この掲示板の注意事項に
反します。

だから、こんなレベルの
感情のバイアスを植え付けた
信平狂言訴訟って

一体、なんでこんな事に
なっているのか

がぜん観察し
本質を見抜く必要性は

そういったことを相手取っている
人からすれば

あるんじゃないですかね。



[505] (無題)

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月28日(木)18時24分57秒   通報   返信・引用   編集済

> リベンジポルノその他の
> 概念も再確認してね。

誰も『リベンジポルノ』だとは言っていないのですがね・・・。

『リベンジポルノ的』だと言っているです。

そういう性質があるということです。

清潔な身なりさんの例え話もわかりやすいですね!

> もし蘇生さんの実名顔写真、住所家族情報付きで連続殺人犯でっちあげの記事が近所に撒かれたと考えて下さい。

私も顕正会の輩が新聞をまきちらかして、こちらが駆け付けると「何で妨害するの?」などと言ってくるときに、似たような例え話をすることがあります。



[504] サイヤさんとんでもないないです。(^^ゞ

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月28日(木)17時00分59秒   通報   返信・引用

サイヤさんの掲示板に、脱線気味のコメントをしたこちらの不手際です。

ちょっと前に宿坊板では女性会長を望む声があがってましたよ。サイヤさんが半年まえから発信されてたことに追いついて来たんじゃないかな(^o^)

私も題目を糧に日々の仕事、子育て、活動とこなすので精一杯です。まだまだ先は長いです(^-^)



[503] 無視できません。

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月28日(木)16時54分45秒   通報   返信・引用

蘇生さん

難しいことは抜きにして、大切な人の捏造記事を事実の周知のためとは言え、ネットにアップされたら普通の人は無視できません。

それに打ち勝つことが求められる組織では無いはずです。ただそれだけです。

彼らの手段は誤ってます。ネットにアップすることがどういうことかまだ判ってないのです。
自分は匿名でアップしているのですから卑怯としか言えませんよ、先生をネタにした回収命令レベルのデマ記事をネットにアップすることは後生まで引きずる罪です。蘇生さんもおわかりになりますよね。

私ははしゃいでアップを続けている、何とかの住人が異常だと言ってるだけで蘇生さんを責めているのではありません。お気を悪くさせてすみませんでした。



[502] まずはお詫び

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月28日(木)16時16分50秒   通報   返信・引用

お久しぶりです、身なりさん。

ここ数ヶ月宿板は訪れておらず、画像については何も知らずに発言していました。全体を把握せずに身なりさんの最後の一言だけに噛みついたこと、お詫びいたします。

婦人部を先頭に現場でがんばっていることは、うちの奥方を見ていれば分かります。決してそれを否定するものではありません。各人各様の使命があるように、それぞれの闘い方があると思います。私は私の闘いを誰かに強要したことはありませんよ。

写真(画像)については未だに把握していませんので発言は差し控えます。

原田会長が受持の対象としないと真っ向から否定した大御本尊です。私からすれば無数劫無間地獄の罪だと思いますが、多くの会員はそうは思わず、以前はそういう時代であって、今はこういう時代なんだと思っているようです。(友人談)

私とて何をどうすれば良いのか、いまだ五里霧中です。唱題と思索を続けてまいります。

とりあえず、お詫びまで。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[501] 一人立つ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月28日(木)15時06分36秒   通報   返信・引用

だから、

イケディアンの住人様が
リベンジポルノ的な事を
しているのではなく

最高裁に訴権の乱用と断罪
されるような
虚言リベンジポルノを仕掛けた
信平信子と
その裏にうごめく人達がいる
という事実を

どれぐらいショッキングな
内容を書かれたのかという
事実の提示によって示されて
いるという事を

まず立て分けて考えないと
論点ずらしなんですよ。

リベンジポルノその他の
概念も再確認してね。
http://synodos.jp/society/8056



全員に同じ闘いをしろと
誰も強要はしていないのだけど

無視する事が出来ないというのが

感情のバイアスが働いている
と言っているのです。

そして、

打倒日顕宗、打倒共産党と
組織をあげて闘っている
創価学会を

気持ち悪いとしか思っていない
一般人が多数いる事実を考えると

気持ち悪い闘いをするべきで
ないと言うのなら

そこから直さなきゃいけない
ということで

そのためにはやっぱり
感情のバイアスを解かないと
いけないということに
なるんですよ。

組織に依存し頼っているうちは
出でよ幾十万の山本伸一と
言われた、その一人にはなれない
のです。



[500] 学会員である誇りを胸に

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月28日(木)13時51分22秒   通報   返信・引用   編集済

蘇生さん

>「一人残らず救って行く」ためには
「君は闘わなくて良いよ」という人はいない。

>各人が闘って自分で勝ち取らなければ
真の幸福は訪れず、救われないのだ。

もちろんそうですが、みんながそれぞれの闘いがありますよね。みんなが古い写真集みて執行部の悪事を暴く集団んて、気持ち悪くて誰も入会しませんよ。
そんな強さをみんなが持つのなら組織はもはや必要ない気がします。
力だけが取り柄の父でも、組織に着いて朝晩祈るだけで幸せな家庭を築けました。難しいことはわからなくても信じて祈るだけで幸せになれる組織に戻せるひとが、難しいことでも考えてやればよくないですか?

もし蘇生さんの実名顔写真、住所家族情報付きで連続殺人犯でっちあげの記事が近所に撒かれたと考えて下さい。

それを私がこれは執行部が仕組んだデマですから信じないようにと、その家族情報付の実名顔写真をネットにアップしたらどうですか?一生消えませんよ!どこでどう形をかえてその顔写真が拡散されるか分からないのですよ、アップする必要性を感じますか?というか絶対だめでしょ?

一歩引いて考えてほしいです。

彼らは少なくとも手段を間違えてます。



[499] リベンジポルノ的との表現について

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月28日(木)13時01分40秒   通報   返信・引用

Wikipediaの『リベンジポルノ』の概要には以下のようにあります。
「インターネット普及による情報化社会である時代においては、写真・動画がネット上で流出・拡散すると削除が困難となり、半永久的にネットに存在し続けるデジタルタトゥーとなりやすい。」

あのパンツ好きの方には少し考えてもらいたいところです。



[498] 信心の一念の強さ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月28日(木)09時46分7秒   通報   返信・引用

今も昔も、創価学会の悪口は溢れていて

だから学会の正しさを証明するためにも
みんな真剣に闘ってきた。

インターネットを検索すれば
あること無いこと

創価学会の活動をまじめにやるなんて
迷惑な社会のゴミクズ
おめでたいバカ

そんな論調もあるが

今の学会本部についていくことは
それが現実のものとなる事を危惧する。

信平狂言事件なんて元より勝って当然の
今では何の論難にもならない
最高裁のお墨付きである。

こんなことに
あまりにも局所的に
感情のバイアスが形成されているのは

「カメはウサギに勝つ」という事を
必要以上に盲目的に信じているようなもので

そんな人間を騙し利用するのはたやすい。

つまり逆に言えば
この感情のバイアスを解いていかない事には

利用され盲従させられている学会員を
解放していくことが出来ない

という事が見えてくる。

であるならば
週刊新潮の信平の記事の画像のアップは

大御本尊を受持しないとされても
疑問も持たず、あるいは疑問を持ちながらも
結局、創価学会についていけば大丈夫だという

文証理証現証ではない
形成された感情のバイアスだけに
従ってしまっている
最前線の純粋な学会員たちを

解放し救っていく手立ての一つである。

人間はえてして
見せつけられなければ気付けない。

リベンジポルノとは
本人が公表する気の無い「事実」を
私的に知り得た他人が勝手に公表すること。

論点がずれる。

「監視しなければならない」とか
そういう発想が生まれること自体

危険な権威主義の片鱗である。

どこのどんな勢力を恐れて
一触即発の冷戦を繰り広げようというのか。

現在の創価学会は
正々堂々と正しい信仰を
貫くことが出来ず

その後ろ暗さから
あらゆることを恐れ臆病に

仮想敵を設定しては攻撃することでしか
自分の存在を確認し安心することが
出来なくなっているのだ。

本来の信仰に立ち返るならば
生命と御本尊は一体であり

恐れるものは何もないのである。

日寛上人の法門には
「我々の凡眼に写る板曼荼羅・紙幅の曼荼羅は仮かりに事物に寄せて顕された」
「我等衆生の信の一字の処、即ち己心の仏国土に戒壇本尊は建立される」
「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」
とも言われている。

何事も信心の一念の強さによって突破すべきである。

現在の創価学会執行部は
最高の「人間尊敬の教え」を、
最低の「人間蔑視の教え」に、すり替えてしまっている。
法華経の智慧に学ぶべし。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6621



[497] 言い方が悪いかもしれませんが

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 7月28日(木)07時22分29秒   通報   返信・引用   編集済

リベンジポルノ的に思えてなりません。

あの画像が半永久的に漂うのです。

国会図書館にもあるじゃないかとは、次元が違います。

人の噂も七十五日レベルではありません。
鎌倉時代や一昔前とは違うのです。

今まで、あそこまで纏まった精細な画像は流れていなかったと思います。

アンチが先生を歪めるために利用する危険があるのです。

その都度、破折すればいいこと?

広範なネット内を四六時中監視しますか?



[496] 週刊新潮の信平の記事

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月28日(木)03時49分1秒   通報   返信・引用

宿坊の掲示板の
イケディアンの住人様の週刊新潮
の信平の記事のアップの事を
ここでスーパー摧邪人様に言っても
しょうがないですよ。

スーパー摧邪人様は
現状の創価学会に対する認識が
甘いんじゃないですか?
ということを
週刊新潮の信平の記事の件とは
関係なしに言ったんじゃないかと思いますが。

私はもともと
こんなにこの話にタッチする
つもりじゃなかったのだけど
どうも、そうもいかないようですね。

信平狂言事件って、考えてみると
池田先生の遭った「難」です。

三流週刊誌の記事と言うなら
むしろ決然と論陣を張り
悠々と見下ろし
真実を射抜く必要がある。

釈尊の九横の大難や
日蓮大聖人の法難はつぶさに学んでも

池田先生の遭った難は
学んでいいものと学んでいけないものが
あるのはおかしい。

弟子として仇討ちを誓わねばならない。

大御本尊への回帰を急ぐ
とは言っても

「一丈のほりを・こへぬもの 十丈・二十丈のほりを・こふべきか」
ですし

悠々と見下ろせない
感情のバイアスを
乗り越えなければならない。

「一人残らず救って行く」ためには
「君は闘わなくて良いよ」という人はいない。

各人が闘って自分で勝ち取らなければ
真の幸福は訪れず、救われないのだ。

中途半端が一番いけない。

ほどほどでも良いよというのは
日蓮仏法においては無慈悲である。

しかもなお
誰から言われたという事でなく
内からの、自身と御本尊の誓いによって
晴れやかに歓喜をもってである。

関連する随筆を
いくつかリンクします。

http://ameblo.jp/2014-kc/entry-12138264099.html

http://d.hatena.ne.jp/peppie/20060520/p1

http://d.hatena.ne.jp/peppie/20040316/1079404556

http://d.hatena.ne.jp/peppie/20030818/1189410048

「救う」ということが
温情によって「救ってやる」という風に
勘違いがあると、おかしな組織になる。

本当は職員たちの方が
浄財によって生活させてもらっている立場
なのにあべこべになっているのだ。



[495] 「一人残らず救って行く創価学会でなければならないのです」

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 7月27日(水)22時45分0秒   通報   返信・引用

サイヤさんお久しぶりです<(_ _)>

今の現状はその通りだと思います。それでも地区には婦人部を先頭に踏ん張っている会員さんが何百万と居ます。
組織を蘇生させる手立てを考えることはとても大事ですが、みんなしてマッチョになって闘う必要があるのでしょうか?

写真をひけらかし強くなれというのは乱暴が過ぎると思います。

大御本尊への回帰を急ぐことが近道であると私の中に確信があります。



[494] 一人残らず

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月27日(水)16時05分34秒   通報   返信・引用

基本に立ち返ると

法体の折伏は
日蓮大聖人の三大秘法

化儀の広宣流布は
創価の三代の戦い

その両者を繋ぐ教学が
日寛教学。

現在の創価学会が
これに適っているかというと

大御本尊を受持しない。
日寛教学を使用しない。
池田大作全集を打ち切る。

宗門と決別したのだから
独自路線で良いんだと言いながら
その主軸は不明。

あえて言えば
認定権を持つ時の会長が中心。

これは日興遺誡置文に反するが
御観念文には日興上人は残っている。

支離滅裂ですが
異をとなえたら処分。

これでは
何によって誰を救うのか

全く創価学会が変質して
しまっているという
話なのですね。

スーパー摧邪人様の話は
正論だと思います。



[493] 一人残らず救って行くのが創価学会です

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 7月27日(水)12時55分29秒   通報   返信・引用

「一人残らず救って行くのが創価学会です」

私はそうは思いません。このように云うと若干語弊がありますので云い直しますと、現在の創価はそうではないと思います。もしそうであるなら創価を除名処分となった3人が、ブログで騒いでいることの説明がつきません。大聖人の仏法は全民衆を救済する思想であり、その方法を指し示したものです。かつての創価学会はそうだったかもしれませんが、現在の創価は一人残らず救おうなどと考えているとは思えません。

現場レベルではまだその思想が残っているかもしれませんが、創価を離れ宗門へ走った人間に対する仕打ちを見ると、それも疑わしいと云わざるを得ないかもしれません。最近友人の一人が宗門へ行きました。仮にAさんとします。以下は伝聞ですが、Aさんが宗門へ行きしばらくして、組織から「打倒 A」と書かれた書面が回ってきて、仏壇に供えて祈るようにという話があったと云います。

これを聞いたとき、「そこまで落ちているのか、この組織は」と正直思いました。中枢部が腐敗すれば自ずと末端も浸食されていくのでしょうが、私の地元はまだそのような感じは受けません。地域差が大きいのでしょう。副本部長の家内は部員さんのために毎日走り回っています。家内も私の考えを知っており理解していますが、「本部と現場は別物」といって、学会活動に余念ありません。

宗門が懶惰懈怠にして大聖人の仏法を世に埋没させていた中、その法を世に問い世に弘めていったのは創価学会です。この事実は紛れもないものです。大聖人の仏法を現代社会に蘇生させたと云っても過言ではないでしょう。創価学会の出現が無ければ、宗門は日蓮系の田舎の一宗派のままであったことでしょう。全民衆の救済を可能にする日蓮仏法であるにもかかわらず、宗門の徒輩は自らの食い扶持くらいにしか考えていなかったのでしょう。

そう考えると創価学会の存在意義は比類なきものと云えます。この部分は私ももろ手を挙げて賛同します。しかしその創価は現在、邪教化しつつあるというのが私の認識です。その理由は各所で述べているので割愛しますが、比類なき存在であり大恩ある先生が育んできた創価が、このまま腐って行くのを黙って見過ごすことは私にはできません。それ故に声を大にして各所で述べています。(最近減っていますが・・・)

私の認識が誤りであり、創価は邪教化などしておらず、今後も大聖人の仏法を宣揚しつつ、一切衆生を救済していくというのならそれでいいのです。愚かな壮年部が一人、誤った認識のもとに騒いでいただけのことですから、時と共に消え去っていくことでしょう。しかし内外の情勢を見る限り、私の認識は当たらずといえども遠くないところにいると考えます。それ故に思索を重ね唱題し続けているのです。

追伸: A氏の論は私にとって「九重の劣」ですので見るに値しません。毛嫌いしている訳ではありません。生身の日蓮大聖人であらせられる御本尊を「シンボル」とする論に、如何なる価値を見出せというのでしょう。いつかイササカ先生が云っていましたが、「普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず」との御文に明確に表されていましょう。(開目抄)

http://macska2012.blog.fc2.com/



[492] 清潔な身なり様

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 7月27日(水)10時03分24秒   通報   返信・引用

お久しぶりです。

一つの日蓮大聖人の御書の解釈
教義や本尊論でさえ
その捉え方は千差万別十人十色。

54年問題の捉え方も
その解決に向けた手法も
イデオロギー同様
様々な違いがあって当然ですね。

南無妙法蓮華経を考えるにあたって
生命論として生命現象を見ていくならば

事象は、とても平らで差別がなく
本来平等で境目が無いのです。

とは言っても実際の現実には
様々な差別が存在し
人はそれに苦しむわけです。

依存したり拒絶したりね。
それは「これが正義」という
固定化された思惑が存在しているのです。

この差別を生み出しているものは何か?

もう一度捉えなおそうと思ったら
なかなかスマートにはいかないことも
あるかもしれない。

それが良いやり方かどうかは
ここでは判断はしませんが

あえて極自然に拒絶反応の起こる
事柄を取り上げることによって

見る側、見られる側の
この生命現象は
どういった風に起こっているのか

自己観察、俯瞰の観察の
機会ではあるかもしれません。

自身の生命現象は
全部が南無妙法蓮華経なので

この生命現象の自身と向き合わないことは
法華経に背を向けている事でもあるのです。

犯人捜しのような事は置いておいても
この機会に自身の生命現象を観察するのも
飛翔への一歩になるかと思います。

毛嫌いせずにアルベア論を見てみると
何か発見があるかもしれませんよ。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/414-442

まぁ、言っても
上級者向けの、さらに粉動されないための強さ

崩(くず)れることのない自由自在の生命活動(常)、
生きていくこと自体を楽しむ絶対の幸福感(楽)、
何物にも粉動(ふんどう)されない円満かつ強靱(きょうじん)な主体性(我)、
何物にも汚染されない清浄(しょうじょう)な生命(浄)、
以上の四つに象徴される最高の境界(きょうがい)。

の仏界への挑戦といった感じかもしれませんね。

参照:仏界の引用元
http://www.geocities.jp/kokoronoshikumi/hokekyo.3000.wakariyasui.html


レンタル掲示板
833件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.