いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


833件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[641] 変化し続けることは変化しない

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月28日(金)10時10分5秒   通報   返信・引用

明確な決定的な答えが示されることが

必ずしも質問する時の
求めるべきものとも
求められるものとも
限らない。

現実的にも
男女間の相談の中身に
見出そうとするものに
差がみられる傾向がある。
http://woman.mynavi.jp/article/130616-022/

思考概念の明確な答えは
レッテル貼りでもある。

非二元や悟りに関する答えは
答えが有るという終わりも
答えが得られていないという始まりもなく

同時の体感なのだという
イメージによる言葉によってしか
説明という答えは用意されない。

言葉を体感・イメージとして
展開する力が非二元の智慧であり
関わり合いと実践の継続が
変化する今との調和である。

言葉を言葉として
受け取るだけでは
単一のレッテルへの
執着であり
そのバイアスが
生命の自然浄化を阻害する
謗法であるのである。

全ては変化するのが実相なので
進まざるは退転であるのだが

凝り固まった思考を継続して
変化の実相を無視して
これに執着することは
頑張るほどに進みが無い。

頑張らないということは
変化に対しての自然の
浄化作用
変化させる本質との不二である。

この実相の
変化しない瞬間が無い在り方自体が
進まない瞬間のない無作三身である。

変化し続けるということだけが
変化しない。

それの覚知である。




[640] 神格トライアングル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月26日(水)07時28分56秒   通報   返信・引用

神格というものが
何に対応して神格と言うのかを考える。

そうすると
神格・法・人格という
トライアングルが浮かび上がる。

法とは現象化されるものであり
不幸と感じる現象も
幸福と感じる現象も
神格が起こしたものを
人格が感じている。

本来それは
神格と言い法と言い人格と言っても
一心に納まっているもので

信じて行うという時には

迫力ある物言わぬイメージ像に対して
自身の抱くイメージとの調和調整を行う。

無我・現象・我の関係性の体得が
本来の信仰なのである。

「教え」というものはことごとく
教えるものの我の志向性であり

無我に相対するための導入にすぎない。

愛・慈悲は
無我を先とした我の現れである。

子を愛する親が
自分の事よりも先に
子供の幸せを願うようなものである。

一心における
無我・現象・我のスケールの拡大が
奇跡を起こしていくのであり

そのスケールが境涯である。

「無我から見れば一切は平等」

これは思考概念ではなく

その体感が無我だということである。

無我に気づくための導入として
教えがあるのが本来である。

無我自体は一切に意味付けをせず
何も絶対化しないことによって
自身が絶対である。

つまり何かを絶対化すれば
そこに狂いが生じるのである。

思考概念により
パラドックスにならざるを得ない
現象化が続いているのである。

化儀・相対の世界である。

この世界に対しては
思考概念の実力差というものは
あるのである。

だが同じ土俵で思考概念で
勝負するのは本来の信仰からは
外れているのである。

一心に納まるトライアングルの
体感覚知が無ければ

声高に「絶対」を設定するほどに
疲弊するばかりなのである。

体感覚知の者であっても
言葉で伝えられることには
パラドックスの限界がある。

体感覚知すれば
同時に逆もまた真であることが
自然に了解される。

同時存在であることを覚知することが
智慧の門を開くということなのである。

腐敗をもたらす神格化とは

凡夫とは差別された
神格の絶対化であり
派生した教えの絶対化である。

それによって
無我と相対することが
否定されてしまうのである。

しかしこの負荷も
スケールの拡大には
不必要なわけではない。

最高のチャンスでもある。



[639] 力作へリンク

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月24日(月)02時18分21秒   通報   返信・引用

宿坊の掲示板より
Cleasky + 正義の師子同盟

「法華経の智慧」・日蓮大聖人こそが御本仏
http://6027.teacup.com/situation/bbs/58642
http://6027.teacup.com/situation/bbs/58643

「法華経の智慧」・日蓮大聖人は御本仏・菩薩仏・如来神力品
http://6027.teacup.com/situation/bbs/58645

かなりの力作ですので
ここにも貼っておきます。

~~「法華経の智慧」に学ぶ・・終わりに

この「法華経の智慧から」の章には「十界本有」「久遠元初」「上行菩薩」等の難しそうな仏法用語が使われてい

る。また、「釈尊の悟り」や「事の一念三千」など、「法華経の智慧」ならではの本源の考え方が展開されている。

ともすると、手に取るのが躊躇されるのも当然かもしれない。

しかし、先生はこれらを「順を追って考えてみよう」「順序立てて考えていこう」と各概念を幾つかの要素に分解

し、対談形式で解説を加えながら、精緻に法理を説明されている。原書を読むと、<なるほど、そういうことだった

のか>と膝を打つこと請け合いである。

本資料における本章の要点を記すと、<釈尊の悟りの本質は『永遠の法』と『永遠の仏』であり、釈尊や三世諸仏も

この二つをその身に体現することで仏となった。滅後も同じくせよ><滅後の小乗経の諦めや大乗経の神格化された

仏による救済等の失敗を踏まえて、大聖人は『御本尊』を顕された><『久遠元初』とは『南無妙法蓮華経』の異名

であり、宇宙生命そのもの。南無妙法蓮華経と唱える我が身に久遠元初の仏の生命を涌現させる所縁が御本尊><久

遠以来、日蓮大聖人が南無妙法蓮華経の本法を所持。故に、日蓮大聖人が『本因妙の教主』『末法の御本仏』>と考

える。

「法華経の智慧」は幾つかの言語でも出版されており、日本だけでなく海外のメンバーにも有益な研鑽教材だと思

う。本章は「御本尊観」「大聖人観」にフォーカスしているが、本来は「信仰観」「善悪論」「組織論」「境涯論」

等、二十一世紀の仏法と社会を指向する内容だと思う。今回の内容を契機として、「法華経の智慧」全体を通して、

真の学会教学と師弟不二の学会精神を共々に研鑽していけると嬉しい。


Clearsky~~



[638] 亜流瞑想~意識の使い方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月24日(月)02時07分36秒   通報   返信・引用

私の中では
「依存」は非二元から離れる思考
「委ね」は非二元的な意識の使い方
のような感じがします。

でも、良い線だと思います。
それも含めて考えてみます。

それは次回以降にして
先に瞑想ですが

うとうとしている時に
落ちる夢、または落ちる感覚になって
ビクッとなって目が覚めた
なんて経験はありますかね?

自律訓練的な方法で
再現が可能なんですが
昔は出来ていたんだけど
今トライしてみたら出来なかったです。

まぁ落下感覚にまでなってしまったら
怖くなったりビクッとなったりして
瞑想・自己暗示状態が解けてしまうので
出来るのが良いのか?出来ないのが良いのか?

ともあれ、それが可能ということは
脱力感覚・浮遊感覚は
この方法で出来るということです。

1.明るすぎないところで仰向けに寝て目を閉じる。
2.下腹部の丹田に意識を向けて口から細く長く息を吐く。
3.鼻からゆっくりと息を吸う。
4.2~3を3回ほど繰り返す。
5.呼吸を落ち着け静かな呼吸にする。
6.呼吸をしているかしていないか分からないぐらいだけど苦しくはない状態にする。
(苦しくなったり、ドキドキとしている状態なら2からやり直す)
7.手や、そして身体全体の自然な重みや温かさを感じ味わう。

8.急なウォータースライダーなどの楽しい落下に近い実体験の身体感覚を思い起こす。

それで落下感覚の再現が
これは出来ても出来なくても良いけど

出来てしまって、そこで自律訓練法が解けてしまう場合は
次からは落下感覚にならない、
楽しいフワフワしたイメージに置き換える。

9.解除動作。手を握ったり開いたり、伸びをしたりする。

これが、弛緩・脱力・リラックスの方向。

それでは物足りないんだという場合
「今ここ」への意識の込め方の鍛錬法があります。

これは最近に自得したものです。

絶対に動かないものを動かそうと
力を込めるアイソメトリック筋トレ法
http://diet.netabon.com/exercise/bodyworkhow/isometric.html
なんてものがありますが

これを視覚でやります。

目を閉じるだけでは、いくらか
周りの光はまぶたを通り抜けて
見えていますので
さらに手で覆ったり
アイマスクなどの物で覆って光を遮断します。

この状態で、視覚に思いっきり意識を集中して
今ここに見えているものを見ます。
何らかの光的なものが見えるかもしれません。
本当にそれが今ここに見えているものなのか
自問自答し、さらに今ここの視覚に集中します。
明らかに想念が作ったビジュアルが見えた場合
それじゃない等と否定し、今ここを見ます。
ホワイトアウト感覚が分かる場合は
ホワイトアウト感覚をこの状態で使おうとします。
集中し終わったら
目を覆っているものを外し
少し慣らしてからゆっくり目を開きます。

これは見えざるものを見る集中です。
本当に必要な方だけやって下さい。

それでもまだ足りない方は

この習得の後
これはまったくおすすめはしませんが
逆の見えているものが消える
意識の使い方も出来ます。

少しの間接照明の薄暗い所で大きめの鏡を見るか
明るい所でも、大きめの自分の姿が映る
色のついた(形・立体はシャープに映るけど
色合いが損なわれるような)ものに自分を映し

意識と視覚の使い方の調整で
自分の鏡像を消します。

背景色とのトーンが近ければ
人の写真等でも出来ます。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/51537396.html
↑こういう
意識して注目しないと
見えてこないものがあるという事は

注目を外せば
見えていたものが見えなくなる
ということです。

実際に自分の鏡像を消すと
「やだ、なにこれ、きもちわるい」
です(笑)

さて、夢ですが
非二元にしても九識論にしても
もちろん戸田先生の生命論にしても

意識は
深い所では繋がって一つになっている。

脳というものは
完全な主体性のものではなく
受信機であり
その認識、論理的思考の場であり
体験、意味付け、意味関連の
保存の場ではないだろうか?

http://baby-chiiku.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/harts/
最新の研究でも
意識や心は解明しきれていない。

例えば、落下の夢でビクッとなって起きてしまうのは
実際に筋肉の弛緩が起きて
その浮遊感の信号によって作られた夢と思われ
脳だけが夢を作っているわけではないと思う。

寝ているという無意識状態であればこそ
自身の生命活動としての
繋がっている全体性の影響を
夢として構築するのかもしれない。

自分だけで自分があるという
自分は無いということ。

縁があって起きているだけ。



[637] 夢の不思議

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月23日(日)17時15分46秒   通報   返信・引用   編集済

以前、夢の中で御本尊様を破いたことをカミングアウトしたんですが、

その事でふと思いました、その夢の中で母親が激怒したのですが、そのあとテープで繋げればバレないと言い出したのです。私はその発想にビックリしたのを覚えてます。

でもでも、夢の中ですからその母親も母親の行動も私の脳みそが作ったんですよね、なんかおかしくないですか?
その夢に限らず、夢の中の登場人物から背景まで自分で作ってるんですよね、しかもその事に気付かずビックリしたり喜んだり悲しんだりと、かなりおめでたい事になってます。

凄い能力(^^;)

案外、今いる世界も似たようなモノなのかも知れないですね(・・?



[636] 依存

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月23日(日)14時06分17秒   通報   返信・引用   編集済

蘇生さんのあげられた神格化という言葉をみて最初に頭に浮かんだ言葉は”依存”または”ゆだね”です。

自分に欠陥があるんだと、本能的に思い込んでいる生物ゆえ、全知全能の対象物に依存したいという欲望から生まれるのではないでしょうか?

話は変わるのですが、布団の中でトライできる瞑想の方法でお勧めがあれば教えてください。マインドフルネス的な感じでも構いません。

今やってるのが自分の呼吸と肌の感覚、聞こえてくる音に集中する事です。目はつぶってます。
たまに体のどこかで脈が打ってるときはそこにも注意を向けてます。想念が浮かんだら「オイオイオイ」と脳みそに意識を向け「お静かに!!」と想念を断ち切ります。

しか~し、瞑想といえるものではないです。想念に気付くまでの早さはひと月前より各段にあがりましたが、それだけです。

俗に言う”瞑想”と呼べるような、無の境地や自我が薄らぐ精神を目指してます。

欲張りですみません(-_-;)



[635] 神格化とは何か?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月23日(日)09時54分19秒   通報   返信・引用

差別各別
意味付け
意味関連
崇拝

意識とは何か?
神格化とは何か?

このあたり
考えてみたい。



[634] 順調

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月21日(金)10時10分55秒   通報   返信・引用

身なりさん
1ヶ月の成果としては
順調です。

探求の精度の向上が
了解の体感へと
転じていくのです。

他人の目を見た時の
それのように。

探求の終わりが悟りです。

探求し尽くせば
反転するのです。



[633] 1ヶ月

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月20日(木)20時06分34秒   通報   返信・引用   編集済

非二元というモノに取り組んでちょうど1ヶ月経ちました。

蘇生さんいろいろありがとうございます(^^)

思考観察は板についてきたかんじですが、精度が低いがします。精度がどうのと言ってる時点でズレてるんでしょうが、最近は自我の思いだからしょうがないと割り切ってます。

変化については、他人の目を見たときに変な気持ちになります。具体的に説明するのは難しいのですが、その人の気持ちになると言うかその人そのものになると言うか、
ちょっとヤバいのかなぁ~

近々マインドフルネスに取り組もうと思ってます。



[632] 認識って不思議ですね

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月20日(木)15時19分13秒   通報   返信・引用

鏡に「お前は誰だ」って
ゲシュタルト崩壊のあれですね
(^-^;

http://matome.naver.jp/odai/2133950768605438001

抑圧下で
片手落ちで無理に悟ろうとすると
あれなんで

プルプル運動を継続しながら
そういう見方もあるのかって
軽めに流す感じで

気が付いたらなってた
って感じが良いかもね。

その上で
信心の基礎があるっていう前提は
そういう経験と相まって
強いと思います。

外すべき思考も多いかもだけど。

繰り返しの中で磨かれる。



[631] 距離、速度、位置は相対的

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月20日(木)14時55分12秒   通報   返信・引用

例えば視覚のみの存在であれば
自分が移動しているのか
景色が向かってくるのか
判別がつかない。

歩くという経験を組み合わせて
自分が移動しているという
認識を作っている。

天動説が破られ
地動説が真実と言うが
日常的には
都合の良い天動説の体感で
生活している。

普段、地球の乗って
宇宙を旅しているという感覚は
希薄なのだ。

基準次第では歩かなくても
1日4万km移動している。

赤道付近での円周の
移動距離である。

その場合、昨日の自分とは
4万kmの移動を経た先に
いることになる。

それどころか、基準次第では
移動速度は光速を超える。

相対性理論の光速という限界は
相対的に距離が変化する速度であって
空間自体の速度は制限していない。

体感としての天動説を
基準にした場合
地軸を中心に全天という
相対距離の変化しない空間丸ごとは
1日1回転する。

1光年先にある星の移動距離は
1日で約6.28光年だ。

1光年先にある星が地球と同じように
1日1回転していて
基準をそこに設けた場合
1日で約6.28光年移動しているのは
こちらのほうだ。

自分の視覚を基準にすれば
1秒でくるりと1回転すれば
1光年先のものは
秒速で約6.28光年の移動だ。

重力や慣性系や加速度
また自分という認識を度外視して
視覚だけが経験しているのは
そういう世界なのだ。

移動距離はいくらでも大きくなることが出来る。
逆にいくらでも小さくなることも出来る。

真実への距離はそのようなもので
いくらでも遠回りすることが可能で
視点次第で距離を縮めることも可能だ。

頑張って何かを変化させて理想を実現しようという時
今の現実が理想から離れているという距離が発生している。

何のために努力するのかを突き詰めると

本当の自分はこんなんじゃない
という否定が発生していて

本当の自分を知りたいという欲求がある。

様々なものを得れば
理想の納得いく自分に
なれる気がしているが
何かが違うとも感じている。

自分なんていうものは
何もしなくても今ここの経験が自分なのだ。

何かをしようとして向かっていた主体性が
自分だと思っていたものが

経験が自分として向かってくるのだという
反転が起こる。

反転が起こるというが何も起こらない。

すでに今経験しているものが
それであるからだ。

始めから
必要なものが必要なだけ
必要な順に起こっている。

自身の生命現象以外の何ものも
経験してはいない。

全ての経験そのものが
自身であるからだ。

この全体性に
ハートの躍動を乗せる
意識の使い方を
抵抗値ゼロのエネルギーにする。

必要ならば
必要なだけ起こる。

変化は自ずからやってくるのだ。

呼吸、エネルギー
法のため人のため。

真実の言葉は真実になる。

必ず了解出来ます。



[630] 情報処理

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月20日(木)10時37分43秒   通報   返信・引用

たまに脳みそが情報処理できずに訳が分からなくなるときがありますよね。

そこまでいかなくても違和感をビンビンに感じることがあります。

私の場合はホームビテオの中の自分です。
誰だ!!??俺か!?2秒位したら状況を脳が組み立て理解します。コレって理解しているのではなく本当は自我の騙しにあってると思うのですがどうでしょう?

似たようなので録音された声や、昔の作文を目にした時なんかもそんな気分になります。

中学2年の頃は10分くらい鏡の中の自分に「お前は誰だ」と訪ねてたこともあります。その時は何やってんだと思いましたが、案外それが真実に近づいてたのかもしれないですね(^^)



[629] どうしても動いてますね

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月20日(木)09時39分37秒   通報   返信・引用

一歩も動いていない。

これは一瞥体験無しには得られない感覚のような気がします。

だって歩けば進みます。



[628] 仕組みは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月19日(水)17時57分34秒   通報   返信・引用

「ここ」にいて

頑張らない(これ伝わりにくい)
でいると

全体性の中の働きが
勝手に起こる。

仏智に逆らわないでいると
申し合わせたように
なるようになる。

そんな感じです。



[627] 例えば口笛

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月19日(水)10時20分16秒   通報   返信・引用

例えば

声帯によらず
口内を笛のように使い
音を出す事に名前を付けたのが
「口笛」です。

同じように

思考概念によらず
意識を球のように使い
存在が在る事に名前を付けたのが
「悟り」です。

言葉だけで説明するのは難しいし
理解することと出来ることは違う。

出来たとしてそれを
どのように活用するかも違う。

法華経には
悟った後の事までがある。
その現実の中に活かす方法。

話は変わるが
たまに思い出す歌がある。

NHK教育番組 みんななかよし OP
https://www.youtube.com/watch?v=Wld4JKzJhio

だから何ってことはないのだけど。

口笛ふいて~空地へ行ったら~

悟りの切り口の一つとして
悟りって何? スティーブン・ノーキスト
https://resonanz360.com/2013/07/16/norquist-what-is-enlightenment/



[626] 参考参照の妙

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月19日(水)09時31分12秒   通報   返信・引用

飛翔さん

こんにちは

いつも動画やブログなど興味深いモノや、タイムリーなモノを紹介してくださるのには感心しています。

どんな仕組みになってるのでしょう?たまたまかな?



[625] 巡る秋

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月18日(火)01時19分23秒   通報   返信・引用

生かされている自然の巡り。
花は自らの美しさも香りも知らず
自ら誇ることはない。

無作の姿です。

息子さん元気に登校出来て何より。

ブログに返事書いた分ですが
URLリンクされないし
こちらにも転載しておきます。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/7424897.html#comments

区別するなら色々と区別があると思うけど
この記事は基本形ですから
「これしかない」の段階です。

まぁ「これ」も種類があって
ちょうど面白い記事を見つけていたので
貼ります。
http://abetoshiro.ti-da.net/e9054324.html

同じブログで
検索で最初に見つけた記事は
http://abetoshiro.ti-da.net/e8175856.html

アルベアさんが見られているという
意識を指南することがありますが
そういうことに関する記事です。

さて
「空」「無」というレベルは
主体的に何もすることの無い完全。

「真我」「ワンネス」といったレベルは
その無限性の中で有限性とルールの
始まりで観察し味わう。

個々のエネルギーの起こりの
現象化として無意識的な
「ハート」「自己機能」というレベルがある。

意識というものは
相互に互換しうるような特性があり
その使い方の習得が肝要。

「自我」「マインド」というレベルは
思考・概念。

般若心経には
空の輪郭がある。

法華経・一念三千には
意識の相互の互換がある。

悟り系も切り口は様々で
志向性がある。



[624] キンモクセイが香ってます。

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月17日(月)12時50分22秒   通報   返信・引用

今年もキンモクセイの季節がやってきました。

ちょっと遅い気がしました。

ある時からキンモクセイの匂いを鼻にすると、なんとも言えぬ気持ちになります。淋しいような虚しいような、理由は判りません

深層心理に何かあるのかもしれません。

今日は月曜日です。息子が珍しく朝から元気に登校しました。月曜日の朝はほとんど給食登校だったのですが、こちらも理由は判りません。

なんだかんだでみんな元気です。(^^)



[623] 形容詞16個で連想

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月16日(日)09時48分38秒   通報   返信・引用

いやはや、面白いね。

甘い+優しい>聖母
狡猾な+猛々しい>創価幹部

>>神格化の腐敗

うるさい+優しい>○○(個人名)
女々しい+楽しい>ずるずると

>>避けられないテーマ

高価な+軽い>太陽エネルギー
禍々しい+神々しい>異教・スピリチャル

>>生命の真源

突飛な+幸せな>光の世界
苦しい+強気な>過負荷の克服力

>>反転のエネルギー

次のふたつの言葉は
一番関心を持っている言葉
深層心理が表す自分の立ち位置

>>神格化の腐敗+
>>避けられないテーマ

>>>宗教枠の解除

>>生命の真源+
>>反転のエネルギー

>>>空の完全救済実践

なるほど。

そして最後は
>>>>全宇宙ステージアップ

もう、
笑ってしまいますね。



[622] 人生の課題

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月15日(土)01時10分40秒   通報   返信・引用

良い父親ですね。

何が上手く出来なくとも
そのまま愛してあげて下さい。
必ず解決します。

人生の課題が
息子を通して軽く出ているのです。
転重軽受なのです。
有難いことなのです。

息子との対話
妻との対話
自身の自己内対話
それぞれマインドマップ形式で
メモを取りながらしてみると
カウンセリングのような効果になるかもしれません。

http://blog.goo.ne.jp/inocch2007-/c/831fb0fed7e3b93ac31b3b1db036f7d1
http://p.booklog.jp/book/47987/page/1020145

また、自身を知る心理テストに
形容詞か形容動詞を16個書いて
2つずつセットで連想する言葉や文を書く。
そうやってできた8個の言葉を
同じように4個へまた2個へ
最後に1個になった言葉が
今あなたが一番大事だと思っていること
なんてのもあります。

http://ameblo.jp/sysmrm/entry-12137207795.html

これはマインドマップの逆順のような感じです。

自身を知り相手を知り
信頼できるもの同士として
言葉を伝え合う。

子供には子供の世界があり
大人には大人の世界がある。

でも南無妙法蓮華経です。

その過不足のないありのままの体感を主軸にして
コンプレックスによるブレズレのない目的を
明確にしていくならば

必ず全て解決します。

もしくは、解決も何も
すでに完全であったことに
気づきます。

意識の使い方の
飛翔の時です。



[621] 気づいてあげよう!!

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月14日(金)14時53分57秒   通報   返信・引用

息子が週の半分は朝から学校に行きません。

何をしてもダメです。妻が昼前まで説得しようやく車に乗り込みます。

息子は朝からネガティブな気持ちが湧いてくるようです。まだ小学校一年生なんですが湧いてくるそれは、かなり強烈に思います。

寄り添って少しでも気づいてあげれるよう心がけます。



[620] 気づきの実効力

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月14日(金)10時18分42秒   通報   返信・引用

気づいてあげる
気づかせてあげる。

普通に考えて
全く当然の円満の秘訣に
なりうるものであると思う。

「最近ウチの子の考えていることが分からないんです」
なんていうのは、円満な状態とは言えないんではないだろうか?

「思い込み」「信じ込み」「押し付け」には
気づきが無い。

気づきが無く自分の思いを先行させるから
言う事を聞いてくれなくなった子に対して
思い通りにならないことに苦しむ。

気づいて円満になればそこに苦しみは無いのに
変えられない方の起こり終わったことにばかり
注意を向けて執着し躍起になり苦しむ。

ありのままの自然さを否定し
不自然に自分の思いに現実を合わせようとするのだから
自然の自浄作用、蘇生力の恩恵にあやかれない。

ハッキリ言うと
そういった愚考信心に陥っている家庭の子供は
心を病んでいることが多い。

だからダメという論調は控えておく。
そういう選択であるし
気づくためのメッセージである。

気づきには実効力があり
実践をしなければ
気づきの質は向上しない。

サプライズというものがあるが

プレゼントをもらったら嬉しい
何かしてもらったら嬉しい

という事だけを大掛かりにして
温度差が広がってしまえば

一人で盛り上がっちゃって、何それ
である。

心を動かすのは、気づき思いやりではないだろうか。

貴方のこんな側面にも実は気づいていますよ
貴方のこんな本心にも実は応えようとしていますよ

というメッセージであって感動につながるのではないか。

そうやって思いが届くなら
そうやって思いがつながるのなら

いじけて自暴自棄になっていたものが
自然と活力が湧いてくるような
そういう効果があるのではないかと思う。

さて、そういった気づきが
もたらしてくれる円満というものは
身近な人間関係に限ったことではない。

例えば人類の恒久的な発展のためには
地球環境に耳を澄まし、その声に気づくことで
良質な自然との調和に向かうことができる。

そういったことを無視し続ければ自滅である。

究極は一念三千、南無妙法蓮華経への気づきである。
宇宙生命そのものである。

気づくべき対象として顕れてくれているものだから
そこには気づくことの可能なメッセージがあるのだ。

現行の創価執行部は、気づきが少なすぎる。
もしくは無い。
思い込ませ信じ込ませに走っている。

しかし嫌でも気づかなければ取り残され自滅する。

都知事が女性となり
アメリカの大統領も女性となる可能性が高い。

日本はアメリカ追従型であるし
様々な機構が見直しを余儀なくされるかもしれない。

戸田先生はマッカーサーを梵天と見たが
日本にとってアメリカの行いは梵天の
働きとなることがあるようである。

この現象化のメッセージに
気づけるのか取り残されるのか。

いよいよもって「女性会長誕生を」
と声を大にして言う時である。



[619] 気づき方の飛翔

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月13日(木)01時14分45秒   通報   返信・引用

ブラックホールという概念を
人類が発見したのはここ100年ぐらい?
それまでは夜空にひっくるめられて
特別な分離した存在ではなかった。
しかし探求し相対性理論に気づけば
導かれる答えであることは必然で
光速の探求を突き詰めれば
相対性理論に気づくのも必然で
それは自動的で決まっていた。
幻想として気づくなら幻想であるし
事実として気づくなら事実である。

映画を見ているように
どうなるかは決まっているけど
見るまでは知らないので
見て知って感動する。

分からない知らない時こそ分離がない。

分離が不幸を生むのだとしたら
分かった→それがどうした→どうでもいい
と非分離に帰ることで不幸は生まれない。

気づく瞬間の感動だけを味わっていれば
感動的な人生である。

イメージや
フィーリングや
インスピレーションは

いつ湧くのか?

縁にふれ気づいた時である

その瞬間の今である

自分を自分だと認識しているのは
それである

五感と意識の六根によって
縁にふれたその瞬間瞬間に

私が始まり

その特定の私は
その瞬間に終わる

今気づかれうるすべては
気づきうる今という意識に向かって

ただある

何かの意図としてではなく
ただ気づかれた時に
気づかれたままに
気づかれる

何にどう気づくかは
気づく側の選択である

気づけるという時点で
本来は完全で完結している

気づくという経験こそ
本来の存在が
味わいたかったことなのだ

気づいたよ
それはあるよ

それだけでいい

間違いなんて無い

オリジナルでいい

存在からしてみれば
こんな気づき方もあるんだね

と味わうだけである

全ての気づき方は受け入れられているし
気づき方を受け入れているのは

他ならぬ自分自身である

気づき方を学び
さらなる気づき方へと飛翔する

ただ気づいていくだけでいい

それは無と無限との存在
永遠性への蘇生であり

気づき方こそ
感動と奇跡の創造である

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/8090425.html



[618] ブラックホールもまた幻?

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月12日(水)17時29分8秒   通報   返信・引用

ブラックホールもまた自我が造り上げたストーリーの一部でしょうか?

不思議ですね~



[617] 光速の境界面

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月12日(水)10時14分48秒   通報   返信・引用

3次元の世界
あるいは時空という4次元の中に
分厚さのない2次元があったら
それに気づくことが出来るかどうか?

最初、小学生の頃に考えていたのは
それは分厚さのないものなんて
3次元以上の空間に
現れえない、影響しえない
気づくことは出来ないと思っていた。

しかし、今あらためて考えると
境界面として2次元は存在している。

一つ完全な境界面は
ブラックホールの表面。

重力からの脱出速度が
光速を超える境界だ。

重力からの脱出速度というのがあるのは

重力から解放されるための速度=
与えられた加速運動のエネルギー-
無限遠を基準とした重力に引っ張られる位置エネルギー

位置エネルギーに対して
無限遠でも損なわれない十分な運動エネルギー
がある場合に、その重力圏から飛び出すことが出来る。
地球からの脱出速度は秒速約11km。

ざっくりそんな計算になる。

重力とはその方向に常に加速度が働いているという事でもある。

参照:〔NHK白熱教室〕宇宙白熱教室 第3回
https://www.youtube.com/watch?v=2nXV7em06eY

脱出速度が光速を超えるブラックホールの表面は
光速はマクロ的にこの宇宙の限界の速度なので
あらゆるものはその境界からは脱出できない。

よって、光速を限界とするマクロの観測方法では
その境界の先を直接観測することは出来ず
「理」のみが存在する。

一方の観測できる宇宙を観測した結果は
起こったという事実であり
推論を交えない事実そのものは
「事」のみの存在である。

光速と時間と空間との間には密接な関係がある。
時間の流れというものの最先端の今という瞬間は
光速に達した自由落下、あるいは飛翔のようでもあり
自らの飛跡に現れた波を見ているのかもしれない。

さて、観測点という概念があるが
点として捉えると場所として固定され
その他の性質が損なわれるのではないだろうか。

不確定性原理により
位置を固定すると運動量の情報が得られない。

本来、起きて寝て
生きて死んで
それにもかかわらず無始無終の永遠なら
「今」の在り方は点という固定されたものではない。

ただ「理」と「事」の境界である。

それがただあるだけ。

思い切って身を投じるという事を
清水の舞台から飛び降りると表現するが

江戸時代には年平均1.6人ほどの人が
実際に飛び降りていたそうである。

江戸時代の1694年から1864年のうち、
欠落部を除く148年分の記録があり

未然に引き留められたものを含めて234件の
記録が残っている。

これは自殺ではなく、厚い信仰心からの観音様に願いを
かなえてもらうための願行として行われたようで
願には、「親の病気回復」「自分の病気の回復」などがあった
という話だ。

当時、木々が茂り地面が柔らかかったこともあり
生存率は85.4%、死亡率は14.6%と
意外と多くの人が、助かっている。

それでも34人の方が亡くなったという記録です。

http://kazenotabi-kyoto.com/wonders/kiyomizunobutai.html
http://style.nikkei.com/article/DGXNASIH1300D_U3A111C1AA1P00

創価学会初代会長牧口先生は
「真実がどのようなものであれ
我々の実生活には直接関係がない」と

真善美の価値観を破り
美利善の価値観を打ち立てました。

最終的に自我がゼロではなくて
ただある中で
「最小限の自我」と共に
「最大の価値」を創造すれば良いのだと思います。

何を見てどう感じるのも
結局のところ全て
自身の生命現象である
というのも寿量品の五眼三身です。

今しかない今に
どれだけ気づいてあげられるか?
周りを見渡すのも
自身を見ていることと同じです。

こちらに起こることは
あちらにも起こる。

同じだからです。



[616] 観察してる私

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月11日(火)20時24分12秒   通報   返信・引用

観察している私も自我に捕まってる気がするんです。

光速で逃げ込もうとするのですが、寸前で自我に捕まるんです。逃げ切ったと思っても意識した瞬間捕まるんです。

自我が自我を観察し自我がうなだれてます。



[615] 認識ぐるぐる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 9日(日)09時19分14秒   通報   返信・引用

自動的・分離・私とは何か?
ぐるぐるしますね。

>時間という感覚が無くなる、自我は無い、これらは脳みそで考えても理解できるし体感出来そうな気もする。

その必要もある。
それによってしか
それを認識できないが
それは個人の志向性になる。

考えてみよう。

私という意識は常に観察する側であり
それは今にしかない。

観察された対象は
すでに起こった後であり
事実は変えることは出来ないが
認識は変えることが出来る。

認識を変えるというのは
今まで思い込んでいた認識を捨て
新しく気づいた認識と入れ替える
という新陳代謝である。

認識の対象は過去の事実
あるいは未来への憶測であるが
認識の内容が変わるのは
観察して気づいて
変えたその時である。

認識・認知パターンの変化の
ビフォーアフターは
対象化して観察し認識することが出来る。

自分の過去の出来事や
それに対する認識
また未来に対する思考や認識も
対象化し観察することが出来る
ということだ。

そうして自分を対象化している時
その対象化された自分と
観察している側の私と
意識はどちらに所属しているかを考えると
観察している側の私である。

対象化することのない
観察している私という瞬間
そのものを観察できるかどうか?

それを考えると
光速の法則に似ている。

観察している私という瞬間
は質量のない光速そのもので
認識という質量をもった時点で
光速に至るには無限のエネルギーが
必要となり不可能となる。

認識がないという瞬間においてのみ
観察している私と自分とは同一である。

その同一の自分には
一切の認識が無いのであるから
一切の概念は存在せず
あらゆる概念の否定形によってしか
表現することが出来ない。

それが絶対的価値の
根源の生命活動である。

しかし人間というものは
何に価値を置いて信じるかという時
どうしても認識の量に頼りたくなる。

知識・お金・人脈・過去の努力・未来の展望・
先人の積み上げたもの・対象化された神仏。

それらにも相対的に耐性はあるが
それ以上のエネルギーの現象の前には
崩落し、破綻する。

価値観の相対的な認識の量は
崩落・破綻の危険性の量であり
絶対的な価値に対してのズレなのである。

このズレは本質的に未来への不安であり
全てを崩落し破綻させる死は
最も恐ろしいものとして映る。
しかし、この相対的世界において
人間は必ず死ぬ。

相対的な価値観の生に
ジタバタとしがみつく様は哀れである。

その恐れの心は
認知の歪みを引き起こし
言い訳・自己正当化の常態化を起こす。

自身の中に表と裏、光と影を分離し
正直者はバカを見る世界に生きる。

一定の耐性のある相対的な
理想の価値感を設定しながらも
それは建前で馬鹿正直に貫くことはないと
相対的な価値からさえもブレる。

自分可愛さから自分自身の価値を下げ続ける。

だってしょうがないよねと
傷を舐めあい徒党を組む。

徒党が組まれると図に乗る。

この徒党の人びとは
恩を知らず恥を知らない。

最初のわずかなズレやブレが
知らず知らずのうちに
もはや善かれと思ってやることも
やることなすこと悪道となる。

「悪積れば地獄となる.善積れば仏となる」
「大悪起これば大善来る」

崩落・破綻は
次なる大善への新陳代謝でもある。

対象化され観察される縁は、ふれた後には
自動的に起こった後であり
その事実は変えることは出来ない。

それは本質は平等である。
根源を言えば全ては
南無妙法蓮華経である。

自覚的に幸・不幸を決めているのは
自身の認識・認知パターン
観察の心の姿勢という因である。

これは変えることが出来る。

恩を観察し、正直に反省し
作り上げ思い込んでいた
自分を特別視することを崩落させ
恩に報いていく生き方に転換する。

自分はどこまでいっても
反省すべきことの多い凡夫である。
悪い所があるから善くなれる。

真に人間らしく生きようとすることの
究極が人間革命である。

それを可能にするための転換点が
人間を越えている存在と同一の
観察している側の絶対的な私である。

ゆえに即、この出発点の人間革命は
全体性に対して有効なのである。

概念の存在しない世界において
時間の流れや空間の在り方は
マクロでみる定まった方向性でなく
量子論でみるパラレルな実存である。

これは光速に先回りした
選択を可能とする。

仏法が量子論にも通じることは
広く認識されているが
それは自身で自得するしか
確認・実用の方法がない。

発迹顕本しかない。

http://www.ningenkakumei.com/%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E5%88%A5/%E7%99%BA%E8%BF%B9%E9%A1%95%E6%9C%AC/

作り上げ思い込んでいた
自分を特別視することが
崩落することは
それまでの自分が死ぬことでもある。

『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて』である。

また
認識・認知パターンによる選択が
難を乗り越え未来を拓く力であることは
エジソンの火事のエピソードに関する
スピーチが思い起こされる。

http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-796.html
http://jounin.web.fc2.com/sugawara2005/speech.htm

アルベア論が他の非二元より一歩踏み込んでいるのは
どの自動が、何から起こった自動なのかの区別を
明確に見極める点である。

それによって、実際の救済の現象を確かに把握している点である。

そこへ至る方法論がしっかりある点である。

実践して確かめていくしかない。



[614] 分離してますよね

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 8日(土)19時46分13秒   通報   返信・引用

時間という感覚が無くなる、自我は無い、これらは脳みそで考えても理解できるし体感出来そうな気もする。

分離なんてしていない。
非二元を体感した方が漏れなく口にしますが、分離してますよね。分離感が無くなったとき人間で留まる自信が無いです。



[613] 最近の考え方

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 8日(土)12時59分2秒   通報   返信・引用

地球規模で、石ころから土地や動物、人にいたるまで所有者はいない。

人間の言動でさえも、雨が降るのと同じく自然現象である。

幼少期こんな事をよく考えていたことを思いだします。

この考え方は、どうすることも出来ないと言う無力感に襲われるので注意が必要ですね。

この考え方をしてるのは、まさしく自我であり、その自我さえも自然現象であると、本当の”私”が体感的に客観視出来るとき、受容出来るのかもしれないですね。



[612] 信行学

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 8日(土)11時15分12秒   通報   返信・引用

学ぶという事は
真実に気づくために
気づく方向・方法を学ぶのです。

それは
行動・実践によってのみ
気づけるのです。

その時になって初めて
「あぁ、このことだったんだ」
と心から納得し
信じることが出来るのです。

それをしていくと
気づいているものを
信じて実践していると
これは何だろうと思って調べると
あぁそうそう、これだよね
という学びになる。

人の在り方
人の振る舞いである。

「人間のための宗教」
でなければ価値はない。

教義の解釈の絶対化と
職業宗教家の権威化と
過去の指導者の神格化は

「宗教のための人間」
という構造である。

思考に囚われ
「正しいこと」を知ろうとする反面
「間違ったもの」を見つけ出し
「それは間違っている」と強調する。

間違っているものに向かい
「間違っているよ」と唱える実践の
信心になっている。

間違っちゃいけないと
汲々としながら
どんどんズレてブレて
間違っていく。

一瞬一瞬の選択の全てが
実は信心であり
信心の実践であり

十界は互いに具わっているのだから
向き合っているものは
自分にも具わっているのだ。

それに向かって
「間違っているよ」と言っても

自分自身に
それは返ってくるのである。

同じ言葉でも
姿勢によって違う。

言葉に囚われてはいけない。

真実の実践の上で
開くために出た言葉が
真実の言葉なのだ。

これは人間の働き
宇宙のシステム
生命の活動なのである。

全ては南無妙法蓮華経である。
南無妙法蓮華経に向かって
南無妙法蓮華経と唱えるのが
日蓮仏法なのである。



[611] 各別の姓名から非二元の生命へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 7日(金)03時19分30秒   通報   返信・引用

私たちは常に
今という瞬間には
初めて出会っている

しかし多く

例えば
人を見れば人
車を見れば車
電車を見れば電車
本を見れば本

そんなことは知ってるよ
と思ってしまう

しかし違う

それは傲慢なのだ

教えられ
刷り込まれてきたことを元に

ただ幻想を作り上げているだけ

素の今は

あれとこれの違いもなく
遠い近いの違いもなく

ただあるだけ

思考するまでもなく
出会った瞬間の
それでしかないのだ

それは等しく
全てに平等に与えられているのに

あれとこれには違いがあり
(各別)
幸と不幸の原因になっていると考える
(常の因果)

貴方が世界を複雑にしている

世界は本当はシンプルなのだ
生命の活動は常に今なのだ

過去のせいにして
変われない言い訳をする

そんなことは生命にとって
どうでもいいことだ

学んできたことは
今は必要ない

ただ勇気の一歩を
法のための一歩を
救済のための一歩を
歓喜のための一歩を
踏み出せば
(本因)

今という贈り物は
その通りに実現する
(本果)

このエネルギー
真実だけが永遠である

現れては消える
一時の結果や思考は
すでに次の瞬間
(一念)

どうでもいいのだ

無限とは
選択する限り
歓喜の連続なのである



[610] Re: わたし

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 5日(水)10時51分13秒   通報   返信・引用 > No.609[元記事へ]

> 姓名が違っても”わたし”の感覚はあるので少なくとも姓名が”わたし”ではない。

⇒姓名が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は姓名から解放されている。


> 両腕、両脚が無くなっても同じく”わたし”はあり続ける。

⇒両腕両脚が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は両腕両脚から解放されている。


> 五感が無くなったら?体感することは無いが”わたし”はある。

⇒五感が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は五感から解放されている。


> 記憶が”わたし”かもしれない。でも記憶喪失になったとしても”わたし”という感覚は消えない気がする。

⇒記憶が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は記憶から解放されている。


> 脳みそが無くなったら?ん~??

⇒脳みそが私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は脳みそから解放されている。


> 私=南無妙法蓮華経
> こんな感覚を体感できれば縦横無尽の境地でしょうね。

⇒気づけば既に不自由の全ては思い込みであり
”わたし”自体は縦横無尽。
心は巧みな絵師のように自由。


> いずれにせよ”わたし”の始まりがわからない。

⇒開いて解放すれば本来の完全無欠の円満が
始まりの無い始めからあったのであり
その本来の無作へと蘇生される。


> 受精の瞬間?………違う気がする……
>
> もしかして、今?now?

⇒池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義 (3) P189
~~真実の永遠の生命だからこそ、”今”が大切なのです。今世で手を抜いては、ずっと”手抜き”になってしまう。つねに”今から”が大事です。(中略)ここに”今を大切にする”仏法の根本精神がある。また、生命尊厳の思想の基盤もあるのです。~~

非二元の”今ここ”は生命尊厳の思想の基盤なのです。
方便品・寿量品講義を持ってれば、読むと、当時には理解できなかったことも、だいぶ理解できるようになってきているんじゃないかと思います。


> この辺でいつも頭がぐるぐるして思考が無尽蔵に湧き、自我が邪魔をします。

⇒実践が大事なのです。
「実践する」(身)
「言葉にする」(口)
「着目し志す」(意)
 ↓
「了解する」(ただある)

世間では自分の処遇が知らないうちに知らないところで決められ不満を抱き
自分の主張を、どうして分かってくれないのかと不信を抱き
本当に正しいのはこれだという幻想を作り思い込む。

それは生命現象に逆らっている自我が苦しみを生んでいる。

本当の実践とは生命現象に逆らわない苦しくない実践。
そこに至るまでには、そんな事をしようとしたら
自我が慌てて抵抗するから、色々ある。

それに動じないための信心であり
「勇気」が大切なんだと教えてくれている。

まず法のため人のために着目し志す。
書いたり口に出したり言葉にする。

そして実践するのだが
思い込まずにふわっと流れに乗る。
(志向性によって表現は変わる)

宇宙の活動の中に委ね溶け込む。

当たり前に思いがちだけど
今この瞬間
気の遠くなるような広さの宇宙の中で
生命の活動にちょうどいい場所があって

気の遠くなるような時間の中で
人類の文明が発達しインターネットで
離れた場所ともやり取りできる環境。

どれほどの願いが叶っているのか。

もう間違いなく
南無妙法蓮華経なのです。

全て有難いのです。

自分とは何か、その本質  投稿者:アルベア
投稿日:2015年12月13日(日)05時22分12秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/35252


趣向を変えて

昨年後半~今年前半にかけて
話題沸騰した「おそ松さん」というアニメがある。

パロディや下ネタなどやりすぎ感もあるアニメだが
その中でも何を考えているのか分からない
何でもアリの十四松というキャラクターがいる。

簡単に言うと「ついでにとんちんかん」の
間抜作先生的なキャラだが

「自我とか自己認識とか存在意義とか
案外ちっちゃくてどうでも良いことなんだ」

なんて
ちょっと悟ったりするところがある。

https://www.youtube.com/watch?v=Zv_0l8K0RJ4
何でもアリの十四松なエピソード

https://www.youtube.com/watch?v=OIpAo7ti7y8
十四松の悟り?迷走?

まぁ、なかなか面白い
アニメの演出です。



[609] わたし

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 4日(火)17時44分30秒   通報   返信・引用

今日”私”の感覚が少し冴えました

姓名が違っても”わたし”の感覚はあるので少なくとも姓名が”わたし”ではない。

両腕、両脚が無くなっても同じく”わたし”はあり続ける。

五感が無くなったら?体感することは無いが”わたし”はある。

記憶が”わたし”かもしれない。でも記憶喪失になったとしても”わたし”という感覚は消えない気がする。

脳みそが無くなったら?ん~??
これはかなり微妙な感じだが、細胞は四年から七年で入れ替わるらしいから、脳みそ自体は”わたし”では無い。

いずれにせよ”わたし”の始まりがわからない。

受精の瞬間?………違う気がする……

もしかして、今?now?

この辺でいつも頭がぐるぐるして思考が無尽蔵に湧き、自我が邪魔をします。

私=南無妙法蓮華経
こんな感覚を体感できれば縦横無尽の境地でしょうね。



[608] 究極

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 4日(火)09時53分41秒   通報   返信・引用

身なりさん
そういう事だと思います。

何に相対しても
そうあること。

それの実践。
それの実現。

報恩感謝。
歓喜の中の大歓喜。

南無妙法蓮華経の非二元ですね。



[607] 錯覚?

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 3日(月)19時13分2秒   通報   返信・引用   編集済

全ては錯覚とも

恋は錯覚と言った思想家も



「努力は実らず、正義は滅びる」

この言葉を胸に秘め、それでも正義を貫き努力を惜しまない
そう言う人に私もなりたい

しかし正義とは必ず立場が伴いますね、例にあげれらるのが鬼ヶ島の子ども達。
ある日突然、両親はじめ大人達を皆殺しにされて所持品全て強盗に遭います。
有名な昔話の裏話。

正しいもまた場合によることがありそうです。


総じて南無妙法蓮華経、等しく南無妙法蓮華経、
南無妙法蓮華経そのもの
究極です



[606] 正しさ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 3日(月)11時13分53秒   通報   返信・引用

昨年来の私の探求の出発点の一つは
「人を救えない正しさならいらない」
です。

これは
「正しさでは人は救えない」
に対する挑戦でもあります。

「正しさでは人は救えません。人を救うのは愛です。」
なんて言うのは簡単ですが
その愛は一体どういう実体なのか?
愛で人を救えるという正しさを設定したら
その正しさでは人を救えないという
パラドックスをどうするのか?

「人は救われることが出来るのか?」
「人は救われることは出来ないのか?」

この解決のヒントが
「気づき」です。

救うことの出来るものと
救うことの出来ないものの
区別です。

起こっていることに対して
それが本当は何なのか
「気づく」ことです。

例えば幻肢痛という症状があります。
事故などで失った手足が痛むという
症例です。

「その手足はもう無い」という正しさは
その人を救えません。

その人にとっては
無いはずの手足が痛むという事が
リアル(としての体感)なのです。

それが本当は何なのか
「気づく」事が解決の糸口です。

幻肢痛 11:09
https://www.youtube.com/watch?v=UwzPOUGqAbU

この場合むしろ虚構を
体験することによって救われます。

人は錯覚によって満足度が変わったり
上手く錯覚できないことによって
生活に影響の出る問題が起きたりもする。

http://neweditorsoffice.jp/?p=973
~~錯覚活用法――裏切る「感覚」を逆手に現実を変える
袋菓子を全部食べきってしまうことがあるが、人の食欲が袋の大きさに比例するのは有名な話で、ゴミ袋に入れたポテトチップスは食べすぎる。これを逆手にとって、手の大きさを変えずに、食べ物だけが実際より大きく見えるメガネをつくった。これをかけるとすぐ満腹になり、少ない量で満足できる。皿に対する食べ物のサイズを大きく見せることにも同じ効果がある。人の意志は弱いため、環境のほうを調整して行動をポジティブに変化させるのだ。~~

なんていう発想の
研究もある。

しかし嘘を重ねれば
それはそれで、慣れて効かなくなったり
もっと大きな問題が起きたりする。

非二元というのは
もっともっと壮大な
矛盾の起きない真実の感覚。

実際に救済者になること。

絶対的な感覚者になることだ。

頭で理解するには根気と気づきがいる。
これは真実の探求である。

ドキュメンタリー - 時間と空間の謎 フル 44:26
https://www.youtube.com/watch?v=ipXFvUqv9ag

ドキュメンタリー - 量子の力学 フル 44:20
https://www.youtube.com/watch?v=nZsv5gmEk_c

だけどこんなの
思考で考えたって仕方ない。

なるようになることに気づいて
楽しく体感すればいい。

表現の仕方なんて無限なんです。



[605] 唱題の声をきく

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 2日(日)19時55分50秒   通報   返信・引用

夕の勤行の際、唱題してる自分の声が自分のものでない様な感覚にとらわれます。

正座をしているのですが、自分でないような感覚です。

ただ南無妙法蓮華経ですね



[604] リアル

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 2日(日)17時20分27秒   通報   返信・引用

人として生命活動している以上は目の前で起こること全てがリアルだと思います。

ああだこうだ考え過ぎてる最近の自分の思考が、一番リアルですね(^^;)そんなリアルを観察してる私に気づければもう少し真実に近づけそうです。



[603] Re: 生まれたて

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 1日(土)02時04分26秒   通報   返信・引用 > No.601[元記事へ]

いないいないばぁで赤ちゃんが喜ぶのは
赤ちゃんは顔を隠すだけで
その人がどこかへ消えてしまったと思い
不安になる。

ばぁーと顔を出すと
いた、良かった、愛されていると感じ
喜ぶなんて話がある。

赤ちゃんのぼんやりした視界でも
顔をいち早く顔と認識するために

人間には、顔っぽいものを
顔そのものとして見る機能が
組み込まれているようだ。

パレイドリア効果(錯覚)やシミュラクラ現象(類像)
として説明されている。

http://www.kotaro269.com/archives/51366993.html
いろいろ顔に見えて面白い。

一方、ベビーフェイス効果のように
赤ちゃん顔のような
目のくりっとしたものを
可愛いと思う事も
機能として組み込まれている。

そして本当の生まれたての時には
視覚だけが視覚として認識されるような
脳の分化が未発達で

不思議な世界を見ている可能性がある。
http://eye-media.jp/entertainment/%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AE%E9%A1%94%E8%AA%8D%E8%AD%98/



[602] 胸中の肉団

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 1日(土)01時03分43秒   通報   返信・引用

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書1244ページ9行目~12行目)

九識心王真如の都という言葉から考えるに
胸の中の肉の塊=心臓なんていう事ではない。

とすると「胸中の肉団」という言葉は
世間の一般常識からすると不可解である。

普通は、肉体があって
そこに心があると考えるからだ。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1597279.html
~~大聖人から賜った御本尊が、末法で初めて顕された未曽有の御本尊だと知り、日女御前はどれほど感激したことでしょう。
 ところが、大聖人は、さらに驚くべき真実を明かされていきます。
 すなわち、「この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える、その胸中の肉団にいらっしゃるのである」と。
 大聖人は、御本尊は外にあるのではなく、題目を唱える自身の胸中にあると言われるのです。外から内へ。「胸中の肉団」へ。なんと劇的な転換でありましょうか!
 当時も、いな現在においても、次のような考え方が根強くあります。“現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある。どこか遠くにある”と。こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。
 日蓮仏法は、この固定概念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕れるという生命の真実を見るのです。
 そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。
 無明に覆われて気づかなかった、森羅万象のあらゆる存在に普遍の法と、そして、その法とともにある自己自身の偉大さに目覚めたのです。~~

外から内へ
池田先生は「劇的な転換」だと述べている。

それへの「気づき」が
述べてきている非二元なのだ。

「リアリティ」になる前の
「リアル」の人間自身が御本尊なのだ。

「我心(わがこころ)本来(ほんらい)の仏なりと知るを即(すなわ)ち大歓喜(だいかんき)と名(なず)く所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝、788ページ・編1634ページ)

外からの一切の影響を受ける前の
リアルの人間自身だけがある心において
それこそが本来の仏であり

そこから発される大歓喜というエネルギーが
南無妙法蓮華経なのである。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1427343.html
~~まず「無漏」とは十界である。無漏とは、一般には、煩悩を断じ尽くした境地であるが、これは爾前権教の立ち場であり、法華経の精神においては、無漏とは、完全無欠の意である。すなわち、十界が一界も欠けず、生命に宛然として具していると説いて、始めて完全無欠の生命哲理であるとの意から、無漏を十界ととるのである。
 「実相」とは、始覚である。この始覚とは、始成正覚ということではなく「始めて覚る」という本来の意味である。一切衆生は、頭の上では、もとより十界互具、一念三千の当体である。だが、事の上で論ずるならば、仏界を顕現しなければ、三悪道、四悪趣の生命にのみ支配され、十界互具、一念三千の当体とはいえない。始覚とは、事実相の上に、仏界を湧現し、始めて、自身、もとより一念三千の当体、妙法の当体であることを覚知することをいうのである。
 「心に已に通達することを得たり」とは、そのときすでに、自分の生命に、仏法の偉大さ、力強さを実感し、確信することができたのである、との意である。
 さらに一重立ち入って「無漏」とは妙法、すなわち南無妙法蓮華経である。この妙法の一法に三千万法を具足して余すところがないからである。また「実相」の実とは、真実の意で、不変真如の理、相とは、現実の実相、生活であり、随縁真如の智である。したがって、実相の二字で随縁不変一念寂照をあらわすのである。
 御義口伝上にいわく「帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と」(0708-03)云云と。~~

自身にとって
唯一リアルたり得るものは
本尊の自身しかない。

ただ観念の上で知ることではなく
この本尊の自身を実際に開いた時の
大歓喜こそが南無妙法蓮華経である。

この大歓喜は
リアリティの上に開くのであり
リアリティの上に起こるのである。

認識後のストーリーであるリアリティの世界が
唯一のリアルな実在である本尊の自身に
出会い信じ学び大歓喜し行動しゆく処が
戒壇である。

純粋に生命論の上からだけで言えば
戒壇の大御本尊とは「自身」である。

これを開くために
一旦リアリティの中に戒壇の大御本尊
が存在する。

そのリアリティとは結局
映し出された自身であるので
その中で経験するのである。

気づけば一切が功徳
一切が大歓喜である。



[601] 生まれたて

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月30日(金)22時42分50秒   通報   返信・引用

生まれたすぐは自分の名前もなく、その他の固有名詞も知らない。

と言うことは自我はほとんどなく、自己機能だけでおっぱいを吸っているくらいのものでしょうか

しかし私はあるという感覚は有った気がする。
私はだれでもないけど、私はあるみたいな

そんな風に考えてたら自我から少しだけ離れられたら気がしました。ほんの数秒でしたが



[600] リアルとリアリティ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月29日(木)02時52分18秒   通報   返信・引用

何がリアルで
何がリアリティなのか?

気分転換を兼ねて
ダンスの動画を三つ
見比べてみよう。

https://www.youtube.com/watch?v=7SP8G34Jth8
https://www.youtube.com/watch?v=r2LpOUwca94
https://www.youtube.com/watch?v=am1csALyEzE

リアリティって何だろう?
では次の動画は?

https://www.youtube.com/watch?v=LWGJA9i18Co

常識って何だろう?
では次の動画は?

https://www.youtube.com/watch?v=88XXcOq9Fv8

では最後に
「リアル」と「リアリティ」に対する考察
というブログ記事を見てみよう。
http://blog.livedoor.jp/yahiro2000/archives/4809429.html

確かな現実は
リアリティに対して
「気づいている」ということ。

リアリティは空であり
空はリアリティである。

リアリティってことは
投影であるということ。

鏡に映った煙に息を吹きかけても
煙の動きに影響を与えられない。

本体のリアルは気づいている意識。

この意識の使い方によって
変化は起こる。



[599] 馬鹿馬鹿しさも・・・

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月28日(水)01時46分49秒   通報   返信・引用   編集済

地球をだっこですか。

良いリラックス方ですね。

自己機能の上では内観でも
あるんじゃないかと思います。

アルベア論 より
「恩」について⇒おもてなし⇒心身の浄化作用1~3
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/704
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/705
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/706

↑内観について書かれています。

自己機能が活性化していると
いろいろなことが
自然の内に自得されますね。

さて、古本屋で買った
「手塚治虫がねがったこと」
という本があるのですが

ヒョータンツギというキャラクター について
書かれているところがあって

手塚マンガの
くっきりした輪郭のキャラクターたちの中で
ひときわ訳の分からない存在のヒョータンツギ。

読者がのめり込むドラマの佳境で
突然登場する。

「何をマジになっているんだい?
これは漫画のストーリーだよ?」
と言わんばかりに読者を
ハッと我にかえらせるのである。



「なんだストーリーに引き込まれていただけだったんだ」
と気づいた時の読者が感じる馬鹿馬鹿しさは

笑いと開放感、そして現実にいる自己の安堵
また歓喜へとつながっていくのかもしれない。

パンツーマルミエ法にせよ
ドラゴンボール的地球だっこ法にせよ

そういう効果も高まるのかもしれない。

姿の見えない文字のやりとりで
自己機能の話をしていると

ついぞ自分の歳など忘れている。
楽しんでいる。

馬鹿馬鹿しいかもしれないが
生涯青春である。

そうそう、宿坊の掲示板に
青春対話の引用が投稿されていたが

「あっ」と声に出そうなカ所だったので
貼っておく。



池田先生の青春対話より【「人間として」偉くなれ、慈悲の存在に】  投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 9月26日(月)17時53分34秒

■「人間として」偉くなれ

―― たしかに、道徳の本とかを読んでも、それだけで人間革命できる人は、ほとんどいないと思います。

池田 道徳の本なら何千年も昔から無数にある。自己啓発の本などもあるが、言葉だけで人間革命でき、宿命を変えられるならば、苦労はない。
創価学会は抽象論ではなく、一貫して現実の人間革命を追求している。心を変革し、最高善の方向へもっていく。生きていく。行動していく。
その人間革命は、根本的には、仏の生命と一体の中で、できる。仏と境智冥合することによって、「自分を変える」力が、自分の中からわいてくるのです。

―― 自分の中にある「自分を変える力」――それが仏界ですね。
これは北陸の男子高等部長から聞いた、あるメンバーの体験です。
彼には三人の親友がいて、よく一緒に話したり、マンガを読んだり、という仲だったそうです。夏休みのある日、たまたま今の社会への不満や「運命とは」という話題になった。人生観についての話が何時間も尽きなかったそうです。その後、池田先生の著作を友人が「貸してくれ。うちで読むから」と持っていった。「青春対話」も読み合うようになった。学校の授業で、いちばんふざけていた四人は今、いちばん真剣に授業を聞くようになったというのです。
人間、だれでも、「成長したい」「変わりたい」と心の底では思っているのではないでしょうか。だから、ちょっとした、きっかけで変わることがあります。

池田 人間だけが「向上しよう」「成長しよう」と思うことができる。ただ流されて生きているだけではなく、もう一歩深い、人間としての方向転換をしようと思うことができる。
いわゆる「偉くなる」というのは、社会の機構上の話です。人間革命するとは、もっと深い、自分の内面のことです。永遠性のものです。社会的な偉さよりも、はるかに偉いことなのです。
人間は人間です。人間以上のものになれるわけではない。だから「人間として」の自分を変えていくことがいちばん、大事なのです。名声で自分を飾り、地位で自分を飾り、学歴で飾り、知識で飾り、お金で飾っても、本体の自分自身が貧しければ、貧しく、空虚な人生です。
すべてをはぎ取った、いわば「裸一貫」の自分自身がどうなのか。生命それ自体を変えていくのが人間革命です。釈尊も王子であったが、一切を捨てて、裸一貫の自分になって修行した。人間革命です。日蓮大聖人も、その当時、社会的には最低の存在とされた「旃陀羅が子」であると堂々と宣言されている。

―― たしかに、いわゆる″偉い人″が、名もない庶民よりも、人間としては、ずっと劣っていることは珍しくありません。
それどころか庶民は皆、平和を望み、幸福を願っているのに、社会の指導者が人間革命していないために、皆を戦争に引っ張っていったり、不幸の方向へ導いていくということがあります。

池田 二十世紀は二回も世界大戦を起こしてしまった。何億という人たちが地獄の苦しみを味わった。その原因は何なのか――それを考えた結論が、「人間自身が慈悲の存在に変わらなければいけない」ということなのです。



[598] 地球をだっこ(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月27日(火)10時35分28秒   通報   返信・引用

お褒めいただきました。(^^;)
とんでもございません、教わってるのはこちらですから。
教わってるというか、のぞき見してるという感じなんですけどごめんなさい(^^;)

最近、布団に入るときに楽しんでることがあります。

とてもくだらないのですが、うつ伏せになることです。元々は仰向けになって寝るのですが、寝る前の少しの時間、うつ伏せで手足を伸ばし床を掴んで地球をだっこした気分を味わうんです。
くだらないでしょう!?

4階に住んでますので、実際はマンションごと抱っこしてます。意識は宇宙空間で、地球を持ってますからドラゴンボールの世界です。

しばらくすると馬鹿馬鹿しくなって、眠気がやってきます。
最近のリラックス方です。忘れてぐたさい。



[597] 実体的に

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月27日(火)04時03分13秒   通報   返信・引用

いくつか複合的に絡んだ問題だと思います。

空というのは本当は
有にあらず無にあらずといった感じだと思うけど

それだととっかかりがないので
一旦「それは無い」として切り捨てる感覚の獲得
が必要だと思います。

それによって、肥大化して囚われていた自我に
気づくことが出来るのだと思います。

しかし、無い無い尽くしでいくと
灰身滅智の方向も考えられます。

「悟り」の同一性はあっても
それの向かう先も重要ということです。

ウィキペディアから因果応報を見ると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C
~~仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。~~

つまり元々、仏教の目指すところは
常の因果を離れるところ(涅槃)にあるのですが

法華経本門において本因本果が示されます。

単に非二元と言った場合
「全ては空でしたー
これで楽になりましたー
皆でこうなればハッピーだよねー」
って感じですが

そこで終わってしまえば中途半端で
それこそ二乗の悟りです。

禅僧の平和活動への共感の効果もあり
宗教性を除いた瞑想マインドフルネス等の
社会に役立つ実践的非二元が広まるのは権の菩薩的です。

アルベア論に提唱される法華経の非二元は
私が考えるには
戸田先生、池田先生の系譜でありながらも
宗教枠の限定性を解除したものとなります。

まず確認するべきは宗教枠というものは
自己機能の上に自然にある本因本果の実体ではなく
自我機能の上に集積された常の因果で虚像です。

池田先生の提唱する
「全ての目的を人間のために」とは
虚像に費やされていた目的を
実体へと向けなおせということだと思います。

この法のため人のためによって
世界の平和と一切衆生の幸福を
実現させるのが法華経の非二元なのです。

この実体の実体による実体のための非二元においては
ただ全体性ということが目的対象です。

一切が自我から解放された「空」というものは
空間的広がりが無限の宇宙そのものであり
無限の過去も無限の未来も
無限の可能性や無限の平行宇宙も同時に納まっている。

我即宇宙という生命現象です。
ここにおいては創価も日蓮も
どんな思想宗教もありとあらゆるすべて
全てが一つです。

無限の中から瞬間の生命によって選択していくのです。

戸田先生は獄中で空を悟り
一切の民衆の不幸をなくすために立ち上がった。

その空から発せられる波動によって
人々の願いは次々に叶い、歓喜がほとばしった。

一人の人間の悟りに決定した想いを乗せることで
数えきれない奇跡と感動を巻き起こした。

法華経の非二元は
自我機能の期待依存ではない
自己機能による祈りを
具体的に実現する実践なのです。

最近の創価には「祈りは必ず叶います」
そう確信を込めて言える人間が
減っているんじゃないですかね?

それはごまかしようのない
「空」の欠落なのですよ。

実体の体感が重要なのです。

その上で、「空」に共感しうる生命全てが
上も下も良いも悪いもなく不二であり
目的感の波動によって
全ては調和の上に活かされるのである。


やっぱり身なりさんの質問とか言葉はすごいです。

ありがとうございます。



[596] 非二元における因果応報

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月26日(月)15時41分14秒   通報   返信・引用

非二元において因果律はないと覚者は断言する。

あくまで人間としてのストーリーにおける話と割り切るしかないようです。

仏法は人間的苦しみを取り除く法であるのなら、それで良いのかもしれません。



[595] 空とチャンネル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月26日(月)02時35分49秒   通報   返信・引用

脳だけなら・・・
面白い考えですね。

想像してみるも何も断定できません。

それはそれとして
上も下もない
五感があるから自分

等の感覚は
志向性によって表現は変わりますが
全部同じものにつながります。

さてさて、
学会員として

「宇宙には三千のチャンネルがあって
信心で南無妙法蓮華経というチャンネルに
合わせることで絶対的幸福を得る」

という言い方であれば
受け入れられると思うが

それだけでは結果的に
言葉だけの思い込みに陥っている。

本当は、もうすこしちゃんと言えば

「人は皆、三千のチャンネルのどこかに
無意識的にせよチャネリングしていて
そのことが、その世界で何が起こるかを
本質的に決定している。
なので、事後に対してあれこれ思考して
もがいて行動しても、
本質的には何も変えられない。
世界を良くするためには高次の意識体
(仏智等)にチャネリングする必要があり
その最高峰が南無妙法蓮華経である。」

というふうになるかと思うがどうだろうか?

法華経の智慧からチャンネルに関する記述を二つ
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6400
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7214

Yahoo!知恵袋から一つ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299402217

ついでに検索に面白いものがかかったので
教えて!gooから「南無妙法蓮華経」と「般若心経」
というものを
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1569015.html

大乗仏教は「空」なくしては成立しません。
戸田先生も「空」を理解しなくては
仏法は理解できないという趣旨のことを言っています。
池田先生の法華経の智慧もそういう立場です。

法華経の特性は、悟りを目指すだけでなく
悟りの後の現実世界があることです。

二処三会です。

この最高峰の祈り(チャネリング)が
絶対的な現当二世(今と未来)の選択方法なのです。
過去も今もすべての意味が反転し
絶対的幸福境涯となります。



[594] うまいことできてますね

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月25日(日)13時39分45秒   通報   返信・引用   編集済

すこ~しだけ感覚でつかめつつあります

上も下もないのに地球に引っ張られてるのが当たり前なので、足が下みたいな

五感があるから自分みたいな

五感がなくて脳みそだけならどうなんでしょう?



[593] 着実に

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月24日(土)02時33分17秒   通報   返信・引用

身なりさん、なるほど。

客観的に見ると何というか

余分なことに回って途切れていたエネルギーが

ズレ・ブレの無い
本来の自然さに
近づきつつあるといった感じですね。

言葉で伝えられることは
どうぞ疑って下さいね(^-^)

怖さも疑いも
無心でやるのも
どんな結論を出すのも

なるようになっているのです。

山は登るのは苦しいけど
山頂に立った時
最高の歓びを味わえると

今日会った人が言ってました。

結果、思ったより低い山だったら
次、もっと高い山を目指せばいい。

経験は無駄にはならないですよ。

実践していること自体
すごい勇気です。



[592] 壊れずにいけそうな気がする(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月23日(金)21時28分10秒   通報   返信・引用

なんとも言えない恐怖にさいなまれていましたが、だいぶ落ち着いてきました。

一瞥体験はまだですが、つまらぬ怒りが減ってきましたよ

まだ疑ってます

一瞥体験すら脳のバグではないのか
悟りは二乗の域を出ないのではないのか
周りから笑われても気にしないだけのおめでたい人間に成り下がるだけではないのか、そして家族が苦しむだけではないのか
などなど

でも「私」「私」「ただそれだけ」「出て来ただけ、はい、消えた」みたいに繰り返してたら、すこし楽です。

子供を叱ることが減ってます。
一瞥体験、非二元、悟り、
勘違いの脳のバグでもいいです、「私」「私」をやり続けて苦しくなったら、その時また考えます。

損得勘定も減ってきました。


今はこんな感じです。
蘇生さん、なんとなく分かって貰えたでしょうか?
おそるおそるすすめてます


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