いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


803件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[611] 各別の姓名から非二元の生命へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 7日(金)03時19分30秒   通報   返信・引用

私たちは常に
今という瞬間には
初めて出会っている

しかし多く

例えば
人を見れば人
車を見れば車
電車を見れば電車
本を見れば本

そんなことは知ってるよ
と思ってしまう

しかし違う

それは傲慢なのだ

教えられ
刷り込まれてきたことを元に

ただ幻想を作り上げているだけ

素の今は

あれとこれの違いもなく
遠い近いの違いもなく

ただあるだけ

思考するまでもなく
出会った瞬間の
それでしかないのだ

それは等しく
全てに平等に与えられているのに

あれとこれには違いがあり
(各別)
幸と不幸の原因になっていると考える
(常の因果)

貴方が世界を複雑にしている

世界は本当はシンプルなのだ
生命の活動は常に今なのだ

過去のせいにして
変われない言い訳をする

そんなことは生命にとって
どうでもいいことだ

学んできたことは
今は必要ない

ただ勇気の一歩を
法のための一歩を
救済のための一歩を
歓喜のための一歩を
踏み出せば
(本因)

今という贈り物は
その通りに実現する
(本果)

このエネルギー
真実だけが永遠である

現れては消える
一時の結果や思考は
すでに次の瞬間
(一念)

どうでもいいのだ

無限とは
選択する限り
歓喜の連続なのである




[610] Re: わたし

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 5日(水)10時51分13秒   通報   返信・引用 > No.609[元記事へ]

> 姓名が違っても”わたし”の感覚はあるので少なくとも姓名が”わたし”ではない。

⇒姓名が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は姓名から解放されている。


> 両腕、両脚が無くなっても同じく”わたし”はあり続ける。

⇒両腕両脚が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は両腕両脚から解放されている。


> 五感が無くなったら?体感することは無いが”わたし”はある。

⇒五感が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は五感から解放されている。


> 記憶が”わたし”かもしれない。でも記憶喪失になったとしても”わたし”という感覚は消えない気がする。

⇒記憶が私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は記憶から解放されている。


> 脳みそが無くなったら?ん~??

⇒脳みそが私だと思い込み囚われていた。
九識の心王真如(真のわたし)は脳みそから解放されている。


> 私=南無妙法蓮華経
> こんな感覚を体感できれば縦横無尽の境地でしょうね。

⇒気づけば既に不自由の全ては思い込みであり
”わたし”自体は縦横無尽。
心は巧みな絵師のように自由。


> いずれにせよ”わたし”の始まりがわからない。

⇒開いて解放すれば本来の完全無欠の円満が
始まりの無い始めからあったのであり
その本来の無作へと蘇生される。


> 受精の瞬間?………違う気がする……
>
> もしかして、今?now?

⇒池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義 (3) P189
~~真実の永遠の生命だからこそ、”今”が大切なのです。今世で手を抜いては、ずっと”手抜き”になってしまう。つねに”今から”が大事です。(中略)ここに”今を大切にする”仏法の根本精神がある。また、生命尊厳の思想の基盤もあるのです。~~

非二元の”今ここ”は生命尊厳の思想の基盤なのです。
方便品・寿量品講義を持ってれば、読むと、当時には理解できなかったことも、だいぶ理解できるようになってきているんじゃないかと思います。


> この辺でいつも頭がぐるぐるして思考が無尽蔵に湧き、自我が邪魔をします。

⇒実践が大事なのです。
「実践する」(身)
「言葉にする」(口)
「着目し志す」(意)
 ↓
「了解する」(ただある)

世間では自分の処遇が知らないうちに知らないところで決められ不満を抱き
自分の主張を、どうして分かってくれないのかと不信を抱き
本当に正しいのはこれだという幻想を作り思い込む。

それは生命現象に逆らっている自我が苦しみを生んでいる。

本当の実践とは生命現象に逆らわない苦しくない実践。
そこに至るまでには、そんな事をしようとしたら
自我が慌てて抵抗するから、色々ある。

それに動じないための信心であり
「勇気」が大切なんだと教えてくれている。

まず法のため人のために着目し志す。
書いたり口に出したり言葉にする。

そして実践するのだが
思い込まずにふわっと流れに乗る。
(志向性によって表現は変わる)

宇宙の活動の中に委ね溶け込む。

当たり前に思いがちだけど
今この瞬間
気の遠くなるような広さの宇宙の中で
生命の活動にちょうどいい場所があって

気の遠くなるような時間の中で
人類の文明が発達しインターネットで
離れた場所ともやり取りできる環境。

どれほどの願いが叶っているのか。

もう間違いなく
南無妙法蓮華経なのです。

全て有難いのです。

自分とは何か、その本質  投稿者:アルベア
投稿日:2015年12月13日(日)05時22分12秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/35252


趣向を変えて

昨年後半~今年前半にかけて
話題沸騰した「おそ松さん」というアニメがある。

パロディや下ネタなどやりすぎ感もあるアニメだが
その中でも何を考えているのか分からない
何でもアリの十四松というキャラクターがいる。

簡単に言うと「ついでにとんちんかん」の
間抜作先生的なキャラだが

「自我とか自己認識とか存在意義とか
案外ちっちゃくてどうでも良いことなんだ」

なんて
ちょっと悟ったりするところがある。

https://www.youtube.com/watch?v=Zv_0l8K0RJ4
何でもアリの十四松なエピソード

https://www.youtube.com/watch?v=OIpAo7ti7y8
十四松の悟り?迷走?

まぁ、なかなか面白い
アニメの演出です。



[609] わたし

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 4日(火)17時44分30秒   通報   返信・引用

今日”私”の感覚が少し冴えました

姓名が違っても”わたし”の感覚はあるので少なくとも姓名が”わたし”ではない。

両腕、両脚が無くなっても同じく”わたし”はあり続ける。

五感が無くなったら?体感することは無いが”わたし”はある。

記憶が”わたし”かもしれない。でも記憶喪失になったとしても”わたし”という感覚は消えない気がする。

脳みそが無くなったら?ん~??
これはかなり微妙な感じだが、細胞は四年から七年で入れ替わるらしいから、脳みそ自体は”わたし”では無い。

いずれにせよ”わたし”の始まりがわからない。

受精の瞬間?………違う気がする……

もしかして、今?now?

この辺でいつも頭がぐるぐるして思考が無尽蔵に湧き、自我が邪魔をします。

私=南無妙法蓮華経
こんな感覚を体感できれば縦横無尽の境地でしょうね。



[608] 究極

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 4日(火)09時53分41秒   通報   返信・引用

身なりさん
そういう事だと思います。

何に相対しても
そうあること。

それの実践。
それの実現。

報恩感謝。
歓喜の中の大歓喜。

南無妙法蓮華経の非二元ですね。



[607] 錯覚?

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 3日(月)19時13分2秒   通報   返信・引用   編集済

全ては錯覚とも

恋は錯覚と言った思想家も



「努力は実らず、正義は滅びる」

この言葉を胸に秘め、それでも正義を貫き努力を惜しまない
そう言う人に私もなりたい

しかし正義とは必ず立場が伴いますね、例にあげれらるのが鬼ヶ島の子ども達。
ある日突然、両親はじめ大人達を皆殺しにされて所持品全て強盗に遭います。
有名な昔話の裏話。

正しいもまた場合によることがありそうです。


総じて南無妙法蓮華経、等しく南無妙法蓮華経、
南無妙法蓮華経そのもの
究極です



[606] 正しさ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 3日(月)11時13分53秒   通報   返信・引用

昨年来の私の探求の出発点の一つは
「人を救えない正しさならいらない」
です。

これは
「正しさでは人は救えない」
に対する挑戦でもあります。

「正しさでは人は救えません。人を救うのは愛です。」
なんて言うのは簡単ですが
その愛は一体どういう実体なのか?
愛で人を救えるという正しさを設定したら
その正しさでは人を救えないという
パラドックスをどうするのか?

「人は救われることが出来るのか?」
「人は救われることは出来ないのか?」

この解決のヒントが
「気づき」です。

救うことの出来るものと
救うことの出来ないものの
区別です。

起こっていることに対して
それが本当は何なのか
「気づく」ことです。

例えば幻肢痛という症状があります。
事故などで失った手足が痛むという
症例です。

「その手足はもう無い」という正しさは
その人を救えません。

その人にとっては
無いはずの手足が痛むという事が
リアル(としての体感)なのです。

それが本当は何なのか
「気づく」事が解決の糸口です。

幻肢痛 11:09
https://www.youtube.com/watch?v=UwzPOUGqAbU

この場合むしろ虚構を
体験することによって救われます。

人は錯覚によって満足度が変わったり
上手く錯覚できないことによって
生活に影響の出る問題が起きたりもする。

http://neweditorsoffice.jp/?p=973
~~錯覚活用法――裏切る「感覚」を逆手に現実を変える
袋菓子を全部食べきってしまうことがあるが、人の食欲が袋の大きさに比例するのは有名な話で、ゴミ袋に入れたポテトチップスは食べすぎる。これを逆手にとって、手の大きさを変えずに、食べ物だけが実際より大きく見えるメガネをつくった。これをかけるとすぐ満腹になり、少ない量で満足できる。皿に対する食べ物のサイズを大きく見せることにも同じ効果がある。人の意志は弱いため、環境のほうを調整して行動をポジティブに変化させるのだ。~~

なんていう発想の
研究もある。

しかし嘘を重ねれば
それはそれで、慣れて効かなくなったり
もっと大きな問題が起きたりする。

非二元というのは
もっともっと壮大な
矛盾の起きない真実の感覚。

実際に救済者になること。

絶対的な感覚者になることだ。

頭で理解するには根気と気づきがいる。
これは真実の探求である。

ドキュメンタリー - 時間と空間の謎 フル 44:26
https://www.youtube.com/watch?v=ipXFvUqv9ag

ドキュメンタリー - 量子の力学 フル 44:20
https://www.youtube.com/watch?v=nZsv5gmEk_c

だけどこんなの
思考で考えたって仕方ない。

なるようになることに気づいて
楽しく体感すればいい。

表現の仕方なんて無限なんです。



[605] 唱題の声をきく

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 2日(日)19時55分50秒   通報   返信・引用

夕の勤行の際、唱題してる自分の声が自分のものでない様な感覚にとらわれます。

正座をしているのですが、自分でないような感覚です。

ただ南無妙法蓮華経ですね



[604] リアル

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月 2日(日)17時20分27秒   通報   返信・引用

人として生命活動している以上は目の前で起こること全てがリアルだと思います。

ああだこうだ考え過ぎてる最近の自分の思考が、一番リアルですね(^^;)そんなリアルを観察してる私に気づければもう少し真実に近づけそうです。



[603] Re: 生まれたて

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 1日(土)02時04分26秒   通報   返信・引用 > No.601[元記事へ]

いないいないばぁで赤ちゃんが喜ぶのは
赤ちゃんは顔を隠すだけで
その人がどこかへ消えてしまったと思い
不安になる。

ばぁーと顔を出すと
いた、良かった、愛されていると感じ
喜ぶなんて話がある。

赤ちゃんのぼんやりした視界でも
顔をいち早く顔と認識するために

人間には、顔っぽいものを
顔そのものとして見る機能が
組み込まれているようだ。

パレイドリア効果(錯覚)やシミュラクラ現象(類像)
として説明されている。

http://www.kotaro269.com/archives/51366993.html
いろいろ顔に見えて面白い。

一方、ベビーフェイス効果のように
赤ちゃん顔のような
目のくりっとしたものを
可愛いと思う事も
機能として組み込まれている。

そして本当の生まれたての時には
視覚だけが視覚として認識されるような
脳の分化が未発達で

不思議な世界を見ている可能性がある。
http://eye-media.jp/entertainment/%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AE%E9%A1%94%E8%AA%8D%E8%AD%98/



[602] 胸中の肉団

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月 1日(土)01時03分43秒   通報   返信・引用

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書1244ページ9行目~12行目)

九識心王真如の都という言葉から考えるに
胸の中の肉の塊=心臓なんていう事ではない。

とすると「胸中の肉団」という言葉は
世間の一般常識からすると不可解である。

普通は、肉体があって
そこに心があると考えるからだ。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1597279.html
~~大聖人から賜った御本尊が、末法で初めて顕された未曽有の御本尊だと知り、日女御前はどれほど感激したことでしょう。
 ところが、大聖人は、さらに驚くべき真実を明かされていきます。
 すなわち、「この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える、その胸中の肉団にいらっしゃるのである」と。
 大聖人は、御本尊は外にあるのではなく、題目を唱える自身の胸中にあると言われるのです。外から内へ。「胸中の肉団」へ。なんと劇的な転換でありましょうか!
 当時も、いな現在においても、次のような考え方が根強くあります。“現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある。どこか遠くにある”と。こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。
 日蓮仏法は、この固定概念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕れるという生命の真実を見るのです。
 そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。
 無明に覆われて気づかなかった、森羅万象のあらゆる存在に普遍の法と、そして、その法とともにある自己自身の偉大さに目覚めたのです。~~

外から内へ
池田先生は「劇的な転換」だと述べている。

それへの「気づき」が
述べてきている非二元なのだ。

「リアリティ」になる前の
「リアル」の人間自身が御本尊なのだ。

「我心(わがこころ)本来(ほんらい)の仏なりと知るを即(すなわ)ち大歓喜(だいかんき)と名(なず)く所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝、788ページ・編1634ページ)

外からの一切の影響を受ける前の
リアルの人間自身だけがある心において
それこそが本来の仏であり

そこから発される大歓喜というエネルギーが
南無妙法蓮華経なのである。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1427343.html
~~まず「無漏」とは十界である。無漏とは、一般には、煩悩を断じ尽くした境地であるが、これは爾前権教の立ち場であり、法華経の精神においては、無漏とは、完全無欠の意である。すなわち、十界が一界も欠けず、生命に宛然として具していると説いて、始めて完全無欠の生命哲理であるとの意から、無漏を十界ととるのである。
 「実相」とは、始覚である。この始覚とは、始成正覚ということではなく「始めて覚る」という本来の意味である。一切衆生は、頭の上では、もとより十界互具、一念三千の当体である。だが、事の上で論ずるならば、仏界を顕現しなければ、三悪道、四悪趣の生命にのみ支配され、十界互具、一念三千の当体とはいえない。始覚とは、事実相の上に、仏界を湧現し、始めて、自身、もとより一念三千の当体、妙法の当体であることを覚知することをいうのである。
 「心に已に通達することを得たり」とは、そのときすでに、自分の生命に、仏法の偉大さ、力強さを実感し、確信することができたのである、との意である。
 さらに一重立ち入って「無漏」とは妙法、すなわち南無妙法蓮華経である。この妙法の一法に三千万法を具足して余すところがないからである。また「実相」の実とは、真実の意で、不変真如の理、相とは、現実の実相、生活であり、随縁真如の智である。したがって、実相の二字で随縁不変一念寂照をあらわすのである。
 御義口伝上にいわく「帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と」(0708-03)云云と。~~

自身にとって
唯一リアルたり得るものは
本尊の自身しかない。

ただ観念の上で知ることではなく
この本尊の自身を実際に開いた時の
大歓喜こそが南無妙法蓮華経である。

この大歓喜は
リアリティの上に開くのであり
リアリティの上に起こるのである。

認識後のストーリーであるリアリティの世界が
唯一のリアルな実在である本尊の自身に
出会い信じ学び大歓喜し行動しゆく処が
戒壇である。

純粋に生命論の上からだけで言えば
戒壇の大御本尊とは「自身」である。

これを開くために
一旦リアリティの中に戒壇の大御本尊
が存在する。

そのリアリティとは結局
映し出された自身であるので
その中で経験するのである。

気づけば一切が功徳
一切が大歓喜である。



[601] 生まれたて

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月30日(金)22時42分50秒   通報   返信・引用

生まれたすぐは自分の名前もなく、その他の固有名詞も知らない。

と言うことは自我はほとんどなく、自己機能だけでおっぱいを吸っているくらいのものでしょうか

しかし私はあるという感覚は有った気がする。
私はだれでもないけど、私はあるみたいな

そんな風に考えてたら自我から少しだけ離れられたら気がしました。ほんの数秒でしたが



[600] リアルとリアリティ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月29日(木)02時52分18秒   通報   返信・引用

何がリアルで
何がリアリティなのか?

気分転換を兼ねて
ダンスの動画を三つ
見比べてみよう。

https://www.youtube.com/watch?v=7SP8G34Jth8
https://www.youtube.com/watch?v=r2LpOUwca94
https://www.youtube.com/watch?v=am1csALyEzE

リアリティって何だろう?
では次の動画は?

https://www.youtube.com/watch?v=LWGJA9i18Co

常識って何だろう?
では次の動画は?

https://www.youtube.com/watch?v=88XXcOq9Fv8

では最後に
「リアル」と「リアリティ」に対する考察
というブログ記事を見てみよう。
http://blog.livedoor.jp/yahiro2000/archives/4809429.html

確かな現実は
リアリティに対して
「気づいている」ということ。

リアリティは空であり
空はリアリティである。

リアリティってことは
投影であるということ。

鏡に映った煙に息を吹きかけても
煙の動きに影響を与えられない。

本体のリアルは気づいている意識。

この意識の使い方によって
変化は起こる。



[599] 馬鹿馬鹿しさも・・・

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月28日(水)01時46分49秒   通報   返信・引用   編集済

地球をだっこですか。

良いリラックス方ですね。

自己機能の上では内観でも
あるんじゃないかと思います。

アルベア論 より
「恩」について⇒おもてなし⇒心身の浄化作用1~3
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/704
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/705
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/706

↑内観について書かれています。

自己機能が活性化していると
いろいろなことが
自然の内に自得されますね。

さて、古本屋で買った
「手塚治虫がねがったこと」
という本があるのですが

ヒョータンツギというキャラクター について
書かれているところがあって

手塚マンガの
くっきりした輪郭のキャラクターたちの中で
ひときわ訳の分からない存在のヒョータンツギ。

読者がのめり込むドラマの佳境で
突然登場する。

「何をマジになっているんだい?
これは漫画のストーリーだよ?」
と言わんばかりに読者を
ハッと我にかえらせるのである。



「なんだストーリーに引き込まれていただけだったんだ」
と気づいた時の読者が感じる馬鹿馬鹿しさは

笑いと開放感、そして現実にいる自己の安堵
また歓喜へとつながっていくのかもしれない。

パンツーマルミエ法にせよ
ドラゴンボール的地球だっこ法にせよ

そういう効果も高まるのかもしれない。

姿の見えない文字のやりとりで
自己機能の話をしていると

ついぞ自分の歳など忘れている。
楽しんでいる。

馬鹿馬鹿しいかもしれないが
生涯青春である。

そうそう、宿坊の掲示板に
青春対話の引用が投稿されていたが

「あっ」と声に出そうなカ所だったので
貼っておく。



池田先生の青春対話より【「人間として」偉くなれ、慈悲の存在に】  投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 9月26日(月)17時53分34秒

■「人間として」偉くなれ

―― たしかに、道徳の本とかを読んでも、それだけで人間革命できる人は、ほとんどいないと思います。

池田 道徳の本なら何千年も昔から無数にある。自己啓発の本などもあるが、言葉だけで人間革命でき、宿命を変えられるならば、苦労はない。
創価学会は抽象論ではなく、一貫して現実の人間革命を追求している。心を変革し、最高善の方向へもっていく。生きていく。行動していく。
その人間革命は、根本的には、仏の生命と一体の中で、できる。仏と境智冥合することによって、「自分を変える」力が、自分の中からわいてくるのです。

―― 自分の中にある「自分を変える力」――それが仏界ですね。
これは北陸の男子高等部長から聞いた、あるメンバーの体験です。
彼には三人の親友がいて、よく一緒に話したり、マンガを読んだり、という仲だったそうです。夏休みのある日、たまたま今の社会への不満や「運命とは」という話題になった。人生観についての話が何時間も尽きなかったそうです。その後、池田先生の著作を友人が「貸してくれ。うちで読むから」と持っていった。「青春対話」も読み合うようになった。学校の授業で、いちばんふざけていた四人は今、いちばん真剣に授業を聞くようになったというのです。
人間、だれでも、「成長したい」「変わりたい」と心の底では思っているのではないでしょうか。だから、ちょっとした、きっかけで変わることがあります。

池田 人間だけが「向上しよう」「成長しよう」と思うことができる。ただ流されて生きているだけではなく、もう一歩深い、人間としての方向転換をしようと思うことができる。
いわゆる「偉くなる」というのは、社会の機構上の話です。人間革命するとは、もっと深い、自分の内面のことです。永遠性のものです。社会的な偉さよりも、はるかに偉いことなのです。
人間は人間です。人間以上のものになれるわけではない。だから「人間として」の自分を変えていくことがいちばん、大事なのです。名声で自分を飾り、地位で自分を飾り、学歴で飾り、知識で飾り、お金で飾っても、本体の自分自身が貧しければ、貧しく、空虚な人生です。
すべてをはぎ取った、いわば「裸一貫」の自分自身がどうなのか。生命それ自体を変えていくのが人間革命です。釈尊も王子であったが、一切を捨てて、裸一貫の自分になって修行した。人間革命です。日蓮大聖人も、その当時、社会的には最低の存在とされた「旃陀羅が子」であると堂々と宣言されている。

―― たしかに、いわゆる″偉い人″が、名もない庶民よりも、人間としては、ずっと劣っていることは珍しくありません。
それどころか庶民は皆、平和を望み、幸福を願っているのに、社会の指導者が人間革命していないために、皆を戦争に引っ張っていったり、不幸の方向へ導いていくということがあります。

池田 二十世紀は二回も世界大戦を起こしてしまった。何億という人たちが地獄の苦しみを味わった。その原因は何なのか――それを考えた結論が、「人間自身が慈悲の存在に変わらなければいけない」ということなのです。



[598] 地球をだっこ(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月27日(火)10時35分28秒   通報   返信・引用

お褒めいただきました。(^^;)
とんでもございません、教わってるのはこちらですから。
教わってるというか、のぞき見してるという感じなんですけどごめんなさい(^^;)

最近、布団に入るときに楽しんでることがあります。

とてもくだらないのですが、うつ伏せになることです。元々は仰向けになって寝るのですが、寝る前の少しの時間、うつ伏せで手足を伸ばし床を掴んで地球をだっこした気分を味わうんです。
くだらないでしょう!?

4階に住んでますので、実際はマンションごと抱っこしてます。意識は宇宙空間で、地球を持ってますからドラゴンボールの世界です。

しばらくすると馬鹿馬鹿しくなって、眠気がやってきます。
最近のリラックス方です。忘れてぐたさい。



[597] 実体的に

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月27日(火)04時03分13秒   通報   返信・引用

いくつか複合的に絡んだ問題だと思います。

空というのは本当は
有にあらず無にあらずといった感じだと思うけど

それだととっかかりがないので
一旦「それは無い」として切り捨てる感覚の獲得
が必要だと思います。

それによって、肥大化して囚われていた自我に
気づくことが出来るのだと思います。

しかし、無い無い尽くしでいくと
灰身滅智の方向も考えられます。

「悟り」の同一性はあっても
それの向かう先も重要ということです。

ウィキペディアから因果応報を見ると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C
~~仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。~~

つまり元々、仏教の目指すところは
常の因果を離れるところ(涅槃)にあるのですが

法華経本門において本因本果が示されます。

単に非二元と言った場合
「全ては空でしたー
これで楽になりましたー
皆でこうなればハッピーだよねー」
って感じですが

そこで終わってしまえば中途半端で
それこそ二乗の悟りです。

禅僧の平和活動への共感の効果もあり
宗教性を除いた瞑想マインドフルネス等の
社会に役立つ実践的非二元が広まるのは権の菩薩的です。

アルベア論に提唱される法華経の非二元は
私が考えるには
戸田先生、池田先生の系譜でありながらも
宗教枠の限定性を解除したものとなります。

まず確認するべきは宗教枠というものは
自己機能の上に自然にある本因本果の実体ではなく
自我機能の上に集積された常の因果で虚像です。

池田先生の提唱する
「全ての目的を人間のために」とは
虚像に費やされていた目的を
実体へと向けなおせということだと思います。

この法のため人のためによって
世界の平和と一切衆生の幸福を
実現させるのが法華経の非二元なのです。

この実体の実体による実体のための非二元においては
ただ全体性ということが目的対象です。

一切が自我から解放された「空」というものは
空間的広がりが無限の宇宙そのものであり
無限の過去も無限の未来も
無限の可能性や無限の平行宇宙も同時に納まっている。

我即宇宙という生命現象です。
ここにおいては創価も日蓮も
どんな思想宗教もありとあらゆるすべて
全てが一つです。

無限の中から瞬間の生命によって選択していくのです。

戸田先生は獄中で空を悟り
一切の民衆の不幸をなくすために立ち上がった。

その空から発せられる波動によって
人々の願いは次々に叶い、歓喜がほとばしった。

一人の人間の悟りに決定した想いを乗せることで
数えきれない奇跡と感動を巻き起こした。

法華経の非二元は
自我機能の期待依存ではない
自己機能による祈りを
具体的に実現する実践なのです。

最近の創価には「祈りは必ず叶います」
そう確信を込めて言える人間が
減っているんじゃないですかね?

それはごまかしようのない
「空」の欠落なのですよ。

実体の体感が重要なのです。

その上で、「空」に共感しうる生命全てが
上も下も良いも悪いもなく不二であり
目的感の波動によって
全ては調和の上に活かされるのである。


やっぱり身なりさんの質問とか言葉はすごいです。

ありがとうございます。



[596] 非二元における因果応報

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月26日(月)15時41分14秒   通報   返信・引用

非二元において因果律はないと覚者は断言する。

あくまで人間としてのストーリーにおける話と割り切るしかないようです。

仏法は人間的苦しみを取り除く法であるのなら、それで良いのかもしれません。



[595] 空とチャンネル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月26日(月)02時35分49秒   通報   返信・引用

脳だけなら・・・
面白い考えですね。

想像してみるも何も断定できません。

それはそれとして
上も下もない
五感があるから自分

等の感覚は
志向性によって表現は変わりますが
全部同じものにつながります。

さてさて、
学会員として

「宇宙には三千のチャンネルがあって
信心で南無妙法蓮華経というチャンネルに
合わせることで絶対的幸福を得る」

という言い方であれば
受け入れられると思うが

それだけでは結果的に
言葉だけの思い込みに陥っている。

本当は、もうすこしちゃんと言えば

「人は皆、三千のチャンネルのどこかに
無意識的にせよチャネリングしていて
そのことが、その世界で何が起こるかを
本質的に決定している。
なので、事後に対してあれこれ思考して
もがいて行動しても、
本質的には何も変えられない。
世界を良くするためには高次の意識体
(仏智等)にチャネリングする必要があり
その最高峰が南無妙法蓮華経である。」

というふうになるかと思うがどうだろうか?

法華経の智慧からチャンネルに関する記述を二つ
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6400
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7214

Yahoo!知恵袋から一つ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299402217

ついでに検索に面白いものがかかったので
教えて!gooから「南無妙法蓮華経」と「般若心経」
というものを
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1569015.html

大乗仏教は「空」なくしては成立しません。
戸田先生も「空」を理解しなくては
仏法は理解できないという趣旨のことを言っています。
池田先生の法華経の智慧もそういう立場です。

法華経の特性は、悟りを目指すだけでなく
悟りの後の現実世界があることです。

二処三会です。

この最高峰の祈り(チャネリング)が
絶対的な現当二世(今と未来)の選択方法なのです。
過去も今もすべての意味が反転し
絶対的幸福境涯となります。



[594] うまいことできてますね

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月25日(日)13時39分45秒   通報   返信・引用   編集済

すこ~しだけ感覚でつかめつつあります

上も下もないのに地球に引っ張られてるのが当たり前なので、足が下みたいな

五感があるから自分みたいな

五感がなくて脳みそだけならどうなんでしょう?



[593] 着実に

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月24日(土)02時33分17秒   通報   返信・引用

身なりさん、なるほど。

客観的に見ると何というか

余分なことに回って途切れていたエネルギーが

ズレ・ブレの無い
本来の自然さに
近づきつつあるといった感じですね。

言葉で伝えられることは
どうぞ疑って下さいね(^-^)

怖さも疑いも
無心でやるのも
どんな結論を出すのも

なるようになっているのです。

山は登るのは苦しいけど
山頂に立った時
最高の歓びを味わえると

今日会った人が言ってました。

結果、思ったより低い山だったら
次、もっと高い山を目指せばいい。

経験は無駄にはならないですよ。

実践していること自体
すごい勇気です。



[592] 壊れずにいけそうな気がする(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月23日(金)21時28分10秒   通報   返信・引用

なんとも言えない恐怖にさいなまれていましたが、だいぶ落ち着いてきました。

一瞥体験はまだですが、つまらぬ怒りが減ってきましたよ

まだ疑ってます

一瞥体験すら脳のバグではないのか
悟りは二乗の域を出ないのではないのか
周りから笑われても気にしないだけのおめでたい人間に成り下がるだけではないのか、そして家族が苦しむだけではないのか
などなど

でも「私」「私」「ただそれだけ」「出て来ただけ、はい、消えた」みたいに繰り返してたら、すこし楽です。

子供を叱ることが減ってます。
一瞥体験、非二元、悟り、
勘違いの脳のバグでもいいです、「私」「私」をやり続けて苦しくなったら、その時また考えます。

損得勘定も減ってきました。


今はこんな感じです。
蘇生さん、なんとなく分かって貰えたでしょうか?
おそるおそるすすめてます



[591] 右脳的知見と左脳的見方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月23日(金)15時05分19秒   通報   返信・引用

他人の中に求めても
相対的に比較できるだけ。

「私です」は
ただ静かに自身を知ればよい。

「私です」によって
様々に起こる感情の大元を

「そういえば元凶はあの言葉だなぁ」
「この感情の原因はあの出来事だなぁ」と
気づいていくと解消し

その感情に行動が振り回されなくなる。

そして、どうしてもどうしても
思い出せないことを思い出そうとするところまで
「私です」をやっていると

「私」という一人称の在り方が
変容するようだ。

面白い。
味わってみると良い。

法華経寿量品からは

如来

つまりは思考で後追いする前の
永遠不変の瞬間の生命が

現象世界

つまり思考を含めた
認識できる全ての現象を見る時

それを不生不死、不出不没と見、



つまり慈悲の主体に関しても

世に出現したり入滅したりすることなく
実にもあらず虚にもあらず
そのままにもあらず
そのままでないにもあらずと見て

すべてを如実に知見する。

この如来の知見は

三界の衆生

つまりは過去と未来の連続性の思考によって
個別の人生を自分だと認識する人が

三界

つまりは過去と未来の連続性の思考によって
個別の歴史を社会の単位として
世界を見る見方と
まったく違っている。

等と読める。

脳科学者ジルボルトテイラー博士の右脳ワールド
https://www.youtube.com/watch?v=LjNGaGaJLVs
(↑動画↓テキスト)
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/monthly/monthly90502.html

ジルボルトテイラー博士の
話と比較すると

如来は右脳的な直観
三界は左脳的な思考

という分類ができる。

そうであるならば理屈を追い求めるだけでは
仏法が永遠に理解しきれないばかりか
学術的論考だけでは本質を損ねる方向に向く。

そして仏法とは言っても
それは人間という生命の在り方を
開き示すものなのだとすれば

宗教の枠も
仮の三界のストーリーにすぎない。

とは言っても
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」
である。

考え直し
生き直し
リライフ。

余裕・余白を作るところからだ。

真・僧俗和合を考えるにも
こういった視点も必要かと思う。



[590] 自己機能体験

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月22日(木)03時29分26秒   通報   返信・引用

まぁ、そーですねー。

ちっちゃいころから色んな会合に連れまわされたりしていたようで。
それはそれとして、

唱題している母の膝の上で
その胸に耳を付けていると

南無妙法蓮華経という発音とは別に
ウワン、ウワン、という響く音が聞こえて

それが何だか面白いというか
心地いいというか

そういうのが関係あるかはわからないけど
ちっちゃいころの体感ってすごいですよね。

体感していた雰囲気。
言葉では説明しづらいけど
たぶんずっとある。

小学生のころ
急に近くを見たり遠くを見たりすると
ピントがぼけたりしますよね。

その状態をキープしてみたりして
意志でピントをずらす技を身に着けました。

これって一種、自己機能への
意識の使い方かもしれませんね。

前後分かりませんが
人間の自我のイメージなのか何か
本来真っ直ぐであってしかるべき糸のようなものが
すごく、こんがらがっているイメージを見つけて
なんとかほどいて真っ直ぐにしようと思ってました。

たぶんこういうピュアに生命に帰する姿勢
これって難を呼ぶし
自己機能が優位だからかどうか
「やらなければならない」と頭で思うことほど
できなかったりして、
訳も分からず苦しんでたりしました。

中学生の頃ですかね
子供向けの少林寺の文庫本に
丹田呼吸法ってのが載ってて

その呼吸法に意識を向ける応用で
自律訓練法に近いことを
教えられるでもなく自得してました。

そしてこれも前後曖昧ですが
自己機能に意識の向きやすい
お風呂でなることが多かったんですが

湯船から立ち上がったときとか
その瞬間じゃなくてもシャワー浴びてるときとか
ふわーっと世界がホワイトアウトする。

立ちくらみですかね?
度々ありまして。

この先に何かある。
今度こそ辿り着いてみせる。

なんて思って、
説明できないけど、
何か実感を得た。

そんな生命の実感を味わう反面、
普通の人間になろうとした。

汚れた人間になろうとした。

色んな事に振り回されました。

当時、非二元なんて知る由もなし
そういう指導者がいるわけでもなし。

出口のない迷路のように感じていました。

法華経の智慧に出会ったり
現実の組織とのギャップに苦しんだり。
行ったり来たり右往左往。

本当の生命が分かったのは
地獄の底ですよそれは。

分かったとは言っても
非二元からすれば分かってないんですけど。

「世界は裏返しである」
という感覚。
反転の方法までは分からない感じ。

で、地獄の底まで行くと
それなりにダメージがあって
7年ほどお休みしていたって話は
書いたことありましたね。

アルベア論に出会って
自分が他の人より
生命論で話せるのは自覚できても

どうにも非二元というのは
分からないんですよね。

一瞥体験って
ホワイトアウトがまずそれかなって
じゅんころさんの記事を見て
たどり着いた。
それまで正直、そんなこと忘れてたと思う。

とにかく一歩一歩照合していきました。

この掲示板
このメンバーでなきゃ出来てないですね。

アルベアさんにまだ
最終合格はもらってません。

「もうすぐですね」って感じ。

身なりさんの全身麻酔の記憶の投稿内容
それってとりもなおさず
「体験談」ですよね。

本来、そういう次元で
信仰の歓喜が重なったものが
「信仰体験」であるはず。

今の学会教学とかがいかに
言葉だけあって中身が無いかということ。

非二元への道中にどうも
離人感というものがあって

間違った方向での離人感は
退廃的な虚無の方向性になる。

そういう怖さを感じるかもしれないが
怖さに負ければこそ飲み込まれるかも
しれない。

正しい方向で克服すれば
歓喜の世界になる。

来訪者が少ないので再掲するが
「パンツ丸見え法(改」「アルベア法」
のコンボと、もう一つの
エネルギー確認法をブログに書いた。
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/cat_220930.html
ブログなのは整理できるし
気兼ねなく直動画を貼れるし等々。

法華経の非二元は
エネルギーを実感しての活用
法の実感による救済がホシではないかと思う。

頑張る頑張らないではない。

選択は自由。
ダメなことなんて何もない。
全てはそのまま受け入れられている。

そんなことあってはならないと
自我が発しても、自己機能に
そっと寄り添い克服する。
(下に紹介する気づきのダンスにそんな感じの事が書いてある)

臆すれば自滅。
法のため人のために意識を向けて
味わい楽しんでいくのだ。

離人感(離人症)について
なんかうだうだ言ってるけど二つ動画を貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=_FzaeshFDSU
https://www.youtube.com/watch?v=YDOohFAaZAs

非二元はだから
不安に苛まれるような離人症とは違う。

元品の法性vs元品の無明のような
ステージだから、そういう両極の
途上に、そのステージに上がるための
似たような現象がある。

最近のお気に入りの非二元者
溝口あゆかのブログ
気づきのダンス
https://danceofkizuki.wordpress.com/

なんか表現が良いなって思う。
もっと味わってみようって思える。

案外、それぐらいのレベルの人なら
大勢いるのかもしれない。

アルベアさんによると
1995年以降
そういう人が多く出てきていると
言っていたと思う。



[589] 一瞥体験

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月21日(水)23時01分30秒   通報   返信・引用

蘇生さん、一瞥体験は体験済みですか?

体験済みならいつ体験されましたか

すぐに一瞥体験だとわかりましたか?

質問ばっかりすみません。(_ _)



[588] 全身麻酔の記憶

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月21日(水)15時26分17秒   通報   返信・引用

過去に全身麻酔を受けたことがあります。
目覚めたとき、朝の寝起きと変わらずがっかりしました。「無」を感じれる期待をしてたんだと思います。

それとは別にバイクで事故をしたさい、俗に言う時間が止まるというか、物凄くゆっくりでスローモーションになる体験もしました。
いま思えばあれは、刹那の中に永遠を見た感覚だったのかもしれません。明らかに通常の時間の感覚ではありませんでしたから。

あと仕事中に車で昼寝をしていて、携帯電話の音で目が覚めた時も不思議な感覚でした、見当識障害とでも言うのでしょうか、今が朝か夜か、ここがどこか分からないことがよくありました。
ノンレム睡眠中に目が覚めるとそうなるのかもしれませんが、左脳が追いつくまで約五秒はそんな感じでした。

じゅんころさんの動画を見てみようと思ってます。



[587] 疑心暗鬼

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月21日(水)13時39分43秒   通報   返信・引用

なんとも言えぬ恐怖心が芽生えてますが大丈夫でしょうか

とんでもないことに気づきそうな、というか思い出しそうな

え?

そんな馬鹿な?

ってなりそうな

ちょっと休憩したほうがよいのかな?

なんだかやばい気がするんですが

蘇生さんどうしましょ

とりあえず、心の中でお題目、
はやく家に帰って御本尊様の前に行って確かめないと



[586] 欲と恐怖

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月21日(水)08時57分32秒   通報   返信・引用

欲と思考の違いに似たもので

恐怖と思考の違いというのもある。

カミナリが怖い
暗闇が怖い
シャンプーのとき目を瞑るのが怖い
怒られるのが怖い
生活できなくなるのが怖い
死ぬのが怖い
よく分からない人や物事と関わるのが怖い

地震・雷・火事・親父

大人になると
克服したのか、何かで上書きしたのか
信頼できるものを見つけたのか。

子供の頃は割と平気だった虫が
大人になってからの方が怖く思うこともある。

「私です」
子供の頃の記憶なのか
DNAに刻まれた人類の記憶なのか

DNAって言っても
知識として知っているだけで

このタンパク質が作られる感じが
DNAのおかげだって体感できるわけじゃないけど

でも逆に、体感という体感は全て
DNAから始まっているタンパク質の集合
細胞の集合や連携によってもたらされている。

自然で自動的。

考えれば思考。
作ったのは私です。

静かに静かに
本当に自然に自動的に起こっていることを
眺めてみる、感じてみる。



[585] 体感するまでが産みの苦しみ

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月20日(火)17時21分48秒   通報   返信・引用

「無い」に気づけない私

数字のゼロ(zero)に気づいていなかった人類みたいな気分かな(*_*)

無いこと(zero)に気づけば世界観が変わる気がするのだけど、体感してないんです。もうしばらく「私です」頑張ってみます。(^^)



[584] 「私です」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月20日(火)08時44分16秒   通報   返信・引用   編集済

なるほど、身なりさん
付き合いましょう。

いつかの逆ですね。

なんというか
思考で考えるのとは
ことごとく逆の事実に
「気づく」ことです。

「これは誰が作ったの?」
「私です」
(「その思考の逆もまた真なり」)

って感じかな?

気づけば一切が功徳。
気づけば一切がメッセージ。
気づいていないだけで
ずっと送ってくれていた。

「私です」には2種類ある。
気づかせようとする真の私と
後追いで隠す自我の私。

同じものだけど方向が逆。
自我は常に反作用として起こる。

一瞥体験(いちべつたいけん)で言うと
入り込んでくれるというより
後付けの言葉で言うと吸い込まれちゃう感じ。
直接的な体感で言うと
「何これ、何かある」
→ブラックアウト・ホワイトアウト
→「あれ?消えて何も無かった」
→「無いが在る」という実感。

心だけの現象ではなく
実際に脳の中でも起こる現象。

どれだけ意識が気づくか
どれだけ意識で追いかけられるか
による実感。

臨死体験とか
ジルボルトテイラーの左脳の脳梗塞とか
貧血で一瞬意識が飛んだとか
眠さとの葛藤でフッと意識が飛んだとか
(クジラ板でおっちゃんさんが言ってたのは
本当の実感なら間違いじゃない)
感動しすぎて言葉を失い吸い込まれたとか
例えばひどい高熱や二日酔いなどで
頭がガンガンして思考できない時に起こるかもしれないし
自己機能に意識を向けただけで起こるかもしれない。

意識の使い方と
エネルギーの充実感と
自己機能の区別

この3点セット。

本当の仏法であり
本当の題目であり
本当の学会活動(救済)である。

そういう意識を持ち
何が自我の思い込みであるか
見抜きながら下記の
ブログ記事を読んでみると
少し意識が変わるかもしれない。
http://saburoku.org/dream/?m=201211

先生の指導として紹介されている
法華経の智慧の部分の前後。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6845
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6852
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6859

欲と思考の区別。
確かになかなか興味深い
意識の使い方です。

私も便乗して味わってみます。



[583] よちよち歩きなもんで(^^;)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月19日(月)13時52分36秒   通報   返信・引用

まだまだ訳も分からず「私」「私」とやって自我を確認する事だけをやってます。

自分としては、そのうち隙間みたいな意識が入り込んでくれるのかなぁと思って続けてますが、そんな気配もなく「私です」それゃそうだって感じが続いてます。

あと欲と思考の区別がつきにく時がありますね、身体が思考してるって感じで、お腹がすくみたいな。

子ども達には、幸せになって欲しいと漠然に常日頃から考えてますが、それは欲なのか思考なのか。

愛欲でしょうかね、一番たちの悪い欲のようです。
一方で一番のモチベーションで有ることも事実ですが。こんなことを思考するのも勿論、私です。



[582] 押したり引いたり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月19日(月)09時30分42秒   通報   返信・引用

戸田先生も池田先生も
「思索しなさい」って言ってるし

自己機能に意識を向けられて
区別出来たら次は思考観察。

「私です」から離れて想いを巡らす。

観察とは言っても普通に考え思索する。

しばらくして思い出す。

今実際、私は昨夜の食事のとき
考えたことを思い出したりしながら
文章に起こしている。

食事で自己機能が味わえる。

昨夜、定食屋で秋の生姜炒め
定食を食べた。
(↑行った事実)

料理って結構、自我機能で作る人がいる。
(↑昨夜考えた)
自我機能で作るか自己機能で作るかが
素人とプロの違いなのかもしれない。
(↑今付け足した)

特にカレーって自我機能で作る例として分かりやすい。
(↑昨日考えたことを伝わりやすく整えた)
数種類のルーを混ぜたら美味しいとか
隠し味に○○を入れたら美味しいとか
そういうのは自我機能である場合が多い。
(↑昨日考えた)
一晩寝かせたら美味しいというのは
自己機能である。
(↑昨日考えた)
カレー自身の自己機能であるし
変に狙ってやったのでなければ
勝手になるようになったという
作り手にとっても自己機能だ。
(↑昨日考えた事に、なぜそう言えるのか区別を加えた)

自己機能には向こうとこちらという
区別がない。
(↑区別したことによる帰結)

記憶というものは、睡眠中に整理
されるという。
一晩寝かせたら美味しくなる
カレーのようだ。
戸田先生は朝、
布団から出る前に深く深く思索するのが
日課だったという。
自我機能と自己機能の相互作用だ。
「頭の片隅に置いておく大切さ」である。
(↑芋づる式に思考)

カレーになぜ、ルーを混ぜたり
色々入れたりしたがるの人がいるのか?
それはおそらく
「自分が作った感」を味わうため。
オリジナルの手間を加えることにより
自分が振る舞っているんだという
自我の満足のための行動である。
(↑↓頭の片隅にあった卵理論からの考察)
http://buzz-plus.com/article/2016/04/09/ideas-of-others/
(もし見れないなら見れないでなるようになっている)
~~・全部入りのケーキミックスが売れなかった理由
行動経済学には、「卵理論」と呼ばれる法則がある。水を注ぐだけで焼けるケーキミックスがアメリカに入ってきた時、まったくといっていいほど売れなかった。理由は、手作りというには、手間がかからなすぎるからだ(カップラーメン的であり、ケーキのような誰かに振る舞うものには適していない)。
・他人のアイディアには関心がない
そこでメーカーは、粉から牛乳と卵を取り除いた。すると、手作り感が増し、売れるようになったことが、「卵理論」の名前の由来らしい。人は、何かに労力を注ぐと、それを高く自己評価する傾向があるということだ。~~
(↑引用)

教学論議が色々とあるが
仏法は本来、生命そのものを語っている。
生命そのものには
誰が言ったから正しいとか
そういう区別は無い。
真理は真理として
生命は生命として
ただあるだけである。
区別のあるものを区別するから
区別のないことを
区別がないと知ることが出来る。
思考から体感へシフトする。
体感できることを実感するから
体感できないという体感を
無だと知ることが出来る。
それは全ての根源で
満ちているエネルギーは
全てそこから来ている。
エネルギーを活性化し
区別のない自己機能に満たせば
歓喜の世界になる。
自我の思い込みは
どうでもいい。



[581] 食事が美味しい!

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月18日(日)18時48分19秒   通報   返信・引用

意識する癖がちょっとついてきました。

食事の時が特に感じますね、歯触り、のどごし、香り、舌触りなどなど、まさに噛みしめるって感じです。

あとお風呂でゆぶねに浸かってるときも、何ともいえぬ感覚を自己機能に問いかけてます。

自我機能は、まだまだ「私です」って言ってるだけで、「無」を感じるまでにいたってませんが、やり続けてみようと思ってます。

スマホでやってるので、たまに閲覧できない動画やサイトがあるので残念に思ってます(*_*)

食べるのが楽しくなって、メタボにならないか心配です。(^^)



[580] 健康と悟り

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月18日(日)10時45分0秒   通報   返信・引用

パンツ丸見え法の
最初の課題設定が
無理難題すぎたかもしれないので

無理なく凡庸的に行える
形にまとめました↓
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/cat_220930.html

非二元に一瞥体験(いちべつたいけん)は
必須というものではなく

起こる時にはふいに起こったりするものだし
それをそれと気づかずに

よく思い出してみると
既に体験していたりします。

心身を健康に活性化して
身体の自律性を優位にしていくと
自然ともたらされる
自然な現象なのです。

これをもたらせるのが良薬であり
不良不全に陥らせるのが毒薬です。

心身が健康に活性化すると
自然に分かってきます。

そういった意味でも「悟り」は
本来自然な生命の気づきであり

「悟り」自体はどれも同じもので
「だからどうする」という部分が
法華経の非二元では違うだけなのだと
思います。

では、どうやったら早く
気づけるでしょうか?

http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/145

私の場合じゅんころさんのブログを読んで
「あっ、あれだ」って思いました。



[579] 熱と力

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月17日(土)02時27分51秒   通報   返信・引用

身なりさん味わってますねー。
私の方が教えられる思いです。

まぁ、もともと
教えるとかではなく
いろんな関係性の中で
歩みを進めているのですが。

アルベア論に
映し映される鏡の関係性
なのだという話がありました。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/707

さて
明日9月18日は雨の文化祭から
50周年です。

http://sokafree.exblog.jp/24466799/
>名字の言は次のように結んでいた。
>「団結は号令で生まれるものではない。一人一人の自発の思い、決意、誓い」
>「そこに創価学会の強さがある」

常勝関西は池田先生の手作りである。
と同時に、関西が池田先生を育てた
という側面もあるのかもしれない。

関西の文化には
体感を共有しようという気風が
もともとあると思う。

いや、世界から見れば
日本自体がそういう方向性を
もっていると思う。

悪く働けば、個が埋没して
長いものに巻かれる風習となる
ので、一概に
だから優れているとは言えないものであるが。

それはオノマトペの豊富さに見て取れる。

https://www.youtube.com/watch?v=OEw81JgdN_A
Japanese Onomatopoeia! 日本語のオノマトペすごい!

英語圏の人もビックリ!

世界の中には基本的にオノマトペが無い文化もあり
漫画を輸出する際、書き文字をどうするか
困ったりするという話も聞いたことがある。

で、関西であるが
オノマトペの使い方が突出している。

https://www.youtube.com/watch?v=YhMnagwILgY
キュッと曲がるってどれぐらい?

https://www.youtube.com/watch?v=rGtnAp8KZ_8
ウルフルズ - 大阪ストラット

なんというかもう
何も伝わらないけど
何か伝わる感じ。

こんな関西で
シュッとした話だけしても
拡大の勢いなんて生まれるはずもない。

だけどすごいもん見せられて
一度火が付いたら
ぶわーっと広がるのだと思う。

理屈じゃないのよ体感は。

全体性に連動するってことは
つまり一体感ですよね。

生命の充実の一体感を
歓喜と感動の波動の渦を

暗雲を払いのけて
一人一人が自得し
広げていきましょう。



[578] 豚カツが喉元を降りていきました(~o~)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月16日(金)17時42分1秒   通報   返信・引用

昼ご飯、
豚カツのチーズ焼き(高カロリー)

喉元を降りていく感覚、自己機能に問いかけました。
これが俗に言う「旨い」という感覚かな?

いやいや、さっき口の中であむあむ噛んでいた時も何やら舌の上でビンビン感じていたあれも「旨い」かな?

そうこうしてると鼻からチーズの香ばしい香りが抜けていきました。

全部合わせで「旨い」なんでしょうね(^^)

な~んて言う思考は誰が作った?私です。

こんな感じかな?



[577] 自己機能の体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月16日(金)03時30分27秒   通報   返信・引用

身なりさん、それはとてもナイスです。
(そろそろ「さん」付けでいきます)
アルベア論によると
排泄の体感はまさに自己機能です。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/16

パンツ丸見え法には
用を足しながら
(男性の小は危険)
でも出来るというメリットがあったのですね。

一つ言っておくと
非二元をマスターしても
怒りなどの負の感情が
「起こらなくなる」わけではなく

それが自我であることに
気づいていられるから
引きずられないということです。

その意識の使い方が
出来てきているようです。

そして自己機能が活性化すると
直感力が高まります。

普通はなかなかトイレの中でまで
やってみようという発想は出ない
と思うのですが

自己機能が活性化していると
そういうことを閃いて
やってみようとなるわけです。

自我の論理的思考からしてみると
「ただの思いつき」
「わりと適当」
「ともすればデタラメ」
と切り捨てたくなるような事が

むしろ難しく考えるより
理想的な結果をもたらし

こうした体感からの波動が
全体性の中で連動することを
発見していきます。

習うことの出来る文章化された
仏法等というのは

思考上の完全無欠の普遍の論理があって
それにしたがっているのではなく

無や空から体感された真実の法にしたがって
後追いで言語化されているということです。

アカデミックな知識は補助であり
その場その場の体感が実質です。

フリースタイルの体感による対応も
悪用したり悪ふざけになってしまえば
結局それも自分に還ってきてしまいますが

人の痛みも分かる自己機能が活性化していれば
わりと適当なただの思いつきでも
法のため人のためという一途な思いがあるなら
思い切ってやってみれば
思いもしないほど上手くはまったりします。

このことと「やり尽くし」が重なると
「どうでもよく」なります。

自己機能によって技が磨かれたことにより
適当に楽しんでいた方が
なるようになるし

そうしてできた余裕も
自身の在り方を懺悔し
法のため人のために向けることができます。

一番苦労した人が
一番幸せになるという反転なのです。

そしてこれは
生真面目に直訳するよりも
ゆとりをもって意訳する方が
素晴らしい作品になるような

そういう歓喜の軌道になります。

鳩摩羅什訳の法華経も意訳です。

これは生命感覚での肉薄なのです。
シンプルな法の体感なのです。

続ければ楽しくなるのです。
成仏はたもつにありなのです。

私の聞いた話によると
「信心したらスーパーサイヤ人になれるんや」
と言ってたくさん折伏した人がいるそうです。

その人は教学力も高い人ですが
そういう教学的には無茶苦茶ともいえることが
人間味として想いを伝え
波動を起こしたりもするということです。

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

この図から何種類かの
サイクルパターンが発見できます。

どのサイクルに焦点を当てても
他のサイクルが消えて無くなることはなく

想いで留めて行動しなかったり
現実を無視して行動しても
結局はその業は自分に還ってきます。

この全体に対する意識の使い方が
生命感覚であり一念三千なのです。

いろんなぐるぐるを試して
区別していって下さい。

気づいたことを文章化してメモしたり
人に伝えていったりすると
また一段違ってきます。



[576] ぬぁゎんだか難しい(~o~)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月15日(木)14時03分50秒   通報   返信・引用

トイレのなかでパンツーマルミエは無心に近づく気がします

子どもたちを叱る寸前「誰がこの怒りを作ったの、私です」てな感じで、少し冷静になってる今日この頃です。頭の中が「私です」だらけになってるのですが、
大丈夫かなぁ~?

ぐるぐるぐるぐるポンっと煙が出たりしないか心配です。(*_*)



[575] 三世間と唯識論

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月15日(木)10時43分3秒   通報   返信・引用   編集済

まずは唯心論と唯識論を区別して
実感することが
仏法を行じる基本になる。

ここで言う仏法はしかも
仏教の信仰とは関係がない。

古くは生命の真実に通じるような
教養を高めたりする方法が
必然的に仏法しかなかったのであり

今は巡り巡って
混ざりあって
仏教を信仰しているから得られる
仏教を信仰していないから得られない

もともとそんなものではないのに
分けたがる。

外に求めてしまうから
そうなるのだ。

唯物論でいくと
これはよく観察すると
人間はたえず変化する
物質世界に対して
後追いしか出来ない。
物質として存在するのは
起こった後である。
これは「私」ではない。

唯心論もまた
よくよく観察すると
唯物論と同じようなことが言える。

ここで気づくべきは
変化する心を観察する
変化しない何かがあるということ。

唯識論とは
あらゆる変化が起こる前の
何も始まらず何も終わらない
永遠への気づきである。

「気づき」は心の変化である。
唯識は気づいても気づかなくても
変化はない。
変化のある世界にいるから
変化しないものを変化しないと
「気づく」という変化を起こせるのである。

三世間を確認しよう。
http://www.ekoko.jp/koz_essay5/essay046.html

初めは、とても簡単な単純な区分けのように聞こえる。
だから簡単に済ませてしまいがちだ。
だけどこれはとても深い一念三千の最後の部分である。

般若心経や禅や中古天台に
あるいはスピリチュアルや非二元に
強い反発心をもって
五重三段に見られるような
http://tidouji.la.coocan.jp/hihan/gojyusanndan.htm
序分・流通分の意義を見出せないのは
ここのところが解っていないのである。

五陰世間

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

識と色に矢印が付かない。
我々は世界そのものを見ているのではなく
見えるように見ているのである。

それに振り回されれば分離分断である。
六道の世界である。
正しい見方を習い
想と行をコントロールしていくのが
これは広く仏法なのである。
こういった違いが現れるのが
衆生世間である。

上の五陰世間の図で、想を消しても
サイクルが成り立つのが
分かるだろうか?

有情にも非情にも
同じように
世界を観じているのである。

植物が太陽の光を感じ
雨の潤いを受け取って
成長するのはもちろんのこと

我々の体で言っても
寝ているときにも熱ければ汗をかくし
意識しなくても心臓はずっと
脈打っている。

死んでしまえば常温で腐っていく
というのも、ここにおいては
全く別の現象ではない。

これは国土世間である。

九識心王真如の都においては
何も始まらず何も終わらない

寿量品の「久遠の仏」とは、
この無始無終の根本浄識である。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8206

頭で解っても仕方がない。

私の言っていることは
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/567
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/569
↑こういった実践によって
自得するものである。

まず永遠普遍の根本浄識があって
変化の世界が見えるように見えて現れる。
それに対して想いが巡る。
そのことが行いを起こす。
その業が姿を現し形を成している。
見える世界はこれであるから
相互に業が巡って世界が変化する。
根本浄識は変化しない永遠である。
変化しないから見えず
思考できず気づきにくい。
想を客観視すると
気づき始める。



[574] どうでもよくなってからが本門

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月13日(火)09時18分24秒   通報   返信・引用

なんだか思っていたのと
随分と違う。

でも必然的に
思っていた「思考」が
どうでもいいことだったことに
気づかないと本門に移行しない。

迹門で二乗は
ずっと探していたけど
もう得られないものだと思っていたけど

なんだ、こんなところにあったんですね
なんだ、こんなシンプルなことだったんですね

ということに気づいていく。
探求が終わっていく。

ずっと「今ここ」だけだったのに

無いと思って、間違った思考に囚われて
自分探しの旅をしていたんですね。

ああ、探さなくても今ここにあったんですね。

思考というどうでもいいものに
そそのかされていただけなんですね。

と了解する。

佐渡での日蓮大聖人は
「難」と「安穏」のパラドックスを
考えて気づく。

安穏?諸天の加護?
一体私は何に期待依存しているんだ。
外に求めたってあるはずもない。
全部今ここのことじゃないか。

私は私の「考え」を
どうにか分からせようと今までやってきたけど
そんなことはどうでもよかったんだ。

今ここに住するだけでいい。
そこから自然に涌いてくるのだ。

これが地涌の菩薩。
私は今、久遠教主釈尊に出会っている。

思考に囚われた凡夫の日蓮の肉体は
竜の口で死んだのだ。

もう始めから
否、始まりも終わりもなく
不壊の生命なのだ。

ならばどうぞ天も捨てなさい
諸難にも遭いましょう
身命を差し上げます。

浮かんでは消えていく思考はもう
どうでもいいのだ。

そんな風に目覚めた。

そうして書き始めた御本尊に対して
思考で解釈して
何かの思惑のための道具にするなど
何になろう。

生命の肉薄のものである。

私自身、一定の答を
外に求めていたのだろう。

私はとても知りたがっていた。

8月の末、関西ミニオフ会を行った。

私は私の知りたがっていたことを
知ることが出来た。

結果として私は
どうでもいいです。
お任せします。

となった。
スタンスが変化した。
自然体になった。

人間の思考上には囚われがある。
宗教の枠も人間の思考上にしかない。

生命それ自体には何の境もなく
無限である。

どうでもよくなると
歓喜がどんどんわいてくる。

「流人なれども喜悦はかりなし」である。

これは全く思い込みではなく
本当のことなのだ。



[573] 正当化と思い込み

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月11日(日)08時48分8秒   通報   返信・引用   編集済

「間違ってはいけない」という考えは
小さい。

「何が間違っているのか知りたい」
と願いながら
「間違いを指摘されること」
を恐れる。

「間違っていない」と認めてもらうために
縄張りを作り偉くなる努力をする。

集団の価値観に強く傾倒し
その線の外か内かで正義か悪かを判断する。

多くの矛盾を無視して
良心が麻痺していく。

「間違いのない人間」になりたかったのに
「とても間違った人間」になっていく矛盾。

今までの努力に執着し
いまさらやめられないことが
苛立ちを生む。

酒、金、女にでも走らなければ
やってられない。

「私たちは素晴らしい」
「貴方たちは素晴らしい」
という仮面をかぶりながら

そのギャップを埋めるために
奔走することが

本人たちは正義のためと思っているのに
結果を見れば悪の限りを尽くしている。

一番大切なものを護るためだと
正当化し思い込む。

だけど一番大切なものは
全くそこには無いのだ。

意地汚い執着があるだけ。

そんなものを守って
どうして幸せになり
どうやって平和を築くと言うのだろう?

そんな枠を存続させることに
どれだけの価値があるのだろう?

そんな間違った正義か悪かの線引きに
どれだけの犠牲を払うというのだろう?

やめられることはやめれば良いのだ。
手放さなければならない。

本当にやめてはいけないことは
より大きな枠での相互理解と
より無条件での絶対的幸福だ。

考えてもみるのだ

「貴方はここが悪いから今すぐ直しなさい」
と言われるよりも

「貴方のその欠点、
なんかちょっと素敵ですね」って言われる方が

心が広くなるんじゃないか?

無限という
南無妙法蓮華経という
スケールから見れば

その完全さを信頼するならば

失敗作なんて何一つ
生み出されてはいないのだ。

そのままで常に完全である。

完全に信頼し委ねれば良い。

そうすれば完全な事しか起きていない。

法華経は二処三会である。
http://d.hatena.ne.jp/kon890/20100208/p1

思考することは出来ないけど
確かにある無限が
常に今ここにあることを感じながら

その温かさを語り広げていく。

それ自体が生命である。

勇気と希望の灯をともすことである。

それしか生命尊厳の世界を開く
方法は存在していないのである。



[572] 大自然

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月10日(土)09時48分34秒   通報   返信・引用   編集済

地球上の営み

http://www.hulu.jp/planet-earth
プラネットアース 他

たまにはこういうのを
あらためて感じてみるのも一つ。

別に見なければいけないという
ものではないし

登録という手間をかけてまでの
ことではない。

そういう雰囲気がそこにある
というだけ。



[571] 巡り回り、世界はある

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月10日(土)09時40分10秒   通報   返信・引用   編集済

一周回ってぐるぐる
スッキリ

それに気づけば
あとはかってに変わっていく。

感じ方が変わるから
判断基準が変わって
行動が変わり
自然と上手くいく。

自然になる。

本人の自覚として
気づいていることに気づいていなくても
「あれ??」ということに出会い
そして変化が起こる。

それは勇気かもしれないし
それは反省かもしれないし
こだわりを捨てることかもしれないし
感謝することかもしれない。

特別何かしようとする必要はないし
今まで出来なかったことが出来て
解決していなかったことが解決する。

やりたいことをやればよい。

自然な感謝と歓喜が世界を変えていく。

世界の意味が
人生の意味が
解っていく。

解放されていく。

たった一つの無限の慈悲へと
向かっていく。

つまり、それが答だ。

https://www.youtube.com/watch?v=Z28KuShADpw
ウルフルズ - それが答えだ!

https://www.youtube.com/watch?v=C-vFQW2KCU8
ウルフルズ - かわいいひと



[570] 一周回ってぐ-るぐる

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 9日(金)16時58分25秒   通報   返信・引用

換気扇の音がしました。

気づかなくても音はしていたはずだけど、気付いて初めて「換気扇の音だ」と思考した。

別の場所に居たとしても、この換気扇は回っていて音がしてたはず

思考してもしなくてもあったのかな?

自分の後ろになにもない保証はどこにも無い(*_*)
振り返ればいつもの風景が広がるけど、正面向いてるときは後ろのことはわからないしなぁ

なんて思考も私が作ったぐ~るぐる

と最後はお題目に向うように出来てるので面白い
題目上げてスッキリ寝れる
これだけでたぶん幸せランキングの方だと思います(^^)
ランキングなんてのがナンセンスですね(*_*)



[569] ぐーるぐーる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 9日(金)01時37分30秒   通報   返信・引用   編集済

見えたものを「あっ電車だ」と思ったら
自分とは別の存在として
電車を世界から分離して見ていて

思考の上で各別の世界を作っています。

それは自分の手を見て
「私の手だ」と思うことも
世界から分離した自分を作っています。

だからもう、ただ「無」を除く
あらゆる全てが思考。

つまり

ここまでくればもう
思考がわく自体には良いも悪いもないけど

思考にすぎないものを思考だと気づかずに
それを自分だと思うから振り回される
というだけの話で

思考を思考だと気づいていれば
思考することに何ら問題はない。

むしろ思考を楽しめば良い。

でも平らかに眺めて楽しめない時がある。

ネガティブな感情に支配されたとき
あるいは偶発的な幸運に舞い上がり
正常な判断を失ってイケイケになるとき等

どうしようもなく思考に支配されてしまう。

「心の師となるとも心を師とせざれ」である。

思考に支配されることがいけないのだ。

仏法に七慢というものがある。
http://tobifudo.jp/newmon/etc/gaman.html
我々学会員が真っ先に思いつくのは
増上慢ではないかと思う。

悟っていないのに悟った
得ていないのに得たと思い
おごり高ぶる。

そもそも「悟り」とは
思考を中心とした自分では得ることはなく
「悟りを得た」という思考は
すべからく増上慢である。

「悟り」とは得るべき自分というものが
そもそも思考上の幻想であるというのが
それであり、自己はそれにしたがって
起こっている荒凡夫であるということである。

一般の人が慢で思いつくのは我慢であろう。

我慢は一般的に、自分を押さえて耐える、
という意味で使われますが、本来は自分を
偉いと思い、他人を軽んじることです。
仏教では、自分に執着することから、自分
を高く見て他人を軽視する心が生まれる

これを考えるに
(誰が作ってるの?私)
私的な思考にすぎないことを
そうだと気づけずに
個性であり、これが自分だと
思い込んでこだわること全て
仏法上の我慢である。

七慢の中で「慢」は
自分と同等の人を
自分と同等だと思う
一見間違っていないようなことさえも
思考で作り上げた慢心なのである。

仏法を行じる上では、ただ純真に
不軽菩薩のような全てを敬う姿勢が一つの理想である。

この姿勢において実際に起こる難に対して
折伏をすればよい。
(誰が作ったの?私)

この辺りはパラドックスがあり
開目抄に見られる「難」と「安穏」の
パラドックスにも関連し
ゆえに発迹顕本にも絡むところである。

創価学会において三代にわたる会長は
確かに法眼・仏眼に通じていると思われる。

しかし、それ以外にははたして
思考を思考と見破って化導した人間が
いるかどうか?

いないのである。
三代までが特別と池田先生自身が言われる
ゆえんである。

だが、池田先生は一面には
この自我にまみれた創価学会に対して
生命感覚から透徹された、自我をまとめあげる
さらなる強い「自我」によって
まみれている自我をも利用して
創価学会の基盤を拡大した側面もある。

だからそこからもう一度
各人が生命感覚を自得
つまり自己機能を観察し尽くすことが
発迹顕本には求められる。

さて、理想を述べ綺麗ごとを言っても
先に言ったどうしようもない感情というのは
そのままでは本当にどうしようもない。

地球ひろしさんによれば
https://www.youtube.com/watch?v=NPhaouSFNVQ&feature=youtu.be
感情開放というものが必要である。

感情に振り回された後
落ち着いてから思考観察する。

その感情は誰が作ったのか?
それは自分。

なぜその感情を作ったのか?
○○があったから。

なぜ○○だったらその感情を作るのか?
何に関連してどんな思考プログラムの
癖があるのか?

(思考プログラムの関連の思い込み
の起こる仕組みの理解の補助に
〔サイエンスZERO〕
人工知能の大革命!ディープラーニング
https://www.youtube.com/watch?v=6NGxs9juPTg

最初の幼少の頃の記憶など最初の原因
解消されないで溜まっている感情の場所
を見つけて、そうして

聖人君子になる必要はなく
他人に迷惑をかけない方法によって
(イメージの中で相手をボコり尽くす
サンドバック代わりのものに当たり尽くす等)
解消し尽くすことによって
どうしようもならなかった部分が解消される。

この話の流れで
このようにして
「悟らなきゃいけないんだ」と
思ってはいけない。

ただ、日々が気持ちよくなる方法の
その中の一つと思ってもらえばよく
別に、これを選択する必要もない。

地球ひろしさんの話は
セミナーなので導こうという
思惑過多の部分もあるかもしれない。

自己機能のあるがままのあり方は
マハラジの問答の方が自然だが
自然ゆえに延々とした問答である。
https://www.youtube.com/watch?v=1KOIVpnRztw&list=PLIl5bJE_nmepO6gd80aVhu-s0Mi3Yh69N&index=1

池田先生への不二への道は
自然で温和な自己機能に終わらず
自我機能をもう一度両立させ
最高の状態で使いこなし
池田先生の理想を実現させる道も
想定される。
(誰が作ったの?私)

どこまでいっても
求める限りはグルグルする。

だが、解決したことに対してではなく
新しい挑戦に対してである。

グルグルを楽しめば良いのである。

普通の非二元ならいざしらず
法華経の非二元は
これこそ、世界の平和と
一切衆生の幸福を実現させるのである。

一朝一夕の思考での理解の話とは
まったく次元が違うのである。



[568] 簡単ではない

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 8日(木)20時28分29秒   通報   返信・引用

どこからが思考なのかも曖昧になりますね

見えたものを「あっ電車だ」と思ったら思考?

電車を認識してもスルーしたら思考では無い?

頭の中に電車というワードが浮かんだら思考?

ついでにモノレールを想像した思考?

書き込みながら蘇生さんがこの文を見てる姿を想像したら、これは思考ですね。だれが作ったの?私です。ってこれも思考


ぐるぐるグルグル(*_*)



[567] 雑念の中を掘り進める

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 8日(木)17時16分41秒   通報   返信・引用   編集済

普通の感覚から言えばおそらく

経験があって→思いが形成されて
→今の自分があって→行動に現れる

といったものがあるかと思う。

だから

今の自分が感じている幸せや苦しみに対して
その経験をもたらせた外的要因に原因を求め
その継続や発展、排除や抑制の行動をし
それに対する評価によって幸不幸が増減する。

また、自分に原因を求める場合にも
過去の経験を元にし「次もまた」
あるいは「次こそは」という
憶測による行動へと転化される。

揺れ動き定まらない。
ブレないと決めても
それもまたいつか終わる思い込みである。

このストーリーの中には
少なくとも人間が生まれて死ぬという
事実がある以上、「永遠」は存在しない。

永遠を覚知するにあたっては
「今」しか必要が無い。

何が無駄で余分なものなのかを
観察するので、当然多くの
無駄なものが見えて
それを整理していくのである。

唱題行においてそれが出来ているなら
特殊な条件下ではそれが出来ているので

限定条件を解除して
生活のあらゆる面で役立たせ
四苦八苦を克服して
永遠を感得するという作業になる。

そうすることによって
仏法にもより一層深く通達する。

最初は当然のように

今までそれに無頓着であったがゆえに
不必要なものが散乱しているのである。

今という状態の整理、
思考観察、自己観察を行うのだ。

パンツ丸見え法
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/564
「今ここ円融」
今ではないことは、
もう大宇宙に溶け込んでいてどこにも無いし
その「今」も次の瞬間には今としての実在は無い。

「今不二円満」
しかし「私」は常に「今」と不二であって
世界は「今」で満たされている。

これをすれば
こうなれるんじゃないか?
ああなれるんじゃないか?

そんな期待依存があるかもしれない。

地球ひろしさんによると
https://www.youtube.com/watch?v=Q3jd9t2dORs&feature=youtu.be
思考観察とは起こってくる思考に対して

「思考」←「これは誰が作ったの?」←「私」

という、問いかけて「私」と答えることを
起こる全ての思考に対して行う。

これを徹底してやることが
方法の中の一つであるという。

そうすると、今まで自分だと思っていたものが
「今」に対して、どれだけスカスカで
中身のないものであるかが分かる。

本当に自分が受けることの出来る実在は
「今」しかなく
「今」は常に完全である。

業とは言っても
過去に存在しているのではなく
「今」にあるがままにあるのである。

下記ページより画像を拝借する。
http://www57.atwiki.jp/ip5ee/pages/26.html



もう一枚下記ページより画像を拝借する。
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11963871.html


思考を観察する「私」というものは
思考の外から思考を見ているが
それを確認したら、それも思考になる。

思考する前にすでにあるもの。

刺激を受け取る前にすでに存在しているもの。

何の対象化も起こり得ない
永遠の一つ。

だからそこへたどり着くには
掘り進めて、様々なことが
湧き起こってくる中を
進むのである。

「どうでもいい」のパラドックス。

実が解れば権はどうでもよくなる。

それは両者、自身の中にある。
実は外からのことは関係が無いのだ。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[566] 法と自己機能の偉大さなのです

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 7日(水)11時11分11秒   通報   返信・引用

あまり真に受ける必要もないが
臓器移植によって人格の一部が変わる
という例がある。

特に心臓の移植では
その変化が大きいことがあるようである。
http://matome.naver.jp/odai/2138917667091407001

心臓が自主的に具体的な思考をもって
いるというものではないであろう。

たんたんと繰り返された運動に連動して
しみついた癖なのかもしれない。

何の問題もない時には落ち着いたものであるが
未知の領域、先の読めないスリリングな時には
心臓はバクバクと高鳴る。

脳と心臓とは相互に作用している。

このことに気づかなければ
例えば何かに怒りを覚える時
最初は些細なことだったのに
怒っているという自覚が怒っている体の状態を生み
その体から今怒っている状態であることをさらに自覚し
自身の体が更なる怒りの状態になるといった
スパイラルから抜け出せなくなる。

そういうことを含めた経験は
心臓などの臓器等にも宿習として刻まれていく。

だから、それはあたかも
自身に起こった「快・不快」を覚えていて

認識する自身(脳)にとっては
「これは快だよ」
「これは不快だよ」
とフィードバックして教えてもくれるものとなる。

「胸に手を当てて考える」という言葉が
「正直さ」への促しとなる。

こうした「快・不快」を「覚える」ことの
出来る心臓というものが

だけどそれは主観的には
何のためにそうあると認識するだろう?

何のために脈打っているか?
心臓自身のため?
個別の一体の命のため?
家族や仲間のため?
種全体のため?
地球全体や太陽系全体のため?
大宇宙全体のため?
法のため?
人法一箇のため?
御本尊のため?

心臓自身にとっては
なんのためであるかは
違いなんてないのだ。

ただフィードバックされて
傾向が蓄積されることがあるだけ。

環境が変わっても同じように
ただ脈打つだけ。

だから移植されてもそこでも
同じように脈打つから
その環境に変化をもたらす。

ただそうあるだけ。

パンツ丸見えの境智をやろうとして
雑念が浮かぶのも
良いも悪いもない。

ただそうあるだけ。

長年続けてきた唱題と
昨日今日やってみたパンツ丸見え法では

比べてもなかなか
すぐに上手くいくものではないかもしれない。

でも気づけば
「あれ?これ何だろう?」
というものがそこにある。

共通性の不思議である。

南無妙法蓮華経が解るための生命であり
生命が解るための南無妙法蓮華経である。

心臓はただ正直に
ずっと同じ振る舞いを続けている。

法から起こり現れている
自己機能である。

人間から見れば
そんなことは気の遠くなるようなことで
なかなかに自我を消し徹することは難しい。

実際、ずっとそれだけをやっているわけにも
いかない。

言ってもやってることは「パン・ツー・マル・ミエ」
であり、周りから見れば変な人である。

共通性の不思議
不思議な共通性

あるいは全体性
同時代的現象

心臓関連を検索していると
コヒーレンス法(心臓呼吸)
というものを見つけた。

http://mental-plus.jp/coherence/
↑テキスト部分
http://mental-plus.jp/emwave/wp-content/uploads/2013/02/coherence_guide.pdf
↑図解等の入ったPDF

自己機能の有用性を
確認できる内容ではないかと思う。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[565] 自然の延長に縁して積み上がった、利美善‥‥

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 6日(火)21時57分25秒   通報   返信・引用

パンツー丸見え
いくらやっても邪念が湧くなぁ~(*_*)

お題目中はたまに真っ白になれますよ(^^)



[564] ジタバタしない自己への落ち着け

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 6日(火)11時00分14秒   通報   返信・引用

認識というものは本来
飛来している情報の一部が
ただ浮かび上がり
そして消えていく
ちょうど霧箱のようなもの。

https://www.youtube.com/watch?v=iDqS51cOJK8
(何十種とある放射性の飛来物質の内、数種類の飛跡を
霧箱で見ることが出来る。全種類合わせると何兆倍という
数の粒子が、常に人間の体を通り抜けたりしている)

何が起こり、それを認識することも
一次的には、全てが自然であり
良いも悪いも存在していない。

二次的には、起こったこと、現れたパターンに対して
「好き・嫌い」「気持ちいい・不快」という
単純な反応が起こる。美の価値である。
偶発的であり、儚い価値である。

三次的には、より多く美の価値を得たいと願い
それを実現させていく反応が起こる。
自分を楽しませていくことである。利の価値である。

四次的には、自分が得ることのできた利の価値を
広く他人にも得させていこうという反応が起こる。
善の価値である。

本来、自然の現象からの連続した反応の
上にあるものであれば、良い活性化が
起こっていくはずである。

最小限の自我は、それを方向付け
補う働きもできる。

その自然さが本来は祈りである。

だが肥大化した自我は、自然に先んじて
得たいものを過大に設定し
期待・依存・願望を有し
決めつけ・縛り・消費をする。
自然から切り離された生産と消費は
疲弊し崩壊に向かう。

だが、それが疲弊・崩壊をもたらす
肥大化した自我であることを
その渦中にあるときには気づけない。

だから、自我を抑えた自己機能に立ち返り
その全体を俯瞰する技法・方法の継続的実践が
本来あるべき自然な活性化へと導くのである。

自己機能とはどういうものか?
例えば心臓の鼓動は、4段階の収縮運動を
延々と繰り返している。
http://human-science.seesaa.net/article/10033955.html
呼吸も、人間はある程度
意識的に調整できるとはいっても
吸って吐いてがあるだけである。

人間は本来もっと、自然に対して
非生産的であることを許し受け入れることを
学び習得することが出来る。

瞑想や”気持ちいい”唱題などによってである。

これはだから、全員が聖人君子のようになる
というものではなく、より自然で広がりのある
美利善の価値を活き活きと創造するために
するのである。その自然さの流れを
断絶させないことが広宣流布の
生命感覚から見た本来なのである。

今日は少し変わった方法を考えてみよう。

ちょっとした遊びである。

心臓のように4段階の運動を繰り返す。

何が良いかと考えて思いついたのが
1、「パン」と手を叩く
2、ブイサインをする
3、オッケーサインのように指で丸を作る。
4、「よっ」という感じで指をそろえる。
「パン、ツー、マル、ミエ」である。
が、あんまりにもあんまりなので
「今、ここ、円、融、今、不二、円、満」
とでもフレーズをつけておきます。

最初、笑ってしまいそうだが
どれだけ無心で作業を続けられるか?

レッツトライ!
終了するときには
「なんだ、そんなことか」と
声に出して言って下さい。

初級編、下記動画を見ながら7分弱
https://www.youtube.com/watch?v=D9XnuuJTq54

中級編、下記動画を見ながら2時間
https://www.youtube.com/watch?v=EXQVV2gebDI

上級編、ただどこか一点をぼーっと見ながら
世界がホワイトアウトし認識する自分が消えてなくなるまで。

集中力や、切り替えの能力が
向上するとか、しないとか。
上級編に成功すると
悟りへと近づけるとか??

話半分の話ですよ。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[563] ちょっと頭がぐるぐる

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 5日(月)21時23分48秒   通報   返信・引用

Don’t think. FEEL!!!

素敵な言霊ですね

今日は長めに題目をあげてスッキリ寝ます。
月曜日はなんだかキリッとならないですなぁ



[562] Re: Re.シンプル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 4日(日)23時30分15秒   通報   返信・引用

> > ただ南無妙法蓮華経なのだ
> >
> > でよろしいでしょうか?(^^;)
>
> ん?
>
> 南無妙法蓮華経にとどまってもいけないのかな?(*_*)

清潔な身なり様

その二つは確かに別々の事で
別の行動原理となるものですが

しかも別々ではなく
一貫した一つの行動原理となるものです。

考えて分かる事は、その「考え」であり
留まるべきでない概念にすぎません。

その瞬間には有用であっても
その有用性は永遠たり得ないのです。

古今東西

執着を離れ迷いを離れ生死を離れた
体感覚知し悟った人びとは

あるいは様々な言葉をもって
あるいは様々な比喩を用いて
あるいは様々な現象をさして

その帰し基ずく法を教え導くけれど

常に有用性があるためには
それは常に未曾有である今に対して
未曾有である法を説き続ける事になり
終わる事がなく

教わっているかぎり
求め考える事は終わらない。

自転車に乗れるようになるためには
支えてくれている手を
離してもらう必要があり

鳥が空を飛ぶためには
ただひとえに思い切って
宙へと飛び出すしかない。

どこかに特別な
誰も見た事がない法があるのではなく

ただ勇気をもって思い切るしかない。

それを知っていれば
いつかは探すのをやめるだろう。

悟った人びとがただよく知っているのは
何も特別な事ではなく

このように見える世界であり
このように感じる世界であり
このように起こっている世界なのだ。

別の何かではない。
特別ではなく何も変わることはないのだ。

ただ今執着している事から手を離し
ただある今へと飛び出す事は

自我ではない自身の法を信頼し
今というエネルギーとの自然の冥合を
求めずして得るという事である。

過去でも未来でもない自身の本質を
ただ振るい起こして行けば
必要なものは
それほどには多くないのである。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/


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