いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


772件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[580] 健康と悟り

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月18日(日)10時45分0秒   通報   返信・引用

パンツ丸見え法の
最初の課題設定が
無理難題すぎたかもしれないので

無理なく凡庸的に行える
形にまとめました↓
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/cat_220930.html

非二元に一瞥体験(いちべつたいけん)は
必須というものではなく

起こる時にはふいに起こったりするものだし
それをそれと気づかずに

よく思い出してみると
既に体験していたりします。

心身を健康に活性化して
身体の自律性を優位にしていくと
自然ともたらされる
自然な現象なのです。

これをもたらせるのが良薬であり
不良不全に陥らせるのが毒薬です。

心身が健康に活性化すると
自然に分かってきます。

そういった意味でも「悟り」は
本来自然な生命の気づきであり

「悟り」自体はどれも同じもので
「だからどうする」という部分が
法華経の非二元では違うだけなのだと
思います。

では、どうやったら早く
気づけるでしょうか?

http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/145

私の場合じゅんころさんのブログを読んで
「あっ、あれだ」って思いました。




[579] 熱と力

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月17日(土)02時27分51秒   通報   返信・引用

身なりさん味わってますねー。
私の方が教えられる思いです。

まぁ、もともと
教えるとかではなく
いろんな関係性の中で
歩みを進めているのですが。

アルベア論に
映し映される鏡の関係性
なのだという話がありました。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/707

さて
明日9月18日は雨の文化祭から
50周年です。

http://sokafree.exblog.jp/24466799/
>名字の言は次のように結んでいた。
>「団結は号令で生まれるものではない。一人一人の自発の思い、決意、誓い」
>「そこに創価学会の強さがある」

常勝関西は池田先生の手作りである。
と同時に、関西が池田先生を育てた
という側面もあるのかもしれない。

関西の文化には
体感を共有しようという気風が
もともとあると思う。

いや、世界から見れば
日本自体がそういう方向性を
もっていると思う。

悪く働けば、個が埋没して
長いものに巻かれる風習となる
ので、一概に
だから優れているとは言えないものであるが。

それはオノマトペの豊富さに見て取れる。

https://www.youtube.com/watch?v=OEw81JgdN_A
Japanese Onomatopoeia! 日本語のオノマトペすごい!

英語圏の人もビックリ!

世界の中には基本的にオノマトペが無い文化もあり
漫画を輸出する際、書き文字をどうするか
困ったりするという話も聞いたことがある。

で、関西であるが
オノマトペの使い方が突出している。

https://www.youtube.com/watch?v=YhMnagwILgY
キュッと曲がるってどれぐらい?

https://www.youtube.com/watch?v=rGtnAp8KZ_8
ウルフルズ - 大阪ストラット

なんというかもう
何も伝わらないけど
何か伝わる感じ。

こんな関西で
シュッとした話だけしても
拡大の勢いなんて生まれるはずもない。

だけどすごいもん見せられて
一度火が付いたら
ぶわーっと広がるのだと思う。

理屈じゃないのよ体感は。

全体性に連動するってことは
つまり一体感ですよね。

生命の充実の一体感を
歓喜と感動の波動の渦を

暗雲を払いのけて
一人一人が自得し
広げていきましょう。



[578] 豚カツが喉元を降りていきました(~o~)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月16日(金)17時42分1秒   通報   返信・引用

昼ご飯、
豚カツのチーズ焼き(高カロリー)

喉元を降りていく感覚、自己機能に問いかけました。
これが俗に言う「旨い」という感覚かな?

いやいや、さっき口の中であむあむ噛んでいた時も何やら舌の上でビンビン感じていたあれも「旨い」かな?

そうこうしてると鼻からチーズの香ばしい香りが抜けていきました。

全部合わせで「旨い」なんでしょうね(^^)

な~んて言う思考は誰が作った?私です。

こんな感じかな?



[577] 自己機能の体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月16日(金)03時30分27秒   通報   返信・引用

身なりさん、それはとてもナイスです。
(そろそろ「さん」付けでいきます)
アルベア論によると
排泄の体感はまさに自己機能です。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/16

パンツ丸見え法には
用を足しながら
(男性の小は危険)
でも出来るというメリットがあったのですね。

一つ言っておくと
非二元をマスターしても
怒りなどの負の感情が
「起こらなくなる」わけではなく

それが自我であることに
気づいていられるから
引きずられないということです。

その意識の使い方が
出来てきているようです。

そして自己機能が活性化すると
直感力が高まります。

普通はなかなかトイレの中でまで
やってみようという発想は出ない
と思うのですが

自己機能が活性化していると
そういうことを閃いて
やってみようとなるわけです。

自我の論理的思考からしてみると
「ただの思いつき」
「わりと適当」
「ともすればデタラメ」
と切り捨てたくなるような事が

むしろ難しく考えるより
理想的な結果をもたらし

こうした体感からの波動が
全体性の中で連動することを
発見していきます。

習うことの出来る文章化された
仏法等というのは

思考上の完全無欠の普遍の論理があって
それにしたがっているのではなく

無や空から体感された真実の法にしたがって
後追いで言語化されているということです。

アカデミックな知識は補助であり
その場その場の体感が実質です。

フリースタイルの体感による対応も
悪用したり悪ふざけになってしまえば
結局それも自分に還ってきてしまいますが

人の痛みも分かる自己機能が活性化していれば
わりと適当なただの思いつきでも
法のため人のためという一途な思いがあるなら
思い切ってやってみれば
思いもしないほど上手くはまったりします。

このことと「やり尽くし」が重なると
「どうでもよく」なります。

自己機能によって技が磨かれたことにより
適当に楽しんでいた方が
なるようになるし

そうしてできた余裕も
自身の在り方を懺悔し
法のため人のために向けることができます。

一番苦労した人が
一番幸せになるという反転なのです。

そしてこれは
生真面目に直訳するよりも
ゆとりをもって意訳する方が
素晴らしい作品になるような

そういう歓喜の軌道になります。

鳩摩羅什訳の法華経も意訳です。

これは生命感覚での肉薄なのです。
シンプルな法の体感なのです。

続ければ楽しくなるのです。
成仏はたもつにありなのです。

私の聞いた話によると
「信心したらスーパーサイヤ人になれるんや」
と言ってたくさん折伏した人がいるそうです。

その人は教学力も高い人ですが
そういう教学的には無茶苦茶ともいえることが
人間味として想いを伝え
波動を起こしたりもするということです。

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

この図から何種類かの
サイクルパターンが発見できます。

どのサイクルに焦点を当てても
他のサイクルが消えて無くなることはなく

想いで留めて行動しなかったり
現実を無視して行動しても
結局はその業は自分に還ってきます。

この全体に対する意識の使い方が
生命感覚であり一念三千なのです。

いろんなぐるぐるを試して
区別していって下さい。

気づいたことを文章化してメモしたり
人に伝えていったりすると
また一段違ってきます。



[576] ぬぁゎんだか難しい(~o~)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月15日(木)14時03分50秒   通報   返信・引用

トイレのなかでパンツーマルミエは無心に近づく気がします

子どもたちを叱る寸前「誰がこの怒りを作ったの、私です」てな感じで、少し冷静になってる今日この頃です。頭の中が「私です」だらけになってるのですが、
大丈夫かなぁ~?

ぐるぐるぐるぐるポンっと煙が出たりしないか心配です。(*_*)



[575] 三世間と唯識論

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月15日(木)10時43分3秒   通報   返信・引用   編集済

まずは唯心論と唯識論を区別して
実感することが
仏法を行じる基本になる。

ここで言う仏法はしかも
仏教の信仰とは関係がない。

古くは生命の真実に通じるような
教養を高めたりする方法が
必然的に仏法しかなかったのであり

今は巡り巡って
混ざりあって
仏教を信仰しているから得られる
仏教を信仰していないから得られない

もともとそんなものではないのに
分けたがる。

外に求めてしまうから
そうなるのだ。

唯物論でいくと
これはよく観察すると
人間はたえず変化する
物質世界に対して
後追いしか出来ない。
物質として存在するのは
起こった後である。
これは「私」ではない。

唯心論もまた
よくよく観察すると
唯物論と同じようなことが言える。

ここで気づくべきは
変化する心を観察する
変化しない何かがあるということ。

唯識論とは
あらゆる変化が起こる前の
何も始まらず何も終わらない
永遠への気づきである。

「気づき」は心の変化である。
唯識は気づいても気づかなくても
変化はない。
変化のある世界にいるから
変化しないものを変化しないと
「気づく」という変化を起こせるのである。

三世間を確認しよう。
http://www.ekoko.jp/koz_essay5/essay046.html

初めは、とても簡単な単純な区分けのように聞こえる。
だから簡単に済ませてしまいがちだ。
だけどこれはとても深い一念三千の最後の部分である。

般若心経や禅や中古天台に
あるいはスピリチュアルや非二元に
強い反発心をもって
五重三段に見られるような
http://tidouji.la.coocan.jp/hihan/gojyusanndan.htm
序分・流通分の意義を見出せないのは
ここのところが解っていないのである。

五陰世間

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

識と色に矢印が付かない。
我々は世界そのものを見ているのではなく
見えるように見ているのである。

それに振り回されれば分離分断である。
六道の世界である。
正しい見方を習い
想と行をコントロールしていくのが
これは広く仏法なのである。
こういった違いが現れるのが
衆生世間である。

上の五陰世間の図で、想を消しても
サイクルが成り立つのが
分かるだろうか?

有情にも非情にも
同じように
世界を観じているのである。

植物が太陽の光を感じ
雨の潤いを受け取って
成長するのはもちろんのこと

我々の体で言っても
寝ているときにも熱ければ汗をかくし
意識しなくても心臓はずっと
脈打っている。

死んでしまえば常温で腐っていく
というのも、ここにおいては
全く別の現象ではない。

これは国土世間である。

九識心王真如の都においては
何も始まらず何も終わらない

寿量品の「久遠の仏」とは、
この無始無終の根本浄識である。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8206

頭で解っても仕方がない。

私の言っていることは
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/567
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/569
↑こういった実践によって
自得するものである。

まず永遠普遍の根本浄識があって
変化の世界が見えるように見えて現れる。
それに対して想いが巡る。
そのことが行いを起こす。
その業が姿を現し形を成している。
見える世界はこれであるから
相互に業が巡って世界が変化する。
根本浄識は変化しない永遠である。
変化しないから見えず
思考できず気づきにくい。
想を客観視すると
気づき始める。



[574] どうでもよくなってからが本門

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月13日(火)09時18分24秒   通報   返信・引用

なんだか思っていたのと
随分と違う。

でも必然的に
思っていた「思考」が
どうでもいいことだったことに
気づかないと本門に移行しない。

迹門で二乗は
ずっと探していたけど
もう得られないものだと思っていたけど

なんだ、こんなところにあったんですね
なんだ、こんなシンプルなことだったんですね

ということに気づいていく。
探求が終わっていく。

ずっと「今ここ」だけだったのに

無いと思って、間違った思考に囚われて
自分探しの旅をしていたんですね。

ああ、探さなくても今ここにあったんですね。

思考というどうでもいいものに
そそのかされていただけなんですね。

と了解する。

佐渡での日蓮大聖人は
「難」と「安穏」のパラドックスを
考えて気づく。

安穏?諸天の加護?
一体私は何に期待依存しているんだ。
外に求めたってあるはずもない。
全部今ここのことじゃないか。

私は私の「考え」を
どうにか分からせようと今までやってきたけど
そんなことはどうでもよかったんだ。

今ここに住するだけでいい。
そこから自然に涌いてくるのだ。

これが地涌の菩薩。
私は今、久遠教主釈尊に出会っている。

思考に囚われた凡夫の日蓮の肉体は
竜の口で死んだのだ。

もう始めから
否、始まりも終わりもなく
不壊の生命なのだ。

ならばどうぞ天も捨てなさい
諸難にも遭いましょう
身命を差し上げます。

浮かんでは消えていく思考はもう
どうでもいいのだ。

そんな風に目覚めた。

そうして書き始めた御本尊に対して
思考で解釈して
何かの思惑のための道具にするなど
何になろう。

生命の肉薄のものである。

私自身、一定の答を
外に求めていたのだろう。

私はとても知りたがっていた。

8月の末、関西ミニオフ会を行った。

私は私の知りたがっていたことを
知ることが出来た。

結果として私は
どうでもいいです。
お任せします。

となった。
スタンスが変化した。
自然体になった。

人間の思考上には囚われがある。
宗教の枠も人間の思考上にしかない。

生命それ自体には何の境もなく
無限である。

どうでもよくなると
歓喜がどんどんわいてくる。

「流人なれども喜悦はかりなし」である。

これは全く思い込みではなく
本当のことなのだ。



[573] 正当化と思い込み

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月11日(日)08時48分8秒   通報   返信・引用   編集済

「間違ってはいけない」という考えは
小さい。

「何が間違っているのか知りたい」
と願いながら
「間違いを指摘されること」
を恐れる。

「間違っていない」と認めてもらうために
縄張りを作り偉くなる努力をする。

集団の価値観に強く傾倒し
その線の外か内かで正義か悪かを判断する。

多くの矛盾を無視して
良心が麻痺していく。

「間違いのない人間」になりたかったのに
「とても間違った人間」になっていく矛盾。

今までの努力に執着し
いまさらやめられないことが
苛立ちを生む。

酒、金、女にでも走らなければ
やってられない。

「私たちは素晴らしい」
「貴方たちは素晴らしい」
という仮面をかぶりながら

そのギャップを埋めるために
奔走することが

本人たちは正義のためと思っているのに
結果を見れば悪の限りを尽くしている。

一番大切なものを護るためだと
正当化し思い込む。

だけど一番大切なものは
全くそこには無いのだ。

意地汚い執着があるだけ。

そんなものを守って
どうして幸せになり
どうやって平和を築くと言うのだろう?

そんな枠を存続させることに
どれだけの価値があるのだろう?

そんな間違った正義か悪かの線引きに
どれだけの犠牲を払うというのだろう?

やめられることはやめれば良いのだ。
手放さなければならない。

本当にやめてはいけないことは
より大きな枠での相互理解と
より無条件での絶対的幸福だ。

考えてもみるのだ

「貴方はここが悪いから今すぐ直しなさい」
と言われるよりも

「貴方のその欠点、
なんかちょっと素敵ですね」って言われる方が

心が広くなるんじゃないか?

無限という
南無妙法蓮華経という
スケールから見れば

その完全さを信頼するならば

失敗作なんて何一つ
生み出されてはいないのだ。

そのままで常に完全である。

完全に信頼し委ねれば良い。

そうすれば完全な事しか起きていない。

法華経は二処三会である。
http://d.hatena.ne.jp/kon890/20100208/p1

思考することは出来ないけど
確かにある無限が
常に今ここにあることを感じながら

その温かさを語り広げていく。

それ自体が生命である。

勇気と希望の灯をともすことである。

それしか生命尊厳の世界を開く
方法は存在していないのである。



[572] 大自然

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月10日(土)09時48分34秒   通報   返信・引用   編集済

地球上の営み

http://www.hulu.jp/planet-earth
プラネットアース 他

たまにはこういうのを
あらためて感じてみるのも一つ。

別に見なければいけないという
ものではないし

登録という手間をかけてまでの
ことではない。

そういう雰囲気がそこにある
というだけ。



[571] 巡り回り、世界はある

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月10日(土)09時40分10秒   通報   返信・引用   編集済

一周回ってぐるぐる
スッキリ

それに気づけば
あとはかってに変わっていく。

感じ方が変わるから
判断基準が変わって
行動が変わり
自然と上手くいく。

自然になる。

本人の自覚として
気づいていることに気づいていなくても
「あれ??」ということに出会い
そして変化が起こる。

それは勇気かもしれないし
それは反省かもしれないし
こだわりを捨てることかもしれないし
感謝することかもしれない。

特別何かしようとする必要はないし
今まで出来なかったことが出来て
解決していなかったことが解決する。

やりたいことをやればよい。

自然な感謝と歓喜が世界を変えていく。

世界の意味が
人生の意味が
解っていく。

解放されていく。

たった一つの無限の慈悲へと
向かっていく。

つまり、それが答だ。

https://www.youtube.com/watch?v=Z28KuShADpw
ウルフルズ - それが答えだ!

https://www.youtube.com/watch?v=C-vFQW2KCU8
ウルフルズ - かわいいひと



[570] 一周回ってぐ-るぐる

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 9日(金)16時58分25秒   通報   返信・引用

換気扇の音がしました。

気づかなくても音はしていたはずだけど、気付いて初めて「換気扇の音だ」と思考した。

別の場所に居たとしても、この換気扇は回っていて音がしてたはず

思考してもしなくてもあったのかな?

自分の後ろになにもない保証はどこにも無い(*_*)
振り返ればいつもの風景が広がるけど、正面向いてるときは後ろのことはわからないしなぁ

なんて思考も私が作ったぐ~るぐる

と最後はお題目に向うように出来てるので面白い
題目上げてスッキリ寝れる
これだけでたぶん幸せランキングの方だと思います(^^)
ランキングなんてのがナンセンスですね(*_*)



[569] ぐーるぐーる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 9日(金)01時37分30秒   通報   返信・引用   編集済

見えたものを「あっ電車だ」と思ったら
自分とは別の存在として
電車を世界から分離して見ていて

思考の上で各別の世界を作っています。

それは自分の手を見て
「私の手だ」と思うことも
世界から分離した自分を作っています。

だからもう、ただ「無」を除く
あらゆる全てが思考。

つまり

ここまでくればもう
思考がわく自体には良いも悪いもないけど

思考にすぎないものを思考だと気づかずに
それを自分だと思うから振り回される
というだけの話で

思考を思考だと気づいていれば
思考することに何ら問題はない。

むしろ思考を楽しめば良い。

でも平らかに眺めて楽しめない時がある。

ネガティブな感情に支配されたとき
あるいは偶発的な幸運に舞い上がり
正常な判断を失ってイケイケになるとき等

どうしようもなく思考に支配されてしまう。

「心の師となるとも心を師とせざれ」である。

思考に支配されることがいけないのだ。

仏法に七慢というものがある。
http://tobifudo.jp/newmon/etc/gaman.html
我々学会員が真っ先に思いつくのは
増上慢ではないかと思う。

悟っていないのに悟った
得ていないのに得たと思い
おごり高ぶる。

そもそも「悟り」とは
思考を中心とした自分では得ることはなく
「悟りを得た」という思考は
すべからく増上慢である。

「悟り」とは得るべき自分というものが
そもそも思考上の幻想であるというのが
それであり、自己はそれにしたがって
起こっている荒凡夫であるということである。

一般の人が慢で思いつくのは我慢であろう。

我慢は一般的に、自分を押さえて耐える、
という意味で使われますが、本来は自分を
偉いと思い、他人を軽んじることです。
仏教では、自分に執着することから、自分
を高く見て他人を軽視する心が生まれる

これを考えるに
(誰が作ってるの?私)
私的な思考にすぎないことを
そうだと気づけずに
個性であり、これが自分だと
思い込んでこだわること全て
仏法上の我慢である。

七慢の中で「慢」は
自分と同等の人を
自分と同等だと思う
一見間違っていないようなことさえも
思考で作り上げた慢心なのである。

仏法を行じる上では、ただ純真に
不軽菩薩のような全てを敬う姿勢が一つの理想である。

この姿勢において実際に起こる難に対して
折伏をすればよい。
(誰が作ったの?私)

この辺りはパラドックスがあり
開目抄に見られる「難」と「安穏」の
パラドックスにも関連し
ゆえに発迹顕本にも絡むところである。

創価学会において三代にわたる会長は
確かに法眼・仏眼に通じていると思われる。

しかし、それ以外にははたして
思考を思考と見破って化導した人間が
いるかどうか?

いないのである。
三代までが特別と池田先生自身が言われる
ゆえんである。

だが、池田先生は一面には
この自我にまみれた創価学会に対して
生命感覚から透徹された、自我をまとめあげる
さらなる強い「自我」によって
まみれている自我をも利用して
創価学会の基盤を拡大した側面もある。

だからそこからもう一度
各人が生命感覚を自得
つまり自己機能を観察し尽くすことが
発迹顕本には求められる。

さて、理想を述べ綺麗ごとを言っても
先に言ったどうしようもない感情というのは
そのままでは本当にどうしようもない。

地球ひろしさんによれば
https://www.youtube.com/watch?v=NPhaouSFNVQ&feature=youtu.be
感情開放というものが必要である。

感情に振り回された後
落ち着いてから思考観察する。

その感情は誰が作ったのか?
それは自分。

なぜその感情を作ったのか?
○○があったから。

なぜ○○だったらその感情を作るのか?
何に関連してどんな思考プログラムの
癖があるのか?

(思考プログラムの関連の思い込み
の起こる仕組みの理解の補助に
〔サイエンスZERO〕
人工知能の大革命!ディープラーニング
https://www.youtube.com/watch?v=6NGxs9juPTg

最初の幼少の頃の記憶など最初の原因
解消されないで溜まっている感情の場所
を見つけて、そうして

聖人君子になる必要はなく
他人に迷惑をかけない方法によって
(イメージの中で相手をボコり尽くす
サンドバック代わりのものに当たり尽くす等)
解消し尽くすことによって
どうしようもならなかった部分が解消される。

この話の流れで
このようにして
「悟らなきゃいけないんだ」と
思ってはいけない。

ただ、日々が気持ちよくなる方法の
その中の一つと思ってもらえばよく
別に、これを選択する必要もない。

地球ひろしさんの話は
セミナーなので導こうという
思惑過多の部分もあるかもしれない。

自己機能のあるがままのあり方は
マハラジの問答の方が自然だが
自然ゆえに延々とした問答である。
https://www.youtube.com/watch?v=1KOIVpnRztw&list=PLIl5bJE_nmepO6gd80aVhu-s0Mi3Yh69N&index=1

池田先生への不二への道は
自然で温和な自己機能に終わらず
自我機能をもう一度両立させ
最高の状態で使いこなし
池田先生の理想を実現させる道も
想定される。
(誰が作ったの?私)

どこまでいっても
求める限りはグルグルする。

だが、解決したことに対してではなく
新しい挑戦に対してである。

グルグルを楽しめば良いのである。

普通の非二元ならいざしらず
法華経の非二元は
これこそ、世界の平和と
一切衆生の幸福を実現させるのである。

一朝一夕の思考での理解の話とは
まったく次元が違うのである。



[568] 簡単ではない

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 8日(木)20時28分29秒   通報   返信・引用

どこからが思考なのかも曖昧になりますね

見えたものを「あっ電車だ」と思ったら思考?

電車を認識してもスルーしたら思考では無い?

頭の中に電車というワードが浮かんだら思考?

ついでにモノレールを想像した思考?

書き込みながら蘇生さんがこの文を見てる姿を想像したら、これは思考ですね。だれが作ったの?私です。ってこれも思考


ぐるぐるグルグル(*_*)



[567] 雑念の中を掘り進める

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 8日(木)17時16分41秒   通報   返信・引用   編集済

普通の感覚から言えばおそらく

経験があって→思いが形成されて
→今の自分があって→行動に現れる

といったものがあるかと思う。

だから

今の自分が感じている幸せや苦しみに対して
その経験をもたらせた外的要因に原因を求め
その継続や発展、排除や抑制の行動をし
それに対する評価によって幸不幸が増減する。

また、自分に原因を求める場合にも
過去の経験を元にし「次もまた」
あるいは「次こそは」という
憶測による行動へと転化される。

揺れ動き定まらない。
ブレないと決めても
それもまたいつか終わる思い込みである。

このストーリーの中には
少なくとも人間が生まれて死ぬという
事実がある以上、「永遠」は存在しない。

永遠を覚知するにあたっては
「今」しか必要が無い。

何が無駄で余分なものなのかを
観察するので、当然多くの
無駄なものが見えて
それを整理していくのである。

唱題行においてそれが出来ているなら
特殊な条件下ではそれが出来ているので

限定条件を解除して
生活のあらゆる面で役立たせ
四苦八苦を克服して
永遠を感得するという作業になる。

そうすることによって
仏法にもより一層深く通達する。

最初は当然のように

今までそれに無頓着であったがゆえに
不必要なものが散乱しているのである。

今という状態の整理、
思考観察、自己観察を行うのだ。

パンツ丸見え法
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/564
「今ここ円融」
今ではないことは、
もう大宇宙に溶け込んでいてどこにも無いし
その「今」も次の瞬間には今としての実在は無い。

「今不二円満」
しかし「私」は常に「今」と不二であって
世界は「今」で満たされている。

これをすれば
こうなれるんじゃないか?
ああなれるんじゃないか?

そんな期待依存があるかもしれない。

地球ひろしさんによると
https://www.youtube.com/watch?v=Q3jd9t2dORs&feature=youtu.be
思考観察とは起こってくる思考に対して

「思考」←「これは誰が作ったの?」←「私」

という、問いかけて「私」と答えることを
起こる全ての思考に対して行う。

これを徹底してやることが
方法の中の一つであるという。

そうすると、今まで自分だと思っていたものが
「今」に対して、どれだけスカスカで
中身のないものであるかが分かる。

本当に自分が受けることの出来る実在は
「今」しかなく
「今」は常に完全である。

業とは言っても
過去に存在しているのではなく
「今」にあるがままにあるのである。

下記ページより画像を拝借する。
http://www57.atwiki.jp/ip5ee/pages/26.html



もう一枚下記ページより画像を拝借する。
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11963871.html


思考を観察する「私」というものは
思考の外から思考を見ているが
それを確認したら、それも思考になる。

思考する前にすでにあるもの。

刺激を受け取る前にすでに存在しているもの。

何の対象化も起こり得ない
永遠の一つ。

だからそこへたどり着くには
掘り進めて、様々なことが
湧き起こってくる中を
進むのである。

「どうでもいい」のパラドックス。

実が解れば権はどうでもよくなる。

それは両者、自身の中にある。
実は外からのことは関係が無いのだ。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[566] 法と自己機能の偉大さなのです

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 7日(水)11時11分11秒   通報   返信・引用

あまり真に受ける必要もないが
臓器移植によって人格の一部が変わる
という例がある。

特に心臓の移植では
その変化が大きいことがあるようである。
http://matome.naver.jp/odai/2138917667091407001

心臓が自主的に具体的な思考をもって
いるというものではないであろう。

たんたんと繰り返された運動に連動して
しみついた癖なのかもしれない。

何の問題もない時には落ち着いたものであるが
未知の領域、先の読めないスリリングな時には
心臓はバクバクと高鳴る。

脳と心臓とは相互に作用している。

このことに気づかなければ
例えば何かに怒りを覚える時
最初は些細なことだったのに
怒っているという自覚が怒っている体の状態を生み
その体から今怒っている状態であることをさらに自覚し
自身の体が更なる怒りの状態になるといった
スパイラルから抜け出せなくなる。

そういうことを含めた経験は
心臓などの臓器等にも宿習として刻まれていく。

だから、それはあたかも
自身に起こった「快・不快」を覚えていて

認識する自身(脳)にとっては
「これは快だよ」
「これは不快だよ」
とフィードバックして教えてもくれるものとなる。

「胸に手を当てて考える」という言葉が
「正直さ」への促しとなる。

こうした「快・不快」を「覚える」ことの
出来る心臓というものが

だけどそれは主観的には
何のためにそうあると認識するだろう?

何のために脈打っているか?
心臓自身のため?
個別の一体の命のため?
家族や仲間のため?
種全体のため?
地球全体や太陽系全体のため?
大宇宙全体のため?
法のため?
人法一箇のため?
御本尊のため?

心臓自身にとっては
なんのためであるかは
違いなんてないのだ。

ただフィードバックされて
傾向が蓄積されることがあるだけ。

環境が変わっても同じように
ただ脈打つだけ。

だから移植されてもそこでも
同じように脈打つから
その環境に変化をもたらす。

ただそうあるだけ。

パンツ丸見えの境智をやろうとして
雑念が浮かぶのも
良いも悪いもない。

ただそうあるだけ。

長年続けてきた唱題と
昨日今日やってみたパンツ丸見え法では

比べてもなかなか
すぐに上手くいくものではないかもしれない。

でも気づけば
「あれ?これ何だろう?」
というものがそこにある。

共通性の不思議である。

南無妙法蓮華経が解るための生命であり
生命が解るための南無妙法蓮華経である。

心臓はただ正直に
ずっと同じ振る舞いを続けている。

法から起こり現れている
自己機能である。

人間から見れば
そんなことは気の遠くなるようなことで
なかなかに自我を消し徹することは難しい。

実際、ずっとそれだけをやっているわけにも
いかない。

言ってもやってることは「パン・ツー・マル・ミエ」
であり、周りから見れば変な人である。

共通性の不思議
不思議な共通性

あるいは全体性
同時代的現象

心臓関連を検索していると
コヒーレンス法(心臓呼吸)
というものを見つけた。

http://mental-plus.jp/coherence/
↑テキスト部分
http://mental-plus.jp/emwave/wp-content/uploads/2013/02/coherence_guide.pdf
↑図解等の入ったPDF

自己機能の有用性を
確認できる内容ではないかと思う。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[565] 自然の延長に縁して積み上がった、利美善‥‥

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 6日(火)21時57分25秒   通報   返信・引用

パンツー丸見え
いくらやっても邪念が湧くなぁ~(*_*)

お題目中はたまに真っ白になれますよ(^^)



[564] ジタバタしない自己への落ち着け

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 6日(火)11時00分14秒   通報   返信・引用

認識というものは本来
飛来している情報の一部が
ただ浮かび上がり
そして消えていく
ちょうど霧箱のようなもの。

https://www.youtube.com/watch?v=iDqS51cOJK8
(何十種とある放射性の飛来物質の内、数種類の飛跡を
霧箱で見ることが出来る。全種類合わせると何兆倍という
数の粒子が、常に人間の体を通り抜けたりしている)

何が起こり、それを認識することも
一次的には、全てが自然であり
良いも悪いも存在していない。

二次的には、起こったこと、現れたパターンに対して
「好き・嫌い」「気持ちいい・不快」という
単純な反応が起こる。美の価値である。
偶発的であり、儚い価値である。

三次的には、より多く美の価値を得たいと願い
それを実現させていく反応が起こる。
自分を楽しませていくことである。利の価値である。

四次的には、自分が得ることのできた利の価値を
広く他人にも得させていこうという反応が起こる。
善の価値である。

本来、自然の現象からの連続した反応の
上にあるものであれば、良い活性化が
起こっていくはずである。

最小限の自我は、それを方向付け
補う働きもできる。

その自然さが本来は祈りである。

だが肥大化した自我は、自然に先んじて
得たいものを過大に設定し
期待・依存・願望を有し
決めつけ・縛り・消費をする。
自然から切り離された生産と消費は
疲弊し崩壊に向かう。

だが、それが疲弊・崩壊をもたらす
肥大化した自我であることを
その渦中にあるときには気づけない。

だから、自我を抑えた自己機能に立ち返り
その全体を俯瞰する技法・方法の継続的実践が
本来あるべき自然な活性化へと導くのである。

自己機能とはどういうものか?
例えば心臓の鼓動は、4段階の収縮運動を
延々と繰り返している。
http://human-science.seesaa.net/article/10033955.html
呼吸も、人間はある程度
意識的に調整できるとはいっても
吸って吐いてがあるだけである。

人間は本来もっと、自然に対して
非生産的であることを許し受け入れることを
学び習得することが出来る。

瞑想や”気持ちいい”唱題などによってである。

これはだから、全員が聖人君子のようになる
というものではなく、より自然で広がりのある
美利善の価値を活き活きと創造するために
するのである。その自然さの流れを
断絶させないことが広宣流布の
生命感覚から見た本来なのである。

今日は少し変わった方法を考えてみよう。

ちょっとした遊びである。

心臓のように4段階の運動を繰り返す。

何が良いかと考えて思いついたのが
1、「パン」と手を叩く
2、ブイサインをする
3、オッケーサインのように指で丸を作る。
4、「よっ」という感じで指をそろえる。
「パン、ツー、マル、ミエ」である。
が、あんまりにもあんまりなので
「今、ここ、円、融、今、不二、円、満」
とでもフレーズをつけておきます。

最初、笑ってしまいそうだが
どれだけ無心で作業を続けられるか?

レッツトライ!
終了するときには
「なんだ、そんなことか」と
声に出して言って下さい。

初級編、下記動画を見ながら7分弱
https://www.youtube.com/watch?v=D9XnuuJTq54

中級編、下記動画を見ながら2時間
https://www.youtube.com/watch?v=EXQVV2gebDI

上級編、ただどこか一点をぼーっと見ながら
世界がホワイトアウトし認識する自分が消えてなくなるまで。

集中力や、切り替えの能力が
向上するとか、しないとか。
上級編に成功すると
悟りへと近づけるとか??

話半分の話ですよ。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[563] ちょっと頭がぐるぐる

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 5日(月)21時23分48秒   通報   返信・引用

Don’t think. FEEL!!!

素敵な言霊ですね

今日は長めに題目をあげてスッキリ寝ます。
月曜日はなんだかキリッとならないですなぁ



[562] Re: Re.シンプル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 4日(日)23時30分15秒   通報   返信・引用

> > ただ南無妙法蓮華経なのだ
> >
> > でよろしいでしょうか?(^^;)
>
> ん?
>
> 南無妙法蓮華経にとどまってもいけないのかな?(*_*)

清潔な身なり様

その二つは確かに別々の事で
別の行動原理となるものですが

しかも別々ではなく
一貫した一つの行動原理となるものです。

考えて分かる事は、その「考え」であり
留まるべきでない概念にすぎません。

その瞬間には有用であっても
その有用性は永遠たり得ないのです。

古今東西

執着を離れ迷いを離れ生死を離れた
体感覚知し悟った人びとは

あるいは様々な言葉をもって
あるいは様々な比喩を用いて
あるいは様々な現象をさして

その帰し基ずく法を教え導くけれど

常に有用性があるためには
それは常に未曾有である今に対して
未曾有である法を説き続ける事になり
終わる事がなく

教わっているかぎり
求め考える事は終わらない。

自転車に乗れるようになるためには
支えてくれている手を
離してもらう必要があり

鳥が空を飛ぶためには
ただひとえに思い切って
宙へと飛び出すしかない。

どこかに特別な
誰も見た事がない法があるのではなく

ただ勇気をもって思い切るしかない。

それを知っていれば
いつかは探すのをやめるだろう。

悟った人びとがただよく知っているのは
何も特別な事ではなく

このように見える世界であり
このように感じる世界であり
このように起こっている世界なのだ。

別の何かではない。
特別ではなく何も変わることはないのだ。

ただ今執着している事から手を離し
ただある今へと飛び出す事は

自我ではない自身の法を信頼し
今というエネルギーとの自然の冥合を
求めずして得るという事である。

過去でも未来でもない自身の本質を
ただ振るい起こして行けば
必要なものは
それほどには多くないのである。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[561] Re: Re.シンプル

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 4日(日)16時13分35秒   通報   返信・引用

> ただ南無妙法蓮華経なのだ
>
> でよろしいでしょうか?(^^;)

ん?

南無妙法蓮華経にとどまってもいけないのかな?(*_*)



[560] Re.シンプル

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 9月 4日(日)13時55分9秒   通報   返信・引用

ただ南無妙法蓮華経なのだ

でよろしいでしょうか?(^^;)



[559] シンプル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 9月 4日(日)10時44分28秒   通報   返信・引用

全ては不思議なるもの

人間が決めつけることはできない

どう表現したって

その文章の意味に留まれば
無限ではなくなる

ただ見ることが出来るだけ
ただ感じることが出来るだけ

貴方が何かを積み上げようとする限り
それは崩れ去る運命にしかない

何を手放さなければならなくなっても

真実は真実としてあり続ける

本質は何も変わらない

いや、むしろ
その本質は愛で満たされているのだ

自分の力で
何かを積み上げていると思っているなら
何かを得ることが出来ると思っているなら

それが慢心だと
本質の愛は教えてくれるだろう

世の中には
正しいものと正しくないものがあって
正しいものだけを選べば良いと思っているなら

それは小さな考えだと
本質の愛は教えてくれるだろう

自分は誰からも愛されない
孤独で罪深い人間だと思っているならば

それは今、愛と一体であることを忘れているだけだと
本質の愛は教えてくれるだろう

とてもシンプルな本質に気づくだけで
私たちは誰も傷付けることなく
誰からも奪うことなく

だけど悠々と
言うべきことを言いきって
強く生きていくことが出来る

本質の愛はいつも今だけにあって
それは無限なのだ

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/



[558] 蘇生さん

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月31日(水)20時21分31秒   通報   返信・引用

良い感じの投稿ですね

秋の夜長にかみしめています(^^)



[557] 自分ひとりで生きている人間はいない

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月31日(水)02時14分34秒   通報   返信・引用

言語で思考する。
この言語ひとつひとつ
誰かが作ったもので
誰かから学んだもの。

この肉体だって
誰かが育てたものを食べ
とってきたものを食べ
誰かが作ってくれたものを
食べてきて、今ある。

服の着方、服の選び方
歯を磨き爪を切り髪を切り風呂に入ること

箸の持ち方ペンの持ち方

朝晩勤行すること

何にどういう風に祈るのか。

そこに使われるものも
誰かが考え誰かが作り
それを使うことを許される。

私たちは生かされているのだ。

一人で生きてはいない。

いろんな人と出会って
いろんな面が見える。

自分一人では自分が分からない。

特定の人とだけでは
その側面しか分からない。

長所も慢心すれば短所に代わり
短所も同苦や克服によって長所にもなる。

同じ痛みがそこにあり
同じ喜びがそこにある。

私は私の「考え」が通ることを
絶対としない。

それは違いがあって相対的だ。

「考え」の統一化は
人を従属させる。

本当に共有できるものは本当は
すでに全て共有しつくしていて
全部ここにある。

努力して思い出し
気づくのだ。

私はみんなが思い出し
みんなが納得して
みんなに幸せが広がるのであれば
「私の考え」が通る必要は無い。

絶えず世界は変化していて
特に今は、その度合いが大きい傾向にあるので
明日何に出会ってどう動くのかも
その時次第ではあるが

しばししばらく
時の音を聞き
風の香を嗅ぐ。

彼此の間に我が音声の止むことは無し。



[556] 身なりさん、どうもです

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 8月30日(火)09時54分18秒   通報   返信・引用

どのようなきっかけがあったのか解りませんが、
ある意味すごい度胸だと思います。
私には決してできないことです。

子供の頃からそのように刷り込まれているのでしょう。
大御本尊への拘りも、もしかしたら刷り込みの賜なのかもしれません。
自身の思考の枠から抜け出すのは容易ではありません。
自由な思考などこの世に存在しないのかもしれません。

だからこそのお題目だと考えています。
久遠元初自受用身のお智慧をいただくのです。
誤った道であれば正されるでしょう。
間違いを云えば罰をいただくでしょう。

この「信」こそ私の基本となっています。
刷り込みであろうと関係ありません。
私が選んで進む道です。
大御本尊への信は私のものです。

創価は大御本尊に信を取らなくなりました。
私の判断基準からすればこれは謗法です。
「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」です。
創価への恩返しのためにも地獄への道を塞ぎたい。

その思いで声を上げています。
蟷螂の斧ですから歯牙にもかけてもらえません。
私が誤っていれば罰をいただいて終わるでしょう。
しかしもし正しければ、この流れは大河となりましょう。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[555] サイヤさんどうもです(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月28日(日)19時35分35秒   通報   返信・引用

仏法は厳しい!ですね(^^;)

一度目は小学3か4年生、御本尊様を破った夢からひと月くらいは怖くて怖くて真面目に勤行唱題を頑張ったのを覚えてます。

二度目は就職で組織が変わって間もなくでした、馴染めなかったのは覚えてますが御本尊様を破くほど悩んではなかったと思うのですが‥‥‥‥‥
それがあったからでは無いですが、見知らぬ地で頑張って部長までやらせてもらいました。
当時の部員さんと疎遠になっているので、時間を作って交流したいですね。

今考えると何かの節目で頑張り時だった気がします。
もうあの夢は見たくない(-"-;)

蘇生さん
気持ちが楽になりました、ありがとうございます(^^)



[554] Re: 夢の中の謗法

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 8月27日(土)19時31分1秒   通報   返信・引用 > No.551[元記事へ]


身なりさん、レスが遅くなって申し訳ありません。
またショッキングなカミングアウト、ありがとうございます。

飲酒運転を裁く道交法は国法であり世間法です。
依って夢の中の飲酒運転は罪に問われません。

しかしながら私どもが信奉しているのは仏法です。
夢の中の出来事は無意識とはいえ末那識の領域です。
従ってそこでの出来事はすべて裁かれます。
身なりさんの行ったことは謗法となります。

蘇生さんのようにきれいにまとめることは可能です。
しかしその前提を把握しておくことは無駄ではないでしょう。
上記のように身なりさんの夢の中の行為は謗法となります。
「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」です。
(曾谷殿御返事)

その時のままであれば堕地獄は確定していたことでしょう。
しかしながら日蓮仏法は現当二世です。
御義口伝「無量義経六箇の大事」の中の、
第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事
に、次のようにあります。

「御義口伝に云く衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、
然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、
慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」

身なりさんの現状を把握できている訳ではないので、
上記の御文が当てはまるかどうかは分かりません。
しかし身なりさん自身が解っていればいいことです。
慧日は能く衆罪を消除してくれます。

以上は私の個人的見解です。
日蓮仏法に照らして正しいか否かは別問題です。
私の狭い教学的認識から導かれたものです。
違うと思われたならご意見をうかがいたく思います。

よろしくお願いいたします。



[553] 随自意のパラドックス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月26日(金)09時45分46秒   通報   返信・引用

随自意という言葉に対して
いかにも能動的という
印象を受けるかもしれない。

しかし単純にそう捉えてしまうと

これは「意」を「人我」として
人間的な思惑による策略等を
正当化する事を許してしまうという
落とし穴に落ちかねない。

今まで述べてきた生命観に
照らすと「仏意」として
受動的に捉える事が求められる。

つまり自ら仏意に随う事であり
自らの受動的集中を用いる身という
自受用身とストレートにつながる
ものである。

これに付随して仏の別名である
能忍についても考えてみよう。

能忍の忍は忍辱の忍である。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7114

忍辱の意味を見ると
侮辱や苦しみに耐え忍び、
心を動かさないこと。とある。

柔和忍辱なら
柔らかに和やかに耐え忍び
動じない事だ。

能忍を能く忍ぶと読んだ場合
やや客観的な印象を受ける。

難に耐えている仏を
外側から見て評しているようだ。

受持とセットで考え

反転して読むならば
能動性を忍ばせるとなる。

パラドックスシリーズ
前回のマインドフルネスであったように
過去への怒りや未来への不安
といった能動的な自我の
思考思惑から一歩抜け出し
俯瞰してコントロールし、働きを抑えて
忍ばせるということ自体が
仏の別名となっているのである。

俯瞰するポジションの
「今ここ」自体が「空」であり
破壊されない仏の生命でなのある。

能忍は仏の別名なので果。
そして信心と信念の受持が因。
そしてこれが同時なのが
南無妙法蓮華経である。

能動的な人我を忍ばせている結果と
受動的な開かれた受容性を
保っているという原因が
同時に今ここにある。

言い換えて今ここに意識を置き
開かれた受容性である自己機能を
活性化させて
自我機能を沈静化させる。

アルベア論で言われている事は
この能忍と受持に直結しているのだ。

さて、
思考の囚われに気づき受動的集中の
導きによって囚われから抜け出し
「今ここ」の俯瞰のポジションに立って
自得するならば御本尊と同じを得る。

そう見ると三車火宅の譬えに
符合するのは、
お分かりいただけるだろうか?

法華経の生命観から脱線していないのだ。

さて、能動的な思考が働くと
単純さに対して「そうは言っても」という
余分なオリジナルな概念の付加が起こる。

マインドフルネスで
単純な繰り返しの継続的実践によって
効果が得られるのだと説明されている。

唱題行はそれと類似している。

日蓮大聖人は
南無妙法蓮華経の意味が分かっていなくとも
南無妙法蓮華経と日々唱え自己を磨くことで
その効果は得られると言われている。

この時点では
それ以上でもそれ以下でもないのだ。

むしろ、その時点に対して「あれはダメ」
「こうでなきゃいけない」という
形式などの付け足しは
我見や不信ともなる。

しかし、その上で素直に行い
自然に体得し、それに随って
教え導くのであれば随自意である。

その違いは
自我による能動的な囚われた意識の思考なのか
仏意への受動的集中による自然さなのか
なのである。

能動的な囚われた意識では
世界は格別であり
排除、分断、隷属、独善、強奪等を
顕現していくことになる。

受動的集中による信心は正直に素直に
そのまま付け加えずにするものである。

そして自然に深さ広さを得た時に
それに随って、その顕現がもたらされて
いくことができるのである。



[552] Re:夢の中の謗法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月26日(金)08時46分17秒   通報   返信・引用

「即」というものは信心による「気づき」です。
「気づけば一切が功徳」です。

観念で分かればよいというものではありません。

「これだ」と思うことを「やりつくす」ことによって
「なんだ、そういうことだったんだ」
「このことに会うためにそれは起こっていたんだ」
と分かる時がきます。

十四誹謗の全てに
一切抵触しないで生きてきた人間はいません。

さて、
御本尊を破る=最大の謗法というこれは
本当に最大の謗法なのか?
どうして最大の謗法なのか?

もしそれを考えて、生命の奥底から分かるとすれば
そのきっかけをくれた夢は
功徳であり仏智であると思います。

法のため人のために生ききると決めるならば
全てを即功徳へと転換していけるのです。

変毒為薬の仏法なのです。



[551] 夢の中の謗法

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月25日(木)21時03分12秒   通報   返信・引用

夢の中で飲酒運転しても罪には問われません。

夢の中で御本尊様を破ってしまったらどうでしょう?

恥ずかしながら二度もあります。
病んでたのかな~?(-_-;)



[550] 宗教枠の解除と本尊のパラドックス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月24日(水)16時03分7秒   通報   返信・引用   編集済

宗教の枠が外れる例としては
リラクゼーションとして「般若心経」を聴く
というものや、もっと言えば

「禅」や「瞑想」といったものは
宗教の枠が外れたものとして
広くビジネスや治療に応用されています。

これは何を示しているかというと
特定の対象化された神仏を信仰していなくても
「効果がある」という事です。

一つは1932年からあるのが「自律訓練法」というものです。
http://www.direct-commu.com/colums/mental/mental_009_08_agari8.html
http://life-hacking.net/jiritsukunren/

最近、もっと自然な瞑想として「気づき」を基礎に置いた「マインドフルネス」が注目されています。
https://www.youtube.com/watch?v=cM_bKef7qRU
(↓3時間の動画の内1:30:30からサイエンスZERO「新・瞑(めい)想法 “マインドフルネス”で脳を改善!」)
http://www.myvi.ru/watch/2200-2500-2-20160821_LAIZWAsOVkO9flSkf3ojhw2

特にサイエンスZERO「新・瞑(めい)想法 “マインドフルネス”で脳を改善!」では
「気づき」や「今ここ」が説明され
実際に脳が変化することが説明されています。

アルベア法はこういったことを、さらに快適快速に行う方法です。
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/452

さて、本来的に考えるならば
勤行唱題の自行や折伏という化他が
私がこの板で言ってきているような
深い生命の真実の悟りへつながっているべきであり

それが普遍の生命の真実であるならば
宗教の枠を取り外しても何もなくならない。

ここで何が大切なのかというと
受持が大切なのです。

「受」について自律訓練法で
受動的集中という事が言われています。

受動的集中の論考を見てみましょう。
http://www.take-clinic.com/at/at-judou2.html

思惑を働かせると能動になるということです。

そして自律訓練法は他者からの施術ではなく
自らによって行うものです。

これを用いるのが、ひとまず自受用身なのです。

生命それ自体が一念三千に漏れるものはなく
全ては本尊の一相です。

それぞれの個人個人にとって
今ここにある生命とは自身の生命であって
それが己心の本尊です。

今、反転を行っています。
通常の考え方とは逆です。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/51347
これは木画の二像の仏についてですが
反転して己心の本尊を見なければ説明できないことも
あるのです。

本門の戒壇の特徴と
池田先生の特徴の関係のようにです。

五重の相対による本門と文底下種の反転でもあるのです。

さて、己心の本尊とは言っても
そのままでは三十一相しか具えておらず
この前に何を置いて受け用いるかが
重要になり

その最高のものを日蓮大聖人は
顕し残してくれたということです。

それが御本尊です。

日蓮仏法は自力本願でも他力本願でもなく
「自他彼此の心無く」
「信力・行力・仏力・法力」を用いるのです。

自身の自得の生命と、日蓮大聖人の自得の御本尊が
「自得」「自得」⇒「同じ」だと解ることが
「自他彼此の心無く」になるのです。

そして、こうして得たものは
それぞれに出会う主体の三十一相に対して
残りの一相を与え変革していける。

こうした関係性の連続なのです。



[549] 清潔な身なり様

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月23日(火)13時44分54秒   通報   返信・引用

Let's 動の休息は何より嬉しい報告です。
対話と動の共有のバランスの取れた一家和楽。

それが自然になり、それがもっと広い範囲の
社会の内実として広まっていけば

どれほど良い社会になるでしょうか?

challenge パラドックスの
執行部も正義を訴え、宿坊板も正義を訴える。

対象化された表裏の正と反です。

みな凡夫だし
執行部も宿坊板も、その主張する正義も
相対的な関係性のパワーバランスの現れ
なのであり

最終的には、ベストは
尊厳を認め合う対話と、それを自然のものとする動の共有で
そのためには正反合ではなく、正正同がベストであり

それは誰も漏れることのない宇宙生命の永遠性の普遍性が
開かれることによってしか実現できないと思います。

アルベア論的にも宿坊の掲示板は
いろんな思惑もあるから、
そんなに深く入り込んで振り回される
ものでもないとも言っています。

まぁ、それでも
仏智を頂いてあるようにあるのであれば
そうあることもあるがままなのかとも思います。

ともあれ、清潔な身なり様
何かすごく良い
エネルギーの方向を感じます(^-^)



[548] challenge パラドックス

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月22日(月)17時57分19秒   通報   返信・引用

執行部も正義を訴え、宿坊板も正義を訴える。

もしかしたら宿坊板が正義かもしれない。
ただ凡人の私には確かめようがない。

週刊誌だ暴露本だを引用されると、なおのことシラケてしまう。

凡人の私は何を教科書にしましょうか?
戸田先生は大御本尊への帰命をご遺命とされ、池田先生も同じく大御本尊と決別せよとは仰っていない。

宿坊板で取りあげている案件が仮に宿坊板の推測通りだとしても、それは池田先生を陥れようとした魔王たちのイタズラ

大御本尊と私たちを引き裂こうとしている会則制定は全ての会員を陥れるチャンス、魔王たちの悲願が叶ってしまう。何が何でも阻止せねばならない本丸なんですよね。

とは言いつつ、信をとって南無妙法蓮華経でオールOKくらいの楽観的な強さも連れて闘いたいです。



[547] Let's 動の休息

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月22日(月)16時30分52秒   通報   返信・引用

子供たちといろんな話は毎日のようにします。

それではただのルールに留まると思い一念発起

二泊三日の旅行に出かけました。
テーマパークを1日、プールを半日

家族皆でリフレッシュ、動の休息旅行でした。
という訳で本日、身体中が故障しています。



[546] 悪と折伏のパラドックス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月22日(月)15時21分50秒   通報   返信・引用

折伏とは何か?

南無妙法蓮華経のすごさを伝えること?

でも今や南無妙法蓮華経と唱える宗教は
いっぱいあります。

その時点では南無妙法蓮華経も
ただの「言葉」という実体です。

では、正しい御本尊につなげていくこと?

それだって
創価学会の御本尊と日蓮正宗の御本尊の
何が違うのか説明できていない。

その時点では御本尊も
ただの「拝む対象」という実体です。

ならば、創価三代の行動に連ならせていくこと?

それがもし
創価学会に入会して打ち出し通りの活動を
することによらなければならないと限るなら

その時点ではその「創価三代に連なる行動」
だと思っているものも

「運営されている創価学会」という実体の中の
「定まった行動規範」という実体です。

そういう「実体」の中では
順位があり、ピラミッド型の枠組みになります。

これは三界の内、欲界色界までの世界です。
(六道の内、地獄界から天界の途中まで)

欲望に従い利害の中にあれば欲界で
欲を離れて厳格なルールを敷いてなお
色界という六道の中の世界です。

しかも「定まった行動規範」であるべきものを
「あいまいな基準への服従」にした場合

独裁への扉が開かれます。

その頂点に立ち
他を意のままにしようという
絶対服従の権力悪が
化他自在天子魔(第六天の魔王)です。

さらに、個別的に永続的な実体は無いという
空を悟った救済者に出会ってなお

それを救ってくれるものとして対象化し
救ってもらう側に安住するならば
六道を出ない無色界であり

その天界の喜びは永遠でない
一時のものです。

報身というものは「空」であり
個別的な実体や枠組みや概念というものを
当てはめようとすれば

ことごとく否定によってしか
表せないようなものであり

対象化する事が出来ないので
破壊する事が出来ない。

よって永遠である。

逆に、対象化されたものは
最終的には無くならないものは無い。

人はいつか死ぬし
地球だっていつか無くなる。

創価三代に貫かれ
御本尊とも
南無妙法蓮華経とも
不二である普遍性。

生命の真実
人類普遍のヒューマニズム。

これに対しての
あるがままを広く宣揚し流布する事が
本当の折伏である。

悪だという対象化に対して
対象化した実体の善をぶつけて
一方的に上書きしようというのは

ただ喧嘩を売って抗争を招いているだけであり
それは本当の折伏でもないし
本当の難でもない。

一旦は、宇宙の全ては
対象化して善と見ていたものも
悪と見ていたものも
生と見ていたものも
死と見ていたものも

全部許し受け入れ
自身に収め入れて
宇宙即我にするのである。

この大いなる自身の
向上のエネルギーとして
救済の法の活動として

そうした時に本物となるのである。

どの宗教団体に入っているかなんて
そういうレベルの事では無くなる。

その上で、生命の傍に
法華経を置くことが

法華経の非二元である。

仏法は勝負とは
意識の使い方による
エネルギー流のレベルの話であり

なるようになるために
あるがままを開くものである。

そこに至るための
必要な過負荷が難として現れるのであり

その対象化を打ち破り
無始無終へと入っていくのである。

その自身の対象化を打ち破るために
悪を責めるのである。



[545] 動の休息

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月21日(日)15時17分41秒   通報   返信・引用

宿坊の掲示板より

「一大秘法」の考察 投稿者:一人のSGI
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54633
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54634
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54635
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54636
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54637
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54654

この範囲の内容も
おいおい論考すると思う。

話は変わるが

さて、動の休息の意味を
少し書いておく。

体が疲れている場合には
ゆっくりと静養し体を休める事が
その回復につながる。

これが静の休息。

一方で、考えすぎて頭が疲れている場合には
体を動かすことによって
その回復を見込めるのである。

これが動の休息である。

人生の方向性は
依っている法に引きずられる。

生命の軌道は依っている法に従っている。

話を聞き、頭で考えて理解し
答えを出すという方法は、
そこでとどまれば
その解決は一時的となる。

体と心を動かし弾ませる事を
自己観察し確認するという方法は
その解決は体感であり永続的となる。

スポーツのルールを覚える事と
実際にプレイする事の違い。
自転車の構造や倒れない理屈と
実際に運転する事の違い。

そういう部分でもある。

実際にやって体感していけば
それが自然のこととなっていく。

法の高低浅深の判断は頭だとしても
その定着は思考によらない
動の方法によるのだ。

これは色心不二が法であり
宇宙生命のリズムであるので

体を動かし感動に出会う生き方によって
同期するリズムを感得し
自然にあるがままにシフトチェンジ
するのである。

偏ったフィルターのかかった情報を
常に浸透させて、組織を意のままに
操作しようという思惑は

だから、どうにもならないほどの
バイアスをかけて
自然にあるがままになる道を閉ざす
権力悪であり、
化他自在天子魔であり

自然のままからの広い視点によって
それをつぶさに見て見破っていく事が

生命の救済であり、蘇生となる。

「信」とは、この自然のままへの
転換を成し得るものを言うのであり

だからこそ「即」というものが
実際のものとして輝くのである。

どういった人が本当には
「毒」に侵されているのかということを
よくよく肝に銘じなければならない。

情報操作に躍起になって
冷戦の米ソのような工作を
いつまでもそれを正義だと言って行い

コンサルティングの手法に従って
経営を安定させるために
教義までも信仰心までも
頭の中で作った
現実に即しない不自然なものにする。

そこには
「生命哲学の仏法」なんてものは
もはや影も形もないのである。



[544] 法とは何かのパラドックス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月20日(土)03時17分45秒   通報   返信・引用

法に依って人に依らざれ

これがどういう事だか分かりますか?

なんだそんなの簡単じゃん
御書の通りに従ってる人が法に依ってる人で
自分勝手に捻じ曲げてる人が人に依ってる人。

じゃあ池田先生の言葉は法と人のどっち?

え???人??

世法即仏法ってのもあるよ。
『法師功徳品』に「諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間(ぞっけん)の経書、治世の語言(ごごん)、資生(ししょう)の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」
「まことのみちは世間の事法にて候。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(白米一俵御書・御書1545頁)
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり」(檀越某御返事・御書1295頁)
等々

うん、だからそれはつまり仏法は観念論じゃないから
仏法は勝負で社会で実証を示していくものだという事でしょ?

それは誰の考え?法に依ってる?

だからそれは題目を唱えることによって法に依るんでしょ?

その法はどこにあるの?

御本尊様。

じゃあ貴方は?

人です。

「法に依ってる人」って人ですよね?
法に依ってるようで人に依ってますよね?

え???

人を挟まずに法に依ることって出来ないのかな?

・・・・・。

と、まぁ問答形式っぽく書き出してみましたが
私の論やアルベア論を解っていればある程度
言っていることは分かると思いますが

創価学会において一部、曲解されやすく
悪の蔓延につながる部分でもあります。

どうしても深い理解まで至っておらず
「自分」を挟んだ上で、資本主義社会の中で
地位・名誉・利益を得ることが仏法の勝利であり
そのためなら世法王法で悪いとされていることも
厭う必要もなく、煩悩即菩提だから
野心や欲望もそのまま達成を目指せばよい。

と、まったくもって狭い自我から脱することが出来ない。

もはや清浄な信仰とはほど遠い世界である。

法とは何か?
色心不二の一極である。

それを見えなくさせているのが自我である。

人間において、この強い自我は
主に3~4歳ごろから形成される
学習されたストーリー式自己認識法である。

人間らしい自我というソフトである。

法とはこれを動かすハードの方である。

モーガンフリーマン時空を超えて「”私”は何者なのか?」
http://amagomago.seesaa.net/article/439921454.html
(↑下記テキストのあるブログ)において、
○児童心理学者の、子供がいつから「自分」を認識するか、の研究
 過去の自分も、今の自分もどちらも同じ自分だ、という事実は、
 大人は当たり前に受け入れられるが、子供はそうでもない
 この科学者は、子供が同じことを繰り返したり、真似をしたりするのは、
 自我の形成のために重要な経験、と述べている

 子供は生後6か月くらいから「鏡像期間」に入る、
  つまり鏡を見て、その中の人物が自分と認識し始める
 ・1歳3か月の子供
  鏡の中の人が自分だとは分かっているが、
  鼻に絵の具を付けて鏡を見せても、
  それが自分の鼻に付いているものとはわからない
 ・それより数か月年上の子は自分の鼻についている、と分かる

 ・子供にクッキーの入れ物を差し出し、中身は何か当ててもらう
 (実際はクッキーではなくペンが入っている)
  3歳の子はクッキーと予想するが、
  実際にペンが入っているのを見せられた後は、
  「さっき何が入っていると思っていたっけ?」と聞かれると、「ペン」と答えてしまう
  4歳の子は、同じ質問に「クッキー」と答えられる

という実験が紹介されている。

自我というソフトが確立されていない時点では
「今ここ」があるだけで様々なことが結びついていない。

今、対面している現実が、無始無終にわたって
「その通り」の世界なのである。

それが本来は自然のままなのである。

自然と共に暮らす部族の文化に
初めて見聞きした新しい知識が
「おお、それは当に先祖代々伝わる神の知識だ」
というような受け入れられ方をする場合がある。

そういうことについて著作権侵害を言いたくなるかもしれないが
「自然」には著作権というものは存在していない。

その取り入れは悪意や思惑によるものではなく自然発生的な
デジャヴ感覚のようなものによっているのである。

自我が少なく、自然の法と智慧とによって生きる人々は
心身のバランスが健全に保たれやすい。

また、先進の文明の中においても
何かのきっかけや、禅などによって
そういった法に立ち返る非二元感覚を得る人がいる。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/145
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/139

しかしそのままでは、肥大化した人類の
自我と思惑の文明に対して無力である面がある。

ここに21世紀の高等宗教の必要性がある。

久遠元初自受用報身如来という意識の使い方によって
あらゆる次元のあらゆることを「ありのまま」の
無敵の強さを備えた「純粋無垢」へと変革していくのである。

「今ここ」の自身の問題として
傷を打ち出だし汚れを振るい落とすのである。

臆病で疑り深く敵を誇張し情報を探り振り回され
悪事を隠蔽し利益をむさぼり歪の解消に誰かを陥れる。

そういうのには出て行ってもらわないといけませんよね。



[543] 持(たも)つには謗法を責めて清浄を持(たも)つ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月18日(木)11時03分9秒   通報   返信・引用

報身から法身の側を見れば
一念三千の法本尊である御本尊を
信受する信心であり

報身から応身の側を見れば
人の振る舞いであり
人類普遍のヒューマニズムを
信じ持(たも)って生ききる信念となる

として見た場合

久遠元初自受用報身如来とは
信じる対象というよりかは

菩薩仏の境涯の「信心そのもの」になる。

http://sgi-shiteifuni.com/?p=8234
それは自分の「永遠の仏界」に目覚めるということです。
そのカギは、仏を求める「一心」にある。日蓮大聖人は、
この「一心欲見仏 不自惜身命」の文によって、「日蓮が
己心の仏界」を顕し、「三大秘法」を成就したと仰せです
(御書 p892、趣意)。以前にも触れたが、大聖人は「一心」
について、「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を
見れば仏なり」(御書 p892)と仰せだ。「一心欲見仏」の
経文が、「一心に仏を見る」から「一心を見れば仏なり」へ
と読み換えられている。“仏を求める凡夫の一心”が、そのまま
“仏の一心”となっているのです。

http://sgi-shiteifuni.com/?p=8112
遠藤: 不自惜身命 ?- 「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作
の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」
(御書 p790)との仰せと同じですね。

斉藤: 日寛上人が「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」
(「三重秘伝抄」)と言われているのも同じ意味ですね。

名誉会長: 同じことを言われているのです。仏法を守ろう、仏子
を守ろう、難を我が身に受けていこうという「師子王の心」こそ、
仏界涌現の秘訣なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~

権威や思惑がからむと、どうしても仏というものを
究極の悟りを得て人間とは別物になった存在として見てしまう。

それは九界と仏界を別々に見る爾前経の見方であり
そのカルマを解除して「今ここ」の本因本果に南無するのが
法華経の見方である。

法(法身)を中心に見れば色法(応身)と心法(報身)であり
色心不二を一極と言う。

そしてその一極の南無妙法蓮華経も、強き信心という報身から起こるのです。

この報身の無始無終を自得したのが久遠元初自受用報身如来であり
その心法が無始無終なら不二である色法も無始無終なのである。

人間の個人というものの囚われを外して太陽系を見ると
その太陽系のエネルギー流の中で
地球上の物質の変換が促され
時々に応じてその姿を現しているのである。

このことが起こる法は無始無終なのである。
ゆえに色心も無始無終である。

何かこのことから漏れる存在があるだろうか。
いや、あるはずがない。

何人も分離した別の存在はなく
日蓮大聖人と同じ宇宙の生命活動の現れなのである。

この視点に立てば

久遠元初自受用報身如来を受持しないなど
この無始無終の生命現象に対して
「不自然に仏界を閉じます」という事であり
法華経の大船から、自ら飛び降り無間地獄へ
堕ちて行く行為である。

創価の三代の確信の中で
大御本尊が久遠元初自受用報身如来の当体であることは
確定事項であり

この創価学会という生命現象において
それを捨てることは最大の謗法なのである。

久遠元初自受用報身如来として見るならば
強き信心自身であって、食べさせてあげて
人を救っていく功徳自体である。

向こう側に、救うために現れている応身という
対象として見るから、この場にないと思うのであって

宇宙の広さから考えれば
数mの位置から祈るのも数百kmの位置から祈るのも
どれだけの違いがあるのだろうか。

たかだか人間同士が決めた土地の所有や建物の所有
そんなものに宇宙の無始無終の真実が左右されるであろうか。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51582.html
「境の淵が広大で深い時は、智慧の水がながれるのに滞ることがない。この境智が合うならば即身成仏するのである。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えであるので成仏ができない。」

「この境智の二法は何であるかというと、ただ南無妙法蓮華経の五字である。」

「すでに上行菩薩が釈迦如来から妙法の智慧の水を受けて、末代悪世のいまだ善根のない衆生に流れ通わすのである。これは智慧の義である。」

「譬えば、大海の水を家の中に汲んできたならば、一家の者は皆それに潤うことができる。しかしながら、汲んできた大海の水の一滴を差し置いて、また別によその大海の水を求めることは、大変間違ったことであり、大変愚かなことである。」

「法華経の大海の智慧の水を受けた根源の師を忘れて、他へ心を移すならば、必ず生死に輪廻する禍となるのである。
 ただし師であっても誤りのある者は捨てなければならない。しかしまた捨てない場合もある。これらは世間や仏法の道理によるべきである。」

「ただ正直であって少欲知足である僧こそ真実の僧である。」

「涅槃経には「もし善比丘がいて、仏法を破る者を見て、放置して、もしよく呵責し駈遣し挙処しなければ、まさにこの人は仏法の中の怨であると知るべきである。もしよく駈遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり、真の声聞である」と説かれている。
 この文の中に「法を破る者を見て」の「見」と、「置いて呵責せず」の「置」とをよくよく心肝に染めるべきである。」

「謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである。
 いかに法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちるのである。漆千ばいの中に蟹の足を一つ入れたようなものである。「毒気が深く入って本心を失えるが故」とあるのはこのことである。」

仏の境涯とは頭で考えて分かるものではなく
謗法を責めることによって開くものである。

謗法を責めないことには
求める真実の「あるがまま」「なるようになる」
には辿り着けない。

そして、責めるべき謗法とは
最終的に仏眼法眼をもってしか見抜けない。

真似から入るのも一つだが
それぞれの志向性や役割によって
責めるべきものも変化すると思われるので
やはり最終的には自得するしかない。

そこに至るには思考を消す自己観察が近道となる。
それには効果的な有酸素運動で
動の休息によって自己機能を活性化させることが近道である。

~~名誉会長: あるとき、戸田先生は言われた。「『臨終只今にあり』というが、この臨終は、どなたの臨終かわかるかね。仏様の臨終だよ。仏様がいらっしゃらなくなったとしたら、どんなに心細いだろう。どんなにか悲しいことだろう。仏様に今、お別れしなければならないのだと思って、信心することだよ」。
この言葉を漫然と聞いていた人は、戸田先生が亡くなったあと、先生が生きておられるうちに、ああすればよかった、もっと戦って喜んでいただきたかったと後悔したのです。
「臨終只今」とは、師匠の臨終が只今と思って、猛然と広宣流布へ戦っていきなさいということです。師匠に見守ってもらって戦えるなんて幸せなことなのです。それがわからない弟子は失格です。
師匠が生きているうちに、そう気づいて頑張るのが「本心を失っていない子ども」に当たる。気づかないのが「毒気深入」で本心を失った子どもです。~~

これを思い、躊躇を振りほどくべきである。

池田先生はずっと闘われていた。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/45766
このあたりから色々たどって調べていくと少し見えてくる。



[542] 「受持の対象としない」

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 8月18日(木)07時23分9秒   通報   返信・引用

この場にないお好み焼きやピザは「食べれない」、「食べる対象としない」。

なんて考えていたら、ふと次の御文が頭をよぎった(笑)

「譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり」

まだまだ思案中・・・。



[541] Re:お好み焼きもピザも

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月17日(水)09時56分22秒   通報   返信・引用

ピザなんてこの世に存在してはいけないとは
言っていない。

どんな食文化を持っている人たちも
等しく地球上に生きる尊厳なる生命である。

ただ、今生においてお好み焼きを食す
と決めてお好み焼き屋に入った客に対して

ちゃんとした説明もなくピザを出す。

「お好み焼きを食べに来たんですが」と問うと
「いいですか、ピザは偉いんです、文句を言わず
食べてください」と強要される。

周りを見ると、確かにみんな文句を言っていない。

しぶしぶピザを食べていると
「一つのテーブルで注文するピザにはノルマがあります」
と言われる。

周りを見ると、確かにみんな食べきれない量を注文したり
外部の注文を取って宅配しに行ったりしている。

「やっぱりこんなのおかしいです」と盾突こうものなら
見せしめに虐められて裏切り者の「悪」に仕立て上げられる。

こういう体制を
気づかれないようにちょっとずつ作り上げた。

「ほらみろ、あそこのお好み焼き屋だって
たこ焼きと焼きそばが美味しいだけだ。
それに比べてウチのはちゃんと丸くて平たいし
いろいろ乗っているんだ。
悪はあいつらで、ウチは正義だ。
あいつらがいかに悪か徹底して学ぼう」

ということをする裏で
本当のお好み焼きのレシピをごまかしていき
単に「丸くて平たくていろいろ乗っている食べ物」
としていく。

これをお好み焼きだと信じられないのは
命がおかしいんだ。
信心とは、まず信じることでしょう。
と、信心を逆さまに曲解させる。

もう、何が正しいのか麻痺してしまい
従うことが正しいんだという所にしか落ち着くことが出来ない。

でも、お好み焼きに情熱をかけた三代目までの言葉や
お好み焼きを開発した始祖の言葉が残っていて
熱心に調べれば間違いに気づく。

多くの人は、考えても苦しいだけなので
見ないふりをし、それを提示されると怒り出す。

でも、そんなことには負けずに、ある人が
熱心に調べ上げて、さらなる究極のお好み焼きに
気づいたとする。

世界の中でこのことを知っている者は
ただその一人だけである。

このことを一言でも言い出すなら
父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による
迫害が必ず起こってくるに違いない。

しかし、言わなければ無慈悲と
同じことになってしまう。

どうすべきかと考え
開目抄や池田先生の指導などの文
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7247
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7245
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7250
(他、参照:青年教学2級試験教材
世界広布の翼を広げて
教学研鑽のために 開目抄
700円 65ページ~66ページ)

に、言うか、言わないか、の二つを
照らし合わせてみた。

すると、言わないでおけば、
今世では何ごともなくても、
来世には必ず無間地獄に堕ちてしまう。

もし、言うなら、三障四魔が必ず競い起こって
くるということが分かった。

この二つの中では「言う」ほうを
選ぶべきである。

命惜しむべからず。

必ず究極のお好み焼きを完成させ
広宣流布していくのみである。



[540] 良薬も毒薬も

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 8月17日(水)09時36分4秒   通報   返信・引用


まぁ、お好み焼きとピザはあくまで譬えであって、共に「じき」であるからというのは不可でしょう。久遠元初自受用報身如来を受持するか否かということを寿量品の金言から引用すれば、「是好良薬」の良薬と「飲佗毒薬」の毒薬の違いです。同じ「薬」が付くからといって、同列に論じられるものではないですよね。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[539] お好み焼きもピザも

投稿者: 厳護朗 投稿日:2016年 8月17日(水)07時28分46秒   通報   返信・引用

「それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ」

と考えると・・・。



[538] 異議なし

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月16日(火)16時16分26秒   通報   返信・引用

お好み焼き論法に異議なし

蘇生さん、判りやすい文章をありがとうございます。

原田会長が何をしたのか私にはわかり兼ねますが、結果として会員さんと大御本尊を分断しようとしていることは間違いないですね。

どこをどう正して行くのか妙法に照らし慎重に考え、勇敢に実践していくのみです。



[537] すり替わり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月16日(火)15時00分38秒   通報   返信・引用

仮に広宣流布すべき正しい法を
「お好み焼き」としましょう。

執行部の批判
あるいは創価の邪宗化として
論議している事が
仮に、お好み焼きの切り方が
おかしいという次元の事であれば

それは時代によって変わっても
お好み焼きはお好み焼きであり

http://rocketnews24.com/2012/02/20/184593/
こんな風に騒いでも

どっちもどっちです。

しかし、それらの論議で言っているのは
もう完全にピザとすり替えた上で
それをお好み焼きだと言い張っている
次元で問題視しています。

それを広めても広宣流布にならない。

御本尊を中心に
御書の通り
三代の会長の指導通りが
中心であるはずが

原田会長中心にすり替わっている。

しかも、組織内では
おかしいと言う奴がおかしい
という論調で処分される。

こういった前提を考えると

創価学会の言うことにただ従って
打ち出しの内容だけ実践すれば良いというのが
間違いだと断言できるかどうか

という事になるのは仕方がないのです。

なぜなら、その理論は

「さぁみんなで隠蔽に協力しよう」
「日和見的に組織の一部となろうじゃないか」
「世間を欺いても勝てば良いんだよ勝てば」

というような事であり
それって世間的に言うと

間違いなく組織悪であり

それの蔓延を助長させてしまうのが
「知ってなお従う」という行為で

その反対が、声を大にして叫ぶ、です。

「原田会長は創価学会の最大の実践者たちである婦人部と、御本尊・御書・池田先生を分断しようとしている」と、声を大にしなければ

広宣流布のために広めるべき法が
無くなってしまうのです。

久遠元初自受用報身如来の概念の喪失を
考えてみると

秋谷前会長の時から

既に信仰のための組織から
私欲のための組織へと
スライドしている事が見え隠れし

中心とするものを曖昧にし
黙って従わないやつが悪いという
ダブルバインドの構築の
チャンスをうかがっていたという
ストーリーが見えてくる。

ここに向かうために
徹底してバイアスがかけられてきた
という事ではないかと思う。

多くの人は、そのため
気づくのが難しい。

だが、池田先生は
法華経の智慧等によって
生命の真実への気づきの促しをし

2006年以降
組織内の悪と闘うことを
促した。

池田先生の意思に近づくには
バイアスの解除が必要であり

そのためには自我機能の鎮静化の
技法の習得は役立つのである。

自己観察によって対象化しない
ありのままへの反転によって
本当の広宣流布は進む。



[536] 久遠元初自受用報身如来

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2016年 8月15日(月)11時31分45秒   通報   返信・引用


今の創価学会員でこの単語を知っている人は何割くらいいるのだろう。昭和の時代の経本には載っていたが、今では影も形も無い。教学で教えることも無いから、専門に学ぶか興味を持って調べるかしない限りは、知らない単語であろう。昭和の時代、大御本尊を賛嘆する言葉として、御観念文に載っていたものである。

百六箇抄の「下種の法華経教主の本迹」には、「自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」とあり、自受用身如来とは大聖人のことであることが明らかである。そこに報身とあるのは、大御本尊はその智慧を文字曼荼羅として顕しているが故である。

しかして日蓮仏法は人法一箇であるが故、大御本尊即日蓮大聖人である。大聖人は一身即三身・三身即一身であらせられ、「我本行菩薩道」の文の底に秘し沈められた大法を悟られた末法の御本仏である。その御本仏が「末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」た大御本尊を、「受持の対象としない」としたのが現在の創価である。

さて、昭和の時代、大御本尊は久遠元初自受用報身如来であらせられた。いつ、そうではなくなってしまったのであろう。変わっていないならば、「受持の対象としない」などと云い出す訳が無い。しかし変わったとはついぞ聞かない。ということは、創価が正しいならば、大御本尊は元よりそうではなかったということになりはしないか。

現在の創価が正しいとすれば、昭和の時代に大御本尊が久遠元初自受用報身如来であらせられたことが誤りだったということになる。つまり、ずっと騙され続けてきたということだ。三代会長を筆頭に創価は八百万会員をずっと騙し続けてきた極悪の宗教団体であったことになる。史上まれに見る詐欺団体であったことになる。

いや、そうではなく、創価も宗門に騙されていたのだと云い出すのであろうか。三代の会長は宗門に騙され続けた愚か者であったとでも云い出すのであろうか。それとも現在に至って、種々の学問的成果により認識を改めたので、受持の対象としないとしたとするならば、それ相応の説明が会員にあってしかるべきと考える。

しかるに創価は会長の趣旨説明と教学部の解説、及び各部の代表幹部の座談会で会則改正を追認しただけで、会員に対する詳細なる説明は行われていないというのが私の認識である。教義に関するこれほど重大な変更に関し、これだけで済まそうとする中枢幹部は、会員をバカにしていると云わざるを得ないと考える。

日蓮仏法の究極であり信仰の中心である大御本尊が、宗門のもとにあることについて我慢ならないという心境は理解できる。平成生まれの大御本尊を知らない世代が増えつつあるが故に、宗門との決別をさらに図るために取られた措置なのであろうが、明らかに誤った措置であり、創価邪教化の措置と云わざるを得ない。

御書に大御本尊への言及が無いのは今に始まったことではない。「余は二十七年なり」の解釈を変えただけで、大御本尊への信を覆そうとする無茶振りであるが、大多数の会員は大した関心を持っていないのが現状である。そもそも聖教紙上の三面、四面に載せた記事だけで済まそうとしていること自体が問題であろう。

創価は何処へ向かおうとしているのであろうか。大御本尊を離れて日蓮仏法は無い。会員の受持する御本尊は創立より現在に至るまで、すべて宗門の法主が書写した御本尊である。この事実をどう考えているのだろう。日興上人は冨木日常が御本尊書写したことについて非難していないと宮田教授は論じている。

原田会長は大聖人御真筆の御本尊とその書写御本尊はすべて「本門の本尊」だとしている。大聖人を末法の御本仏と仰いでいない徒輩や、首題の下に「日蓮」ではなく自身の日号を記して躊躇わない輩が書写した本尊まで、大聖人の出世の本懐に含まれるとする解釈は、どうあっても私には受け入れられるものではない。

ならば、どうすれば良いのか。他所での発信の繰り返しになるが、創価と宗門が共々に発迹顕本を成し遂げ、新たなる「真・僧俗和合」の時代を築いていくべきと考える。創価は第七代会長を女子部から選出し新時代を築く。宗門は法主の息子が法主にならないよう、日興遺誡置文の通り妻帯せず聖僧たるべきと考える。

その他やるべきことは多岐に亘るであろう。即座にすべてが出来る訳もない。しかしこれは、やらなければならないことである。どのような困難が立ちはだかろうが、どれだけ時間がかかろうが、私たちの世代で出来なければ次の世代に託し、日蓮仏法の正統を絶やさぬために、やり遂げなければならないと考える。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[535] 化法化儀と創価と宗門

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月14日(日)00時57分50秒   通報   返信・引用

確かな教義の必要性というものも
これは、本尊を語ると同じく
パラドックスであり

今ここの非二元の悟りのためもあるが
令法久住のためのセーフティーネットの
ような側面を含むようなものであり

また、教義を本格的に整備するなら
時代や形態に合わせた整合性のための
防衛的な面も少なからず含まれる
ことにもなるのであろう。

何にしても思考概念による枠取りである。

これからの創価が
どのような道を
選び取るのだとしても

その道標は

化法が化法たりえてこそ
化儀が化儀たりうる
という線を逸脱すれば

唯一の正統というものを失い
悪徳商法まがいの新興宗教の
内の一つ、あるいは
ただなんとなく雰囲気で寄り集まって
いるだけの、何の特別な変革の力もない
ゆるい集まりという存在になる。

日蓮仏法としては化法あってこそであり

もう一度、化法における
本門の一大秘法の戒壇の大御本尊が
その意義に符合することを
論考する。

一閻浮提総与についてもう一度考える。

一閻浮提とは
地球上で巡り巡る 十法界
であり、それぞれの個である応身は
その内に生死と現れる。

これは「一」と「閻浮提」に
分解できる。

つまり「一人」と
その一人が観じる「世界」であり
「一閻浮提」は「一は全、全は一」
に通じるのである。

一人とは日蓮大聖人
世界とは十法界であり

この人法一箇の戒壇の大御本尊は

その総(すべ)ての「今ここ」に対して
無始無終にわたって
その瞬間瞬間の中心に与(くみ)して
方向性を決めている仏の智慧という

久遠元初自受用報身如来の当体である。

と読めば

これはもう本門の意義として
一大秘法に違いないということだ。

つまり、わずか一時でも実在した時点で
無始無終の総ての「今ここ」に
法体の折伏が完了しているということであり

平たく言うと、人間の到達できる
同心の部分で一体化する
悟りそのものが、その法体である。

この次元で言えば
今どんな所にあるかだとか
いつ隕石が衝突して失われるとか
そういうことで失われるものではなく
全く影響しない。

とは言うものの、大御本尊は現存しており
日蓮正宗が護っている所にある。

このような言い回しをするのは
現状のような創価の実態となった今では

冷静に俯瞰して考えれば
嫉妬に狂い己義を構えて
法華経の行者を迫害する様は同じであり

一方だけを「謗法の地」と決めつけるのは
甚だ公平さに欠ける。

そして、さらに冷静に考えれば
どちらが日興門流を守ろうとしていて
どちらが日興門流を捨てようとしているか

そう考えると、実際に大御本尊を
受持しないと言う創価学会の方が
邪教の度が強いのではないかとさえ
思われる。

創価学会が日蓮仏法の正統を取り戻すには
何らかの日蓮正宗との関係の改善を試み

大御本尊をどういう風に
「扱わせて頂けるか」という
発想に立たなければならないのは

常識的な判断としてあり得るのである。

これは既にスーパー摧邪人様が
述べているところであり

深く深く思いを巡らせての言葉である
ことは冷静に思いを巡らせれば
あきらかなのである。

さて、私の論においては
戒壇の大御本尊が正しければ正しいほど

創価学会の中心の
化儀の広宣流布の旗印としての
御本尊を設定したとして

その正しさも増すのだということも
無くも無いのだが

あまり言うと
思惑によって台無しになりかねないので

まぁそういう気のある人間には
この論を譲る気はない。

執行部はそろそろ
話し合いの場を設けて
創価学会の体質改善へ
大きく舵を切ることを
真剣に考え出さなければならないだろう。



[534] 生命感覚から受持即観心を考察

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月13日(土)02時54分40秒   通報   返信・引用   編集済

「即」という字が
どういう時に使われるかを考えれば

娑婆即寂光、九界即仏界、煩悩即菩提、生死即涅槃
凡夫即極

と言った具合に
相反するものの信心による反転を
示しています。

受持即観心は勤行唱題の感覚が
すんなり納まるようでもあり
普通はありえないことなのかどうか
ちょっと分かりにくいですね。

しかし受持即観心は
日蓮仏法の真髄の一つでもありますので
あらためて考えてみましょう。

観心の本尊のところで
観心に仏眼と法眼を配しました。

十界で言えば仏と菩薩ですが
「観心」とすれば「因果倶時」の
いわば「菩薩仏」になります。

「菩薩仏」の表現は法華経の智慧に見られます。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8353
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8359
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8630

一方、受持するのは「人」です。

そう考えると凡夫即極とほぼ同意になるようですが

しかもその深い意味まで
生命感覚から読み解けるものです。

人界は「聖道正器」(仏道を成ずる正器)
でもあります。

つまりそれは「開かれた”受”容性」と
言っているものが「聖道正器」です。

「受」を中心に見れば
「受持」と「信受」です。

つまり「受持」には
「観心本尊」に「の」の字の「空」が隠されていたように
「信」という「空」が
ここにも隠されているのです。

「開かれた受容性」は肉身であり応身です。
この肉身は法が現れたものであり
法が持(たも)たれているので「持」は法身です。
「信」は信心・信念であり法の現れ方を左右する
智慧のエネルギーとなり報身です。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/54048
「報身の智慧は上に冥じ下に契ふ」 法華文句 巻九の下

日蓮仏法は報中論三の自受用身の仏法であり

「受」中心の見地から「信」中心の境智への転換を
自身で決めてやりとげる必要があります。

自得でなければ至れないのです。

で、この「信心」が難しいのが信心の難しさです。

「信」に対して信心と信念と書きましたが
「空」の中にある純粋な「信」という報身を中心とすれば
信心と信念として現れるはずだという事です。

それはつまり

報身から法身の側を見れば
一念三千の法本尊である御本尊を
信受する信心であり

報身から応身の側を見れば
人の振る舞いであり
人類普遍のヒューマニズムを
信じ持(たも)って生ききる信念となるのです。

この両面がそろって初めて人法一箇であり
「菩薩仏」となるのであり

報中論三即菩薩仏ということなのです。



[533] 高志向と行動・意識と技化

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月11日(木)01時46分1秒   通報   返信・引用

物事を対象化し、
外の事として不平不満を
生じるのは、ズレ・ブレとなる。

その不平不満は
外の事であるのだから
それは今ここの幸不幸には
直接は関係がないのに

それの同調と否定とが
自身の存在の肯定否定と思い込み
同調され、評価されることを
望む世界が六道である。

ただしこれは
「上の事には黙って現場でがんばれ」
という次元の話ではない。

高い志向性を持つならば
今ここの問題という
意識の使い方を会得するべきであり
本来、仏法はその技術の結晶なのである。

六道の人間的感覚の概念から言えば
あたかも事象を起こしている本質への
ハッキングの技術であり
自身が事象の中心の法自体となるので
あらゆる事に対して
意識の使い方を行使することによって
今ここの問題とすることが出来るのである。

これは肥大化した我見があると出来ないので
人間的な自我を「がんばらせない」ことが
必要となる。

つまり、あっちにある我見にも
こっちにある我見にも付き合う必要がなく
あるがままを観じ、必要なところへ
心を行使していくのである。

私が「がんばる必要のなさ」に気づいた
きっかけのテキストを紹介する。
http://shuchi.php.co.jp/article/1531

がんばるというのではなく
不慣れなゾーン
今までは内に秘めて自己満足していただけの
理想の池田先生と同じ志向性の振る舞いを
表に出す。

まずはこれが境涯の変革速度を
考えられないレベルにする。

生命真実が思考概念を追い抜くのである。

本当は、これがあっての
五眼三身ステップアップである。

観察し経験すること
今ここという法に意識を置くこと
理想を実現させる意志によって救済の技を展開すること

技化には中心と呼吸によって集中力を高め
エネルギーのリズムを発動させる。

参考として武道の達人は自己機能と意識を
使いこなしているのである。

柔道の神様『三船久蔵十段』

http://iinee-news.com/post-5650/

柔道の姿の美しさは
身のこなしに無理がないから。
言い換えれば
正しい心の持ち方による。
中心規律こそ柔道の神髄である。

http://blogs.masoyama.net/?eid=581

私の考えでは、武道ということは、まず己に勝つことである。
人に勝つということは、決してただの一度も考えたことはあ
りません。人の力は分らない。 どんな強い奴がでてきて、あ
るいは勝てないことがあるかも知れない。しかし、自分さえ
まけなければ、人に決して敗れることもない。

格闘技の神様 『塩田剛三』

https://www.youtube.com/watch?v=7DiNQgAbH0Y
https://www.youtube.com/watch?v=KLt9JPPvQMM

http://plaza.rakuten.co.jp/dagekinoshinzui/11000/

師であり弟子であり、弟子であり師であるという常に真の
謙虚さ、これを持って接しないと、人の心も体もよく理解
することが出来ないと思います。

集中力即ち中心線の力。これはあらゆるスポーツに通じると
思うんですけど、中心線の強さ、ぶれないということ、これ
がやっぱり大事ですね。



[532] 意識の使い方によってパラドックスを克服

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年 8月10日(水)05時03分32秒   通報   返信・引用

拘りというものは、見方によっては
信じていなければ存在しないもの
という疑念の裏返しかもしれません。

そういう意味では拘りが薄くなるのは
良い方向です。

どちらにしても元々から
外にある、別々であると思えば
無益である。

方向は合っている。
安心して味わい楽しみ
再選択は可能である。

非二元の域に達しようとする時
必要であるのならば必然としてもたらされる。

何にしても、個別に悟りの本質としての
外に見る本尊の不必要を語るのと

究極の大乗の仏法として、全体に対して
御本尊の必要不必要を語るのは次元が異なる。

拘らなくて良いとは言っても
そもそも拘り抜いた確たる信心があった
からこそ、あれこれと探求を重ね

その功徳によって拘らずに深いありのままへと
向かえるのかもしれません。

非二元から無分別の一法の同心を見れば
個別の私も個別の大御本尊も本当は無いと見るのですが

非二元とは二元から切り離されたものではなく
二元の世界に即しきった帰結が非二元です。

仏法は明快なものであるし
仏法は曖昧なものでもあるのです。

こういったパラドックスの克服は
思考概念ではないところの
意識の使い方をマスターすることによって
その自己確認の中で獲得されていくのです。

それは無限に多面的な
球のようであり、その開かれた受容性は
ブレ・ズレが一切なく動じることがないのです。

思い込み信じ込み押さえ込みでない
八風に侵されない信心は
本当にはそこにしかない。

概念では伝えられない奇跡である。

奇跡というものは、たまたまなんだけど
思惑ではないたまたまだからこそすごい。

ひとしく南無妙法蓮華経と開けば
過去も未来も寸分のズレもなく
奇跡の完全さであることを体験していく。

我々にとってはたまたま創価学会
たまたま大御本尊に巡り合っていることが

栴檀の浮き木に出会っている以上の
「考えることが出来ない」である。

宗教の枠組みを消しても
たまたま大御本尊であることが
我々にとっては完璧であったのだ。

大御本尊は
信仰の根幹であるからこそ
人間的感覚の思考概念では
語りきることはできない。

それは我見による法への不正となるからだ。

信仰の根幹であるからこそ
「あるがまま」「なるようになる」ことに
委ねるしかないのである。

これは無責任になれと言っているのではなく
「広宣流布の想い」によって
「なるようになる」を起こしていくのである。

例えば「なるようになる」とは次の動画のような状態である。

https://www.youtube.com/watch?v=xA_9cjvdqxk
伝説の対局【ブンゴ無双www】麻雀知らなくてもなんか笑えるwww

こういうことを起こして確認し
再選択した御本尊を対鏡として
思考ではなく感応を体感すると

一瞬一瞬が、
「あなたはもう久遠元初から和了ってますよ」
という状態が了解されていくのだ。

授けられし天和状態である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%92%8C_(%E9%BA%BB%E9%9B%80)

御本尊に巡り合っているのは
仏智による授かりものなのである。

日寛上人も間違いなく大御本尊によって
それだけの境智を得

創価の三代にわたる会長も
間違いなく大御本尊によって
広宣流布を進めたのである。

これは「一は全、全は一」であるから
一人によって、何を信じている人をも
救いきっているのである。

その意味でも拘りがなく
選択は自由である。
宗教の枠組みの消失も
影響を及ぼさないのである。

極論、人間の思惑での定義では御本尊を
いかようにでも語ることができ
鰯の頭も信心からという事になるし

非二元を二元と切り離してしまえば
御本尊も仏法も何も無くなる。

あるがままだからこそ
奇跡は奇跡である。

思惑は及ばない。

https://www.youtube.com/watch?v=G3Lvwp-2duE
【天和】世界初!生放送対局にて炸裂!【役満】

信心・御本尊とはこういう奇跡であって

https://www.youtube.com/watch?v=j0JBvkJu1_U
小島武夫のイカサマ つばめ返し

こういうことをしては
功徳は得られないのだ。

だから、いくら思惑を働かせたからと言って起こるものではなく
完全に授かりものである。

多重なパラドックスだ。
文章の伝達は概念であり
説明して、説明が終わることが無い。

等々とした上で、拘りを捨てても
その個別の志向性にとっての完全さの中で
必要ならば消えないし
必要ないならば残らない。

そして消してみないと現れない景色も含めないと
あるがままの完全さにはならない。

難しい、怖い、勇気がいる。
でも自身で確認し自得する以外にない。

難しく考える必要は無い。
「おもしろそう」と思うところだけ拾えば良い。



[531] 乱暴お許し下さい。

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年 8月 8日(月)22時54分36秒   通報   返信・引用

最近あたまのなかが変化しているようなんです。

ひとしく南無妙法蓮華経

なんかこんな感じのことを思うようになっているというか、口で言い現すのは難しいのですが

恐れず言うと戒壇の大御本尊への拘りが薄れていくような、法本尊の無終性へ惹かれているような感覚なんです。

ゆっくりとお題目を唱える今日この頃です。


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