いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


833件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[691] 自然反転現象

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月15日(木)03時43分33秒   通報   返信・引用   編集済

意識の反転の体得の
ストーリーの一例として

まず宗教を信仰し
仏法を信じることを可能にした
答えの詰まった意識の球体

題目を唱える時の
無我感覚が体得される。

円融円満法等によって
意識の球の固定性・限定条件
(信じ込み・思い込み)を
解除し無理に頑張らない。

呼吸法・トーラス瞑想
眼球運動等により
軸の上下を逆位置にもっていき
逆もまた真を自然体得する。

プルプル運動等の振動によって
宇宙生命の自然現象のトーラスエネルギーにそって
表面を波打たせる。

宇宙生命の自然現象のトーラスエネルギーにそって
仏法を信じ行じる中心軸をそのままに
宗教の信仰に関わる両極をそれぞれ半回転させる。
(2017.1.2 回転が足りていなかったのを修正)

今ここにフォーカスし
意識を球状に戻す覚知を体感する。

はい、これで無理なく球が反転しました。
矢印の向きが反転して救済者になります。

球の裏返し方
https://www.youtube.com/watch?v=SLQEIDeZSmQ

トーラスTHRIVE(日本語)
https://www.youtube.com/watch?v=LtyFci3Oxww

何がどう反転した体感になるのかは
体感してのお楽しみ。

レッツ ダウンロード。
是非、体感に落とし込んでくださいませ。

スピリチャルエネルギーによる
自然反転現象です。




[690] 宗教枠の解除

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月14日(水)03時21分23秒   通報   返信・引用

ここのところ
「自分は無い」ということを
言ってはいるが

本当のところは言葉が足りていない。

論理的な「これが自分という条件付け」は
幻想だということである。

それが幻想で無いのだとすれば
「自分でもこんなことが出来るなんて
思ってもみなかった」なんてことは
起こる余地がなく

与えられた条件通りの
可能性の乏しい閉ざされた世界となる。

自分自身という存在が
条件付けを解除していくと
無明・法性として開示されていく。

そうなっていくことが観心であり

日蓮仏法は本来は良く出来ていて
信行学によって

答えは我が内にありという
己心の法の自得が出来る
システムになっている。

法華経は
「読む」「開く」「悟る」「思い出す」
そういう展開される対象であるが

南無妙法蓮華経は
どうするということを言えない
そのものであるところが秀逸である。

本当は教学は知識のためではなく
反転した体感の気づきのためなのである。

第一期・第二期では
区別する必要が無かったかもしれないが

宗教枠解除の第三期の飛翔においては

仏法を信じ行じることと
宗教の信仰というものは

全くの別物だと明確に区別する必要がある。

仏法とは生命の法、悟りの法であり
仏教教義は同じ本質として語られる中の
一形態であり、体感への導入にすぎない。

宗教とは、人を寄せ集め信仰を仰ぐシステムである。

実は救済者への反転は
すべからく宗教の信仰を止め
自身が法だと悟ることによって起こる。

この宗教枠の解除は
自我機能の思考概念では険しすぎる。

自己機能の体感覚知によって
スムーズに変転が
自動的に起こっていることを覚知する。

法のため人のための
強い意志による体感覚知
法華経の非二元である。

広宣流布とは
宗教規模の拡大ではなく
生命の法の流通を言うのである。

人間のための営みへの蘇生である。

妙悟空・法悟空の記し残した金文字が
我が生命そのもの。

もちろん文底の体感としてである。

命を頂いているのだ。

自分で生きているんじゃない。
生かされているのだ。

明るく楽しく元気に仲良く。

輝かせていきましょう満面の笑顔で。

その光が奇跡であり自身なのです。

お忙しい中
日々の閲覧ありがとうございます。



[689] 主体・客体・大衆(二次的客体)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月13日(火)08時09分28秒   通報   返信・引用

唯物論・唯心論が
世界の構成要素の本質は何か
という観点からの二極分離
であるのに対して

唯識論は
客観的事実として
自身の意識(主観)以外のものを
誰も経験しないという観点である。

それは、認識という経験が意識だからである。

誰にとっても認識する前には
世界が存在しておらず
自身の意識の中で合成された認識を
経験している。

経験に対して何かを思うことが
主観であるが

何も思う前の経験は客観である。

見せられている。
聴かされている。
嗅がされている。
さらされている。

この経験に対して
もっと欲しいという欲求をしたり
これは嫌だという反発をしたりする。

しかしこれは
自身の意識が条件付けて作った幻想を
自身の意識が選別しようという
自作自演である。

一人という存在であるならばこれは
陶芸家が納得のいくものを作るための
制作と選別のようである。

問題は意識という世界に
他者が唐突に登場し
無視することさえも含めて
二者関係の交流となるところである。

主体として完結せず
次の他者に経験されることによって
選別の対象になる。

だから、主観は
良く思われたい
認められたいと思うのであるが

良く思われているかどうか
認められているかどうかというのは
自身の意識が情報によって
作り上げる産物しか経験できない。

本当はどう思われているのか
不安になって洗いざらい説明してもらったとしても
その説明の情報を元に意識で合成されるだけで
誰も本当の他人には辿り着けない。
分かりえない。

誰も辿り着けないことが確定しているものを
本当に存在していると確認する努力というものは、
空をつかもうとする様なことである。

厄介なのはこれが他人の事だけではないということだ。

本当の自分を知りたいと思っても
その自分の認識も意識の産物を経験しているだけであり
認識として思い込む以上のことは出来ない。

だから一層、他人の目にどう映るのか気にする。

思い思われ思いつくす。
思い込みの上書きの世界である。

大衆の思いは基準を求め合意を形成する。

「太陽が地球を回ってるってことでいいよね?」
「ウランって暖かいし健康促進物質ってことでいいよね?」
「こんだけ失敗したんだから非科学的なことを言う人間は悪ってことでいいよね?」

不安・臆病が生んでいる
イジメ的構造である。

この根源が

「自分っていうのはあるってことでいいよね?」
である。

自分があるということは観察される側があるということで
対象化が生まれる。
対象化されると何かしらのニュアンスの思いが添付される。
「これが良い」「これが悪い」と思っていることが
客体に向かって意識的に伝えずとも伝わる。
このこと自体が、自身の意識の中の世界で起こる事であり
主体の選別、客体の選別、大衆の選別が自身の意識世界にあり
意識的に「自分にも言い聞かせる」ことがあるように
自分は主体であり客体であり大衆である。
自身の生命現象として思い通りではない
期待依存の反転の報いが起こる。

非二元も

「非二元は良いものだ」という思いの
思考概念としての働きは

概念の押し付けを免れない。

非二元は
良いも悪いもない

ただ自分も宇宙もない体感の
今ここである。

これがあるだけ。

救いでもなんでもない。

これがあるだけ。

なるようになるだけ。

これは良いと思うとか
これはダメだと思うとか
「どうでもいい」

そんな次元じゃない。

しかし伝えようという時には
どうしても概念化が起こる。

これのコントロールが
救済者の手腕である。

現象連動の起因
下種の法である。



[688] 意図の糸

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月12日(月)10時11分34秒   通報   返信・引用

糸に引っかかると
振り回される

これ当然の事

太い意図を思惑という

思惑に乗っかると
そこに囚われる

意図・思惑
思考概念によって
ままならない自分が
ある事が強要される

自分を守ろうとすることが
実は意図・思惑の支配を受けることを
正当化するために起こっているエゴである

与えられている生命ということが
反転して支配に利用されている

法のため人のためという飛翔が
意識の範囲を変化させる

今まで逃げようがなく
大地だと思っていた思惑も
ささやかな抵抗値の糸のように変化する

全体を現象として見る視点を得る

俯瞰である

意識をもっと大きくすると
全宇宙となり

人間世界のことなど
無いといえるレベルになる

ついには意識から
自分と宇宙が消える

ただあるという変化は

そのようである現象である

法華経方便品の諸法実相
仏と仏だけがよく知っている十如是とは

そのようにある
それの在り方である


私が私の
思考概念のアスレチック

志向性によって

小難しく理屈をこねていることでもある

それは解除パーツであり
後にはこだわらない引きずらない

文上は過ぎ去る物語
文底は飛翔する体感である

体感を落とし込み
物語を解除する

法華経の非二元は
意図ではない存在覚知である



[687] 自作自演

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月11日(日)19時09分3秒   通報   返信・引用

そこに見えているのが
自分の意識であるということを
阻害しているのが
自我の二元思考である

そこにあるそれを
直接には
そこにあるのではなくて

意識がそれとして
作り上げた世界を
重ねたものが
それとして認識されているだけである

もちろん
五感に入る外部刺激によって
形成しているはずで

そのように認識されるべきものが
あるはずではあるが

直接に体験しているのは
意識が合成した世界であり

自分で自分の意識の形成物の一部を
意識が意味付けし分離を経験している

自他・優劣・有無・勝敗

条件化されたパターンの模倣

生き方形成

良い生き方と悪い生き方

世界と分離して自分が存在していると思っている

しかしその自分も
自分で自分の意識の形成物の一部を
意識が意味付けし分離を経験している
だけの産物である

~~なら~~という
条件付けを全て取り除けば

誰もいない何もない
意識の世界だけがある

ただ意識という現象の経験だけである

意識は自動的に意味を作り
分離することが条件付けられている

その解除のために
呼吸法・瞑想やエネルギー体感運動
右脳左脳のスイッチングの方法
などがある

考える世界の中では
意味付けの分離が強化されるだけなのだ

無分離の意識の世界には
認識されるものがただある世界なので
過去も未来も距離もない

何の意味も持っていない
今という刺激が
条件付けによって
認識されるのである

このようなことによって
何を覚知するのかというと

存在智そのものが
愛であるということである

良い人間だからできるとか
悪い人間だからできないとか
そういう思い込みが二元論であり

やって思考概念を解除すれば
誰でも覚知できる

0の次は1であるというのが思い込みである

0の次は0.000001かもしれないし
0の次はAかもしれないし
0の次はあかもしれないし
0の次は100かもしれない

0の次は原子かもしれないし
0の次は人間かもしれないし
0の次は星かもしれないし
0の次は宇宙かもしれない

空の覚知が全てになるという現象化である

良い悪いを見て苦しむのは
自作自演の物語である

何もないことによって
色々があるということを経験しているのが
意識なのである

現実界で経験しているのは
生の味わいである

中現界で経験しているのは
心象の体感である

絶対界で経験しているのは
無・空の絶対存在である

理由付けに囚われた
情動の物語を
自分と見て
過去や未来にフォーカスし
分離条件を重ねることが

敵対・衝突・苦しみ
ストレスの選択を生んでいる

人間的概念の適応が
大いなる自然から
ズレてしまっているのである

人間たちが自分で作った現実を
人間たちが自分で演じているのである

自分が無いというのが
本来の自然なのである



[686] 次元の数え方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 9日(金)03時42分3秒   通報   返信・引用

観術的な次元の数え方は
物理学的な数え方とは異なると思う。

観術的な次元の数え方は

物質としての世界が三次元
心を重ね入れて四次元
宇宙も自分も無い覚知を重ね入れて五次元である。

観術の三次元は
物理学的には時空間である四次元迄であろう。

四次方程式までは解を求めることが可能であり
五次方程式以降は特殊な場合を除いて
解を求めることが出来ない。(らしい)

求めるべき対称性の限界がある。(らしい)

つまり四次元以内においては
滞りなく対称性から分離した解の物質として
独立したマクロ的存在を確保できるということだろう。

これは物理学的な知識をもって言っているのではなくて
現象智の観点から言っている。

観術的な四次元は
物理学的には超弦理論の11次元迄であろう。

独立したマクロな物質存在としては確保されないものの
起こっている変化、情動の存在である。

ここにおいて有無の二重存在
パラレル世界
同時現象
様々に展開する。

展開し語られる不二・非二元は
主にここになる。

次の五次元は多くは語りようがないからである。

が、この四次元では相互であるとはいえ
厳密に完全に同時にはならなく
未だ差異はありにとどまる。

観術の五次元は
物理学的にも確定できない12次元ではないかと思う。

12は一周の数字である。

12個だからダースですの
チョコレートの12月12日の
キャンペーンをコンビニで見かけたことを
きっかけに

この文章は生まれている。

というのは脱線だが

12時間、12ヶ月、干支の12年
五字七字の5+7=12

1セット1周であり
12=0である。

アナログ時計を見れば
12=0は分かりやすい。

12=0は
悟前と悟後を分かつ正悟であり
円環、ウロボロスの頭と尻尾である。

正悟の中には悟前も悟後も
存在していないし存在している。

未満と見るか以下と見るかの違いの
瞬間の妙である。

有るといえば有るし
無いといえば無いという瞬間の
正悟であるが

これが無いことには
悟後は始まらない。

しかしそれは円環であり
その時初めて始まるものでもない。

時計においてあるのは
現象の推移の間隔に対する
地球の運行に合わせた
認識するための意味付けである。

生命の今という現象においては
本当は何時かという違いは無い。

12という次元には物理学的にももし
そういう無に帰すような特質が
あるのだとすれば

物理学において
それはなかなか取り扱えないと思う。

法華経における
「その時」は

いつか特定の時ではなく
いつでもなく
いつでもある時である。

物語を見れば
物語の特定の時になる。

生命現象を見れば
瞬間の妙のその時になる。

文章化、概念化できない
非二元体感の

概念のエアポケット
空のフォーカス。

現象の起こり方の
同時代の
自身の生命現象の
チャクラ体感。

誰でもが
それである。



[685] 真如とは無分別智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 8日(木)11時46分59秒   通報   返信・引用

「不変真如の理に帰す」
迷いから悟りへ(九界から仏界へ)

「随縁真如の智に命く」
悟りから智慧へ(仏界から九界へ)

「真如」とは「無分別智」である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E5%88%86%E5%88%A5%E6%99%BA

分別とは二元論であり
無分別とは不二・非二元である。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000q85.html
~~分別は分別のままにそれに固執しない智慧の世界が開かれる、
それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。~~

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書1244ページ9行目~12行目)

御書自体は
日蓮大聖人己心の仏界から
九界の衆生へのメッセージである。

その仏界も全く余所に求めてはならないと
求道者から救済者への反転を促す
内容となっている。

十界具足とは十界一界もかけず一界にある
ということは
一切は自身の生命現象であると覚知せよ
ということである。

外に見えている一切の要素は
自身の中にあるものであり
自分だけにあると思っている自分も
ここにあるのではなく全部の中にある。

この自身の生命現象を覚知する時
これが輪円具足とも功徳聚とも
表現される「御本尊」である。

この覚知によって自身が
日蓮大聖人と同じ
救済者として反転される。

このことの星が
九識心王真如である。

一切の有ると言えることは
同時に無いと言えることである。

自分というものも
宇宙というものも
因果というものも
全てである。

ただ確かなのは認識前の
今一瞬の一心にある
その一切全てである。

その一切の完全な無分別智が
生命現象の王である。

此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり
とは

一切の有ると思っているモノ・現象は
一心が有るとしている自身の生命現象であり
その二極さえもない
「何もない」からの起こりの智慧が
無分別智であり

無分別智があるということが
御本尊があるということである。

文章を見れば知識になる。
現象を見れば智慧になる。

どう起こるのかの現象である。

考えるんじゃない
感じるんだ。

見るんじゃない
起こせ。

必要なのは
囚われから離れる
一瞬の勇気だけ。

嫌な感じがするのは
自分が嫌な人間であることを
ため込んでしまっているからだ。

それを解消しないと
罪障消滅しないでしょ?

運動場に放置された長いホース。
と戸田先生が例えられたのは

今に生きることをしないで
思考概念の中で
ネガティブの溜まった自身。

水を流せば最初は泥水が出る。

嫌な感情・嫌な出来事が起こる。

溜まっていた泥が出終わったら
あとは綺麗な水が出る。

まぁ、これは単純な例えで
一本道のホースであるが

生命現象の全体は
張り巡らされた水道管
のようかもしれない。

水っていうのは
「歓喜」です。

本当は泥が混じってようが
何しようが歓喜なんです。

無限の水源を覚知することが
歓喜の中の大歓喜です。



[684] 物語のパッケージ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 7日(水)12時13分56秒   通報   返信・引用

現象の本質は
宗教などという枠組みを
始めから経験していない

思考概念が
それを有ると思って
デコレーションしているにすぎない

宗教という枠組み
そのパッケージに入っているものは

ただ留まることの無い現象である

有るのでもなく
無いのでもない
何もかもの同じである

本来に帰れば
そのパッケージ自体も
それの現れであるから

その枠組みも消失する

囚われの無い
抵抗値の無い
フリーの生命現象となる

宗教を存続させようとしているのは
特別さを獲得しようという思惑である

フリーである生命現象を
なんとかコンパクトに納め入れて
その恩恵にあやかろうという試みである

しかし人間には
生命現象自体をどうこうできない

観測技術があるだけである

宗教の違いは本来
その方法の違いと
その観測結果を生活に役立てるための
便宜的に付加された物語の違いである

本来の物語は
生命現象と生活の橋渡しである

生命現象はフリーであり
特別にどこかだけにあるものでは
ないのが本来である

だからこそこれは
直接に流布することができない

当たり前にあるものすぎて
誰の目にもとまることが無く
そのままでは真価に気づかない

だから生活向上のために
物語を流布するのであるが

この物語が特別であると
思ってしまうところが落とし穴である

すったもんだの末に
生命現象の無視された
全く異質のものとして伝聞される

これが不幸の原因となる

現象と生活の橋渡しとして
星座の位置を見て
農業の時期を見たりすることがある

自然と一体の活動として
人間の生活があった

どの星の配置に
どんな星座を見て
どんないわれを付加するかは
文化の違いであるが

結局は同じように時期を見る

本質は同じなのだ

どっちの物語を優先させるかなんて
本質には関係が無いのだ

生命現象はフリーである

本来衝突は起きない

思考概念の物語の拘り
思い込み
信じ込みが
衝突を起こす

生命現象から離れた人間が
自分勝手な幻想をぶつけ合って
争っているにすぎないのだ

生命現象に帰ることが悟りである

思考概念の物語から離れ
思い込み
信じ込みを
解除することによって

生命現象の体感が復活する



[683] 楽ちんこ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 7日(水)03時40分24秒   通報   返信・引用

身なりさん

順調にまともな非二元にシフトしていますね。

良い感じです。



[682] 虚にして実 実にして虚

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 6日(火)12時55分49秒   通報   返信・引用

最近あらゆるこだわりが薄らいできて楽になってます。

果たしてそれでよいのか?そんな風にすら思ったりもします。

それではダメかもしれないけど、それも答えがないので深刻になりません。

唱題の時間も決めず、あげたいだけあげる。

今朝みた夢と現実の区別が曖昧になり、妻との会話で認知症を疑われるのがちょっと恥ずかしいくらいです(^^)



[681] 覚り

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 6日(火)11時14分15秒   通報   返信・引用   編集済

仏とは
5次元の身口意。

対象化した物語の中に
見る仏は迹仏。

体感した非二元の中に
顕れる仏は本仏。

日蓮大聖人とて
対象化すれば迹仏。
体感すれば本仏。

イエスキリストとて
対象化すれば邪教。
体感すれば正法。

仏のための条件には
仏教の信仰は関係がない。

釈迦の法華経だけが
法華経(生命の真実)でないことは
法華経自身の中にも説かれている。

過程の一つとして
仏教があるだけである。

宗教の違いにせよ
何の違いにせよ

紙の表裏を見ているだけ
のようなものであり

両方は同時で一体である。

そもそも、その紙自体が
違いを作ろうという自我機能が
生み出した幻想なのだ。

一時的ツールであり
絶対的本体ではない。

あらゆる差異
九界の現れの違い等は
一時的ツールであり

色心不二という一極の
5次元の観点が仏である。

そこには有るものは無く
無いものも無い。
無いが無いということは
無いが有るということでもある。
有無に非ずである。

色心不二の一極は
ツールを本来あるままに
使いこなす観点である。

現象の全ては自身のツールの
振る舞いなのである。

一は全、全は一であり
あるようにあり
なるようになる。

それは認識できるわずかな部分だけでなく
認識する術のない
無としか言いようのないものも
認識する術がないことも認識できない
虚としか言いようのないものも
含んだ無限である。

虚無ではなく
虚無の克服が次元上昇なのだ。

ゆえに全ての振る舞いは
「歓喜」である!

恐れるものは消え去るのだ。

始めから無かった。

幻想を見ていただけなのだ。

覚者はおしなべて言う。
「目覚めよ」と。



[680] 学問発達の三段階

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 5日(月)12時50分40秒   通報   返信・引用

http://6027.teacup.com/situation/bbs/61105
~~創価教育学体系一巻より 学問発達の三段階

「第一期は人類は多数相集り社会を形成して種々の生活行動を日常経験しながらも、未だ真理に対する自力的認識の能力が発達しない。其れが為に先覚者の人格を信じて、其の人の言葉を一も二もなく尊重して、決して間違いはないと、少しの疑いもなく信仰する時代である。」

「第二期は人智がやや発達して、今迄他人にのみ依頼して居た状態の中に、自分の経験からたまたま或真理を発見して、自己の力を過信して来る場合である。あたかも或る小さな発明家が其の初期に於ては、他人から見て児戯に類するようなことでも、非常に熱中し、誇大に信じて、其の価値を正当に判断するに遑(いとま)がない状態の如く、一切の真理を自分の経験に依って決定せんとする時代である。」

「第三期は自分の力をむやみに過信した第二期生活の反動として、単に自己経験のみに執着せず、広く衆人の同様な経験を比較対照し、且出来るだけの材料を集め、それに依って科学的、合理的の概念・理法を構成する時代である。」~~

第一期

日蓮の真意の直系、日寛教学の有る
日蓮正宗に習い日蓮仏法を学ぶ。

第二期

創価学会独力の経験と実践によっての
構築体を熱狂的に語り広げる。

第三期

脱構築によって広く生命の真実としての
無限性を開花させる。

三段階が階層的に
個人や団体
科学や教育や宗教に
適応しうる見方であるなら
それは深い洞察である。

創価教育学体系は
初代会長牧口先生がバラバラに
メモしていた考えを

後の二代会長である戸田先生が
まとめあげたものだったかと思う。

この洞察の継承
自身の体感への昇華
開かれた世界との交流

によって、創価は拡大した。

だが、これを継承し
次の段階に昇華させられるのもが
創価の中心にはいないのが現状だ。

そうであるならば個々人の
飛翔によるところとなる。

脱構築によって広く生命の真実としての
無限性を開花させる。

実のところ
大乗仏教とキリスト教は
共通点も多いようで

見方によっては
大乗仏教の仏って
キリストの事でしょ?
とまで言えてしまう
可能性もあるようだ。
https://www45.atwiki.jp/scarboroughfair/pages/48.html

アルベア論に紹介された「心身の神癒」は
キリスト教系の真髄に迫る書物であるが

目を通し体感に照らせると
「ここに語られているのって
一念三千だよね」と思う。

キリスト教にせよ
法華経にせよ

「観法」によって辿り着くものは
「同じ生命の真実」なのだ。

構築の方向だけでは
絶対化、神格化、権威化になる。

観法は観点の変革である。
観点が生命の基底部なのである。

五眼三身のステップアップが必要なのだ。

スピリチャル系や
マインドフルネス等は

非宗教系の観法の取り組みである。

第二期で止まっては
一でしかないものである。

一は全、全は一となるためには
第三期の飛翔が必要である。



[679] 脱構築

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 4日(日)11時01分25秒   通報   返信・引用

アルベアさんのメッセージ自体は
アルベアのブログで絶賛継続中
及び、宿坊板の本スレに登場したり
しています。

アルベア論スレッドは
書き込みが1000に達したことで
新規書き込みが出来なくなり
終了しました。

書き込みが1000に達することで
新規書き込みが出来なくなることは
アルベア論半ばで判明していたことです。

アルベアさんは
「そうなること」に対して
自我機能による抵抗をしませんでした。

変わらぬペース
変わらぬやり方で投稿を続けたのです。

自我機能の上では揺らぎもあったかもしれませんが
それもそれとして
ただ現象として1000に達して
アルベア論スレッドは終了したのです。

パラレルの別世界では
アルベア論スレッドは途中放棄されたまま
終了していません。

奇妙なことを言っているように思うかもしれませんが
私たちの今いるこちらは
了解が現象化しシステムが反転する側の
選択された宇宙なのです。

誰の自分も無い現象が
アルベア論スレッドを満了させました。

「なるようになった」ということです。

この奇妙な解釈も
羽蟻の例えも

「ゴーストが囁いてる」感じで
語っています。

ゴーストの囁きは
マンガ「攻殻機動隊」に登場する概念です。
http://kitajiro.tumblr.com/post/55170591871/%E7%90%86%E6%80%A7%E3%81%A8%E7%9B%B4%E6%84%9F

ゴーストの囁きを検索すると
仏法の「而二不二」に通じるような
哲学の「脱構築」という概念と
結びつける記事がヒットしました。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20130521-00025100/

【哲学の小授業】脱構築ってなあに? デリダのアイデア太極拳!
http://togetter.com/li/327089

「家の呼び鈴ボタン」っていうイメージは
私が作ったのか身なりさんが作ったのか?

どちらともいえない二者関係が生んだのか?

ひっくるめて自身の生命現象です。

私が
「家の呼び鈴ボタン」っていうイメージには
こういう心理的要因があるに違いない
なんて決めつけたとしても

それは私の生命現象なのです。

「みんな違ってみんな良い」
「みんな同じで誰もいない」
どちらにしても
概念の構築です。

どこから生まれたのでもない囁き
直感というものが

非二元者の語る体感に含まれているのです。

自然の働き作用なのです。
蘇生・奇跡という生命現象なのです。

今しかないという感覚は
最初のうちは
「マジか?これ大丈夫か??」
という思いが起こったり

新しい時間感覚に慣れていないために
仕事上の
「やってきたこと・これからやること」まで
「今やっていること」しかない中で
抜け落ちるような感じがしますが

感覚に慣れると使い方が解って
問題なく充実した楽しい生活を送れます。

最初は自分の戸惑いもあり
他人にどう映るのかも気になったりするかもしれませんが

自然に解放されていきます。

他人にどう見られるかとか
「どうでもよく」なると
人との交流も活発になり
たくさんの発見があります。

楽しく歓喜に満ちた状態が復活します。

父子一体の生かされている幸せ。
大切にしてください。



[678] アルベア論

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 3日(土)23時50分52秒   通報   返信・引用

ご自分で終了されたのでしょうか?(/_・、)



[677] 羽蟻

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 3日(土)23時49分26秒   通報   返信・引用

羽蟻の話、身に詰まるものがありました。

話変わりますが、最近いつも今なんです。
時間の感覚が鈍ってます、サラリーマンなのでほどほどに

他人の子供に優しくなりました、これは良い

指先ひとつで最初に浮かんだのは、家の呼び鈴ボタン

今晩も横には甘えん坊やが優しい顔で寝ています。
とても感受性が強い子です。私の幸せです。



[676] ルカ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 3日(土)12時24分53秒   通報   返信・引用

「意味」が「解る」のは
概念を理解する思考であり
ストーリー化
マニュアル化された
後付けの分離の
尺度体系です。

現象そのものであることは
体感で満了となる覚知であり
分離の消失
特別さの消失された
囚われから解放された
今ここの意識の
全体性です。

理解と満了は相互です。

帰命とは了解です。

妙法蓮華経とは生命現象です。

南無妙法蓮華経とは
生命現象の了解です。

生命現象とは

右脳的体感の全ては一つの
差別なき無限平等性の
無・空の直感と

左脳的思考の区別するための
分別ある無限英知の
救済の働き作用の

統合存在であり

反省・懺悔して
正しい法のためにリライフすることと

相互である人々のための
救済の慈悲の活動であることが

同時存在であることの

振る舞い音声・ハーモニーが
生命現象です。

これを貫いているのが意識であり
俯瞰が可能なのです。

俯瞰とは自我機能から離れる技術です。
自分が無いと悟ることがその技術です。

自分が無いと悟ることは
不二の覚知です。

タマネギがタマネギであることの中心は何かということと
人間が人間であることの中心は何かということは

量子的ゆらぎの現象の現れの違いでもあり

本質は互いに無・空であり不二です。

現象の経験・自己観察によって
恐怖を取り払うのが自我機能の解除です。

恐怖とは
思考概念から離れれば
失うものがあり
自分が損なわれるという恐怖です。

そこはパラドックスであり
得たり損なったりすることのある
自分が存在しているということが
自我機能の生み出した幻想なのです。

その幻想の自分を離れてみても
意識は全く変わらずに存在し続ける。

むしろ自我機能で考えていたよりも
もっと豊かで
なんの囚われもない自由な歓喜であり
無限の愛の光なのです。

これを垣間見ていくことが
気づきであり
深い体験になると一瞥体験なのです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/l50

アルベア論スレッドの満了は
了解という現象そのものなのです。

無限の智慧への変換は
受け手自身の生命現象です。

意識が反転されれば
宿命は転換されるのです。

アルベア論は戸田先生の生命論なのです。
アルベア論は池田先生の広宣流布なのです。

ストーリーを見るから
違いを認識するのです。

このストーリーの崩落・解除が
無限の生命現象への
解放であり飛翔であり蘇生なのです。

安心してください。

貴方を捕らえているものを失っても
貴方の生命現象は失われません。

ロックで読み解く貧困 (2) 子どもの貧困- Suzanne Vega “Luka”
http://kokoro-mahiru.org/archives/282



[675] 崩落・飛翔・蘇生

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 2日(金)12時12分4秒   通報   返信・引用

尺度と存在は両極です。

尺度の崩落が
存在の蘇生であり

そこには飛翔があるだけです。

自我機能は
「そんなバカな」
と言って尺度にすがろうとします。

存在は
なるようになるだけであり
寄り添うことが救いです。

例えば、日本国内の組織的活動力は
人口の減少により縮小していきます。

「そんなバカな」「こんなはずでは」と言っても
なるようにしかなりません。

自我機能は崩落しゆくものを
崩落させずに留めようとしますが

実際にそれで留めようとしているものは
使い古した尺度体系・旧システムでしかないのです。

存在そのものの中で
存在そのものの振る舞いがある事が
生命現象なのです。

尺度というものは
便宜的に一時的に
存在の振る舞いに気づき
合致するためにあるだけです。

同時代現象です。

時代が転換すれば
旧時代の暦・尺度体系は
無用になります。

時代が転換することによって
破綻し、作用が逆転するからです。

三代の創価が目指したのは
時代の転換です。

飛翔することが
三代の願いの体現者であり
救済者への反転であり
10万の山本伸一の一人になる事です。

例えば蟻のコロニーでは
時期を迎えると羽蟻が生まれ
新しいコロニーを築くために
飛び立ちます。

自然の働き作用
繰り返しの循環
健全な新陳代謝です。

委ねれば
存在が持っている働きが
力として顕現されるのです。

変化は存在の上に起こっているのです。

寄り添えば飛翔するのです。



[674] ゆびさきひとつ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 1日(木)05時01分12秒   通報   返信・引用

ゆびさきひとつ

ただの言葉です。

「ゆびさきひとつですね」
おわり。

さて

複雑で窮屈な現代社会の中で
多くの人がストレスにさらされている。

間違っていないように思うが

反転してみると
そういう解釈にはならない。

ただそうある現代社会というものを
自分があると思っている多くの自我が
ストレスと見ることを選択し経験している。

となる。

ゆびさきひとつ

解釈は無限にある。

人差し指と解釈するかもしれないし
他の指と解釈するかもしれないし
特定の指じゃないと解釈するかもしれないし
一ということだと解釈するかもしれないし
造作もない事だと解釈するかもしれないし
指をさされ自分のせいにされたトラウマを思い起こすかもしれないし
平仮名表記である事の意味を考えるかもしれないし
逆から読んでみたりするかもしれないし
北斗の拳を思い起こすかもしれないし
世界を終わらす核ミサイルの発射ボタンを押す指を考えるかもしれないし
コリをほぐす緩消法を連想するかもしれないし
掲示板への書き込みの作業を思うかもしれないし
悟りへの気づきを得るかもしれない。

瞬間の妙
呼応・選択が
芋づる式に現象を流れ起こす。

自己機能の世界では
愛の求めに対して愛が渡される
都度の受け渡し受け取りである。

ストーリーが無ければ
相手が誰かは関係がない。
個別が無い。

成功も失敗も
都度のただの出来事である。

最小限の自我機能の選択は
最大限の自我機能の活用である。

瞬間の妙による選択の
連鎖開放なのである。

経典は人間が作ったけれども
仏法は人間が作っていない。

人間が仏法で出来ているから
衆生が仏を生むのである。

それをストーリー化したものが
経典や御書である。

仏法、生命そのものには
ストーリーは無い。

因と果一対の同時と
その場である。

例えば
謝罪・懺悔と許し・受容は一対である。

謝罪・懺悔が無いのに
受け入れてもらい偉くなろうというのは

歪であり仏法に反している。

本当の強気の前進には
懺悔し改める勇気が含まれる。

体感すれば解る事だ。

偉いつもりの意識体が
「もうやめてくれ」と騒いでも

やめるはずがない。

従来のシステムは
反転するのだ。



[673] 体感の落とし込み

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月30日(水)12時09分12秒   通報   返信・引用

例えばテレビゲーム

コントローラーを握って
もくもくとプレイしているのが
自己機能

横であーだこーだ
知識を披露したり
失敗を責めたり
成功を褒めたりしているのが
自我機能

口出し無用の体感の瞬間と
後追い先読みの口出し。

テレビゲームが行われている
という場の意識。

意識の両極。

生まれる起こる
エネルギーの循環。

成功・失敗。

繰り返しのプロセス。

伝えるためには
思考概念への変換が起こっている。

変換前には変換後の概念は無い。

現象の不生不死、不出不没

主体の
世に出現したり入滅したりすることなく
実にもあらず虚にもあらず
そのままにもあらず
そのままでないにもあらずという
如実な知見。

納得できるまで
自然の振る舞いとして違和感がなくなるまで
深く深く、
そして始まりの無い無限の深さが
今この瞬間だということに合致するまで
繰り返し落とし込む。

アルベアのブログ 「生命現象」の浄化方法2 「体感覚知」メソッド
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12224205922.html

アルベアのブログの読者のゆだねライフのすすめ
ブログ記事 エゴの正体
http://ameblo.jp/youngliving-aroma/entry-12222519461.html

落とし込めば
同じが起こる。
同じが解る。

池田先生の言葉・行動・心を学んでも
同じことが起こせる方向にないのは
落とし込めていないからである。

切文を自己都合で利用する。
利用していることに
自己観察が無いから気づけない。

落とし込めていないということは
異質なままである。

異質なまま真似をしようとしても
異質なことしか起こらない。

異質が起こるということは
気づくための現象化である。

こんなはずではなかったという
プロセスは

誰もが通る気づきのための段階である。

その先へと飛翔する勇気。

それによって同じが起こっていくのである。



[672] 反転とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月29日(火)04時09分37秒   通報   返信・引用   編集済

私はここで「反転」は思考概念の解除のために
やや多岐な使い方をしている。

アルベア論的本意は
悟り以前の現実の求道者から
悟り以後の世界の救済者への反転である。

法華経の智慧1-5「二処三会 永遠と今との交流」
http://d.hatena.ne.jp/kon890/20100208/p1

~~前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば「現実→悟りの世界→現実」という流れです。より正確に言えば「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の世界」という流れになっている。時空間や煩悩・生死に束縛された現実の大地から、鎖をたたき切って、それらを見おろす虚空の高き境涯に到達しなければならない。~~

悟り以前には、教え(法)を求めながらも
自己都合の思考概念により変換して
信じ込む・思い込むという上書きになる。

悟りそのものは反転すべき対象が無い特異点である。

その特異点を経ることによって
求道者から救済者への反転が起こる。

二者関係の反転が起こり
救済の完了が起こる。

本当の救済者は
救済の完了者である。

そこへは
「法のため」「人のため」という
全身全霊によって至る。

悟りには段階がある。

悟った後の生活
http://www.tokyofgs.com/seiun/archives/book/book4/book4-3/book4-3-12.html

反転の展開である。

了解は救済の完了であり
広宣流布の完了である。

体感・体験・覚知し
自身の生命現象として飛翔することでしか
至れない。

自身の癖・欠点という
生命現象への抵抗を見つめ
なくすことで飛翔するのだ。

恐れてはならない。

知らないから怖いだけなのだ。

知らないものは知らないのに
恐ろしいものだと思い込んでいるのだ。

全部知っているつもりなだけ。

何も知らないのだ。

知らないことを知らないと認め
体感・体験していく勇気が
仏性へ通じるのである。



[671] 二者関係

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月28日(月)12時37分17秒   通報   返信・引用

親・子関係
師匠・弟子関係
雇い主・雇われ従者関係

仏・凡夫関係

これを画一的な上下関係と見るのは
思考概念なのです。

逆もまた真
反転しても変わらない真実

生命の平等性
生命の無限性
生命の活動に気づくためにあるのです。

「我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり」
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」
です。

創価・会員関係
日蓮・教団関係
白法・邪法関係
信仰者・非信仰者関係

「折伏」は何のためにするのか?
何に気づくべきであるのか?

五重の相対のうち
日蓮・日興において強調されているのは
「本門」です。

その次の最後の相対は
種「今ここの自身の生命、己心の法」と
脱「信じれば(期待依存すれば)救ってくれる仏の説いた法」の相対です。

末法の御本仏・日蓮大聖人が顕した
三大秘法の南無妙法蓮華経。

出世の本懐の御本尊はどれか?

そこに求めているものは何か?

今のままの自分では「正しくない」から
仏が用意してくれた「正しさ」にすがろう
という心・思考概念が作った幻想です。

信じようとしているだけで
信じていないのです。

差別があると信じてしまっているのです。

「学会の指導と違う」

逃げています。
自身の生命現象を見ようとしていない。

本来その殻を破るための「折伏」なのです。

相手への批判が
そのまま自身への批判でもある事に
気づくためです。

謙虚でなくてはいけません。

成果を優先するから
自慢話に花を咲かせるから歪むのです。

相手の間違っているところをあげつらって
その点、自分のところはこうだというのは

その手法で証明しようとする「正しさ」には
無限の種類があるのです。

相手の側から見ても、
本当はそれを同じように言えるのです。

文底から見れば
パワーゲームに勝つことが折伏ではないのです。

上手くいかないことがあるのに気づいて
反転させるためにあるのです。

創価なんて全然正しくもないし
大幹部になったって全然偉くもありません。

そこにいる謙虚に誠実に
自身と向き合っている人々が尊いのです。

個々人において個々の悩みについては
反転は常々に見られる現象です。

ただそこで止まってしまうのです。

その現象を創価に帰属させるから止まるのです。

自身の生命現象なのです。

誰にでも起こる
誰もが持っている
生命現象そのものに気づくのです。

これが宇宙そのものなのです。

これが不二そのものなのです。

思考概念はくっついていないのです。

一切の「言葉」「枠」はありません。

無・空です。

「学会の指導と違う」というのは
臆病であり魔なのです。

この弱い心に付け込んで
好き放題やろうというのは
自覚の有る無しに関わらず
それが第六天の魔王です。

そういう従属させる権威なのです。

従属されない民衆のための仏法です。

自身の生命現象の解放であり
それが飛翔なのです。

一切の思考概念・枠組みに惑わされずに
生命現象そのものを見よ。

このどこかにあるのではない生命現象こそ
己心の御本尊なのです。

一切差別がありません。

それしかないのです。

http://sgi-shiteifuni.com/?p=8112
「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり
所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書 p790)
「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)

等といっても
このことなのです。



[670] 生死一大事血脈

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月26日(土)04時41分55秒   通報   返信・引用

経験とは何か?

何が何を経験するのか?

経験とは
変化する現象であり

似た環境・状況において
同じように起こる
変化の方向性のストック

因果、縁起、業、カルマの渦中である。

人間は脳の大きさゆえに
複雑な経験を理解し
その裏側にまで
対象化、モノ化、記号化という反転を用いて
見通す潜在力を持っている。

だが、これの産物に期待依存することによって
反転しっぱなしの、創造された幻想の中で
本来の経験を見失う。

経験は、脳が経験するのではない。

脳と呼べるような組織の無い生物も
経験によって、
実に理にかなった進化を
多くしていて
環境状況に合わせて行動をとる。

ここにエネルギーが働いている。

人間が識別するような個々の生物だけでなく
環境を含めた全体性の中にも
調和されたエネルギーが循環している。

それぞれがその場所で
それ通りに輝いている。

宇宙が現象を経験しているのだ。

そこには良いも悪いも
海も山も点数もない。

人間が反転して文化を見ているのだ。

本来は宇宙の経験現象の
充実した体感覚知のためであるべきであるが

文化を分化した社会を形成し
それを認識コントロールしようとする
自分を作り上げている。

経験を逆手にとって
バイアスの掛け合いの
パワーゲームを展開する。

宇宙生命の本来から離別し
エネルギーの供給が減り閉塞する。

宇宙エネルギーに帰ることが難しくなる。

パワーゲームの経験によって
幻想、思考概念の上書きしか
前に進む方法を選択できなくなっている。

思考概念の解除に対して
恐怖と怒りを覚える。

安直に自己都合で落ち着こうとする。

バイアスがかかっていると言えば

バイアスはダメというバイアスで
上書きをするといった塩梅である。

反転した世界に行くことが悟りではない。

反転していない世界に帰ることが悟りなのだ。

宇宙の経験
エネルギーの循環。

その悟りのための
気づくための
意識と投影された世界である。

これがある事が歓喜なのであり
これに基づくのである。

これは命なのである。

我が生命現象が宝塔である。

光り輝くエネルギーの光である。

人と人
命と命

響きあい不二となって
命脈となる経験なのである。

これを
生死一大事血脈とは言うのである。



[669] 不可避の経験と内在の顕現

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月24日(木)00時42分39秒   通報   返信・引用

方程式というものは
もし、その人が発見しなくても

いずれ誰かが同じものを発見するし

発見された後にも発見される前にも

何も変わらず厳然とその法則は
存在し続けている。

生命の法則もそのようである。
それを完璧に解き明かしたのが
南無妙法蓮華経だ。

というのは思考概念である。

対象化されモノ化されているので
自分の信じているものとして
「思考が自分」になって自己の
体感覚知が欠けているので

誰でも感得できる宇宙の根源と
言いながらも、
南無妙法蓮華経以外は
全て何かが欠けている不完全な
間違いであるという。

ものすごく矛盾しているのだが
気づかない。

それは妄信であり
どんなに立派な志を述べても
想いが強いほど矛盾を取り繕い
無作から離れた権威主義に陥る。

そもそもは全てが
南無妙法蓮華経の現れである。

信心によるという意味が逆転している。

南無妙法蓮華経を
「信じている自分」の行動が
主軸であるのなら

現れている全てである
南無妙法蓮華経を否定して
自分がそれを変えるという
行動になる。

いくら祈っても
御本尊様の作った世界は
気に入らないので
私に従ってください
という明らかな不信である。

行の題目とは委ねる行動であり
「自分が自分が」という自我機能の
抑制と自己機能の活性化である。

信の題目とはすでに全てが完全だと
如来如実知見することであり
なるようになっている今ここの
その通りだという体感覚知である。

心地観経に曰く
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」

三世と言っても三世が別々に存在しているのではない。
今ここに三世永遠を経験できるだけである。

あの頃考えていた未来に自分は今いるのだろうか?
そんなことは無い。
思考概念であの頃の今に考えた未来の今はズレてブレている。

ただ不可避にさらされた全ての経験が
今という現実を不可避な形で起こしている。

では今、未来を考えたとしてその通りになるだろうか?
そんなことは無い。
今、思考概念で未来を考えたとしてもズレてブレる。

ただ今という不可避にさらされている経験が
未来においても同じ今としてあるだけである。

今は凡夫で未来に仏になるというのは
これでは叶わない。

今、この全てが
南無妙法蓮華経であることでしか
南無妙法蓮華経は存在しえない。

何かを対象化モノ化した時点で
色大きさ上下左右距離時間が発生する。

対象化モノ化しないということは
ゼロ=無限、無、空である。

全てを包括するものはそれしかないから
それが南無妙法蓮華経である。

起こり終わったことを変えることは出来ないけど
起こっている経験を観察することは出来る。

この観察も経験としてフィードバックされる。

対象化モノ化しない
今の直接知そのもの
如来如実知見は

思考概念の三界之相では
絶対に当てはまらないものである。

反転するからである。

自然界に内在しないものは
顕現しえない。

対象化し分離し抽出したモノA
対象化し分離し抽出したモノB

モノAとモノBを融合したモノC

対象物制作の原料
加工のための設計図・知識
加工のための設備・場所・技術
加工のための管理者・従事者
加工された製品
消費者

どこからどこまでが
誰のための誰のもの?

従来のシステムは反転する。

「どうでもいい」ことが
あばかれ気づかれるからだ。



[668] 「何もしてやれない事」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月22日(火)12時48分57秒   通報   返信・引用

本来の感情の上では
「ネガティブ」とか「ポジティブ」とか
区別は無い。

「思い込み後」の思考概念の世界に
「これは良い事」「これは悪い事」という
区分けを作っている。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/420191242.html
賢者テラというスピリチュアル・メッセンジャーの
宇宙シナリオからのメッセージという本がある。

ちょっとした、革新的思考概念の道筋のようなもの。

あえて本を買って読むかは必要ないと言えば
全く必要はないし
ましてネット上の活動内容を見ようとしても
そんな能書きは「どうでもいい」

ストーリーの刺激の一つ
視点の変転の一つである。

この人の悟り(という思い込みも含む)は
別に何か特別な悟りのためのことをしていない
状況下で、起き抜けに
「自分が誰か?」すら思い出せない経験をし
これを一瞥体験としている。

そこからものの見方が変わったというのだから
当人にとっては強烈な一瞥体験だったのだ。

氏曰く、「貧しさは、豊かさの反対語ではない。
 貧しさとは、豊かさの属性のひとつである。
 豊かさのバリエーションの一形態である。」(p.147)
等々、

仏法的に変換すれば
「本当の豊かさとは貧富不二である」
といった感じだろうか。

しかし、「言っていることは分かる」
という段階では

思考概念のための
思考概念のすり合わせであり
自我機能内完結となり

自己機能への気づきがもたらされない。

認知の歪みというものは本来、
正しい思考概念があっての
間違った思考概念ではなく

思考概念は思考概念として
自己機能に生かされている本当に対しての
思考概念の世界の中で完結して囚われる歪みなのである。

人が人に対して、結局は本当には
「何もしてやれない事」というのは

自我機能の思い込みの気づきであり
自己機能への反転がもたらされているのである。

「自我機能」「自己機能」「意識機能」「エネルギー」
の見分け、自己観察は不二の体感をもたらせる。

逆に言えば、
自我機能内完結の世界の中では

結局のところ本当には
自分自身に対してさえ

何をどうすることも
してあげられないのである。

生きていると思っている相対世界では
どうすることも出来ない無力感の
迷路があり

「これは良い事」「これは悪い事」
という思考概念が壁を生み出している。

そんな無力な世界なのに
今日まで無事に生きてこれたのは

生かされているからなのだ。

この生かされている今ここに
意識を置くことを

一つの言葉の表現としては
「頑張らない」になるのだ。

瞬間瞬間に起こる全ては
歓喜のバリエーションなのだ。

戸田先生の言う
腹が立つときにも
楽しく腹が立つ

という絶対的幸福境涯が
開かれるのである。

「地獄の底まで味わわせて頂き
本当にありがとうございます」

と言える反転が
慈悲の感得が
内奥から湧き起こってくるのである。

菩薩の使命が自ら湧く。

全てはその気づきのためなのである。

本当には出来ることはただ一つ
一生成仏しかないのである。



[667] 不二の体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月21日(月)11時59分38秒   通報   返信・引用

父子一体

昨年の青年教学1級試験の教材だったか?
私が説明に違和感を感じ
現在の創価教学の「信じ込ませ」
思考概念・思惑を感じたところでもある。

遡っていくと本来に戻っていく。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1794903.html
 御義口伝にいわく「御義口伝に云く我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如我の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり、爰を以て之を思うに釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり、此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を我が成仏せしめんと云う所の願併ら如我昔所願なり、終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり、此の今者已満足の已の字すでにと読むなり何の処を指して已にとは説けるや、凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり、爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり、されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」(0720―第六如我等無異如我昔所願の事―02)

ここに抜き出したのは
創価の思惑前の御義口伝原文。

父子一体、父子不二の体感は
寿量品の心に通じるのです。

「我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり」
普通に考えれば逆のようであるが

逆を言えるのである。

「我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」

歓喜・歓喜・大歓喜である。

アルベアさんも
~父の写真を見て「あっ?これ、
俺だ!」という感覚になった時に始めて感じました。「私はあなた、あなたは、私」という事を「体感」した
瞬間でした。個別の自他として見ていた感覚がエネルギー体として見えた時、自他の区別が消えたのです。こ
の現象が「不二」という現象なのです。~
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/71

と語っている。

それがまさに不二の体感である。

思考概念の人びとには解らない
いくら学んでも解れない
いくら打ち出しを頑張っても解らない

現象化が続いているのである。



[666] 共振・共鳴

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月21日(月)11時20分14秒   通報   返信・引用

揺らすことによって見えてくるのは
それに共振して揺れ動くもの。
http://wakariyasui.sakura.ne.jp/p/wave/koyuu/kyousinn.html

変化しないことよりも
変化することを
脳は優先して認識する。
http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/lilacChaser/ja/index.html
https://www.youtube.com/watch?v=tABJHO4blck

自分が起こした振動の
揺れ動きが世界として見えている。

全ては自身の鏡である。

だからどうするのか?

例えば人と話すとき
左目に映る光を見て話し

光の波長の共鳴でつながる?
http://ameblo.jp/daremo-minai49/entry-11932726426.html

論理・思考・概念はどうだっていい。

以下、箇条書き。

透明が動く活動

プルプル運動
キラキラ・ワクワク
選択・実践。

ーそうじゃないのに
ーこんなはずじゃなかった
↓↓↓

「思い込み」に気づく

宇宙は何も間違ってはいない。
間違いようがない。

ここにあるのは言葉である。

どう感じるのも自身の生命現象である。



[665] 父子不二

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年11月21日(月)08時44分34秒   通報   返信・引用

息子の気持ちに寄り添って根気よく付き合ってみる。

何もしてやれない事が分かりだしたころ、自分が息子そのものになったような不思議な感覚におそわれる。

と同時に亡くなった父が思っていたであろう気持ちを感じ、自分が父そのものになったような不思議な感覚にもおそわれる。

自分は父であり子でもある。逆を言えば……
……である。

父子不二



[664] 生命の世紀へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月18日(金)12時17分24秒   通報   返信・引用

11.18
おめでとうございます。

御義口伝  南無妙法蓮華経
(創価教学研究室(赤鬼のブログ))
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1429788.html

「色心不二なるを一極」

これって、次元上昇です。

磁石の両極のように

片方の極が3次元物質と現れ
もう片方の極が心として
有るような無いような現れをする。

これが南無妙法蓮華経の
表層に現れた両極にすぎない。

色という分離も
心という分離もなく

「これ」

であるならば
通常に思考できる次元を超えている。

でも、だからと言って
特別な人だけのものでは無い。

例えば「腑に落ちる」とか
「あ、難しく考える必要なかったんだ」
っていう日常の気づきが
そのまま通じている。

人は両方を生きているのだけど

「それしかない」とか
「それすらない」っていう側には
行こうという発想が起こらないだけ。

でもたくさんの人が
気づき始めている。

臨界点を超えれば
それが普通になる。

そういう流れが既に
起こることが決まっている。

同時代現象の次元が上昇したからだ。

川の流れのように
支流が集まり大きな川となり
海へと流れていくように

自然の命脈が
集まった大きな光へ。

それが生命の世紀
平和の時代。

なるようになります。

自身の選択であり
生命現象だからです。

【アシュタール】5次元に上がるとき家族や恋人はどうなるの?
https://www.youtube.com/watch?v=zuWft-aixxk

学会歌「青年よ広布の山を登れ」作詞山本伸一池田大作)SGI
https://www.youtube.com/watch?v=_7YmZUeMihk



[663] 開飛

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月17日(木)03時51分11秒   通報   返信・引用

善悪不二ということは
信不信不二であり
本心失心不二であり
悟り迷い不二であり
仏凡夫不二であり
自他不二であり
我宇宙不二であり
難安穏不二であり
苦楽不二であり
生死不二であり
師弟不二である。

池田先生にお手紙を書いて出せば

もし仮にそれを読める状態になかったとしても
もし仮に手元にまで届くことが無かったとしても

意識体・エネルギーは通じる。

三世の永遠へのアクションである。

気に入られようとか
誰の何がどうとか
体裁とか関係ない。

「答えは全部、身体が知っている」
このありのままを

一つや二つ怒られるぐらいの覚悟で
シンプルに繋がれば良い。

池田先生だと言うのなら
ダイレクトに池田先生と自身と
繋がればよいのだ。

そういうことが出来る時期も
あとどれぐらい残っているのだろうか?

拙いとか迷惑とか
そういうのは言い訳だ。

池田先生だって
読める分しか読まない。

なんなら一筆入魂して
一文字だけ書いて送ったって良い。

池田先生の
「私と繋がりなさい」という意思が
開かれている。

法華経の非二元と言っても
師なく法があるのはありえない。

師と弟子の分離を乗り越え
師もなく弟子もない
透明の生命の光と輝くことだ。



[662] エネルギーの循環

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月15日(火)12時49分12秒   通報   返信・引用

顕在意識(思考)

二極化分離・閉じ込め対象概念化⇔
自己との分離(自分)が無い・許し繋がる

してはダメを「やってみる」勇気の行動実践が
受容されて生かされている愛への気づきへ。

潜在意識の
本当はこうありたいという想いの
環境・状況に対するオンオフの切り替えの技術。

自己機能の本当の望みに自分で気づき改善する技術。

我が身が落とし込んで(ダウンロードして)いる
内容と対話し新陳代謝しアップデートする技術。

身体反応・呼吸・瞑想・内観・気功(有酸素運動)・周波数。
トータルの技術としての、心身・全体性に響かせる唱題。

依法(環境・相手)と正法(自分)が分離していると
表の顔と裏の顔、社会での自分と本当の自分が
分離していて、社会の中に満足が無い。

トーラスの循環により
和合された生命活動へと昇華する。

宇宙にフラクタルに展開する
発光のエネルギーパターンと
トーラスのエネルギーパターン。

より大きなトーラスのパターンと同期することで
より強い力を放つ自身へとイノベーションする。

見えている物質の実体はほとんどが隙間。
その空間のエネルギーの活動。

我が身が宝塔。
トーラスの光柱。

トーラス構造の本当の意味とは?
http://aiwa-afurerumono.blogspot.jp/2014/12/blog-post_18.html

天と地を繋ぐ光の柱
天の光を大地に降ろし、光の柱を建てる
心身の浄化と地球の浄化
http://cosmosphere-x.com/school/?p=30

トーラス瞑想 (2) トーラスの流れを生む
http://carlossato.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/2-7bb9.html

自然治癒力を高める観想 ~軟蘇、軟酥(なんそ)の法~
http://mahesvara.seesaa.net/article/374358940.html

自己自身の内なるものに問いかけ
答えを得ることは特別な人間だけが出来るものではない。

志向性により、対象の表現が変わるが
自己内対話の技術である。

内なるエネルギー状態
http://www.starheart.jp/archives/13268

顕在意識と潜在意識の、本当の意味、とは?
http://aiwa-afurerumono.blogspot.jp/2015/01/blog-post_26.html

サイキックエネルギーシステムと
スピリチャルエネルギーシステム

見える体 見えないカラダ~不思議なエネルギー・周波数~
http://mentalbiyo.com/%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BD%93%E3%80%80%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%80%EF%BD%9E%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC/

前回の田中信二のブレイン・アップデート・キネシオロジー
2013-11-01 の記事
http://ameblo.jp/mindupdate/entry-11661834928.html

前回、抜き出している動画のURLの中に
リンク先のHPにないものを2本混ぜていたので
その2本、再掲。
https://www.youtube.com/watch?v=ORnnZe8yd5M
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6i6RZOW_I

周波数に対して水などが美しいパターンを示す。
生命エネルギーの機能である。
周波数が、それに関連する機能への
アクセスとなるのは自然の事である。

ソルフェジオ周波数を体験してみよう!全9周波数の動画まとめ
http://pando.club/post-1324

ソルフェジオ周波数の絶大な効果に潜む危険とは?
http://serendipity-japan.com/solfeggio-danger-7770.html

【奇跡の法則】周波数を「432Hz」にすると、音の聞こえ方が違った!
http://tabi-labo.com/156689/music-a432/

スピーカーを使った音の形を見る実験
https://note.mu/a_hisano/n/n6172dde2fef6

水を空中で静止させる「水魔法」動画がマジで必見!!
http://rocketnews24.com/2013/03/16/304547/

要するに
唱題の声の張りには、相応の効果がある。

生命現象だからである。



[661] 無限の可能性

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月14日(月)01時52分32秒   通報   返信・引用   編集済



この図を見ると
アルベア論的な視座がある。

「あなたの人生が一瞬で変わる田中信二のブレイン・アップデート・キネシオロジー」なるものの
HPに掲載されているものだ。
http://ameblo.jp/mindupdate/

「ブレイン・アップデートとは」を
クリックすると冒頭の図や
動画がいくつもある。

https://www.youtube.com/watch?v=GOrBHuqr8NI
https://www.youtube.com/watch?v=exQfjwMFXiY
https://www.youtube.com/watch?v=KuR8TLnrG2E

https://www.youtube.com/watch?v=ORnnZe8yd5M
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6i6RZOW_I

https://www.youtube.com/watch?v=9sajdj0bk7g
https://www.youtube.com/watch?v=ILSaqlfqnYs

パワフルなメッセージを発している。

アルベア論に紹介された
ジュンコ セレンディーさんの動画
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/881
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/882
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/883
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/884

と比較検証すれば

何が人生を詰まらせているのか

何が創価を疲弊させているのか
見えてくるかもしれない。

「無限の可能性」

創価が思考概念でもたもたしているうちにも

生命の真実は実践的方法を開拓している。



[660] 体感の本心

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月13日(日)11時28分11秒   通報   返信・引用   編集済

身なりさん釣りですか
良いですね。

大いに刺激されます。
ありがとうございます。

本当の狙い、
本心のための行動。

状況に合わせて仕掛けやポイントを変える機転。
その状況を知るための魚や海への知識と論理。
探る探求、体感イメージの比喩。
魚と交わすことばづかい、エサのアクション、釣り上げる駆け引き。

生命の輝き、体感MAX。

我が本心で無きものは外道。

そのいさぎよさ。

それが球の意識であり法である。

世間の中で人々が
この自然さに立ち返れないのは
人間社会の膠着した
パラドクスに気づけない愚考があるからである。

名付ける前には同じものであったはずの
ものに対するダブルバインドがある。

「私はアコウが釣りたい」
「だけどキジハタは釣りたくない」

それだと釣れても釣れなくても叶っているし
釣れても釣れなくても叶っていない。

「仏とは何かが知りたい」
「でも悟りなんて解る必要がない」

自分で自分を迷わせている。

「ギャンブルで勝ちたい」
「ギャンブルで負けたくない」

勝ちも負けもあるのがギャンブル。
勝負不二。
勝ちも負けもその現象の両極にすぎない。
総体は勝っていると同時に負けている。
個として一時勝ちの側に身を置いても
生命には同時に負けが刻まれ
溜めてしまえば大きな形で現象化する。

上手くいくことも
上手くいかないこともあるのが人生。

気づくことは罪障消滅である。

一切が有難い。
そして歓喜の軌道への飛翔である。

求めない世界で一切が回りだす。

『信解品』「我等、今日、仏の音教を聞いて、歓喜踊躍して、未曽有なることを得たり。仏、声聞当に作仏することを得べしと説きたもう。無上の宝聚、求めざるに自ずから得たり」である。

求めて修行して与えられる称号ではなく
光が届いて気づいて歓喜するものなのである。

「無上宝聚不求自得」で検索すると
奇しくも、「先生」という敬称に対する
烈々たる想いのスピーチがHITした。↓
http://d.hatena.ne.jp/peppie/20060712/1190259838

歌を詠まさせてもらいます。

師の想い
 届きて流す
  感涙の
 久遠の縁(えにし)
  思い出すかな

歴史を荘厳するものは
自身の生命である。

~惰性から豁然(かつぜん)
と目を覚ましていく生命の劇~

法華経のドラマである。

自身のドラマなのである。



[659] 大海原で自己機能体感MAX

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年11月13日(日)04時39分26秒   通報   返信・引用   編集済

久し振りに船で沖合いに出かけます。

狙うはキジハタ(アコウ)です。キロ一万円の高級魚です。

浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である

このキジハタ以外と浅いところにもいたりします。
探り続けるのが唯一のコツです、探求です。

外道(五重相対ではありませんよ)で鯛やアラカブ、オコゼも釣れます。外道と言えどこれらも十分高級魚です。
高級かどうかも人が決めたこと、ましてや外道とは失礼きわまりない(x_x;)

※釣りでは狙う魚以外は外道と呼びます、例えてそれが幻の超高級魚でも外道なんです。

では出港です、行ってきます。(^^)
星も満天☆彡(☆。☆)



[658] 丈夫の心

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月12日(土)11時01分41秒   通報   返信・引用

いろいろあります。
なるようになります。

「往生際」ですか。
キーポイントです。

「全てを失う覚悟で手放し
宇宙の生命の自然
つまり仏智にゆだねる」

四箇の格言も
本来「あれは悪い、それも悪い」
という囚われを作ることではなく

むしろ最終的には”仏教の教義全般”さえ
手放す勇気の後押しかもしれません。

日蓮大聖人は五重の相対を示しながら
本門までしか明確化していません。

「一人立つ」ためには
手放し抜け出す必要があるのです。

三車火宅です。

生命現象です。
誰もが通るのです。

しかし「往生際」と言っても
生きている限り死にませんから
大丈夫です。安心してください。

苦しんでいる自我機能だけ
往生させれば良いのです。

新陳代謝です。

苦しみを排泄し、新しく
キラキラやワクワクを選択して
取り入れていくのです。

この新陳代謝が健常であれば
本来常に新しく心躍る
エネルギーに満ちているのです。

歓喜踊躍です。

実際の体感として
妙法が展開していくのです。

一切が壮大な生命現象なのです。

法華経に見た生命現象の
意識体の体感イメージが
御本尊です。

ただ今本来、つまり久遠即今一瞬の
生命現象にゆだねることなのです。

自身の内から活性化するのです。

大きな意識で
大きなサポートを受けて
大きな自身へと拡大するのです。

今言っているのはストーリーです。
実際は全部、自身の生命現象ですが
見方を変えれば様々なサポートを受けて
同じようにストーリーが展開するのです。

宇宙人との交信という
突飛なバイブレーションにも
気づけば同じ展開があるのです。

最近アルベア論に紹介された
関野あやこインタビューby Mr Reuben Langdon☆本編
https://www.youtube.com/watch?v=SRBgkwQjnAk

法華経も宇宙大のストーリーです。

折々に振動を起こしながら

はるか遠く過去の威音王仏の話や
多宝如来・十方の諸仏が来集したり
妙音菩薩がやってきたりと

実に壮大です。

法華経を信じるのは良くて
実際に宇宙人と交信するのはダメなんて

どれだけ自分勝手なダブルバインドなのか

多くの人は後生大事にしていますが
思い切ってこれを手放すのです。

慣れれば、簡単に外せます。

外せば新しいキラキラやワクワクを
取り入れる余地が生まれます。

新陳代謝です。

早起き会、ちらっと調べてみましたが
朝起会の名称で知られる
一般社団法人実践倫理宏正会。

なるほど。

奥さんの気づきのための
現象化かもしれませんね。

長男の事で悩むのと表裏の現象化。

いつからか自我機能でガチガチに
言う人が多いですが

折伏という救済活動の中に
抱えている問題の解決がなされるのは

自己機能による勇気の一歩の
一切の現象化の気づきのためです。

言われたからやるのではなくて
自身が自身であることを貫くためです。

内観にしたって
自身がワクワクするタイプのものを
選択すれば良いのです。

「これは誰が作ったの?→私」
これも内観ですから。

『 浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり 』 です。
http://yuyake7.blog.fc2.com/blog-entry-320.html



[657] 早起き会

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年11月11日(金)15時10分9秒   通報   返信・引用

順縁逆縁さまざまですね(^^)

内観は主治医に勧められては一度チャレンジしましたが、素直に取り組めませんでした。どこか自分で言い訳してるのに気付きました、往生際が悪いんだと思います。

妻が長男のことで悩んでます。簡単に言うと不登校なんですが今風に言うと発達障害らしいです。

妻が以前から仏法対話していた知人から逆に早起き会なるものに誘われて行ってみるそうです、止めませんでした。こっちは祈るだけです。

私は長男のことは深刻に考えてません、毎日笑って過ごせてるので満足してます。こちらもまた祈るだけです。

いろいろありますね



[656] 順縁も逆縁も救済は救済

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月11日(金)13時25分19秒   通報   返信・引用

思考というものは自動的に湧いてくる。
止めることは出来ない。

思考というものは
意識を向けたことによって
流れる情動のエネルギーが
概念・認知パターン・信念体系を刺激することによって

自動的に発生する現象である。

思考が発生することによって
そこに情動エネルギーがあることに気づける。

その情動の原因を知って反省すれば
それを解放することが出来る。

ネガティブな情動の解放には
負の感情の発散・爆発がされるが

それは留めて溜めていたからで
本来外に向かうのが自然だったのである。

こんな自分を表に出したら
きっと嫌われるに違いないという
「思い込み」「信念体系」が
情動が外に向かうのを止めて
解消されないまま自分の中で
エンドレスに思考を湧かせているのである。

上手く閉じ込め忘れたつもりでも
縁にふれて感情が漏れ出し自己嫌悪になる。

今度は漏れないように
思考概念を上書きして蓋をする。

あるいは自棄になって逃避する。

感情に蓋をできるのが善で
感情に蓋をできないのが悪?

くそくらえだ。
聖人君子なんて気持ち悪い。
こんな歪な世界にあっては
本当の幸せなんて幻想と思う。

そういう世界に多くの人が
生きているのだろう。

この原因を作ったのは
情動の解放を制限した自分なのである。

なぜこういうことが起こるのかと言うと
まだ社会の仕組み、感情の機微、相手がある事
そういうことを客観的に認識できない小さい頃

嫌な思いをした出来事に対して
その経緯を否定して我慢することを覚えたことに遡る。

ここで閉じ込めたものが自動的に
解放されないままエンドレスに繰り返されているのだ。

これを思い出し、感情を爆発させ、反省し、
解放するのが「内観」である。

大人になった頭で、
いや、大人子供は関係ない

ちゃんとした順を追って内観すれば
「苦しみの根本原因」が解消され
意識が解放へと向かい
ただ「今の思考」しか起きない。

最小限の自我機能である。

内観には、世話になった、愛された
その一つ一つを思い出すこと。

そのお返しがどれぐらい出来ていたか
ただ我儘を言っていたんじゃないかと反省する。

そしてネックになっている出来事の
本当はどうだったのかを
「自分はどう思ったのか」
偽らずありのままに思い出す。

その時「相手はどう思ったのか」
立場を入れ替えて考える。

このことが思考概念の解消になるのである。

囚われたまま瞑想しても
その場の対応でしかない。

解消をして瞑想することで
抵抗値の無い循環へと還るのである。

自身の始まりとも宇宙の始まりとも無関係に
本源的に無限に自動的に起こるのは
ただ九識(阿摩羅識・あまらしき)の歓喜である。

全ての存在そのものの開放性の
内在するビジョン
必ず発揮される変化が
八識(阿頼那識・あらやしき)の因果・縁起である。

経験している体感イメージは
生まれる前から死んだ後にまで
生きている時と同じだけ
生命現象としてそのままある。
七識(末那識・まなしき)の志向エネルギーである。

受精卵として生命現象の役が揃う。
体感イメージ・選択・模索・分裂・分化・調和
しだいに人間として「再現」されていく。

宇宙の歴史、地球の歴史
そのエネルギーそのものの生命現象である。

産まれたての赤ちゃんは宇宙そのものである。

志向性のエネルギーが自動的に
愛の交流を起こす。

おっぱいを飲むという自動経験が
これの継続の必要性を学ぶ。

与えられている愛の中にある。

このエネルギーの交流の経験の形が
個別の人間としての情動の基本になる。

三つ子の魂百までと言うが
情動のパターンは基本的に変わらないということである。

4~5歳のころまでにベースができる。

出来ていく情動は
随時、経験によって
感情を満たすことを学ぶ。

すべて自動的だったものが
自我を経験していく。

上手くいかないことがある事に気づく。

それは周囲から
「こうしなきゃいけない」と
望まれることに対する反転である。

家族・直接関わる人・社会全体の
「こうするべきだ」という
思考概念に沿うように成長する。

パラドックスになる。
それぞれの思考概念は
それぞれに自分勝手なのだ。

思考概念の押し付けの強い環境では
自分勝手に自分を苦しめる自分を形成する。

環境が、それを正義だと思い込んでいるほどにである。

愛が無償ではないから
閉じこもらざるを得ないのである。

自己都合の六識(意識)の中で
利己的に五識(眼・耳・鼻・舌・身体)の欲を
満たすための物語を形成していくのである。

全くの偶然を含めて
きっかけは種々にあるが

この自我の殻から解放されるものが出てくる。

自分というものが自分勝手な思い込みだったと
気づくものである。
無償の無限の愛を思い出すものである。

気づき思い出せば伝えることが出来る。
それが救済である。

縁によって思考を起こすことで気づかせる。

縁によって起こるのは自身の生命現象である。
それは実に、自分勝手である。

しかし縁したことは絶対的に
同じであることの波動なのだ。

順縁にしろ逆縁にしろ
救済は救済なのである。



[655] トランプ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月10日(木)03時32分36秒   通報   返信・引用

アメリカの大統領選トランプ氏の勝利です。
なるようになっています。

トランプ氏の勝利は予想できていなかったけれども
自然の流れの中で「トランプ」というワードの
インスピレーションはありました。

時間の都合で、結果の前には書けなかったけど
非二元の説明の比喩にカードのトランプを
使おうと思っていて

(それぞれ一つ欠けると意味が変わってしまうような
言葉の組み合わせか何かないかと考えたのが元で
行きついたのが「トランプ」です)

それじゃあトランプ氏が勝つみたいじゃないか
なんて思ったりしてました。

もう、そうなってるんだから
どうでもいいのだけれど

そういう虫の知らせ的なものは
非二元が分かったからとかいう特別なことではなくて

特別な自分を作らないありのままが非二元なので
普通にある普通の偶然がここにあるだけです。

トランプというカードは
四種類のマークの1~13とジョーカーからなる。

どれが一番良いカードか?

ジョーカーですか?

でもババ抜きの場合には持っていれば負けます。

どれが良いカードかなんていうのは
人間の決めたルールに従って競い合う時に
その勝敗の格差をつけるために
ゲームごとに仮にあるだけです。

強い組み合わせを作ったら勝ち。
先に無くなったら勝ち。
たくさん集めたら勝ち。

色々あります。

そんな遊びの中にも
競い合い勝敗を決めるという
人間的な文化があるのです。

大人になっても、社会の中において
どうにかそのルールの中で
より強いカードを手に入れて競争相手に勝つか?

そう生きるのが当然のこととして
自動的に目いっぱい思惑を働かせて
生活しているのです。

勝てばハッピー負ければ惨め。
そのスリルに熱中するあまり
もっと大切なものを置き去りにします。

気づくことです。

大富豪であれ大貧民であれ
同じゲームです。

現象として全体を俯瞰する。

意識の使い方です。

起きている場の意識です。

例えば導師がいなくてバラバラの唱題の時
この場の意識にフォーカスすれば
特段に大きな声を出さなくても
自分の唱題に全体を合わさせることも出来ます。

そういう経験の技の積み重ねです。

体感のチャレンジをして獲得するのです。

「私が来たからもう大丈夫だよ」
「私がいるから心配いらないよ」

そういう境涯へのステップアップです。

これだけの組織で
そういう言葉が体感体系の本当の言葉であることが

池田先生の法華経の非二元なのです。

自分一人が幸せになるだけのものではなく
本当に全員を救える真の大乗
広宣流布する大白法。

これはこの次元では
人数や教団の規模、活動内容は全く関係がない。

自身が全体になった瞬間、広宣流布はされている。

これしかないのだから
これがそれになったら
それでしかない。

トランプはどんなゲームをしている時も
占いに使ったってタワーを作ったって

トランプがトランプでない時は無い。

まぁ中には、手品で何かとすり替えるような
騙しもあるだろうが、事実は
トランプがトランプとして存在している限りは
トランプはトランプなのだ。

宇宙が宇宙として存在して
私という役がそろっている経験。

この役の優劣は人間がかってに決める。

宇宙が宇宙であるためには
どうだっていい概念。

トランプがトランプとして
出荷されるときから
内在している役。

この役が
私はトランプだ

と言うことは真実である。

https://www.youtube.com/watch?v=BOQ2Iy2dE3k



[654] 自我、自己、意識

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 9日(水)04時24分15秒   通報   返信・引用

例えば、従来の
創価らしい言い回しとして

「信心すれば病気が治りますかだって?
信心を何だと思ってるんだ!
そんなの治るに決まっているじゃないか!」

という感じが
戸田先生っぽいかな?

この部分、言語体系だけを
思考概念の自我機能で見ると

疑いを起こす人間には
逆切れして押さえ込めばいい

というような愚考も可能かもしれない。

折伏の決め台詞の
「どんな味だか食べてみないと分からない」
とか、

色々ありますけれど

体感体系の自己機能があってこそ
信心の確信の言葉になります。

体感体系はサボっていれば
愚考に食い破られるのだと思います。

しかもこのサボるのニュアンスは
頑張っていればサボっていないと
いうことでもないという感じ。

戸田先生の言った地球民族主義を考えるならば
言語体系に違和感を覚えたとしても

その拒絶に打ち勝って
体感としての同じを

これは意識の使い方でもあるが

摩擦の無い和合として果たすことだ。

意識というものは向けて
フォーカスするものである。

そこに光を当てることである。

だけどこれは
自我機能の思考概念で曇っていれば
綺麗に光を届けることが出来ないし

受け取ることも出来ない。

曇りのない自我機能への磨きと
活性化した自己機能の強い光への鍛錬が

自在の境涯を開く鍵である。

言語体系に依存してはいけない。

仏法は中道と言いながら
偏った思考の人間も多い。

中道とは非二元である。

思考概念をまとわない
裸一貫の自己機能のフォーカスである。

独自の言語体系をいくら整備したって
そういった「差別化」が

どんな和合を
どんな平和を
どんな幸福をもたらせてくれるというのか。

自我機能に縛られ窮屈になり
差異に対して拒絶や敵対を生むだけだ。

しかし組織がどうであれ
非二元の意識は
王者の魂である。

恐れない。

何ものとも不二の
唯一のこれしかない道である。

師も宇宙
我も宇宙

一切の絶対勝利の光である。



[653] 体感の光

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 8日(火)11時46分58秒   通報   返信・引用

アルベアさんのように言うと
意識体の介入がありました。

半分書き上げた内容が
消えました。

なるようになってます。

まだ書いてはいけない内容だったようです。

不思議なことは色々ある。

体感の世界は思考概念からすれば不思議です。

身なりさんがここに投稿してくれることは
不思議の中の不思議です。

体感は「そうなる」のだから常識は関係ないです。

世の中には人間の性別が作り替わるということだって起きます。

http://www.at-douga.com/?p=11208
↑NHKスペシャル <人体 ミクロの大冒険> 第2回 動画付き
http://blog.goo.ne.jp/miyazaki8007kankodo/e/87f561c8576905b82ee7be5ecccb707c
http://sci.tea-nifty.com/blog/2014/04/nhk-8874.html
↑テキストによる紹介

浮かび書き起こしたことが不可避のエネルギーとリンクするのも体感です。

世の中に実在する、手をかざしただけで
あるいは言葉を伝えただけで
病を癒したりするエネルギーも
体感だから起こるのです。

閲覧者の方々にお伝えします。

「その病、もう治っています」
「この場のエネルギーがあなた自身だからです」
「あなたは光なのです」
「今だけはエネルギーへの抵抗値がゼロだからです」
「祈りは光です、光は祈りです」
「あなたは今、光なのです」
「関与した意識体の膨大な妙法の力が一体となります」
「病は治ります、願いは成就します」
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経



[652] 動の休息

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年11月 7日(月)15時52分23秒   通報   返信・引用

人生で初めて腰をやりました。探求も堂堂巡りに入り気味でしたのでスワイショウとぷるぷる気功で心身のメンテナンス中です。



[651] 勤行は胸中に太陽を昇らせる儀式

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 7日(月)12時38分20秒   通報   返信・引用

池田先生の指導では
勤行唱題は胸中に元初の太陽を
昇らせる儀式なのだという
内容があったかと思います。

チャクラのところで書きましたが
太陽=華です。

太陽というものは
あるいは花というものは
良いカッコしようとはしません。

そのままあるものを
ただ誰が見ていようと
誰が見ていまいと
与えられたそのままの場所で
輝き開いているのです。

出会ったものに
出会ったままに
平等にありのままあります。

ありのままの自身です。

チャクラの位置で言うと
上腹部です。

このありのままを
横隔膜を隔てた
中心に位置する胸中へと
昇らせる。

胸中の受容する愛で
そのままの自身を受け入れ
輝かせていく。

今のままではダメだという
囚われに打ち勝って昇らせる。
自分の判断ではダメだという
歪みに打ち勝って昇らせる。

御本尊をただ見るのではなく
その生命の真実を観るという
妙の力を活性化し

声を響かせることによって
大宇宙の生命の真実と
交流する法を活性化することによって

胸中に太陽を昇らせることによる
「ありのままの自分が傷つくのは嫌だ」
という恐れに打ち勝っていくのです。

この実践・行動自体が経です。

これを全身全霊で行う
ー南無・帰命することによって

その境涯を
どこまでもどこまでも
開いていくことが出来る。

抵抗値がなくなるからです。

進み辛さというものは
自我機能の作り上げた生き辛さだからです。

「ありのままの自分が傷つくのは嫌だ」
という恐れによって

ありのままを我慢して
教えられたままに真面目にあろうとする。

それは利己的な打算です。

これに勝つことが
仏法の勝負なのです。



[650] 非二元超訳 方便品(一部)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 6日(日)01時33分36秒   通報   返信・引用

妙法蓮華経 方便品第二
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/hokekyo2.html
是法悲思量分別。之所能解。唯有諸佛。乃能知之。所以者何。諸佛世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸佛世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
諸佛世尊。欲令衆生。開佛知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。佛知見故。出現於世。欲令衆生。悟佛知見故。出現於世。欲令衆生。入佛知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸佛。唯以一大事因縁故。出現於世。
佛告舎利弗。諸佛如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以佛之知見。示悟衆生。舎利弗。如来但以。一佛乗故。為衆生説法。無有余乗。若二若三。舎利弗。一切十方諸佛。法亦如是。舎利弗。過去諸佛。
以無量無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為一佛乗故。是諸衆生。従諸聞法。究竟皆得。一切種智。
舎利弗。未来諸佛。當出於世。亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。是諸衆生。従佛聞法。究竟皆得。一切種智。

この非二元は思考で
区別して理解する概念ではなくて
ただ古今東西の完全覚者だけがあって
すなわち「非二元の『これ』」を知っている。

それはなぜか?

古今東西の完全覚者・救済者は
ただ「円融円満・不二の今ここ」
「南無妙法蓮華経の生命活動」
をもっての故にのみ
世に出現したからである。

舎利弗よ、それは何のために
「古今東西の完全覚者・救済者は
ただ『円融円満・不二の今ここ』
『南無妙法蓮華経の生命活動』
をもっての故にのみ
世に出現した」という概念を言うのか?

古今東西の完全覚者・救済者は
人間をして法華経の非二元を開かせ
根本清浄であることを
得させようと欲したがゆえに
世に出現したのである。

人間に法華経の非二元を
示そうと欲したがゆえに
世に出現したのである。

人間をして法華経の非二元を
悟らせようと欲したがゆえに
世に出現したのである。

人間をして法華経の非二元の
道に入らせようと欲したがゆえに
世に出現したのである。

舎利弗よ、これを「古今の覚者は
ただ『円融円満・不二の今ここ』
『南無妙法蓮華経の生命活動』
をもっての故にのみ
世に出現した」というのである。

(覚者は続けて舎利弗に告げる)

古今東西の完全覚者・「なるようになっている」は
ただ、完全覚醒への菩薩道だけを教え導く。

すべての振る舞いは常に
一つの目的のためである。

ただ法華経の非二元をもって
人間に示し悟らせるためである。

舎利弗よ、「なるようになっている」はただ
「完全な空・南無妙法蓮華経そのもの」
をもっての故にのみ
人間のために非二元の法を説く。

ただ一つ「これしかない」のであって
二や三は無い。

舎利弗よ、全てのあらゆる様々にいる
覚者の非二元のメッセージもまた、
同じなのである。

舎利弗よ、過去の様々な覚者も
無量無数の機転と様々な論理と
例え話とことばづかいとをもって
人間のために様々な非二元の法を演説する。

この非二元の法も
「完全な空・南無妙法蓮華経そのもの」
のための故なのである。

この諸々の人びとは
諸々の覚者より非二元の法を聞いて
究極するところは全員が
その全体性の本質
仏智としての働きを得たのである。

舎利弗よ、未来の様々な覚者の
まさに世に出るであろうものも
また無量無数の機転と様々な論理と
例え話とことばづかいとをもって
人間のために様々な非二元の法を演説するのだ。

この非二元の法もすべて
「完全な空・南無妙法蓮華経そのもの」
のための故である。

この諸々の人びとも
諸々の覚者より非二元の法を聞いて
究極するところは全員が
その全体性の本質
仏智としての働きを得るのである。

舎利弗よ、現在の宇宙中の無量百千万億の
フラクタルな生命現象の本来の中の
完全覚者・救済者は
人間を利益し安楽にさせるところが多い。

この諸々の覚者もまた
無量無数の機転と様々な論理と
例え話とことばづかいとをもって
人間のために様々な非二元の法を演説している。

この非二元の法もすべて
「完全な空・南無妙法蓮華経そのもの」
のための故である。

この場にいる人びとも
覚者より非二元の法を聞いて
究極するところは全員が
その全体性の本質
仏智としての働きを得るのである。



[649] 肩こり腰痛 心身の不良不全

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 5日(土)03時51分26秒   通報   返信・引用   編集済

厚生省の調査によると
体の不調として
男性は「腰痛」、女性は「肩こり」
を訴えている方の割合が最も高い。

https://yo-tsu.org/data.html

これは凝り固まった思考概念による
ストレスの多い現代社会で

身体の凝り固まりの現象化として
無関係ではないと見ることが出来る。

社会機構にせよ
人間の身体にせよ

力技で無理矢理に治そうとすれば
その時は良くなったように思えても
後々よけいに酷くなったりする。

心身の不良不全の
悪化のスパイラルである。

痛気持ちいいマッサージは逆効果
http://bui.jp/medical/massage/6179
ためしてガッテン 五十肩の治し方 再放送動画
https://www.youtube.com/watch?v=bqhkF0zO9EY

悪化の仕組みは、改善を期待し
圧力を加えることによって
一次的に良くなったように思えても
その歪みから生まれたシワ寄せが
組織を覆っている膜(枠組み)を
硬直化させることで身動きが取れなくなる。

期待依存の力技は不良不全の元である。

ではどうすれば改善するのか?

支点に対して委ねる形の負荷下で収縮を
行って、柔軟性を回復する方法がある。

コリの緩消法として研究実践者がいる。

腰痛の原因と治し方・治療法
https://www.youtube.com/watch?v=zmj35dRZDrg
肩こりの原因と治し方・治療法
https://www.youtube.com/watch?v=B09p3r344nA
はじめのご挨拶 「腰痛・肩こり・関節痛など 治し方・治療法 無料動画
https://www.youtube.com/watch?v=RypfnUFvkrY

すぐにできる!肩こりを治す方法①
https://www.youtube.com/watch?v=0DPCLoyuGxo
すぐにできる!肩こりを治す方法②
https://www.youtube.com/watch?v=mWyHatZPPn0

緩消法 技術提供セミナー症状別「首痛」編
https://www.youtube.com/watch?v=5lXaUry7uls
緩消法 技術提供セミナー症状別「五十肩」編 (東京都)
https://www.youtube.com/watch?v=ogzTb_x1Kx4

坂戸孝志の9割の腰痛は自分で治せる 2012. 4.17 OA
https://www.youtube.com/watch?v=tEmPrvjfgpc
坂戸孝志の9割の腰痛は自分で治せる 2012. 5.15 OA
https://www.youtube.com/watch?v=KE76Tvw82bE
坂戸孝志の『9割の腰痛は自分で治せる』 20120918 OA
https://www.youtube.com/watch?v=jnC-xGtDRU4

心身の凝り固まりを減らし
生命活動の抵抗値を減らすのが

心身の不良不全の改善
自己機能の活性化につながる。

晴れ晴れと生き生きと
柔らかくあるために

気功のエネルギーを発生する
科学的にも実証される
有酸素運動が効果を発揮する。

コリをほぐすパターンではヨガ的な
ソーラーボディ5・5・5運動法がある。
http://ilchibrainyoga.com/trivia/

asfiのイルチブレインヨガ体験2: 5・5・5運動法、皿まわし体操
https://www.youtube.com/watch?v=z4sbq7lfGY8
ソーラーボディ5・5・5運動法2:つま先たたき
https://www.youtube.com/watch?v=b48uNBDFSAA
ソーラーボディ5・5・5運動法3:脳波振動
https://www.youtube.com/watch?v=gWmGV0xYka0

標準のアルベア法は
続けやすく効果が高い。

マインドフルネス=Mindfulness 瞑想、雑念に気付く、目覚め
https://www.youtube.com/watch?v=8yUiGDc61q4
瞑想と気功でストレス解消!立禅(心の準備)とスワイショウ(体の準備)で簡単「いきいき人生」
https://www.youtube.com/watch?v=G5Y2EogTOB8
ぷるぷる気功(ぷるぷる健康法)
https://www.youtube.com/watch?v=23Tvu1VdntQ
火の呼吸法
https://www.youtube.com/watch?v=U3Q6D3l-0iU
https://www.youtube.com/watch?v=CJJ8ZuKbrNQ
気功_リンパ液を流しツヤ肌に。スワイショウ、セイシュ、(前後式)
https://www.youtube.com/watch?v=DW34N_8O7nc



[648] チャクラと南無妙法蓮華経

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 2日(水)12時03分13秒   通報   返信・引用   編集済

信の一字により
開、示、悟、入する
わが身が仏身。

われわれの頭は妙であり、
喉は法であり、
胸は蓮であり、
胎は華であり、
足は経である。
すなわち、われわれの身体自体が
妙法蓮華経の当体。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1429507.html
御義口伝 方便品八箇の大事 第三 唯以一大事因縁の事
創価教学研究室(赤鬼のブログ)

http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20090220.txt
池田先生の長編詩 わが勇気ある永遠の同志に贈る

~~妙法蓮華経は
宇宙の大法則である。
生命の大法則である。
御義口伝には仰せだ。
「我等が
 頭は妙なり
 喉は法なり
 胸は蓮なり
 胎は華なり
 足は経なり
 此の五尺の身
 妙法蓮華経の五字なり」~~

~~ケネディ大統領は語った。
「歴史は、
 人間が作るものである」
自分自身の歴史は
自分自身が創るものだ。
いかなる苦労も
いかなる苦難も
いかなる戦いも
いかなる怒涛も
自分自身に与えられた
希望であり
宿命であり
わが人生の教科書だ。
恐れなく
それらを乗り越え
勝ち越えゆく信念を
一段と持ちながら
努力の魂を磨いた人間が
勝利者となるのだ。
さらに
ケネディ大統領は言った。
「もしわれわれが
 つかの間でも休止するならば
 過去の業績に
 甘んじているならば
 進歩の歩調に
 さからうならば
 危険に陥るだろう。
 時と世界は
 じっとしていないからだ。
 変化は生命の法則である」
たしか
このような文言であったと
私は記憶する。
人生は過去に
囚われるものではない。
いな
囚われてはいけない。
ゆえに
青年よ
君たちよ!
未来を常に見つめて
歩むのだ!
戦うのだ!
断固として進むのだ!
宇宙の森羅万象は
たゆみなく動いている。
その一切を
より良く変化させていく
究極の力が妙法である。
そして
この大宇宙をも包みゆく
偉大なる生命力は
わが胸の中にあるのだ。~~

仏法で勝負することは
自己機能で勝負すること。

自我機能の囚われに勝つこと。

三昧、すなわち瞑想は
自己機能を開く方法である。

仏の完全な瞑想から
自発的に説かれたという形を
法華経はとっている。

<頭は妙>
第六チャクラ(サードアイ・ブラウチャクラ)
位置:眉間・両目の間わずか上
創造的才能が生まれる場所
自分の進むべき道をみつけ、世の中の真実を見る

法華経においても眉間から放たれる光によって
妙なる力が発現される場面がある。
神通力(サイキックエネルギー)
の発現に関わる。

<喉は法>
第五チャクラ(スロートチャクラ)
位置:のど
自分を表現し、他人を理解する
交渉、議論、教えることを学ぶ

関わり合いの世界の関わる力。
法を説く能力。波動の伝達。
声仏事として響かせるところ。

<胸は蓮>
第四チャクラ(ハートチャクラ)
位置:胸・心臓
他人と自分との信頼関係を確立し、恵みをわかちあう
愛情、あたたかさ、友情、親密さを活性化する

全てが受容されている愛。
本尊に最も関わる胸中。

<胎は華>
第三チャクラ(ソーラープレキサスチャクラ)
位置:みぞおち・胃の周辺
あるべき道に生きる意思と強さをもたらす
自分が自分の支配者になるための能力を開発する

神経が太陽のように放射状に開いている
太陽神経叢の位置。太陽であり華。
腹を据える意志の強さ。
ただひとえに思い切り不二の道を行く
四面楚歌の孤独にも動じない強さ。

<足は経>
第二チャクラ(セイクラルチャクラ)
位置:へその下指三本分のところにある丹田
人生を楽しむ情熱を生み出す
生きる喜びを経験するように促す

位置がずれていると思うかもしれないが
腹の底から思ったことは即行動になる。
つまり足であり即行動の力である。
思考からは遠い位置であり
無理矢理の思い込みには足取りが重い。
腹の底から納得すること
腹の底からの情熱で湧き立つこと。
そうでなければ歓喜であるはずがない。
歓喜の中の大歓喜は行動と同時である。

第七チャクラ(クラウンチャクラ)と
第一チャクラ(ルートチャクラ)に貫かれる
その在り方は南無に相当する。

その全体は宝塔の全体である。

http://www.winbell-7.com/roman/hisyo/ongi.html
~~「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰命する対境、対象に「人」と「法」とがある。「人」とは、文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である。「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち、人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。
また「帰」というのは、迹門不変真如の理(永久に不変である真実の法理)に帰するのである。「命」とは本門随縁真如の智(縁に随って、刻一刻と変化する事象に対応した幸福への生命活動で、一念三千の当体の生命の確立を意味し、仏界を涌現すること)に命(もとず)くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに、妙法を唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力が、わが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ随縁真如の智に命(もとず)いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経自体のことなのである。~~

<迹門不変真如の理に帰する>
第七チャクラ(クラウンチャクラ)
位置:頭頂
魂の成長と宇宙への絶対的信頼
神と宇宙の善をただちに経験させてくれる

完全との完全調和。依正不二。
空であり無であるところに還る了解。
悟達、解脱、宇宙即我。

<門随縁真如の智に命(もとず)く>
第一チャクラ(ルートチャクラ)
位置:尾てい骨・肛門と性器の間
確かな安心感と根本的な満足感を与える
自分の居場所をみつけられるようにする

仏の獅子座。絶対の座、絶対の場。
宇宙それ自体に座している。
フラクタル的に展開し
生命活動現象の種子であり
生命活動現象それ自体であり
次の生命活動現象の展開の場である。

南無によって不二となり
全てが南無妙法蓮華経の
五字七字となる。

一は全、全は一となる。

自己機能の活性化
チャクラの活性化が
南無妙法蓮華経の覚知として
了解される。

↓チャクラの概要の引用ページ
http://taking-a-stand.jp/chakra-2903



[647] 時間スケールと九識

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月 2日(水)03時44分30秒   通報   返信・引用

五識(眼・耳・鼻・舌・身体)
が直接的に対応するのは「今」
である。

が、これには
外界(依法)の今と
内界(正法)の今がある。

外界は共有されているリアリティ
内界は個別の夢や幻覚によるリアリティ。

五識(眼・耳・鼻・舌・身体)は
今を経験している自身。

六識(意識)は
人生の経験の自身。

生まれてから今までの
味わいの記憶。

客観的事実
騙されている嘘
錯覚
主観的真実
思い込みの歪み等が絡む。

経験の知識や技によって
相応の未来の予測が可能であるが

500年後には個別の肉体の六根は
継続していない。

肉体の消滅が自身の消滅である場合
自身に無関係の500年後を思う能力は
はなはだ無価値であり

500年後を思うことに有意義性が
見出せることは
肉体の消滅は根本的な
自身の消滅ではないと根っこで感じるから。

七識(末那識・まなしき)は
エネルギーの起こり
現象化した存在。

想像可能範囲の自身。

さて肉体の消滅は本当は何も消滅しない。

かの名作ゲーム
ファイナルファンタジー5では
ガラフが死ぬとき存在が点滅し、
そして忽然と消えたが

実際の人間では、そんなことにはならない。

個別の肉体を形成していた物質は
それぞれ循環の中で自然へと還っていき
また遺骨として残る。

化和合が解かれるだけである。

それぞれのエネルギーは
それぞれに循環し存在し続ける。

意識からの500年後の想像が
経験知識による論理的思考なのに対して

七識(末那識・まなしき)からの想像は
直感的インスピレーションである。

一般的には第六感と表現されるが
それは意識が末那識に気づく技術
意識の使い方だからである。

自身の各チャクラへのアクセスであり
それぞれのチャクラで特性がある。

http://chiyokyu.exblog.jp/7077910/
http://www.yasuragi-h.com/heaiing-towa2/index.html
http://theta-healing1.com/2015/02/
http://anego.hatenablog.jp/search?q=%E9%A6%96%EF%BC%91%EF%BC%90
http://spi-lab.com/first-chakra-683

真理の読解
可能性の確率
選択的確信
全体性の調和力
時空の直接的知見
等々

論理的想像の及ばない
論理的に隔絶した時空の突飛な
直感のイマジネーションに
全体性のリンクの現象化によって
真実としてのしるしの現れが
起こったりする。

八識(阿頼那識・あらやしき)は
それらがそのように起こっていること
それ自体の全部である自身。

善悪無記(善とも悪とも回答しない)とは
この起こりの源に対してである。

善く起こったと解釈するのも
悪く起こったと解釈するのも
解釈する側の都合である。

自由で至福だと解釈するのも
不自由で虚無的だと解釈するのも
解釈する側の都合である。

法華経如来寿量品の五百塵点劫の
思考も直感も届かないスケールの自身。

始まりを探しても始まりへ到達しない
終わりを探しても終わりへ到達しない

そのまま存在し続ける
変化する全て。

全くそのまま起こっている。

「これ」
ただの「これ」
「これ」が全部。

自分が存在していなく全部である自身。

九識(阿摩羅識・あまらしき)は
超越した完全。

「これ」という全部が無い完全。

「これ」以上の無限である究極。

無いのではなく在り
本当には無いのは「これ」

だからこそ
「これ」は実在であり

「これ」の中でしか
「これ」ですら無いものもない。

一個の凡夫として生きることが
全てでさえある。

向上することに意味のあることの
根拠である。

全てがそのための今ここへの慈悲だと
いうための全身全霊である。

一切が自身であり
不可能を可能にする自身である。

成し遂げることである。



[646] あるようで無い、無いようで有る。

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年11月 1日(火)15時02分56秒   通報   返信・引用

自分の死後、人類が向こう500年続くイメージが湧かない。
逆に500年後の世界も自分が存在してそう

このへんにもヒントがある気がします。





[645] 転回

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月31日(月)09時33分56秒   通報   返信・引用

自由ではないのだとしても
意志と名付けた
本来は空の働き。

起ころうとしていることが
起こるためにある
応答。

応答範囲の現象が
自身の生命現象。

事後の認識は
応答の質。

法華経の非二元は
己心の寿量品。

法華経をする
法華経の行者。

南無妙法蓮華経。

三世十方の仏(仏界)菩薩(九界)が
自身の生命現象(法)の宝塔に
向かい開かれる。

投げかけられたものに
応答が起こる。

自身が南無妙法蓮華経であれば
応答は妙法の光である。

この光に照らされたものは
本有になる。

本有は愛である。
照らすことは慈悲である。

この生命現象が
南無妙法蓮華経である。

己心の御本尊である。

全体の共有には
指し示す認識の質によって

互いに磨かれ高まる。

自我機能による認識を大きくすれば
誇大広告になり歪む。

自己機能による認識を大きくすれば
自然の内に湧き出でる。

文字曼荼羅本尊を拝する時

向かっていると同時に
向かわれている。

見ていると同時に
見られている。

そしてそれが

いついかなる時の
例えどんな何に対してもである。

同じが起こっている。

パラレルな宇宙の移行は
抵抗の有無によって
なるようになっている。

回転軸の選択によって
すり抜けて転回している。

自己機能による
素直で正直
ピュアな選択が

宇宙生命全ての輝きとなっていく。

それは全て
自身の生命現象だからである。



[644] パラドクス

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年10月30日(日)19時41分33秒   通報   返信・引用

非二元

自由意志は無い

この投稿も含めて

思考さえも

事後認識を自分の意志だと錯覚させられている

何も出来ないのに何をしようとしてるのでしょうか?



[643] 空っぽ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月30日(日)12時32分34秒   通報   返信・引用

概念から体感へ。

そう口を酸っぱくして言っても
人間というものは体感とは何かを考え
その概念の中に移動しようとする。

移動は起きない。

必要なのは今まさに起こっている自身の生命現象で
不必要なのは今まで教えられてきて学んだ言葉である。

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n343016
jojon_folkさんの般若心経の超訳

そこには、あらゆる執着から離れ
最終的には”仏教の教義”からも離れなさい

それは名があるのみで実体が無い。

ということが浮かび上がっている。

人間は言葉によって定義することの出来る
そういうものだと思って色々を見ているけれど

それは色の名、指し示しだけであって
指された実体の本当は意図の無い空っぽである。

ただ意図の無い空っぽだけが
ことごとく色々の実体として存在しているのだ。

意図なき空っぽに概念を作ったのは人間で
概念で形成された人間の自我の抵抗が
意図なき空っぽの現象に苦しみを見ている。

いたってシンプルな解決策。

空っぽになってみれば空っぽが解る。
全ての学んだ言葉を忘れ執着をなくせば
空っぽになって苦しみが無くなる。

だが多くの人が試みようとするのは

空とは何なのかという概念
体感とは何なのかという概念

その張りぼての
言ってみれば
「マクドナルド ↑2km先」
という看板に到着しようとして

いつまでもハンバーガーにありつけず
空腹に苦しむようなことである。

空の悟りは自身から見て
0秒後0センチ先である。

空っぽの自身が空なのだ。

空である時に
十法界(世界の現象)が自身の心(智慧)
として開かれ
本来の完全な生命現象として蘇生される。

その本来の在り方が
南無妙法蓮華経である。

http://abetoshiro.ti-da.net/e9095818.html
リーラさんTAOの真人の記事

世界は己の鏡であり
抵抗と障壁と開かれることの関係が
すり抜けるという言葉を使って
説明されている。

何かの障壁にぶつかって
深く思い悩みふさぎ込んでいたが
何かのきっかけでふっきれて
今まで悩んでいたのが嘘のように軽くなり
結果にこだわらず取り組むことで
思わぬ良い結果を得る。

そういうストーリーが起こり得るなら
その本質は何なのかである。

無記というものがある。
http://tobifudo.jp/newmon/shugyo/muki.html

回答が無いという回答。
言葉による固定化された概念に
囚われたら得られない回答。

思考よりも内側にある空の了解は
言葉に囚われれば得られない体感。

戸田先生が仏とは生命と言ったのは
無量義経の34の非ずによってである。

明確に概念として回答されていない
空に対しての覚知である。

https://ja-jp.facebook.com/permalink.php?story_fbid=884780888248139&id=230003027059265&substory_index=0
~~まず最初にノンデュアリティ(非二元)そのものを説明する事はできないことをお断りしなければなりません。説明されたノンデュアリティは言語による概念であってノンデュアリティではないからです。~~

同じものである。

あえて違いを言うなら契機であり
その後の実践である。

無になる、空っぽになる。
それ以外の了解の方法を探そうとしても
それは無い。

了解の継承が成されなければ
それはただの
人間社会のエゴのシステムである。



[642] 宗教の生死

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年10月29日(土)15時36分45秒   通報   返信・引用

社会の不幸の原因が
誤った思想宗教であるとして

宗教を思想の上位に据えるならば

宗教は思想を健全化させるものでなければならない。

社会の不幸の原因だということは
誤った思想が悪しき社会機構の根源だとの論であるので
平和を願い実現するという主張があるのならば
およそ平和思想の顕在化がみられなければ
それは嘘である。

誤った思想で悪しき社会機構が生まれるのは
偏狭な独善による二元論によって
良心が麻痺し差別が黙認され
今ここではない歪んだ認識に囚われ
尊厳性が浪費され全体も自滅に向かう道
が生まれるということではないだろうか?

ゲルマン民族は善、ユダヤ人は悪
それを異常だと認識してなお

○○は善、××は悪という
二元論を使用していないだろうか?

二元論からの責めと
非二元からの責めが
一般には区別しがたい。

非二元性の体得によって
社会を健全化するのが本義の正法であり
生きた宗教と呼べるものである。

非二元に必要な空において
色即是空は分かっても
空即是色と言い直す理由がつかみづらかったりもする。

http://ameblo.jp/earthhealing2/entry-12197728007.html
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_note.php?writer=jojon_folk

地球ひろしさんのブログと
jojon_folkさんのYAHOO!知恵ノート。

jojon_folkさんの色即是空・空即是色について
の中で

菩薩はもともと菩薩という名前のある実態ではなく
そのような実体が無いからこそ菩薩と名付ける

といった内容がある。

この考えはアルベア論との整合性がある。
思考するような実体が無い右脳的体感と
実体が無い現象の理解のための左脳的思考の
働きの違いがある。

先日に書いた
神格、法、人格 あるいは
無我、現象、我。

創価学会として馴染みの言葉に置き換えるなら
仏とは生命なので
生命、南無妙法蓮華経、信の一字である。

jojon_folkさんの信への問いかけがある。(妙法蓮華経 信解品)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12146036222

法華経の智慧には
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6469
「その通りに聞く(如是我聞)」とは、「信心」です。「師弟」です。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6751
仏と同じ心に立とうということです。この姿勢、つまり信
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6893
本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める「解から信へ」
http://sgi-shiteifuni.com/?p=7085

等々とある。

生きた宗教の対極に
死せる宗教を考える。
その上で「生」とは何かを考える。

仮の言葉の上の概念である。

意のままに動けることを仮に「生」と呼ぶ。

「死」は白骨化、形骸化への推移である。

血肉となって動く信者がいなくなり
形だけが残っているのは死んだ宗教である。

どれだけ生きているかは
どれだけ意のままであるかである。

しかしてその意は一握りの人間の意であるのならば
それは宗教として生きているのではない。

仏意、宇宙生命の意が
その個々人の中に生きてこそ
生きた宗教と呼べる。

一人の偉大な人間革命が
やがて社会全体を変革するエネルギーである。

形骸化したものに
すがることは法華経ではない。

生き生きと一人立つところに
法華経の実践がある。

今回jojon_folkさんを見つけたのは下記記事から。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11155155521


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