いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


803件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[711] 反転のエピソード記憶

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月15日(日)12時23分28秒   通報   返信・引用

ただある→気づく→関連パターン
→記憶する

無分離→照合抽出→意味作り
→意思が先にあったことにする

依正不二・一身即三身(空即実)
→内的生命現象から対象を複写
→内なる実在確認のため外的実在があることにし編纂
→自分が外的要因に振り回されているようにすり替わる


仮に数学という諸法実相があったとして
ルート5が頻繁に現れ注意が向くとする。

諸法実相が自身のルート5という特徴を
認識しようと試みる。

2.2360679‥‥

諸法実相自身は無限の存在なので
毎回計算して確認すればいいのだが
ルート5に執着が起こった時点で
無限の中に有限を有する。

様々な有限の対象化を経験し
有限に対する執着が増える。

そうなると決まりきっている数値を
毎回計算するのは非合理的だ。

「富士山麓にオウム鳴く」と覚えよう。
意図的な意味関連の創作、
内的真実を外的物語として記憶する。

真理が自動的に導き出されるための
実在しないイメージ・ビジョンを
簡単に発せられる音律に結び付ける。

有限を経験獲得する中で
疑似エピソードが記憶の定着にとって
便利なのである。

だから逆説的に、
本当は全部自身の生命現象なんだけど
全部は外で起こっていることにして
「これはどうなっているのか知りたい」
「出来るはずだと信じて実現したい」
と願わせる部分を分離した方が
より経験の獲得になる。

理屈があった方が都合がいいのである。
モチベーションが上がるというやつだ。

その創作の意味物語の経験のストック。
仮に設定・分離された探求する自分。

そのために適当な理屈をこじつけて
自分をあることにし続ける作用が働く。

それが正しいと思い込むための
思考が常に手渡される。

なのでそのサイクルの中では
適度にチヤホヤされて
適度に厳しく指導されて
自分存在を認めてもらった方が
モチベーションが上がる。

幻想に酔いしれる。

幻想なのでよく観察してみると
かなりいい加減であることが
分かる。

自分という存在は
誤作動に振り回されているのだが

無限自身にとっては
個別の個人が
2.23620679‥‥と間違って覚えようが
2.4360679‥‥と間違って覚えようが
どうでもいい。

一瞬でも真実に触れた時点で用済み。

そもそも「自分がある」ということが
正確ではないのだから、
それを簡単に見破られないために
あえて適当であり続ける存在なのだ。

誤作動は誤作動ではなく
正常に誤作動している。

自我機能が自分の努力の成果
として勝手に美化して
引きずっているのである。

本当には本来
人間が考えるような
意味自体が存在していないのだ。

さて

地球上の生命が
最も鮮烈に出会い続けてきたものは
太陽と水である。

内的にはトーラスエネルギーである。

それらは九識と不可分である。

執着を離れることによって得られるものは
自分があって自分が得ると考えうるものとは
全く完全に次元の異なるものなのである。

自我機能に対しては
無常・苦・無我・不浄

思考概念ではない自己機能から見れば
常楽我浄なのである。

文意に執着するのは自我機能である。
このパラドックスを乗り越える
精進が五眼三身のステップアップである。

意味ではない動作の存在の根源への
体感覚知なのである。


言語のモデルと意識
http://kazoo04.hatenablog.com/entry/agi-ac-24
自分とは最も身近な他人である
http://hitokotoshinri.blog.fc2.com/blog-entry-75.html
他人としての自分 ―分離脳から見る人間の性質―
http://hitokotoshinri.blog.fc2.com/blog-entry-76.html
意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説
https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac
《前野隆司『脳の中に「私」はなぜ見つからないのか?』を読んで》
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/maeno.html

「富士山麓にオウム鳴く」以外のルート5の値の覚え方3選
http://media.qikeru.me/root-5/
「ありがとう」のジョーク ~ワニには注意!~
http://ameblo.jp/shinzato-english/entry-11437041384.html

非想非非想処と涅槃
http://www.bukkyouoshie.com/tenkai/hisouhihisousyo.html
智顗の仮の概念
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/1/47_1_53/_pdf
常楽我浄
http://ameblo.jp/kingdog136/entry-11650991152.html




[710] 見落とされた痛み

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月12日(木)17時23分30秒   通報   返信・引用

マインドに振り回されるのではなく
ハートに寄り添おう。

この場合
マインドは思考だと分かりますが
ハートとは何でしょうか?

これは体感知として
私がしっくりくるのは「痛み」です。

仏法的に言うと四苦八苦です。

「私はない」とは?2017/01/10 に公開37分23秒ジュンコ セレンディーさん
https://www.youtube.com/watch?v=NkLS91GJNCg

メンタルとフィジカルの
統合存在としての自己機能が

なぜエピソード記憶に
「自分が判断して行った」
という「意思の偽装」を
働かせるのか?

これは「痛み」によって
自己機能の存在に
気づくためです。

大元の存在は
一切の見落としが無い
完全であるがゆえに
一切が同時である
無限自身である。

比較が無く
何も無い。

有限の小さな裏返しを
経験させることによって
有限同士が比較するのである。

ハイスペックなパソコンがあっても
そこに何のソフトも入れないならば
ただの機能体であって
用をなさない。

大元の存在にあっては
起こることがただ起こるのである。

マインドの対義語は
overlook または body
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1180652501

普通に辞書では body(身体)と
なるところを
この回答者は overlook(見落とす)を
先に書いている。

例えば幼少の頃の記憶
インナーチャイルドの思いを
「見落とす」ことによって
「痛み」を感じる。

そういった感受性の強さというものは
一般的には生き辛さとなることが多い。

マインドの作り上げた世界では
「痛み」が「意図的に」無視されている。

自己都合による合理化。
自身の「痛み」に対応するよりも
社会のシステムにマッチする
方を選び取る。

この社会のシステムは
人間の欲望に対して
粗悪な消費を大量に
供給するシステムである。

人間の自己機能が
置き去りにされた世界が
構築されている。

汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か. 立正安国論P31

人間自身の自己機能に
立ち返らない限り
不幸の連鎖は終わらないのである。

ここを開くのが本来の仏法の
在り方だと思うが
意図思惑の上書きによって
「私たちは正しい」と主張する
在り方は残念な方向に思う。

マインドは
「足りている」と
「足りていない」を
同時には認識しない。

片方にフォーカスしたなら
もう片方は見落としている。

対象が複雑であるほど
置き換えの種類は増えるので
10分の1のフォーカス
100分の1のフォーカス
無限分の1のフォーカスと
見落としている真実の方が多数になる。

認識しているもの全ては
真実の一側面にはなりえたとしても
「これが全部の絶対」という
認識は生み出せえず

「これが全部の絶対」という
概念の全ては偽物である
ということになる。

そこで
フォーカスする前の
自己機能を体感する
必要性が語られることになる。

判断していない無記の状態では
存在の有無も含めて知らず
人間が考えるような意味を持たず
あるようにあり
なるようになっている。

その側の実相が
私に「自分があって判断して行っている」
と思わせている。

未だ実際には
「自分で判断して行った」人間は
存在したことが無い。

あるのは
自己機能に寄り添うのか
自己機能を無視するのかという
選択だけだ。

その上で
いかなる表現も偽物であるとしても
より本物であろうとすることに
没頭する生きざまを知る。

少々詭弁チックになるが
西尾維新の言葉を引用する。
http://www.okamoto-yu.net/entry/2014/11/12/225211
~~偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ~~

前後の会話のアニメからの抜き出し
http://blog.livedoor.jp/over5334/archives/20801560.html

日寛上人の体感には
価値があるのか
価値がないのか。

体感自体には分離が無いのである。

ここまで前置きしないと
本因妙教主系に言及しない。

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/12/041448
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51482461.html

少なくとも日寛教学は
戦後の日本において
一定以上の価値を果たした。

ただ、この先において

日蓮本仏は絶対だから
みんなここに帰依しましょうね

なのか

人間自身の無分離の
体感覚知を通して
生命の世紀を実現しましょうね

なのか

日寛教学は間違いでした
日蓮仏法を一から学び直します

なのか

選択は多岐にある。



都合の良い所だけ歴史に刻み
連続性の無いハリボテに
さも権威があるように
取り繕うというのは

ただただ本当に
偽物なだけの偽物

愚かだよね。



[709] 幸福への反転

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月11日(水)12時16分0秒   通報   返信・引用

「これは誰が作ったの?」「私」
これは「自分」が
有るか無いかまでいけます。

「4・5才の頃の出来事を思い出して
母親にしてもらったことを思い出す。
ネックになっている出来事。
本当はどうだったのか
そして立場を入れ替えて思い出す」
これは愛という次元の自由度の方向です。

東洋と西洋の格差はいつ、なぜ生まれたのか?
https://www.youtube.com/watch?v=HEiAb9dvndQ

認識の次元というのは
その方向への自由度を獲得することであり
別々ではない
全部一つの生命現象だったんだという
気づきの教育が
同時代現象の次元を上昇させます。

バイロン・ケイティ:お金が足りない、それは本当ですか?
https://www.youtube.com/watch?v=Z8YUzCFUO4s

THE WORK バイロン・ケイティ(テキスト)
http://thework.com/sites/thework/nihongo/thework.asp

今ここで生命現象を阻害している
自我機能の気づきの方向性です。

ちょっとやってみましょう。
自分へのジャッジは歪みやすいので
本来は他人へのジャッジからですが
まぁここは信頼して自分への
ジャッジというものも想定します。

不幸の原因は

(指導に対して私の)
信心・祈りが足りていない。
学会活動が足りていない。

(私の考えでは学会総体は)
不二の弟子が足りていない。
正しい教学が足りていない。

1)それは本当でしょうか?

2)その考えが本当であると、絶対言い切れますか?

3)そう考えるとき、あなたはどのように反応しますか? 何が起きますか?

4)その考えがなければ、あなたはどうなりますか?

次に、(あなたが問いを投げかけた「考え」を)置き換え、置き換えた文それぞれについて必ず、 真実味のある具体例を3つ挙げてください。

それぞれの設問に対して
心の深いところ
静かな境地のところからの
答えにまで落とし込みます。
一つ置き換えをやってみましょう。

(指導に対して私の)信心・祈りが足りている。

(私に対して指導者の)信心・祈りが足りていない。

(私に対して私の)信心・祈りが足りていない。

こういう置き換えに対して
心の深いところ
静かな境地のところからの
答えにまで落とし込みます。
最後は受容につなげます。

(指導に対して私の)
信心・祈りは足りなくてもよい。
(指導に対して私の)
信心・祈りは足りなくても楽しめている。

そもそも義務感の
信心や祈りではダメで

足りなくても楽しめている
と思えば「ありがとうございます」という
感謝の祈りを自然にかえすことになる。

モンティホール問題の話題の
ところで言ったように

こういった気づきによる
解除・柔軟性の獲得
「あーなんだ」という反転が
歓喜になるのです。

幸せです、楽しいです
ありがとうございます。

生命現象の気づきの
ループの方向なのです。



[708] PPAPスライヴ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 8日(日)08時39分54秒   通報   返信・引用

差異を認める
価値を認める

非侵害の融和・調和です。

感情で
「それはこういう意味に違いない」
と思って

つっかかっていくのでは
「思い込み」で歪んだ

投影の自身の醜さの世界なのです。

その情動を覚った上で

自身の内にある振動の智慧の
聡明な判断によって

その意図思惑では
自身の内から広がる無限さの方向性には
マッチしないという感覚が得られるのなら

不参加を行えばいい。

内心とは裏腹に参加したり
取って代わろうと対抗するのは

情動によるところであり

聡明ならば不参加という選択が
一つであり

ガンジー・キング・池田の
非暴力の運動なのである。

不参加という運動は
考え方や思いは個々それぞれで
あってよいというように
門戸が開かれる方向を持ちうる。

何をしなければならないのではなく
参加をしないことで自由を手に入れるのである。

自由になってしたいことは
それぞれであってよい。
そうじゃなければ自由ではない。
不参加の理由は
個々それぞれであって良いのだ。

魅力的に書いているようで
完全に魅力的には見えないのは

人間にとって
「自由は怖いもの」だからだ。

なぜ怖いか?
全ての失敗の責任が
自分にあると強く意識される気がするからだ。

つまり世界のバランスは

「嫌な抑圧に仕方なく耐えた結果だという言い訳理由」と
「自由なんて言い訳できない怖くて大したことないもの」

それと

今現在、どれだけ幸せを実感できているか?
裏を返せば「どれだけ言い訳したいか」

ということが方向を決めている。

自分は不幸だという思い込みを持っているほど
どんどん不幸になる。

個人においてもだし
もっと大きな枠組みにおいてもだ。

だから重要になるのは
思い込みの解除
納得と充実感と希望
恐怖を解除する勇気と智慧だ。

これは
「立正安国」である。

「立正安国」の「国」は
くにがまえに民だ。

自身の内なる法華経に生きる勇気。
生命の底から湧き上がる歓喜。

そのためである。

受け入れ方・眼差しの
パターンに気づこうとすること。

頭の良い悪いではない。

気づこうとすることで
変化はある。

同じ言葉でも
全く反転するのだ。

どんな言葉であっても
悪用することも
活用することも出来る。

例えば
「働かざる者食うべからず」
という言葉

生き成長する力を引き出すために
活用することも出来るし

都合の良いように服従を強いる
言葉として悪用も出来る。

この反転を

自身の生命現象を覚知するのだ。

完璧な人間などいない。
凡夫の振る舞いが起こっている。

だからこそ無い側の悟り。

完璧であることが
理解しうる。

空相の向こうの実相。

だけどそのまま全部が
今ここのこれ。

あなたはわたし。
わたしはあなた。

りんご(命)に
ペン(意味)を突き刺し

パイナップル(自由)に
ペン(理由)を突き刺し

それをドッキングさせた世界。

ペンパイナップルアップルペン。

あなたの思い込んでいる世界なんて
実はこの程度のものですよ

って感じだね。

命も自由も
本当は全然こんな有限の
ものではないし

意味とか理由とか
突き刺したところで
どうなるものでもないよね。

見てごらん
本当の世界を

スライヴ (THRIVE Japanese)
https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI



[707] トライアングル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 7日(土)02時38分25秒   通報   返信・引用   編集済

体感覚知からすれば
教義うんぬんは
どうでもいいし

あんまり理屈でこじつけると
意識体の関与が入るし

言っても仕方のない
単眼的ストーリーかもしれませんが

ちょっとさらっと書きます。

戸田先生、池田先生の下で
展開されてきた学会教学

御書全集の中には

日蓮真蹟系(真に日蓮大聖人の遺文)
凡夫即極系(中古天台本覚まじり?)
本因妙教主系(日蓮一人のみ末法の本仏)

があってですね

まぁ

昨年の前半の私の展開には
日興上人を多宝的な配置でどう?

みたいに書いたんですが

昨年夏の終わりに
ある賢人から、多宝の意義が見いだせないと
理路整然と、無理がある旨を
伝えられました。

なるほどと思ったものですが

日興上人をそう見たのは
御義口伝によるところが大きくて

昨年の段階では
そこまで調べが追い付いて
いなかったんですが

御義口伝っていうのは
凡夫即極系に含まれるんです。

で、この凡夫即極系に含まれる
他の御書はというと
生死一大事血脈抄(疑義あり)とか
三世諸仏総勘文教相廃立とか
http://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/mikkyo.htm

あるいは
日女御前御返事(疑義あり)なんていう
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007503573

体感覚知にとっては
びびっとくる方のものなんですよ。

そうじゃなくっても
学会教学にとっては
その全部を否定するとしたら
半身を失うようなものです。

半身を失うってことはですね
「全身では学会教学でした。
では半身ではどんな教学でしたか?」
って「隻手の声を聞け」ですよ。
http://chohoji.blogspot.jp/2012/01/blog-post_05.html

良医病子の譬えを
先日に考察した感じから言うと

日蓮大聖人が後年
天台を「精神が失われている」と
強く批判したからといって

永劫に絶対的に天台はダメかというと
むしろ復活のためかもしれない。

日興遺誡置文には

一、義道の落居無くして天臺の學文すべからざる事。
(大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない)

一、當門流に於ては御鈔を心肝に染め極理を師傳して若し間有らば臺家を聞くべき事。
(日興門流においては御書を心肝(しんかん)に染め、極理(ごくり)を師から受け伝えて、 その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである)

日興遺誡置文
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/yuikaiokimonn.html
御書 現代語訳wiki - 日興遺誡置文
https://www46.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/37.html

という部分があって

まず日蓮大聖人の教えの上で構築をして
そして天台の教学をかりて脱構築する。

日興門流にはもともと
そういう志向性があるかとも思う。

その流れの中にあって

日寛上人は
体感覚知の人です。

体感覚知・了解すれば
分かります。

末法本仏・天台本覚・体感覚知

そういうトライアングル
なのなら

そういうトライアングルとして
認めてしまうのも
ありなんじゃないかと思う。

というか

あるようにあるし

なるようにしかなってない。

どうでもいい。

受容するしかない。
というか、受容しないことは
一次的には出来ない。

全部そのままあるだけだ。

何をどうしたって
思考概念の上でしか
特別さはなくて

一次的には受容されたものを
否定しても苦しむだけで

正しさとか

それを求めたら
執着して視野が狭くなる。

全部同じなんだよ。
受容があるだけ。

地球民族主義の立ち位置。
全ての差異を乗り越える。

調和・融和。

それをですね

無理して見栄をはって取り繕って
そのシワ寄せは下に押し付けて

そういうのが
滅びの道の非常識だよね。

まるっきり反仏法だよ。

志向性の違いにより
表現は種々にある
体感覚知への導入。

真の無分別の無・空へ。

そこからの智慧
透明の光を。

それぞれの志向性はあって
どの物語からでも
反転するための飛翔の法。

これ。

これーー!

言語化できない。

楽しみましょう。



[706] ハイハートセンター

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 5日(木)12時11分56秒   通報   返信・引用

時間スケールと九識
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/647
チャクラと南無妙法蓮華経
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/648
を書いた時点では
基本的な7つのチャクラと
南無妙法蓮華経の
配置を行ったが

胸中の肉団の御本尊には
ハートチャクラよりも
第8のハイハートの方が
符合率が高いようだ。

http://ameblo.jp/norifulangel/entry-12139823833.html
~~ハイハートチャクラは、第4チャクラ(ハートチャクラ)と、第5チャクラ(スロートチャクラ)の間、4.5の位置にあります。
ユニバーサルハートチャクラ、胸腺チャクラ、第8チャクラと呼ばれる場合もあります~~

http://ichigenka.jugem.jp/?eid=1050
~~ハイハートセンターは『宇宙の心』。
オルター・メジャー・チャクラ(頭蓋骨の基底にある。自我を超越的な現実に結びつける。)と、第3、第4チャクラを通じて表現される、私たちの心、精神、意思という3つのエネルギーが統合される所。
三位一体という『宇宙の心』の本質によって、このようなエネルギーの門戸が形成され、それを通じてバランスを保ち、トランスパーソナルな気付きへとレベルを高めていく。~~

自我機能、自己機能、意識機能
応身、報身、法身
一身即三身、三身即一身

この感得、体感と理解が
誰でも同じようにすれば自得できるもの
でないとするならば

それはただの幻想が生み出した物語である。

特別な人だけが実現できる事実だったとしても
それならば特別でない私にはできないとするならば

私が関わっても仕方のない
私には実現不可能な他人事の物語になる。

法華経は
誰でもが差別なく自得できる道を
強く志向している。

どうすればこれを皆に気づかせ
即成就仏身(次元上昇)を
実現させることが出来るのかを
常に考えている。

常に考えているのだから
常に新しい方法が生み出される
可能性ははらんでいる。

ぷるぷる縦揺れしたり
フンフン早く呼吸したり
パンツーマルミエの動作を繰り返すだけ?
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/7217551.html

難信難解ですね。
意味がよく分からない。

逆なんですね。

意味の囚われ世界にあることで不良不全が起こっているから
その意味世界の中で簡単に分かることをやるのでは

その囚われの苦しみは解消されない。

殻を突破すれば
視野が大きく開けますから
様々なことに気づける。

大きく開き大きく気づき
大きく前進する

そうした時に
そこにある共通性。

底にある生命の活動。

それを俯瞰した時の
ハイハートセンターです。

http://mm-world.jugem.jp/?eid=4063
アセンション=次元上昇=一生成仏です。

光の最終形態は
光として認識できる光ではなく
ただ働き方としての光です。

透明な妙法の光です。

~~すべてはあなたの意図したことが、あなたの宇宙により実行され
あなたの周囲で起こっている。どんなことも自分が意図したから体験しているということを肝に銘じて「ありがとう」の言霊ですべてを受け止めていく。~~

太ちゃんさんが
内得信仰でありながらも
河合師範の指導に真摯に取り組み
感謝の一念を体得することによって
祈りがどんどん叶う境涯になった。

自身の錬磨
その方法の総称が
法としての仏法であり
正法というものだと思います。

執着の成就ではなく
開放の成就です。

「開く」「蘇生」「円満」です。

すでにその法は
全てに満たされているのです。

執着に視点が固定されているから
見えなくなっているのです。

あなた自身が全てであったことを
思い出すのです。



[705] 関心の向け方 受け入れ方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 4日(水)10時20分0秒   通報   返信・引用

「ぷるぷる運動を実践すると人生が楽になるよ」
と伝えると
「気の持ちようってことでしょ?
わたし幸せですから、間に合ってますから」
と返ってくる。

単純に実践法と効用を伝えるだけでは
事実だとしても的を射た伝え方では
ないのかもしれない。

なんか「気持ち悪い」感じだけが
印象として伝わるんだろうな。

「題目を唱えると祈りが叶うんだよ」
と同次元。

「だからそれ何?」って感じだものな。
よっぽど切羽詰まった人じゃないと
そんな藁みたいな言葉はつかまないかも。

「学会がなんかおかしい」
と強く感じ苦しんでいる人にだけしか
伝わらないんなら
なんか開けきっていない。

人と人、そこにある二者関係。

どういう風に眼差しを向けるのか
ということを反省し見つめ直そう。

それこそが池田先生が
常に実践していたことでも
あるんじゃないかとも思う。

今、学会から失われているものは

本当には「思想」というものではなく
「眼差し」なんじゃないか
とも言えるわけだ。

心をちょっとあったかくする「クリスマスの物語」のプレゼントです。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/61975

という投稿が宿坊にあった。

淋しいという思いに
気づきによる愛の眼差しを
注いだ時

そこに強く生きる力が復活・蘇生する。

気づきが始まりになっている。

気づいたことで
今まで囚われていた思いが
解除されて愛の眼差しへと
自然にシフトしたのだ。

この「シフト」が大切なんです。

眼差しのシフトです。

思考概念の囚われから
柔軟な愛へのシフト

頭で考えるクセから
心身で受けて感じる歓喜へのシフト。

だから、考え方・気の持ち方
っていう次元とは
違っているのだけど

受け手は頭で考えるクセを持っているから
普通に言ったって
そういう風にしか取れない。

どれだけ眼差しを向けて
この眼差しに気づいてもらうか
かもしれない。

眼差しを向けて
気づいて相手を受け入れる。

ちょっと面白いブログを見つけた。
インナーマッスル活性化という志向性で
心身の不良不全の回復を試みるブログだ。
http://ameblo.jp/ok-ozekey/entry-12026811324.html
~~たとえば親鸞なんかは、自分を殺しにきた人を弟子にしてしまったそうですが、そのときってやっぱり「殺したい気持ち」を受け入れたと思うんですね。
「そうか、そうかお前はわたしを殺したいか。まぁ、その前にお茶でも飲まないか」みたいな感じだったんでしょうか。
それで知らぬ間に、暴漢の心もおさまってしまい、しまいには反省する、みたいな。
それがもし親鸞が「おい!お前!殺人はダメに決まっているじゃないか。ダメなものはダメなんだよ!」と抵抗したら、たぶん殺されてしまうと思うんですね。
でも親鸞は、そうしなかった。
すべてを受け入れてしまった。~~
~~「暴走もいいが、お前たちは、本当は優しいやつらなんじゃろ?」というのは、相手の心の奥の奥を受け入れるあり方。
「OK!どんどん暴走しなよ!迷惑かけてもいいからさ。危険走行してもいいよ」というのは、表面的な欲求を受け入れるあり方。
だから「暴走を受け入れる」というおんなじフレーズでも、ぜんぜん違う2パターンの「受け入れ方」があるのです。
この2つをしっかり区別していかないと、議論にならないですね。
「受け入れるべきか、受け入れないべきか」という議論は不毛です。
どこの部分を、どのように受け入れれば問題が解決するか、というのが本質だと思います。~~

こういう受け入れ方
眼差しの向け方というのが

池田先生の真骨頂だった
のではないかと思う。

考えを分かってもらっても
人はそんなに変わらないですよ。

学校で知識を詰め込んできたけど
どれだけの幸せを実現させているか。

感動を分かち合うこと。
その瞬間が「奇跡」なんです。
人生の変わり目です。
蘇生・復活なのです。

不可思議とは思議すべからずです。
頭で考えるもんじゃないんですよ。
議論の必要なんてない。
もう、そのままその時点で変わっちゃうんです。

http://astudyinsecrets.com/blog_y/?p=113
~~ある者は言葉を失う。ある者は悲鳴に近い感嘆の声を上げる。
ある者は顔が引きつる。ある者は文字通り、開いた口が塞がらない。
ある者は胸の鼓動が高鳴り、止められない。ある者は息するのも忘れる。
ある者は全身の毛が総毛立つ。ある者は自分の体が自分のものでないような感覚を覚える。
ある者は時間が止まったように感じる。ある者が世界が揺らぐのを感じる。
ある者は自然と涙がこぼれることに気づく。ある者は気づいたときにはスタンディングオベーションをしている自分に気づく・・・
「不思議」とはそんな「神秘的瞬間」だ。~~

選択です。

常識の中に生き常識の中に死ぬことを選ぶのか
不思議の中に生き不思議の中に死ぬことを選ぶのか。

何も選択しないのなら
今の学会は常識に憧れ嫉妬しながら

非常識の中に跋扈し非常識の中に滅びます。

http://ameblo.jp/ok-ozekey/theme-10090080294.html
常識は現実界
不思議は中現界
無・空は絶対界に通じています。

どこにも通じていない非常識は
滅亡の道です。

”常識に憧れ嫉妬し”・・・

批判=嫉妬かどうか
という議論があります。

非常識サイドは
理に適った説明を求めるだけでも
「一切タブーに触れることは
批判であり広布破壊の嫉妬だ」として
無実の罪を着せてでも裁く横暴の
批判=嫉妬の論理です。

”常識的に考えれば”
批判≠嫉妬を成立させようとします。
https://note.mu/hiroumi3799/n/nf73168522123

心身活性化の見地から見れば
批判するということは、自分の嫉妬をさらけ出すことです。
http://ameblo.jp/ok-ozekey/entry-12026140062.html

無・空から見れば
あるようにあり
なるようになってます。
どうでもいい。



[704] 良医病子 補足考察

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 3日(火)11時44分18秒   通報   返信・引用

肉身の個別の覚者としては
複数人を一人の良医として
仏の働き作用を描いている。

寿量品では
仏は常に娑婆世界で
法を説き続けていて

本質的には
生じたり滅したりすることが
無いと説かれている。

しかし衆生は
個別の肉身の覚者の
入滅を見て
もう仏はいないと思う。

自らは仏より劣っていると
思ってなんとかしようとする。

上手くいかず苦しむ。

このあたりの矛盾に対する
それも慈悲であることの
譬喩となっているのだ。

良医を
肉身の釈迦一人と見てしまったら
わざわざ寿量品で説かれている
整合性が無いのだ。

子は各派それぞれの
思考概念による
三界(差別があると見る世界)
の枠組みである。

これを生み出している父なる
仏のスケール
生命の救済の活動は
どういうものなのかである。

五百塵点劫から考えれば

あらゆる思考限界の
全ての枠組みを磨り潰し

それでもまだ残っている
思考不可能な囚われも
全て通り越して

それも含めて完全に
囚われを磨り潰した

それよりもさらに
広大なスケールである。

始めの一人なんていない。
あなたが始まったことなんてない。
寂光土が始まることなんてない。
娑婆世界なんて起こっていない。

そういう「思い」「考え」
が起こっているだけ。

そのことを伝えるのを
担っているのが覚者だが

個別の一人一人の
覚者というものは
仏の一語一語の
ようなものなのである。

仏が説法の間に
息継ぎをしたとして
どうしてそこに
仏がいなくなったと
言えるだろうか?

時代時代は一品一品の
ようなものである。

みんなが崇める覚者だけが
仏の語ではないのだ。

それぞれが
既に生かされている

色香美味の良薬は
自身・自己機能なのである。

肉身の覚者などに
対象化して

そこに仏があると
感じることが起こりうるのは

ここにある仏が
その自身を映し出しているのだ。

このことの
曇りの無さの一心が仏である。

イメージし
体感に落とし込むことで
それを実現させていく。

逆に言えば人間は
与えられているイメージに
縛られている。

個別に実現しようとして
イメージしようと思っても
全体性のイメージの中に
融合できずに
意図しない結果を見る
場合も多いだろう。

意図思惑・期待依存が
全体のシステムを
見誤っている。

全ては
あるようにあり
なるようになっている。

イメージ化落とし込みと
イメージ突破囚われ解除

その両者によって
フリーの現象智へと進む。

https://matome.naver.jp/odai/2134731690501149301?&page=4
~~Lecture 4 「こころ」はどれほど自由か?
4.1 人間の思考は”権利上”は自由であるが、事実上は不自由である。
4.1.1 催眠よりも自由連想法は優れている
4.1.2 それは言葉だけに頼らざるを得ないため、イメージのバリアを超えて無意識に到達しやすいから
4.1.3 連想は言葉でなされる
4.1.4 意味やイメージは言葉の副産物である~~

結論ありきではない
言葉を紡いでいる。

「私が」という見解を離れた
あるということへの言葉。

思考であれこれ認識する前の
ふっとそこにあるまま。

これが起こることは
どうしようもなく
ここに与えられている。

何とも分離していない。

「自分が自分が」って言ったって
どこからが自分かなんて
無いんですよ。

自分がやってるって
自分で認識する7秒前には
それをやるって決まってる場合もある。

「意識による判断の7秒前に、脳が判断」

何が起こってるのだって
起こってるだけなんですよ。

全部が自身の生命現象。

井上哲玄老師 一泊禅会 2016年12月18日
https://www.youtube.com/watch?v=LY4ScnsitZ8

誰の体感とか
誰の言葉であるとか

関係ないのである。

全部自身の生命現象なんです。



[703] 良医病子の生命智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 2日(月)14時25分55秒   通報   返信・引用   編集済

如來壽量品第十六 経文
http://myofukuji.or.jp/okyo/okyo-00-16.html

全訳 如来寿量品第十六
http://chances.life.coocan.jp/aokyoukan/17.htm

元日の投稿内容は
狙ったわけではないが
どうもここへ来てやっと
良医病子の生命解釈の
とっかかりを得たようにも思うので
挑戦してみよう。

譬如良醫。智慧聰達。明練方藥。善治衆病。

良医とは仏を例えているが
「仏とは何か」を覚知しなければ
生命解釈としては意味をなさない。

病とは体の病だけでなく心の病もある。
仏法では当然それをとらえている。

無・空の絶対界からの智慧によって
心身の不良不全を治癒し
意識世界ごと救済する
意識の使い方を獲得し行使する者。

仏とは神癒の奇跡を起こせる者である。

其人多諸子息。若十。二十。乃至百數。

単に衆生の一人ひとりと捉えるには
数が少ないように思う。
法華経の成立時期から考えて
仏教内の各派とも捉えられる。
主要なものだけでも十や二十に分かれ
数え方によっては百以上にもなる。と。

そのままでは釈迦仏教の
固定的志向性なので
広く生命智として捉えるならば

子とはあらゆる思想体系の枠組みであり
各々の正義を内包した個性である。

以有事縁。遠至餘國。諸子於後。飲佗毒藥。藥發悶亂。宛轉于地。

法華経の成立時期を考慮して
本当のところを読むと

肉身の釈迦が亡くなって以後
残された信仰体系の中には
間違った考えが入り込み

そこにいる人々は悶え苦しんでいた
ということになる。

毒とは自我機能の
「思い込み」「信じ込み」
による信仰の対象化であり
仏の神格化や偶像化である。

生命現象の覚知を
他人事の物語として外に求め

今ここの自分自身を
ないがしろにしたことで

目の前に苦しんでいる一人をも
間違った方向にしか
向けさせられないという悪循環である。

是時其父。還來歸家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。遥見其父。皆大歡喜。拜跪問訊。善安穩歸。我等癡。誤服毒藥。願見救療。更賜壽命。

釈尊自身と分離の無い悟りを開いた
神癒の奇跡を起こせる覚者が
再び仏教圏内に帰ってきた。

自己機能の法を見る心
つまり素直に正直に
仏を見たいと欲する心を
失っているものも
失っていないものもいたが

皆、自己都合であるにせよ
覚者の出現に大いに喜んだ。

そして言う
「どうも間違った考えを
取り入れてしまったようで
もう何が正しいのか
訳が分からなくなっています。
仏の教え・救済の法を存続させるために
仏教立て直しの方途を示して下さい」と。

父見子等。苦惱如是。依諸經方。求好藥艸。色香美味。皆悉具足。擣篩和合。與子令服。而作是言。此大良藥。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦惱。無復衆患。

覚者は民衆が苦しんでいるのを見て
「今までの経典」をつぶさに調べ

仏が民衆に説いた本質は
自己機能の新陳代謝と現れる非二元である事を見抜き、

あなた方自身が
法界(宇宙)に散らばる
美しい味と香りのビジョンを
和合させて出来ている存在なのだ。

その自己機能に寄り添うならば
自我機能による「思い込み」「信じ込み」は
速やかに消えていき
再び侵されることは無いだろう

という事の音声・振動・波動を与え
これによって心身の不良不全は回復する
というものを与えた。

其諸子中。不失心者。見此良藥。色香倶好。即便服之。病盡除愈。餘失心者。見其父來。雖亦歡喜問訊。求索治病。然與其藥。而不肯服。所以者何。毒氣深入。失本心故。於此好色香藥。而謂不美。

民衆の中に
素直な心を失っていないものは
それを素晴らしいものだと受け入れ
実践することで心身の不良不全は
回復した。

そうではない素直な心を失って
自我機能の思い込みの膠着が強いものは
そんなくだらないものは必要ないと言って
実践することなく

ただ覚者の傘の下に入って安住し
それまでの信仰に執着し続けた。

父作是念。此子可愍。爲毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好藥。而不肯服。我今當設方便。令服此藥。即作是言。汝等當知。我今衰老。死時已至。是好良藥。今留在此。汝可取服。勿憂不差。作是敎已。復至佗國。遣使還告。汝父已死。

覚者は思う
「かわいそうにあまりに毒が回っているので
それが利己的な自我機能の囚われであるのか
それが素直で純真な信仰心の現れであるのか
自分で判断できないほど顛倒してしまって
いるのだ。私を見て勇気を分けてもらい
歓喜を得ておきながら、この私の言う方法を
実践しようともしない。何か良い案を考えて
実践させることにしよう」

そこで覚者は民衆に向かって
「わたしはもう年老いて、あまり先が長くない。
正法をここに示しておくから、自分たちで選択して
実践しなさい。必ず治るから心配することはないよ。」
と言い残して民衆の前から姿を消す。

そしてそのまま肉身の覚者は帰らぬ人となり
「もうあの覚者の精神は
この世のどこからも失われてしまったのだ」
ということが耳に届くようになる。

是時諸子。聞父背喪。心大憂惱。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪佗國。自惟孤露。無復恃怙。常懷悲感。心遂醒悟。乃知此藥。色香味美。即取服之。毒病皆愈。

教団に所属する民衆は
覚者の偉大な精神が失われてしまっていることを
深く嘆き悲しみます。
「あの覚者が生きていてくれたならば
どんな状況でも希望へと転じてくれたに
違いないというのに、私たちはもう
頼れるものが無くなってしまった」
そういう思いが胸に湧いた時
「本当にそうか?」とハッとする。

覚者が寄り添えと言っていたのは
その対象化された肉身の覚者ではなく
この私自身の中にいる内なる覚者
だったのではないのかと気づく。

そして循環の自己機能の覚知の
方法を実践することによって
心身の不良不全は回復したのである。

其父聞子。悉已得差。尋便來歸。

入滅し法界となった覚者のもとに
つまり、世間の人びとにも
彼らは本心を取り戻し
法のため民衆のために
再び立ち上がったということが
聞こえた時
あの覚者の為した
その精神性が還ってきて
仏法は復活した。

咸使見之。諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良醫。虚妄罪不。不也。世尊。佛言。我亦如是。成佛已來。無量無邊。百千萬億。那由佗阿僧祇劫。爲衆生故。以方便力。言當滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。

「諸君どうだろう?
覚者の精神が失われていると
教団を責めさせたことは
和合を乱す悪い行為だと
言うことが出来るだろうか?」

「いいえ全く悪いこととは言えません」

「非二元の覚者が述べる世界は
どんな対象が失われようと
本当に失われるものなどない
ということを示している。
だが、それを言っても気づかない場合には
覚者の精神が失われていると
強く責めるのである。
それによって悟りに気づくためである。
そういった道理の上から
非二元の生命感覚の方法によって
教団の在り方を強く責めることは
仏法上の罪とはならないのである」



[702] 「非二元」「悟り」の年、おめでとうございます。

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 1日(日)12時17分43秒   通報   返信・引用

「非二元」「悟り」の年、おめでとうございます。

この挨拶は、アルベアさんの記事タイトルを
そのまま返している反応です。

年末の忙しさであまり時間が取れていなかったので
昨夜は久々にゆっくりと
アルベア法→長行勤行→三昧(観照意識・只管打座)

そのように過ごしてみました。

ゴーン、ゴーン、ゴーンと
マインドが除夜の鐘だと告げる前は
只、音に対する気づきでした。

音っていうのは脳が受け取って終わりではないです。
よく観察してみると、それぞれの音は
神経的に反応して身体に響いています。

音は生命現象の息づかいを伝達します。
人間の一面は音環境の音的宇宙に
溶け込もうという反応、働き作用です。

文字・楽譜・録音は音を伝える人間の智慧です。
読経は音の世界を再現する行為です。

音と香に浸ることに仏教の化儀の伝える
精神の神聖性の世界があるのです。

自然のままに生かされている
循環のあるがままです。

光というものは目だけでなく
身体全体が感じています。

身に着ける下着の色
暮らしている部屋の色調

視覚によらなくても
精神に影響しています。

視覚は眼差しを向ける
ビジョンを持つという
働き作用です。

眼差しは向けると同時に
向けられてもいます。

私という存在は仏の眼に映っている
世界の中の諸法でもあるのです。

香環境は、仏の体内に
あることを示しています。

逆もまた真という同時存在で
私の中に仏があります。

味覚というものは
直接この体になるものの
門番です。

私の身体は味が作り動かしているのです。

味のビジョンの相の変化が
自然の循環にあり
今ここで私の身体の相になっているのです。

空気の香、水・土の味が食物へ変化し
私へと変化しているのです。

味のビジョンの循環は
宇宙事象のクオリティーです。

味は変化し在り続け
無くなることはしません。

愛というクオリティーの存在として
慈悲の光の世界が輝いているのです。

この世界は眼差しの中に
存在するのです。

所詮なるものは
有るのでもなく無いのでもないことの
神秘性の妙法の音律です。

宇宙の循環が
この五体と変化しており
眼差しの中の振る舞いのために
脳が智慧を獲得しているのです。

身体は太古よりの体躯です。

宇宙の妙法がこの身体です。

体感が存在しています。

銀河意識の慈悲は
体感に対して環境調整を行っています。

この環境調整は
人間自身のマインドが生み出したものには
直接は調整できません。

人間の意識機能を通して
人間になることで調整します。

人間の自我機能の思考は
煩悩・本能を調伏して
立派に社会の一員になるという上で
環境問題も考えようとしますが

見てごらんなさい

自我機能の思考がもたらせている
不調和が環境を破壊しているのです。

脳から体への一面を実現しようという
無理難題なのです。

脳と体とは相互に響きあっており
五体と宇宙とは相互に溶けあうのです。

意識として人間になれない意識体の
エネルギーの行方は

切断・ショック療法として
破奪の現象化の”慈悲”として現れます。

人間我から見れば”惨事”です。
人間我は”意味世界の現実”を生きているからです。

意味我の融解という相転移が自由を獲得し
自由自我の蒸発という相転移が愛の光に舞います。

融解の難しい強固な自我機能は
崩落し砕かれることで融解しやすくなるのです。

悟りの調和の世界へは
懺悔し許し溶け込むリラクゼーション。

脳、身体、環境の調和・融和。

あるようにあり
なるようになる
意味ではない事象です。

繰り返し落とし込むだけです。
難行苦行ではないです。

選択により感じ方は異なります。

自身の生命現象だからです。

マインドラボ機関による2011年の科学的調査により
「Marconi Union」がリリースした「Weightless」が
最もリラックスする楽曲として選ばれている。
http://tabi-labo.com/57534/best-healing-music

Marconi Union - Weightless (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=UfcAVejslrU

Marconi Union - Weightless (Official 10 Hour Version)
https://www.youtube.com/watch?v=qYnA9wWFHLI



[701] 常識から浄識への浄化

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月30日(金)12時14分15秒   通報   返信・引用

2016年。

宇宙規模からパラレル宇宙規模へ。
パラレル宇宙規模から無分別規模へ。

フラクタルでスペクタクルな
今という生命現象が
南無妙法蓮華経。

まぁ、その意味では確かに
過去の文献の研鑽という
学術的な教学だけでは

論争の種ではあっても
救済現象の種ではない。

今ここ以外は概念であって
今ここが生命現象であり
法である。

固定概念の閉鎖的言語体系から
同じ本質のための自由な言語へ
そして無限の空への飛翔へ。

固体→液体→気体という
相転移が囚われからの解放の現象であり

自我機能→自己機能→意識機能
という変化です。

法華経方便品の諸法実相の原理から言っても
その相(自身の現れ方の認識・視座・観点)が転移すれば
その性分(迷い⇔悟りとか探求⇔救済とか)も
その体とするところ(自分、地球民族、ワンネスとか)も
その全てが転移する。

己心の寿量品・今即無限の自身の覚知が
根本浄識への相の浄化であり一生成仏、
現代的な言葉の概念にマッチした言い方としては
次元上昇ということになるのです。

世俗化した教団には転移の力は衰退します。
視座・観点の衰退がその現象を選択しているのです。

こういうことが言えないと
一切の諸法が序分であり流通分であるのが
観心の本尊と言ったところで
言葉だけがある概念の遊戯で
かえって矛盾を克服できずに苦しみ疲弊する。

パブロフの犬・サルを完全に破壊する実験

生命力の蘇生によって
病の平癒などの力用のある生命の法と

組織から言い渡された課題に取り組む
宗教の信仰。

とても功徳があった
→たまに功徳がある
→もうほとんど功徳が無い

止められない抜けられない
出口のない選択です。

まぁ、どうでもいいです。
なるようになってます。

何事も連動起因に出会って
没頭すれば気づきになります。

正法の本質は
どの宗教にあるとか、
どの概念・理論にある
とかではないです。

あえて言うなら
己心の寿量品のうんたらかんたらと
私が言っている文面の底の無・空です。

もう始まっているので
楽しみですね。

アルベアのブログ
おすすめ動画⇒中現界の異次元意識体の実例
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12231715363.html
の中で紹介されている
https://www.youtube.com/watch?v=DUZoTUwRGRc

宇宙的現象と個人的現象
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12232034718.html
の中で紹介されている
https://vimeo.com/129957744
キーワードは「切断」⇒「覚醒」

「意識体の関与」によるリカバリー現象
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12232896533.html

「アセンション現象」は「生命現象」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12233180040.html

実は前No.700の記事は、その前日に
けっこうな意識体関与があって
頭痛くなるし、あと題名を決めて
投稿ボタンを押すだけの段階で
グーグルクロームが落ちて
内容が消え、
もう一度書こうとするも
頭痛などで書けなくて一度あきらめました。

翌日に、その内容を反省し
変毒為薬して向く先を変えて
書き直したものです。

これはアルベアさんのところにも
何か起こるなというのは
感覚で分かっていました。

切断・覚醒・アセンション
その現象智です。

私のひとまずの目標地点は
2017年8月24日です。

この目標は
2015年の8月24日から2年という
カウントです。

2016年はその真ん中の年でした。



[700] 幅×奥行き

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月27日(火)14時15分37秒   通報   返信・引用   編集済

空(くう)は本当は
空っぽではなくて
何であるのかの
認識限界・説明限界の
絶対存在。

普段はノイズが多くて
気づけないため
ノイズを消して覚知する
その方法の一つを説明する時に
仮に空っぽという言葉を
使用する場合がある。

【奇跡の脳】脳科学者ジル・ボルト・テイラーの悟り体験
https://matome.naver.jp/odai/2142474520289111001

思考概念からの解放の体感を
実現させるそのもの。

そこまでの体感が
まだ私にあるわけではなく
私の志向性として
気づきと思考のミックスの
寄せを行っている。

では順に考えてみよう。

     観測限界の外の空
込       /* 英知の結集の観測域
*込    /** 遠く広範囲の過去
**込 /*** 今ここの小範囲の認識
******** 0距離0範囲の観測点
***/ ∀** 今すぐ関与できる行動
**/    ∀* 全体が織りなす未来
*/       ∀ 英知の結集の算出域
     算出限界の外の空

遥か遠い過去のものほど
ハッキリ認識するには
抽出し拡大する技術が
必要になる。

いくつかの問題が
考えられる。

もし情報を遮断された
部屋に閉じ込められたら
その人にとって
部屋の外は空と言えるか?

極大方向だけでなく
極小方向も観測が困難であるのはなぜ?

観測点がハッキリしない。
人間は視覚に反応することもあるし
他の感覚に反応することもあるし
脳を介さない反応をすることもある。

見えているのが過去だというのは
知っている概念であって
今見えているのはそれしか
無いのだからそれが今ではないのか?

人間の認識の「今」には幅がある。
例えば動画のコマ数を増やしていくと
静止画の連続という認識から
静止画は認識できず
なめらかさの認識へと変化する。

人間はこの幅の時間感覚の中で
極小でも極大でもない領域の
人間が受け取り可能な
わずかな領域の情報を元に
しかも端折って違いを認識し
自分の今ここがあると
ハッキリ認識していると
思い込んでいる。

しかしそれは実に
いい加減なものなのだ。

「この ぶんょしう は にげんん は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。」
http://kumaotoko.in.coocan.jp/sakkaku.html

(↓観術TV 脳のクセ~次元上昇)
https://www.youtube.com/watch?v=Ipx-TytC63I
https://www.youtube.com/watch?v=TZKRk_3j944
https://www.youtube.com/watch?v=CGImuSbvHWY

いい加減な認識が生み出している
諸問題に対して、同じ次元からでは
解決が難しい。

奥行きを覚知した視点に移行する
ことによって、今まで
どうしようもない問題だと
思っていたことが
何の問題もないこととして
解決に向かうのかもしれない。

一つには九識論に見る深さ
ということでもある。

(↓これは毒が強いかもしれないので幅と奥行きだけさらっとね)
http://ameblo.jp/tomel31/entry-12123058866.html


↓↓↓

     観測限界の外の空
込         /* 英知の結集の観測域
*込      /** 遠く広範囲の過去
***〉〈*** 今ここの小範囲の認識
**/      ∀* 思考の勝手な思い込み
*/         ∀ 無分別の理
               冥合した無・空
込         /* 無分別の智
*込      /** 思考の勝手な信念
***〉〈*** 今すぐ関与できる行動
**/      ∀* 全体が織りなす未来
*/         ∀ 英知の結集の算出域
     算出限界の外の空

人間スケールの今を境に
外と内に同じだけの
広大さが開けることになる。

その広大さは自分にだけあるのか
その広大さは人間にだけあるのか

全ての認識の奥には
その広大さの無限がある。

それらの空は別々か同じか?

本当にハッキリ存在しているのは
何であるのか?

問題は存在しているのか?
この疑問はどこに実在しているのか?

対象化できないという本質。

「心身脱落」「只管打座」
http://shuchi.php.co.jp/article/1535?p=1

「摩訶止観」(中国天台宗)
http://ameblo.jp/morfo/entry-11112543690.html

三学と止観
http://ameblo.jp/morfo/entry-10814135474.html

日蓮仏法の説明はいつもしているので省く。

         ↓↓↓

              _.ャぁて丕刀フ7ゎ.
       ,ィ升ヲナ'´         `゙'<弖心、
     ;夕フア´              \ホi心.
  んfiУ               ▽ij∧
  从j'Y                  ∨iハ
斤W                     ㌣い
|友カ                   }ソ川
い叭                  仄ガ
 Wi从                从ノリ
  ∀t△               ∧fリ/
    ゙マじへ、           /リiУ
      \夊i㌧、_           ,.イ!刋/
           `゚' ミ芝玉竺壬云‐'´
                     ̄ ̄
これ、ダイレクトパス。

説明なし、ダイレクトパス。

例えばロボットを動かすのだって
理論から攻めたってぎこちなくて
なかなか上手くいかない。

シンプルな仮説から
色々やってみて調整するのが早い。

謎のエンジニアDr.Gueroさんのこと
http://shuuji-kajita.hatenablog.jp/entry/2016/05/13/025708

脳の存在理由
https://www.youtube.com/watch?v=Q4hXHH8CZBc

つまりアルベア法を実践してみるのが早いということ。



[699] 関西魂の非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月25日(日)04時55分34秒   通報   返信・引用

http://www.kansai-soka.jp/member/gakkaika.html
常勝の空
作詞:山本伸一  作曲:杉野泰彦

一、今再びの 陣列に
  君と我とは 久遠より
  誓いの友と 春の曲
  愛する関西 勇み立て

二、我等の誉れ 錦州城(きんのしろ)
  常勝の空 晴ればれと
  凱歌の友の 雄叫びは
  波濤の如く 天に舞え

三、あぁ関西の 行進に
  諸天の旗も 色冴えて
  護りに護らん 我が友を
  いざや前進 恐れなく
  いざや前進 恐れなく

非二元の愛の没頭の歌だと思います。

今再びの 陣列に
  君と我とは 久遠より

再びという蘇生は非二元の体感覚知の現象化
無始無終の「今」の瞬間瞬間が絆の生命現象

誓いの友と 春の曲
  愛する関西 勇み立て

法のため人のために誓って歓喜を奏でる
愛のエネルギーの同時代現象を生み起こす場

我等の誉れ 錦州城(きんのしろ)
  常勝の空 晴ればれと

輝き澄み渡る「空」の覚知は
不壊・不落の城にして勇み進めば
誉れの常勝の軌道に乗る

凱歌の友の 雄叫びは
  波濤の如く 天に舞え

迸るエネルギーの炸裂
その情熱の表現は人間の認識を
超えた領域にまで響き動かす

あぁ関西の 行進に
  諸天の旗も 色冴えて

場の意識・全体性覚知のエネルギーの涌出は
不思議な連動現象を味方にし飛翔を果たす
色鮮やかな栄光の行進

護りに護らん 我が友を
  いざや前進 恐れなく
  いざや前進 恐れなく

正しき法のための民衆を護る行動の
そのエネルギーが光なのだ
臆すれば自滅
いかなる権威権力意図思惑が相手であろうと
恐れずに非二元の明晰で前進するのだ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

非二元感覚から言葉を浮かび上がらせることを
私はやっているが

この歌詞は当にそれによって書かれていると思う。

法難の度に比例して繰り返し意味を放つ
法華経の非二元の歌だ。

成功する民衆運動の団結には歌があると知悉した
池田先生が、最重要の関西を常に勝たせるために
不滅の金字塔の魂の奇跡、誓いの奇跡、愛の奇跡
その全身全霊を込めた歌。
未来もまた不二とするために「今ここ」
を込めた歌なのだ。

以前貼った池田先生の観心本尊抄講義に
始まりも終わりもないということは
今一瞬の中に全てがあるということだと
いう部分があった通り
その身において非二元を体感覚知している。

また、それより以前にも
詩【革命の河の中で】の中で
~~誰が見ていなくてもよい
誰に凭(よ)りかからなくてもよい

ただ一元的な法に則り
汝の人生の真相と
人間党の絢爛たる 勝利の絶大を信じて
天座に 自在に 舞いゆくことだ~~
と綴っている。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/61924

自我機能の上では
池田先生が作った「常勝の空」かもしれないが

自己機能の上では
誰でもない全体の愛と信じる心が
「常勝の空」を作った。

「常勝の空」には爆発力があります。

そしてこの歌は
昭和54年への先手でもあったのです。
http://d.hatena.ne.jp/peppie/20031007/1065503941
http://blogs.yahoo.co.jp/sakuratribune/26140942.html

思考概念で捉えれば
対象化したその時その人の物語になる。

今再びの法難に
今再びの陣列で向かう。

繰り返しのセット現象です。

始めの一人はいない
「今ここ」の自身の生命現象です。

あなたの愛の気づき
飛翔しかないのです。



[698] 発迹顕本の物語の無いと蘇生と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月24日(土)02時01分1秒   通報   返信・引用

先に日蓮仏法の御書の立場という
断りを入れておく。

爾前諸経は信仰の対象ではない。
法華経本門が優れているが
迹門も捨てない。
南無妙法蓮華経が優れているが
法華経二十八品は捨てない。
観心の本尊のためには
一切の諸法がその導入のためであり
一切の諸法がその流通である。

さてさて前回
ストーリーに飲み込まれてはいけない。
非二元を悟らないと歪むのだ。

と書いたが
ストーリーを有難がるのは
法華経迹門までなのだ。

真実を示されても
それが有難い対象
他人事の観念
従うべき思考概念である限り
「思い込み」「信じ込み」レベルから
抜け出せない。

要するに発迹顕本という言葉や概念は知っていても
じゃあどうすれば発迹顕本出来るんですかということが
さっぱりなのだ。

前回の系譜には
釈尊の悟りからスタートさせているが

釈尊一人が悟って説き始めたという
始まりは無いのだ。

同じように
日蓮大聖人一人が思い立って
末法の衆生を救う法を説き始めたという
始まりもなく

牧口先生が日蓮仏法に出会ったという始まりも
戸田先生が戦後の苦しむ民衆を救うことを始めたのも
池田先生が世界の民衆を救うために打って出たというのも
そういう始まりはなく始めた一人はいない。

始まりが無い、終わりがないということは
そんな風に思われる一人は存在していない
ということ。

一切の対象化、偶像化をしないことの自得
それが法華経の非二元の体感覚知です。

その瞬間のみにおいては
一切の誰かは存在せず
これを信仰するという対象が無い。

宇宙と想定したって
宇宙も対象であり
宇宙も存在していない。

このことの祈りとは何かというと
空っぽからあふれ出るエネルギーそのもの。

このエネルギーの
音声的表現として
日蓮大聖人の志向性の上で
南無妙法蓮華経です。

と、ここで日蓮大聖人が
再び現れる。

復活、蘇生です。

この復活した日蓮大聖人は
どこからどこまでという境も
始まりも終わりもない。(円融円満)

全ての復活の経験にとって
同じ報身、同じ心です。(開かれている)

その報身、その心にとって
一切の現象は自身の生命現象です。

法華経二十八品を
限定されたスケールとしてではなく

開かれた非二元として
湧き起こった智慧のエネルギーをこそ
密教的曼荼羅を同じ光の復活として
文字曼荼羅として御本尊を表現したのです。

空っぽの自身(無我)に
最小限の自我が復活し
智慧のエネルギーが湧き起こる場が
すなわち戒壇であり

日蓮大聖人の志向性の表現として
三大秘法なのです。

蘇生の大歓喜の表現なのです。

その表現に縁し感応するから
そういう大逆転の
エネルギーを得られるのです。

これに乗るのは体感です。
思考概念は導入です。

サーフィンのように
スキー・スノボーのように
自転車のように
職人技のように
です。

リーラ 記事:天皇誕生日
http://abetoshiro.ti-da.net/e9227529.html
~~国民の上に君臨するのではなく、むしろ最も下から国民を支えているように見えます。


それは祈りによってなされています。

祈りとは、天にお願いすることではなく、愛がさらに昇華した高いレベルのエネルギーのこと。

自らを空っぽにして、そのエネルギーを通す媒体になっているのが、本当の祈りです。


祈りとは行為ではなく訪れるもの。

愛も祝福も、およそ人間にとって価値あるものは、人間が作るものではなく彼方から訪れるものです。


人間にできることは、自らを空っぽにすること。~~

非二元の探求者・覚者は同じような内容を言います。

法華経は無名の非二元の探求者・覚者たちの
釈尊自身との違いの無い完全な結実でもあるのです。

釈尊の直接の説法ではなかったとしても
釈尊自身が説いたのとまったく分離のない
誰が説いたのでもない究極です。

今もなお、気づけば厳然として散らず。
一切の現象として現れているのです。



[697] 法華経の非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月23日(金)12時03分45秒   通報   返信・引用   編集済

般若心経に見られる色即是空、空即是色
これは「諸法空相」であり
「気づいている私(I am)」には
特定の在り処が無い一つだという気づきです。
ともすればこの世は空虚で
何が起こっても幻想なんだから
真実の世界で救われれば良いという幻想です。

法華経に見られるのは「諸法実相」であり
分離されない在り方の如来による
実際のこの世界での救済の法です。
真実が諸法空相であると言っても
この世界から分離された真実があるのではなく
この世界の現れ自体が真実の現れ方であり
物質的にも精神的にも清浄な人間としての生活(円満)を
開き蘇生する身口意の行動の救済の法です。

④ 「諸法実相」という言葉は,積極的な意味があると思いますが,
皆さんはどう思いますか。(YAHOO!知恵袋)


求道者から救済者への反転。
智慧を探す悟りへの道から
智慧と輝く自身の生命現象の悟りへの反転。
瞬間瞬間の閃きの反転でもあり
体感的には空をくぐりぬけて実として現れる
水と光の復活の生命現象である。

私があると気づいている私はどこにある?脳??
脳にその考えが起こっている事に気づいている私は?

これは、探す限り終わらないイタチゴッコ。

気づきのダンス(カテゴリー別アーカイブ: ダイレクトパス)

だからと言ってもその気づいている私(I am)を
体感して腑に落とすことは出来る。

やってみることが重要なのだ。

ダイレクトパスがその一つだ。
悟りを体験的に理解するーダイレクトパス(見ること)

この方法が辿り着く一つの答えが
「頭の無い方法」である。
頭がない方法(HP)

頭がない方法(youtube)

アルベアさんは
「見えている世界」視覚による世界の後ろ(眼球の後ろ)には無限の「無」無限の「空」しかないのです。
と表現しています。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045597.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045637.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045685.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045792.html

釈尊の悟り→
般若心経の空の思想→
法華経の実相の比喩→
鳩摩羅什の妙訳→
天台の「止観」→
妙楽の一念三千の教理→
伝教の戒壇→
日蓮の三大秘法→
日寛の文底→
創価三代の広布

師の到達点が弟子の出発点
観心本尊抄の指導原理について

しかしストーリーに飲み込まれてはいけない。
非二元を悟らないと歪むのだ。

継承されているのは
非二元の悟り、体感覚知だからである。

この意識の使い方からの救済。

意識を向けるということの
輝きの爆発の起こりの没頭の現象に
合致すること。

池田先生の弟子だというためには
そこがスタート地点になるのだ。



[696] 無い

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月20日(火)11時32分49秒   通報   返信・引用   編集済

没頭とは能動的ではない。

しなければならないと思ってするのではなく
したいという思いに委ねることで没頭する。

内発性を受容することによる開放・蘇生・円満である。

これは自己の内発性に対して
こうすれば価値的だろうとかいう意図・思惑を
乗せない没頭である。

自我機能の能動性を忍ばせて
自己機能の歓喜に委ねるのである。

この自己の生命活動を信受し受持するのである。

意図・思惑という思考をする頭の没した世界で
無我夢中であるという生命活動である。

夢中になっている瞬間に体感している世界において
己の頭や思考が存在しているかどうかということは
体感把握していても
自分の考えがそれをしているという思考ではないはずだ。

それは体を使うことだけでなく学問をする時もである。

「今のオレ神ってたよね?」って振り返った時に
自分の思考、今までの努力の結果という物語の中で
自分の分離、結果の分離を認識する。
あるいは師の指導、伝授された技の結果という物語
かもしれないが同じことである。

思考概念の世界が裏返しにできている面白さは
結果に対して、これが原因だと結びつける意図・思惑によって
かえって、それを分離した柔軟性の無い、
偏った囚われを形成するところである。

結果が重要か過程が重要か?

それが二元思考のなせる業である。

因も縁も果も報も今一瞬の中に全部あって
究極して等しいというのが法華経ではなかったか?

法華経は非二元の教えなのだ。

池田先生のために頑張って
池田先生のおかげで結果を得る。

分かるかな?
それではいつまでたっても不二にはならない。

じゃあどうすれば良いか?

どうでもいい、考えるな。
本物であれば自然に湧き起こる。

そういうことを信じられないのが不信なんですよ。
自身の生命現象に対する不信。

知性を捨てろとは言わない。

知性があるなら意図・思惑を
見抜けと言う。

外にある意図・思惑も
内にある意図・思惑もだ。

その意図・思惑は名聞名利であり
本来の妙法の光を遮っている。

悟っていますか?
あなたの生命現象が
南無妙法蓮華経であることを。



[695] ある

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月19日(月)12時36分46秒   通報   返信・引用

現象智にとって
どのストーリーを選択するかは
どうでもいい。

学会活動?
やるんならやるんだろうし

それじゃないならそうならないだろう。

大御本尊をどうとらえるかも
そうとらえることが起こっているのなら
そうとらえることが起こっている。

それぞれに違うことが
それぞれに同じである。

思い思いなんですよ。

没頭しきれば関係ない。
どうでもいい。

没頭している時には
起こっているそのものなんですよ。

理由は関係ない。
物語はどうでもいい。

私の言っているのは
私の物語なだけですよね。

自分は何か間違っているかもしれない
自分には何か足りていないかもしれない

そういう思考概念の物語に囚われるから
比べて迷うんですよね。

分かったと思っても
それは分かったという思いが
その瞬間に起こるだけです。

一瞬で過ぎ去って
もうどこにもないそれを
共有することは出来ない。

まぁ、共有しようという働きが
起きるんなら起きるんですけど。

本当に共有できるのは
すでにありいつもある
何でもない普通のこれ。

だから、どうでもいい余分なことを
考えすぎなんだってこと。

私だって怖くなったりもするし
いっしょ。

でも生きてる限り死にませんから
安心してくださいってこと。

これ、アルベアさんが紹介している
長尾弘氏の言葉ね。

結局、生かされているんだって
ことだよね。

だから最小限の自我機能。

それで足るってこと。

足るを知って周りが見えていることと
没頭し集中し深さに向かっていること

その同時は一つの充実ではないかと思う。

理屈は起こっていない。
人間が起こっていることに理屈をつけているだけ。

ただあり
なるようになる。



[694] 然の一念三千

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月18日(日)15時05分19秒   通報   返信・引用   編集済

然の一念三千なんてのは造語ですが
試しに検索してみました。

ははーん、
天台”智顗”みたいに
天台の中興の祖である
妙楽大師の名を”湛然”
というそうです。

しかしこの検索にかかったのが
「気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/11/12/134522

であり、
2016年9月という転換期から
書かれているのは
同時代現象として興味深いものです。

記事中では固定概念化、教理化された一念三千には
懐疑的だと述べ、空への志向が見られるかと思います。

学会活動やめて幸せです☆
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/09/23/084441

なんて記事には
学会活動をしない方が
自由に仏法が語れること

財務ってやらなくていいんです
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/09/12/124109

なんて記事では
法華経を引いて
教団への供養はしなくて良い
と語られているが

それだけでは切文かもしれない。

受持即観心の人となり
師が完全な涅槃にはいったあとは
宗教教団性に与しない。

そういうことにも思う。

幾多の失敗や
嘘やごまかしがあらわになるも
反省や総括をせず

様々な見識や状況に
柔軟に対応する智慧なくして
一本調子の打ち出しばかりでは

創価瓦解は現実のものとなっていく。

個々の自分自身の生命現象の
体感覚知として
法華経、法華経の非二元の
勇気と智慧を開く時である。

自身が救済者の
生命現象として存在することが
法華経の非二元となるのである。



[693] 自然蓮華

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月18日(日)09時05分27秒   通報   返信・引用

意図・思惑の世界
→愛しい枠の世界
→自分(のもの)が惜しい
条件付けによって自分のもの
になる境界があると思う世界
あるいは
誰かの境界の枠に入ることによって
愛してもらえると思う世界
→執着によって三毒が起こる世界

例えば
「オシャレな服を着こなしていないと不幸」
「高級ブランドのバッグを所持していないと不幸」
そういう思いに囚われている人に対して

服やバッグを買い与えるのか
囚われている思いを解除するのか

どちらがより永遠性のある開放かである。

自己の生命の価値に気づくことによって
思いへの囚われは解除される。

己心の寿量品
永遠の自己自身に気づくことが
最高の価値なのである。

それに気づく悟りが
法華経の非二元である。

意図・思惑の世界から
勇気(慈悲)と智慧の世界への
視座の転換である。

さて
「創価学会が発展しないと不幸」
「公明党が勝利しないと不幸」
「信じて頑張れば功徳があるはずだ」

宗教の信仰が表になれば
そういう条件に囚われるのである。

そうであるならば
宗教枠の解除が
意図・思惑の世界から
勇気(慈悲)と智慧の世界への
視座の転換となるのである。

意図・思惑は自我機能の思考概念の世界である。

勇気(慈悲)と智慧の世界は自己機能の
活性化による意識の覚知である。

自ずから然なる生命現象
然の一念三千によって

理の一念三千を事の一念三千として実現させる。

思考概念を解除すれば
それが本来の生命現象
無作の三身である。

「菩薩仏」という言葉こそ
使っていないが、論理的にも
無作三身はそういう概念になる。
自己機能の活性化によって
自分自身の事として悟る。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1486925639
~~「受用身」とは「報身」の事です。

簡単に言うと、他受用身はまだ誰かに教化された立場で成仏してから今度は衆生を救うと言う、まだ始りがあり、三身が同体でない報身仏です。

自受用身とは教化されるはずの菩薩の因も教化する側の仏の果も倶時である始まりも終わりもない報身仏です。 誰かに教化されて成仏した後に菩薩道をするのではなく、成道するのも菩薩道をするのも同時な仏です。

創造主とは違います。 世界を創造してはいません。 宇宙法界自体を体とする無明と法性の縁起の報身仏です。

自受用身は、どこか別の世界から救いに来る仏ではなく、私達の一念に具わる不二・中道の仏でしょう。 宇宙法界自体を体とした仏です。 法界の法性であり、個々の衆生の仏性であると思います。

また、理である法と理智合一をしたのが自受用身でもあります。 理智合一、境智冥合、人法一箇と名称は違っても同じ事です。 報身を中心にしてみると自受用身ですが、法身を中心にしてみると智法身です。

覚った人に具わる般若であり、その般若は理である法(理法身)と一体化しています。 悟りを覚った生身の聖人に具わる般若です。

法華経・見宝塔品の釈迦如来・多宝如来の二仏の並座もこの般若と法身の境智冥合、理智合一を表現しているはずです。

自受用身とは、 上求菩提、下化衆生の菩薩に具わる般若と思います。 菩薩行をして成仏してから衆生を救おうとする人の般若ではない。

「報身の智慧は上に冥じ下に契ふ」 法華文句 巻九の下

と天台大師はこの自受用身を説明しています。 上は法身で下は衆生の側に応化した応身仏です。 同時に菩薩であり仏である、衆生と法を繋ぐ般若です。 覚ってから衆生を救うのではないのです。成道と菩薩行が同時な仏なのです。

別の言い方をすれば、法身とは私達に具わる論理としての法性、自受用身とは私達に具わるその法性を悟る般若、応身とはその般若を開発して衆生を教化すると言うアクションを起す私達自身の生身と言う言い方も出来ます。

もちろん、これは覚ればの話しなので理論上の話しであって、悟るまではこの三身は私達には論理としてしか具わらず凡夫は凡夫です。

「完全自己完結」が宇宙の無始無終と同じような意味でなら、その宇宙論の無始無終の考えに非常に近いとは思います。

「マンダラ」と言う言葉も、自己完結で何もかも具わっている無始無終の完全な円と言うニュアンスがあります。~~



[692] 雨季と乾季の太極

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月16日(金)12時48分36秒   通報   返信・引用

錯視などの錯覚や
直感と思惑と現象の捻じれを
試して経験して納得すること。

現象智への気づきの方向です。

モンティ・ホール問題なんていうのを
知っているだろうか?
https://www.youtube.com/watch?v=X9TdPeHQqWg
https://www.youtube.com/watch?v=Js_2UNM0pj8

「え?なんで??」から
「あーなんだ」に変化する。

これが一つの反転であり
その部分に対して柔軟性を獲得する。

「あーなんだ」は釈迦十大弟子の
阿難(アーナンダ)に通じる。

阿難は多聞第一と言われ
経典結集の際、阿難が
記憶に基づいて釈迦の教えを口述
したものが書き留められたとされるが

「如是我聞」というのは
ただ暗記した文字列の物語の再読ではなく

読み手としては
仏という現象智が
納得・体感・柔軟性への昇華の法を文字列に
秘したものであり、
文字列ではなく現象を見て試し気づく事を
得るためのものとして観心するべきものである。

阿難とは音写であり
「アーナンダ」の意味は「歓喜」である。

気づけば歓喜である。

言葉遊びや
替え歌を作ったり
パロディ作品を作ったり

そういう柔軟性は
気づき・反転の
体感の変化の現象の起である。

また、笑いという波は
一見不可能と思えることも
可能にする柔軟性を人に与える
力を内包している。

本当の笑いは
出来上がったものの見た目や
その時の発想法がどうであれ
長い目で見れば真剣さによって作られていて
決してふざけて生きようという上でのふざけではない。

現象としては
なるべくしてなるものであり
単純イメージ化すれば
太陰大極図である。
https://www.yoga-gene.com/philosophy/141698.html

さて
雨季と乾季を考えてみる。

イメージ的には
ジメジメと枯渇であり
反転すれば
ウキウキと歓喜である。

雨季に水を与えてもらっても
有難さが解らない。
乾季に水にありつけたならば
歓喜が湧き起こる。

雨季に人が欲するのは
洗濯物の乾燥機であり
乾季には欲しない。

ウキウキというのは
外面にせよ内面にせよ
触れることへの自然な意欲である。

ジメジメというのは
外面にせよ内面にせよ
触れたくないという自然な意欲である。

太陽の光を
通し浴びることと
太陽の光を
閉ざし覆うこと。

これは良い悪いを言っていない。

太陽が照り続ければ
干上がってしまう。

太陰大極図のように
あるだけであり
なるだけだということだ。

あるということを経験している。



[691] 自然反転現象

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月15日(木)03時43分33秒   通報   返信・引用   編集済

意識の反転の体得の
ストーリーの一例として

まず宗教を信仰し
仏法を信じることを可能にした
答えの詰まった意識の球体

題目を唱える時の
無我感覚が体得される。

円融円満法等によって
意識の球の固定性・限定条件
(信じ込み・思い込み)を
解除し無理に頑張らない。

呼吸法・トーラス瞑想
眼球運動等により
軸の上下を逆位置にもっていき
逆もまた真を自然体得する。

プルプル運動等の振動によって
宇宙生命の自然現象のトーラスエネルギーにそって
表面を波打たせる。

宇宙生命の自然現象のトーラスエネルギーにそって
仏法を信じ行じる中心軸をそのままに
宗教の信仰に関わる両極をそれぞれ半回転させる。
(2017.1.2 回転が足りていなかったのを修正)

今ここにフォーカスし
意識を球状に戻す覚知を体感する。

はい、これで無理なく球が反転しました。
矢印の向きが反転して救済者になります。

球の裏返し方
https://www.youtube.com/watch?v=SLQEIDeZSmQ

トーラスTHRIVE(日本語)
https://www.youtube.com/watch?v=LtyFci3Oxww

何がどう反転した体感になるのかは
体感してのお楽しみ。

レッツ ダウンロード。
是非、体感に落とし込んでくださいませ。

スピリチャルエネルギーによる
自然反転現象です。



[690] 宗教枠の解除

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月14日(水)03時21分23秒   通報   返信・引用

ここのところ
「自分は無い」ということを
言ってはいるが

本当のところは言葉が足りていない。

論理的な「これが自分という条件付け」は
幻想だということである。

それが幻想で無いのだとすれば
「自分でもこんなことが出来るなんて
思ってもみなかった」なんてことは
起こる余地がなく

与えられた条件通りの
可能性の乏しい閉ざされた世界となる。

自分自身という存在が
条件付けを解除していくと
無明・法性として開示されていく。

そうなっていくことが観心であり

日蓮仏法は本来は良く出来ていて
信行学によって

答えは我が内にありという
己心の法の自得が出来る
システムになっている。

法華経は
「読む」「開く」「悟る」「思い出す」
そういう展開される対象であるが

南無妙法蓮華経は
どうするということを言えない
そのものであるところが秀逸である。

本当は教学は知識のためではなく
反転した体感の気づきのためなのである。

第一期・第二期では
区別する必要が無かったかもしれないが

宗教枠解除の第三期の飛翔においては

仏法を信じ行じることと
宗教の信仰というものは

全くの別物だと明確に区別する必要がある。

仏法とは生命の法、悟りの法であり
仏教教義は同じ本質として語られる中の
一形態であり、体感への導入にすぎない。

宗教とは、人を寄せ集め信仰を仰ぐシステムである。

実は救済者への反転は
すべからく宗教の信仰を止め
自身が法だと悟ることによって起こる。

この宗教枠の解除は
自我機能の思考概念では険しすぎる。

自己機能の体感覚知によって
スムーズに変転が
自動的に起こっていることを覚知する。

法のため人のための
強い意志による体感覚知
法華経の非二元である。

広宣流布とは
宗教規模の拡大ではなく
生命の法の流通を言うのである。

人間のための営みへの蘇生である。

妙悟空・法悟空の記し残した金文字が
我が生命そのもの。

もちろん文底の体感としてである。

命を頂いているのだ。

自分で生きているんじゃない。
生かされているのだ。

明るく楽しく元気に仲良く。

輝かせていきましょう満面の笑顔で。

その光が奇跡であり自身なのです。

お忙しい中
日々の閲覧ありがとうございます。



[689] 主体・客体・大衆(二次的客体)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月13日(火)08時09分28秒   通報   返信・引用

唯物論・唯心論が
世界の構成要素の本質は何か
という観点からの二極分離
であるのに対して

唯識論は
客観的事実として
自身の意識(主観)以外のものを
誰も経験しないという観点である。

それは、認識という経験が意識だからである。

誰にとっても認識する前には
世界が存在しておらず
自身の意識の中で合成された認識を
経験している。

経験に対して何かを思うことが
主観であるが

何も思う前の経験は客観である。

見せられている。
聴かされている。
嗅がされている。
さらされている。

この経験に対して
もっと欲しいという欲求をしたり
これは嫌だという反発をしたりする。

しかしこれは
自身の意識が条件付けて作った幻想を
自身の意識が選別しようという
自作自演である。

一人という存在であるならばこれは
陶芸家が納得のいくものを作るための
制作と選別のようである。

問題は意識という世界に
他者が唐突に登場し
無視することさえも含めて
二者関係の交流となるところである。

主体として完結せず
次の他者に経験されることによって
選別の対象になる。

だから、主観は
良く思われたい
認められたいと思うのであるが

良く思われているかどうか
認められているかどうかというのは
自身の意識が情報によって
作り上げる産物しか経験できない。

本当はどう思われているのか
不安になって洗いざらい説明してもらったとしても
その説明の情報を元に意識で合成されるだけで
誰も本当の他人には辿り着けない。
分かりえない。

誰も辿り着けないことが確定しているものを
本当に存在していると確認する努力というものは、
空をつかもうとする様なことである。

厄介なのはこれが他人の事だけではないということだ。

本当の自分を知りたいと思っても
その自分の認識も意識の産物を経験しているだけであり
認識として思い込む以上のことは出来ない。

だから一層、他人の目にどう映るのか気にする。

思い思われ思いつくす。
思い込みの上書きの世界である。

大衆の思いは基準を求め合意を形成する。

「太陽が地球を回ってるってことでいいよね?」
「ウランって暖かいし健康促進物質ってことでいいよね?」
「こんだけ失敗したんだから非科学的なことを言う人間は悪ってことでいいよね?」

不安・臆病が生んでいる
イジメ的構造である。

この根源が

「自分っていうのはあるってことでいいよね?」
である。

自分があるということは観察される側があるということで
対象化が生まれる。
対象化されると何かしらのニュアンスの思いが添付される。
「これが良い」「これが悪い」と思っていることが
客体に向かって意識的に伝えずとも伝わる。
このこと自体が、自身の意識の中の世界で起こる事であり
主体の選別、客体の選別、大衆の選別が自身の意識世界にあり
意識的に「自分にも言い聞かせる」ことがあるように
自分は主体であり客体であり大衆である。
自身の生命現象として思い通りではない
期待依存の反転の報いが起こる。

非二元も

「非二元は良いものだ」という思いの
思考概念としての働きは

概念の押し付けを免れない。

非二元は
良いも悪いもない

ただ自分も宇宙もない体感の
今ここである。

これがあるだけ。

救いでもなんでもない。

これがあるだけ。

なるようになるだけ。

これは良いと思うとか
これはダメだと思うとか
「どうでもいい」

そんな次元じゃない。

しかし伝えようという時には
どうしても概念化が起こる。

これのコントロールが
救済者の手腕である。

現象連動の起因
下種の法である。



[688] 意図の糸

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月12日(月)10時11分34秒   通報   返信・引用

糸に引っかかると
振り回される

これ当然の事

太い意図を思惑という

思惑に乗っかると
そこに囚われる

意図・思惑
思考概念によって
ままならない自分が
ある事が強要される

自分を守ろうとすることが
実は意図・思惑の支配を受けることを
正当化するために起こっているエゴである

与えられている生命ということが
反転して支配に利用されている

法のため人のためという飛翔が
意識の範囲を変化させる

今まで逃げようがなく
大地だと思っていた思惑も
ささやかな抵抗値の糸のように変化する

全体を現象として見る視点を得る

俯瞰である

意識をもっと大きくすると
全宇宙となり

人間世界のことなど
無いといえるレベルになる

ついには意識から
自分と宇宙が消える

ただあるという変化は

そのようである現象である

法華経方便品の諸法実相
仏と仏だけがよく知っている十如是とは

そのようにある
それの在り方である


私が私の
思考概念のアスレチック

志向性によって

小難しく理屈をこねていることでもある

それは解除パーツであり
後にはこだわらない引きずらない

文上は過ぎ去る物語
文底は飛翔する体感である

体感を落とし込み
物語を解除する

法華経の非二元は
意図ではない存在覚知である



[687] 自作自演

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月11日(日)19時09分3秒   通報   返信・引用

そこに見えているのが
自分の意識であるということを
阻害しているのが
自我の二元思考である

そこにあるそれを
直接には
そこにあるのではなくて

意識がそれとして
作り上げた世界を
重ねたものが
それとして認識されているだけである

もちろん
五感に入る外部刺激によって
形成しているはずで

そのように認識されるべきものが
あるはずではあるが

直接に体験しているのは
意識が合成した世界であり

自分で自分の意識の形成物の一部を
意識が意味付けし分離を経験している

自他・優劣・有無・勝敗

条件化されたパターンの模倣

生き方形成

良い生き方と悪い生き方

世界と分離して自分が存在していると思っている

しかしその自分も
自分で自分の意識の形成物の一部を
意識が意味付けし分離を経験している
だけの産物である

~~なら~~という
条件付けを全て取り除けば

誰もいない何もない
意識の世界だけがある

ただ意識という現象の経験だけである

意識は自動的に意味を作り
分離することが条件付けられている

その解除のために
呼吸法・瞑想やエネルギー体感運動
右脳左脳のスイッチングの方法
などがある

考える世界の中では
意味付けの分離が強化されるだけなのだ

無分離の意識の世界には
認識されるものがただある世界なので
過去も未来も距離もない

何の意味も持っていない
今という刺激が
条件付けによって
認識されるのである

このようなことによって
何を覚知するのかというと

存在智そのものが
愛であるということである

良い人間だからできるとか
悪い人間だからできないとか
そういう思い込みが二元論であり

やって思考概念を解除すれば
誰でも覚知できる

0の次は1であるというのが思い込みである

0の次は0.000001かもしれないし
0の次はAかもしれないし
0の次はあかもしれないし
0の次は100かもしれない

0の次は原子かもしれないし
0の次は人間かもしれないし
0の次は星かもしれないし
0の次は宇宙かもしれない

空の覚知が全てになるという現象化である

良い悪いを見て苦しむのは
自作自演の物語である

何もないことによって
色々があるということを経験しているのが
意識なのである

現実界で経験しているのは
生の味わいである

中現界で経験しているのは
心象の体感である

絶対界で経験しているのは
無・空の絶対存在である

理由付けに囚われた
情動の物語を
自分と見て
過去や未来にフォーカスし
分離条件を重ねることが

敵対・衝突・苦しみ
ストレスの選択を生んでいる

人間的概念の適応が
大いなる自然から
ズレてしまっているのである

人間たちが自分で作った現実を
人間たちが自分で演じているのである

自分が無いというのが
本来の自然なのである



[686] 次元の数え方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 9日(金)03時42分3秒   通報   返信・引用

観術的な次元の数え方は
物理学的な数え方とは異なると思う。

観術的な次元の数え方は

物質としての世界が三次元
心を重ね入れて四次元
宇宙も自分も無い覚知を重ね入れて五次元である。

観術の三次元は
物理学的には時空間である四次元迄であろう。

四次方程式までは解を求めることが可能であり
五次方程式以降は特殊な場合を除いて
解を求めることが出来ない。(らしい)

求めるべき対称性の限界がある。(らしい)

つまり四次元以内においては
滞りなく対称性から分離した解の物質として
独立したマクロ的存在を確保できるということだろう。

これは物理学的な知識をもって言っているのではなくて
現象智の観点から言っている。

観術的な四次元は
物理学的には超弦理論の11次元迄であろう。

独立したマクロな物質存在としては確保されないものの
起こっている変化、情動の存在である。

ここにおいて有無の二重存在
パラレル世界
同時現象
様々に展開する。

展開し語られる不二・非二元は
主にここになる。

次の五次元は多くは語りようがないからである。

が、この四次元では相互であるとはいえ
厳密に完全に同時にはならなく
未だ差異はありにとどまる。

観術の五次元は
物理学的にも確定できない12次元ではないかと思う。

12は一周の数字である。

12個だからダースですの
チョコレートの12月12日の
キャンペーンをコンビニで見かけたことを
きっかけに

この文章は生まれている。

というのは脱線だが

12時間、12ヶ月、干支の12年
五字七字の5+7=12

1セット1周であり
12=0である。

アナログ時計を見れば
12=0は分かりやすい。

12=0は
悟前と悟後を分かつ正悟であり
円環、ウロボロスの頭と尻尾である。

正悟の中には悟前も悟後も
存在していないし存在している。

未満と見るか以下と見るかの違いの
瞬間の妙である。

有るといえば有るし
無いといえば無いという瞬間の
正悟であるが

これが無いことには
悟後は始まらない。

しかしそれは円環であり
その時初めて始まるものでもない。

時計においてあるのは
現象の推移の間隔に対する
地球の運行に合わせた
認識するための意味付けである。

生命の今という現象においては
本当は何時かという違いは無い。

12という次元には物理学的にももし
そういう無に帰すような特質が
あるのだとすれば

物理学において
それはなかなか取り扱えないと思う。

法華経における
「その時」は

いつか特定の時ではなく
いつでもなく
いつでもある時である。

物語を見れば
物語の特定の時になる。

生命現象を見れば
瞬間の妙のその時になる。

文章化、概念化できない
非二元体感の

概念のエアポケット
空のフォーカス。

現象の起こり方の
同時代の
自身の生命現象の
チャクラ体感。

誰でもが
それである。



[685] 真如とは無分別智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 8日(木)11時46分59秒   通報   返信・引用

「不変真如の理に帰す」
迷いから悟りへ(九界から仏界へ)

「随縁真如の智に命く」
悟りから智慧へ(仏界から九界へ)

「真如」とは「無分別智」である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E5%88%86%E5%88%A5%E6%99%BA

分別とは二元論であり
無分別とは不二・非二元である。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000q85.html
~~分別は分別のままにそれに固執しない智慧の世界が開かれる、
それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。~~

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書1244ページ9行目~12行目)

御書自体は
日蓮大聖人己心の仏界から
九界の衆生へのメッセージである。

その仏界も全く余所に求めてはならないと
求道者から救済者への反転を促す
内容となっている。

十界具足とは十界一界もかけず一界にある
ということは
一切は自身の生命現象であると覚知せよ
ということである。

外に見えている一切の要素は
自身の中にあるものであり
自分だけにあると思っている自分も
ここにあるのではなく全部の中にある。

この自身の生命現象を覚知する時
これが輪円具足とも功徳聚とも
表現される「御本尊」である。

この覚知によって自身が
日蓮大聖人と同じ
救済者として反転される。

このことの星が
九識心王真如である。

一切の有ると言えることは
同時に無いと言えることである。

自分というものも
宇宙というものも
因果というものも
全てである。

ただ確かなのは認識前の
今一瞬の一心にある
その一切全てである。

その一切の完全な無分別智が
生命現象の王である。

此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり
とは

一切の有ると思っているモノ・現象は
一心が有るとしている自身の生命現象であり
その二極さえもない
「何もない」からの起こりの智慧が
無分別智であり

無分別智があるということが
御本尊があるということである。

文章を見れば知識になる。
現象を見れば智慧になる。

どう起こるのかの現象である。

考えるんじゃない
感じるんだ。

見るんじゃない
起こせ。

必要なのは
囚われから離れる
一瞬の勇気だけ。

嫌な感じがするのは
自分が嫌な人間であることを
ため込んでしまっているからだ。

それを解消しないと
罪障消滅しないでしょ?

運動場に放置された長いホース。
と戸田先生が例えられたのは

今に生きることをしないで
思考概念の中で
ネガティブの溜まった自身。

水を流せば最初は泥水が出る。

嫌な感情・嫌な出来事が起こる。

溜まっていた泥が出終わったら
あとは綺麗な水が出る。

まぁ、これは単純な例えで
一本道のホースであるが

生命現象の全体は
張り巡らされた水道管
のようかもしれない。

水っていうのは
「歓喜」です。

本当は泥が混じってようが
何しようが歓喜なんです。

無限の水源を覚知することが
歓喜の中の大歓喜です。



[684] 物語のパッケージ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 7日(水)12時13分56秒   通報   返信・引用

現象の本質は
宗教などという枠組みを
始めから経験していない

思考概念が
それを有ると思って
デコレーションしているにすぎない

宗教という枠組み
そのパッケージに入っているものは

ただ留まることの無い現象である

有るのでもなく
無いのでもない
何もかもの同じである

本来に帰れば
そのパッケージ自体も
それの現れであるから

その枠組みも消失する

囚われの無い
抵抗値の無い
フリーの生命現象となる

宗教を存続させようとしているのは
特別さを獲得しようという思惑である

フリーである生命現象を
なんとかコンパクトに納め入れて
その恩恵にあやかろうという試みである

しかし人間には
生命現象自体をどうこうできない

観測技術があるだけである

宗教の違いは本来
その方法の違いと
その観測結果を生活に役立てるための
便宜的に付加された物語の違いである

本来の物語は
生命現象と生活の橋渡しである

生命現象はフリーであり
特別にどこかだけにあるものでは
ないのが本来である

だからこそこれは
直接に流布することができない

当たり前にあるものすぎて
誰の目にもとまることが無く
そのままでは真価に気づかない

だから生活向上のために
物語を流布するのであるが

この物語が特別であると
思ってしまうところが落とし穴である

すったもんだの末に
生命現象の無視された
全く異質のものとして伝聞される

これが不幸の原因となる

現象と生活の橋渡しとして
星座の位置を見て
農業の時期を見たりすることがある

自然と一体の活動として
人間の生活があった

どの星の配置に
どんな星座を見て
どんないわれを付加するかは
文化の違いであるが

結局は同じように時期を見る

本質は同じなのだ

どっちの物語を優先させるかなんて
本質には関係が無いのだ

生命現象はフリーである

本来衝突は起きない

思考概念の物語の拘り
思い込み
信じ込みが
衝突を起こす

生命現象から離れた人間が
自分勝手な幻想をぶつけ合って
争っているにすぎないのだ

生命現象に帰ることが悟りである

思考概念の物語から離れ
思い込み
信じ込みを
解除することによって

生命現象の体感が復活する



[683] 楽ちんこ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 7日(水)03時40分24秒   通報   返信・引用

身なりさん

順調にまともな非二元にシフトしていますね。

良い感じです。



[682] 虚にして実 実にして虚

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 6日(火)12時55分49秒   通報   返信・引用

最近あらゆるこだわりが薄らいできて楽になってます。

果たしてそれでよいのか?そんな風にすら思ったりもします。

それではダメかもしれないけど、それも答えがないので深刻になりません。

唱題の時間も決めず、あげたいだけあげる。

今朝みた夢と現実の区別が曖昧になり、妻との会話で認知症を疑われるのがちょっと恥ずかしいくらいです(^^)



[681] 覚り

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 6日(火)11時14分15秒   通報   返信・引用   編集済

仏とは
5次元の身口意。

対象化した物語の中に
見る仏は迹仏。

体感した非二元の中に
顕れる仏は本仏。

日蓮大聖人とて
対象化すれば迹仏。
体感すれば本仏。

イエスキリストとて
対象化すれば邪教。
体感すれば正法。

仏のための条件には
仏教の信仰は関係がない。

釈迦の法華経だけが
法華経(生命の真実)でないことは
法華経自身の中にも説かれている。

過程の一つとして
仏教があるだけである。

宗教の違いにせよ
何の違いにせよ

紙の表裏を見ているだけ
のようなものであり

両方は同時で一体である。

そもそも、その紙自体が
違いを作ろうという自我機能が
生み出した幻想なのだ。

一時的ツールであり
絶対的本体ではない。

あらゆる差異
九界の現れの違い等は
一時的ツールであり

色心不二という一極の
5次元の観点が仏である。

そこには有るものは無く
無いものも無い。
無いが無いということは
無いが有るということでもある。
有無に非ずである。

色心不二の一極は
ツールを本来あるままに
使いこなす観点である。

現象の全ては自身のツールの
振る舞いなのである。

一は全、全は一であり
あるようにあり
なるようになる。

それは認識できるわずかな部分だけでなく
認識する術のない
無としか言いようのないものも
認識する術がないことも認識できない
虚としか言いようのないものも
含んだ無限である。

虚無ではなく
虚無の克服が次元上昇なのだ。

ゆえに全ての振る舞いは
「歓喜」である!

恐れるものは消え去るのだ。

始めから無かった。

幻想を見ていただけなのだ。

覚者はおしなべて言う。
「目覚めよ」と。



[680] 学問発達の三段階

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 5日(月)12時50分40秒   通報   返信・引用

http://6027.teacup.com/situation/bbs/61105
~~創価教育学体系一巻より 学問発達の三段階

「第一期は人類は多数相集り社会を形成して種々の生活行動を日常経験しながらも、未だ真理に対する自力的認識の能力が発達しない。其れが為に先覚者の人格を信じて、其の人の言葉を一も二もなく尊重して、決して間違いはないと、少しの疑いもなく信仰する時代である。」

「第二期は人智がやや発達して、今迄他人にのみ依頼して居た状態の中に、自分の経験からたまたま或真理を発見して、自己の力を過信して来る場合である。あたかも或る小さな発明家が其の初期に於ては、他人から見て児戯に類するようなことでも、非常に熱中し、誇大に信じて、其の価値を正当に判断するに遑(いとま)がない状態の如く、一切の真理を自分の経験に依って決定せんとする時代である。」

「第三期は自分の力をむやみに過信した第二期生活の反動として、単に自己経験のみに執着せず、広く衆人の同様な経験を比較対照し、且出来るだけの材料を集め、それに依って科学的、合理的の概念・理法を構成する時代である。」~~

第一期

日蓮の真意の直系、日寛教学の有る
日蓮正宗に習い日蓮仏法を学ぶ。

第二期

創価学会独力の経験と実践によっての
構築体を熱狂的に語り広げる。

第三期

脱構築によって広く生命の真実としての
無限性を開花させる。

三段階が階層的に
個人や団体
科学や教育や宗教に
適応しうる見方であるなら
それは深い洞察である。

創価教育学体系は
初代会長牧口先生がバラバラに
メモしていた考えを

後の二代会長である戸田先生が
まとめあげたものだったかと思う。

この洞察の継承
自身の体感への昇華
開かれた世界との交流

によって、創価は拡大した。

だが、これを継承し
次の段階に昇華させられるのもが
創価の中心にはいないのが現状だ。

そうであるならば個々人の
飛翔によるところとなる。

脱構築によって広く生命の真実としての
無限性を開花させる。

実のところ
大乗仏教とキリスト教は
共通点も多いようで

見方によっては
大乗仏教の仏って
キリストの事でしょ?
とまで言えてしまう
可能性もあるようだ。
https://www45.atwiki.jp/scarboroughfair/pages/48.html

アルベア論に紹介された「心身の神癒」は
キリスト教系の真髄に迫る書物であるが

目を通し体感に照らせると
「ここに語られているのって
一念三千だよね」と思う。

キリスト教にせよ
法華経にせよ

「観法」によって辿り着くものは
「同じ生命の真実」なのだ。

構築の方向だけでは
絶対化、神格化、権威化になる。

観法は観点の変革である。
観点が生命の基底部なのである。

五眼三身のステップアップが必要なのだ。

スピリチャル系や
マインドフルネス等は

非宗教系の観法の取り組みである。

第二期で止まっては
一でしかないものである。

一は全、全は一となるためには
第三期の飛翔が必要である。



[679] 脱構築

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 4日(日)11時01分25秒   通報   返信・引用

アルベアさんのメッセージ自体は
アルベアのブログで絶賛継続中
及び、宿坊板の本スレに登場したり
しています。

アルベア論スレッドは
書き込みが1000に達したことで
新規書き込みが出来なくなり
終了しました。

書き込みが1000に達することで
新規書き込みが出来なくなることは
アルベア論半ばで判明していたことです。

アルベアさんは
「そうなること」に対して
自我機能による抵抗をしませんでした。

変わらぬペース
変わらぬやり方で投稿を続けたのです。

自我機能の上では揺らぎもあったかもしれませんが
それもそれとして
ただ現象として1000に達して
アルベア論スレッドは終了したのです。

パラレルの別世界では
アルベア論スレッドは途中放棄されたまま
終了していません。

奇妙なことを言っているように思うかもしれませんが
私たちの今いるこちらは
了解が現象化しシステムが反転する側の
選択された宇宙なのです。

誰の自分も無い現象が
アルベア論スレッドを満了させました。

「なるようになった」ということです。

この奇妙な解釈も
羽蟻の例えも

「ゴーストが囁いてる」感じで
語っています。

ゴーストの囁きは
マンガ「攻殻機動隊」に登場する概念です。
http://kitajiro.tumblr.com/post/55170591871/%E7%90%86%E6%80%A7%E3%81%A8%E7%9B%B4%E6%84%9F

ゴーストの囁きを検索すると
仏法の「而二不二」に通じるような
哲学の「脱構築」という概念と
結びつける記事がヒットしました。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20130521-00025100/

【哲学の小授業】脱構築ってなあに? デリダのアイデア太極拳!
http://togetter.com/li/327089

「家の呼び鈴ボタン」っていうイメージは
私が作ったのか身なりさんが作ったのか?

どちらともいえない二者関係が生んだのか?

ひっくるめて自身の生命現象です。

私が
「家の呼び鈴ボタン」っていうイメージには
こういう心理的要因があるに違いない
なんて決めつけたとしても

それは私の生命現象なのです。

「みんな違ってみんな良い」
「みんな同じで誰もいない」
どちらにしても
概念の構築です。

どこから生まれたのでもない囁き
直感というものが

非二元者の語る体感に含まれているのです。

自然の働き作用なのです。
蘇生・奇跡という生命現象なのです。

今しかないという感覚は
最初のうちは
「マジか?これ大丈夫か??」
という思いが起こったり

新しい時間感覚に慣れていないために
仕事上の
「やってきたこと・これからやること」まで
「今やっていること」しかない中で
抜け落ちるような感じがしますが

感覚に慣れると使い方が解って
問題なく充実した楽しい生活を送れます。

最初は自分の戸惑いもあり
他人にどう映るのかも気になったりするかもしれませんが

自然に解放されていきます。

他人にどう見られるかとか
「どうでもよく」なると
人との交流も活発になり
たくさんの発見があります。

楽しく歓喜に満ちた状態が復活します。

父子一体の生かされている幸せ。
大切にしてください。



[678] アルベア論

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 3日(土)23時50分52秒   通報   返信・引用

ご自分で終了されたのでしょうか?(/_・、)



[677] 羽蟻

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 3日(土)23時49分26秒   通報   返信・引用

羽蟻の話、身に詰まるものがありました。

話変わりますが、最近いつも今なんです。
時間の感覚が鈍ってます、サラリーマンなのでほどほどに

他人の子供に優しくなりました、これは良い

指先ひとつで最初に浮かんだのは、家の呼び鈴ボタン

今晩も横には甘えん坊やが優しい顔で寝ています。
とても感受性が強い子です。私の幸せです。



[676] ルカ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 3日(土)12時24分53秒   通報   返信・引用

「意味」が「解る」のは
概念を理解する思考であり
ストーリー化
マニュアル化された
後付けの分離の
尺度体系です。

現象そのものであることは
体感で満了となる覚知であり
分離の消失
特別さの消失された
囚われから解放された
今ここの意識の
全体性です。

理解と満了は相互です。

帰命とは了解です。

妙法蓮華経とは生命現象です。

南無妙法蓮華経とは
生命現象の了解です。

生命現象とは

右脳的体感の全ては一つの
差別なき無限平等性の
無・空の直感と

左脳的思考の区別するための
分別ある無限英知の
救済の働き作用の

統合存在であり

反省・懺悔して
正しい法のためにリライフすることと

相互である人々のための
救済の慈悲の活動であることが

同時存在であることの

振る舞い音声・ハーモニーが
生命現象です。

これを貫いているのが意識であり
俯瞰が可能なのです。

俯瞰とは自我機能から離れる技術です。
自分が無いと悟ることがその技術です。

自分が無いと悟ることは
不二の覚知です。

タマネギがタマネギであることの中心は何かということと
人間が人間であることの中心は何かということは

量子的ゆらぎの現象の現れの違いでもあり

本質は互いに無・空であり不二です。

現象の経験・自己観察によって
恐怖を取り払うのが自我機能の解除です。

恐怖とは
思考概念から離れれば
失うものがあり
自分が損なわれるという恐怖です。

そこはパラドックスであり
得たり損なったりすることのある
自分が存在しているということが
自我機能の生み出した幻想なのです。

その幻想の自分を離れてみても
意識は全く変わらずに存在し続ける。

むしろ自我機能で考えていたよりも
もっと豊かで
なんの囚われもない自由な歓喜であり
無限の愛の光なのです。

これを垣間見ていくことが
気づきであり
深い体験になると一瞥体験なのです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/l50

アルベア論スレッドの満了は
了解という現象そのものなのです。

無限の智慧への変換は
受け手自身の生命現象です。

意識が反転されれば
宿命は転換されるのです。

アルベア論は戸田先生の生命論なのです。
アルベア論は池田先生の広宣流布なのです。

ストーリーを見るから
違いを認識するのです。

このストーリーの崩落・解除が
無限の生命現象への
解放であり飛翔であり蘇生なのです。

安心してください。

貴方を捕らえているものを失っても
貴方の生命現象は失われません。

ロックで読み解く貧困 (2) 子どもの貧困- Suzanne Vega “Luka”
http://kokoro-mahiru.org/archives/282



[675] 崩落・飛翔・蘇生

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 2日(金)12時12分4秒   通報   返信・引用

尺度と存在は両極です。

尺度の崩落が
存在の蘇生であり

そこには飛翔があるだけです。

自我機能は
「そんなバカな」
と言って尺度にすがろうとします。

存在は
なるようになるだけであり
寄り添うことが救いです。

例えば、日本国内の組織的活動力は
人口の減少により縮小していきます。

「そんなバカな」「こんなはずでは」と言っても
なるようにしかなりません。

自我機能は崩落しゆくものを
崩落させずに留めようとしますが

実際にそれで留めようとしているものは
使い古した尺度体系・旧システムでしかないのです。

存在そのものの中で
存在そのものの振る舞いがある事が
生命現象なのです。

尺度というものは
便宜的に一時的に
存在の振る舞いに気づき
合致するためにあるだけです。

同時代現象です。

時代が転換すれば
旧時代の暦・尺度体系は
無用になります。

時代が転換することによって
破綻し、作用が逆転するからです。

三代の創価が目指したのは
時代の転換です。

飛翔することが
三代の願いの体現者であり
救済者への反転であり
10万の山本伸一の一人になる事です。

例えば蟻のコロニーでは
時期を迎えると羽蟻が生まれ
新しいコロニーを築くために
飛び立ちます。

自然の働き作用
繰り返しの循環
健全な新陳代謝です。

委ねれば
存在が持っている働きが
力として顕現されるのです。

変化は存在の上に起こっているのです。

寄り添えば飛翔するのです。



[674] ゆびさきひとつ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 1日(木)05時01分12秒   通報   返信・引用

ゆびさきひとつ

ただの言葉です。

「ゆびさきひとつですね」
おわり。

さて

複雑で窮屈な現代社会の中で
多くの人がストレスにさらされている。

間違っていないように思うが

反転してみると
そういう解釈にはならない。

ただそうある現代社会というものを
自分があると思っている多くの自我が
ストレスと見ることを選択し経験している。

となる。

ゆびさきひとつ

解釈は無限にある。

人差し指と解釈するかもしれないし
他の指と解釈するかもしれないし
特定の指じゃないと解釈するかもしれないし
一ということだと解釈するかもしれないし
造作もない事だと解釈するかもしれないし
指をさされ自分のせいにされたトラウマを思い起こすかもしれないし
平仮名表記である事の意味を考えるかもしれないし
逆から読んでみたりするかもしれないし
北斗の拳を思い起こすかもしれないし
世界を終わらす核ミサイルの発射ボタンを押す指を考えるかもしれないし
コリをほぐす緩消法を連想するかもしれないし
掲示板への書き込みの作業を思うかもしれないし
悟りへの気づきを得るかもしれない。

瞬間の妙
呼応・選択が
芋づる式に現象を流れ起こす。

自己機能の世界では
愛の求めに対して愛が渡される
都度の受け渡し受け取りである。

ストーリーが無ければ
相手が誰かは関係がない。
個別が無い。

成功も失敗も
都度のただの出来事である。

最小限の自我機能の選択は
最大限の自我機能の活用である。

瞬間の妙による選択の
連鎖開放なのである。

経典は人間が作ったけれども
仏法は人間が作っていない。

人間が仏法で出来ているから
衆生が仏を生むのである。

それをストーリー化したものが
経典や御書である。

仏法、生命そのものには
ストーリーは無い。

因と果一対の同時と
その場である。

例えば
謝罪・懺悔と許し・受容は一対である。

謝罪・懺悔が無いのに
受け入れてもらい偉くなろうというのは

歪であり仏法に反している。

本当の強気の前進には
懺悔し改める勇気が含まれる。

体感すれば解る事だ。

偉いつもりの意識体が
「もうやめてくれ」と騒いでも

やめるはずがない。

従来のシステムは
反転するのだ。



[673] 体感の落とし込み

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月30日(水)12時09分12秒   通報   返信・引用

例えばテレビゲーム

コントローラーを握って
もくもくとプレイしているのが
自己機能

横であーだこーだ
知識を披露したり
失敗を責めたり
成功を褒めたりしているのが
自我機能

口出し無用の体感の瞬間と
後追い先読みの口出し。

テレビゲームが行われている
という場の意識。

意識の両極。

生まれる起こる
エネルギーの循環。

成功・失敗。

繰り返しのプロセス。

伝えるためには
思考概念への変換が起こっている。

変換前には変換後の概念は無い。

現象の不生不死、不出不没

主体の
世に出現したり入滅したりすることなく
実にもあらず虚にもあらず
そのままにもあらず
そのままでないにもあらずという
如実な知見。

納得できるまで
自然の振る舞いとして違和感がなくなるまで
深く深く、
そして始まりの無い無限の深さが
今この瞬間だということに合致するまで
繰り返し落とし込む。

アルベアのブログ 「生命現象」の浄化方法2 「体感覚知」メソッド
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12224205922.html

アルベアのブログの読者のゆだねライフのすすめ
ブログ記事 エゴの正体
http://ameblo.jp/youngliving-aroma/entry-12222519461.html

落とし込めば
同じが起こる。
同じが解る。

池田先生の言葉・行動・心を学んでも
同じことが起こせる方向にないのは
落とし込めていないからである。

切文を自己都合で利用する。
利用していることに
自己観察が無いから気づけない。

落とし込めていないということは
異質なままである。

異質なまま真似をしようとしても
異質なことしか起こらない。

異質が起こるということは
気づくための現象化である。

こんなはずではなかったという
プロセスは

誰もが通る気づきのための段階である。

その先へと飛翔する勇気。

それによって同じが起こっていくのである。



[672] 反転とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月29日(火)04時09分37秒   通報   返信・引用   編集済

私はここで「反転」は思考概念の解除のために
やや多岐な使い方をしている。

アルベア論的本意は
悟り以前の現実の求道者から
悟り以後の世界の救済者への反転である。

法華経の智慧1-5「二処三会 永遠と今との交流」
http://d.hatena.ne.jp/kon890/20100208/p1

~~前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば「現実→悟りの世界→現実」という流れです。より正確に言えば「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の世界」という流れになっている。時空間や煩悩・生死に束縛された現実の大地から、鎖をたたき切って、それらを見おろす虚空の高き境涯に到達しなければならない。~~

悟り以前には、教え(法)を求めながらも
自己都合の思考概念により変換して
信じ込む・思い込むという上書きになる。

悟りそのものは反転すべき対象が無い特異点である。

その特異点を経ることによって
求道者から救済者への反転が起こる。

二者関係の反転が起こり
救済の完了が起こる。

本当の救済者は
救済の完了者である。

そこへは
「法のため」「人のため」という
全身全霊によって至る。

悟りには段階がある。

悟った後の生活
http://www.tokyofgs.com/seiun/archives/book/book4/book4-3/book4-3-12.html

反転の展開である。

了解は救済の完了であり
広宣流布の完了である。

体感・体験・覚知し
自身の生命現象として飛翔することでしか
至れない。

自身の癖・欠点という
生命現象への抵抗を見つめ
なくすことで飛翔するのだ。

恐れてはならない。

知らないから怖いだけなのだ。

知らないものは知らないのに
恐ろしいものだと思い込んでいるのだ。

全部知っているつもりなだけ。

何も知らないのだ。

知らないことを知らないと認め
体感・体験していく勇気が
仏性へ通じるのである。



[671] 二者関係

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月28日(月)12時37分17秒   通報   返信・引用

親・子関係
師匠・弟子関係
雇い主・雇われ従者関係

仏・凡夫関係

これを画一的な上下関係と見るのは
思考概念なのです。

逆もまた真
反転しても変わらない真実

生命の平等性
生命の無限性
生命の活動に気づくためにあるのです。

「我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり」
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」
です。

創価・会員関係
日蓮・教団関係
白法・邪法関係
信仰者・非信仰者関係

「折伏」は何のためにするのか?
何に気づくべきであるのか?

五重の相対のうち
日蓮・日興において強調されているのは
「本門」です。

その次の最後の相対は
種「今ここの自身の生命、己心の法」と
脱「信じれば(期待依存すれば)救ってくれる仏の説いた法」の相対です。

末法の御本仏・日蓮大聖人が顕した
三大秘法の南無妙法蓮華経。

出世の本懐の御本尊はどれか?

そこに求めているものは何か?

今のままの自分では「正しくない」から
仏が用意してくれた「正しさ」にすがろう
という心・思考概念が作った幻想です。

信じようとしているだけで
信じていないのです。

差別があると信じてしまっているのです。

「学会の指導と違う」

逃げています。
自身の生命現象を見ようとしていない。

本来その殻を破るための「折伏」なのです。

相手への批判が
そのまま自身への批判でもある事に
気づくためです。

謙虚でなくてはいけません。

成果を優先するから
自慢話に花を咲かせるから歪むのです。

相手の間違っているところをあげつらって
その点、自分のところはこうだというのは

その手法で証明しようとする「正しさ」には
無限の種類があるのです。

相手の側から見ても、
本当はそれを同じように言えるのです。

文底から見れば
パワーゲームに勝つことが折伏ではないのです。

上手くいかないことがあるのに気づいて
反転させるためにあるのです。

創価なんて全然正しくもないし
大幹部になったって全然偉くもありません。

そこにいる謙虚に誠実に
自身と向き合っている人々が尊いのです。

個々人において個々の悩みについては
反転は常々に見られる現象です。

ただそこで止まってしまうのです。

その現象を創価に帰属させるから止まるのです。

自身の生命現象なのです。

誰にでも起こる
誰もが持っている
生命現象そのものに気づくのです。

これが宇宙そのものなのです。

これが不二そのものなのです。

思考概念はくっついていないのです。

一切の「言葉」「枠」はありません。

無・空です。

「学会の指導と違う」というのは
臆病であり魔なのです。

この弱い心に付け込んで
好き放題やろうというのは
自覚の有る無しに関わらず
それが第六天の魔王です。

そういう従属させる権威なのです。

従属されない民衆のための仏法です。

自身の生命現象の解放であり
それが飛翔なのです。

一切の思考概念・枠組みに惑わされずに
生命現象そのものを見よ。

このどこかにあるのではない生命現象こそ
己心の御本尊なのです。

一切差別がありません。

それしかないのです。

http://sgi-shiteifuni.com/?p=8112
「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり
所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書 p790)
「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)

等といっても
このことなのです。



[670] 生死一大事血脈

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月26日(土)04時41分55秒   通報   返信・引用

経験とは何か?

何が何を経験するのか?

経験とは
変化する現象であり

似た環境・状況において
同じように起こる
変化の方向性のストック

因果、縁起、業、カルマの渦中である。

人間は脳の大きさゆえに
複雑な経験を理解し
その裏側にまで
対象化、モノ化、記号化という反転を用いて
見通す潜在力を持っている。

だが、これの産物に期待依存することによって
反転しっぱなしの、創造された幻想の中で
本来の経験を見失う。

経験は、脳が経験するのではない。

脳と呼べるような組織の無い生物も
経験によって、
実に理にかなった進化を
多くしていて
環境状況に合わせて行動をとる。

ここにエネルギーが働いている。

人間が識別するような個々の生物だけでなく
環境を含めた全体性の中にも
調和されたエネルギーが循環している。

それぞれがその場所で
それ通りに輝いている。

宇宙が現象を経験しているのだ。

そこには良いも悪いも
海も山も点数もない。

人間が反転して文化を見ているのだ。

本来は宇宙の経験現象の
充実した体感覚知のためであるべきであるが

文化を分化した社会を形成し
それを認識コントロールしようとする
自分を作り上げている。

経験を逆手にとって
バイアスの掛け合いの
パワーゲームを展開する。

宇宙生命の本来から離別し
エネルギーの供給が減り閉塞する。

宇宙エネルギーに帰ることが難しくなる。

パワーゲームの経験によって
幻想、思考概念の上書きしか
前に進む方法を選択できなくなっている。

思考概念の解除に対して
恐怖と怒りを覚える。

安直に自己都合で落ち着こうとする。

バイアスがかかっていると言えば

バイアスはダメというバイアスで
上書きをするといった塩梅である。

反転した世界に行くことが悟りではない。

反転していない世界に帰ることが悟りなのだ。

宇宙の経験
エネルギーの循環。

その悟りのための
気づくための
意識と投影された世界である。

これがある事が歓喜なのであり
これに基づくのである。

これは命なのである。

我が生命現象が宝塔である。

光り輝くエネルギーの光である。

人と人
命と命

響きあい不二となって
命脈となる経験なのである。

これを
生死一大事血脈とは言うのである。



[669] 不可避の経験と内在の顕現

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月24日(木)00時42分39秒   通報   返信・引用

方程式というものは
もし、その人が発見しなくても

いずれ誰かが同じものを発見するし

発見された後にも発見される前にも

何も変わらず厳然とその法則は
存在し続けている。

生命の法則もそのようである。
それを完璧に解き明かしたのが
南無妙法蓮華経だ。

というのは思考概念である。

対象化されモノ化されているので
自分の信じているものとして
「思考が自分」になって自己の
体感覚知が欠けているので

誰でも感得できる宇宙の根源と
言いながらも、
南無妙法蓮華経以外は
全て何かが欠けている不完全な
間違いであるという。

ものすごく矛盾しているのだが
気づかない。

それは妄信であり
どんなに立派な志を述べても
想いが強いほど矛盾を取り繕い
無作から離れた権威主義に陥る。

そもそもは全てが
南無妙法蓮華経の現れである。

信心によるという意味が逆転している。

南無妙法蓮華経を
「信じている自分」の行動が
主軸であるのなら

現れている全てである
南無妙法蓮華経を否定して
自分がそれを変えるという
行動になる。

いくら祈っても
御本尊様の作った世界は
気に入らないので
私に従ってください
という明らかな不信である。

行の題目とは委ねる行動であり
「自分が自分が」という自我機能の
抑制と自己機能の活性化である。

信の題目とはすでに全てが完全だと
如来如実知見することであり
なるようになっている今ここの
その通りだという体感覚知である。

心地観経に曰く
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」

三世と言っても三世が別々に存在しているのではない。
今ここに三世永遠を経験できるだけである。

あの頃考えていた未来に自分は今いるのだろうか?
そんなことは無い。
思考概念であの頃の今に考えた未来の今はズレてブレている。

ただ不可避にさらされた全ての経験が
今という現実を不可避な形で起こしている。

では今、未来を考えたとしてその通りになるだろうか?
そんなことは無い。
今、思考概念で未来を考えたとしてもズレてブレる。

ただ今という不可避にさらされている経験が
未来においても同じ今としてあるだけである。

今は凡夫で未来に仏になるというのは
これでは叶わない。

今、この全てが
南無妙法蓮華経であることでしか
南無妙法蓮華経は存在しえない。

何かを対象化モノ化した時点で
色大きさ上下左右距離時間が発生する。

対象化モノ化しないということは
ゼロ=無限、無、空である。

全てを包括するものはそれしかないから
それが南無妙法蓮華経である。

起こり終わったことを変えることは出来ないけど
起こっている経験を観察することは出来る。

この観察も経験としてフィードバックされる。

対象化モノ化しない
今の直接知そのもの
如来如実知見は

思考概念の三界之相では
絶対に当てはまらないものである。

反転するからである。

自然界に内在しないものは
顕現しえない。

対象化し分離し抽出したモノA
対象化し分離し抽出したモノB

モノAとモノBを融合したモノC

対象物制作の原料
加工のための設計図・知識
加工のための設備・場所・技術
加工のための管理者・従事者
加工された製品
消費者

どこからどこまでが
誰のための誰のもの?

従来のシステムは反転する。

「どうでもいい」ことが
あばかれ気づかれるからだ。



[668] 「何もしてやれない事」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月22日(火)12時48分57秒   通報   返信・引用

本来の感情の上では
「ネガティブ」とか「ポジティブ」とか
区別は無い。

「思い込み後」の思考概念の世界に
「これは良い事」「これは悪い事」という
区分けを作っている。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/420191242.html
賢者テラというスピリチュアル・メッセンジャーの
宇宙シナリオからのメッセージという本がある。

ちょっとした、革新的思考概念の道筋のようなもの。

あえて本を買って読むかは必要ないと言えば
全く必要はないし
ましてネット上の活動内容を見ようとしても
そんな能書きは「どうでもいい」

ストーリーの刺激の一つ
視点の変転の一つである。

この人の悟り(という思い込みも含む)は
別に何か特別な悟りのためのことをしていない
状況下で、起き抜けに
「自分が誰か?」すら思い出せない経験をし
これを一瞥体験としている。

そこからものの見方が変わったというのだから
当人にとっては強烈な一瞥体験だったのだ。

氏曰く、「貧しさは、豊かさの反対語ではない。
 貧しさとは、豊かさの属性のひとつである。
 豊かさのバリエーションの一形態である。」(p.147)
等々、

仏法的に変換すれば
「本当の豊かさとは貧富不二である」
といった感じだろうか。

しかし、「言っていることは分かる」
という段階では

思考概念のための
思考概念のすり合わせであり
自我機能内完結となり

自己機能への気づきがもたらされない。

認知の歪みというものは本来、
正しい思考概念があっての
間違った思考概念ではなく

思考概念は思考概念として
自己機能に生かされている本当に対しての
思考概念の世界の中で完結して囚われる歪みなのである。

人が人に対して、結局は本当には
「何もしてやれない事」というのは

自我機能の思い込みの気づきであり
自己機能への反転がもたらされているのである。

「自我機能」「自己機能」「意識機能」「エネルギー」
の見分け、自己観察は不二の体感をもたらせる。

逆に言えば、
自我機能内完結の世界の中では

結局のところ本当には
自分自身に対してさえ

何をどうすることも
してあげられないのである。

生きていると思っている相対世界では
どうすることも出来ない無力感の
迷路があり

「これは良い事」「これは悪い事」
という思考概念が壁を生み出している。

そんな無力な世界なのに
今日まで無事に生きてこれたのは

生かされているからなのだ。

この生かされている今ここに
意識を置くことを

一つの言葉の表現としては
「頑張らない」になるのだ。

瞬間瞬間に起こる全ては
歓喜のバリエーションなのだ。

戸田先生の言う
腹が立つときにも
楽しく腹が立つ

という絶対的幸福境涯が
開かれるのである。

「地獄の底まで味わわせて頂き
本当にありがとうございます」

と言える反転が
慈悲の感得が
内奥から湧き起こってくるのである。

菩薩の使命が自ら湧く。

全てはその気づきのためなのである。

本当には出来ることはただ一つ
一生成仏しかないのである。



[667] 不二の体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月21日(月)11時59分38秒   通報   返信・引用

父子一体

昨年の青年教学1級試験の教材だったか?
私が説明に違和感を感じ
現在の創価教学の「信じ込ませ」
思考概念・思惑を感じたところでもある。

遡っていくと本来に戻っていく。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1794903.html
 御義口伝にいわく「御義口伝に云く我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如我の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり、爰を以て之を思うに釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり、此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を我が成仏せしめんと云う所の願併ら如我昔所願なり、終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり、此の今者已満足の已の字すでにと読むなり何の処を指して已にとは説けるや、凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり、爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり、されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」(0720―第六如我等無異如我昔所願の事―02)

ここに抜き出したのは
創価の思惑前の御義口伝原文。

父子一体、父子不二の体感は
寿量品の心に通じるのです。

「我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり」
普通に考えれば逆のようであるが

逆を言えるのである。

「我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」

歓喜・歓喜・大歓喜である。

アルベアさんも
~父の写真を見て「あっ?これ、
俺だ!」という感覚になった時に始めて感じました。「私はあなた、あなたは、私」という事を「体感」した
瞬間でした。個別の自他として見ていた感覚がエネルギー体として見えた時、自他の区別が消えたのです。こ
の現象が「不二」という現象なのです。~
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/71

と語っている。

それがまさに不二の体感である。

思考概念の人びとには解らない
いくら学んでも解れない
いくら打ち出しを頑張っても解らない

現象化が続いているのである。



[666] 共振・共鳴

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月21日(月)11時20分14秒   通報   返信・引用

揺らすことによって見えてくるのは
それに共振して揺れ動くもの。
http://wakariyasui.sakura.ne.jp/p/wave/koyuu/kyousinn.html

変化しないことよりも
変化することを
脳は優先して認識する。
http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/lilacChaser/ja/index.html
https://www.youtube.com/watch?v=tABJHO4blck

自分が起こした振動の
揺れ動きが世界として見えている。

全ては自身の鏡である。

だからどうするのか?

例えば人と話すとき
左目に映る光を見て話し

光の波長の共鳴でつながる?
http://ameblo.jp/daremo-minai49/entry-11932726426.html

論理・思考・概念はどうだっていい。

以下、箇条書き。

透明が動く活動

プルプル運動
キラキラ・ワクワク
選択・実践。

ーそうじゃないのに
ーこんなはずじゃなかった
↓↓↓

「思い込み」に気づく

宇宙は何も間違ってはいない。
間違いようがない。

ここにあるのは言葉である。

どう感じるのも自身の生命現象である。



[665] 父子不二

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年11月21日(月)08時44分34秒   通報   返信・引用

息子の気持ちに寄り添って根気よく付き合ってみる。

何もしてやれない事が分かりだしたころ、自分が息子そのものになったような不思議な感覚におそわれる。

と同時に亡くなった父が思っていたであろう気持ちを感じ、自分が父そのものになったような不思議な感覚にもおそわれる。

自分は父であり子でもある。逆を言えば……
……である。

父子不二



[664] 生命の世紀へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月18日(金)12時17分24秒   通報   返信・引用

11.18
おめでとうございます。

御義口伝  南無妙法蓮華経
(創価教学研究室(赤鬼のブログ))
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1429788.html

「色心不二なるを一極」

これって、次元上昇です。

磁石の両極のように

片方の極が3次元物質と現れ
もう片方の極が心として
有るような無いような現れをする。

これが南無妙法蓮華経の
表層に現れた両極にすぎない。

色という分離も
心という分離もなく

「これ」

であるならば
通常に思考できる次元を超えている。

でも、だからと言って
特別な人だけのものでは無い。

例えば「腑に落ちる」とか
「あ、難しく考える必要なかったんだ」
っていう日常の気づきが
そのまま通じている。

人は両方を生きているのだけど

「それしかない」とか
「それすらない」っていう側には
行こうという発想が起こらないだけ。

でもたくさんの人が
気づき始めている。

臨界点を超えれば
それが普通になる。

そういう流れが既に
起こることが決まっている。

同時代現象の次元が上昇したからだ。

川の流れのように
支流が集まり大きな川となり
海へと流れていくように

自然の命脈が
集まった大きな光へ。

それが生命の世紀
平和の時代。

なるようになります。

自身の選択であり
生命現象だからです。

【アシュタール】5次元に上がるとき家族や恋人はどうなるの?
https://www.youtube.com/watch?v=zuWft-aixxk

学会歌「青年よ広布の山を登れ」作詞山本伸一池田大作)SGI
https://www.youtube.com/watch?v=_7YmZUeMihk



[663] 開飛

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月17日(木)03時51分11秒   通報   返信・引用

善悪不二ということは
信不信不二であり
本心失心不二であり
悟り迷い不二であり
仏凡夫不二であり
自他不二であり
我宇宙不二であり
難安穏不二であり
苦楽不二であり
生死不二であり
師弟不二である。

池田先生にお手紙を書いて出せば

もし仮にそれを読める状態になかったとしても
もし仮に手元にまで届くことが無かったとしても

意識体・エネルギーは通じる。

三世の永遠へのアクションである。

気に入られようとか
誰の何がどうとか
体裁とか関係ない。

「答えは全部、身体が知っている」
このありのままを

一つや二つ怒られるぐらいの覚悟で
シンプルに繋がれば良い。

池田先生だと言うのなら
ダイレクトに池田先生と自身と
繋がればよいのだ。

そういうことが出来る時期も
あとどれぐらい残っているのだろうか?

拙いとか迷惑とか
そういうのは言い訳だ。

池田先生だって
読める分しか読まない。

なんなら一筆入魂して
一文字だけ書いて送ったって良い。

池田先生の
「私と繋がりなさい」という意思が
開かれている。

法華経の非二元と言っても
師なく法があるのはありえない。

師と弟子の分離を乗り越え
師もなく弟子もない
透明の生命の光と輝くことだ。



[662] エネルギーの循環

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年11月15日(火)12時49分12秒   通報   返信・引用

顕在意識(思考)

二極化分離・閉じ込め対象概念化⇔
自己との分離(自分)が無い・許し繋がる

してはダメを「やってみる」勇気の行動実践が
受容されて生かされている愛への気づきへ。

潜在意識の
本当はこうありたいという想いの
環境・状況に対するオンオフの切り替えの技術。

自己機能の本当の望みに自分で気づき改善する技術。

我が身が落とし込んで(ダウンロードして)いる
内容と対話し新陳代謝しアップデートする技術。

身体反応・呼吸・瞑想・内観・気功(有酸素運動)・周波数。
トータルの技術としての、心身・全体性に響かせる唱題。

依法(環境・相手)と正法(自分)が分離していると
表の顔と裏の顔、社会での自分と本当の自分が
分離していて、社会の中に満足が無い。

トーラスの循環により
和合された生命活動へと昇華する。

宇宙にフラクタルに展開する
発光のエネルギーパターンと
トーラスのエネルギーパターン。

より大きなトーラスのパターンと同期することで
より強い力を放つ自身へとイノベーションする。

見えている物質の実体はほとんどが隙間。
その空間のエネルギーの活動。

我が身が宝塔。
トーラスの光柱。

トーラス構造の本当の意味とは?
http://aiwa-afurerumono.blogspot.jp/2014/12/blog-post_18.html

天と地を繋ぐ光の柱
天の光を大地に降ろし、光の柱を建てる
心身の浄化と地球の浄化
http://cosmosphere-x.com/school/?p=30

トーラス瞑想 (2) トーラスの流れを生む
http://carlossato.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/2-7bb9.html

自然治癒力を高める観想 ~軟蘇、軟酥(なんそ)の法~
http://mahesvara.seesaa.net/article/374358940.html

自己自身の内なるものに問いかけ
答えを得ることは特別な人間だけが出来るものではない。

志向性により、対象の表現が変わるが
自己内対話の技術である。

内なるエネルギー状態
http://www.starheart.jp/archives/13268

顕在意識と潜在意識の、本当の意味、とは?
http://aiwa-afurerumono.blogspot.jp/2015/01/blog-post_26.html

サイキックエネルギーシステムと
スピリチャルエネルギーシステム

見える体 見えないカラダ~不思議なエネルギー・周波数~
http://mentalbiyo.com/%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BD%93%E3%80%80%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%80%EF%BD%9E%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC/

前回の田中信二のブレイン・アップデート・キネシオロジー
2013-11-01 の記事
http://ameblo.jp/mindupdate/entry-11661834928.html

前回、抜き出している動画のURLの中に
リンク先のHPにないものを2本混ぜていたので
その2本、再掲。
https://www.youtube.com/watch?v=ORnnZe8yd5M
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6i6RZOW_I

周波数に対して水などが美しいパターンを示す。
生命エネルギーの機能である。
周波数が、それに関連する機能への
アクセスとなるのは自然の事である。

ソルフェジオ周波数を体験してみよう!全9周波数の動画まとめ
http://pando.club/post-1324

ソルフェジオ周波数の絶大な効果に潜む危険とは?
http://serendipity-japan.com/solfeggio-danger-7770.html

【奇跡の法則】周波数を「432Hz」にすると、音の聞こえ方が違った!
http://tabi-labo.com/156689/music-a432/

スピーカーを使った音の形を見る実験
https://note.mu/a_hisano/n/n6172dde2fef6

水を空中で静止させる「水魔法」動画がマジで必見!!
http://rocketnews24.com/2013/03/16/304547/

要するに
唱題の声の張りには、相応の効果がある。

生命現象だからである。


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