いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


803件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[761] 無限パズル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 7日(金)04時29分24秒   通報   返信・引用

仏法における
「同じ」「違いが無い」
ということの
十界それぞれの
「そのまま」という時の
「そのまま」というのは
分かっていない方の
「そのまま」である。

不可思議の方の
「そのまま」である。

人生の複雑さ
宇宙の複雑さ
そこにストーリーを構成する時
その置き換え組み換えが出来る種類が
無限である場合

知りえていないストーリーの割合は
99.99999・・・・%で
数学上イコールで100%である。

「私とは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。
「それを分かっているのは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。
「それ以外を分かっていないのは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。

「分かっている」は「分かる」と「分かつ」の
二重の意味の現在進行形として見れば

私が分離させて比較して
私が一方に正を、もう一方に反を見て
0%の世界の中で一喜一憂している
自作自演なのであるが

私の側から見れば
むしろこの世界の方が
世界のほとんどであるかのように感じ

この世界での出来事が
全く自身の幸不幸を決めてしまうように感じる。

むしろ100%である方の
分断の無い未知の「分かっていない」世界には
無関心であることの方が日常である。

九識心王真如の都・不変真如の理・隋縁真如の智
というところの真如とは無分別智であり
100%の「分かっていない」方である。

分かったら究極的にはそれではないので
誰にもそれは分かっていない。

それは何ものをも分かっておらず
全ての何ものも100%それである。

その100%に0%の膜の経験がある。

意味を分かろうとする時
分離した何かと分離した何かを
結び付けて物語を構築するが

そうしてしまうと
分かっている0%の方に向かう。

「工夫は唯だ 人我の見を離る
見を離るるの機要
内 虚にして 外 事あるのみ
これ 人我を 離るるの道
これ 坐禅の玄旨なり」
http://matsu880.blog93.fc2.com/blog-entry-123.html

「分からない」のではなく
「分かっていない」を観る。

「分かっている」は一界しか観ていない。
「分かっていない」は十界を観ている。

己心にこの不可思議の十界を観る。

「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念々に起こるなり
謂南無妙法蓮華経は精進行なり」

分かっていない余すところの無い
そのままの智慧の全てを
譲り受ける唱題行である。

知的理解でないものを
知的に理解の補助をしようというもので
難しいことを書いているようであるが

それは文意を追うからであって
やってみりゃ
ただそれだけのことの意識の使い方。

期待依存することなく
「分かっていない」を観ればいい。

<池田名誉会長講義 御書と師弟 第3回 御義口伝と青年
2008年12月25日付 聖教新聞>
http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20081225.txt




[760] 美しき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 6日(木)03時19分10秒   通報   返信・引用

良い歌声ですね。

師弟の心、師弟の魂。

その息づかい。

確かな歓喜のあった学会。

崩れざる黄金の魂を
今再び一人ひとりの胸中に。

師弟不二の道を。



[759] こちらの声が好き

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月 5日(水)08時53分39秒   通報   返信・引用

蘇生さん、こんにちは

下記、途中まで独唱する彼女の声が好きです。(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=oYgpkyAcFEw

http://macska2012.blog.fc2.com/



[758] 不可思議の妙法のリズム

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 5日(水)02時01分17秒   通報   返信・引用

当然、この掲示板だからこそ
サイヤさんの祈りもあって
そういう全体によって
起こっているので

私個人が何か超能力とか
そういうものをもって起こしているのではなく

必要なことが必要な順に
ただ起こって無駄がない。

分離したこの身を見れば
卑下したくもなるけれども

ひとたび胸に御本尊を輝かせたならば
生命の讃歌を歌い上げよう。

サイヤさんの宿坊への投稿
その勇気も

間違いなく何かを開いた。

地球の目覚めの
大御本尊の合致の
生命の世紀の実現の

奏者のハーモニーは

大河の流れのように
一度や二度といったことではなく

その在り方全てが無限となって
この流れは誰人にも
止めることは出来ないと

師匠が愛をもって讃えた
そのものなのだ。

前投稿[757] 自己機能を伴った思考は
2017年 4月 4日(火)11時44分42秒

~~自己機能を伴った思考では
奏者のハーモニーが
プレゼントしてくれている。~~

<かんながら>ちょっとした練習
http://abetoshiro.ti-da.net/e9461834.html
2017年04月04日 Posted by Toshiro Abe at 11:47

~~( ̄д ̄) 「夢から覚めようとジタバタするんじゃなくて、お前が静かになればいいじゃん。

夢の成分は思考だから、思考を静めてみな。

すると思考の外側には、ただ静かなプレゼンスがある。

それが、お前が求めている幸福の時間だら」~~

不可思議が
「思議すべからず」と読むことの
それなんだけど

この妙法のリズム

宇宙のリズムとの合致。

この生命の全て。

余すところなくそれになれば
それの生命を開けば

ただ海原に向かって
流れてゆくに違いない。

<YouTube>青年よ21世紀の広布の山を登れ
https://www.youtube.com/watch?v=6IFNBBLQCgY



[757] 自己機能を伴った思考

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 4日(火)11時44分42秒   通報   返信・引用

同じ思考パターンのステージ
枠内に囚われている限りは

例えばギャンブルでディーラーに
心情が把握されている状態で
ああすれば勝てるか、こうすれば勝てるか
次こそは勝ってみせると意気込んでみても
結果に一喜一憂することを俯瞰されて
「ギャンブルをする」ということから
抜け出せないよう支配されている。

掲げた目標に向かって貫き
反省もし研究も重ね熱を上げるほどに
掌の上、用意されたステージの上で
思い込みの思考がぐるぐると回る。

ぐるぐるぐるぐる六道ぐるぐる。

第六天の魔王が用意したステージで
自我の愚考は熱い思いを煽られて
冷めることができずに血走った目で
自分の信念を押し通そうとするのだ。

その時には必死で懸命なんだけど
目が覚めて熱が冷めて後から振り返れば
あの時は若かったなぁバカだったなぁの
一笑の話になる。

愚考から抜け出さない限り
一生は一笑に終わっていく。

抜け出すためには
第六天の魔王を俯瞰し返す視座が必要になる。

冷める必要があり覚める必要がある。

与えられた言葉に特別なイメージを付け加えて
特別な世界、特別な自分を作り上げていないかどうか。

頭の中にしか存在しないものなのか
もっと内奥から何をせずとも起こっているものなのか?

ただただあるものはあるものとして
起こるものは起こるものとして
何も付け足さず
ただ腹からの呼吸になってみる。
ただ南無妙法蓮華経になってみる。

愚考というものは常に
外からの作用に対して
反作用することによって
どうにもならないものを
自分の中、あるいは自分そのものとして
作り上げているのだ。

こうして生命に詰まった余分なものを
排泄するという自己機能を働かせる。

思い込みが何を反転させてしまっていたのか。

考えるでもなく
そのまま見て取るのだ。

これをもたらせている
内奥の生命のままの輝きに
私を添えて奏でてみると

物事の順序が反転する。

今までの愚考は
起こり終わったことに
あーだこーだと言っていたが

今や私は
全体の生命の上で起ころうとしていることが
知ろうとするでもなく
全く不思議なことに
ここにあるのだ。

何の不手際も無く
何ら余すところなく
生命がただある。

自己機能を伴った思考では
奏者のハーモニーが
プレゼントしてくれている。

起こり終わったことに
声を乗せても
自分に跳ね返ってくるだけであるが

起こっている波そのままの声は
どこまでも遥か
消えることなく響き渡る。

私は生かされている。

私はそれである。

あるのだ。



[756] 観念観法と一生成仏

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月30日(木)13時21分13秒   通報   返信・引用   編集済

「観念観法と一生成仏」なんて括りにすると
「日蓮仏法は観念論じゃないんだよ」なんて声が
聞こえてきそうであるが

多くの場合のそこには
「観念論じゃないんだよ」の誤用があると思う。

それこそ「観念論じゃないんだよ」という
観念だけが独り歩きしている観念論になっているのだ。

これもまた池田先生の側と
そうじゃない組織人間の側に
まったくの反転が見られるのだ。

学会組織の意向に慣れ親しむと
学会本部というものは
池田先生の意思の通りのことを
実現させていくことをしている
深い師弟の信心のあるところだと思い込み
その正当化に加担する生命が起こる。

純真なだけでは利用されてしまう。

「観念論」という言葉を調べると
観念観法の仏法的意味の場合と
哲学のイデアリスムを指す場合と
単に現実に基づいていない頭の中だけの観念
というような種類が分けて記されている。

組織人間の側が「観念論だ」「二乗根性だ」
と言う場合、対話拒否のシーンで言わないだろうか?

「難しいこと言っていないでとにかく従え」
という傲慢な根性だ。

また、きれいごと言ったってお金がなきゃ組織は運営できないでしょ?
きれいごと言ったって票が集まらなきゃ民衆の生活を変えられないでしょ?
そういうことが上手く回るように
方々手を尽くして私にしかできない戦いをしているんだから
少々汚いことのように見えたって
そこは信心で受け止めなさい。

みたいな全然仏法じゃないものが基調になって
結局、仏法者として絶対に師子吼するべき時に
全く何も言えず長いものに巻かれる羽目になる。

<随筆 新・人間革命 279 法悟空
不二の旅立ち「8・24」③>
http://shiohama.web.fc2.com/zuihitu-279.html

~~「師弟直結」で戦うということは、いかなることか。
 師は、「戸田の命より大切な創価学会の組織」と言明されている。したがって、この学会の組織で、広宣流布の拡大に戦うこと以外に「師弟直結」はありえない。あとは、観念論だ。
 とともに、私は、わが師への無数のいわれなき悪口誹謗を断じて放置しなかった。こと師匠と学会の正義を冒涜する者に対しては、相手が誰人であれ、真っ正面から破折していった。~~

~~青年は、流れを傍観しながら、ただ先輩に追従しているだけでは絶対にならない。
 断じて、臆病な野干(キツネの類)が吠えるごとき、遠吠えであってはならない。
 正義の信念に立って、自分自身の勇気と努力で、新しい流れを起こしてこそ、青年であるからだ。
 私は、師を苦しめ抜い宗門と憤然と対決した。 ~~

<随筆 新・人間革命 262 法悟空
新会員の友を全力で育成>
http://shiohama.web.fc2.com/zuihitu-262.html

~~めぐりくる春の、その花びらは美しい。  人間の歴史には、厳寒のごとく虐げられた、苦痛の歴史があまりにも多い。  しかし、春の勝利は、忍耐強く待つことである。

 そういえば、二百年ほど前のドイツの著名な学者が言った言葉がある。  その大意は、自分自身を根本的に改善していくことによってのみ、そこに新しい光が、自分自身の生存の上に、また使命の上にさし登ることができる――というものであったと記憶している。

 ともあれ、その彼、フィヒテは、心の改善のみが真の知恵をつくりあげると訴えたのである。  これは、私たちの叫ぶ人間革命、精神革命の大道を歩む正しさを証明し、励ましてくれる言葉ととれるであろう。

 フィヒテは、カント、ヘーゲルとともに、ドイツ観念論を代表する哲学者であり、べルリン大学の学長も務めた教育者であった。  大変な苦労人である。  紐織り職人の子として生まれ(一七六二年)、青年時代は貧困と不遇のなか、学問の道で身を立てんとして努力を続けた。~~

戸田先生も池田先生も
「哲学」と「仏法」を否定しないし
むしろ絶対に必要としている。

ただ観念の遊戯に終わることを否定している。

<赤鬼のブログ>
一念三千法門 第六章観念観法も妙法五字に納まる
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1777631.html

~~これまで天台大師の法門をふまえ、観心修行による成仏について述べられてきたが、本段では天台家の一念三千の観心・一心三観も、所詮は妙法蓮華経の五字に納まるとされ、その意義を天台大師の釈を用いて明かされている。
 当時の天台宗・禅宗のあいだで、経を読誦しなくても観念観法の修行のみで成仏できるとしていた邪義を破されながら、日蓮大聖人独自の立場から末法適時の正義を示されるのである。
 すなわち、天台大師が法華経によって立てた一念三千の観念・一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まるのであり、妙法蓮華経の題目を唱えることであると仰せられている。
 それは、一心三観は、所詮、妙法を悟るための修行の方法にすぎないからであり、文永11年(1274)ご述作の立正観抄に「妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり」(0531-01)と述べられていることでも明らかである。「観門」は実践的修行方法のことである。換言すれば、天台大師は自身の内証の妙法を秘して、外用として一心三観・一念三千を説いたということができよう。
 しかも、この妙法蓮華経の五字は「我等が一心に納りて」と仰せのように、我ら衆生の生命の当体である。観念観法の究極の悟りである妙法蓮華経は、もともと衆生の一心に納まっているのであるから、妙法蓮華経の五時の題目を唱えることによって、我が身が妙法の当体であると覚知し成仏することができるのである。
妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵
 天台大師自身、妙法蓮華経について、法華玄義本序で「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり…三世の如来の証得する所なり」と釈している。
 この文について、元意の辺でいえば「本地甚深」とは久遠元初をさす。すなわち、妙法蓮華経は人法一箇の久遠元初の自受用身が胸奥に秘めておられる大法であり、三世の諸仏が等しく成仏得道した能生の根源である、との意である。~~

その意を聞き理解しようというのは声聞である。
その意のままを体感で覚知しようというのは縁覚である。
その意のままに化儀の広宣流布をしようというのは菩薩である。
その意をもって化導する、意の前に久遠元初からあって
意を意としてもたらさせているのが仏である。

日蓮仏法において
己心に十界を観る
観心の本尊が肝心である。

<アルベアのブログ>「観念観法」1
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12212969271.html

「観念論ではいけない」ということの本来は
悟りとか深い仏法哲理とかは必要ないという事ではなく

「仏法哲理は深いなぁ」ということに
出会えたことだけに幸せを感じて終わるのではなく

この深い仏法哲理をもって
現実の人生を
現実の社会を
現実の世界を変革していくことにあり

深い仏法哲理が
現実の平和構築にあって
絶対に必要なんだという事である。

日蓮仏法の主軸がしっかりあるなら
色眼鏡で選り好みするのではなく
学べる機会があるなら
貪欲に学ぶというのも一つである。

現象のあり方に気づけばそれは
それによって自身から失うものなどなく

ただ南無妙法蓮華経がある。

ただあり
絶対に大丈夫なのだ。



[755] 無分断の御本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月28日(火)05時35分0秒   通報   返信・引用

えーと、昔話の続きで
男子部に上がって
理想と現実のギャップとか
色々あったり

学生部上りが未活になる確率が
高いというのは言われることであって

少なくとも一度は壁にぶちあたる

なんかさ、学生部の純粋な目線から
学んだ池田先生の理想の組織と
実際の四者組織ってなんか違うじゃん?

まぁ、それはさておき

法華経の智慧ですよ
目を輝かせて読みましたよ。

まず一つは
全ての人に仏性があるんです
これはすごいことなんです

ってことを宣揚し
自分の知人、また地域の人、世界の民衆の
幸福を願い祈るわけです。

で、部員さんから問われる
「その仏性は本仏と同じなのか違うのか?」

はたと困ってしまいまして
思索をするわけですが

思考概念の上では
「違う」と答えざるを得ない壁があるんですよね。

違うと答える宿業の
命だったという事なのでしょう。

違いがあると思えば無益であるという
内容の御書があるかと思います。
そちらをとるなら
「同じ」と答えるべきでした。

学会版の御書全集に収められている
中には、そのあたりの二重性があって

「よく御書…を読む場合、全体を把握しつつ一か所を深く読みとらなくてはならない。また、一か所の意味を深くくみとりつつ、全体をトータルに理解していかなくてはならない、といわれる。
なぜならば、一遍の題目でも成仏できるという意味の御書もある。更にいくら長い間、信心していても『うるし千ばいに蟹の足一つ』で地獄におちてしまうこともある。これらは相矛盾するような御金言のように思えるが、この点を間違えてしまうと、教条主義の弊に陥り、御書を正しく拝読したことにはならない。重大なあやまちをおかす場合が多いのです――と。会長はよく言われますね」

というレベルとは
趣が異なるのではないかと思う。

まぁいいんです

今は私は「それそのもの」と答えるだけです。

それは思考概念で答えたって仕方のないことです。
究極的には。

それはそれとして

当時もう一つ私の主張したことに

「御本尊には分断だけが書かれていない」

ということを言ったんですよ。

その当時ですから
まだ思考概念なんですけど
その理解の上でなお
分断が無い
ひと繋ぎの世界だと見たんです。

昔話はこれぐらいにして

御本尊の論議は
よほど機が熟さないと
まともな論議にならないんじゃないかと思う。

元来の創価の御本尊への信仰は
一切が大御本尊を中心としたものだ。

法華経の信仰は
ただ一のみあって
二も三もない。

大御本尊が自分のところにないなら
じゃあこの御本尊
というものじゃない。

現段階では私は
大御本尊への真っ直ぐな信仰を否定しないし
かといって本当に未来が開ける最善の選択が
あるのだというのならば
それが絶対にないとは私個人は言い切らない。

それはそれとして
御本尊の問題とは別個に

私個人としては

「脱構築」とか「チャクラ」とか
同じものに行きついているかもしれないものを
当然、中身を知る前から門前払いにはしない。

サイヤさんの志向性を尊重することと
私自身の志向性とは角度の違うことである。

まぁ読まざるを得ないものであるなら
読むことになるだろうし

今のところ、あえて
どうしても読もうというものでもない。

真実は静かに
誰に見られずとも
それを起こしていくものなのだ。

潜水艦のようにね。



[754] Re: Re: ふと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)22時23分33秒   通報   返信・引用   編集済

サイヤさん回答ありがとうございます。

加筆修正の
「民衆仏法の確立」について考えてみた
読みました。

なるほどやはり
大御本尊の受持ということが
根幹なのですね。

思えば執行部の
「大御本尊を受持の対象にしない」
というのは

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
ですから

「成仏の方途を捨てます」と
言っているようなものでもありますね。

「とにかく耳障りの良い言葉で
信心をしている気にさせてあげますから
私たちの言うとおりに一生懸命働いて下さい」
なんていうのは欺瞞しかありません。

<赤鬼のブログ>四条金吾殿御返事(此経難持御書)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1584721.html
~~「天台大師の云く『信力の故に受け念力の故に持つ』云云」
 受と持の根本的な違いがここに明らかである。信と念との相違が、それである。信とは、まだ、仏の言葉あるいは御本尊、妙法を自分以外に置き、ただ、それを疑わないという段階である。「受」という言葉がしめすように、与えられるものを受けるという受け身の姿勢である。
 それに対して、念とは、仏の教え、御本尊、妙法を我が生命として、主観的、能動的に実践していく姿勢である。自身の内にとりこみ確立したのであるから、外界からのいかなる障害、迫害がおそってこようと、崩れることはない。故に、持続しくることが可能となるのである。
 先の「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」ということも、このことからふり返ってみるならば、単に、入信と、その後の信心の持続という関係ではなく、瞬間瞬間の信仰の姿勢の相違を述べられたものと拝せるのである。~~

誰が何を受け何を持つのか
師弟も信仰も
その生命の縁起の智慧の活動でもあり
だから一生成仏もあるのだと思います。

「抑此の経釈の心は仏になる道は豈 境智の二法にあらずや、 されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」
<赤鬼のブログ>曾谷殿御返事(成仏用心抄)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1602024.html

御本尊には万法の体の仏の不可思議境と
その自体顕照の姿の智慧が顕されているから
凡夫の想念で軽々しく判断して
受持の対象にしないなんていうのは
おかしいですよね。

<宿坊の掲示板>
戸田先生指導:御本尊に関する質問  投稿者:寝たきりオジサン
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65859

私自身は広く模索している側でもありますので
縁に随って色々と書いていますが

この掲示板が中心となっているのは
大御本尊の仏智による縁であることを外せば
たちまちに悪縁に随っていることに
なってしまうからでもあると思います。

また気になることがあれば
質問することもあろうかと思います。

よろしくお願いします。



[753] Re: ふと

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月26日(日)16時41分30秒   通報   返信・引用

蘇生さん

投稿ありがとうございます。

先ず文字面をよく見てください。
松戸氏は「日蓮仏法2.0」と云っています。
これは日蓮仏法そのもののヴァージョンアップです。

それに対し日寛教学というのは、大聖人の仏法の教学の部分を
日蓮仏法に即して解釈・宣揚していることになると解釈しています。

松戸氏の著作をまだ読んでいないので、文字面からだけの判断ですが、
真蹟御本尊の版権を得てその書写を配布していると聞き及んでいますので、
日蓮仏法2.0は日寛教学と云われるものとは次元を異にすると思われます。

蘇生さんの云う「日蓮真蹟主義」が何処までを指すのか分かりませんが、
上記のような所見ですのでそちらに組することにはならないと思います。

「民衆仏法の確立」にも法体の広宣流布ということで書いています。
そちらも参考にしてください。
(最初ここにアップしたものに加筆修正があります)

http://macska2012.blog.fc2.com/

http://macska2012.blog.fc2.com/



[752] ふと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)15時32分34秒   通報   返信・引用

サイヤさん
気づいた部分で、私情ではなく
論理的な部分で一点指摘しておきます。

<宿坊の掲示板>
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66360
日蓮仏法  投稿者:スーパー摧邪人  投稿日:2017年 3月20日(月)22時32分25秒

日蓮仏法に2.0とか3.0とか定義したら、それは既に日蓮仏法ではない。
松戸仏法(松戸本仏)というのなら、まだ話は分かりますが。
http://macska2012.blog.fc2.com/

との事ですが
置き換えれば

日寛教学とか学会教学とか定義したら、それは既に日蓮仏法ではない。
戸田仏法(戸田本仏)というのなら、まだ話は分かりますが。

という日蓮真蹟主義の主張に分がある方向になります。
これはパラドクスなんですが

どういった部分が肝心となってくるのでしょうか?



[751] ワンピースの生命

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)14時50分17秒   通報   返信・引用   編集済

二十歳ぐらいのことだか
仏法対話の中で

「お前それは自分が無いじゃないか」
「自分の言葉で言っていないじゃないか」
「そんなのは綺麗ごとだ」

なんて言われて
でも自分としては自分で考えて
自分の言葉で言っているつもりで
確かにあるものの実感のはずで

「御本尊に祈れば分かります」
なんて言えるだけの自信があれば良かったんだけど

元々の性格や生い立ちもあり
不安症で自分を卑下しているようなところがあったから

綺麗ごとって何?どういうこと?
その自分って何?どういうこと???

ってな感じで、
世間の感覚が分からない自分が
ズレた人間なんじゃないかと
不安を感じていた。

自分って何?自分ってどういうこと?
自分、自分、自分・・・

その苦しさと
御本尊に向かう時の絶対感と

学生部の活動の中で
御書を学び池田先生の指導を学び
学会の歴史を学び。

そういう魂の原点・原石。

今、法華経を生命論で見るならば
自分というものの強い固執というのが
法華経の会座にいられなかった
退席した五千人であると思う。

そういったエゴの強い人師論師の言を
選択して末法は迷いの文化が築かれている。

一見、そういったエゴを離れた
悟りの世界を究めたような仏教宗派も

その実、法華経の生命の智慧を根本と出来ないのは
末法においては結局、五千人の末流となってしまっているのである。

自分という分離の消失した
非二元・ワンピースの生命としての法華経を見れば
今ここの一念三千そのものである。

個々別々の法華経ではなく
末法においてはこのワンピースの
南無妙法蓮華経に帰依するのである。

この時、二処三会は人間の思う
時間空間の物語とは異なる
フラクタルのタイミングの
縁起の智慧となる。

これは広義の声によっての
妙の三義「開く」「蘇生」「円満具足」
の実現である。

生命感覚的に虚空会は
誰もが参加しているし誰も参加していない
分離した自分の無い認識前の気づきである。

後霊山会は、それがそのまま今ここであることの
気づきの認識後の流布の世界である。

前霊山会は、その気づきがもたらされるための
退席した五千人も含めた
生命の実相という全て。

「その時」を自覚した時が「その時」であり
「その時」の全ては霊山会の実相なのである。

日々の勤行唱題は
そのような太陽の仏法の生命が

あるようにある
このままがそれであるという

智慧の門に入る信心の
帰命の儀式なのである。

この法華経のワンピースの生命の中にあって
分離した自分や対象化した他が無い次元において

誰が言ったから、どういう考えだから
そういうことは凡夫の側の時間空間のことであって

仏法そのものの生命の現象として
そこに本当の悟りが語られているなら
それがまさに悟りというものであるし

そこに本当の真実が語られているなら
それがまさに真実というものである。

それは受け取り手の境涯が
執着の迷いの言葉とも取るし
否定して闘争する言葉とも取るし
自分の利になる言葉とも取るし
平和実現の希望とも取る。

自身の生命が法華経である時には
法華経として聞けるのである。

その時には人の言葉を聞いているのではなく
法の声を聞いているのである。

順序としては
まず何をおいても日蓮仏法を専念して学び
その後、その軸が歪まないなら暇があれば天台も学びなさい
というのは日興上人の遺誡である。

聞法下種も発心下種も
功徳は同じだから

ならば語る内容としての
組織信仰への勧誘や
聖教新聞の購読や
選挙応援の依頼ではなく

どれだけ純真に
信心の心の声を響かせられるかに
功徳があり

乱暴にやったって功徳なんてないよ。

乗り越えていきましょう。
皆で勝利しましょう。

絶対に大丈夫です。

永遠不滅です。

あなた自身がそれなのです。



[750] 飛ばねぇ智慧はただの悪知恵だ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月25日(土)02時20分57秒   通報   返信・引用

二年ほど前にね
唱題会の御祈念を皆が書いているところに

皆それぞれ
具体的なことを書いている人も
抽象的なことを書いている人もいたけど

私が書いたのは
人間革命として頑張らないを広宣流布する
だったか?

自分自身、ニュアンスとしての志向性は
そうなんだけれども
ハッキリと説明しろと言われたら
さわりしか説明できなかったと思う。

その時の区男は「頑張らない」も
大切なことだと思うって
評価してくれて

でも「頑張らないとか言いながら
一番頑張っているよね」みたに言われて

そうじゃなくって
これは私の頑張らないの発露なんだと
思ってはいても説明しきれないから
何も言わず流したけど。

人間革命として頑張らないを広宣流布する
という目標自体
これの説明を出来るようになる
ということも含めた目標。
自分の中でそれを完成させた時
それを説明できるようになる。
しかもこれは今に思えば非二元なので
そうなった時それは広宣流布されている。
というか今に思えば初めから
そうなった時ではなく
始まりも終わりも無く
それは禅定そのものの事だった。

<かんながら>阿部のWeb講演を一般公開します
http://abetoshiro.ti-da.net/e9437099.html

この記事に公開されている
Web講演を見てもらえれば

この場合の「頑張る」が
何を示しているのかの面は
説明されていると思う。

何か対象にして合わせる
不自然さの維持の努力なんですね。

つまり無作三身の否定の努力。

だから頑張れば頑張るほど
苦しみを生む。

私が言っているこの場合の
「頑張らない」のと「努力が無い」のは違う。

頑張らないという事をさえ頑張らないので
自然に起こる努力が
そのままにある。

その中において
頑張るのが今ここに起こる時には起こる。

「頑張りましょう」
「頑張れますか?」と言う時には
その機微を分かった上で

不自然さへの努力の
重荷の解放の後押しとして発火点を作り
また多くの人へ伝え広がるための
一念を定めるための慈悲からの言葉でなければ

思考概念に陥った「頑張れ」では
行き詰まる。
苦しみを背負わせる。

池田先生の側と
そうじゃない組織人間の側の
違いである。

究極の自然さとは
御本尊と自分との間に
何ものをも挟まず

ゆえに、そこには境目が無く
非二元の今ここである。

しかしこれには順序・段階がある。

「大風ふき候へども つよきすけをかひぬれば たうれず」

とあるように、また

「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」

とあるように

仏法を教えてくれる人が必要になる。

「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」

であり、学び思考概念で理解して伝えていく。

しかし智慧を開くのは
信心による自己機能の体感である。

これは自身の内の法であり
それは禅定に基づいている。

仏法を教えてくれる人が
親兄弟であれ
気の知れた同志であれ
信頼できる先輩であれ
非二元のマスターであれ
人生の師匠であれ
御本仏であれ

その門の位置は教えてくれるが
門を開くのは自身の信心であり

そこには
そこまで導いてくれた人をさえ挟まず
非二元の本尊の戒壇の
生命そのものの体感。

それのあるがままの無作三身。

誰かを何かを
挟んでいる限りは
そこにはその反転があり
その執着によって迷う。

悟りの智慧がもたらされない。

「師弟相違せばなに事も成べからず」
なんていうのは

凡夫の思考概念では
これぐらいの意味だろうなんて
勝手に解釈して考える。

言いつけを守るとか
言ってることが違ったらいけないとか
人に対する接し方とか
正義とか恩とか。

そういう思考概念を追うのが
不自然さの努力になる。

本当には究極の自然さの中以外には
どんな何を重ねたって
相違はあります。

言っていることが分かるかな?
不自然さを手放すのって怖いですよね。
だから勇気なんですよ。

あなたはどこから来たのでもないし
どこへも行かない。

ただある。

門を開ければそこは
歓喜の世界です。

あなたがあなたのまま
仏法なのです。



[749] 声仏事の意識の使い方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月23日(木)03時23分46秒   通報   返信・引用

「声仏事を為す」(御書708㌻)について考察する。

御義口伝 南無妙法蓮華経において
「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、 釈に云く 声仏事を為す之を名けて経と為すと、 或は三世常恒なるを経と云うなり」
とある。

南無妙法蓮華経の経とは
「三世常恒なる」
つまり永遠に普遍性のある
全ての人の言語音声。

ここで
「声仏事を為す」のであって
「言葉仏事を為す」のではない

言葉があって言語音声になるのではなく
声があって言語音声になる。

思考概念があってそれを説明するのではなく
自己機能があってその思いを響かせる声が
言語音声になる。

「言(ことば)と云(い)うは心の思いを響かして声を顕す」(563㌻、「三世諸仏総勘文教相廃立」)

私が今、何を言わんとしているのかというと
御書の理解のための説明もさることながら
意識の使い方の昇華を促している。

例えば
関西弁を語る

関西弁で語る

関西弁が語る
という意識の使い方の技化である。

「関西弁が語る」は通常に考えれば
おかしいようであるが

分離した自分が消えている非二元においては
仮にそのような表現が成り立つ。

仏法の知識を語っている人よりも
仏法の体感で語っている人が優れている。
仏法の体感で語っている人よりも
仏法そのものの全体意識が語っている現象の方が優れている。

言葉の上に現れている意味ではなく
その現象それ自体は
永遠の普遍性である。

その次元での声は
人間が音として認識できるものに限らず
あらゆるものの変化の振動であり
一切の現象である。

文字も今ここに現れている現象として声である。

一切の現象への思いの入れ方
意識の使い方。

これによって声が仏事を為す。
全体自身が全体自身として現象化する。

奇跡を起こす。

それが祈りが叶うという事である。

表面上同じ意味の言葉であっても
その声の質によって
起こせる結果には違いが出る。

鐘を大きく打てば大きな音という結果が返ってくる。
鐘を小さく打てば小さな音という結果が返ってくる。

また、ピアノの鍵盤を
闇雲に大きく叩いても
美しい音楽にはならない。

そこには修練を経た
魂の律動があって
美しい音楽を奏でられる。

それができる魂になった時
そこに不協和音があれば
すぐに察知できる。

人の思いの機微を察知し
全体を美しいハーモニーとして
その全てを
無くてはならないものとして
輝かせていく。

生命の世紀とは
そういうことによる平和の実現。

勇気ある対話という
言葉を善く使うことが出発点である。

対話なき一方的な押し付けのために
言葉を悪しく使う声というものは
その仏法の破壊であり

正義の声を上げた罪なき民衆を
分断するそれこそが
破和合僧である。

<随筆 人間世紀の光 No.192  (2009.6.28付 聖教新聞)
対話こそ わが人生>
http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-184.html



[748] 魔法の言葉

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月21日(火)12時20分56秒   通報   返信・引用

民衆仏法の確立
→民衆が化法も司る仏法
→民衆を束ねている組織が決める教義が是
→会長の認定が絶対で会長は偉い

この仏法精神にのっとって
時の与党が決める解釈改憲は是であり
時の権力の一存次第で
危険分子を一早く取り除ける法律は是である。

って

耳障りの良い言葉で
仏法破壊の
とんでもない力の論理ですね。

恐るべし恐るべし。

この分水嶺の見極めが
求められますね。



[747] 民衆仏法の確立

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月20日(月)20時24分26秒   通報   返信・引用

                                                           ・
2014年の会則改正について、翌年1月29・30日に聖教新聞4・5面に教学部による解説が掲載された。その中で、それまで日蓮大聖人の出世の本懐は大御本尊であるとされていたものを、「民衆仏法の確立」と「三大秘法の確立」として化法の改変を行った。ここで云われた「民衆仏法の確立」について考えたところを述べようと思う。

「民衆仏法の確立」とはなんと耳当りの良い命題であろうか。貴族仏法でもない、出家仏法でもない、世間一般大衆のための仏法。大聖人は出世の本懐として民衆仏法を確立されたとするものであるが、果たしてこの命題は真であろうか。創価は熱原の法難により大聖人の仏法が民衆の間に定着したとしてこのように云う。

池田先生は会長就任の挨拶の際、「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらさせていただきます!」と叫ばれた。ここで重要なのは、大聖人の門下が目指すのは「化儀の広宣流布」だということ。それに対し法体(化法)の広宣流布は既に大聖人が遂げられているということだ。

大聖人の「末法の御本仏」であるという御立場からして、出世の本懐とは「化法の確立」でなければならない。化法(教義)は弟子が作れるものではないからだ。末法万年の一切衆生を救済する仏法であるが故、大聖人は大慈大悲をもって大御本尊を顕され、日蓮仏法の化法を確立されたと考える。

このように考えて創価の云う大聖人の出世の本懐を見てみると、「三大秘法の確立」は化法に該当するのでよしとしても、「民衆仏法の確立」は当たらないと云えよう。大聖人の仏法が民衆仏法であるというのは、日蓮仏法の必然的帰結であって化儀に相当する。したがって「民衆部法の確立」を大聖人の出世の本懐とすることは出来ない。

日蓮仏法は一切衆生のためのものである。民衆仏法だから貴族や王族は受持出来ないかと問われれば、そんなことは無いのである。そうであるならなおさら、大聖人の出世の本懐が「民衆仏法の確立」などという狭められたカテゴリーに押し込められてよいはずがない。ポピュリズムに迎合する必要はないのである。

創価の解説が出てから2年以上も経って、ようやくこの瑕疵に気付いたとは、どう云い訳しても遅すぎる。耳当りの良い言葉であったため見過ごしたのか、化法と化儀の違いを正しく認識できていなかったのか、ただ頭が悪かっただけなのかは不問に付すとして、創価の云い分はこの瑕疵からしても成立しないと云えよう。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[746] 接続の

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月19日(日)12時19分35秒   通報   返信・引用

日寛教学の真髄とするところが
非二元という言葉以前の体感であったとして

表現し教え伝える時にあっては
同時代現象を借りて
思考概念で上書きして残すことになる。

そのものは言語化できないし
説明のための言語は
受け手によって修正された意味に
転換されてしまうので
手法としてはそうなるのだ。

表現としては同時代現象を
借りるのであるから
そこに類似性や包摂はあり
「非二元の体感のため」という
「接続」の意識を見ずに言葉を追えば
「盗用である」という思考概念にも流れる。

さらには同時代現象の中で
他宗からの批判もあり
自宗をただ護るだけの
体系化した教義の形で表現されたことは

その教義を考える時にあって
反転した愚考の上書きに陥りやすいことの
要因になっていることもある。

日寛教学において非二元への接続は
人法一箇の御本尊への信を始まりとするが

このことの責任の中心者としての
使命の自覚を見るならば
その清流の流れの主張は尊べるものであるが

嫉妬心などから愚考が上書きされ
法主信仰・宗門組織信仰・本山聖地信仰

(会長信仰・創価組織信仰・信濃町聖地信仰)
(この類似が同時代現象でもある)

というものに転換されたならば
もはやその本質は絶たれてしまう。

本門の方が迹門より勝れていることと
佐渡での発迹顕本を考えると

日蓮大聖人の佐渡以後での違いは
御本尊を定めるかどうかであり

多宗派の多くでは
本迹一致と見て釈迦本仏を立て
御本尊を軽んじている。

どの御本尊に功徳があるかということは別にしても
御本尊を軽んじる信心では
接続による大きな力の発揮は期待しにくい。

一心に御本尊を見る
心を一にして御本尊を見る
一心を見れば御本尊である。

サイヤさんにとって大きな壁となるのは

おそらくほとんどの学会員にとって
真僧俗和合については
議論のテーブルにさえつくことはしない。

日顕宗を切るのは
五重の相対を外しても学ぶ
創価学会の基礎として教え込まれている。

民衆生命or法主血脈or学会組織。

同じ御本尊を尊ぶようであっても
どこに帰着するのかの違いがある。

法主血脈の復活という事を目指すのならば
一人で日蓮正宗に行く勇気が無い事を
自己正当化して
お門違いな文句を言っているだけとの
責めや一蹴されることを
いかに説いて納得させるかである。

そこを曖昧にして論議しても
本当の納得やそのための連帯は生まれない。

私の場合は民衆生命の
非二元への帰着
その起こりの関係性の
縁に随って
それであることがあるだけ。

何もいらない妙法の光そのものへ
向かっている今があるだけ。

何者にとっても敵でも味方でもない
智慧そのものへの志向性。

自分があるのではなくそれである。

とか言いつつ
やっぱり凡夫ですけどね。

再掲<斧節【onobushi】>佐前佐後と日蓮の悟りに関する疑問
http://onobushi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8511.html

<宿坊の掲示板>
大白法を穏没させる訳にはいきません  投稿者:一人のSGI 代理投稿  投稿日:2017年 3月12日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66044

一人のSGI様  投稿者:スーパー摧邪人  投稿日:2017年 3月13日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66076

スーパー摧邪人様  投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 3月13日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66089

再掲させていただきました。  投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 3月19日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66283

<アルベアのブログ>
「私は在るという感覚―マハラジとの対話―」カスタマーレビューより
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12257670872.html
~~『もし彼が真我を見出すためにするならば、何であれ彼のすることは間違いなく彼自身へと導くだろう。
 本物の動機、それが重要であって、やり方ではない。
 真剣さ、それが唯一の成功の条件だ』~~



[745] 己心の寿量品の久遠教主釈尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月18日(土)14時25分45秒   通報   返信・引用

日蓮大聖人が
久遠教主釈尊というなら久遠教主釈尊
それ自体がそれの存在自体でありそれが日蓮である
という非二元

それに対する日寛上人の
気づきという非二元。

その同じ非二元から
使命を自覚し受け取った戸田先生。

そういう次元は

言葉の上の思考概念の
史実がどうだ
本当の教えはどうだ
誰それの何がどうだ

そういったこととは
根本的に異なる

体感の了解・覚知・気づき
全体の存在そのもの

同時代現象のその
生命である。



[744] 本仏の違い

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月17日(金)13時29分28秒   通報   返信・引用

釈迦本仏で考える場合

王家の出身という高貴な身分と
種々の修行の末悟りを開き
完全な徳や相を備えた煌びやかな存在

仏をそういう前提で考えるのなら
生まれ変わって転生して仏になる
という話の方が「なるほど」となる。

法華経の文上がそうなっているのは
至極当然である。

日蓮大聖人はそういう見方をしない。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
であり

自身を「今生には貧窮下賎の者と生れ
旃陀羅(せんだら)が家より出たり」
また「糞嚢(ふんのう)に金をつつめるなるべし」
とまで譬えられている。

日蓮本仏と見る場合には
今の外見上や立場やその身自体が
どんなに汚らわしいもののようであっても
その内に黄金の精神を宿すことができる
という生き方を見ることになる。

また日蓮仏法は無始無終であり
何かをしたら何処かで始まるものでは無く
解り開けば気づく事である。

イマジネーションの世界が糞嚢であり
言葉以前の生命現象が金である。

何の言葉にも縛られていない生命現象自体は
すでに個という存在ではない。

一生成仏とは一生のうちに成仏するというよりかは
仏の活動が開かれているから一生があるのでもある。

ただその真実に気づけない。
だから心を磨いてその真実を映せる鏡を磨く。

その一心に仏を見ようとする心が
その一心を見れば仏でもあるのである。

一切の現象は一念三千
妙法蓮華経の現れである。

何かこれに漏れるものがあるであろうか。

凡夫だけは「仏とは生命」の活動の外にあるのだろうか。

自分は何か特別なことをしていると
思い込んでしまうのが常ではあるが
そんな特別な自分という思い込みさえも
自分だけでその自分によって作り出したものはない。

「生かされている」という一点において
あらゆる違いはそこには存在しない。

しかるにそれは
差異を認め、その相手の価値を認めるという事でもある。

だからといって何でもかんでも
「すごいね」「そのままでいいよ」
ってなわけでもない。

だけどもそのまま
起こっていることを起こっているままに
受け入れる。

解る解らないが、その努力が必要ないことは無いが
言葉によって言葉以後にあるものは糞嚢であり
それ以前の生命活動の金にある
体感体験をしていくことだ。

どんなに精巧な世界地図を描いたとしても
それで世界旅行の経験をしたことにはならない。

今ここにある世界の中での経験がそのまま
一生成仏なのだ。

そのそれ自体を完全に開ききったならば
本仏というなら本仏
妙法蓮華経というなら妙法蓮華経
無作三身というなら無作三身
それ自体がそれの存在自体でありそれが私である
という非二元になる。

「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」
<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧239
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8112

という読み替えは端的にそれである。

一心欲見仏は妙法蓮華経にも配される。

<創価教学研究室(赤鬼のブログ)>
義浄房御書(己心仏界抄) 第三章 寿量の文に己心の仏界を顕す
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51470.html
「日蓮云く一とは妙なり心とは法なり 欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、 此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」

あなたはあなた自身の行動が分かっているか?

問いなさい。
「後ろの正面だ~ぁれ??」



[743] 対岸

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月15日(水)13時15分49秒   通報   返信・引用

<気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆>
自身の信仰を築く旅。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/15/050000

に批評があります。

~~~~~
創価学会の内部で、現今の教団に疑問を持ち、その原因を「創価学会が邪教化した」とか「教団が池田名誉会長の心を忘れた」とか、情緒論で立て直しを図ろうとする方々もいます。
私から言わせればそれは違うと思います。
~~~~~

アルベア論的に言えば
それは互いに正反の関係にある。

サイヤさんは言われるまでもなく
創価学会の日蓮正宗への復活までを
視野に入れて模索しているので

気楽に語ろう著者が
そういう信心ならこうすればいい
と言っていることを
もっと大きな形でしようとしている。

その岸から言っていることも
この岸から言っていることも
言葉尻をとらえれば真逆とも見えるし
本質の現象としては同じとも言える。

ここに分断があると見るのは
三界の見方であり

如来の側から見れば
その全体がただある。

これとこれが繋ぎ合わさるなど
ありえないと思うようなことまでをも
その常識を破り繰り返しつなぎ合わせる。

批判と包摂。三変土田。
文字曼荼羅の御本尊。
生命現象の俯瞰。

その全てを一念に
事の一念三千。



[742] 岸辺に友と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月15日(水)11時24分25秒   通報   返信・引用   編集済

日蓮本仏論を考えるにあたって
「日蓮本仏論」と「一生成仏論」の
多段階性、多階層性について考えなければ
「これに従え」という一方的なものになって
終わるのではないかという懸念がある。

日蓮本仏を信じることが唯一の一生成仏の方途だと言うなら
一生成仏をすれば「何仏」になるのか明確に示せなければ
むしろ日蓮本仏論では一生成仏できないという事になりかねない。

本仏?迹仏?十方諸仏?過去仏?未来仏?

「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

戸田先生の「仏とは生命」
「我、地涌の菩薩なり」という悟達は展開すると

「経文の文底とは悉く、他の事ではない今ここにある『生命』の事なんだ」
「この文底の真実を伝え行くことが、他の誰でもない戸田の遣わされた使命なんだ」

ということであると思う。

日蓮大聖人の仏法は釈迦一代の説法よりはるかに優れている
→とはいえ、それの指し示しているのはあなた自身の生命の事なんだ。

矢印から後を消してしまえば
ただの権威である。

史実・真蹟のみを追うのでは
そもそも釈迦滅後の後世に作られた
法華経の信仰が成り立たない。

後世の弟子によって
本物が本物であったことが
生命の真実として証明されていく
それ自体が仏法であるとも言える。

虚妄であるのか方便であるのか
より生命の真実に迫ったものなのか

その方向性が正しく法華経の文底
「法華経の智慧」に通じているのか。

実践の中で経験し獲得して
開いていくものであろう。

<かんながら>ダイヤモンドスートラ 釈尊曰く
http://abetoshiro.ti-da.net/e9415517.html

<アルベアのブログに紹介されたYOUTUBE動画>
「タバコ売りから覚者へ」ニサルガダッタ・マハラジを語るエックハルト
https://www.youtube.com/watch?v=_2YqqWwg2NM

仏法は「川を渡る経験」でもある。

「あの人は川を渡った人だ」
なんてことはどうでもいい。

自分が川を渡るかどうかである。

「法華経の智慧」によって
渡ってみるしかないのだ。

その時に「同じ」だということ
「いない」ということが
了解できる。



[741] 柔らかく風

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月13日(月)13時44分36秒   通報   返信・引用

~~~~~
空には 鳥の飛ぶ道がある 海にも 魚の通る道がある
目には見えないが 重力の波は 大宇宙を貫いている
生命それ自体にも 目に見えず しかも厳然と実在する法則があるのだ
諸君が進む大道は たとえ誰人が見ずとも
未曾有の栄光の花道であることを 僕は確信したい
君たちよ 大木となれ 力と福運の葉を茂らせよ
勝利の花を爛漫と咲かせ 実を結べ
僕は 根っこになる 根は見えない 見えなくてもよいのだ
~~~~~
長編詩 「大いなる希望」より
http://sokanomori.exblog.jp/14906157/

師弟不二を大地とすれば
たとえ一時枝葉が刈り取られようとも
もう一度、さらに立派な大樹と育てばよいのだ。

悪しき生命にある時は
その大地を変革することなく
枝葉を整えようとしても
本質が変わることはない。

苦しみの繰り返しの歴史に
終止符を打つには
根っこの変革をしなければならないのだ。

<ノンデュアリティセッション ジュンコセレンディー>
いよいよ「苦しみ」の終焉に向かって・・・ 【No.38】
https://www.youtube.com/watch?v=s-8ReekZ8kI

若かりし頃
理想と現実のギャップにもがき

二乗根性だと責められ
独自の罰論的な抑圧による活動の強制の
しだいに仏壇を開くこともせず
池田先生の指導にも独自の解釈で一本調子に曲げる
そんな深夜までの毎日拠点の中

「これは何だろう?」と不思議に思った
JUDY AND MARY の歌詞群。

「扉を開けて時々なら逃げるのもいいわ」
「ハードルは低くしておくものよ覚えててね」

JUDY AND MARY 【Hello! Orange Sunshine】のベースを弾いてみた!
https://www.youtube.com/watch?v=MDi-zTnxRRo
JUDY AND MARYのmottoをベースで弾いてみた
https://www.youtube.com/watch?v=Ue9jA8h68ig

戦いの精神には合わないようだけれども
だからと言ってそれは責められるものだろうか?

「そんな風に求めてばっかりじゃ魂も枯れちゃうわ
難しい言葉ばっかりじゃあの子とも仲良くなれないの」

JUDY AND MARY 【散歩道】のベースを弾いてみた!
https://www.youtube.com/watch?v=S2Y3EKGZlp4

「頭柔らかくしよう」
「何よりも大切な事 手をつなごう 柔らかい風が吹く」
「夕暮れにも早く気づく」

一念三千の俯瞰。

その上の・・・救済。

南無妙法蓮華経



[740] 化法の定義

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月11日(土)12時49分14秒   通報   返信・引用   編集済

仏教哲学大辞典 第三版によると

けほう【化法】 仏が衆生を教化するために説いた教
法のこと。化儀に対する語。天台大師は釈尊釈尊一代五十
年の説法を、その内容から化法の四教として蔵教・通
教・別教・円教の四つに分けている。〔御書〕 釈迦
一代五時継図(六四三㌻)

とある。

<創価教学研究室(赤鬼のブログ)>釈迦一代五時継図
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52398.html

~~~~~
 仏が自ら四十余年の方便権経を破折されていることは、次の経文に明らかである。無量義経説法品第二に「私は前に道場の菩提樹下に威儀を整え座して六年を経て、無上の正しく平等な悟りを成就することを得た。仏の眼をもって一切の諸法を観るに宣べ説くべからず。理由は何か、諸の衆生の性質や欲情が同じでないことを知ったからである。性質や欲情が同じでないので種々に法を説いた。種々に法を説くことは巧みな手段の力をもってなしたのであって、四十余年の間はまだ真実を説き顕していない」とある。また「文の言葉は一つであるけれども、意味はおのおの各異なっている」とある。
 伝教大師の無量義経の注釈に「衆生の性質や欲情が同じでないので種々に法を説くとは、衆生の機根にかなった教えを挙げるのである。 釈尊一代の四十余年間に説いた教えを略して、蔵・通・別・円の化法の四教およびそれらに頓・漸・秘密・不定の化儀の四教を加えて八教がある。いわゆる菩提樹下で華厳教、鹿野苑で阿含、大宝坊の中で方等経、霊鷲山などで般若経、そして一乗法を説き演べ、また大乗・小乗の菩薩の長い劫を経る修行、小乗の三蔵教、大乗の通教、大乗の別教、大乗の円教、また頓教・漸教・不定教・秘密教というように、爾前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の方便権教はおのおの同じではない。この故に種々の説法とすると名付ける」とある。また「衆生の機根に随って説かれる五種の性分などなど三界六道の門の外に出るための方便、三乗の教えに差別のある権教、権を帯びた一乗法を説いて、いまだ自らの悟りに随って説かれる一仏乗など、火宅から逃れた露地の真実の安穏、平等に説かれる即身成仏の道、権教を捨てる一乗法を説き顕していない。この故に『説くこと方便力をもってす。四十余年間にはいまだ真実を顕さない』というのである」とある。
 無量義経十功徳品第三に「もし衆生がこの経を聞くことができれば、これは偉い大な利益である。理由は何か。もしよく修行すれば、必ず速く無上の悟りを得ることができるからである。衆生の中で聞くことができない者は、まさにこれらは偉大な利益を失うのであるとしりなさい。無量無辺不可思議阿僧祇という長遠な劫を過ぎたとしても、ついにぐ無上の悟りを得ることができない。理由は何か。悟りの大道を知らない故に険しい道を行くときに障害が多い故である」とある。
 注無量義経に「遠く無上の悟りを得ることができないとは、いまだ即身成仏の道である一乗の海路を解していないということである。いまだ純粋円満な六種の修行の頑丈な船に乗っていないからである。いまだ真実の相と巧みな手段という順風を得ていないからである。この故に声聞・縁覚・菩薩の三乗が横道に逸れて進んでおり、険しくて歩行するには障害が多い所であり、労苦や誤った想念と実在しない夢の中の大河である。この故に無量義経十功徳品に、速く無上の悟りを得ることができないと説いているのであえる」とある。
 法華秀句巻下に「法華経を讃めているけれども、かえって法華経の心を殺している」とある。無量義経説法品第二に「次に方等部の十二部経・摩訶般若波羅蜜経・華厳経を説いて、菩薩の長遠な劫を経る修行を宣べ説いたけれども」とある。
 伝教大師は法華秀句巻下に「謹しんで無量義経の文を思索するに、方等部の十二部経とは法相宗の依りどころとする経である。摩訶般若波羅蜜経とは三論宗の依りどころとする経である。華厳経とは華厳宗の依りどころとする経である。これらは長遠な劫を経る修行を説いているけれども、いまだ偉大な即身成仏の道を知らないのである」とある。

   ┌説処は霊山虚空の二処三会・実報土の説
   ├実大乗
   ├八箇年の説
   ├又開会の妙典とも純円一実の説とも一円機の説とも云う                  ・
法華経┼醍醐味
   ├円教
   ├頓・不定と秘密無し
   ├結経は普賢経
   └仏立宗──法華宗──天台宗

       ┌一に霊山会序品より法師品に至る十品
二処三会の儀式┼二に虚空会 宝塔品より神力品に至る十一品
       └三に霊山会 嘱累品より勧発品に至る七品

     ┌序品より十四品は迹門なり 開権顕実と名く
本迹の両門┴涌出品より十四品は本門なり 開近顕遠と名く

 この法華経は第五時の教である。無量義経を開経とし、観普賢菩薩行法経を結経とする。化儀は漸教を開して頓教に帰すこと。また三乗を会して一乗に帰すことであり、化法は純一の円教である。般若経を説いた後、沙羅双樹で涅槃経を説き入滅する前、ひたすら純一の円教の機根に対して真実の教えを説くのである。日光が普く照らすときは、時刻を測る日時計の影は縮まないし、伸びないようなものである。頭を低くし手を挙げるという軽い敬礼もすべて仏道を成就する。あなたは実に我が子であり、私は実にあなたの父である。ただ仏が滅度するのは滅後の衆生に渇仰の心を起こさせるためである。
 この第五時の教は白昼であって華厳・阿含・方等・般若の是四時ではない。これは醍醐味であって乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味ではない。これは定教であって不定教ではない。これは顕露教であって秘密教ではない。声聞・縁覚・菩薩の三乗、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七方便、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九法界を開会して一仏乗に入らせる。故に、法華経迹門では声聞・縁覚の二乗は初住の位に入って無生無滅の悟りを得て、成仏の記別を受けた。八歳の竜女は男子と変じて即身に無垢世界の成道を唱えた。法華経本門では現在および未来の二世の弟子は仏道の智慧を増し生死の苦しみを少なくする利益を得た。
~~~~~

<宿坊の掲示板>
【人の言葉と一念三千】7/26  投稿者:大仏のグリグリのとこ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65961

~~~~~
仏法では、生命の本質を「一念」と説いています。

この一念とは、

唯心論的な「こころ」とか、唯識論的な「意識」といったものではありません。

むしろこの「こころ」とか「意識」は、生命の本質からいえば、
ほんの一部に過ぎず、当然、こころと意識も一念に含まれます。

仏法でいう一念とは、

生命の「実感・形態・性分・法則性・力用・所作(行動)・因果・環境」などの全体を包含し、
しかもそれらを内より統一している生命そのものの実在(不変の実体)を〝一念〟といっているのです。

この一念の変革を完璧に説いているのが日蓮仏法の「事の一念三千」です。

また、一念がどう展開されていくかは〝三千〟という体系でとらえることができます。
この〝三千の体系〟の基礎になっているのが「十界・十界互具・十如是・三世間」なのです。

つまり、三千という展開なくして、一念の実在はなく、
三千のあらゆる相もバラバラにあるのではなく、一つの実在のなかに融和している。

これが一念三千の法門です。
~~~~~

化法とは
どんな現象にも対応するシンプルでダイレクトな法とか
現状に対して一つステージアップするための法とか
いつもとは別の角度から活路を見出すための法とか
習い深めるための道筋を事細かに表した法とか
その区別の教判。

化儀とは
誘引の手段を使わず悟りの内容をそのまま説く手段とか
低いところから高い所へ徐々に誘引していく手段とか
相手にはそれと気づかれずに包摂させていく手段とか
意味は分からずとも印やマントラや曼荼羅とかで誘引する手段とか
その区別の教判。


だから私が考えるにはむしろ
「仏とは生命」としての事の一念三千が化法で

行学の形式、また、特に信仰に勧誘している時に限らず
誰かと何かと関わっている時の対応。
「その姿がそのまま折伏になっているんです」と
言われるような、24時間 365日の振る舞い。
そこに化儀がある。

もちろん、その拠り所として
「末法の御本仏日蓮大聖人」の
一大秘法、三大秘法、六大秘法という化法

それのための広宣流布の活動
という化儀があって初めて

三代の会長が貫いた創価学会であると思う。



[739] 民衆の仏法のために

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月10日(金)11時25分16秒   通報   返信・引用

広宣流布への決定した思い無くして
学会活動の歓喜は語れない。

その思いを削ぐことは、だから
広宣流布の団体としての衰退に向かう。

あるいは広宣流布の前提を崩すことは
その組織の崩落を意味する。

冗談抜きな話で創価の中で
谷川佳樹が偉くなるほどに
女子部の活動家は激減し
広宣流布の組織としての体裁は崩落している。

<宿坊の掲示板>その名は、タ・ニ・ガ・ワ!!  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/58952
~~「俺は、将来、会長になる男だ。その為の布石は全部、打ってあるんだ。」
「先生、先生って、言ってればいいんだ。周りはバカなやつばかりだ。簡単だ、すぐに上に上がれる。」
「信心している女は、だましやすいんだ、先生、先生、といっていれば、簡単に信用してくれる。」~~

<宿坊の掲示板>谷川さん、女子部は今も「扶養家族」なんですか?  投稿者:小作人@地上の発心
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54795
~~「女子部? いますけど女子部は広宣流布の扶養家族ですから~」~~

<よくわかる創価学会>大御本尊決別問題の経緯 2016.2.23
http://www.soka-news.jp/endo-1.html

<気楽に語ろう☆>教学の破綻と次期会長のこと。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/02/060856
~~とりわけ谷川主任副会長は教学の問題について楽観的に考えていますよね。
でも言わせてもらえば、彼には教学の重要性がさして理解できていないってことなんじゃないですかね。~~

<気楽に語ろう☆>見えない敵と闘う創価学会
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/11/25/054440
~~注目したいのは谷川氏が「外の敵と闘わないから内部に乱れが生じる」と考えているところです。~~

そんな谷川氏が次期会長候補にまでなれるだけの
狂いというものが、それはずっと学会本部には
内在していた。

恐るべし恐るべし。

一方の世間に目をやると
花畑牧場の田中義剛が言ってたのは
タレントなんて飲まなきゃやってられない。
そういう人種による
人を小ばかにする内容の薄い
娯楽番組に席巻されていたりする。

内を見ても外を見ても
これでは真面目に信心をしてきた者は
路頭に迷ってしまう。

さて、仏について戸田先生には両輪とも言うべき
ダブルスタンダードがあったんではないかと思う。

つまり「仏とは生命」と
「末法の御本仏日蓮大聖人」です。

現象を伴った歓喜と畏怖の峻厳な世界。

本来の創価学会が掲げた
「末法の御本仏日蓮大聖人」は
サイヤさんのおっしゃる通りなんだと思います。

<4.日寛教学にみる三大秘法義の理論的開示の諸相>
http://sokaspirit.com/content-ja/pdfs/chapter04_jp.pdf

この論の大前提となるのが
本因妙の教主釈尊=久遠元初自受用身=日蓮
なんですが

「仏とは生命」から見返すと
あくまでも日寛教学の個別的な志向性ではないかと思います。

とはいえ何の志向性もなく「仏とは生命」と言うと
川を渡りたい人に対して「これは川です」と
言うばかりで川を渡る方法を与えないようなものです。

日寛教学は必要なんだけれども

じゃあハナから御書の「教主釈尊」の部分を全部
「日蓮大聖人」と置き換えて「これでよし」と
思考停止することが果たして

永劫に川を渡し続ける力強さであるのか?

その力強さの本質を考えるにあたって
日蓮大聖人は何を悟ったのかに
肉薄する必要があるのではないかと思う。

「恐れ多い」「従っていればいい」
というのでは、権威に対する服従であり
民衆の仏法と呼べるものでは無いと思う。

<斧節【onobushi】>真蹟主義について考える
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100123/p3

<斧節【onobushi】>佐前佐後と日蓮の悟りに関する疑問
http://onobushi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8511.html

<気楽に語ろう☆>他宗批判と諸教包摂ということ。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/21/060226

思考概念の上では
論を緻密にすれば緻密にするほど
迷宮のようでもあります。

であるならばむしろ
「こう習ったんだからこうなんだ」と
頑として動じないことの方が
前進に支障がない。

その場合のそれは
その論によって前進するのか
その魂によって前進するのか
両方が見事にマッチして前進するのかです。

論だけに固執した時
かえって失うものが無いかどうか?

本当の論の価値に気づけているか?

悩ましくも有難いと
私は思います。



[738] 試論 日蓮仏法とは

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月 9日(木)08時48分21秒   通報   返信・引用

                                                                 -
私ごときが論じるのもおこがましい気もしますが、考えの一端を述べてみたいと思います。日蓮仏法の基本として、日蓮大聖人は久遠元初自受用身如来であることが挙げられると思います。大聖人の直弟子であった六老僧の内、日興上人以外の五老僧はここから誤りました。日興門流でも日尊門流と北山門流は釈迦本仏説を採ります。ここを外した流れは日蓮仏法とは云えないと考えます。

ここを踏まえた流れの主なものとして旧富士門流があります。云うまでもなく日蓮正宗のことです。第二祖日興上人は僧宝としても崇められ、大聖人の正法を過たず法水寫瓶されました。その後紆余曲折はあったにしても、七百年の長きにわたり日蓮仏法を継承してきたのは、富士大石寺であることは間違いありません。

大御本尊は大聖人から日興上人、さらには日目上人とその後歴代の法主へと受け継がれ、富士の裾野に厳然と恪護されてきました。日蓮仏法のもう一つの基本として、大聖人の出世の本懐である大御本尊は、大聖人と人法一箇の久遠元初自受用報身如来であらせられ、一閻浮提の一切衆生を救済する一大秘法であるということです。

ここまでは日蓮仏法の化法(教義)に関する内容です。化儀は時代の状況等により変化を余儀なくされる場合もありましょうが、化法は改変されることがあってはなりません。時代や周囲の状況によって、化法が変わることなどあり得ないのです。万が一変わるとしたら、それは既に日蓮仏法ではありません。

次に化儀について見れば、日蓮仏法の信徒は大聖人の御遺命である一閻浮提広宣流布を自らの使命とし、自行化他に亘る修行にいそしみます。いわゆる唱題行と折伏行です。その修行の過程において宿命転換を成し遂げ、一生成仏を目指して励んでいきます。これが日蓮仏法を奉ずる弟子・檀那の歩むべき道であることは、疑問の余地はないでしょう。

牧口先生・戸田先生は上記の日蓮仏法の基本を認識され、宗教の正邪善悪・高低浅深を見極められた上で、日蓮正宗の外護団体として創価学会を創立されました。やはりその後、多くの紆余曲折を経て、宗門は腐敗堕落し創価は破門となった訳ですが、創価学会創立の際の日蓮仏法の基本は微塵も変わりないはずです。

私は創価の家に生まれ創価の庭で育まれました。創価から日蓮仏法の正しさ偉大さを教わり、それを信じて生きてきました。しかしながら上記のような認識に立たちますと、大御本尊を受持の対象としないとして、化法の改変を行った現在の創価は、邪教化しつつあるという結論に達せざるを得ません。

創価にも宗門にも日蓮仏法が無いとしたら、それはいったい何処にあるというのでしょう。それは大聖人の仏法を正しく認識し修行する人の、胸中の肉団にこそあると云うべきでしょう。その人たちが集まり正しく日蓮仏法を弘め、後世に残していかなければなりません。大白法を穏没させる訳にはいきません。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。この一文を読んだ方で、私の認識に誤りがあれば是非とも教えていただきたく、伏してお願い申し上げる次第です。自身で自身の認識の誤りに気付くことは至難です。客観的な目で見て過誤がありましたら、遠慮なくご指摘をお願いいたします。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[737] 臆すればすれば自滅

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月 8日(水)04時30分46秒   通報   返信・引用

臆すれば自滅なんだってことを
時々私は言うのだが

これは私が勝手に言っている事ではない。

2年前、学会活動に復帰する際
経机の上に置いてあった

「よし、この通りにやるんだ」
と思った切り抜きに書いてあった言葉だ。

見直してみると正確には
戸田先生は叫ばれた。「恐れれば、自滅するだけだ。敢然と突き進むのだ!」
です。

しかし、よくもまぁ
たいした真実も知らず
今にして思えば意味も分かっていなかったのに
こんなピンポイントの指導を取っておいたものだ。

ピンポイントすぎて
長らく何時の何の会合の指導なのかも
分からなかった。

~~~~~
 ──最も功績があり、最も師匠に仕えた池田先生が、どうして辞めなければいけないのか。先生は、何一つ悪いことはしていないじゃないか。幹部はなぜ、先生を護らないのか──
 こうした悲しみと怒りの声が、電話で、手紙で、無数に寄せられ。その数は、直後のものだけでも、およそ8200から8300になる。
 この真の同志の心を、私は生涯、忘れることはない。そして、どのような立場になろうとも、私は永遠に、尊き同志を護り、学会を護り抜いていこうと、深く心に誓ったのである。
 私はあえて、真実の歴史を語り残しておきたい。これからの学会のため、広宣流布のため、誤りなく正義の道を進みゆくために、本当のことを語っておきたいのである。
 牧口先生は、「忘恩者」「不知恩者」を諸天善神が「加護し給う訳がない」と厳しく断じられた。
 その通りに、悪逆の輩は厳たる仏罰を受けている。皆様がよくご存じの通りだ。
 将来にわたって、若き諸君は、悪い人間に騙されてはならない。表では、いい格好をしながら、裏で策を弄する卑劣な人間もいる。正義の人が滅び去るのを、密かに待っている者さえいる。
 人ではない。自分が「真の弟子」の自覚に立つのだ。深き信心を奮い起こし、「仏眼」「法眼」をもって正邪を見抜くのだ。
 戸田先生は叫ばれた。「恐れれば、自滅するだけだ。敢然と突き進むのだ!」
 私はこの言葉通り、師に誓った道を、今日まで、敢然と突き進んできた。
 今、広宣流布の永遠の未来を考える時、何より大事なことは、若い世代の人たちを「真の後継者」へと育て上げることである。
 若き諸君は、人を頼らず、だらしない先輩など乗り越えて、断固、突き進むのだ。下から上へ、どんどん建設的な意見を述べるべきである。
 先輩も、これまで以上に、皆を大事にし、皆と一緒に、手を携え、肩を組みながら、進んでいくことだ。
 同志愛が光るリーダーであっていただきたい。話をする時も、さわやかな笑顔、皆がほっとするような声で、希望と勇気を贈っていただきたい。
 見栄っ張りではいけない。とくに男性は「王者の風格」をもたねばならない。
 ともあれ、正義の師弟を守ることが、広宣流布を守ることになる。学会の全同志を守ることになる。私は、そう心に刻んで生きてきた。
 一緒に進もう!
 一緒に戦おう!
 私は皆さんとともに、いよいよ総仕上げの戦いをするつもりである。
 年配の幹部も、パーツと花火があがるように、勢いよく、生き生きと生きるのだ。
 頑張ろう! 偉大なる学会を、ともどもに築いていこう!〈力強く「ハイ!」と返事が〉
~~~~~

2008-11 【代表幹部協議会】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=11678

の一部のようです。

こうして見返してみると
宿坊の掲示板に辿り着いたのも
故あってのことだったんだなと思う。



[736] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月 4日(土)04時19分31秒   通報   返信・引用

身なりさんお久しぶりです。
安心感いい感じですね。

転換期です。
転換していってます。
楽しみましょう。


サイヤさん本当にお久しぶりです。

深い深い祈りの末の
石原さとみなんだと思います。

道なき道を祈り開き
若い世代が立ち上がっての
新しい大きなうねりの中での
中途半端ではない完全改革。

そして石原さとみ会長となれば
少なからず起こるであろうバッシング。

その難に磨かれての蘇生。

本来、創価が真っ当であれば
取る必要のない手立てかもしれませんが

それほどまでに
創価の上層が狂ってしまっている。

若者の信心離れ
難を起こし乗り越える信心の衰退

そういう問題点へも切り込む
希望の未来の選択肢の案だと思います。

女性会長を考えるにあたって
女性の意見も聞いてみたいところですね。

文字に書いて発信したということは
実現へ一歩前進したということだと思います。

冬は必ず春となる。
祈っていきましょう。



[735] ã??ã?¤ã?¤ã??ã?“ã?©ã?†ã??ã?§ã?™(^^)

投稿者: 清æ?”ã?ªèº?ã?ªã?Š 投稿日:2017年 3月 3日(金)19時33分8秒   通報   返信・引用

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[734] サイヤさんどうもです(^^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 3月 3日(金)17時44分32秒   通報   返信・引用

私も今更やめれない、いろんな意味でそんな心境です。

蘇生さん、お久しぶりです。
週に2回は投稿読ませてもらってます。

お題目根本でやってます、瞑想ではないですが頭を空にするにはお題目が一番ですね、上げたいときに上げたいだけ(^^)

石原さとみの会長は嬉しい限りです、
でも大丈夫な気がします、創価は生まれ変わる寸前の様な感じがしますね

創価と言うか日本が転換期に来てるのかもです。

じっとお題目を上げてれば心配ないといった安心感をおぼえている今日この頃です。

ではまた



[733] (無題)

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月 3日(金)13時26分32秒   通報   返信・引用

久々に投稿します。

最初に云っておきますが、A氏の論は日蓮仏法ではありません。

私の修行は日蓮大聖人の仏法に基づいて、邪教化へ舵を切った創価を元に戻すためのものです。それが私の「いまさら やめては だめなのだ」です。

日々唱題しながら思索を続けています。そんな中でとんでもない着想が浮かびました。創価学会第七代会長は、“石原さとみ”になってもらうのが良かろうというもの。皆が知るあの女優の“石原さとみ”です。創価高校の第35期卒業生です。

彼女に創価の会長が務まるのか。彼女にその意思があるのか。どうすれば彼女を会長にできるのか。これらの質問に対する回答は一つも持っていません。ただ彼女が高校の後輩にあたるだけで、面識があるわけでもなく、根拠も方策もまったく持ち合わせません。

しかしながら、これくらいのことでもしなければ、創価学会発迹顕本は成し遂げられないのではないかという気がします。驚天動地の出来事が必要という気がします。会長・理事長・副会長をすべて罷免し、まったく新たな体制を作り上げるのです。

私の妄想と云われれば返す言葉もありません。「そんなことがお前にできるのか」と問われれば、とてもではないですが、力不足、役不足であることはいうまでもありません。そもそも創価学会発迹顕本は私には荷が重すぎます。

それでも成し遂げなければならないという意志は持ち続けています。創価の邪教化は私には許されざる状況と映っています。そんなに創価が好きかと問われれば、そんなことは無いと答えますが、創価に恩があることだけは間違いありません。

「創価は邪教化などしていない。それこそお前の妄想だ。」そう云われる方が大部分であることも承知しています。しかし残念ながら私の考えを論理的に否定出来た方はいません。それ故に出来もしないと思われることを考え続けています。

題目をあげて切り開かれない道は無い。大御本尊を信じ続けるが故にこのように断言します。私が今行く道は先がまったく見通せませんが、私の後に道が出来れば良いのであって、高村光太郎になったつもりで歩き続けてみましょう。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[732] [小説『新・人間革命』「大山」の章]がおかしい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月 3日(金)04時26分23秒   通報   返信・引用

私はここで
私の「いまさらやめてはだめなのだ」
をしている。

スーパー摧邪人さんの作ったこの掲示板は
大御本尊に懸けた熱烈たる魂の研鑽。

あるいは創価の正常化のための
女性会長の必要性。

あるいは宗教としての存続のための
真僧俗和合への模索。

そういう所から始まっている。

私が私の論やアルベア論を持ち込んだことで
掲示板の流れとしては
現在のような形になっているが

私は感謝しているし敬愛している。

この掲示板が出来る少し前、昨年の新年の
宿坊の掲示板での私の挨拶
http://6027.teacup.com/situation/bbs/36103

一番最近の宿坊の掲示板での私の投稿
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65324

随筆 新・人間革命 022 「『5・3』と創価の精神」
http://senkuou.g.hatena.ne.jp/senkuou/19980429/p1

私には呼び起こしたい思いがある。

呼び呼ばれ目覚めを。

私のブログの方で
一番アクセスのある記事は
「ルカ」
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/9949051.html
である。

この掲示板でも書いた内容を
たしかタイトルを変えてアップしたものだ。

「ルカ」は記事内に紹介している
スザンヌ・ヴェガの動画の曲名だ。

スザンヌ・ヴェガと言えば
宿坊の掲示板で
南無妙法蓮華経って言ってる歌が
あったという話があって
探したことがある。

それが聴けども聴けども見つからず
だんだんどれも題目を唱えるように
歌っているように聞こえてくる。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/46811

感謝と歓喜の飛翔。

皆で勝とう。

http://sgi-shiteifuni.com/?p=12596



[731] 方便現涅槃

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月28日(火)04時21分21秒   通報   返信・引用   編集済

仏法において
究極的に目指すところの境智の
涅槃さえも方便。

意識の使い方なんですよ。

意識を使っていない人はいないんだけれども
非二元であることを技化する無上道。

意識の使い方の獲得のために
その時にマッチしたものが
後から見れば仮のものであったり
史実とは異なることがあった場合でも

それが正しい意識の使い方につながった
方法として成立していたのなら

それは方便であって虚妄ではない。

「梅干をほおばる」
「レモンを丸かじりする」
その想像をすれば唾液が分泌される。

意識と身体機能は連動しています。

アルベアのブログに紹介された
トーベン・ソンダーガードの動画ですが
字幕の設定に日本語があるものはいいけど
自動翻訳だとしんどいね。

The Last Reformation - The Beginning (2016) - FULL MOVIE
https://www.youtube.com/watch?v=zka4DUYeJ5g

これは日本語設定にできるし
レッスンの語りではなく
見やすく編集されている。

バプテスマ
これは洗礼と言った方が馴染みがあるかもしれない。

トーベン・ソンダーガード氏は必要な三つに
水のバプテスマ
聖霊のバプテスマ
異言
を挙げているが

キリスト教各派
または個々人によって
捉え方は種々あるようだ。

https://www.jw.org/ja/聖書の教え/質問/バプテスマとは/
https://www.youtube.com/watch?v=DmERMobXElA
https://www.youtube.com/watch?v=6OPNsfyVZCI

何が意味として教えとして正しいかではなく
意識の使い方として救済の現象化を
もたらす技が何に結び付いているかの
日蓮仏法とのリンクという面を見る。

意味の分からない言葉としての異言を
仏法では禁止していない。

般若心経や法華経の陀羅尼品などもそうだし
南無妙法蓮華経と唱える自体
確定した意味には縛られていない。

トーベン・ソンダーガード氏の動画に
異言によって悪霊を追い払うような
シーンがあるが

創価学会でも、今は昔の話かもしれないが
狐憑きなどに対して囲み題目を行う
といったようなことがあった。

聖霊のバプテスマ
信仰の異体同心性とでも言おうか
使命の自覚の湧き立つ精神。
地涌の菩薩への意識の変容。

水のバプテスマ
「水魚の思い」ですよ。
水魚の思いと言われているのに
空を飛ぶ鳥の気持ちを考えたり
草原を駆ける馬の気持ちを考えたりはしないでしょう。
水の中の魚に深く思いをはせたなら
水中の身体反応がある。

水のバプテスマの際
「キリストと共に死に
キリストと共によみがえる」
と言っている。

「自他彼比の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る」
と書かれているのは「生死一大事血脈抄」です。

その意識の深さと
眼差しの向け方と
技化する使い方。

その「念」の力。
サイキックエネルギー。

その側の側面。

時と場合とバランス。

結局はどう感じ読み取るのも
それ以上の発見気付きをするのも
自身の生命現象です。



[730] 生滅の滅の心を酌みし

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月25日(土)00時17分21秒   通報   返信・引用

法の滅と共に帰し
法の生と共に命(もとず)く

今世の生への執着を離れた智慧の世界は
個を越え生滅を越えた今ここの存在

根本が寂滅の非二元であるがゆえに
同時の多眼的な二極性はただ開かれているだけ

このことを未だ知らずと観じ
心して習い修めよ。

南無妙法蓮華経。

自身の信仰の稚拙さを
恥ずかしいと思って
後生大事にかくまって

ほっといてくれ
私はこんなに地位がある
私はこんなに財産がある

おまえより良い身分だ
偉いんだ!

そのまま死んだら
稚拙な世界に堕ちたまま。

自分が恥ずかしいと思っているだけで
他人から見れば案外何でもない。

そんな思考概念はどうでもいい。
恐れずに行動してさらけ出してみろ。

我慢せずに吐き出せ。

同じ今に生きる世界の人間を
自分だけは違うと信じて
忌み嫌ったら孤独になるのは当然だ。

何をどうしたって
本当には失われるものはないから
思いっきりやんなさい。

自由にやんなさい。

ああ、その心を
どうして酌めないんだろうね。

人間とは弱いものだ。

委ね、生かされていることに感謝しよう。

立ち止まって
自身を見つめ直し
真実の行動に燃え立つのだ。

アクセル全開のまま
方向転換しようと思ったら事故る。

バイアスを解除して
本来の当然の手順を踏むのだ。

仏法の大船なのか
酔っ払い運転の暴走特急なのか

俯瞰するのだ。

本当の大船は一念三千である。
それはどこまでも自身の信仰である。



[729] 境智行位

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月22日(水)12時02分29秒   通報   返信・引用

而二不二・非二元というもの。

これは元々違うものだったものが
同じものに変身する
「成る(なる)」ものでは無く

元々分離が無いものが
境智によって働きの違いが現れている
「成く(ひらく)」気づきである。

二本の棒磁石をつなげる場合
全く同じものがつなぎ方によって
N極側ともS極側ともなる。

棒磁石・鉄の棒・木の棒がある場合

棒磁石は感応させる磁力を発しているもの
鉄の棒は感応することが出来るもの
木の棒は感応することが出来ないもの。

知覚器と知覚できるものと知覚できないもの。

ありありと知覚できる存在の質感は

だけど「2:6:2」の法則を考えると
http://www.entrepreneur-ac.jp/report/bando/ants20121004.html

全体性という磁石があって

我々個々人というものは
そこに振り撒かれた砂鉄のような
存在かもしれない。

鉄は磁石ではないが磁力に沿っている。

磁力は磁石に整えられたエネルギーの
循環であるが鉄に沿わされて
強く発される位置が変わる。

磁石と鉄と見るか
全体の磁界として見るかが境である。

磁力が智である。

その振る舞いが行である。

その磁界の位は
方位磁石を境としたら
方位磁石という位だし
地球を境としたら
地球という位である。

仏界と九界の而二不二。

創価学会と会員?
組織と組織人間?

日蓮大聖人と門下?
池田先生と弟子?

宇宙と我?
生命と存在?

物質世界と精神世界?

広宣流布という働き行いをするには
御本尊と地涌の菩薩という境智で
南無妙法蓮華経という位である。

「なる」のではなく「ひらく」

号令ではない行い振る舞い。

同じ今という存在感の中にある
個々の現れの気づき。

私はあなた
あなたは私。

<かんながら>
輪廻転生についての質問
http://abetoshiro.ti-da.net/e9367380.html

今があるだけ。

やるときめたらやる。

今でしょ!

南無妙法蓮華経~!



[728] 広宣流布はどこまでいっても結局は御本尊の仕事

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月19日(日)23時23分22秒   通報   返信・引用

「広宣流布は、どこまでいっても結局は御本尊の仕事である」
「広宣流布とは地涌の菩薩の仕事でもある」

「法華経の行者の祈りは必ず叶う」
「この法を聞いた者は必ず成仏する」

「法華経の行者には必ず難が競う」

「いかなる病も障害とはならない」
「体の病・心の病・社会の病」

信仰という蘇生のためのエネルギー

「事の一念三千」
「南無妙法蓮華経でないものはない」

難・迫害があるのは
または宿業が出るというというのは
正しく南無妙法蓮華経が活性化するための
過程であり新陳代謝である。

自己機能の活性化
非二元へのシフトである。

自我機能を引きはがす時に
その抵抗がある。

あって終わり。
祈りが叶う。
それだけ。

そして思ってもみなかった
非二元へと移行する。

純粋にそれがあるだけ。

複雑に見えることも
そこにただ働いただけの
ストーリーの残痕。

自我機能の思考概念に囚われると
それが逆転する。

上手くいかなかった「部分」を
取り上げて上手くいかなかった
理由を作り
だから上手くいかなかったんだと
納得して信じる。

上手くいかない時もあると信じる。

それは自分の作った
言い訳の解釈にしか過ぎないのに

それが仏の教えなんだと信じ込む。

あるいは祈りに意味なんて無いと信じる。
その者を丸め込むための解釈を作る。
それを仏の教えだと信じる。

それらが体系化し

祈りは叶わないこともあるけど
止めずに頑張って
教団を維持することに協力しなさい
という教義の宗教になる。

根本の前提が
仏の教えとは違うものになっている。

思考概念で言うなら
それが魔なのだ。

魔の教えをいくら実践しても
仏は成(ひら)かれない。

教団の教えの中には
本来の仏の純粋な教えと
臆病な魔の歪曲した教えが
混然一体となっているのが
当然のこととしてある。

その紛らわしさに紛れて
宗教で金儲けする人間が
偉そうにしてのさばる。

あるいは
もっと前段階から信仰には
経典が出来上がることによって
その解釈を巡って論争し
分裂しいがみ合う。

どの宗教も大きくなればそうなる。
歴史的事実である。

その見分け・区分けが
自我機能と自己機能の
見分け・区分けなのである。

自我機能を解除し
非二元を覚知すれば

構築の絶対的な仏も魔もなく
全てが過去も未来もなく
完全である。

なぜならその仏も魔も
菩薩の迷いが生み出した
思考概念の魔であり

思考概念の解除した
非二元が仏である。

それもまた思考概念であるが
言葉の限界性である。

ともあれ視点によって
見方が異なる。

池田先生は
「仏眼・法眼によって悪を見抜け」
と言われている。

それは「上の言ったことを
そのまま信じるな」
「一歩引いて”今ここ”の明晰から
分析するだけでも足りない」
「そこからさらに
法のため民衆のために
行動を起こせ」
「その全てが完全で
あることと不二となれ」
ということだ。

全ては完全で
南無妙法蓮華経の現れで
御本尊の仕事である。

そう開ききった時
何から何まで全て
広宣流布されている。

人は
見たようにしか見えない
意識である。

<宿坊の掲示板>
賢人  投稿者:ジョーカー
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64598
御本尊の仕事  投稿者:ジョーカー
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64631
広宣流布は、どこまでいっても結局は御本尊の仕事である  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64650

宗教教義という色眼鏡
あるいは明示された教義でなくとも
流れや雰囲気が本来の信仰を
むしろ信じなくさせるという現象。
難・迫害の意味。
宗教が違っても
そこに生きる人がいて
そこに起こる菩薩の生命がある。
アルベアのブログに紹介された
トーベン・ソンダーガードの
日本語訳済みの動画
パイオニアスクール Lesson 5 「福音と癒し」
https://www.youtube.com/watch?v=DrXaoALaOi0

ちなみに教義に明示するよりも
明示せずに迫害する方が
質が悪い。
崩落している。

<宿坊の掲示板>
曖昧さはダブルバインドという悪  投稿者:飛翔こそ蘇生  投稿日:2016年 8月 8日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/53674



[727] 十四誹謗抄

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月19日(日)03時33分55秒   通報   返信・引用   編集済

宿坊の掲示板に
革命こそ蘇生として
投稿を開始したころ

ある御書を題材に
ノートにマンガのラフを
描き上げた。

宿坊初投稿の頃の目線は
どちらの言い分が正しいかには
中立的であって

自ら関わることで
判断を深めていった。

マンガのラフを描いた
ある御書は
その判断基準に
大きく影響したと思う。

その御書は
松野殿御返事(十四誹謗抄)
である。

マンガに起こすにあたって
嚙み砕いて理解を心がけた。

アルベア論と出会い
仏法の深化を目指す中で
「これは!」と思った御書は
三世諸仏総勘文教相廃立
である。

日蓮仏法の大乗本来の
「空」の仏法の深化を考える上で
この御書のチョイスは
気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
とも重なるところである。

浄土、阿弥陀仏という所の視点は
まだ私には無い所ではあるが
阿弥陀仏とキリストのリンク率のこともあるし
考えてみるのも面白いかもしれない。

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
『松野殿御返事』と浄土思想。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/19/001537

創価教学研究室(赤鬼のブログ)
松野殿御返事(十四誹謗抄)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51987.html

ラフなので
本来、人様に見せるものでは無いし
見づらいと思いますが
自分で清書できるメドは無いので
仮公開します。
じひのふで~十四誹謗抄~(仮)ラフ
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/ilovepdf_com-1-14.pdf
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/ilovepdf_com-15-28.pdf
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/ilovepdf_com-29-41.pdf

「正義」の揮毫の脇書き
「われ一人正義の旗持つ也」は

学会中枢に巣食う
十四誹謗の渦中に
あったからこそであり

それがどれほどの辛苦であるか

弟子としては
その一分でもこの身で読めたのなら

これほどの誉れは無い。

師匠の慈悲は
私を十四誹謗の渦中にまで
連れて行ってくれた。

気づけば反転します。

歓喜なのです。

「然るに在家の御身は但余念なく 南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」
(出家の身は前述のとおりである。在家の身であるあなたは、但余念なく、南無妙法蓮華経と唱えて、僧をも供養することが肝心なのである。それも経文のとおりであるならば、力に応じて折伏すべきである。)

誹謗と折伏のパラドクスの
十四誹謗抄での結論は
この部分であると思う。

この十四誹謗抄は
法華経の行者の定義に
関わると思う。



[726] いまの一瞬に無限の生命を生きる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月17日(金)05時44分25秒   通報   返信・引用   編集済

<宿坊の掲示板>
《テヘラニアン博士との対話 「二十一世紀への選択」  投稿者:赤胴鈴之助
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64557
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64558
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64559

『いまの一瞬に無限の生命を生きる』
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64560

ただただ有難い
有難うございます

頭が下がります。

感謝感謝
歓喜歓喜です。



[725] 死に臨む生命の反転

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月16日(木)14時03分14秒   通報   返信・引用

非二元から言うと
「誰」が「仏」ではない。

働き作用として
「ある」のである。

池田先生が戸田先生の
「中」に「仏を見た」というのは
そこにある自他不二の「働き」である。

この自他不二の働きが
仏と現れる場合の
二者関係を師弟不二と
言葉としてはそういう
「ストーリー」になる。

誰が誰を師とし
誰の中に仏を見るかは

その「愛」「慈悲」の働きへ
反転した生命現象への
その個々人のことであるが

師の無い独覚の縁覚と
師のある不二になろうとする
菩薩との規模の違いがあるが

法華経の非二元から
見直せば三乗の違いはなく
一仏乗である。

今ここの中に全てがある。
一念三千である。

私が一念三千と呼ぶものが
天台智顗の一心三観に通じているということは
それがまさに一念三千であり

これは仏教を習うから身につくのではなく
観察と現象と経験に気づけば開けるものであり
そこがなされなければ
いくら仏教を学んでも開けないのである。

同じ宗教をし
同じものを信じていると
思っているもの同士でも
それが本当に
全く同じものを信じているかは
疑わしい。

逆に言えば
違う宗教をし
違うものを信じていると
思っているもの同士でも
それが本当に
全く違うものを信じているかも
疑わしい。

非二元から言うと
「誰」が「仏」ではない。

逆に言うと
「誰」が「三類の強敵」でもない。

今ここの中に全てがある。
一念三千である。

昭和54年、当時の執行部は
池田先生を「名誉職へ」追いやった。

「お疲れさまでした
もうあなたにしてもらう仕事は
ありません」という
「名誉職」である。

事実、仕事をする場所が与えられず
指揮をとろうにも拒絶された。

事が収まるまでなんていうものではない。
あまりにも冷たい仕打ちだった。

<師弟不二ARCHIVE>
54年辞任or勇退
http://sgi-shiteifuni.com/?tag=54years

戸田先生の獄中からの復活
池田先生の辞任からの復活

それはある意味
死を経験したようなものだ。

そこにあるそれには
個別を超越した存在が関わっている。

ストーリーではなく
存在を見るのだ。

<YouTube>
臨死・そして与えられた2度目の人生-Howard Storm "My Descent into Death"
https://www.youtube.com/watch?v=4xgmZQe9DlE

同じものを信じていると
思っているもの同士でも

違うものを信じていると
思っているもの同士でも

その両面の二者関係の
疑わしい中の誹謗中傷・迫害の
自身の生命に道門増上慢がある。

ならば僭聖増上慢は
素晴らしいと教えられたものを
素晴らしいと信じ切って
利用されるままに利用されていることに
気づかずに言われたままの悪行為も
それが正しい事だと信じ切って
行ってしまう自身の愚かしさの
生命現象にある。

つまりは同じ一人の人物に対しても
二者関係の働き方によって
仏の働き作用の師弟不二とも
魔軍拡大のための僭聖増上慢とも

その影響力が大きいほど
その両方の筋道が分かれる。

全て自身の生命現象だと覚悟するのだ。

善悪無記であり善悪不二である。

54年の真実に向き合わず歪曲する生命が
投獄の歴史とも向き合わず
戦争できる国への変化を
なんとも思わない生命と通じているのである。

生命現象には
「ここだけちょっとごまかそう」
なんていうズルは通用しないのだ。

戒壇の防止非悪の精神の復活が
仏法の生命の世紀への扉を開く。

煩悩の解除、自我機能の解除

非二元の覚知をするのだ。



[724] 一心三観

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月13日(月)10時08分44秒   通報   返信・引用   編集済

非二元の基礎的な確認過程

気づきのダンス
私がパソコンを見ているという錯覚♪

これは一心三観なのではないか?

SOKAnet 教学用語検索
一心三観(いっしんさんがん)

コトバンク
一心三観

観察者の観察による空諦
観察される現象世界の仮諦
観察という経験の中諦

それらは意識を向けた時に
入れ替わったり変化したりするのではなく

意がそれらそのもので
全く分離していない。
真如である。

このことを知識として知ることと
体感して覚知することの違いは

自転車を知っているかと
自転車に乗れるかとの違いのようである。

自転車という名を
知っているかどうかや
あるいは自転車と呼ぶか
バイシクルと呼ぶかは

実際にサイクリングする時には
ちゃんと乗りこなせるかだけが
重要なのである。

自転車という実在を
確かめる作業が一心三観であり

実際にサイクリングしている
状態が無作三身である。

無作三身という言葉が
日蓮真蹟の中に出てこない
ことを踏まえて言うと

(気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
「無作三身」のこと。

んん?

一生成仏抄も学術的には
偽書扱いですか
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1179115656

しかし
~~「妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや」などの、本覚思想的な文面も存在します。~~
これは観心本尊抄です。

学術的研究においては
まだまだ私のは稚拙であり
気楽に語ろう著者の足元にも及ばない。

私自身は
「法華経の智慧」を
これは素晴らしいと心をときめかせていたころ
長く会っていなかった父は日蓮正宗へ
母は相変わらずの創価学会

正しい教学とは何かと思ったとき
法華講員の樋田氏の動画なども見
日蓮真蹟に関するものも散見し

局所的には自殺者が出るほどの
組織の無自覚な圧政の現状を思い

日蓮正宗も創価学会も
両者に欺瞞があり
それらを信じないと覚悟した時
「ああ、これが仏だ」というものを
発見した。

それは確かに
戸田先生、池田先生にあって
宗教を越えて人権闘争の
魂にもあるものだった。

いやしかし、ここで分かった仏が
迹門の仏であることが自覚された。

仏を知っている人に会いたい
本門の仏を知りたい。

そういう想いの中で
大きな出会いとなったのが
アルベア論である。

アルベア論と創価仏法を
繋ぎ得るものは何か?

そこに五眼三身を見出した。

日蓮真蹟に無作三身は無くとも
五眼三身はある。

『四條金吾釈迦仏供養事』
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index272.html
「曽存」(かつては真蹟が存在したもの)

五眼三身は寿量品にだけ
実体があるという。

寿量品の心と我が心が冥合した時
己心の寿量品となる。

私は一重立ち入る選択を
心がけている。

「今ここのこれ
これ自体の一念三千」
である。

この真如の乗りこなしである。

開眼供養とは
この真如の救済の活動
仏の働きを成(ひら)くのだ。

その成(ひら)かれた働きの上では
覚知を促す智慧として
救済への反転が可能なのである。

目覚めた智慧を体感の上で知る。
それが覚知であり

その智慧の完全さそれ自体が
自受用報身如来であり
全体性である。

外から教えられる物語は
創作の産物であり
それに随って理に適った
見せかけの既成事実が迷いとなる。

一人立ち自得する。
それしかない。



[723] 沈黙と法難と泰平

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月12日(日)03時55分30秒   通報   返信・引用

アルベアのブログに紹介された
『沈黙ーサイレンスー』を見てきた。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12242022515.html

切支丹にとって
それは現在の日本では
想像もつかないほどの法難。

規模も惨さも
熱原の法難をしのぐだろう。
http://sokanomori.exblog.jp/17348439/

沈黙というテーマであるが

信仰と法難と救済の無さと人命と
使命と人の弱さと強さと醜さと美しさと

あるいは正しい法を
正しく伝えることの難しさ

同じ宗教をし
同じものを信じていると
思っているもの同士でも
それが本当に
全く同じものを信じているかは
疑わしい。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1265678222

各家庭に同じ御本尊を
安置し拝んでいても
各人がそれをどのように
解釈するのかの統一性は
少なくとも今の創価では
まちまちである。

しかしそれでも
祈る姿勢、祈る呼吸
その指導がなされるならば
そこに起こる体感は
同様のもののはずである。

沈黙の時代設定は
島原の乱のほんの少し後か。

拷問の手法の惨さと
人命のぞんざいな扱いの
過渡期である頃だ。

島原の乱で殲滅を実行したことにより
一帯の労働力が無くなり
余所から移住させて復興するのに
50年を要している。

少し後になると悪法として名高い
生類憐みの令が発令され
作戦コマンド
「命を大事に」が実行される。

鎖国という
悪知識とはむやみに
親しみ近寄らない
効果ともあいまって
泰平の世へとシフトする。

開国ではそのリバウンドと
蓄えた能力と適応力が
もたらされた悪知識の部分と結合し

近代戦争の悲惨を経験することになる。

かんながら
未来社会
http://abetoshiro.ti-da.net/e9340206.html
~~「この国の人々の飾り気のなさを賛美する。
いたるところに満ちている子供たちの笑い声を聞き、どこにも悲惨なものを見出すことはなかった。
西洋の人々が、西洋の重大な悪徳を日本に持ち込もうとしているように思われる。」~~

アルベア論
「人間観」「人間感覚」から「生命観」「生命感覚」へ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/262

江戸の泰平もさることながら
かんながらの記事にも開くとあるように

かんながらの阿部敏郎さんと
アルベアさんが共に注目しているのが
縄文である。

かんながら
縄文の復活
http://abetoshiro.ti-da.net/e9335430.html

アルベア論
人間感覚から生命感覚へ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/229
生命現象2
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/254

持続可能な
生命感覚に満ちた時代。

それは非二元へのシフト
意識のイノベーションによって
もたらされるのだ。


Dailymotion
2012 BSR 島原の乱1005
https://www.dailymotion.com/video/x4amlpn
BS歴史館 : 徳川綱吉 / 犬公方の真実
http://www.dailymotion.com/video/x2jjyvx



[722] 救済ということ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 9日(木)13時28分0秒   通報   返信・引用

毎朝の目覚めは

自分は何者なのか
ここはどこなのか
今はいつなのか

確認することから始まる。

最初の気づき

「私はある」
「I am」

というものは
常に未知の世界に降り立つのだ。

何を自身の胸中へ入れ理解し
何を護り継続し
何を捨て何を取り入れて変革するのか。

戸田先生の朝は
深い思索から始まるのが
常であったという。

自身の難即悟達の境智を
いかに世のため人のために
いかにして民衆に知らしめるか。

その変革の先駆者
雛形としての種

そのリーダーシップを
発揮するためには

その同時代の民衆の求めを知り
全体性を体感し俯瞰する。

民衆の中に飛び込み
自身がその民衆自身となることでしか
民衆の自発的改革の波は起こらない。

一切のあるがままを受容することで
そこに起こる意図思惑の無い
素直で正直な気づきが



歓喜となって伝播する。

自我機能の煩悩を解除した
非二元の体感覚知で

全体の現象を「見る」こと。

民衆達のありのままの煩悩のありよう
良い所もあれば悪い所もある
良いも悪いもない
人の振る舞いを
「見て」「受け入れ」「胸中に入れる」
そこに即ち菩提への反転がある。

それには煩悩を解除した「善」の
その身体という禅定
その目覚めの躍動の智慧
その実現の精進の戒壇

民衆を父として慈悲・仏智が
もたらされる。

否、もたらされ続けていることに
意識を向けて気づく。

煩悩が無いことが善ということと
煩悩即菩提は矛盾しない。

煩悩が無いことが善ということを
大乗の運動として広く宣揚する手法が
そのまま煩悩即菩提なのである。

だからね、上からね
押さえつけていう事を聞かせようとか
ひょいとやってきて片手間で
机上の理論の思考概念で何かを変えようとか

あっちでは上手くいったから
こっちでも上手くいくだろうなんていう
今ここの見えていない
ちゃんと意識が向き合っていないものは

仏法じゃないですよ
そんなものは。

いいかな?

例えば選挙戦で
導かれる結果が仏法に適っているか
自身で精査することなく
上から言われたことをうのみにして

社会での利益・成功の願をかけて
(名聞名利)

友人台帳を作って知人に総当たりする。
(意図思惑の偽善)

功徳だ罰だと一喜一憂。
(六道輪廻)

監視の目を光らされて
思ったこともまともに言えない。
(欲界の主の第六天魔王)

煩悩即偽善、六道輪廻。
第六天魔王の支配する世界。

分かるかな?
自称お弟子さんたちの現実。

だからそれは
解除対象ですよ
本来の仏法から言えば。

分かります?

そもそも池田先生が
まさかを実現させたのは
そんなものじゃなかった。

自称お弟子さんたちが陳腐にした。

違います?

日顕宗がどうとか

思考概念の上では
整合性ということだけど

解除をするにあたって

解除した際に
手放すものは何なのか
何が護られ失われないのか?

民衆の側の
歓喜に直結した納得を

明確に示さなければ
失敗する。

コンサルタントの示した数字に
学会本部が護られることを
学会本部が納得したとしても

民衆は納得しない。

池田先生がその時期に
どういう戦いをされ
何を残されたのか?

「池田先生」
「池田先生」と

口ではみんな言うけれども

嘘ばっかりじゃないか。

自分を知りなさい
創価学会を知りなさい
池田先生を知りなさい
日蓮大聖人を知りなさい
日蓮正宗を知りなさい
鎌倉同時代の仏教を知りなさい
天台の摩訶止観を知りなさい
鳩摩羅什を知りなさい
大乗の「空」を知りなさい
釈迦仏教を知りなさい
同時代の宗教を知りなさい
親の愛を知りなさい
師の愛を知りなさい
主の愛を知りなさい
地球を知りなさい
宇宙を知りなさい
生命を知りなさい
自分自身を知りなさい

意味ではない現象は
気づきの中にしかない。

思考には及ばなくても
空・実相の身体は全てを知っている。

思考は自己都合である。

答えは自身の中にある。
思考の解除した静寂な明晰から
注意深く観察するのだ。

「止」と「観」

「悟り」と「現実」

その法華経の往復が
法華経の非二元である。

You Tube
〔NHK白熱教室〕ハーバードリーダーシップ白熱教室 第4回
https://www.youtube.com/watch?v=axinM32dQOc

You Tube
〔NHK白熱教室〕ハーバードリーダーシップ白熱教室 第5回
https://www.youtube.com/watch?v=UG5-2fupEi8

アントンくんの静かな日々
ハイフェッツ教授のリーダーシップ白熱教室(5-2)
http://blog.livedoor.jp/uribo10inosisi/archives/8166451.html

創価教学随想
戸田先生の獄中闘争
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-36.html

東洋経済オンライン
ミスの多い人がわかっていない集中力の本質
(リーダーシップ・教養・資格・スキル)
http://toyokeizai.net/articles/-/135195

パレオな男
みんな大好き「見えないゴリラ」系動画まとめ
http://yuchrszk.blogspot.jp/2014/05/blog-post_6900.html

仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界
瞑想法エントリー一覧
http://www.bukkyouoshie.com/meisou/



[721] 善悪不二のパラドックス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 8日(水)04時22分4秒   通報   返信・引用

善悪無記であり
善悪不二である。

思考概念からすれば
「えっ?じゃあどういう
生き方をすれば良いの?」
と思う。

当然、善く生きるべきである。

自我機能と自己機能の違いである。

分離した自我機能で
自分が善であろうとすれば

外に相対した悪を見る必要がある。

善vs悪というストーリーで
勝利のためのズレてブレた
意図思惑の思考概念という
煩悩障・煩悩魔となる。

分離のためがゆえに
善として決意したはずの行動が
結果として魔を得ることになる。

自己機能から善を見れば
私とあなたの善い関係であり
誰が善とか誰が悪とかが無い。

意図思惑ではない純真から
時に言うべきことを言い切り
時にただただ受け入れる。

全体性のバランスから
自然に起こる慈悲に包まれた
生命現象である。

<仏教の善悪エントリー一覧>
http://www.bukkyouoshie.com/zenaku/

~~「善と悪」
いろいろな定義や考え方、とらえ方がありますね。
しかし仏教では単純明快です。それは、

煩悩が無いこと(弱いこと)

です。

明快です。
仏教では、煩悩が無ければ無いほど、「善」としています。
煩悩がないこと、つまり、心が浄まっているほど善になるというわけですね。~~

読み進めていくと
私自身、反省させられるところもある。

とともに
なるほど非二元の方向性だと思う。

<宿坊の掲示板>
六巻抄講義(依義判文抄)を読んで⑯  投稿者:手袋をした子狐  投稿日:2013年 7月27日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/6878

「戒壇」の意義に「防止非悪」がある。

非悪とは
非行悪業、悪い行為。
それを防止する。

御本尊に向かって題目を唱える
という戒壇のある人生にあって

煩悩、名聞名利の行為を
それはもちろん
しても悪業を積むことにならないのではなく
しないための生き方の実践の道場である。

創価脳はどうもそのあたりを
取り違える傾向があると思う。

大善のための事なのだから
少々の悪は帳消しになる、みたいな。

根幹的な誤りだと思う。

御本尊に向かって題目を唱える時に
煩悩まみれの思考概念優先の
祈り倒しみたいなものは
だから戒壇の意義に反している。

純真で素直で分離の無い祈りが
戒壇の意義に通じる。

<仏教の善悪エントリー一覧>
~~仏教の善悪の考え方は人生観を変えることでしょう。
このことが腑に落ちると、人生観、価値観、そして世界観も一変するようになります。規模や量を追及することが無くなり、量はそこそこあればヨシとして、質を高める人生観になるでしょう。

そうして日々、何気なく行っていることが、素晴らしい行為になることに気付かされます。呼吸をする行為すら善行為になります。

そうです、瞑想が奨められるのも、それが善行為だからです。
瞑想が素晴らしいのは、善行為ができる時間になるからなのですね。

もっとも、そうだからといって在家が、瞑想ばかりして働かなければ、生活上、問題も出てきます。バランス感覚が必要になるでしょう。これは言うまでもありません。~~

思考概念の解除が善なのである。

自我機能の解除である。

「受け入れがたい」という
抵抗があるのならば

それの正体は何であるのか?

「それは誰が作ったの?」と問い
「私」と答えて観察する。

「なぜそれを作ったの?」と問い
掘り下げていく。

解消されていない感情の原点を見つけたら
人様に迷惑をかけない方法で
思いっきり発散させる。
例えばイメージの中で思いっきり暴れる。

あるいはそのままの自分で
無我になるまで唱題する。

毎日ぷるぷる運動をやってみる。

解除されると
本来が蘇生されるのです。

個人においても
組織においても
世界においても。

思考概念で大きなことを
しようとするのではなく

この、あるようにあり
なるようになるという

ただあるという清浄が
世界の恒久平和を開くのであり

その本来の存在自体が
善という意図の消失した善なのです。



[720] 観心、教相、十界互具、三世間

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 7日(火)04時47分42秒   通報   返信・引用   編集済

ずっと見ている人ならば
知っていると思うが

アルベア論を取り入れながらも
「宗教枠の解除」の言及には
すんなり踏み切ったわけではない。

私自身も創価学会員の端くれであり
思考概念の旺盛なベースがあるのだ。

虚実の世界
http://www.ac.auone-net.jp/~davinci1/essay1-1.html

~~池田門下生と戸田門下生の違いは、はっきりしている。戸田の命より大事な創価学会の組織という戸田の意志を受け継ぐ人々が戸田門下生である。したがって彼らは、創価学会が無ければ広宣流布は出来ないと考えている。
池田先生は池田の命より大事な創価学会の組織とは言ってない。むしろ先生は、世界広布に創価学会はいらないという。ニューヨークに本部を設置しユダヤ協会のような組織でなければ世界広布はできないとまで言われた。
池田門下生は、創価学会が無くなっても池田先生とその精神があれば、世界広布は必ず出来ると信じている。この違いは、池田会長勇退のときに顕著に現れた。~~

戸田先生と池田先生の
表面上の違いは多くあると思う。

それらの違いうる部分
「取り換えのきく思考概念」は
師弟不二の根幹ではないと思う。

日蓮仏法の根幹としての
師弟不二である。

観心の本尊即師弟不二。

観心の本尊とは
教相の本尊に対しての
本尊観である。

法華経に相対した時
見られる側の法華経が教相であり
見ている側の己心が観心である。

それは文字曼荼羅本尊に
我々が相対した時も
見られる側の御本尊の相貌と
見ている側の無我の観心の冥合があって
人法一箇となり事の一念三千となる。

生命の変革即社会の変革が
為されなければ
日蓮仏法 事の一念三千たりえないが
思考概念のゴリ押しの部分は
純粋な一念三千ではない。

誰人にしても
それは三代の会長にあっても
日蓮大聖人であっても
日興上人であっても
日寛上人であっても
その個のストーリーにおいては
我々が知りうる表層は
思考概念に覆われているのである。

自身の自得によってしか
師弟不二の要たる
観心の本尊には触れられない。

「これが正しい」と対象化したものを
信じるのみでは三界の側の生命状態しかない。

それは仏の教えだから正しいんだ
という十界の「構築」であって
十界互具になっていない。

瞬間瞬間に生命状態が変わる
という認識だけでは
どうも不十分である。

十界互具には脱構築が必要なのだ。
それは宗教枠の解除につながる。

ゲシュタルト療法 葛藤解決の方法(ポイント)Ⅰ
https://www.youtube.com/watch?v=2wFvZ54weAg

小論④の3  投稿者:螺髪  投稿日:2016年 3月 6日(日)11時46分41秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/40770
~~人体の臓器を見ても、全身に血液を送り続ける菩薩のような心臓もあります。小腸で餓鬼のように、ただ栄養を貪り続けるだけの絨毛(じゅうもう)突起もあります。細菌を捉えて食い殺す帝釈天か、あるいは修羅のようなキラーT細胞もあります。十界の衆生のそのままの働きで人体の維持に役立っています。~~

無意識下では十界が常に作用していて
意識上に上ってくるものでも
時に複数の気持ちから葛藤が起こり
選択をすることになる。

これが自分だという選択をする。

十界の内の一界が自分だと思い込む。

頑張ると決めたら
頑張ると決めた自分が自分だと思う。

サボりたいなと思ったことは
それは自分ではなかったのか?

本当の他人には辿り着けないことを
意識の仕組みで書いたが

だから本当は全然違う
理由かもしれなくても

本当は自分がやりたくてやれなかった
それを投影して

私はこんなに頑張っているのに
あいつはこんなにサボっている
という思いが起こる。

それも元々自分だったもの。
否、どれもこれも
投影された自分である。

どこまでが私の投影で
どこからが彼自身の本性であるかは
くっきりとした境目は見いだせない。

彼がなくては多角的な意味で
私は私自身に気づけない。

善と見ているのも
悪と見ているのも
自分自身が見えているのである。

一切は自身の生命現象である。

全ての意識体は救済を求めている。
それは置き去りにされた
自分自身でもあるのだ。

多角的な一考察として
三世間を考えてみる。

自身の救済の求めが応じて
現れているのが十法界の国土世間
であり応身である。
ここには対象化した場合の
自分自身も含まれる。

その世界に気づいているという
「私はある」「I am」という
実体の無い知恵が
衆生世間であり報身である。

その二者が相対した時の
経験の仕組みというものが
五陰世間であり法身である。

十法界を心とした時
人法一箇となるのである。

私がやりたかったことは
すでに誰かがやっていて
誰かがやりたかったことは
すでに私がやっている。

始めの一人はいない。

これがあるだけ。
今ここ。

あるようにあり
なるようになっている。

あなたは私
私はあなた

施本 「仏教・空の理解」
 五、而二不二《ににふに》・再考察
http://oujyouin.com/sunya5.htm

而二不二の反転なのです。

無分別智、非二元なのです。

これを離れては仏法の
本筋は無いのです。

旅客来たりて嘆いて曰く

非二元に通じている人もいて
伝統的な仏法を行じている人もいて
創価学会というのも随分大きくなったけど

いつ、万人が幸福になれる時は
来るんでしょうか?

それを実現させるべき
観心の本尊は
いったいどこにあるのでしょう?



[719] 火事場の馬鹿力と無我夢中

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 2日(木)23時34分33秒   通報   返信・引用   編集済

日常生活・社会生活において
自我機能は
所属し強く結びついている
意識体(意識の場)の
倫理観・社会常識によって
自由が制限されロックがかかっている。

「やらなければならない」
「やってはならない」の
両面の意図思惑信念信条である。
順縁という従いも
逆縁という反発も
自我機能の囚われの
両面の表出である。

立場・能力・勇気と覚悟などの
思い込みのバランスによって
ポテンシャルのエネルギー状態が
行動として現象化する。

アルベア論において
キリスト教系の奇跡の動画が
度々紹介されるが

ブログに明言されているように
キリスト教を勧めるためのものではない。

だから、排他的な表面上の言葉に
「このように言えば奇跡は起こせる」と
信じ込もうとすることも

「そういうのを魔の通力というのであって
日蓮仏法は道理にかなったものだ」と
まったくいかがわしいものとして見ることも

自我機能の両面の解釈であって
そういう対象化した見方を
克服するという
自我機能の解除の実践である。

医学的に治る見込みのない病気が
医療によらず劇的に完治することを
医学では「自然寛解」と呼ぶそうだ。

ドクター小西の『統合医療情報局』
本気で自分の納得できる治療法を選択するという事
http://ameblo.jp/sna10826/entry-11979639412.html
~~本気で病気を治したいと思い、実際に病気が奇跡的にも治ったという人は、実は「言い逃れが出来ない状況」に自分自身を追い込んでおられます。そのなかで、自分が選んだ治療法で絶対に治ってみせるのだと「強い決意」をされるのです。他人任せの治療をして奇跡的に治癒したという話は私は聞いた事がありません。~~

氣楽堂整体院 自然治癒力
http://office-krd.com/index.php?%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B2%BB%E7%99%92%E5%8A%9B
~~私たちの体には、自分の病気を治す素晴らしい力が宿っています。
自己治癒力と言われるものです。名医と言われるお医者さんでさえ、こう言います。

『病気の回復には、最終的には本人の意思・気力がものをいう』と。
だとすれば、私たちは自分の中に持っている自然治癒力に、もっと目を向けるべきです。~~

膵臓がんサバイバーへの挑戦
がんが自然治癒した人の「9つの共通する実践事項」
http://pancreatic.cocolog-nifty.com/oncle/2014/11/9-b0e1.html
~~彼女が上げた9つのこととは、

抜本的に食事を変える
治療法は自分で決める
直感に従う
ハーブとサプリメントの力を借りる
抑圧された感情を解き放つ
より前向きに生きる
周囲の人の支えを受け入れる
自分の魂と深くつながる
「どうしても生きたい理由」を持つ
である。

これを実行すれば必ず治るというものではない。彼女もこう言っている。

もしもわたしが、「この9項目を実践したらあなたのがんは確実に治ります」と言ったなら、それは人に偽りの希望を抱かせる行為です。わたしはそうは言いません。わたしに言えるのは、「がんの劇的寛解の起因になったと考えられる9つの仮説を検出しました」ということだけです。

また、三大療法を否定するものでもない。統合医療として実行しなくてはならないと強調している。~~

宿坊の掲示板
カラダいきいき健康セミナー  投稿者:寝たきりオジサン
http://6027.teacup.com/situation/bbs/63738
~~
人間は他人の世話になるのです。だから他人の事を考えて生きていかないと人間
として生きていけない。それが「社会的健康」ということです。池田先生と対談
した時,私たち医者は医学の事ばかり話していると,先生は「『教養ある食生活』
ということですね」と,一言でまとめて言われました。~~

『教養ある食生活』と
己心の仏法・霊性・聖霊。

自己機能の生命現象。

自然寛解の解釈に
火事場の馬鹿力という概念が
結びついているが

追い込まれたら力が発揮される
→追い込んで力を発揮させる

という思考概念になると
疲弊する。

UMAく!!生きるためのブログ!!
火事場の馬鹿力に頼っている人は人生を激しく損している!
http://kenji-depression.com/fire-base-power/
~~いつも火事場の馬鹿力ばかりに頼っていれば、いづれ大きな失敗を犯してしまうし、期限ぎりぎりに対するストレスも半端なく感じるということ~~

創価学会が社会変革を目指す上で
他人を追い込むという手法が
常態化したことで疲弊した
という側面があると思う。

折伏の期限や新聞啓蒙の目標値。
全てがダメとは言わないが
常態化はまずい。

あの選挙区が危ない!って
煽る煽る。

歩調を合わせないと
もう人生が終わってるんだよ
地獄行き決定なんだよって
言いはしないがそれぐらいの勢い。

中身がない。

己心の法、民衆の仏性
民衆自身の霊性の直感力

そういう中身が無視されて
ただ追い込んで行動させる。

そこに仏法は無い。

火事場の馬鹿力は緊急時における
一次的な意識体の関与の受容。
自我機能の解除による無我夢中の
自由の制限のロックの超越。

シンクロを呼ぶ遠隔ヒーリング
火事場の馬鹿力
http://ameblo.jp/asetema-healing/entry-12051250060.html
~~ある団地住まいの主婦が一階の洗い場で洗濯をしていたところ

自分の子供が三階のベランダを乗り越えて落ちてしまったそうです。

その光景を見た母親が猛スピードで落下地点まで走っていき、落ちてくる子供を両腕でガッチリ受けとめたというから驚きです。

これこそ火事場の馬鹿力ですね。~~

足腰の悪い杖が手放せない
おじいさんが
ばったりと熊に出くわして
無我夢中で二本の足で
走って逃げた。
それ以来、杖が必要なくなった
なんて話もテレビで見たことがあります。

追い込むばかりでは
疲弊するのならば
もう一方の面への
気づきが必要になる。

自我機能の解除である。

緊急の再現のために追い込むのではなく
自我機能の解除のために
夢中になれるものに没頭する。

その受け皿としての広い受容と
本人の選択の尊重。

それがより良い効果を生むための
内観の推奨の場。

無我にあるエネルギーへの気づき、
全体性の俯瞰の習得。

その教育。

教え与えうる幅広い英知と
育んで守り愛することの
バランス。

自我機能の解除のサポート。

自身の生命現象の覚知。

法華経の非二元。

そういう方向性を
選択のラインナップに入れる。

気づいていますか?
一切があなた自身の
生命現象であることを。



[718] 因・縁・果・輪廻・無限ループ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月31日(火)12時54分15秒   通報   返信・引用

つまり、「因」が同じでも、そこにどのような「縁」が結びつくかによって、一人一人に現れる「果」は異なってくる、と。
(2017年SGIの日記念提言より)

思考概念が触発される一節のようです。

かんながら(元 リーラ)
輪廻の中心
http://abetoshiro.ti-da.net/e9318442.html

↑個人的には分かりやすいと思った。

~~こうやって、安らかな世界や苦しい世界が、巡り巡っていくことを輪廻と言います。

輪廻とは転生だけでなく、日々の生活の中で繰り返し起きていることです。~~

学会員さんならみんな知ってる
基本中の基本の十界互具です。

でも”知ってるだけ”になってるんじゃ
ないですかね?

~~何が起きても影響されない中心があるのです。


車輪は廻り続けているのですが、その中心は不動です。

中心は何一つ変わるものがなく、いつも静寂にして平安。~~

これなんですよ??
分かります?

六道のままに感情に振り回されるのは
肉眼です。

色んなものに目移りしちゃって
目先だけの利益に飛び上がって喜んだり
ちょっと上手くいかないと
「こん畜生」なんて思ったりします。

それじゃあいけないんだよ。
真実の教えに従いましょうね
ということを素直に信じ受け入れて
定まっているのが天眼です。

それでようやく
輪廻を客観視できます。
反面、教えに固執して排他的です。
雑多だった身のためにならない
六道輪廻だったものが

身のためになるための六道輪廻へと
思い込み信じ込みで偏ることで
共同体として正義を実現しようとします。

一定の価値体系の中で価値を生むが
反面、排他的・自己中心的な正義では
かえって憎しみを生み広げ
解決できない問題がある。

そこで輪廻の車輪の中心の中心
ゼロの点、無・空を体得する。

良いも悪いもない今ここの
生命現象の視座の慧眼です。

今ここに気づいている。
マインドフルネスです。

自分が無いという事の
自身の覚知です。

禅定であり静寂です。

ただ無・空なのです。

そのままだけでは
無いのであり有ることが
定まらない。

実際には現象としては
あるようにあり
なるようになっている。

そこであるようにあるための
存在が存在することの意味を説く
菩薩行の視点が法眼です。

あえて現実に向かって
非二元を説くのです。

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -
http://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou

それは全部の100%が存在の
その通りに成り切れていないから
現実が現実として
認識されていることが残っている。

肉眼も天眼も慧眼も法眼も
そのままで始めから
否、始まりもなく
悟りであった。

法華経の非二元とは
その仏眼を志向している。

一文字一文字、一ドット一ドット
全ての同時無限性の
無限宇宙自身の
無限同時内在表現、、、

と、かくも特別な
隔世されたもののような
表現だが

普通の意識がそのまま
究極の意識でもある。

全ては始まりの光そのもの。

その波長のままに向けると
表現しようとしている
エネルギーがあって

文字列はその残痕にすぎない。

全てのゼロ=無限である。



[717] 知性と霊性の中道

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月30日(月)03時33分22秒   通報   返信・引用

自分の書いたメモを見た。
いつのメモだろうか?

「がんばらない」の
ポジションの発見前のものと思う。

このメモの背景には
「視野を広げて学びなさい
学会バカではいけないよ」
という趣旨の池田先生の指導を
伝え聞いたことがあって
思索を重ねたのだと思う。

メモ
「きっぱりと『思い切って』
広げ楽しむ世界において、
その上でそのまま矛盾なく
最高の精進として頑張ろうと
するならば、それは、信心に
立ち上がった上で創価学会だけが
世界ではない事を、そのまま
南無妙法蓮華経として
頑張るという事になる。

創価学会だけが世界ではない世界に
南無妙法蓮華経を打ち立てる。

だからこそ自分の境涯を開いていく
開いていける。だからこそ世界は
変革されていく変革させていける。

純真な信心は素晴らしいもので
あるけれども、”学会バカ”に留まって
しまってはもったいない。

何者にも創価学会にも縛られない
自由自在を、ただ、師とすべきものを
師として、
我が真実を下方、生死不二の真実、
そこにも常にある御本尊より出現した
地涌の菩薩として、赫々と
南無妙法蓮華経と共に昇りゆく。」
ここまで

思考概念の側の徹底だけでは
必ず閉じた世界に向かう。

「南無妙法蓮華経スゴイヨ」
という概念だけが広まっても

「コノ法ヲ伝エル活動ニ従エ」
という抑圧に反転され
閉じた世界になる。

「民衆仏法」「広宣流布」
「万人の仏性」「仏法は中道」
といったものがパラドックスになる。

思考概念では疲弊するのが道理なのだ。

仏法はこのパラドックスの
克服のための「体感」「悟り」
「生命現象」である。

それを見失えばもはや仏法ではなく
世俗化した愚考集団なのである。

信仰はどこまでも自身の問題である。
その一念三千が法華経である。

観心本尊、己心の寿量品が
日蓮仏法である。

少し違った角度から
中道を確認してみよう。

現実界と中現界
知性と霊性という観点の
中道に関する記事だ。

Michi & Mirai World
知性と霊性
http://mm-world.jugem.jp/?eid=4101

高次元からのアドバイスとは
仏智という「生命現象」と見れる。

それは、対象化してすがれば
得られるものなのではなく

自身の霊性、自身の仏性を
信じることで道に入るのだ。

「自分の中に入って、任務を見つけて出て来なさい」

今まで経験してきた全てが
使命として歓喜に反転する。

一番苦しんできた人が
一番幸せになる権利がある。

それは余所から与えられるものでは無く
自身の内なる変革が
否応なくそう反転させるのだ。

一切の言葉
一切の概念は外から与えられたものだ。

そうではなく己心を観じて
『如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘蔵の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す。』
如来の一切の『正法』『衆生救済力』『秘密の教え』『修行の実践方法』
http://hokekyou-blog.blogspot.jp/2008/05/blog-post_25.html

これを直接に受け取る。

受け取って戻ってきて広める。

そうでなければ地涌の菩薩ではなく
そうでないものを末法に広めても
広宣流布にはならない。

いくら
「その教え私が広めます」と
決意、誓願したとしても

対象化された「教え」である以上
それを広めても
広宣流布にはならないのだ。

外からどう教えられたとしても
それとは相反したとしても
己心の法華経を広めるのが
広宣流布になるのである。

全てが反転する。

正法は断絶したことが無い。
広宣流布はされている。
法華経の会座は未だ散っていない。
永劫に散らない。

生命の選択である。
法華経の非二元である。

本尊の生命である。



[716] 下種仏法バブル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月26日(木)10時15分50秒   通報   返信・引用   編集済

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宿坊の掲示板
一念三千  投稿者:飛翔こそ蘇生
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宇宙の出現のしくみ(全ての根源) 【No.34】
ジュンコ セレンディー
https://www.youtube.com/watch?v=12-3K9GoI5w

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井上哲玄老師 平成28年秋 彼岸会法要法話 於 龍泉寺
https://www.youtube.com/watch?v=Jkzo_3iKRM8

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横須賀ストーリー
https://www.youtube.com/watch?v=hzxgyzIuhU8

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
創価学会の非活メンバーによる語り
池田先生へ、今伝えたいこと。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/25/060438

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チューリップバブル
https://www.youtube.com/watch?v=Fv2nKfVIbE4

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ドキュメンタリー バブルがはじけるとき
https://www.youtube.com/watch?v=ZjAJ-cnEy7g

静かに創価学会を去るために
考えると恐ろしくなる自分
https://signifie.wordpress.com/2016/12/13/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%A8%E6%81%90%E3%82%8D%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E8%87%AA%E5%88%86/

アルベアのブログ
「信仰」の「イノベーション」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12241559633.html

「この下種仏法すごいんだよ」って
対象化して飾って崇めて

種は種のまま。

思考概念だけが肥大化する。

最大化した後は崩壊する。

創価学会名誉会長の池田先生って
対象化しているものは虚像。

一念三千の池田先生があるだけ。

末法の御本仏の日蓮大聖人って
対象化しているものは虚像。

一念三千の日蓮大聖人があるだけ。

出世の本懐の戒壇の大御本尊って
対象化しているものは虚像。

一念三千の大御本尊があるだけ。

唯一の世界広布の団体の創価学会って
対象化しているものは虚像。

一念三千の創価学会があるだけ。

唯一の真実の教えである仏法って
対象化しているものは虚像。

一念三千の仏法があるだけ。

アルベアのブログ
「神」「仏」は働き作用
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12241559682.html

自身なんですよ。

あるだけ。

「無・空」です。

こんな風に悩んだり
探求したりできるのも
有難いことです。

ただあるだけ。

今ここだけ。

まだ目が覚めませんか?

冷たい水で顔でも洗って下さい。

それがあるだけです。

You Tube
「千と千尋 おにぎり」検索より
https://www.youtube.com/watch?v=nGRHI21uNLE



[715] 自我機能・自己機能の区分け

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月23日(月)01時41分42秒   通報   返信・引用   編集済

強い光を受けると
瞳孔が収縮する。
自己機能です。

「うわっ眩しい!」
自己機能に結び付いている
言葉です。

「今、健康診断を受けていて
これは眼底の写真を撮る
ための光で
目の病気が無いか調べているのだ」
自我機能の物語です。

人間の自我機能による
実験に対して
自我機能に翻弄されながらも
自己機能の技で対応する
チンパンジー
https://www.youtube.com/watch?v=gmDuzNAukmY
動画の中ほど
一つ目の数字を
タッチした時点で
他の数字がブラインドされる。
人間ならば時間をかけて
疑似ストーリーを記憶に
定着させてからタッチする
だろうという場面だ。
チンパンジーは
物語を作らずありのまま
瞬間記憶し即座に行動する。

0085:世界一の記憶術 斎藤直子さん著
https://www.youtube.com/watch?v=i0BduHuwzHs
1day速読術講座
https://www.youtube.com/watch?v=xpNnRmR6ag8

人間も練習すれば
どちらの方法も出来るはずで
技として見る時点では
自我と自己の区分けがあれば
どちらも正常な機能であるが

区分けが出来ていないのであれば
記憶術は思い込みの創作の
自我機能である。

学校で勉学を学ぶ際
あるいは
宗教の教えを学ぶ際
暗記のための一次的な
仮の記憶としてではなく
「これが正しいこと」
として
科学的な真実等と並列し
支配のための社会のシステムを
創作の記憶で暗記していく。

その付随された意味付けを
本当の価値と思い込んだり
仮に納得しておくための物語を
これしかない唯一の真実だと信じ込む。

人間は社会的に
そういうエピソード記憶が強いので
関連付け記憶を選ぶと思われる。

これは良い悪いを言っているのではなく
人間はただそうある。
そうあった。

人間以外の動物にも感情があって
イライラしたり嫉妬したりもする。

実験のチンパンジーも
最初はもっと少ない数までしか
こなすことが出来ず
自分の腕を噛んで悩み苦しみ
何とか壁を乗り越えて
そして9まで出来る技を身に着けた。

猿に不公平な報酬を与える実験。
https://www.youtube.com/watch?v=meiU6TxysCg
(右下四つのボタンの左
字幕クリック、隣の設定で
字幕→自動翻訳→日本語
これである程度意味が分かる)

思わず笑ってしまう。
人間みたいな反応だ。

この醜い性質は
人間だけのものじゃないんだ
という安堵から
笑ってしまうのかもしれない。

反応はただある。

自我機能の世界に投入されれば
自我機能に対して反応する。

用意された席に着けば
そこで行うべき動作をする。

有名なスタンフォード監獄実験
http://startup-yotsubu.hatenablog.com/entry/2016/06/18/144158

人間に善悪があるのではなく
自動的に起こっているものに対して
自我機能が善と悪を区別している。

人間は自我機能が強いので
自らの自我機能を見つめ直すことができる。

実在しない架空の判断基準
意味体系なので取り換えがきく。

しかし実在している自己機能は
取り換えがきかず
同じ環境には同じ反応が起こる。

この区分けが出来ないと
思考概念で世界を変えられると思う。

誇大妄想だ。

意識を自己機能に向けると
体感の世界がある。

思考概念から離れると
自分という幻想が消える。

観測されている現象が既存在ならば
観測している側は未存在である。

後付けで先に意思があったことにしている。
意思の認識にはズルい時間差の嘘がある。

未存在が既存在を変化させることは
出来ない。

意思・意味・意義は本来は受動的である。
自我機能では本質を変えられない。

鏡の中の世界が主権をもって
現実を変えようとするようなものである。

人間と人間の間にしか通用しない
意味や価値は幻想である。

幻想ではない実在が
今ここにあるから
それに気づき幻想と言うことができる。

全てがただ一つ同じ。

この非二元の一法は
何ものも漏らさない救済である。

分離が無くなれば
実存の存在が雄弁に語りだす。

体感覚知へは
呼吸に意識を向けるところから
始まる。

あるようにあり
なるようになる
慈悲の世界。

大反転の時がきている。



[714] 言葉の匂い

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月20日(金)11時46分18秒   通報   返信・引用

「涅槃とはニルバーナである」

どうだろう?
さも特別なことを言っているような
印象はないだろうか?

この人は分かってるなぁ

あるいは

そんなのは謗法だ

なんてもし
心の片隅にでも感情が起こるのは

感じた自身の生命現象です。

言葉だけなら誰でも言えるし
「涅槃とはニルバーナである」
って、ただの訳です。

ただの訳だから決定論的に
言うのは変だけれどね。

「謝謝とはメルシーである」
って言うと

おいおい日本語はどうした
って話だ。

自文化への愛
異文化への拒絶。

同じ言葉を使うことが
仲間であることの確認。

日本語には独特な
方言体系がある。
http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/~long/papers/shiritai.htm

仲間意識という
意識の場がある。

方言というと旧習的なもの
のような感があるが

マクドナルドの略を
関東ではマック
関西ではマクドというような
新方言なんていうものもある。
http://www.soc.hyogo-u.ac.jp/ksugai/annai/annai-2004/2004-6.htm

仲間意識が高まると
非言語的コミュニケーションの
力が高まる。

親子がジェスチャー当てをやっているところを
他人が見ても全く分からなくても
親はしっかり言い当てる。

インターネット上の
場の意識・仲間意識
というものもある。

独特な言語体系も
量産されている。

そこに向けられる眼差し。

同時代現象。

そこにある波動。

同じ言葉であっても
同じコピペであっても

生命現象として
当にその時
どう感情・イメージが想起し
体感として復活するのか?

同じ小説でも
読むたびに新しい発見や
違った印象を持つこともあろう。

言葉とは不思議なものだ。

ちょっとしたニュアンスで意味も変わる。

発し方によっても
受け取り方によっても変わる。

思い出し方によっても
思い起こさせられ方によっても変わる。

経験してきた環境によって
言葉が変わる。

時代によっても言葉が変わる。
言葉の持つニュアンスも変わる。

「言葉の変化のヤバさは
いとをかし」である。

名詞であれば
これのことをそう呼んでいた
というだけの話であるが

人間の感じ方や
人間自身の性質に関する言葉は
その場での呼吸
ニュアンスである。

「空気を読む」
「ニュアンスを嗅ぎ取る」
「昭和臭がする」
「説教臭い」
「彼には同じ匂いを感じる」
「薫陶を受ける」
「鼻につく言葉」

呼吸のニュアンス。
言葉を嗅ぎ分ける。

この感覚は
人間も動物であるということだ。

人間は言葉を嗅ぎ分ける方向に
進化したから実際の嗅覚は
退化したのかもしれない。

声やビジョンではなく
匂い物質によって
コミュニケーションする
生物は多数いる。

サイン・目印
縄張り。

気づかなければ
土足で踏み入ったら
怒りを買う。

そこにある生態系の
防衛反応だ。

思考概念によって
正義だという力を行使して
防衛反応を無視し圧倒し
サイン・生態系ごと薙ぎ倒す
暴力的行為を
肥大化した自我機能はする。

サインを無視する。
空気を無視する。

地球環境が
悲痛な空気に包まれる。

それでもなお
正義を掲げて繰り返す。

その正義は間違っているという
主張も新たな正義感となり
思考概念の上書きとなる。

脱しがたい無限ループに
無力感の空気が地球を包む。

ならばこそ仏法で言う
「禅定」は確かな希望なのだ。

行使するものではなく
もたらされるものを悟るのだ。

智慧とは言っても
禅定によってボトムアップの
生命現象を覚知したときに
もたらされるものを言うのだ。

無常の世界にあって
常に変化しないのは
もたらされることに
気づいている意識である。
(不変真如の理)

もたらしている側を
了解して基づけば湧くものが
智慧なのであり
縁に随う受容のものである。
(隨縁真如の智)

法華経の行者の一身の当体が
禅定であり

南無妙法蓮華経が智慧であり

救済への反転現象が戒壇です。

戒定慧です。

(三大秘法と三学)
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-229.html

もたらされる生命現象が
同じであるならば

自文化と異文化は
実は同じものです。

今ここに関係の無いものを
異文化であるというだけで
攻めていこうとするのは
蹂躙でしかない。

融和によって今ここの共有が
開かれていくのです。

宗教枠の解除という
慈悲の現象が起きていっているのです。

非二元という真如の
あなたに起こっていることは
宇宙規模で起こっていることなのだという
禅定なのです。

アーメン(それな)

https://togetter.com/li/1035414

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%AA%E7%B5%82%E6%AD%A2

http://www.kenya316.com/entry/2016/09/13/210000



[713] 枠の解除

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月18日(水)03時31分40秒   通報   返信・引用   編集済

どの話が

どの階層での話なのか

究極のそのものは
言語化できないので

それぞれに目先を移した
機根に応じた段階の
概念の枠をもった話となる。

特にこのような、文字に頼ったスペースにおいて
言葉の意味、概念としてしか
表しようがなく

それでももちろん
それだけじゃないものとして
あるのではあるが

文意においては
都度、対象化した枠があり
それはつまり三界である。

宗教枠があるというのは
三界の側の理屈である。

如来の側には
そのような枠はない。

三界の理屈で言うと
魔を追い出すとか
悪霊を祓うとか

そういう通過点が
あるように思うが

実際の如来の在り方として
覚めれば

在り方に対して三界が
そのような理屈を
つけているにすぎない。

仏と魔という比較が
無記となり不二となる。

厳然と未だ散っていない
法華経の非二元においては

二も三もなく
一しかない。

追い出すという概念が
存在しえない。

覚めた世界においては
蘇生以外によって
存在しているものはない。

涅槃蘇生不二という
妙法・生命現象である。

量子的振る舞い。

言語化という
意味を測定した瞬間
もう一方の情報が失われる。

不確定性原理。

https://staff.aist.go.jp/a.ohta/japanese/study/REE_ex_fc1.htm

http://www.h3.dion.ne.jp/~jituzai/genndaibutirigaku.htm

あるいは電子は
飛び飛びの値の軌道しか
とることが出来ず

そこからは
決まったスペクトルの
発光しかすることが
出来ないといった
不思議な性質。

http://www.5kaku.net/?p=7321

んー
そういえば

人間って微かに光ってるんだっけか。

https://matome.naver.jp/odai/2137243102251847301

一念の基底
境涯の基底
生命そのままの基底

意識としてそのまま
非二元になりきる。

起きているという事に
気づく。

説明しえない。

私の生命現象。

私はあなた。
あなたは私。

非二元。



[712] 正直捨方便但説無上道

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月17日(火)03時12分11秒   通報   返信・引用

物や言葉に囚われるならば
例えそれが正しい教え

日蓮仏法を信じるなら
日蓮真蹟に間違いない
ものであったとしても

それを悪用することは出来る。

逆に、日蓮真蹟ではない
ちょっとおかしな教えがあったとして

時と場合と使い方によって
必ずしも人を善導するのに
用いることが出来ないとも言い切れない。

さて

体感覚知からすれば
誰を本仏と設定しても
最終的には非二元だから

民衆を苦しめる権威と
結びつけない限りは

さして問題ない。
どうでもいい。

「池田先生の書いた御本尊」
というものが
あるという「話」があるが

それはどんな相貌かなんて
考えても仕方なくて

いわゆるそういう御本尊ではない。
という話があるらしい。

私にとっては
そうであるならば
直接見て拝まなくても

我が己心の中にある
これなんだという思いである。

御本尊観のパラダイムシフト。

要は本来の仏法として
何が正しいのかの見直し。

一生成仏の方法。

本来は

教え導く僧の役割は
「現れの全ては法であり
つまりはそれがあなた自身なんだ」
ということを気づかせる手伝い。

手本、鏡、仏界の世界そのもの
今ここの全てのそのままとして
文字曼荼羅本尊を本尊とする。

探求者である民衆の自己機能が
精進し気づけばそれ自体が
分離の無い非二元の法であり
己心の御本尊を覚知する。

この法の上に仏界が湧現し
それは二者関係の歪みに対して
正し、本来の循環に蘇生させる
魔に対しての師子吼の働き
強敵を伏して仏となる働きと現れる。

それが一生成仏の道である。

「開く」とは「気づき」である。
「円満」とは本来の循環である。
「蘇生」とは魔を責め退散させ取り戻すのである。

本因妙教主系と
経王殿御返事。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51758.html

経王殿御返事は
学会員にとってポピュラーな
「なんか変なとこあったっけ?」
というような御書であるが
これには疑義がある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226590387
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n13660

体感覚知からよくよく見ると
何かがおかしい。

後に御本尊を与える権限を
持つ者からすれば
以下のようなことを
正当化できる。

「金銭を頂きました。
金銭は私にとってとても大切です。

日蓮が魂を墨に染め流して認めた
生身の日蓮大聖人である
御本尊をお渡しします。

信じて祈れば願いが叶います。
もし願いが叶わなくても
それはあなたの信心と祈りが足りないからです。

この宗教が間違っているのでも
私が悪いのでもありません」

こんな楽ちんな商売はありません。
悪徳宗教です。

もし御本尊を授与する権限を持つ者が
そういう所に安住するならば

当然のこととして人間が腐ります。

そういう歪みの魔に対して
責めて一生成仏の循環を復活させるのが

真の力ある宗教という因を作り
力ある宗教に救済される民衆という果を得る。

表裏です、同時です。
そして道理です。

既存の宗教の在り方に対して
本当の民衆救済への転換をなす。

釈尊も日蓮もキリストも
その「人の振る舞い」なのです。

本来ある蘇生の循環システムなのです。

法主や会長の向こう側に
拝むべき三宝があって
従わなければ救われないというのは
まさに魔の働きであって

民衆自身がダイナミックな
非二元の法自身であって
南無妙法蓮華経であると気づくことが
仏の働きなのです。

正直捨方便但説無上道
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11151935156

自我機能の思い込みを捨て
非二元の体感覚知を語るのです。

自身が法であると了解すれば語れるのです。

池田先生自身不二となり
飛翔するのです。

それは絶対勝利なのです。


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