いまさら やめては だめなのだ

反宿坊板、及びそれに類する掲示板へのリンクはご遠慮ください。 串投稿もご遠慮ください。 他者に対する発言は充分な根拠を示してください。



カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


772件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[730] 生滅の滅の心を酌みし

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月25日(土)00時17分21秒   通報   返信・引用

法の滅と共に帰し
法の生と共に命(もとず)く

今世の生への執着を離れた智慧の世界は
個を越え生滅を越えた今ここの存在

根本が寂滅の非二元であるがゆえに
同時の多眼的な二極性はただ開かれているだけ

このことを未だ知らずと観じ
心して習い修めよ。

南無妙法蓮華経。

自身の信仰の稚拙さを
恥ずかしいと思って
後生大事にかくまって

ほっといてくれ
私はこんなに地位がある
私はこんなに財産がある

おまえより良い身分だ
偉いんだ!

そのまま死んだら
稚拙な世界に堕ちたまま。

自分が恥ずかしいと思っているだけで
他人から見れば案外何でもない。

そんな思考概念はどうでもいい。
恐れずに行動してさらけ出してみろ。

我慢せずに吐き出せ。

同じ今に生きる世界の人間を
自分だけは違うと信じて
忌み嫌ったら孤独になるのは当然だ。

何をどうしたって
本当には失われるものはないから
思いっきりやんなさい。

自由にやんなさい。

ああ、その心を
どうして酌めないんだろうね。

人間とは弱いものだ。

委ね、生かされていることに感謝しよう。

立ち止まって
自身を見つめ直し
真実の行動に燃え立つのだ。

アクセル全開のまま
方向転換しようと思ったら事故る。

バイアスを解除して
本来の当然の手順を踏むのだ。

仏法の大船なのか
酔っ払い運転の暴走特急なのか

俯瞰するのだ。

本当の大船は一念三千である。
それはどこまでも自身の信仰である。




[729] 境智行位

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月22日(水)12時02分29秒   通報   返信・引用

而二不二・非二元というもの。

これは元々違うものだったものが
同じものに変身する
「成る(なる)」ものでは無く

元々分離が無いものが
境智によって働きの違いが現れている
「成く(ひらく)」気づきである。

二本の棒磁石をつなげる場合
全く同じものがつなぎ方によって
N極側ともS極側ともなる。

棒磁石・鉄の棒・木の棒がある場合

棒磁石は感応させる磁力を発しているもの
鉄の棒は感応することが出来るもの
木の棒は感応することが出来ないもの。

知覚器と知覚できるものと知覚できないもの。

ありありと知覚できる存在の質感は

だけど「2:6:2」の法則を考えると
http://www.entrepreneur-ac.jp/report/bando/ants20121004.html

全体性という磁石があって

我々個々人というものは
そこに振り撒かれた砂鉄のような
存在かもしれない。

鉄は磁石ではないが磁力に沿っている。

磁力は磁石に整えられたエネルギーの
循環であるが鉄に沿わされて
強く発される位置が変わる。

磁石と鉄と見るか
全体の磁界として見るかが境である。

磁力が智である。

その振る舞いが行である。

その磁界の位は
方位磁石を境としたら
方位磁石という位だし
地球を境としたら
地球という位である。

仏界と九界の而二不二。

創価学会と会員?
組織と組織人間?

日蓮大聖人と門下?
池田先生と弟子?

宇宙と我?
生命と存在?

物質世界と精神世界?

広宣流布という働き行いをするには
御本尊と地涌の菩薩という境智で
南無妙法蓮華経という位である。

「なる」のではなく「ひらく」

号令ではない行い振る舞い。

同じ今という存在感の中にある
個々の現れの気づき。

私はあなた
あなたは私。

<かんながら>
輪廻転生についての質問
http://abetoshiro.ti-da.net/e9367380.html

今があるだけ。

やるときめたらやる。

今でしょ!

南無妙法蓮華経~!



[728] 広宣流布はどこまでいっても結局は御本尊の仕事

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月19日(日)23時23分22秒   通報   返信・引用

「広宣流布は、どこまでいっても結局は御本尊の仕事である」
「広宣流布とは地涌の菩薩の仕事でもある」

「法華経の行者の祈りは必ず叶う」
「この法を聞いた者は必ず成仏する」

「法華経の行者には必ず難が競う」

「いかなる病も障害とはならない」
「体の病・心の病・社会の病」

信仰という蘇生のためのエネルギー

「事の一念三千」
「南無妙法蓮華経でないものはない」

難・迫害があるのは
または宿業が出るというというのは
正しく南無妙法蓮華経が活性化するための
過程であり新陳代謝である。

自己機能の活性化
非二元へのシフトである。

自我機能を引きはがす時に
その抵抗がある。

あって終わり。
祈りが叶う。
それだけ。

そして思ってもみなかった
非二元へと移行する。

純粋にそれがあるだけ。

複雑に見えることも
そこにただ働いただけの
ストーリーの残痕。

自我機能の思考概念に囚われると
それが逆転する。

上手くいかなかった「部分」を
取り上げて上手くいかなかった
理由を作り
だから上手くいかなかったんだと
納得して信じる。

上手くいかない時もあると信じる。

それは自分の作った
言い訳の解釈にしか過ぎないのに

それが仏の教えなんだと信じ込む。

あるいは祈りに意味なんて無いと信じる。
その者を丸め込むための解釈を作る。
それを仏の教えだと信じる。

それらが体系化し

祈りは叶わないこともあるけど
止めずに頑張って
教団を維持することに協力しなさい
という教義の宗教になる。

根本の前提が
仏の教えとは違うものになっている。

思考概念で言うなら
それが魔なのだ。

魔の教えをいくら実践しても
仏は成(ひら)かれない。

教団の教えの中には
本来の仏の純粋な教えと
臆病な魔の歪曲した教えが
混然一体となっているのが
当然のこととしてある。

その紛らわしさに紛れて
宗教で金儲けする人間が
偉そうにしてのさばる。

あるいは
もっと前段階から信仰には
経典が出来上がることによって
その解釈を巡って論争し
分裂しいがみ合う。

どの宗教も大きくなればそうなる。
歴史的事実である。

その見分け・区分けが
自我機能と自己機能の
見分け・区分けなのである。

自我機能を解除し
非二元を覚知すれば

構築の絶対的な仏も魔もなく
全てが過去も未来もなく
完全である。

なぜならその仏も魔も
菩薩の迷いが生み出した
思考概念の魔であり

思考概念の解除した
非二元が仏である。

それもまた思考概念であるが
言葉の限界性である。

ともあれ視点によって
見方が異なる。

池田先生は
「仏眼・法眼によって悪を見抜け」
と言われている。

それは「上の言ったことを
そのまま信じるな」
「一歩引いて”今ここ”の明晰から
分析するだけでも足りない」
「そこからさらに
法のため民衆のために
行動を起こせ」
「その全てが完全で
あることと不二となれ」
ということだ。

全ては完全で
南無妙法蓮華経の現れで
御本尊の仕事である。

そう開ききった時
何から何まで全て
広宣流布されている。

人は
見たようにしか見えない
意識である。

<宿坊の掲示板>
賢人  投稿者:ジョーカー
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64598
御本尊の仕事  投稿者:ジョーカー
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64631
広宣流布は、どこまでいっても結局は御本尊の仕事である  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64650

宗教教義という色眼鏡
あるいは明示された教義でなくとも
流れや雰囲気が本来の信仰を
むしろ信じなくさせるという現象。
難・迫害の意味。
宗教が違っても
そこに生きる人がいて
そこに起こる菩薩の生命がある。
アルベアのブログに紹介された
トーベン・ソンダーガードの
日本語訳済みの動画
パイオニアスクール Lesson 5 「福音と癒し」
https://www.youtube.com/watch?v=DrXaoALaOi0

ちなみに教義に明示するよりも
明示せずに迫害する方が
質が悪い。
崩落している。

<宿坊の掲示板>
曖昧さはダブルバインドという悪  投稿者:飛翔こそ蘇生  投稿日:2016年 8月 8日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/53674



[727] 十四誹謗抄

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月19日(日)03時33分55秒   通報   返信・引用   編集済

宿坊の掲示板に
革命こそ蘇生として
投稿を開始したころ

ある御書を題材に
ノートにマンガのラフを
描き上げた。

宿坊初投稿の頃の目線は
どちらの言い分が正しいかには
中立的であって

自ら関わることで
判断を深めていった。

マンガのラフを描いた
ある御書は
その判断基準に
大きく影響したと思う。

その御書は
松野殿御返事(十四誹謗抄)
である。

マンガに起こすにあたって
嚙み砕いて理解を心がけた。

アルベア論と出会い
仏法の深化を目指す中で
「これは!」と思った御書は
三世諸仏総勘文教相廃立
である。

日蓮仏法の大乗本来の
「空」の仏法の深化を考える上で
この御書のチョイスは
気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
とも重なるところである。

浄土、阿弥陀仏という所の視点は
まだ私には無い所ではあるが
阿弥陀仏とキリストのリンク率のこともあるし
考えてみるのも面白いかもしれない。

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
『松野殿御返事』と浄土思想。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/19/001537

創価教学研究室(赤鬼のブログ)
松野殿御返事(十四誹謗抄)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51987.html

ラフなので
本来、人様に見せるものでは無いし
見づらいと思いますが
自分で清書できるメドは無いので
仮公開します。
じひのふで~十四誹謗抄~(仮)ラフ
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/ilovepdf_com-1-14.pdf
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/ilovepdf_com-15-28.pdf
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/ilovepdf_com-29-41.pdf

「正義」の揮毫の脇書き
「われ一人正義の旗持つ也」は

学会中枢に巣食う
十四誹謗の渦中に
あったからこそであり

それがどれほどの辛苦であるか

弟子としては
その一分でもこの身で読めたのなら

これほどの誉れは無い。

師匠の慈悲は
私を十四誹謗の渦中にまで
連れて行ってくれた。

気づけば反転します。

歓喜なのです。

「然るに在家の御身は但余念なく 南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」
(出家の身は前述のとおりである。在家の身であるあなたは、但余念なく、南無妙法蓮華経と唱えて、僧をも供養することが肝心なのである。それも経文のとおりであるならば、力に応じて折伏すべきである。)

誹謗と折伏のパラドクスの
十四誹謗抄での結論は
この部分であると思う。

この十四誹謗抄は
法華経の行者の定義に
関わると思う。



[726] いまの一瞬に無限の生命を生きる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月17日(金)05時44分25秒   通報   返信・引用   編集済

<宿坊の掲示板>
《テヘラニアン博士との対話 「二十一世紀への選択」  投稿者:赤胴鈴之助
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64557
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64558
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64559

『いまの一瞬に無限の生命を生きる』
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64560

ただただ有難い
有難うございます

頭が下がります。

感謝感謝
歓喜歓喜です。



[725] 死に臨む生命の反転

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月16日(木)14時03分14秒   通報   返信・引用

非二元から言うと
「誰」が「仏」ではない。

働き作用として
「ある」のである。

池田先生が戸田先生の
「中」に「仏を見た」というのは
そこにある自他不二の「働き」である。

この自他不二の働きが
仏と現れる場合の
二者関係を師弟不二と
言葉としてはそういう
「ストーリー」になる。

誰が誰を師とし
誰の中に仏を見るかは

その「愛」「慈悲」の働きへ
反転した生命現象への
その個々人のことであるが

師の無い独覚の縁覚と
師のある不二になろうとする
菩薩との規模の違いがあるが

法華経の非二元から
見直せば三乗の違いはなく
一仏乗である。

今ここの中に全てがある。
一念三千である。

私が一念三千と呼ぶものが
天台智顗の一心三観に通じているということは
それがまさに一念三千であり

これは仏教を習うから身につくのではなく
観察と現象と経験に気づけば開けるものであり
そこがなされなければ
いくら仏教を学んでも開けないのである。

同じ宗教をし
同じものを信じていると
思っているもの同士でも
それが本当に
全く同じものを信じているかは
疑わしい。

逆に言えば
違う宗教をし
違うものを信じていると
思っているもの同士でも
それが本当に
全く違うものを信じているかも
疑わしい。

非二元から言うと
「誰」が「仏」ではない。

逆に言うと
「誰」が「三類の強敵」でもない。

今ここの中に全てがある。
一念三千である。

昭和54年、当時の執行部は
池田先生を「名誉職へ」追いやった。

「お疲れさまでした
もうあなたにしてもらう仕事は
ありません」という
「名誉職」である。

事実、仕事をする場所が与えられず
指揮をとろうにも拒絶された。

事が収まるまでなんていうものではない。
あまりにも冷たい仕打ちだった。

<師弟不二ARCHIVE>
54年辞任or勇退
http://sgi-shiteifuni.com/?tag=54years

戸田先生の獄中からの復活
池田先生の辞任からの復活

それはある意味
死を経験したようなものだ。

そこにあるそれには
個別を超越した存在が関わっている。

ストーリーではなく
存在を見るのだ。

<YouTube>
臨死・そして与えられた2度目の人生-Howard Storm "My Descent into Death"
https://www.youtube.com/watch?v=4xgmZQe9DlE

同じものを信じていると
思っているもの同士でも

違うものを信じていると
思っているもの同士でも

その両面の二者関係の
疑わしい中の誹謗中傷・迫害の
自身の生命に道門増上慢がある。

ならば僭聖増上慢は
素晴らしいと教えられたものを
素晴らしいと信じ切って
利用されるままに利用されていることに
気づかずに言われたままの悪行為も
それが正しい事だと信じ切って
行ってしまう自身の愚かしさの
生命現象にある。

つまりは同じ一人の人物に対しても
二者関係の働き方によって
仏の働き作用の師弟不二とも
魔軍拡大のための僭聖増上慢とも

その影響力が大きいほど
その両方の筋道が分かれる。

全て自身の生命現象だと覚悟するのだ。

善悪無記であり善悪不二である。

54年の真実に向き合わず歪曲する生命が
投獄の歴史とも向き合わず
戦争できる国への変化を
なんとも思わない生命と通じているのである。

生命現象には
「ここだけちょっとごまかそう」
なんていうズルは通用しないのだ。

戒壇の防止非悪の精神の復活が
仏法の生命の世紀への扉を開く。

煩悩の解除、自我機能の解除

非二元の覚知をするのだ。



[724] 一心三観

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月13日(月)10時08分44秒   通報   返信・引用   編集済

非二元の基礎的な確認過程

気づきのダンス
私がパソコンを見ているという錯覚♪

これは一心三観なのではないか?

SOKAnet 教学用語検索
一心三観(いっしんさんがん)

コトバンク
一心三観

観察者の観察による空諦
観察される現象世界の仮諦
観察という経験の中諦

それらは意識を向けた時に
入れ替わったり変化したりするのではなく

意がそれらそのもので
全く分離していない。
真如である。

このことを知識として知ることと
体感して覚知することの違いは

自転車を知っているかと
自転車に乗れるかとの違いのようである。

自転車という名を
知っているかどうかや
あるいは自転車と呼ぶか
バイシクルと呼ぶかは

実際にサイクリングする時には
ちゃんと乗りこなせるかだけが
重要なのである。

自転車という実在を
確かめる作業が一心三観であり

実際にサイクリングしている
状態が無作三身である。

無作三身という言葉が
日蓮真蹟の中に出てこない
ことを踏まえて言うと

(気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
「無作三身」のこと。

んん?

一生成仏抄も学術的には
偽書扱いですか
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1179115656

しかし
~~「妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや」などの、本覚思想的な文面も存在します。~~
これは観心本尊抄です。

学術的研究においては
まだまだ私のは稚拙であり
気楽に語ろう著者の足元にも及ばない。

私自身は
「法華経の智慧」を
これは素晴らしいと心をときめかせていたころ
長く会っていなかった父は日蓮正宗へ
母は相変わらずの創価学会

正しい教学とは何かと思ったとき
法華講員の樋田氏の動画なども見
日蓮真蹟に関するものも散見し

局所的には自殺者が出るほどの
組織の無自覚な圧政の現状を思い

日蓮正宗も創価学会も
両者に欺瞞があり
それらを信じないと覚悟した時
「ああ、これが仏だ」というものを
発見した。

それは確かに
戸田先生、池田先生にあって
宗教を越えて人権闘争の
魂にもあるものだった。

いやしかし、ここで分かった仏が
迹門の仏であることが自覚された。

仏を知っている人に会いたい
本門の仏を知りたい。

そういう想いの中で
大きな出会いとなったのが
アルベア論である。

アルベア論と創価仏法を
繋ぎ得るものは何か?

そこに五眼三身を見出した。

日蓮真蹟に無作三身は無くとも
五眼三身はある。

『四條金吾釈迦仏供養事』
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index272.html
「曽存」(かつては真蹟が存在したもの)

五眼三身は寿量品にだけ
実体があるという。

寿量品の心と我が心が冥合した時
己心の寿量品となる。

私は一重立ち入る選択を
心がけている。

「今ここのこれ
これ自体の一念三千」
である。

この真如の乗りこなしである。

開眼供養とは
この真如の救済の活動
仏の働きを成(ひら)くのだ。

その成(ひら)かれた働きの上では
覚知を促す智慧として
救済への反転が可能なのである。

目覚めた智慧を体感の上で知る。
それが覚知であり

その智慧の完全さそれ自体が
自受用報身如来であり
全体性である。

外から教えられる物語は
創作の産物であり
それに随って理に適った
見せかけの既成事実が迷いとなる。

一人立ち自得する。
それしかない。



[723] 沈黙と法難と泰平

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月12日(日)03時55分30秒   通報   返信・引用

アルベアのブログに紹介された
『沈黙ーサイレンスー』を見てきた。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12242022515.html

切支丹にとって
それは現在の日本では
想像もつかないほどの法難。

規模も惨さも
熱原の法難をしのぐだろう。
http://sokanomori.exblog.jp/17348439/

沈黙というテーマであるが

信仰と法難と救済の無さと人命と
使命と人の弱さと強さと醜さと美しさと

あるいは正しい法を
正しく伝えることの難しさ

同じ宗教をし
同じものを信じていると
思っているもの同士でも
それが本当に
全く同じものを信じているかは
疑わしい。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1265678222

各家庭に同じ御本尊を
安置し拝んでいても
各人がそれをどのように
解釈するのかの統一性は
少なくとも今の創価では
まちまちである。

しかしそれでも
祈る姿勢、祈る呼吸
その指導がなされるならば
そこに起こる体感は
同様のもののはずである。

沈黙の時代設定は
島原の乱のほんの少し後か。

拷問の手法の惨さと
人命のぞんざいな扱いの
過渡期である頃だ。

島原の乱で殲滅を実行したことにより
一帯の労働力が無くなり
余所から移住させて復興するのに
50年を要している。

少し後になると悪法として名高い
生類憐みの令が発令され
作戦コマンド
「命を大事に」が実行される。

鎖国という
悪知識とはむやみに
親しみ近寄らない
効果ともあいまって
泰平の世へとシフトする。

開国ではそのリバウンドと
蓄えた能力と適応力が
もたらされた悪知識の部分と結合し

近代戦争の悲惨を経験することになる。

かんながら
未来社会
http://abetoshiro.ti-da.net/e9340206.html
~~「この国の人々の飾り気のなさを賛美する。
いたるところに満ちている子供たちの笑い声を聞き、どこにも悲惨なものを見出すことはなかった。
西洋の人々が、西洋の重大な悪徳を日本に持ち込もうとしているように思われる。」~~

アルベア論
「人間観」「人間感覚」から「生命観」「生命感覚」へ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/262

江戸の泰平もさることながら
かんながらの記事にも開くとあるように

かんながらの阿部敏郎さんと
アルベアさんが共に注目しているのが
縄文である。

かんながら
縄文の復活
http://abetoshiro.ti-da.net/e9335430.html

アルベア論
人間感覚から生命感覚へ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/229
生命現象2
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/254

持続可能な
生命感覚に満ちた時代。

それは非二元へのシフト
意識のイノベーションによって
もたらされるのだ。


Dailymotion
2012 BSR 島原の乱1005
https://www.dailymotion.com/video/x4amlpn
BS歴史館 : 徳川綱吉 / 犬公方の真実
http://www.dailymotion.com/video/x2jjyvx



[722] 救済ということ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 9日(木)13時28分0秒   通報   返信・引用

毎朝の目覚めは

自分は何者なのか
ここはどこなのか
今はいつなのか

確認することから始まる。

最初の気づき

「私はある」
「I am」

というものは
常に未知の世界に降り立つのだ。

何を自身の胸中へ入れ理解し
何を護り継続し
何を捨て何を取り入れて変革するのか。

戸田先生の朝は
深い思索から始まるのが
常であったという。

自身の難即悟達の境智を
いかに世のため人のために
いかにして民衆に知らしめるか。

その変革の先駆者
雛形としての種

そのリーダーシップを
発揮するためには

その同時代の民衆の求めを知り
全体性を体感し俯瞰する。

民衆の中に飛び込み
自身がその民衆自身となることでしか
民衆の自発的改革の波は起こらない。

一切のあるがままを受容することで
そこに起こる意図思惑の無い
素直で正直な気づきが



歓喜となって伝播する。

自我機能の煩悩を解除した
非二元の体感覚知で

全体の現象を「見る」こと。

民衆達のありのままの煩悩のありよう
良い所もあれば悪い所もある
良いも悪いもない
人の振る舞いを
「見て」「受け入れ」「胸中に入れる」
そこに即ち菩提への反転がある。

それには煩悩を解除した「善」の
その身体という禅定
その目覚めの躍動の智慧
その実現の精進の戒壇

民衆を父として慈悲・仏智が
もたらされる。

否、もたらされ続けていることに
意識を向けて気づく。

煩悩が無いことが善ということと
煩悩即菩提は矛盾しない。

煩悩が無いことが善ということを
大乗の運動として広く宣揚する手法が
そのまま煩悩即菩提なのである。

だからね、上からね
押さえつけていう事を聞かせようとか
ひょいとやってきて片手間で
机上の理論の思考概念で何かを変えようとか

あっちでは上手くいったから
こっちでも上手くいくだろうなんていう
今ここの見えていない
ちゃんと意識が向き合っていないものは

仏法じゃないですよ
そんなものは。

いいかな?

例えば選挙戦で
導かれる結果が仏法に適っているか
自身で精査することなく
上から言われたことをうのみにして

社会での利益・成功の願をかけて
(名聞名利)

友人台帳を作って知人に総当たりする。
(意図思惑の偽善)

功徳だ罰だと一喜一憂。
(六道輪廻)

監視の目を光らされて
思ったこともまともに言えない。
(欲界の主の第六天魔王)

煩悩即偽善、六道輪廻。
第六天魔王の支配する世界。

分かるかな?
自称お弟子さんたちの現実。

だからそれは
解除対象ですよ
本来の仏法から言えば。

分かります?

そもそも池田先生が
まさかを実現させたのは
そんなものじゃなかった。

自称お弟子さんたちが陳腐にした。

違います?

日顕宗がどうとか

思考概念の上では
整合性ということだけど

解除をするにあたって

解除した際に
手放すものは何なのか
何が護られ失われないのか?

民衆の側の
歓喜に直結した納得を

明確に示さなければ
失敗する。

コンサルタントの示した数字に
学会本部が護られることを
学会本部が納得したとしても

民衆は納得しない。

池田先生がその時期に
どういう戦いをされ
何を残されたのか?

「池田先生」
「池田先生」と

口ではみんな言うけれども

嘘ばっかりじゃないか。

自分を知りなさい
創価学会を知りなさい
池田先生を知りなさい
日蓮大聖人を知りなさい
日蓮正宗を知りなさい
鎌倉同時代の仏教を知りなさい
天台の摩訶止観を知りなさい
鳩摩羅什を知りなさい
大乗の「空」を知りなさい
釈迦仏教を知りなさい
同時代の宗教を知りなさい
親の愛を知りなさい
師の愛を知りなさい
主の愛を知りなさい
地球を知りなさい
宇宙を知りなさい
生命を知りなさい
自分自身を知りなさい

意味ではない現象は
気づきの中にしかない。

思考には及ばなくても
空・実相の身体は全てを知っている。

思考は自己都合である。

答えは自身の中にある。
思考の解除した静寂な明晰から
注意深く観察するのだ。

「止」と「観」

「悟り」と「現実」

その法華経の往復が
法華経の非二元である。

You Tube
〔NHK白熱教室〕ハーバードリーダーシップ白熱教室 第4回
https://www.youtube.com/watch?v=axinM32dQOc

You Tube
〔NHK白熱教室〕ハーバードリーダーシップ白熱教室 第5回
https://www.youtube.com/watch?v=UG5-2fupEi8

アントンくんの静かな日々
ハイフェッツ教授のリーダーシップ白熱教室(5-2)
http://blog.livedoor.jp/uribo10inosisi/archives/8166451.html

創価教学随想
戸田先生の獄中闘争
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-category-36.html

東洋経済オンライン
ミスの多い人がわかっていない集中力の本質
(リーダーシップ・教養・資格・スキル)
http://toyokeizai.net/articles/-/135195

パレオな男
みんな大好き「見えないゴリラ」系動画まとめ
http://yuchrszk.blogspot.jp/2014/05/blog-post_6900.html

仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界
瞑想法エントリー一覧
http://www.bukkyouoshie.com/meisou/



[721] 善悪不二のパラドックス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 8日(水)04時22分4秒   通報   返信・引用

善悪無記であり
善悪不二である。

思考概念からすれば
「えっ?じゃあどういう
生き方をすれば良いの?」
と思う。

当然、善く生きるべきである。

自我機能と自己機能の違いである。

分離した自我機能で
自分が善であろうとすれば

外に相対した悪を見る必要がある。

善vs悪というストーリーで
勝利のためのズレてブレた
意図思惑の思考概念という
煩悩障・煩悩魔となる。

分離のためがゆえに
善として決意したはずの行動が
結果として魔を得ることになる。

自己機能から善を見れば
私とあなたの善い関係であり
誰が善とか誰が悪とかが無い。

意図思惑ではない純真から
時に言うべきことを言い切り
時にただただ受け入れる。

全体性のバランスから
自然に起こる慈悲に包まれた
生命現象である。

<仏教の善悪エントリー一覧>
http://www.bukkyouoshie.com/zenaku/

~~「善と悪」
いろいろな定義や考え方、とらえ方がありますね。
しかし仏教では単純明快です。それは、

煩悩が無いこと(弱いこと)

です。

明快です。
仏教では、煩悩が無ければ無いほど、「善」としています。
煩悩がないこと、つまり、心が浄まっているほど善になるというわけですね。~~

読み進めていくと
私自身、反省させられるところもある。

とともに
なるほど非二元の方向性だと思う。

<宿坊の掲示板>
六巻抄講義(依義判文抄)を読んで⑯  投稿者:手袋をした子狐  投稿日:2013年 7月27日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/6878

「戒壇」の意義に「防止非悪」がある。

非悪とは
非行悪業、悪い行為。
それを防止する。

御本尊に向かって題目を唱える
という戒壇のある人生にあって

煩悩、名聞名利の行為を
それはもちろん
しても悪業を積むことにならないのではなく
しないための生き方の実践の道場である。

創価脳はどうもそのあたりを
取り違える傾向があると思う。

大善のための事なのだから
少々の悪は帳消しになる、みたいな。

根幹的な誤りだと思う。

御本尊に向かって題目を唱える時に
煩悩まみれの思考概念優先の
祈り倒しみたいなものは
だから戒壇の意義に反している。

純真で素直で分離の無い祈りが
戒壇の意義に通じる。

<仏教の善悪エントリー一覧>
~~仏教の善悪の考え方は人生観を変えることでしょう。
このことが腑に落ちると、人生観、価値観、そして世界観も一変するようになります。規模や量を追及することが無くなり、量はそこそこあればヨシとして、質を高める人生観になるでしょう。

そうして日々、何気なく行っていることが、素晴らしい行為になることに気付かされます。呼吸をする行為すら善行為になります。

そうです、瞑想が奨められるのも、それが善行為だからです。
瞑想が素晴らしいのは、善行為ができる時間になるからなのですね。

もっとも、そうだからといって在家が、瞑想ばかりして働かなければ、生活上、問題も出てきます。バランス感覚が必要になるでしょう。これは言うまでもありません。~~

思考概念の解除が善なのである。

自我機能の解除である。

「受け入れがたい」という
抵抗があるのならば

それの正体は何であるのか?

「それは誰が作ったの?」と問い
「私」と答えて観察する。

「なぜそれを作ったの?」と問い
掘り下げていく。

解消されていない感情の原点を見つけたら
人様に迷惑をかけない方法で
思いっきり発散させる。
例えばイメージの中で思いっきり暴れる。

あるいはそのままの自分で
無我になるまで唱題する。

毎日ぷるぷる運動をやってみる。

解除されると
本来が蘇生されるのです。

個人においても
組織においても
世界においても。

思考概念で大きなことを
しようとするのではなく

この、あるようにあり
なるようになるという

ただあるという清浄が
世界の恒久平和を開くのであり

その本来の存在自体が
善という意図の消失した善なのです。



[720] 観心、教相、十界互具、三世間

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 7日(火)04時47分42秒   通報   返信・引用   編集済

ずっと見ている人ならば
知っていると思うが

アルベア論を取り入れながらも
「宗教枠の解除」の言及には
すんなり踏み切ったわけではない。

私自身も創価学会員の端くれであり
思考概念の旺盛なベースがあるのだ。

虚実の世界
http://www.ac.auone-net.jp/~davinci1/essay1-1.html

~~池田門下生と戸田門下生の違いは、はっきりしている。戸田の命より大事な創価学会の組織という戸田の意志を受け継ぐ人々が戸田門下生である。したがって彼らは、創価学会が無ければ広宣流布は出来ないと考えている。
池田先生は池田の命より大事な創価学会の組織とは言ってない。むしろ先生は、世界広布に創価学会はいらないという。ニューヨークに本部を設置しユダヤ協会のような組織でなければ世界広布はできないとまで言われた。
池田門下生は、創価学会が無くなっても池田先生とその精神があれば、世界広布は必ず出来ると信じている。この違いは、池田会長勇退のときに顕著に現れた。~~

戸田先生と池田先生の
表面上の違いは多くあると思う。

それらの違いうる部分
「取り換えのきく思考概念」は
師弟不二の根幹ではないと思う。

日蓮仏法の根幹としての
師弟不二である。

観心の本尊即師弟不二。

観心の本尊とは
教相の本尊に対しての
本尊観である。

法華経に相対した時
見られる側の法華経が教相であり
見ている側の己心が観心である。

それは文字曼荼羅本尊に
我々が相対した時も
見られる側の御本尊の相貌と
見ている側の無我の観心の冥合があって
人法一箇となり事の一念三千となる。

生命の変革即社会の変革が
為されなければ
日蓮仏法 事の一念三千たりえないが
思考概念のゴリ押しの部分は
純粋な一念三千ではない。

誰人にしても
それは三代の会長にあっても
日蓮大聖人であっても
日興上人であっても
日寛上人であっても
その個のストーリーにおいては
我々が知りうる表層は
思考概念に覆われているのである。

自身の自得によってしか
師弟不二の要たる
観心の本尊には触れられない。

「これが正しい」と対象化したものを
信じるのみでは三界の側の生命状態しかない。

それは仏の教えだから正しいんだ
という十界の「構築」であって
十界互具になっていない。

瞬間瞬間に生命状態が変わる
という認識だけでは
どうも不十分である。

十界互具には脱構築が必要なのだ。
それは宗教枠の解除につながる。

ゲシュタルト療法 葛藤解決の方法(ポイント)Ⅰ
https://www.youtube.com/watch?v=2wFvZ54weAg

小論④の3  投稿者:螺髪  投稿日:2016年 3月 6日(日)11時46分41秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/40770
~~人体の臓器を見ても、全身に血液を送り続ける菩薩のような心臓もあります。小腸で餓鬼のように、ただ栄養を貪り続けるだけの絨毛(じゅうもう)突起もあります。細菌を捉えて食い殺す帝釈天か、あるいは修羅のようなキラーT細胞もあります。十界の衆生のそのままの働きで人体の維持に役立っています。~~

無意識下では十界が常に作用していて
意識上に上ってくるものでも
時に複数の気持ちから葛藤が起こり
選択をすることになる。

これが自分だという選択をする。

十界の内の一界が自分だと思い込む。

頑張ると決めたら
頑張ると決めた自分が自分だと思う。

サボりたいなと思ったことは
それは自分ではなかったのか?

本当の他人には辿り着けないことを
意識の仕組みで書いたが

だから本当は全然違う
理由かもしれなくても

本当は自分がやりたくてやれなかった
それを投影して

私はこんなに頑張っているのに
あいつはこんなにサボっている
という思いが起こる。

それも元々自分だったもの。
否、どれもこれも
投影された自分である。

どこまでが私の投影で
どこからが彼自身の本性であるかは
くっきりとした境目は見いだせない。

彼がなくては多角的な意味で
私は私自身に気づけない。

善と見ているのも
悪と見ているのも
自分自身が見えているのである。

一切は自身の生命現象である。

全ての意識体は救済を求めている。
それは置き去りにされた
自分自身でもあるのだ。

多角的な一考察として
三世間を考えてみる。

自身の救済の求めが応じて
現れているのが十法界の国土世間
であり応身である。
ここには対象化した場合の
自分自身も含まれる。

その世界に気づいているという
「私はある」「I am」という
実体の無い知恵が
衆生世間であり報身である。

その二者が相対した時の
経験の仕組みというものが
五陰世間であり法身である。

十法界を心とした時
人法一箇となるのである。

私がやりたかったことは
すでに誰かがやっていて
誰かがやりたかったことは
すでに私がやっている。

始めの一人はいない。

これがあるだけ。
今ここ。

あるようにあり
なるようになっている。

あなたは私
私はあなた

施本 「仏教・空の理解」
 五、而二不二《ににふに》・再考察
http://oujyouin.com/sunya5.htm

而二不二の反転なのです。

無分別智、非二元なのです。

これを離れては仏法の
本筋は無いのです。

旅客来たりて嘆いて曰く

非二元に通じている人もいて
伝統的な仏法を行じている人もいて
創価学会というのも随分大きくなったけど

いつ、万人が幸福になれる時は
来るんでしょうか?

それを実現させるべき
観心の本尊は
いったいどこにあるのでしょう?



[719] 火事場の馬鹿力と無我夢中

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 2月 2日(木)23時34分33秒   通報   返信・引用   編集済

日常生活・社会生活において
自我機能は
所属し強く結びついている
意識体(意識の場)の
倫理観・社会常識によって
自由が制限されロックがかかっている。

「やらなければならない」
「やってはならない」の
両面の意図思惑信念信条である。
順縁という従いも
逆縁という反発も
自我機能の囚われの
両面の表出である。

立場・能力・勇気と覚悟などの
思い込みのバランスによって
ポテンシャルのエネルギー状態が
行動として現象化する。

アルベア論において
キリスト教系の奇跡の動画が
度々紹介されるが

ブログに明言されているように
キリスト教を勧めるためのものではない。

だから、排他的な表面上の言葉に
「このように言えば奇跡は起こせる」と
信じ込もうとすることも

「そういうのを魔の通力というのであって
日蓮仏法は道理にかなったものだ」と
まったくいかがわしいものとして見ることも

自我機能の両面の解釈であって
そういう対象化した見方を
克服するという
自我機能の解除の実践である。

医学的に治る見込みのない病気が
医療によらず劇的に完治することを
医学では「自然寛解」と呼ぶそうだ。

ドクター小西の『統合医療情報局』
本気で自分の納得できる治療法を選択するという事
http://ameblo.jp/sna10826/entry-11979639412.html
~~本気で病気を治したいと思い、実際に病気が奇跡的にも治ったという人は、実は「言い逃れが出来ない状況」に自分自身を追い込んでおられます。そのなかで、自分が選んだ治療法で絶対に治ってみせるのだと「強い決意」をされるのです。他人任せの治療をして奇跡的に治癒したという話は私は聞いた事がありません。~~

氣楽堂整体院 自然治癒力
http://office-krd.com/index.php?%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B2%BB%E7%99%92%E5%8A%9B
~~私たちの体には、自分の病気を治す素晴らしい力が宿っています。
自己治癒力と言われるものです。名医と言われるお医者さんでさえ、こう言います。

『病気の回復には、最終的には本人の意思・気力がものをいう』と。
だとすれば、私たちは自分の中に持っている自然治癒力に、もっと目を向けるべきです。~~

膵臓がんサバイバーへの挑戦
がんが自然治癒した人の「9つの共通する実践事項」
http://pancreatic.cocolog-nifty.com/oncle/2014/11/9-b0e1.html
~~彼女が上げた9つのこととは、

抜本的に食事を変える
治療法は自分で決める
直感に従う
ハーブとサプリメントの力を借りる
抑圧された感情を解き放つ
より前向きに生きる
周囲の人の支えを受け入れる
自分の魂と深くつながる
「どうしても生きたい理由」を持つ
である。

これを実行すれば必ず治るというものではない。彼女もこう言っている。

もしもわたしが、「この9項目を実践したらあなたのがんは確実に治ります」と言ったなら、それは人に偽りの希望を抱かせる行為です。わたしはそうは言いません。わたしに言えるのは、「がんの劇的寛解の起因になったと考えられる9つの仮説を検出しました」ということだけです。

また、三大療法を否定するものでもない。統合医療として実行しなくてはならないと強調している。~~

宿坊の掲示板
カラダいきいき健康セミナー  投稿者:寝たきりオジサン
http://6027.teacup.com/situation/bbs/63738
~~
人間は他人の世話になるのです。だから他人の事を考えて生きていかないと人間
として生きていけない。それが「社会的健康」ということです。池田先生と対談
した時,私たち医者は医学の事ばかり話していると,先生は「『教養ある食生活』
ということですね」と,一言でまとめて言われました。~~

『教養ある食生活』と
己心の仏法・霊性・聖霊。

自己機能の生命現象。

自然寛解の解釈に
火事場の馬鹿力という概念が
結びついているが

追い込まれたら力が発揮される
→追い込んで力を発揮させる

という思考概念になると
疲弊する。

UMAく!!生きるためのブログ!!
火事場の馬鹿力に頼っている人は人生を激しく損している!
http://kenji-depression.com/fire-base-power/
~~いつも火事場の馬鹿力ばかりに頼っていれば、いづれ大きな失敗を犯してしまうし、期限ぎりぎりに対するストレスも半端なく感じるということ~~

創価学会が社会変革を目指す上で
他人を追い込むという手法が
常態化したことで疲弊した
という側面があると思う。

折伏の期限や新聞啓蒙の目標値。
全てがダメとは言わないが
常態化はまずい。

あの選挙区が危ない!って
煽る煽る。

歩調を合わせないと
もう人生が終わってるんだよ
地獄行き決定なんだよって
言いはしないがそれぐらいの勢い。

中身がない。

己心の法、民衆の仏性
民衆自身の霊性の直感力

そういう中身が無視されて
ただ追い込んで行動させる。

そこに仏法は無い。

火事場の馬鹿力は緊急時における
一次的な意識体の関与の受容。
自我機能の解除による無我夢中の
自由の制限のロックの超越。

シンクロを呼ぶ遠隔ヒーリング
火事場の馬鹿力
http://ameblo.jp/asetema-healing/entry-12051250060.html
~~ある団地住まいの主婦が一階の洗い場で洗濯をしていたところ

自分の子供が三階のベランダを乗り越えて落ちてしまったそうです。

その光景を見た母親が猛スピードで落下地点まで走っていき、落ちてくる子供を両腕でガッチリ受けとめたというから驚きです。

これこそ火事場の馬鹿力ですね。~~

足腰の悪い杖が手放せない
おじいさんが
ばったりと熊に出くわして
無我夢中で二本の足で
走って逃げた。
それ以来、杖が必要なくなった
なんて話もテレビで見たことがあります。

追い込むばかりでは
疲弊するのならば
もう一方の面への
気づきが必要になる。

自我機能の解除である。

緊急の再現のために追い込むのではなく
自我機能の解除のために
夢中になれるものに没頭する。

その受け皿としての広い受容と
本人の選択の尊重。

それがより良い効果を生むための
内観の推奨の場。

無我にあるエネルギーへの気づき、
全体性の俯瞰の習得。

その教育。

教え与えうる幅広い英知と
育んで守り愛することの
バランス。

自我機能の解除のサポート。

自身の生命現象の覚知。

法華経の非二元。

そういう方向性を
選択のラインナップに入れる。

気づいていますか?
一切があなた自身の
生命現象であることを。



[718] 因・縁・果・輪廻・無限ループ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月31日(火)12時54分15秒   通報   返信・引用

つまり、「因」が同じでも、そこにどのような「縁」が結びつくかによって、一人一人に現れる「果」は異なってくる、と。
(2017年SGIの日記念提言より)

思考概念が触発される一節のようです。

かんながら(元 リーラ)
輪廻の中心
http://abetoshiro.ti-da.net/e9318442.html

↑個人的には分かりやすいと思った。

~~こうやって、安らかな世界や苦しい世界が、巡り巡っていくことを輪廻と言います。

輪廻とは転生だけでなく、日々の生活の中で繰り返し起きていることです。~~

学会員さんならみんな知ってる
基本中の基本の十界互具です。

でも”知ってるだけ”になってるんじゃ
ないですかね?

~~何が起きても影響されない中心があるのです。


車輪は廻り続けているのですが、その中心は不動です。

中心は何一つ変わるものがなく、いつも静寂にして平安。~~

これなんですよ??
分かります?

六道のままに感情に振り回されるのは
肉眼です。

色んなものに目移りしちゃって
目先だけの利益に飛び上がって喜んだり
ちょっと上手くいかないと
「こん畜生」なんて思ったりします。

それじゃあいけないんだよ。
真実の教えに従いましょうね
ということを素直に信じ受け入れて
定まっているのが天眼です。

それでようやく
輪廻を客観視できます。
反面、教えに固執して排他的です。
雑多だった身のためにならない
六道輪廻だったものが

身のためになるための六道輪廻へと
思い込み信じ込みで偏ることで
共同体として正義を実現しようとします。

一定の価値体系の中で価値を生むが
反面、排他的・自己中心的な正義では
かえって憎しみを生み広げ
解決できない問題がある。

そこで輪廻の車輪の中心の中心
ゼロの点、無・空を体得する。

良いも悪いもない今ここの
生命現象の視座の慧眼です。

今ここに気づいている。
マインドフルネスです。

自分が無いという事の
自身の覚知です。

禅定であり静寂です。

ただ無・空なのです。

そのままだけでは
無いのであり有ることが
定まらない。

実際には現象としては
あるようにあり
なるようになっている。

そこであるようにあるための
存在が存在することの意味を説く
菩薩行の視点が法眼です。

あえて現実に向かって
非二元を説くのです。

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -
http://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou

それは全部の100%が存在の
その通りに成り切れていないから
現実が現実として
認識されていることが残っている。

肉眼も天眼も慧眼も法眼も
そのままで始めから
否、始まりもなく
悟りであった。

法華経の非二元とは
その仏眼を志向している。

一文字一文字、一ドット一ドット
全ての同時無限性の
無限宇宙自身の
無限同時内在表現、、、

と、かくも特別な
隔世されたもののような
表現だが

普通の意識がそのまま
究極の意識でもある。

全ては始まりの光そのもの。

その波長のままに向けると
表現しようとしている
エネルギーがあって

文字列はその残痕にすぎない。

全てのゼロ=無限である。



[717] 知性と霊性の中道

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月30日(月)03時33分22秒   通報   返信・引用

自分の書いたメモを見た。
いつのメモだろうか?

「がんばらない」の
ポジションの発見前のものと思う。

このメモの背景には
「視野を広げて学びなさい
学会バカではいけないよ」
という趣旨の池田先生の指導を
伝え聞いたことがあって
思索を重ねたのだと思う。

メモ
「きっぱりと『思い切って』
広げ楽しむ世界において、
その上でそのまま矛盾なく
最高の精進として頑張ろうと
するならば、それは、信心に
立ち上がった上で創価学会だけが
世界ではない事を、そのまま
南無妙法蓮華経として
頑張るという事になる。

創価学会だけが世界ではない世界に
南無妙法蓮華経を打ち立てる。

だからこそ自分の境涯を開いていく
開いていける。だからこそ世界は
変革されていく変革させていける。

純真な信心は素晴らしいもので
あるけれども、”学会バカ”に留まって
しまってはもったいない。

何者にも創価学会にも縛られない
自由自在を、ただ、師とすべきものを
師として、
我が真実を下方、生死不二の真実、
そこにも常にある御本尊より出現した
地涌の菩薩として、赫々と
南無妙法蓮華経と共に昇りゆく。」
ここまで

思考概念の側の徹底だけでは
必ず閉じた世界に向かう。

「南無妙法蓮華経スゴイヨ」
という概念だけが広まっても

「コノ法ヲ伝エル活動ニ従エ」
という抑圧に反転され
閉じた世界になる。

「民衆仏法」「広宣流布」
「万人の仏性」「仏法は中道」
といったものがパラドックスになる。

思考概念では疲弊するのが道理なのだ。

仏法はこのパラドックスの
克服のための「体感」「悟り」
「生命現象」である。

それを見失えばもはや仏法ではなく
世俗化した愚考集団なのである。

信仰はどこまでも自身の問題である。
その一念三千が法華経である。

観心本尊、己心の寿量品が
日蓮仏法である。

少し違った角度から
中道を確認してみよう。

現実界と中現界
知性と霊性という観点の
中道に関する記事だ。

Michi & Mirai World
知性と霊性
http://mm-world.jugem.jp/?eid=4101

高次元からのアドバイスとは
仏智という「生命現象」と見れる。

それは、対象化してすがれば
得られるものなのではなく

自身の霊性、自身の仏性を
信じることで道に入るのだ。

「自分の中に入って、任務を見つけて出て来なさい」

今まで経験してきた全てが
使命として歓喜に反転する。

一番苦しんできた人が
一番幸せになる権利がある。

それは余所から与えられるものでは無く
自身の内なる変革が
否応なくそう反転させるのだ。

一切の言葉
一切の概念は外から与えられたものだ。

そうではなく己心を観じて
『如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘蔵の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す。』
如来の一切の『正法』『衆生救済力』『秘密の教え』『修行の実践方法』
http://hokekyou-blog.blogspot.jp/2008/05/blog-post_25.html

これを直接に受け取る。

受け取って戻ってきて広める。

そうでなければ地涌の菩薩ではなく
そうでないものを末法に広めても
広宣流布にはならない。

いくら
「その教え私が広めます」と
決意、誓願したとしても

対象化された「教え」である以上
それを広めても
広宣流布にはならないのだ。

外からどう教えられたとしても
それとは相反したとしても
己心の法華経を広めるのが
広宣流布になるのである。

全てが反転する。

正法は断絶したことが無い。
広宣流布はされている。
法華経の会座は未だ散っていない。
永劫に散らない。

生命の選択である。
法華経の非二元である。

本尊の生命である。



[716] 下種仏法バブル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月26日(木)10時15分50秒   通報   返信・引用   編集済

宿坊の掲示板
(無題)  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/63326

宿坊の掲示板
一念三千  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/63351

You Tube
宇宙の出現のしくみ(全ての根源) 【No.34】
ジュンコ セレンディー
https://www.youtube.com/watch?v=12-3K9GoI5w

You Tube
井上哲玄老師 平成28年秋 彼岸会法要法話 於 龍泉寺
https://www.youtube.com/watch?v=Jkzo_3iKRM8

You Tube
横須賀ストーリー
https://www.youtube.com/watch?v=hzxgyzIuhU8

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
創価学会の非活メンバーによる語り
池田先生へ、今伝えたいこと。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/25/060438

You Tube
チューリップバブル
https://www.youtube.com/watch?v=Fv2nKfVIbE4

You Tube
ドキュメンタリー バブルがはじけるとき
https://www.youtube.com/watch?v=ZjAJ-cnEy7g

静かに創価学会を去るために
考えると恐ろしくなる自分
https://signifie.wordpress.com/2016/12/13/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%A8%E6%81%90%E3%82%8D%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E8%87%AA%E5%88%86/

アルベアのブログ
「信仰」の「イノベーション」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12241559633.html

「この下種仏法すごいんだよ」って
対象化して飾って崇めて

種は種のまま。

思考概念だけが肥大化する。

最大化した後は崩壊する。

創価学会名誉会長の池田先生って
対象化しているものは虚像。

一念三千の池田先生があるだけ。

末法の御本仏の日蓮大聖人って
対象化しているものは虚像。

一念三千の日蓮大聖人があるだけ。

出世の本懐の戒壇の大御本尊って
対象化しているものは虚像。

一念三千の大御本尊があるだけ。

唯一の世界広布の団体の創価学会って
対象化しているものは虚像。

一念三千の創価学会があるだけ。

唯一の真実の教えである仏法って
対象化しているものは虚像。

一念三千の仏法があるだけ。

アルベアのブログ
「神」「仏」は働き作用
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12241559682.html

自身なんですよ。

あるだけ。

「無・空」です。

こんな風に悩んだり
探求したりできるのも
有難いことです。

ただあるだけ。

今ここだけ。

まだ目が覚めませんか?

冷たい水で顔でも洗って下さい。

それがあるだけです。

You Tube
「千と千尋 おにぎり」検索より
https://www.youtube.com/watch?v=nGRHI21uNLE



[715] 自我機能・自己機能の区分け

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月23日(月)01時41分42秒   通報   返信・引用   編集済

強い光を受けると
瞳孔が収縮する。
自己機能です。

「うわっ眩しい!」
自己機能に結び付いている
言葉です。

「今、健康診断を受けていて
これは眼底の写真を撮る
ための光で
目の病気が無いか調べているのだ」
自我機能の物語です。

人間の自我機能による
実験に対して
自我機能に翻弄されながらも
自己機能の技で対応する
チンパンジー
https://www.youtube.com/watch?v=gmDuzNAukmY
動画の中ほど
一つ目の数字を
タッチした時点で
他の数字がブラインドされる。
人間ならば時間をかけて
疑似ストーリーを記憶に
定着させてからタッチする
だろうという場面だ。
チンパンジーは
物語を作らずありのまま
瞬間記憶し即座に行動する。

0085:世界一の記憶術 斎藤直子さん著
https://www.youtube.com/watch?v=i0BduHuwzHs
1day速読術講座
https://www.youtube.com/watch?v=xpNnRmR6ag8

人間も練習すれば
どちらの方法も出来るはずで
技として見る時点では
自我と自己の区分けがあれば
どちらも正常な機能であるが

区分けが出来ていないのであれば
記憶術は思い込みの創作の
自我機能である。

学校で勉学を学ぶ際
あるいは
宗教の教えを学ぶ際
暗記のための一次的な
仮の記憶としてではなく
「これが正しいこと」
として
科学的な真実等と並列し
支配のための社会のシステムを
創作の記憶で暗記していく。

その付随された意味付けを
本当の価値と思い込んだり
仮に納得しておくための物語を
これしかない唯一の真実だと信じ込む。

人間は社会的に
そういうエピソード記憶が強いので
関連付け記憶を選ぶと思われる。

これは良い悪いを言っているのではなく
人間はただそうある。
そうあった。

人間以外の動物にも感情があって
イライラしたり嫉妬したりもする。

実験のチンパンジーも
最初はもっと少ない数までしか
こなすことが出来ず
自分の腕を噛んで悩み苦しみ
何とか壁を乗り越えて
そして9まで出来る技を身に着けた。

猿に不公平な報酬を与える実験。
https://www.youtube.com/watch?v=meiU6TxysCg
(右下四つのボタンの左
字幕クリック、隣の設定で
字幕→自動翻訳→日本語
これである程度意味が分かる)

思わず笑ってしまう。
人間みたいな反応だ。

この醜い性質は
人間だけのものじゃないんだ
という安堵から
笑ってしまうのかもしれない。

反応はただある。

自我機能の世界に投入されれば
自我機能に対して反応する。

用意された席に着けば
そこで行うべき動作をする。

有名なスタンフォード監獄実験
http://startup-yotsubu.hatenablog.com/entry/2016/06/18/144158

人間に善悪があるのではなく
自動的に起こっているものに対して
自我機能が善と悪を区別している。

人間は自我機能が強いので
自らの自我機能を見つめ直すことができる。

実在しない架空の判断基準
意味体系なので取り換えがきく。

しかし実在している自己機能は
取り換えがきかず
同じ環境には同じ反応が起こる。

この区分けが出来ないと
思考概念で世界を変えられると思う。

誇大妄想だ。

意識を自己機能に向けると
体感の世界がある。

思考概念から離れると
自分という幻想が消える。

観測されている現象が既存在ならば
観測している側は未存在である。

後付けで先に意思があったことにしている。
意思の認識にはズルい時間差の嘘がある。

未存在が既存在を変化させることは
出来ない。

意思・意味・意義は本来は受動的である。
自我機能では本質を変えられない。

鏡の中の世界が主権をもって
現実を変えようとするようなものである。

人間と人間の間にしか通用しない
意味や価値は幻想である。

幻想ではない実在が
今ここにあるから
それに気づき幻想と言うことができる。

全てがただ一つ同じ。

この非二元の一法は
何ものも漏らさない救済である。

分離が無くなれば
実存の存在が雄弁に語りだす。

体感覚知へは
呼吸に意識を向けるところから
始まる。

あるようにあり
なるようになる
慈悲の世界。

大反転の時がきている。



[714] 言葉の匂い

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月20日(金)11時46分18秒   通報   返信・引用

「涅槃とはニルバーナである」

どうだろう?
さも特別なことを言っているような
印象はないだろうか?

この人は分かってるなぁ

あるいは

そんなのは謗法だ

なんてもし
心の片隅にでも感情が起こるのは

感じた自身の生命現象です。

言葉だけなら誰でも言えるし
「涅槃とはニルバーナである」
って、ただの訳です。

ただの訳だから決定論的に
言うのは変だけれどね。

「謝謝とはメルシーである」
って言うと

おいおい日本語はどうした
って話だ。

自文化への愛
異文化への拒絶。

同じ言葉を使うことが
仲間であることの確認。

日本語には独特な
方言体系がある。
http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/~long/papers/shiritai.htm

仲間意識という
意識の場がある。

方言というと旧習的なもの
のような感があるが

マクドナルドの略を
関東ではマック
関西ではマクドというような
新方言なんていうものもある。
http://www.soc.hyogo-u.ac.jp/ksugai/annai/annai-2004/2004-6.htm

仲間意識が高まると
非言語的コミュニケーションの
力が高まる。

親子がジェスチャー当てをやっているところを
他人が見ても全く分からなくても
親はしっかり言い当てる。

インターネット上の
場の意識・仲間意識
というものもある。

独特な言語体系も
量産されている。

そこに向けられる眼差し。

同時代現象。

そこにある波動。

同じ言葉であっても
同じコピペであっても

生命現象として
当にその時
どう感情・イメージが想起し
体感として復活するのか?

同じ小説でも
読むたびに新しい発見や
違った印象を持つこともあろう。

言葉とは不思議なものだ。

ちょっとしたニュアンスで意味も変わる。

発し方によっても
受け取り方によっても変わる。

思い出し方によっても
思い起こさせられ方によっても変わる。

経験してきた環境によって
言葉が変わる。

時代によっても言葉が変わる。
言葉の持つニュアンスも変わる。

「言葉の変化のヤバさは
いとをかし」である。

名詞であれば
これのことをそう呼んでいた
というだけの話であるが

人間の感じ方や
人間自身の性質に関する言葉は
その場での呼吸
ニュアンスである。

「空気を読む」
「ニュアンスを嗅ぎ取る」
「昭和臭がする」
「説教臭い」
「彼には同じ匂いを感じる」
「薫陶を受ける」
「鼻につく言葉」

呼吸のニュアンス。
言葉を嗅ぎ分ける。

この感覚は
人間も動物であるということだ。

人間は言葉を嗅ぎ分ける方向に
進化したから実際の嗅覚は
退化したのかもしれない。

声やビジョンではなく
匂い物質によって
コミュニケーションする
生物は多数いる。

サイン・目印
縄張り。

気づかなければ
土足で踏み入ったら
怒りを買う。

そこにある生態系の
防衛反応だ。

思考概念によって
正義だという力を行使して
防衛反応を無視し圧倒し
サイン・生態系ごと薙ぎ倒す
暴力的行為を
肥大化した自我機能はする。

サインを無視する。
空気を無視する。

地球環境が
悲痛な空気に包まれる。

それでもなお
正義を掲げて繰り返す。

その正義は間違っているという
主張も新たな正義感となり
思考概念の上書きとなる。

脱しがたい無限ループに
無力感の空気が地球を包む。

ならばこそ仏法で言う
「禅定」は確かな希望なのだ。

行使するものではなく
もたらされるものを悟るのだ。

智慧とは言っても
禅定によってボトムアップの
生命現象を覚知したときに
もたらされるものを言うのだ。

無常の世界にあって
常に変化しないのは
もたらされることに
気づいている意識である。
(不変真如の理)

もたらしている側を
了解して基づけば湧くものが
智慧なのであり
縁に随う受容のものである。
(隨縁真如の智)

法華経の行者の一身の当体が
禅定であり

南無妙法蓮華経が智慧であり

救済への反転現象が戒壇です。

戒定慧です。

(三大秘法と三学)
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-229.html

もたらされる生命現象が
同じであるならば

自文化と異文化は
実は同じものです。

今ここに関係の無いものを
異文化であるというだけで
攻めていこうとするのは
蹂躙でしかない。

融和によって今ここの共有が
開かれていくのです。

宗教枠の解除という
慈悲の現象が起きていっているのです。

非二元という真如の
あなたに起こっていることは
宇宙規模で起こっていることなのだという
禅定なのです。

アーメン(それな)

https://togetter.com/li/1035414

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%AA%E7%B5%82%E6%AD%A2

http://www.kenya316.com/entry/2016/09/13/210000



[713] 枠の解除

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月18日(水)03時31分40秒   通報   返信・引用   編集済

どの話が

どの階層での話なのか

究極のそのものは
言語化できないので

それぞれに目先を移した
機根に応じた段階の
概念の枠をもった話となる。

特にこのような、文字に頼ったスペースにおいて
言葉の意味、概念としてしか
表しようがなく

それでももちろん
それだけじゃないものとして
あるのではあるが

文意においては
都度、対象化した枠があり
それはつまり三界である。

宗教枠があるというのは
三界の側の理屈である。

如来の側には
そのような枠はない。

三界の理屈で言うと
魔を追い出すとか
悪霊を祓うとか

そういう通過点が
あるように思うが

実際の如来の在り方として
覚めれば

在り方に対して三界が
そのような理屈を
つけているにすぎない。

仏と魔という比較が
無記となり不二となる。

厳然と未だ散っていない
法華経の非二元においては

二も三もなく
一しかない。

追い出すという概念が
存在しえない。

覚めた世界においては
蘇生以外によって
存在しているものはない。

涅槃蘇生不二という
妙法・生命現象である。

量子的振る舞い。

言語化という
意味を測定した瞬間
もう一方の情報が失われる。

不確定性原理。

https://staff.aist.go.jp/a.ohta/japanese/study/REE_ex_fc1.htm

http://www.h3.dion.ne.jp/~jituzai/genndaibutirigaku.htm

あるいは電子は
飛び飛びの値の軌道しか
とることが出来ず

そこからは
決まったスペクトルの
発光しかすることが
出来ないといった
不思議な性質。

http://www.5kaku.net/?p=7321

んー
そういえば

人間って微かに光ってるんだっけか。

https://matome.naver.jp/odai/2137243102251847301

一念の基底
境涯の基底
生命そのままの基底

意識としてそのまま
非二元になりきる。

起きているという事に
気づく。

説明しえない。

私の生命現象。

私はあなた。
あなたは私。

非二元。



[712] 正直捨方便但説無上道

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月17日(火)03時12分11秒   通報   返信・引用

物や言葉に囚われるならば
例えそれが正しい教え

日蓮仏法を信じるなら
日蓮真蹟に間違いない
ものであったとしても

それを悪用することは出来る。

逆に、日蓮真蹟ではない
ちょっとおかしな教えがあったとして

時と場合と使い方によって
必ずしも人を善導するのに
用いることが出来ないとも言い切れない。

さて

体感覚知からすれば
誰を本仏と設定しても
最終的には非二元だから

民衆を苦しめる権威と
結びつけない限りは

さして問題ない。
どうでもいい。

「池田先生の書いた御本尊」
というものが
あるという「話」があるが

それはどんな相貌かなんて
考えても仕方なくて

いわゆるそういう御本尊ではない。
という話があるらしい。

私にとっては
そうであるならば
直接見て拝まなくても

我が己心の中にある
これなんだという思いである。

御本尊観のパラダイムシフト。

要は本来の仏法として
何が正しいのかの見直し。

一生成仏の方法。

本来は

教え導く僧の役割は
「現れの全ては法であり
つまりはそれがあなた自身なんだ」
ということを気づかせる手伝い。

手本、鏡、仏界の世界そのもの
今ここの全てのそのままとして
文字曼荼羅本尊を本尊とする。

探求者である民衆の自己機能が
精進し気づけばそれ自体が
分離の無い非二元の法であり
己心の御本尊を覚知する。

この法の上に仏界が湧現し
それは二者関係の歪みに対して
正し、本来の循環に蘇生させる
魔に対しての師子吼の働き
強敵を伏して仏となる働きと現れる。

それが一生成仏の道である。

「開く」とは「気づき」である。
「円満」とは本来の循環である。
「蘇生」とは魔を責め退散させ取り戻すのである。

本因妙教主系と
経王殿御返事。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51758.html

経王殿御返事は
学会員にとってポピュラーな
「なんか変なとこあったっけ?」
というような御書であるが
これには疑義がある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226590387
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n13660

体感覚知からよくよく見ると
何かがおかしい。

後に御本尊を与える権限を
持つ者からすれば
以下のようなことを
正当化できる。

「金銭を頂きました。
金銭は私にとってとても大切です。

日蓮が魂を墨に染め流して認めた
生身の日蓮大聖人である
御本尊をお渡しします。

信じて祈れば願いが叶います。
もし願いが叶わなくても
それはあなたの信心と祈りが足りないからです。

この宗教が間違っているのでも
私が悪いのでもありません」

こんな楽ちんな商売はありません。
悪徳宗教です。

もし御本尊を授与する権限を持つ者が
そういう所に安住するならば

当然のこととして人間が腐ります。

そういう歪みの魔に対して
責めて一生成仏の循環を復活させるのが

真の力ある宗教という因を作り
力ある宗教に救済される民衆という果を得る。

表裏です、同時です。
そして道理です。

既存の宗教の在り方に対して
本当の民衆救済への転換をなす。

釈尊も日蓮もキリストも
その「人の振る舞い」なのです。

本来ある蘇生の循環システムなのです。

法主や会長の向こう側に
拝むべき三宝があって
従わなければ救われないというのは
まさに魔の働きであって

民衆自身がダイナミックな
非二元の法自身であって
南無妙法蓮華経であると気づくことが
仏の働きなのです。

正直捨方便但説無上道
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11151935156

自我機能の思い込みを捨て
非二元の体感覚知を語るのです。

自身が法であると了解すれば語れるのです。

池田先生自身不二となり
飛翔するのです。

それは絶対勝利なのです。



[711] 反転のエピソード記憶

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月15日(日)12時23分28秒   通報   返信・引用

ただある→気づく→関連パターン
→記憶する

無分離→照合抽出→意味作り
→意思が先にあったことにする

依正不二・一身即三身(空即実)
→内的生命現象から対象を複写
→内なる実在確認のため外的実在があることにし編纂
→自分が外的要因に振り回されているようにすり替わる


仮に数学という諸法実相があったとして
ルート5が頻繁に現れ注意が向くとする。

諸法実相が自身のルート5という特徴を
認識しようと試みる。

2.2360679‥‥

諸法実相自身は無限の存在なので
毎回計算して確認すればいいのだが
ルート5に執着が起こった時点で
無限の中に有限を有する。

様々な有限の対象化を経験し
有限に対する執着が増える。

そうなると決まりきっている数値を
毎回計算するのは非合理的だ。

「富士山麓にオウム鳴く」と覚えよう。
意図的な意味関連の創作、
内的真実を外的物語として記憶する。

真理が自動的に導き出されるための
実在しないイメージ・ビジョンを
簡単に発せられる音律に結び付ける。

有限を経験獲得する中で
疑似エピソードが記憶の定着にとって
便利なのである。

だから逆説的に、
本当は全部自身の生命現象なんだけど
全部は外で起こっていることにして
「これはどうなっているのか知りたい」
「出来るはずだと信じて実現したい」
と願わせる部分を分離した方が
より経験の獲得になる。

理屈があった方が都合がいいのである。
モチベーションが上がるというやつだ。

その創作の意味物語の経験のストック。
仮に設定・分離された探求する自分。

そのために適当な理屈をこじつけて
自分をあることにし続ける作用が働く。

それが正しいと思い込むための
思考が常に手渡される。

なのでそのサイクルの中では
適度にチヤホヤされて
適度に厳しく指導されて
自分存在を認めてもらった方が
モチベーションが上がる。

幻想に酔いしれる。

幻想なのでよく観察してみると
かなりいい加減であることが
分かる。

自分という存在は
誤作動に振り回されているのだが

無限自身にとっては
個別の個人が
2.23620679‥‥と間違って覚えようが
2.4360679‥‥と間違って覚えようが
どうでもいい。

一瞬でも真実に触れた時点で用済み。

そもそも「自分がある」ということが
正確ではないのだから、
それを簡単に見破られないために
あえて適当であり続ける存在なのだ。

誤作動は誤作動ではなく
正常に誤作動している。

自我機能が自分の努力の成果
として勝手に美化して
引きずっているのである。

本当には本来
人間が考えるような
意味自体が存在していないのだ。

さて

地球上の生命が
最も鮮烈に出会い続けてきたものは
太陽と水である。

内的にはトーラスエネルギーである。

それらは九識と不可分である。

執着を離れることによって得られるものは
自分があって自分が得ると考えうるものとは
全く完全に次元の異なるものなのである。

自我機能に対しては
無常・苦・無我・不浄

思考概念ではない自己機能から見れば
常楽我浄なのである。

文意に執着するのは自我機能である。
このパラドックスを乗り越える
精進が五眼三身のステップアップである。

意味ではない動作の存在の根源への
体感覚知なのである。


言語のモデルと意識
http://kazoo04.hatenablog.com/entry/agi-ac-24
自分とは最も身近な他人である
http://hitokotoshinri.blog.fc2.com/blog-entry-75.html
他人としての自分 ―分離脳から見る人間の性質―
http://hitokotoshinri.blog.fc2.com/blog-entry-76.html
意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説
https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac
《前野隆司『脳の中に「私」はなぜ見つからないのか?』を読んで》
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/maeno.html

「富士山麓にオウム鳴く」以外のルート5の値の覚え方3選
http://media.qikeru.me/root-5/
「ありがとう」のジョーク ~ワニには注意!~
http://ameblo.jp/shinzato-english/entry-11437041384.html

非想非非想処と涅槃
http://www.bukkyouoshie.com/tenkai/hisouhihisousyo.html
智顗の仮の概念
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/1/47_1_53/_pdf
常楽我浄
http://ameblo.jp/kingdog136/entry-11650991152.html



[710] 見落とされた痛み

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月12日(木)17時23分30秒   通報   返信・引用

マインドに振り回されるのではなく
ハートに寄り添おう。

この場合
マインドは思考だと分かりますが
ハートとは何でしょうか?

これは体感知として
私がしっくりくるのは「痛み」です。

仏法的に言うと四苦八苦です。

「私はない」とは?2017/01/10 に公開37分23秒ジュンコ セレンディーさん
https://www.youtube.com/watch?v=NkLS91GJNCg

メンタルとフィジカルの
統合存在としての自己機能が

なぜエピソード記憶に
「自分が判断して行った」
という「意思の偽装」を
働かせるのか?

これは「痛み」によって
自己機能の存在に
気づくためです。

大元の存在は
一切の見落としが無い
完全であるがゆえに
一切が同時である
無限自身である。

比較が無く
何も無い。

有限の小さな裏返しを
経験させることによって
有限同士が比較するのである。

ハイスペックなパソコンがあっても
そこに何のソフトも入れないならば
ただの機能体であって
用をなさない。

大元の存在にあっては
起こることがただ起こるのである。

マインドの対義語は
overlook または body
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1180652501

普通に辞書では body(身体)と
なるところを
この回答者は overlook(見落とす)を
先に書いている。

例えば幼少の頃の記憶
インナーチャイルドの思いを
「見落とす」ことによって
「痛み」を感じる。

そういった感受性の強さというものは
一般的には生き辛さとなることが多い。

マインドの作り上げた世界では
「痛み」が「意図的に」無視されている。

自己都合による合理化。
自身の「痛み」に対応するよりも
社会のシステムにマッチする
方を選び取る。

この社会のシステムは
人間の欲望に対して
粗悪な消費を大量に
供給するシステムである。

人間の自己機能が
置き去りにされた世界が
構築されている。

汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か. 立正安国論P31

人間自身の自己機能に
立ち返らない限り
不幸の連鎖は終わらないのである。

ここを開くのが本来の仏法の
在り方だと思うが
意図思惑の上書きによって
「私たちは正しい」と主張する
在り方は残念な方向に思う。

マインドは
「足りている」と
「足りていない」を
同時には認識しない。

片方にフォーカスしたなら
もう片方は見落としている。

対象が複雑であるほど
置き換えの種類は増えるので
10分の1のフォーカス
100分の1のフォーカス
無限分の1のフォーカスと
見落としている真実の方が多数になる。

認識しているもの全ては
真実の一側面にはなりえたとしても
「これが全部の絶対」という
認識は生み出せえず

「これが全部の絶対」という
概念の全ては偽物である
ということになる。

そこで
フォーカスする前の
自己機能を体感する
必要性が語られることになる。

判断していない無記の状態では
存在の有無も含めて知らず
人間が考えるような意味を持たず
あるようにあり
なるようになっている。

その側の実相が
私に「自分があって判断して行っている」
と思わせている。

未だ実際には
「自分で判断して行った」人間は
存在したことが無い。

あるのは
自己機能に寄り添うのか
自己機能を無視するのかという
選択だけだ。

その上で
いかなる表現も偽物であるとしても
より本物であろうとすることに
没頭する生きざまを知る。

少々詭弁チックになるが
西尾維新の言葉を引用する。
http://www.okamoto-yu.net/entry/2014/11/12/225211
~~偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ~~

前後の会話のアニメからの抜き出し
http://blog.livedoor.jp/over5334/archives/20801560.html

日寛上人の体感には
価値があるのか
価値がないのか。

体感自体には分離が無いのである。

ここまで前置きしないと
本因妙教主系に言及しない。

http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/01/12/041448
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51482461.html

少なくとも日寛教学は
戦後の日本において
一定以上の価値を果たした。

ただ、この先において

日蓮本仏は絶対だから
みんなここに帰依しましょうね

なのか

人間自身の無分離の
体感覚知を通して
生命の世紀を実現しましょうね

なのか

日寛教学は間違いでした
日蓮仏法を一から学び直します

なのか

選択は多岐にある。



都合の良い所だけ歴史に刻み
連続性の無いハリボテに
さも権威があるように
取り繕うというのは

ただただ本当に
偽物なだけの偽物

愚かだよね。



[709] 幸福への反転

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月11日(水)12時16分0秒   通報   返信・引用

「これは誰が作ったの?」「私」
これは「自分」が
有るか無いかまでいけます。

「4・5才の頃の出来事を思い出して
母親にしてもらったことを思い出す。
ネックになっている出来事。
本当はどうだったのか
そして立場を入れ替えて思い出す」
これは愛という次元の自由度の方向です。

東洋と西洋の格差はいつ、なぜ生まれたのか?
https://www.youtube.com/watch?v=HEiAb9dvndQ

認識の次元というのは
その方向への自由度を獲得することであり
別々ではない
全部一つの生命現象だったんだという
気づきの教育が
同時代現象の次元を上昇させます。

バイロン・ケイティ:お金が足りない、それは本当ですか?
https://www.youtube.com/watch?v=Z8YUzCFUO4s

THE WORK バイロン・ケイティ(テキスト)
http://thework.com/sites/thework/nihongo/thework.asp

今ここで生命現象を阻害している
自我機能の気づきの方向性です。

ちょっとやってみましょう。
自分へのジャッジは歪みやすいので
本来は他人へのジャッジからですが
まぁここは信頼して自分への
ジャッジというものも想定します。

不幸の原因は

(指導に対して私の)
信心・祈りが足りていない。
学会活動が足りていない。

(私の考えでは学会総体は)
不二の弟子が足りていない。
正しい教学が足りていない。

1)それは本当でしょうか?

2)その考えが本当であると、絶対言い切れますか?

3)そう考えるとき、あなたはどのように反応しますか? 何が起きますか?

4)その考えがなければ、あなたはどうなりますか?

次に、(あなたが問いを投げかけた「考え」を)置き換え、置き換えた文それぞれについて必ず、 真実味のある具体例を3つ挙げてください。

それぞれの設問に対して
心の深いところ
静かな境地のところからの
答えにまで落とし込みます。
一つ置き換えをやってみましょう。

(指導に対して私の)信心・祈りが足りている。

(私に対して指導者の)信心・祈りが足りていない。

(私に対して私の)信心・祈りが足りていない。

こういう置き換えに対して
心の深いところ
静かな境地のところからの
答えにまで落とし込みます。
最後は受容につなげます。

(指導に対して私の)
信心・祈りは足りなくてもよい。
(指導に対して私の)
信心・祈りは足りなくても楽しめている。

そもそも義務感の
信心や祈りではダメで

足りなくても楽しめている
と思えば「ありがとうございます」という
感謝の祈りを自然にかえすことになる。

モンティホール問題の話題の
ところで言ったように

こういった気づきによる
解除・柔軟性の獲得
「あーなんだ」という反転が
歓喜になるのです。

幸せです、楽しいです
ありがとうございます。

生命現象の気づきの
ループの方向なのです。



[708] PPAPスライヴ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 8日(日)08時39分54秒   通報   返信・引用

差異を認める
価値を認める

非侵害の融和・調和です。

感情で
「それはこういう意味に違いない」
と思って

つっかかっていくのでは
「思い込み」で歪んだ

投影の自身の醜さの世界なのです。

その情動を覚った上で

自身の内にある振動の智慧の
聡明な判断によって

その意図思惑では
自身の内から広がる無限さの方向性には
マッチしないという感覚が得られるのなら

不参加を行えばいい。

内心とは裏腹に参加したり
取って代わろうと対抗するのは

情動によるところであり

聡明ならば不参加という選択が
一つであり

ガンジー・キング・池田の
非暴力の運動なのである。

不参加という運動は
考え方や思いは個々それぞれで
あってよいというように
門戸が開かれる方向を持ちうる。

何をしなければならないのではなく
参加をしないことで自由を手に入れるのである。

自由になってしたいことは
それぞれであってよい。
そうじゃなければ自由ではない。
不参加の理由は
個々それぞれであって良いのだ。

魅力的に書いているようで
完全に魅力的には見えないのは

人間にとって
「自由は怖いもの」だからだ。

なぜ怖いか?
全ての失敗の責任が
自分にあると強く意識される気がするからだ。

つまり世界のバランスは

「嫌な抑圧に仕方なく耐えた結果だという言い訳理由」と
「自由なんて言い訳できない怖くて大したことないもの」

それと

今現在、どれだけ幸せを実感できているか?
裏を返せば「どれだけ言い訳したいか」

ということが方向を決めている。

自分は不幸だという思い込みを持っているほど
どんどん不幸になる。

個人においてもだし
もっと大きな枠組みにおいてもだ。

だから重要になるのは
思い込みの解除
納得と充実感と希望
恐怖を解除する勇気と智慧だ。

これは
「立正安国」である。

「立正安国」の「国」は
くにがまえに民だ。

自身の内なる法華経に生きる勇気。
生命の底から湧き上がる歓喜。

そのためである。

受け入れ方・眼差しの
パターンに気づこうとすること。

頭の良い悪いではない。

気づこうとすることで
変化はある。

同じ言葉でも
全く反転するのだ。

どんな言葉であっても
悪用することも
活用することも出来る。

例えば
「働かざる者食うべからず」
という言葉

生き成長する力を引き出すために
活用することも出来るし

都合の良いように服従を強いる
言葉として悪用も出来る。

この反転を

自身の生命現象を覚知するのだ。

完璧な人間などいない。
凡夫の振る舞いが起こっている。

だからこそ無い側の悟り。

完璧であることが
理解しうる。

空相の向こうの実相。

だけどそのまま全部が
今ここのこれ。

あなたはわたし。
わたしはあなた。

りんご(命)に
ペン(意味)を突き刺し

パイナップル(自由)に
ペン(理由)を突き刺し

それをドッキングさせた世界。

ペンパイナップルアップルペン。

あなたの思い込んでいる世界なんて
実はこの程度のものですよ

って感じだね。

命も自由も
本当は全然こんな有限の
ものではないし

意味とか理由とか
突き刺したところで
どうなるものでもないよね。

見てごらん
本当の世界を

スライヴ (THRIVE Japanese)
https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI



[707] トライアングル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 7日(土)02時38分25秒   通報   返信・引用   編集済

体感覚知からすれば
教義うんぬんは
どうでもいいし

あんまり理屈でこじつけると
意識体の関与が入るし

言っても仕方のない
単眼的ストーリーかもしれませんが

ちょっとさらっと書きます。

戸田先生、池田先生の下で
展開されてきた学会教学

御書全集の中には

日蓮真蹟系(真に日蓮大聖人の遺文)
凡夫即極系(中古天台本覚まじり?)
本因妙教主系(日蓮一人のみ末法の本仏)

があってですね

まぁ

昨年の前半の私の展開には
日興上人を多宝的な配置でどう?

みたいに書いたんですが

昨年夏の終わりに
ある賢人から、多宝の意義が見いだせないと
理路整然と、無理がある旨を
伝えられました。

なるほどと思ったものですが

日興上人をそう見たのは
御義口伝によるところが大きくて

昨年の段階では
そこまで調べが追い付いて
いなかったんですが

御義口伝っていうのは
凡夫即極系に含まれるんです。

で、この凡夫即極系に含まれる
他の御書はというと
生死一大事血脈抄(疑義あり)とか
三世諸仏総勘文教相廃立とか
http://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/mikkyo.htm

あるいは
日女御前御返事(疑義あり)なんていう
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007503573

体感覚知にとっては
びびっとくる方のものなんですよ。

そうじゃなくっても
学会教学にとっては
その全部を否定するとしたら
半身を失うようなものです。

半身を失うってことはですね
「全身では学会教学でした。
では半身ではどんな教学でしたか?」
って「隻手の声を聞け」ですよ。
http://chohoji.blogspot.jp/2012/01/blog-post_05.html

良医病子の譬えを
先日に考察した感じから言うと

日蓮大聖人が後年
天台を「精神が失われている」と
強く批判したからといって

永劫に絶対的に天台はダメかというと
むしろ復活のためかもしれない。

日興遺誡置文には

一、義道の落居無くして天臺の學文すべからざる事。
(大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない)

一、當門流に於ては御鈔を心肝に染め極理を師傳して若し間有らば臺家を聞くべき事。
(日興門流においては御書を心肝(しんかん)に染め、極理(ごくり)を師から受け伝えて、 その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである)

日興遺誡置文
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/yuikaiokimonn.html
御書 現代語訳wiki - 日興遺誡置文
https://www46.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/37.html

という部分があって

まず日蓮大聖人の教えの上で構築をして
そして天台の教学をかりて脱構築する。

日興門流にはもともと
そういう志向性があるかとも思う。

その流れの中にあって

日寛上人は
体感覚知の人です。

体感覚知・了解すれば
分かります。

末法本仏・天台本覚・体感覚知

そういうトライアングル
なのなら

そういうトライアングルとして
認めてしまうのも
ありなんじゃないかと思う。

というか

あるようにあるし

なるようにしかなってない。

どうでもいい。

受容するしかない。
というか、受容しないことは
一次的には出来ない。

全部そのままあるだけだ。

何をどうしたって
思考概念の上でしか
特別さはなくて

一次的には受容されたものを
否定しても苦しむだけで

正しさとか

それを求めたら
執着して視野が狭くなる。

全部同じなんだよ。
受容があるだけ。

地球民族主義の立ち位置。
全ての差異を乗り越える。

調和・融和。

それをですね

無理して見栄をはって取り繕って
そのシワ寄せは下に押し付けて

そういうのが
滅びの道の非常識だよね。

まるっきり反仏法だよ。

志向性の違いにより
表現は種々にある
体感覚知への導入。

真の無分別の無・空へ。

そこからの智慧
透明の光を。

それぞれの志向性はあって
どの物語からでも
反転するための飛翔の法。

これ。

これーー!

言語化できない。

楽しみましょう。



[706] ハイハートセンター

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 5日(木)12時11分56秒   通報   返信・引用

時間スケールと九識
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/647
チャクラと南無妙法蓮華経
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/648
を書いた時点では
基本的な7つのチャクラと
南無妙法蓮華経の
配置を行ったが

胸中の肉団の御本尊には
ハートチャクラよりも
第8のハイハートの方が
符合率が高いようだ。

http://ameblo.jp/norifulangel/entry-12139823833.html
~~ハイハートチャクラは、第4チャクラ(ハートチャクラ)と、第5チャクラ(スロートチャクラ)の間、4.5の位置にあります。
ユニバーサルハートチャクラ、胸腺チャクラ、第8チャクラと呼ばれる場合もあります~~

http://ichigenka.jugem.jp/?eid=1050
~~ハイハートセンターは『宇宙の心』。
オルター・メジャー・チャクラ(頭蓋骨の基底にある。自我を超越的な現実に結びつける。)と、第3、第4チャクラを通じて表現される、私たちの心、精神、意思という3つのエネルギーが統合される所。
三位一体という『宇宙の心』の本質によって、このようなエネルギーの門戸が形成され、それを通じてバランスを保ち、トランスパーソナルな気付きへとレベルを高めていく。~~

自我機能、自己機能、意識機能
応身、報身、法身
一身即三身、三身即一身

この感得、体感と理解が
誰でも同じようにすれば自得できるもの
でないとするならば

それはただの幻想が生み出した物語である。

特別な人だけが実現できる事実だったとしても
それならば特別でない私にはできないとするならば

私が関わっても仕方のない
私には実現不可能な他人事の物語になる。

法華経は
誰でもが差別なく自得できる道を
強く志向している。

どうすればこれを皆に気づかせ
即成就仏身(次元上昇)を
実現させることが出来るのかを
常に考えている。

常に考えているのだから
常に新しい方法が生み出される
可能性ははらんでいる。

ぷるぷる縦揺れしたり
フンフン早く呼吸したり
パンツーマルミエの動作を繰り返すだけ?
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/7217551.html

難信難解ですね。
意味がよく分からない。

逆なんですね。

意味の囚われ世界にあることで不良不全が起こっているから
その意味世界の中で簡単に分かることをやるのでは

その囚われの苦しみは解消されない。

殻を突破すれば
視野が大きく開けますから
様々なことに気づける。

大きく開き大きく気づき
大きく前進する

そうした時に
そこにある共通性。

底にある生命の活動。

それを俯瞰した時の
ハイハートセンターです。

http://mm-world.jugem.jp/?eid=4063
アセンション=次元上昇=一生成仏です。

光の最終形態は
光として認識できる光ではなく
ただ働き方としての光です。

透明な妙法の光です。

~~すべてはあなたの意図したことが、あなたの宇宙により実行され
あなたの周囲で起こっている。どんなことも自分が意図したから体験しているということを肝に銘じて「ありがとう」の言霊ですべてを受け止めていく。~~

太ちゃんさんが
内得信仰でありながらも
河合師範の指導に真摯に取り組み
感謝の一念を体得することによって
祈りがどんどん叶う境涯になった。

自身の錬磨
その方法の総称が
法としての仏法であり
正法というものだと思います。

執着の成就ではなく
開放の成就です。

「開く」「蘇生」「円満」です。

すでにその法は
全てに満たされているのです。

執着に視点が固定されているから
見えなくなっているのです。

あなた自身が全てであったことを
思い出すのです。



[705] 関心の向け方 受け入れ方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 4日(水)10時20分0秒   通報   返信・引用

「ぷるぷる運動を実践すると人生が楽になるよ」
と伝えると
「気の持ちようってことでしょ?
わたし幸せですから、間に合ってますから」
と返ってくる。

単純に実践法と効用を伝えるだけでは
事実だとしても的を射た伝え方では
ないのかもしれない。

なんか「気持ち悪い」感じだけが
印象として伝わるんだろうな。

「題目を唱えると祈りが叶うんだよ」
と同次元。

「だからそれ何?」って感じだものな。
よっぽど切羽詰まった人じゃないと
そんな藁みたいな言葉はつかまないかも。

「学会がなんかおかしい」
と強く感じ苦しんでいる人にだけしか
伝わらないんなら
なんか開けきっていない。

人と人、そこにある二者関係。

どういう風に眼差しを向けるのか
ということを反省し見つめ直そう。

それこそが池田先生が
常に実践していたことでも
あるんじゃないかとも思う。

今、学会から失われているものは

本当には「思想」というものではなく
「眼差し」なんじゃないか
とも言えるわけだ。

心をちょっとあったかくする「クリスマスの物語」のプレゼントです。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/61975

という投稿が宿坊にあった。

淋しいという思いに
気づきによる愛の眼差しを
注いだ時

そこに強く生きる力が復活・蘇生する。

気づきが始まりになっている。

気づいたことで
今まで囚われていた思いが
解除されて愛の眼差しへと
自然にシフトしたのだ。

この「シフト」が大切なんです。

眼差しのシフトです。

思考概念の囚われから
柔軟な愛へのシフト

頭で考えるクセから
心身で受けて感じる歓喜へのシフト。

だから、考え方・気の持ち方
っていう次元とは
違っているのだけど

受け手は頭で考えるクセを持っているから
普通に言ったって
そういう風にしか取れない。

どれだけ眼差しを向けて
この眼差しに気づいてもらうか
かもしれない。

眼差しを向けて
気づいて相手を受け入れる。

ちょっと面白いブログを見つけた。
インナーマッスル活性化という志向性で
心身の不良不全の回復を試みるブログだ。
http://ameblo.jp/ok-ozekey/entry-12026811324.html
~~たとえば親鸞なんかは、自分を殺しにきた人を弟子にしてしまったそうですが、そのときってやっぱり「殺したい気持ち」を受け入れたと思うんですね。
「そうか、そうかお前はわたしを殺したいか。まぁ、その前にお茶でも飲まないか」みたいな感じだったんでしょうか。
それで知らぬ間に、暴漢の心もおさまってしまい、しまいには反省する、みたいな。
それがもし親鸞が「おい!お前!殺人はダメに決まっているじゃないか。ダメなものはダメなんだよ!」と抵抗したら、たぶん殺されてしまうと思うんですね。
でも親鸞は、そうしなかった。
すべてを受け入れてしまった。~~
~~「暴走もいいが、お前たちは、本当は優しいやつらなんじゃろ?」というのは、相手の心の奥の奥を受け入れるあり方。
「OK!どんどん暴走しなよ!迷惑かけてもいいからさ。危険走行してもいいよ」というのは、表面的な欲求を受け入れるあり方。
だから「暴走を受け入れる」というおんなじフレーズでも、ぜんぜん違う2パターンの「受け入れ方」があるのです。
この2つをしっかり区別していかないと、議論にならないですね。
「受け入れるべきか、受け入れないべきか」という議論は不毛です。
どこの部分を、どのように受け入れれば問題が解決するか、というのが本質だと思います。~~

こういう受け入れ方
眼差しの向け方というのが

池田先生の真骨頂だった
のではないかと思う。

考えを分かってもらっても
人はそんなに変わらないですよ。

学校で知識を詰め込んできたけど
どれだけの幸せを実現させているか。

感動を分かち合うこと。
その瞬間が「奇跡」なんです。
人生の変わり目です。
蘇生・復活なのです。

不可思議とは思議すべからずです。
頭で考えるもんじゃないんですよ。
議論の必要なんてない。
もう、そのままその時点で変わっちゃうんです。

http://astudyinsecrets.com/blog_y/?p=113
~~ある者は言葉を失う。ある者は悲鳴に近い感嘆の声を上げる。
ある者は顔が引きつる。ある者は文字通り、開いた口が塞がらない。
ある者は胸の鼓動が高鳴り、止められない。ある者は息するのも忘れる。
ある者は全身の毛が総毛立つ。ある者は自分の体が自分のものでないような感覚を覚える。
ある者は時間が止まったように感じる。ある者が世界が揺らぐのを感じる。
ある者は自然と涙がこぼれることに気づく。ある者は気づいたときにはスタンディングオベーションをしている自分に気づく・・・
「不思議」とはそんな「神秘的瞬間」だ。~~

選択です。

常識の中に生き常識の中に死ぬことを選ぶのか
不思議の中に生き不思議の中に死ぬことを選ぶのか。

何も選択しないのなら
今の学会は常識に憧れ嫉妬しながら

非常識の中に跋扈し非常識の中に滅びます。

http://ameblo.jp/ok-ozekey/theme-10090080294.html
常識は現実界
不思議は中現界
無・空は絶対界に通じています。

どこにも通じていない非常識は
滅亡の道です。

”常識に憧れ嫉妬し”・・・

批判=嫉妬かどうか
という議論があります。

非常識サイドは
理に適った説明を求めるだけでも
「一切タブーに触れることは
批判であり広布破壊の嫉妬だ」として
無実の罪を着せてでも裁く横暴の
批判=嫉妬の論理です。

”常識的に考えれば”
批判≠嫉妬を成立させようとします。
https://note.mu/hiroumi3799/n/nf73168522123

心身活性化の見地から見れば
批判するということは、自分の嫉妬をさらけ出すことです。
http://ameblo.jp/ok-ozekey/entry-12026140062.html

無・空から見れば
あるようにあり
なるようになってます。
どうでもいい。



[704] 良医病子 補足考察

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 3日(火)11時44分18秒   通報   返信・引用

肉身の個別の覚者としては
複数人を一人の良医として
仏の働き作用を描いている。

寿量品では
仏は常に娑婆世界で
法を説き続けていて

本質的には
生じたり滅したりすることが
無いと説かれている。

しかし衆生は
個別の肉身の覚者の
入滅を見て
もう仏はいないと思う。

自らは仏より劣っていると
思ってなんとかしようとする。

上手くいかず苦しむ。

このあたりの矛盾に対する
それも慈悲であることの
譬喩となっているのだ。

良医を
肉身の釈迦一人と見てしまったら
わざわざ寿量品で説かれている
整合性が無いのだ。

子は各派それぞれの
思考概念による
三界(差別があると見る世界)
の枠組みである。

これを生み出している父なる
仏のスケール
生命の救済の活動は
どういうものなのかである。

五百塵点劫から考えれば

あらゆる思考限界の
全ての枠組みを磨り潰し

それでもまだ残っている
思考不可能な囚われも
全て通り越して

それも含めて完全に
囚われを磨り潰した

それよりもさらに
広大なスケールである。

始めの一人なんていない。
あなたが始まったことなんてない。
寂光土が始まることなんてない。
娑婆世界なんて起こっていない。

そういう「思い」「考え」
が起こっているだけ。

そのことを伝えるのを
担っているのが覚者だが

個別の一人一人の
覚者というものは
仏の一語一語の
ようなものなのである。

仏が説法の間に
息継ぎをしたとして
どうしてそこに
仏がいなくなったと
言えるだろうか?

時代時代は一品一品の
ようなものである。

みんなが崇める覚者だけが
仏の語ではないのだ。

それぞれが
既に生かされている

色香美味の良薬は
自身・自己機能なのである。

肉身の覚者などに
対象化して

そこに仏があると
感じることが起こりうるのは

ここにある仏が
その自身を映し出しているのだ。

このことの
曇りの無さの一心が仏である。

イメージし
体感に落とし込むことで
それを実現させていく。

逆に言えば人間は
与えられているイメージに
縛られている。

個別に実現しようとして
イメージしようと思っても
全体性のイメージの中に
融合できずに
意図しない結果を見る
場合も多いだろう。

意図思惑・期待依存が
全体のシステムを
見誤っている。

全ては
あるようにあり
なるようになっている。

イメージ化落とし込みと
イメージ突破囚われ解除

その両者によって
フリーの現象智へと進む。

https://matome.naver.jp/odai/2134731690501149301?&page=4
~~Lecture 4 「こころ」はどれほど自由か?
4.1 人間の思考は”権利上”は自由であるが、事実上は不自由である。
4.1.1 催眠よりも自由連想法は優れている
4.1.2 それは言葉だけに頼らざるを得ないため、イメージのバリアを超えて無意識に到達しやすいから
4.1.3 連想は言葉でなされる
4.1.4 意味やイメージは言葉の副産物である~~

結論ありきではない
言葉を紡いでいる。

「私が」という見解を離れた
あるということへの言葉。

思考であれこれ認識する前の
ふっとそこにあるまま。

これが起こることは
どうしようもなく
ここに与えられている。

何とも分離していない。

「自分が自分が」って言ったって
どこからが自分かなんて
無いんですよ。

自分がやってるって
自分で認識する7秒前には
それをやるって決まってる場合もある。

「意識による判断の7秒前に、脳が判断」

何が起こってるのだって
起こってるだけなんですよ。

全部が自身の生命現象。

井上哲玄老師 一泊禅会 2016年12月18日
https://www.youtube.com/watch?v=LY4ScnsitZ8

誰の体感とか
誰の言葉であるとか

関係ないのである。

全部自身の生命現象なんです。



[703] 良医病子の生命智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 2日(月)14時25分55秒   通報   返信・引用   編集済

如來壽量品第十六 経文
http://myofukuji.or.jp/okyo/okyo-00-16.html

全訳 如来寿量品第十六
http://chances.life.coocan.jp/aokyoukan/17.htm

元日の投稿内容は
狙ったわけではないが
どうもここへ来てやっと
良医病子の生命解釈の
とっかかりを得たようにも思うので
挑戦してみよう。

譬如良醫。智慧聰達。明練方藥。善治衆病。

良医とは仏を例えているが
「仏とは何か」を覚知しなければ
生命解釈としては意味をなさない。

病とは体の病だけでなく心の病もある。
仏法では当然それをとらえている。

無・空の絶対界からの智慧によって
心身の不良不全を治癒し
意識世界ごと救済する
意識の使い方を獲得し行使する者。

仏とは神癒の奇跡を起こせる者である。

其人多諸子息。若十。二十。乃至百數。

単に衆生の一人ひとりと捉えるには
数が少ないように思う。
法華経の成立時期から考えて
仏教内の各派とも捉えられる。
主要なものだけでも十や二十に分かれ
数え方によっては百以上にもなる。と。

そのままでは釈迦仏教の
固定的志向性なので
広く生命智として捉えるならば

子とはあらゆる思想体系の枠組みであり
各々の正義を内包した個性である。

以有事縁。遠至餘國。諸子於後。飲佗毒藥。藥發悶亂。宛轉于地。

法華経の成立時期を考慮して
本当のところを読むと

肉身の釈迦が亡くなって以後
残された信仰体系の中には
間違った考えが入り込み

そこにいる人々は悶え苦しんでいた
ということになる。

毒とは自我機能の
「思い込み」「信じ込み」
による信仰の対象化であり
仏の神格化や偶像化である。

生命現象の覚知を
他人事の物語として外に求め

今ここの自分自身を
ないがしろにしたことで

目の前に苦しんでいる一人をも
間違った方向にしか
向けさせられないという悪循環である。

是時其父。還來歸家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。遥見其父。皆大歡喜。拜跪問訊。善安穩歸。我等癡。誤服毒藥。願見救療。更賜壽命。

釈尊自身と分離の無い悟りを開いた
神癒の奇跡を起こせる覚者が
再び仏教圏内に帰ってきた。

自己機能の法を見る心
つまり素直に正直に
仏を見たいと欲する心を
失っているものも
失っていないものもいたが

皆、自己都合であるにせよ
覚者の出現に大いに喜んだ。

そして言う
「どうも間違った考えを
取り入れてしまったようで
もう何が正しいのか
訳が分からなくなっています。
仏の教え・救済の法を存続させるために
仏教立て直しの方途を示して下さい」と。

父見子等。苦惱如是。依諸經方。求好藥艸。色香美味。皆悉具足。擣篩和合。與子令服。而作是言。此大良藥。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦惱。無復衆患。

覚者は民衆が苦しんでいるのを見て
「今までの経典」をつぶさに調べ

仏が民衆に説いた本質は
自己機能の新陳代謝と現れる非二元である事を見抜き、

あなた方自身が
法界(宇宙)に散らばる
美しい味と香りのビジョンを
和合させて出来ている存在なのだ。

その自己機能に寄り添うならば
自我機能による「思い込み」「信じ込み」は
速やかに消えていき
再び侵されることは無いだろう

という事の音声・振動・波動を与え
これによって心身の不良不全は回復する
というものを与えた。

其諸子中。不失心者。見此良藥。色香倶好。即便服之。病盡除愈。餘失心者。見其父來。雖亦歡喜問訊。求索治病。然與其藥。而不肯服。所以者何。毒氣深入。失本心故。於此好色香藥。而謂不美。

民衆の中に
素直な心を失っていないものは
それを素晴らしいものだと受け入れ
実践することで心身の不良不全は
回復した。

そうではない素直な心を失って
自我機能の思い込みの膠着が強いものは
そんなくだらないものは必要ないと言って
実践することなく

ただ覚者の傘の下に入って安住し
それまでの信仰に執着し続けた。

父作是念。此子可愍。爲毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好藥。而不肯服。我今當設方便。令服此藥。即作是言。汝等當知。我今衰老。死時已至。是好良藥。今留在此。汝可取服。勿憂不差。作是敎已。復至佗國。遣使還告。汝父已死。

覚者は思う
「かわいそうにあまりに毒が回っているので
それが利己的な自我機能の囚われであるのか
それが素直で純真な信仰心の現れであるのか
自分で判断できないほど顛倒してしまって
いるのだ。私を見て勇気を分けてもらい
歓喜を得ておきながら、この私の言う方法を
実践しようともしない。何か良い案を考えて
実践させることにしよう」

そこで覚者は民衆に向かって
「わたしはもう年老いて、あまり先が長くない。
正法をここに示しておくから、自分たちで選択して
実践しなさい。必ず治るから心配することはないよ。」
と言い残して民衆の前から姿を消す。

そしてそのまま肉身の覚者は帰らぬ人となり
「もうあの覚者の精神は
この世のどこからも失われてしまったのだ」
ということが耳に届くようになる。

是時諸子。聞父背喪。心大憂惱。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪佗國。自惟孤露。無復恃怙。常懷悲感。心遂醒悟。乃知此藥。色香味美。即取服之。毒病皆愈。

教団に所属する民衆は
覚者の偉大な精神が失われてしまっていることを
深く嘆き悲しみます。
「あの覚者が生きていてくれたならば
どんな状況でも希望へと転じてくれたに
違いないというのに、私たちはもう
頼れるものが無くなってしまった」
そういう思いが胸に湧いた時
「本当にそうか?」とハッとする。

覚者が寄り添えと言っていたのは
その対象化された肉身の覚者ではなく
この私自身の中にいる内なる覚者
だったのではないのかと気づく。

そして循環の自己機能の覚知の
方法を実践することによって
心身の不良不全は回復したのである。

其父聞子。悉已得差。尋便來歸。

入滅し法界となった覚者のもとに
つまり、世間の人びとにも
彼らは本心を取り戻し
法のため民衆のために
再び立ち上がったということが
聞こえた時
あの覚者の為した
その精神性が還ってきて
仏法は復活した。

咸使見之。諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良醫。虚妄罪不。不也。世尊。佛言。我亦如是。成佛已來。無量無邊。百千萬億。那由佗阿僧祇劫。爲衆生故。以方便力。言當滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。

「諸君どうだろう?
覚者の精神が失われていると
教団を責めさせたことは
和合を乱す悪い行為だと
言うことが出来るだろうか?」

「いいえ全く悪いこととは言えません」

「非二元の覚者が述べる世界は
どんな対象が失われようと
本当に失われるものなどない
ということを示している。
だが、それを言っても気づかない場合には
覚者の精神が失われていると
強く責めるのである。
それによって悟りに気づくためである。
そういった道理の上から
非二元の生命感覚の方法によって
教団の在り方を強く責めることは
仏法上の罪とはならないのである」



[702] 「非二元」「悟り」の年、おめでとうございます。

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月 1日(日)12時17分43秒   通報   返信・引用

「非二元」「悟り」の年、おめでとうございます。

この挨拶は、アルベアさんの記事タイトルを
そのまま返している反応です。

年末の忙しさであまり時間が取れていなかったので
昨夜は久々にゆっくりと
アルベア法→長行勤行→三昧(観照意識・只管打座)

そのように過ごしてみました。

ゴーン、ゴーン、ゴーンと
マインドが除夜の鐘だと告げる前は
只、音に対する気づきでした。

音っていうのは脳が受け取って終わりではないです。
よく観察してみると、それぞれの音は
神経的に反応して身体に響いています。

音は生命現象の息づかいを伝達します。
人間の一面は音環境の音的宇宙に
溶け込もうという反応、働き作用です。

文字・楽譜・録音は音を伝える人間の智慧です。
読経は音の世界を再現する行為です。

音と香に浸ることに仏教の化儀の伝える
精神の神聖性の世界があるのです。

自然のままに生かされている
循環のあるがままです。

光というものは目だけでなく
身体全体が感じています。

身に着ける下着の色
暮らしている部屋の色調

視覚によらなくても
精神に影響しています。

視覚は眼差しを向ける
ビジョンを持つという
働き作用です。

眼差しは向けると同時に
向けられてもいます。

私という存在は仏の眼に映っている
世界の中の諸法でもあるのです。

香環境は、仏の体内に
あることを示しています。

逆もまた真という同時存在で
私の中に仏があります。

味覚というものは
直接この体になるものの
門番です。

私の身体は味が作り動かしているのです。

味のビジョンの相の変化が
自然の循環にあり
今ここで私の身体の相になっているのです。

空気の香、水・土の味が食物へ変化し
私へと変化しているのです。

味のビジョンの循環は
宇宙事象のクオリティーです。

味は変化し在り続け
無くなることはしません。

愛というクオリティーの存在として
慈悲の光の世界が輝いているのです。

この世界は眼差しの中に
存在するのです。

所詮なるものは
有るのでもなく無いのでもないことの
神秘性の妙法の音律です。

宇宙の循環が
この五体と変化しており
眼差しの中の振る舞いのために
脳が智慧を獲得しているのです。

身体は太古よりの体躯です。

宇宙の妙法がこの身体です。

体感が存在しています。

銀河意識の慈悲は
体感に対して環境調整を行っています。

この環境調整は
人間自身のマインドが生み出したものには
直接は調整できません。

人間の意識機能を通して
人間になることで調整します。

人間の自我機能の思考は
煩悩・本能を調伏して
立派に社会の一員になるという上で
環境問題も考えようとしますが

見てごらんなさい

自我機能の思考がもたらせている
不調和が環境を破壊しているのです。

脳から体への一面を実現しようという
無理難題なのです。

脳と体とは相互に響きあっており
五体と宇宙とは相互に溶けあうのです。

意識として人間になれない意識体の
エネルギーの行方は

切断・ショック療法として
破奪の現象化の”慈悲”として現れます。

人間我から見れば”惨事”です。
人間我は”意味世界の現実”を生きているからです。

意味我の融解という相転移が自由を獲得し
自由自我の蒸発という相転移が愛の光に舞います。

融解の難しい強固な自我機能は
崩落し砕かれることで融解しやすくなるのです。

悟りの調和の世界へは
懺悔し許し溶け込むリラクゼーション。

脳、身体、環境の調和・融和。

あるようにあり
なるようになる
意味ではない事象です。

繰り返し落とし込むだけです。
難行苦行ではないです。

選択により感じ方は異なります。

自身の生命現象だからです。

マインドラボ機関による2011年の科学的調査により
「Marconi Union」がリリースした「Weightless」が
最もリラックスする楽曲として選ばれている。
http://tabi-labo.com/57534/best-healing-music

Marconi Union - Weightless (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=UfcAVejslrU

Marconi Union - Weightless (Official 10 Hour Version)
https://www.youtube.com/watch?v=qYnA9wWFHLI



[701] 常識から浄識への浄化

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月30日(金)12時14分15秒   通報   返信・引用

2016年。

宇宙規模からパラレル宇宙規模へ。
パラレル宇宙規模から無分別規模へ。

フラクタルでスペクタクルな
今という生命現象が
南無妙法蓮華経。

まぁ、その意味では確かに
過去の文献の研鑽という
学術的な教学だけでは

論争の種ではあっても
救済現象の種ではない。

今ここ以外は概念であって
今ここが生命現象であり
法である。

固定概念の閉鎖的言語体系から
同じ本質のための自由な言語へ
そして無限の空への飛翔へ。

固体→液体→気体という
相転移が囚われからの解放の現象であり

自我機能→自己機能→意識機能
という変化です。

法華経方便品の諸法実相の原理から言っても
その相(自身の現れ方の認識・視座・観点)が転移すれば
その性分(迷い⇔悟りとか探求⇔救済とか)も
その体とするところ(自分、地球民族、ワンネスとか)も
その全てが転移する。

己心の寿量品・今即無限の自身の覚知が
根本浄識への相の浄化であり一生成仏、
現代的な言葉の概念にマッチした言い方としては
次元上昇ということになるのです。

世俗化した教団には転移の力は衰退します。
視座・観点の衰退がその現象を選択しているのです。

こういうことが言えないと
一切の諸法が序分であり流通分であるのが
観心の本尊と言ったところで
言葉だけがある概念の遊戯で
かえって矛盾を克服できずに苦しみ疲弊する。

パブロフの犬・サルを完全に破壊する実験

生命力の蘇生によって
病の平癒などの力用のある生命の法と

組織から言い渡された課題に取り組む
宗教の信仰。

とても功徳があった
→たまに功徳がある
→もうほとんど功徳が無い

止められない抜けられない
出口のない選択です。

まぁ、どうでもいいです。
なるようになってます。

何事も連動起因に出会って
没頭すれば気づきになります。

正法の本質は
どの宗教にあるとか、
どの概念・理論にある
とかではないです。

あえて言うなら
己心の寿量品のうんたらかんたらと
私が言っている文面の底の無・空です。

もう始まっているので
楽しみですね。

アルベアのブログ
おすすめ動画⇒中現界の異次元意識体の実例
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12231715363.html
の中で紹介されている
https://www.youtube.com/watch?v=DUZoTUwRGRc

宇宙的現象と個人的現象
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12232034718.html
の中で紹介されている
https://vimeo.com/129957744
キーワードは「切断」⇒「覚醒」

「意識体の関与」によるリカバリー現象
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12232896533.html

「アセンション現象」は「生命現象」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12233180040.html

実は前No.700の記事は、その前日に
けっこうな意識体関与があって
頭痛くなるし、あと題名を決めて
投稿ボタンを押すだけの段階で
グーグルクロームが落ちて
内容が消え、
もう一度書こうとするも
頭痛などで書けなくて一度あきらめました。

翌日に、その内容を反省し
変毒為薬して向く先を変えて
書き直したものです。

これはアルベアさんのところにも
何か起こるなというのは
感覚で分かっていました。

切断・覚醒・アセンション
その現象智です。

私のひとまずの目標地点は
2017年8月24日です。

この目標は
2015年の8月24日から2年という
カウントです。

2016年はその真ん中の年でした。



[700] 幅×奥行き

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月27日(火)14時15分37秒   通報   返信・引用   編集済

空(くう)は本当は
空っぽではなくて
何であるのかの
認識限界・説明限界の
絶対存在。

普段はノイズが多くて
気づけないため
ノイズを消して覚知する
その方法の一つを説明する時に
仮に空っぽという言葉を
使用する場合がある。

【奇跡の脳】脳科学者ジル・ボルト・テイラーの悟り体験
https://matome.naver.jp/odai/2142474520289111001

思考概念からの解放の体感を
実現させるそのもの。

そこまでの体感が
まだ私にあるわけではなく
私の志向性として
気づきと思考のミックスの
寄せを行っている。

では順に考えてみよう。

     観測限界の外の空
込       /* 英知の結集の観測域
*込    /** 遠く広範囲の過去
**込 /*** 今ここの小範囲の認識
******** 0距離0範囲の観測点
***/ ∀** 今すぐ関与できる行動
**/    ∀* 全体が織りなす未来
*/       ∀ 英知の結集の算出域
     算出限界の外の空

遥か遠い過去のものほど
ハッキリ認識するには
抽出し拡大する技術が
必要になる。

いくつかの問題が
考えられる。

もし情報を遮断された
部屋に閉じ込められたら
その人にとって
部屋の外は空と言えるか?

極大方向だけでなく
極小方向も観測が困難であるのはなぜ?

観測点がハッキリしない。
人間は視覚に反応することもあるし
他の感覚に反応することもあるし
脳を介さない反応をすることもある。

見えているのが過去だというのは
知っている概念であって
今見えているのはそれしか
無いのだからそれが今ではないのか?

人間の認識の「今」には幅がある。
例えば動画のコマ数を増やしていくと
静止画の連続という認識から
静止画は認識できず
なめらかさの認識へと変化する。

人間はこの幅の時間感覚の中で
極小でも極大でもない領域の
人間が受け取り可能な
わずかな領域の情報を元に
しかも端折って違いを認識し
自分の今ここがあると
ハッキリ認識していると
思い込んでいる。

しかしそれは実に
いい加減なものなのだ。

「この ぶんょしう は にげんん は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。」
http://kumaotoko.in.coocan.jp/sakkaku.html

(↓観術TV 脳のクセ~次元上昇)
https://www.youtube.com/watch?v=Ipx-TytC63I
https://www.youtube.com/watch?v=TZKRk_3j944
https://www.youtube.com/watch?v=CGImuSbvHWY

いい加減な認識が生み出している
諸問題に対して、同じ次元からでは
解決が難しい。

奥行きを覚知した視点に移行する
ことによって、今まで
どうしようもない問題だと
思っていたことが
何の問題もないこととして
解決に向かうのかもしれない。

一つには九識論に見る深さ
ということでもある。

(↓これは毒が強いかもしれないので幅と奥行きだけさらっとね)
http://ameblo.jp/tomel31/entry-12123058866.html


↓↓↓

     観測限界の外の空
込         /* 英知の結集の観測域
*込      /** 遠く広範囲の過去
***〉〈*** 今ここの小範囲の認識
**/      ∀* 思考の勝手な思い込み
*/         ∀ 無分別の理
               冥合した無・空
込         /* 無分別の智
*込      /** 思考の勝手な信念
***〉〈*** 今すぐ関与できる行動
**/      ∀* 全体が織りなす未来
*/         ∀ 英知の結集の算出域
     算出限界の外の空

人間スケールの今を境に
外と内に同じだけの
広大さが開けることになる。

その広大さは自分にだけあるのか
その広大さは人間にだけあるのか

全ての認識の奥には
その広大さの無限がある。

それらの空は別々か同じか?

本当にハッキリ存在しているのは
何であるのか?

問題は存在しているのか?
この疑問はどこに実在しているのか?

対象化できないという本質。

「心身脱落」「只管打座」
http://shuchi.php.co.jp/article/1535?p=1

「摩訶止観」(中国天台宗)
http://ameblo.jp/morfo/entry-11112543690.html

三学と止観
http://ameblo.jp/morfo/entry-10814135474.html

日蓮仏法の説明はいつもしているので省く。

         ↓↓↓

              _.ャぁて丕刀フ7ゎ.
       ,ィ升ヲナ'´         `゙'<弖心、
     ;夕フア´              \ホi心.
  んfiУ               ▽ij∧
  从j'Y                  ∨iハ
斤W                     ㌣い
|友カ                   }ソ川
い叭                  仄ガ
 Wi从                从ノリ
  ∀t△               ∧fリ/
    ゙マじへ、           /リiУ
      \夊i㌧、_           ,.イ!刋/
           `゚' ミ芝玉竺壬云‐'´
                     ̄ ̄
これ、ダイレクトパス。

説明なし、ダイレクトパス。

例えばロボットを動かすのだって
理論から攻めたってぎこちなくて
なかなか上手くいかない。

シンプルな仮説から
色々やってみて調整するのが早い。

謎のエンジニアDr.Gueroさんのこと
http://shuuji-kajita.hatenablog.jp/entry/2016/05/13/025708

脳の存在理由
https://www.youtube.com/watch?v=Q4hXHH8CZBc

つまりアルベア法を実践してみるのが早いということ。



[699] 関西魂の非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月25日(日)04時55分34秒   通報   返信・引用

http://www.kansai-soka.jp/member/gakkaika.html
常勝の空
作詞:山本伸一  作曲:杉野泰彦

一、今再びの 陣列に
  君と我とは 久遠より
  誓いの友と 春の曲
  愛する関西 勇み立て

二、我等の誉れ 錦州城(きんのしろ)
  常勝の空 晴ればれと
  凱歌の友の 雄叫びは
  波濤の如く 天に舞え

三、あぁ関西の 行進に
  諸天の旗も 色冴えて
  護りに護らん 我が友を
  いざや前進 恐れなく
  いざや前進 恐れなく

非二元の愛の没頭の歌だと思います。

今再びの 陣列に
  君と我とは 久遠より

再びという蘇生は非二元の体感覚知の現象化
無始無終の「今」の瞬間瞬間が絆の生命現象

誓いの友と 春の曲
  愛する関西 勇み立て

法のため人のために誓って歓喜を奏でる
愛のエネルギーの同時代現象を生み起こす場

我等の誉れ 錦州城(きんのしろ)
  常勝の空 晴ればれと

輝き澄み渡る「空」の覚知は
不壊・不落の城にして勇み進めば
誉れの常勝の軌道に乗る

凱歌の友の 雄叫びは
  波濤の如く 天に舞え

迸るエネルギーの炸裂
その情熱の表現は人間の認識を
超えた領域にまで響き動かす

あぁ関西の 行進に
  諸天の旗も 色冴えて

場の意識・全体性覚知のエネルギーの涌出は
不思議な連動現象を味方にし飛翔を果たす
色鮮やかな栄光の行進

護りに護らん 我が友を
  いざや前進 恐れなく
  いざや前進 恐れなく

正しき法のための民衆を護る行動の
そのエネルギーが光なのだ
臆すれば自滅
いかなる権威権力意図思惑が相手であろうと
恐れずに非二元の明晰で前進するのだ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

非二元感覚から言葉を浮かび上がらせることを
私はやっているが

この歌詞は当にそれによって書かれていると思う。

法難の度に比例して繰り返し意味を放つ
法華経の非二元の歌だ。

成功する民衆運動の団結には歌があると知悉した
池田先生が、最重要の関西を常に勝たせるために
不滅の金字塔の魂の奇跡、誓いの奇跡、愛の奇跡
その全身全霊を込めた歌。
未来もまた不二とするために「今ここ」
を込めた歌なのだ。

以前貼った池田先生の観心本尊抄講義に
始まりも終わりもないということは
今一瞬の中に全てがあるということだと
いう部分があった通り
その身において非二元を体感覚知している。

また、それより以前にも
詩【革命の河の中で】の中で
~~誰が見ていなくてもよい
誰に凭(よ)りかからなくてもよい

ただ一元的な法に則り
汝の人生の真相と
人間党の絢爛たる 勝利の絶大を信じて
天座に 自在に 舞いゆくことだ~~
と綴っている。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/61924

自我機能の上では
池田先生が作った「常勝の空」かもしれないが

自己機能の上では
誰でもない全体の愛と信じる心が
「常勝の空」を作った。

「常勝の空」には爆発力があります。

そしてこの歌は
昭和54年への先手でもあったのです。
http://d.hatena.ne.jp/peppie/20031007/1065503941
http://blogs.yahoo.co.jp/sakuratribune/26140942.html

思考概念で捉えれば
対象化したその時その人の物語になる。

今再びの法難に
今再びの陣列で向かう。

繰り返しのセット現象です。

始めの一人はいない
「今ここ」の自身の生命現象です。

あなたの愛の気づき
飛翔しかないのです。



[698] 発迹顕本の物語の無いと蘇生と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月24日(土)02時01分1秒   通報   返信・引用

先に日蓮仏法の御書の立場という
断りを入れておく。

爾前諸経は信仰の対象ではない。
法華経本門が優れているが
迹門も捨てない。
南無妙法蓮華経が優れているが
法華経二十八品は捨てない。
観心の本尊のためには
一切の諸法がその導入のためであり
一切の諸法がその流通である。

さてさて前回
ストーリーに飲み込まれてはいけない。
非二元を悟らないと歪むのだ。

と書いたが
ストーリーを有難がるのは
法華経迹門までなのだ。

真実を示されても
それが有難い対象
他人事の観念
従うべき思考概念である限り
「思い込み」「信じ込み」レベルから
抜け出せない。

要するに発迹顕本という言葉や概念は知っていても
じゃあどうすれば発迹顕本出来るんですかということが
さっぱりなのだ。

前回の系譜には
釈尊の悟りからスタートさせているが

釈尊一人が悟って説き始めたという
始まりは無いのだ。

同じように
日蓮大聖人一人が思い立って
末法の衆生を救う法を説き始めたという
始まりもなく

牧口先生が日蓮仏法に出会ったという始まりも
戸田先生が戦後の苦しむ民衆を救うことを始めたのも
池田先生が世界の民衆を救うために打って出たというのも
そういう始まりはなく始めた一人はいない。

始まりが無い、終わりがないということは
そんな風に思われる一人は存在していない
ということ。

一切の対象化、偶像化をしないことの自得
それが法華経の非二元の体感覚知です。

その瞬間のみにおいては
一切の誰かは存在せず
これを信仰するという対象が無い。

宇宙と想定したって
宇宙も対象であり
宇宙も存在していない。

このことの祈りとは何かというと
空っぽからあふれ出るエネルギーそのもの。

このエネルギーの
音声的表現として
日蓮大聖人の志向性の上で
南無妙法蓮華経です。

と、ここで日蓮大聖人が
再び現れる。

復活、蘇生です。

この復活した日蓮大聖人は
どこからどこまでという境も
始まりも終わりもない。(円融円満)

全ての復活の経験にとって
同じ報身、同じ心です。(開かれている)

その報身、その心にとって
一切の現象は自身の生命現象です。

法華経二十八品を
限定されたスケールとしてではなく

開かれた非二元として
湧き起こった智慧のエネルギーをこそ
密教的曼荼羅を同じ光の復活として
文字曼荼羅として御本尊を表現したのです。

空っぽの自身(無我)に
最小限の自我が復活し
智慧のエネルギーが湧き起こる場が
すなわち戒壇であり

日蓮大聖人の志向性の表現として
三大秘法なのです。

蘇生の大歓喜の表現なのです。

その表現に縁し感応するから
そういう大逆転の
エネルギーを得られるのです。

これに乗るのは体感です。
思考概念は導入です。

サーフィンのように
スキー・スノボーのように
自転車のように
職人技のように
です。

リーラ 記事:天皇誕生日
http://abetoshiro.ti-da.net/e9227529.html
~~国民の上に君臨するのではなく、むしろ最も下から国民を支えているように見えます。


それは祈りによってなされています。

祈りとは、天にお願いすることではなく、愛がさらに昇華した高いレベルのエネルギーのこと。

自らを空っぽにして、そのエネルギーを通す媒体になっているのが、本当の祈りです。


祈りとは行為ではなく訪れるもの。

愛も祝福も、およそ人間にとって価値あるものは、人間が作るものではなく彼方から訪れるものです。


人間にできることは、自らを空っぽにすること。~~

非二元の探求者・覚者は同じような内容を言います。

法華経は無名の非二元の探求者・覚者たちの
釈尊自身との違いの無い完全な結実でもあるのです。

釈尊の直接の説法ではなかったとしても
釈尊自身が説いたのとまったく分離のない
誰が説いたのでもない究極です。

今もなお、気づけば厳然として散らず。
一切の現象として現れているのです。



[697] 法華経の非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月23日(金)12時03分45秒   通報   返信・引用   編集済

般若心経に見られる色即是空、空即是色
これは「諸法空相」であり
「気づいている私(I am)」には
特定の在り処が無い一つだという気づきです。
ともすればこの世は空虚で
何が起こっても幻想なんだから
真実の世界で救われれば良いという幻想です。

法華経に見られるのは「諸法実相」であり
分離されない在り方の如来による
実際のこの世界での救済の法です。
真実が諸法空相であると言っても
この世界から分離された真実があるのではなく
この世界の現れ自体が真実の現れ方であり
物質的にも精神的にも清浄な人間としての生活(円満)を
開き蘇生する身口意の行動の救済の法です。

④ 「諸法実相」という言葉は,積極的な意味があると思いますが,
皆さんはどう思いますか。(YAHOO!知恵袋)


求道者から救済者への反転。
智慧を探す悟りへの道から
智慧と輝く自身の生命現象の悟りへの反転。
瞬間瞬間の閃きの反転でもあり
体感的には空をくぐりぬけて実として現れる
水と光の復活の生命現象である。

私があると気づいている私はどこにある?脳??
脳にその考えが起こっている事に気づいている私は?

これは、探す限り終わらないイタチゴッコ。

気づきのダンス(カテゴリー別アーカイブ: ダイレクトパス)

だからと言ってもその気づいている私(I am)を
体感して腑に落とすことは出来る。

やってみることが重要なのだ。

ダイレクトパスがその一つだ。
悟りを体験的に理解するーダイレクトパス(見ること)

この方法が辿り着く一つの答えが
「頭の無い方法」である。
頭がない方法(HP)

頭がない方法(youtube)

アルベアさんは
「見えている世界」視覚による世界の後ろ(眼球の後ろ)には無限の「無」無限の「空」しかないのです。
と表現しています。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045597.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045637.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045685.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12229045792.html

釈尊の悟り→
般若心経の空の思想→
法華経の実相の比喩→
鳩摩羅什の妙訳→
天台の「止観」→
妙楽の一念三千の教理→
伝教の戒壇→
日蓮の三大秘法→
日寛の文底→
創価三代の広布

師の到達点が弟子の出発点
観心本尊抄の指導原理について

しかしストーリーに飲み込まれてはいけない。
非二元を悟らないと歪むのだ。

継承されているのは
非二元の悟り、体感覚知だからである。

この意識の使い方からの救済。

意識を向けるということの
輝きの爆発の起こりの没頭の現象に
合致すること。

池田先生の弟子だというためには
そこがスタート地点になるのだ。



[696] 無い

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月20日(火)11時32分49秒   通報   返信・引用   編集済

没頭とは能動的ではない。

しなければならないと思ってするのではなく
したいという思いに委ねることで没頭する。

内発性を受容することによる開放・蘇生・円満である。

これは自己の内発性に対して
こうすれば価値的だろうとかいう意図・思惑を
乗せない没頭である。

自我機能の能動性を忍ばせて
自己機能の歓喜に委ねるのである。

この自己の生命活動を信受し受持するのである。

意図・思惑という思考をする頭の没した世界で
無我夢中であるという生命活動である。

夢中になっている瞬間に体感している世界において
己の頭や思考が存在しているかどうかということは
体感把握していても
自分の考えがそれをしているという思考ではないはずだ。

それは体を使うことだけでなく学問をする時もである。

「今のオレ神ってたよね?」って振り返った時に
自分の思考、今までの努力の結果という物語の中で
自分の分離、結果の分離を認識する。
あるいは師の指導、伝授された技の結果という物語
かもしれないが同じことである。

思考概念の世界が裏返しにできている面白さは
結果に対して、これが原因だと結びつける意図・思惑によって
かえって、それを分離した柔軟性の無い、
偏った囚われを形成するところである。

結果が重要か過程が重要か?

それが二元思考のなせる業である。

因も縁も果も報も今一瞬の中に全部あって
究極して等しいというのが法華経ではなかったか?

法華経は非二元の教えなのだ。

池田先生のために頑張って
池田先生のおかげで結果を得る。

分かるかな?
それではいつまでたっても不二にはならない。

じゃあどうすれば良いか?

どうでもいい、考えるな。
本物であれば自然に湧き起こる。

そういうことを信じられないのが不信なんですよ。
自身の生命現象に対する不信。

知性を捨てろとは言わない。

知性があるなら意図・思惑を
見抜けと言う。

外にある意図・思惑も
内にある意図・思惑もだ。

その意図・思惑は名聞名利であり
本来の妙法の光を遮っている。

悟っていますか?
あなたの生命現象が
南無妙法蓮華経であることを。



[695] ある

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月19日(月)12時36分46秒   通報   返信・引用

現象智にとって
どのストーリーを選択するかは
どうでもいい。

学会活動?
やるんならやるんだろうし

それじゃないならそうならないだろう。

大御本尊をどうとらえるかも
そうとらえることが起こっているのなら
そうとらえることが起こっている。

それぞれに違うことが
それぞれに同じである。

思い思いなんですよ。

没頭しきれば関係ない。
どうでもいい。

没頭している時には
起こっているそのものなんですよ。

理由は関係ない。
物語はどうでもいい。

私の言っているのは
私の物語なだけですよね。

自分は何か間違っているかもしれない
自分には何か足りていないかもしれない

そういう思考概念の物語に囚われるから
比べて迷うんですよね。

分かったと思っても
それは分かったという思いが
その瞬間に起こるだけです。

一瞬で過ぎ去って
もうどこにもないそれを
共有することは出来ない。

まぁ、共有しようという働きが
起きるんなら起きるんですけど。

本当に共有できるのは
すでにありいつもある
何でもない普通のこれ。

だから、どうでもいい余分なことを
考えすぎなんだってこと。

私だって怖くなったりもするし
いっしょ。

でも生きてる限り死にませんから
安心してくださいってこと。

これ、アルベアさんが紹介している
長尾弘氏の言葉ね。

結局、生かされているんだって
ことだよね。

だから最小限の自我機能。

それで足るってこと。

足るを知って周りが見えていることと
没頭し集中し深さに向かっていること

その同時は一つの充実ではないかと思う。

理屈は起こっていない。
人間が起こっていることに理屈をつけているだけ。

ただあり
なるようになる。



[694] 然の一念三千

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月18日(日)15時05分19秒   通報   返信・引用   編集済

然の一念三千なんてのは造語ですが
試しに検索してみました。

ははーん、
天台”智顗”みたいに
天台の中興の祖である
妙楽大師の名を”湛然”
というそうです。

しかしこの検索にかかったのが
「気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/11/12/134522

であり、
2016年9月という転換期から
書かれているのは
同時代現象として興味深いものです。

記事中では固定概念化、教理化された一念三千には
懐疑的だと述べ、空への志向が見られるかと思います。

学会活動やめて幸せです☆
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/09/23/084441

なんて記事には
学会活動をしない方が
自由に仏法が語れること

財務ってやらなくていいんです
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/09/12/124109

なんて記事では
法華経を引いて
教団への供養はしなくて良い
と語られているが

それだけでは切文かもしれない。

受持即観心の人となり
師が完全な涅槃にはいったあとは
宗教教団性に与しない。

そういうことにも思う。

幾多の失敗や
嘘やごまかしがあらわになるも
反省や総括をせず

様々な見識や状況に
柔軟に対応する智慧なくして
一本調子の打ち出しばかりでは

創価瓦解は現実のものとなっていく。

個々の自分自身の生命現象の
体感覚知として
法華経、法華経の非二元の
勇気と智慧を開く時である。

自身が救済者の
生命現象として存在することが
法華経の非二元となるのである。



[693] 自然蓮華

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月18日(日)09時05分27秒   通報   返信・引用

意図・思惑の世界
→愛しい枠の世界
→自分(のもの)が惜しい
条件付けによって自分のもの
になる境界があると思う世界
あるいは
誰かの境界の枠に入ることによって
愛してもらえると思う世界
→執着によって三毒が起こる世界

例えば
「オシャレな服を着こなしていないと不幸」
「高級ブランドのバッグを所持していないと不幸」
そういう思いに囚われている人に対して

服やバッグを買い与えるのか
囚われている思いを解除するのか

どちらがより永遠性のある開放かである。

自己の生命の価値に気づくことによって
思いへの囚われは解除される。

己心の寿量品
永遠の自己自身に気づくことが
最高の価値なのである。

それに気づく悟りが
法華経の非二元である。

意図・思惑の世界から
勇気(慈悲)と智慧の世界への
視座の転換である。

さて
「創価学会が発展しないと不幸」
「公明党が勝利しないと不幸」
「信じて頑張れば功徳があるはずだ」

宗教の信仰が表になれば
そういう条件に囚われるのである。

そうであるならば
宗教枠の解除が
意図・思惑の世界から
勇気(慈悲)と智慧の世界への
視座の転換となるのである。

意図・思惑は自我機能の思考概念の世界である。

勇気(慈悲)と智慧の世界は自己機能の
活性化による意識の覚知である。

自ずから然なる生命現象
然の一念三千によって

理の一念三千を事の一念三千として実現させる。

思考概念を解除すれば
それが本来の生命現象
無作の三身である。

「菩薩仏」という言葉こそ
使っていないが、論理的にも
無作三身はそういう概念になる。
自己機能の活性化によって
自分自身の事として悟る。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1486925639
~~「受用身」とは「報身」の事です。

簡単に言うと、他受用身はまだ誰かに教化された立場で成仏してから今度は衆生を救うと言う、まだ始りがあり、三身が同体でない報身仏です。

自受用身とは教化されるはずの菩薩の因も教化する側の仏の果も倶時である始まりも終わりもない報身仏です。 誰かに教化されて成仏した後に菩薩道をするのではなく、成道するのも菩薩道をするのも同時な仏です。

創造主とは違います。 世界を創造してはいません。 宇宙法界自体を体とする無明と法性の縁起の報身仏です。

自受用身は、どこか別の世界から救いに来る仏ではなく、私達の一念に具わる不二・中道の仏でしょう。 宇宙法界自体を体とした仏です。 法界の法性であり、個々の衆生の仏性であると思います。

また、理である法と理智合一をしたのが自受用身でもあります。 理智合一、境智冥合、人法一箇と名称は違っても同じ事です。 報身を中心にしてみると自受用身ですが、法身を中心にしてみると智法身です。

覚った人に具わる般若であり、その般若は理である法(理法身)と一体化しています。 悟りを覚った生身の聖人に具わる般若です。

法華経・見宝塔品の釈迦如来・多宝如来の二仏の並座もこの般若と法身の境智冥合、理智合一を表現しているはずです。

自受用身とは、 上求菩提、下化衆生の菩薩に具わる般若と思います。 菩薩行をして成仏してから衆生を救おうとする人の般若ではない。

「報身の智慧は上に冥じ下に契ふ」 法華文句 巻九の下

と天台大師はこの自受用身を説明しています。 上は法身で下は衆生の側に応化した応身仏です。 同時に菩薩であり仏である、衆生と法を繋ぐ般若です。 覚ってから衆生を救うのではないのです。成道と菩薩行が同時な仏なのです。

別の言い方をすれば、法身とは私達に具わる論理としての法性、自受用身とは私達に具わるその法性を悟る般若、応身とはその般若を開発して衆生を教化すると言うアクションを起す私達自身の生身と言う言い方も出来ます。

もちろん、これは覚ればの話しなので理論上の話しであって、悟るまではこの三身は私達には論理としてしか具わらず凡夫は凡夫です。

「完全自己完結」が宇宙の無始無終と同じような意味でなら、その宇宙論の無始無終の考えに非常に近いとは思います。

「マンダラ」と言う言葉も、自己完結で何もかも具わっている無始無終の完全な円と言うニュアンスがあります。~~



[692] 雨季と乾季の太極

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月16日(金)12時48分36秒   通報   返信・引用

錯視などの錯覚や
直感と思惑と現象の捻じれを
試して経験して納得すること。

現象智への気づきの方向です。

モンティ・ホール問題なんていうのを
知っているだろうか?
https://www.youtube.com/watch?v=X9TdPeHQqWg
https://www.youtube.com/watch?v=Js_2UNM0pj8

「え?なんで??」から
「あーなんだ」に変化する。

これが一つの反転であり
その部分に対して柔軟性を獲得する。

「あーなんだ」は釈迦十大弟子の
阿難(アーナンダ)に通じる。

阿難は多聞第一と言われ
経典結集の際、阿難が
記憶に基づいて釈迦の教えを口述
したものが書き留められたとされるが

「如是我聞」というのは
ただ暗記した文字列の物語の再読ではなく

読み手としては
仏という現象智が
納得・体感・柔軟性への昇華の法を文字列に
秘したものであり、
文字列ではなく現象を見て試し気づく事を
得るためのものとして観心するべきものである。

阿難とは音写であり
「アーナンダ」の意味は「歓喜」である。

気づけば歓喜である。

言葉遊びや
替え歌を作ったり
パロディ作品を作ったり

そういう柔軟性は
気づき・反転の
体感の変化の現象の起である。

また、笑いという波は
一見不可能と思えることも
可能にする柔軟性を人に与える
力を内包している。

本当の笑いは
出来上がったものの見た目や
その時の発想法がどうであれ
長い目で見れば真剣さによって作られていて
決してふざけて生きようという上でのふざけではない。

現象としては
なるべくしてなるものであり
単純イメージ化すれば
太陰大極図である。
https://www.yoga-gene.com/philosophy/141698.html

さて
雨季と乾季を考えてみる。

イメージ的には
ジメジメと枯渇であり
反転すれば
ウキウキと歓喜である。

雨季に水を与えてもらっても
有難さが解らない。
乾季に水にありつけたならば
歓喜が湧き起こる。

雨季に人が欲するのは
洗濯物の乾燥機であり
乾季には欲しない。

ウキウキというのは
外面にせよ内面にせよ
触れることへの自然な意欲である。

ジメジメというのは
外面にせよ内面にせよ
触れたくないという自然な意欲である。

太陽の光を
通し浴びることと
太陽の光を
閉ざし覆うこと。

これは良い悪いを言っていない。

太陽が照り続ければ
干上がってしまう。

太陰大極図のように
あるだけであり
なるだけだということだ。

あるということを経験している。



[691] 自然反転現象

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月15日(木)03時43分33秒   通報   返信・引用   編集済

意識の反転の体得の
ストーリーの一例として

まず宗教を信仰し
仏法を信じることを可能にした
答えの詰まった意識の球体

題目を唱える時の
無我感覚が体得される。

円融円満法等によって
意識の球の固定性・限定条件
(信じ込み・思い込み)を
解除し無理に頑張らない。

呼吸法・トーラス瞑想
眼球運動等により
軸の上下を逆位置にもっていき
逆もまた真を自然体得する。

プルプル運動等の振動によって
宇宙生命の自然現象のトーラスエネルギーにそって
表面を波打たせる。

宇宙生命の自然現象のトーラスエネルギーにそって
仏法を信じ行じる中心軸をそのままに
宗教の信仰に関わる両極をそれぞれ半回転させる。
(2017.1.2 回転が足りていなかったのを修正)

今ここにフォーカスし
意識を球状に戻す覚知を体感する。

はい、これで無理なく球が反転しました。
矢印の向きが反転して救済者になります。

球の裏返し方
https://www.youtube.com/watch?v=SLQEIDeZSmQ

トーラスTHRIVE(日本語)
https://www.youtube.com/watch?v=LtyFci3Oxww

何がどう反転した体感になるのかは
体感してのお楽しみ。

レッツ ダウンロード。
是非、体感に落とし込んでくださいませ。

スピリチャルエネルギーによる
自然反転現象です。



[690] 宗教枠の解除

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月14日(水)03時21分23秒   通報   返信・引用

ここのところ
「自分は無い」ということを
言ってはいるが

本当のところは言葉が足りていない。

論理的な「これが自分という条件付け」は
幻想だということである。

それが幻想で無いのだとすれば
「自分でもこんなことが出来るなんて
思ってもみなかった」なんてことは
起こる余地がなく

与えられた条件通りの
可能性の乏しい閉ざされた世界となる。

自分自身という存在が
条件付けを解除していくと
無明・法性として開示されていく。

そうなっていくことが観心であり

日蓮仏法は本来は良く出来ていて
信行学によって

答えは我が内にありという
己心の法の自得が出来る
システムになっている。

法華経は
「読む」「開く」「悟る」「思い出す」
そういう展開される対象であるが

南無妙法蓮華経は
どうするということを言えない
そのものであるところが秀逸である。

本当は教学は知識のためではなく
反転した体感の気づきのためなのである。

第一期・第二期では
区別する必要が無かったかもしれないが

宗教枠解除の第三期の飛翔においては

仏法を信じ行じることと
宗教の信仰というものは

全くの別物だと明確に区別する必要がある。

仏法とは生命の法、悟りの法であり
仏教教義は同じ本質として語られる中の
一形態であり、体感への導入にすぎない。

宗教とは、人を寄せ集め信仰を仰ぐシステムである。

実は救済者への反転は
すべからく宗教の信仰を止め
自身が法だと悟ることによって起こる。

この宗教枠の解除は
自我機能の思考概念では険しすぎる。

自己機能の体感覚知によって
スムーズに変転が
自動的に起こっていることを覚知する。

法のため人のための
強い意志による体感覚知
法華経の非二元である。

広宣流布とは
宗教規模の拡大ではなく
生命の法の流通を言うのである。

人間のための営みへの蘇生である。

妙悟空・法悟空の記し残した金文字が
我が生命そのもの。

もちろん文底の体感としてである。

命を頂いているのだ。

自分で生きているんじゃない。
生かされているのだ。

明るく楽しく元気に仲良く。

輝かせていきましょう満面の笑顔で。

その光が奇跡であり自身なのです。

お忙しい中
日々の閲覧ありがとうございます。



[689] 主体・客体・大衆(二次的客体)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月13日(火)08時09分28秒   通報   返信・引用

唯物論・唯心論が
世界の構成要素の本質は何か
という観点からの二極分離
であるのに対して

唯識論は
客観的事実として
自身の意識(主観)以外のものを
誰も経験しないという観点である。

それは、認識という経験が意識だからである。

誰にとっても認識する前には
世界が存在しておらず
自身の意識の中で合成された認識を
経験している。

経験に対して何かを思うことが
主観であるが

何も思う前の経験は客観である。

見せられている。
聴かされている。
嗅がされている。
さらされている。

この経験に対して
もっと欲しいという欲求をしたり
これは嫌だという反発をしたりする。

しかしこれは
自身の意識が条件付けて作った幻想を
自身の意識が選別しようという
自作自演である。

一人という存在であるならばこれは
陶芸家が納得のいくものを作るための
制作と選別のようである。

問題は意識という世界に
他者が唐突に登場し
無視することさえも含めて
二者関係の交流となるところである。

主体として完結せず
次の他者に経験されることによって
選別の対象になる。

だから、主観は
良く思われたい
認められたいと思うのであるが

良く思われているかどうか
認められているかどうかというのは
自身の意識が情報によって
作り上げる産物しか経験できない。

本当はどう思われているのか
不安になって洗いざらい説明してもらったとしても
その説明の情報を元に意識で合成されるだけで
誰も本当の他人には辿り着けない。
分かりえない。

誰も辿り着けないことが確定しているものを
本当に存在していると確認する努力というものは、
空をつかもうとする様なことである。

厄介なのはこれが他人の事だけではないということだ。

本当の自分を知りたいと思っても
その自分の認識も意識の産物を経験しているだけであり
認識として思い込む以上のことは出来ない。

だから一層、他人の目にどう映るのか気にする。

思い思われ思いつくす。
思い込みの上書きの世界である。

大衆の思いは基準を求め合意を形成する。

「太陽が地球を回ってるってことでいいよね?」
「ウランって暖かいし健康促進物質ってことでいいよね?」
「こんだけ失敗したんだから非科学的なことを言う人間は悪ってことでいいよね?」

不安・臆病が生んでいる
イジメ的構造である。

この根源が

「自分っていうのはあるってことでいいよね?」
である。

自分があるということは観察される側があるということで
対象化が生まれる。
対象化されると何かしらのニュアンスの思いが添付される。
「これが良い」「これが悪い」と思っていることが
客体に向かって意識的に伝えずとも伝わる。
このこと自体が、自身の意識の中の世界で起こる事であり
主体の選別、客体の選別、大衆の選別が自身の意識世界にあり
意識的に「自分にも言い聞かせる」ことがあるように
自分は主体であり客体であり大衆である。
自身の生命現象として思い通りではない
期待依存の反転の報いが起こる。

非二元も

「非二元は良いものだ」という思いの
思考概念としての働きは

概念の押し付けを免れない。

非二元は
良いも悪いもない

ただ自分も宇宙もない体感の
今ここである。

これがあるだけ。

救いでもなんでもない。

これがあるだけ。

なるようになるだけ。

これは良いと思うとか
これはダメだと思うとか
「どうでもいい」

そんな次元じゃない。

しかし伝えようという時には
どうしても概念化が起こる。

これのコントロールが
救済者の手腕である。

現象連動の起因
下種の法である。



[688] 意図の糸

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月12日(月)10時11分34秒   通報   返信・引用

糸に引っかかると
振り回される

これ当然の事

太い意図を思惑という

思惑に乗っかると
そこに囚われる

意図・思惑
思考概念によって
ままならない自分が
ある事が強要される

自分を守ろうとすることが
実は意図・思惑の支配を受けることを
正当化するために起こっているエゴである

与えられている生命ということが
反転して支配に利用されている

法のため人のためという飛翔が
意識の範囲を変化させる

今まで逃げようがなく
大地だと思っていた思惑も
ささやかな抵抗値の糸のように変化する

全体を現象として見る視点を得る

俯瞰である

意識をもっと大きくすると
全宇宙となり

人間世界のことなど
無いといえるレベルになる

ついには意識から
自分と宇宙が消える

ただあるという変化は

そのようである現象である

法華経方便品の諸法実相
仏と仏だけがよく知っている十如是とは

そのようにある
それの在り方である


私が私の
思考概念のアスレチック

志向性によって

小難しく理屈をこねていることでもある

それは解除パーツであり
後にはこだわらない引きずらない

文上は過ぎ去る物語
文底は飛翔する体感である

体感を落とし込み
物語を解除する

法華経の非二元は
意図ではない存在覚知である



[687] 自作自演

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月11日(日)19時09分3秒   通報   返信・引用

そこに見えているのが
自分の意識であるということを
阻害しているのが
自我の二元思考である

そこにあるそれを
直接には
そこにあるのではなくて

意識がそれとして
作り上げた世界を
重ねたものが
それとして認識されているだけである

もちろん
五感に入る外部刺激によって
形成しているはずで

そのように認識されるべきものが
あるはずではあるが

直接に体験しているのは
意識が合成した世界であり

自分で自分の意識の形成物の一部を
意識が意味付けし分離を経験している

自他・優劣・有無・勝敗

条件化されたパターンの模倣

生き方形成

良い生き方と悪い生き方

世界と分離して自分が存在していると思っている

しかしその自分も
自分で自分の意識の形成物の一部を
意識が意味付けし分離を経験している
だけの産物である

~~なら~~という
条件付けを全て取り除けば

誰もいない何もない
意識の世界だけがある

ただ意識という現象の経験だけである

意識は自動的に意味を作り
分離することが条件付けられている

その解除のために
呼吸法・瞑想やエネルギー体感運動
右脳左脳のスイッチングの方法
などがある

考える世界の中では
意味付けの分離が強化されるだけなのだ

無分離の意識の世界には
認識されるものがただある世界なので
過去も未来も距離もない

何の意味も持っていない
今という刺激が
条件付けによって
認識されるのである

このようなことによって
何を覚知するのかというと

存在智そのものが
愛であるということである

良い人間だからできるとか
悪い人間だからできないとか
そういう思い込みが二元論であり

やって思考概念を解除すれば
誰でも覚知できる

0の次は1であるというのが思い込みである

0の次は0.000001かもしれないし
0の次はAかもしれないし
0の次はあかもしれないし
0の次は100かもしれない

0の次は原子かもしれないし
0の次は人間かもしれないし
0の次は星かもしれないし
0の次は宇宙かもしれない

空の覚知が全てになるという現象化である

良い悪いを見て苦しむのは
自作自演の物語である

何もないことによって
色々があるということを経験しているのが
意識なのである

現実界で経験しているのは
生の味わいである

中現界で経験しているのは
心象の体感である

絶対界で経験しているのは
無・空の絶対存在である

理由付けに囚われた
情動の物語を
自分と見て
過去や未来にフォーカスし
分離条件を重ねることが

敵対・衝突・苦しみ
ストレスの選択を生んでいる

人間的概念の適応が
大いなる自然から
ズレてしまっているのである

人間たちが自分で作った現実を
人間たちが自分で演じているのである

自分が無いというのが
本来の自然なのである



[686] 次元の数え方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 9日(金)03時42分3秒   通報   返信・引用

観術的な次元の数え方は
物理学的な数え方とは異なると思う。

観術的な次元の数え方は

物質としての世界が三次元
心を重ね入れて四次元
宇宙も自分も無い覚知を重ね入れて五次元である。

観術の三次元は
物理学的には時空間である四次元迄であろう。

四次方程式までは解を求めることが可能であり
五次方程式以降は特殊な場合を除いて
解を求めることが出来ない。(らしい)

求めるべき対称性の限界がある。(らしい)

つまり四次元以内においては
滞りなく対称性から分離した解の物質として
独立したマクロ的存在を確保できるということだろう。

これは物理学的な知識をもって言っているのではなくて
現象智の観点から言っている。

観術的な四次元は
物理学的には超弦理論の11次元迄であろう。

独立したマクロな物質存在としては確保されないものの
起こっている変化、情動の存在である。

ここにおいて有無の二重存在
パラレル世界
同時現象
様々に展開する。

展開し語られる不二・非二元は
主にここになる。

次の五次元は多くは語りようがないからである。

が、この四次元では相互であるとはいえ
厳密に完全に同時にはならなく
未だ差異はありにとどまる。

観術の五次元は
物理学的にも確定できない12次元ではないかと思う。

12は一周の数字である。

12個だからダースですの
チョコレートの12月12日の
キャンペーンをコンビニで見かけたことを
きっかけに

この文章は生まれている。

というのは脱線だが

12時間、12ヶ月、干支の12年
五字七字の5+7=12

1セット1周であり
12=0である。

アナログ時計を見れば
12=0は分かりやすい。

12=0は
悟前と悟後を分かつ正悟であり
円環、ウロボロスの頭と尻尾である。

正悟の中には悟前も悟後も
存在していないし存在している。

未満と見るか以下と見るかの違いの
瞬間の妙である。

有るといえば有るし
無いといえば無いという瞬間の
正悟であるが

これが無いことには
悟後は始まらない。

しかしそれは円環であり
その時初めて始まるものでもない。

時計においてあるのは
現象の推移の間隔に対する
地球の運行に合わせた
認識するための意味付けである。

生命の今という現象においては
本当は何時かという違いは無い。

12という次元には物理学的にももし
そういう無に帰すような特質が
あるのだとすれば

物理学において
それはなかなか取り扱えないと思う。

法華経における
「その時」は

いつか特定の時ではなく
いつでもなく
いつでもある時である。

物語を見れば
物語の特定の時になる。

生命現象を見れば
瞬間の妙のその時になる。

文章化、概念化できない
非二元体感の

概念のエアポケット
空のフォーカス。

現象の起こり方の
同時代の
自身の生命現象の
チャクラ体感。

誰でもが
それである。



[685] 真如とは無分別智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 8日(木)11時46分59秒   通報   返信・引用

「不変真如の理に帰す」
迷いから悟りへ(九界から仏界へ)

「随縁真如の智に命く」
悟りから智慧へ(仏界から九界へ)

「真如」とは「無分別智」である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E5%88%86%E5%88%A5%E6%99%BA

分別とは二元論であり
無分別とは不二・非二元である。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000q85.html
~~分別は分別のままにそれに固執しない智慧の世界が開かれる、
それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。~~

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書1244ページ9行目~12行目)

御書自体は
日蓮大聖人己心の仏界から
九界の衆生へのメッセージである。

その仏界も全く余所に求めてはならないと
求道者から救済者への反転を促す
内容となっている。

十界具足とは十界一界もかけず一界にある
ということは
一切は自身の生命現象であると覚知せよ
ということである。

外に見えている一切の要素は
自身の中にあるものであり
自分だけにあると思っている自分も
ここにあるのではなく全部の中にある。

この自身の生命現象を覚知する時
これが輪円具足とも功徳聚とも
表現される「御本尊」である。

この覚知によって自身が
日蓮大聖人と同じ
救済者として反転される。

このことの星が
九識心王真如である。

一切の有ると言えることは
同時に無いと言えることである。

自分というものも
宇宙というものも
因果というものも
全てである。

ただ確かなのは認識前の
今一瞬の一心にある
その一切全てである。

その一切の完全な無分別智が
生命現象の王である。

此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり
とは

一切の有ると思っているモノ・現象は
一心が有るとしている自身の生命現象であり
その二極さえもない
「何もない」からの起こりの智慧が
無分別智であり

無分別智があるということが
御本尊があるということである。

文章を見れば知識になる。
現象を見れば智慧になる。

どう起こるのかの現象である。

考えるんじゃない
感じるんだ。

見るんじゃない
起こせ。

必要なのは
囚われから離れる
一瞬の勇気だけ。

嫌な感じがするのは
自分が嫌な人間であることを
ため込んでしまっているからだ。

それを解消しないと
罪障消滅しないでしょ?

運動場に放置された長いホース。
と戸田先生が例えられたのは

今に生きることをしないで
思考概念の中で
ネガティブの溜まった自身。

水を流せば最初は泥水が出る。

嫌な感情・嫌な出来事が起こる。

溜まっていた泥が出終わったら
あとは綺麗な水が出る。

まぁ、これは単純な例えで
一本道のホースであるが

生命現象の全体は
張り巡らされた水道管
のようかもしれない。

水っていうのは
「歓喜」です。

本当は泥が混じってようが
何しようが歓喜なんです。

無限の水源を覚知することが
歓喜の中の大歓喜です。



[684] 物語のパッケージ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 7日(水)12時13分56秒   通報   返信・引用

現象の本質は
宗教などという枠組みを
始めから経験していない

思考概念が
それを有ると思って
デコレーションしているにすぎない

宗教という枠組み
そのパッケージに入っているものは

ただ留まることの無い現象である

有るのでもなく
無いのでもない
何もかもの同じである

本来に帰れば
そのパッケージ自体も
それの現れであるから

その枠組みも消失する

囚われの無い
抵抗値の無い
フリーの生命現象となる

宗教を存続させようとしているのは
特別さを獲得しようという思惑である

フリーである生命現象を
なんとかコンパクトに納め入れて
その恩恵にあやかろうという試みである

しかし人間には
生命現象自体をどうこうできない

観測技術があるだけである

宗教の違いは本来
その方法の違いと
その観測結果を生活に役立てるための
便宜的に付加された物語の違いである

本来の物語は
生命現象と生活の橋渡しである

生命現象はフリーであり
特別にどこかだけにあるものでは
ないのが本来である

だからこそこれは
直接に流布することができない

当たり前にあるものすぎて
誰の目にもとまることが無く
そのままでは真価に気づかない

だから生活向上のために
物語を流布するのであるが

この物語が特別であると
思ってしまうところが落とし穴である

すったもんだの末に
生命現象の無視された
全く異質のものとして伝聞される

これが不幸の原因となる

現象と生活の橋渡しとして
星座の位置を見て
農業の時期を見たりすることがある

自然と一体の活動として
人間の生活があった

どの星の配置に
どんな星座を見て
どんないわれを付加するかは
文化の違いであるが

結局は同じように時期を見る

本質は同じなのだ

どっちの物語を優先させるかなんて
本質には関係が無いのだ

生命現象はフリーである

本来衝突は起きない

思考概念の物語の拘り
思い込み
信じ込みが
衝突を起こす

生命現象から離れた人間が
自分勝手な幻想をぶつけ合って
争っているにすぎないのだ

生命現象に帰ることが悟りである

思考概念の物語から離れ
思い込み
信じ込みを
解除することによって

生命現象の体感が復活する



[683] 楽ちんこ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 7日(水)03時40分24秒   通報   返信・引用

身なりさん

順調にまともな非二元にシフトしていますね。

良い感じです。



[682] 虚にして実 実にして虚

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2016年12月 6日(火)12時55分49秒   通報   返信・引用

最近あらゆるこだわりが薄らいできて楽になってます。

果たしてそれでよいのか?そんな風にすら思ったりもします。

それではダメかもしれないけど、それも答えがないので深刻になりません。

唱題の時間も決めず、あげたいだけあげる。

今朝みた夢と現実の区別が曖昧になり、妻との会話で認知症を疑われるのがちょっと恥ずかしいくらいです(^^)



[681] 覚り

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月 6日(火)11時14分15秒   通報   返信・引用   編集済

仏とは
5次元の身口意。

対象化した物語の中に
見る仏は迹仏。

体感した非二元の中に
顕れる仏は本仏。

日蓮大聖人とて
対象化すれば迹仏。
体感すれば本仏。

イエスキリストとて
対象化すれば邪教。
体感すれば正法。

仏のための条件には
仏教の信仰は関係がない。

釈迦の法華経だけが
法華経(生命の真実)でないことは
法華経自身の中にも説かれている。

過程の一つとして
仏教があるだけである。

宗教の違いにせよ
何の違いにせよ

紙の表裏を見ているだけ
のようなものであり

両方は同時で一体である。

そもそも、その紙自体が
違いを作ろうという自我機能が
生み出した幻想なのだ。

一時的ツールであり
絶対的本体ではない。

あらゆる差異
九界の現れの違い等は
一時的ツールであり

色心不二という一極の
5次元の観点が仏である。

そこには有るものは無く
無いものも無い。
無いが無いということは
無いが有るということでもある。
有無に非ずである。

色心不二の一極は
ツールを本来あるままに
使いこなす観点である。

現象の全ては自身のツールの
振る舞いなのである。

一は全、全は一であり
あるようにあり
なるようになる。

それは認識できるわずかな部分だけでなく
認識する術のない
無としか言いようのないものも
認識する術がないことも認識できない
虚としか言いようのないものも
含んだ無限である。

虚無ではなく
虚無の克服が次元上昇なのだ。

ゆえに全ての振る舞いは
「歓喜」である!

恐れるものは消え去るのだ。

始めから無かった。

幻想を見ていただけなのだ。

覚者はおしなべて言う。
「目覚めよ」と。


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