いまさら やめては だめなのだ

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[825] 止観と薬王品

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 8日(火)06時07分23秒   通報   返信・引用

まず、<アルベアのブログ>藤本晃の「悟りの階梯」kotaroさんのコメント
~『止(サマタ)瞑想と観(ヴィパッサナー)瞑想の違い:p130~』のところで、
『生滅を繰り返しているのだけど実体としてあるかのように見える現象をしっかり捉え、その滅する瞬間を見極めて無常を「体験」するのが、悟るための観瞑想。「ずーっとそこにある(はずの)一つの対象」に心を集中し続けて現世の超越的な楽を得るのが、禅定のための止瞑想。観瞑想と止瞑想は、本来、水と油のように異なる瞑想なのです。禅定と悟りも、別ものです。禅定は、心が物質的な束縛を離れて味わう超越的な、しかし現世での心の楽です。悟りは、滅の瞬間の、何ものにも触れない寂静です。』とある。~

次に
妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三 現代語訳
を見る。
~この一切衆生喜見菩薩は自ら願って苦行を習い、
日月浄明徳仏の教えの中に於て、雑念を去り仏道修行に専心し心身を整えるために一定の場所を歩き回り、一心に仏になる事を求めて一万二千歳の年月を満たし終わった。その身が清らかであるため、三千大千世界の生命のあるものすべての生まれる時や死ぬ時、上下・好醜・善所悪所が悉く身の中に反映され現れる状態(現一切色身三昧)を得た。
この心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得て、心は大いに歓喜した。そして、こう思って言った。
私が三十二相をそなえた仏の生身の形を現わす動揺しない状態を得たのは、皆これ、法華経を聞くことによって得た力である。
私は今、当然、日月浄明徳仏および法華経を供養するべきである。
即時に、この心を一つの対象に集中して動揺しない状態に入って、虚空から天上に咲く白い蓮華・天上に咲く白い大きな蓮華・細かく粉末にした黒栴檀を降らし、
何もない空間の中に満たして雲のように降らし、また閻浮提州の南のはてで取れた栴壇の香を降らした。
この香の六銖(4.6グラム)の重さは、その価値が娑婆世界に等しい。これを以って仏に供養した。
この供養をなし終って、心を一つの対象に集中して動揺しない状態から立ち上って、自ら思い言った。
「私が、神通力でいくら仏を供養したとしても、身をもって供養するに越したことはないだろう。」
そこで、諸々の香、栴檀・琥珀・乳香・畢力迦(インドヤコウボク)・沈水・膠香を飲み、
また、チャンパカ・諸々の華香油を飲んで千二百歳の年月を満たし終わった。
その後に、香油を身体に塗り、日月浄明徳仏の前に於いて、天の宝衣を自ら身にまとい、
諸々の香油を注ぎ、神通力の願によって自らの身を燃やした。その光明は、普く八十億のガンジス河の砂の数に等しい世界を照らした。~

「日月浄明徳仏の教えの中に於て、雑念を去り仏道修行に専心し心身を整えるために一定の場所を歩き回り、一心に仏になる事を求めて」
=悟るための観瞑想
=教えられた「動」の方法によって心身を整える

「心を一つの対象に集中して動揺しない状態(現一切色身三昧)」
=禅定のための止瞑想
=逆説的に、「これ」によって心に大いに歓喜をもたらせるのが法華経というエネルギー

「私が、神通力でいくら仏を供養したとしても、身をもって供養するに越したことはないだろう。」
=身口意の内の身の供養へ、意で唱える題目→口で唱える題目→身で唱える題目

「神通力の願によって自らの身を燃やした」
=法のため人のための誓願による発熱・発光・燃焼
=身をもって具体的な現象化をさせて灯明・灯台となる。

信仰形態としてではなく
普遍的な生命現象として「同じ」を見る。

信仰形態を見れば法華経は
塔を立てて仏の遺骨を供養するような
そういう物語でもある。

その教相ではなく
観心の文底だ。

「薬王品の広宣流布」は「宿王家菩薩」に付属されている。 <気楽非活>
一つのモデルケースの物語だ。

他得の対象である。

自得の寿量品の何であるのかを
俯瞰するためでもある。

それらは、ただ一つでもあり
無限に多角的でもあり
それ自体が無いのでもある。

ただあり
あるようにある。


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