いまさら やめては だめなのだ

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[824] 九識

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 6日(日)05時43分24秒   通報   返信・引用

眼を開けている時に見えているものは
実在そのものではなく
創られたビジョンである。

だから、思考で考えがちであることとは逆に
眼を開けている時にあるビジョン世界が
眼を閉じている時にもあるということは無く

眼を閉じている時にある世界こそが
眼を開けている時にもあるのである。

それは同様に
音、味、匂い、感触、思考、存在、業の流転
についても、そのようである。

つまり、それら以前の
久遠元初から見れば
生死は不二である。

色心も不二である。

曼荼羅本尊というものはビジョン伝達である。
それは実在ではなく瞬間の光である。
そこに教義・教学は存在していない。

池田哲学も、戸田教学も、日寛教学も
弟子日興も、師日蓮も、天台教学も、諸経典も
釈尊の言葉も無い。

それらは思考を開いている世界だけにある
思考概念である。

良くも悪くも曼荼羅本尊は
ただ日蓮の慈悲による瞬間の光である。

久遠元初の瞬間の光の慈悲としてならば
その瞬間には
瞬間の音も味も匂いも感触も思考も存在も業の流転も
その瞬間に同時にあるのである。

その瞬間には
曼荼羅本尊という存在も業も
自分という存在も業も
別々にあるということはなく
その瞬間だけがあるのである。

無限に瞬間しかない事において
「これ」があるだけであり
全ては「無」でもある。

無量無辺 即 我実であり
一瞬 即 本行菩薩道である。

そうである歓喜のメロディーの太陽として
音律以前の音律を
南無妙法蓮華経に顕している。

本来は「無」「空」の光の歓喜である。
宗教的転換の表現なのである。

個別であるという時には
池田先生であれ日蓮大聖人であれ
体感体であると同時に
思考概念体でもあるという
意識体である。

違えば違うということが
違いとして見られる。

非二元においては
無限に同じ、「これ」という一つ、「無」「空」しか無い。

思考するかぎり
違いが違いとして認識され現象化するので
有るものが有り続け
「それ」と「これ」という別々であり
差異ある有限が有限の中にある。

非二元において思考は
するのではなく
ただ久遠なのだ。

日蓮大聖人にとっての
その何もかも久遠の
その一瞬の光のビジョンとしての
曼荼羅本尊なのである。

元より、無限に同じ、「これ」という一つ、「無」「空」なのである。

思考より以前、存在より以前、業より以前である。

無記すらない無無記である。

九識とはそういうことである。


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