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[820] 動(あた)ると信が内発する血脈

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月27日(木)14時13分47秒   通報   返信・引用

生死一大事血脈抄<創価教学研究室 (Tommyのブログ)>
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51938.html

「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり」

法とは、境として、自我で納得できる側。
通常、人間が「この世界を生きている」と思っている世界の現れ。
自我が「この世界」と「観じる」のが「法」であり「生」である。

妙とは、境ではなく性であり、普通、自我では実在を納得できない側。
量子的確率性・可能性、虚数的パラドックス性、超常的霊性、超克的空性
そういった「実在認識野(仮名)」で実在として認識できない側。
通常、人間が「この世界に実在しているリアリティー」を実感できない側。
「言語」「思考」「実在認識」が深く癒着している状態では「観じられない」
不可思議、不可説の妙観の側に「妙」があり「死」がある。

虹の色に橙を見ない民族にとって、橙は存在していないだろうか?
虹の色に橙を見る民族にとって、橙は本当に橙として存在しているだろうか?

虫の声を聞けない民族にとって、虫の声は存在していないだろうか?
虫の声を聞ける民族にとって、虫の声は本当に虫の声として存在しているだろうか?

このこと(此の生死の二法)によって十界を味わっているというのが
十界の当体なのである。

「生」の側の「実在認識」から「生死」の「実存解明」への飛翔が
「当体蓮華」ということであるが、その思索だけでは実際の飛翔と比べ
限定的な思考領域のカオス運動の偶発にしかすぎず
「分かった」ような気がしたけど「あれ?うまく説明できないや」
「ん?あれ?どういうことだっけ?チンプンカンプンだぞ??」
と、元に戻ってしまうことが起きる。

「当体」とは「道理に中(あた)る」「本体に該当する」「去来する如の動き」であり

「動とは動(あた)ると読むなり」となる。

「歓喜に動(あた)る」「本因本果に当たる」「正法光に中(あた)る」です。

「歓喜に動(あた)る」ので「感動」するのです。

「律」とは歓喜・感動のリズムであり
それを呼び呼ばれて集まらせるのが「律動法」であり

その律動の心身が本因本果・本願の功徳聚の当体となるのです。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無し」
という功徳聚の当体です。

文字曼荼羅本尊が顕しているそれです。

「所詮臨終只今にありと解(さと)りて信心を致して」

「臨終の覚悟」というものは、五段階によって反転します。
それは二者関係を通して経験するのです。
志向性は違えども同じように経験するのです。

思い詰めた決意から
感動の詰まった脈動へと蘇るのです。

苦を解いて覚めて悟った如(真如・如理・如智・如動)。

つまりこれは、苦(さと)り、解(さと)り、覚(さと)り、悟(さと)り、如(さと)りです。

苦悩即真如。
この十界世界全部が「さとり」と「識」るのです。

「(現代訳)総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
 もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものである。」

後半の原文は「然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、 若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、 剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し、」です。

「意を体して」というのは異体同心の解釈であろうが
意図思惑によって、バインドのパラドックスがある。

「教義解釈」の「限界性」でもある。

ただ「南無妙法蓮華経と唱えたてまつる」「行」が重要なのか
「行」自体ではなく、その文底の「意義」が重要なのか
はたまた日蓮大聖人の「意思」が重要なのか
(自称)広宣流布の団体の「意向」が重要なのか?

例えば会社の採用面接で
「2×5は?」と質問されて
A君は即座に「10」と答えた。
B君は「会社の意向に従います」と答えた。
A君は落ち、B君が採用された。

それが正しい在り方かどうか考えて
どうでもよくないなら消えない。
どうでもいいなら消える。

解かれなければ留まる。

「妙法」「生死」「十界」のパラドクスです。

「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、 『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ。」

はたして日蓮大聖人滅後の今
生死の二法がどう腑に落ちるのか。

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、 生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、 煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」

臨終正念のために備えること。(死の五段階を習う等)
逆説的に、それが祈念である。

死んだ後の事は死んでみないと分からない
だから現世利益が重要だといっても

仏法の意味として捉えるなら本来は

臨終正念といってもその時になってみないと分からない
だから気づきによって目先の損得に一喜一憂することから離れ
今生きている中で正念の実証を示していきなさい、である。

難に遭い人我の煩悩があるから苦しみを見るということも
そのまま「さとり」なんだと解(さと)り、覚(さと)り、悟(さと)り、如(さと)っていきなさい。

その煩悩即菩提・生死即涅槃が信心の血脈であり
そうでないならば、法華経を持っても正念は無い。

「委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。」
詳しくはまた申し上げよう。恐恐謹言。

<アルベアのブログ>重力と恩寵・シモーヌ・ヴェーユ 「考える事・生きる事」より
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12296199060.html


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