いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


730件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[788] 欺瞞

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月27日(土)14時23分22秒   通報   返信・引用

「友好活動」って何なんですかね。

<気楽非活>選挙支援活動の欺瞞。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/25/060008

話しはちょっと変わるけど例えば

スポーツ振興会というものがあったとして

スポーツをすることの心身への好影響を学ぶ。

そういう研究のデータを集めたりして
どうやって行こうかと会議を重ねる。

やがてスポーツの振興ではなく
スポーツ振興会自体の拡大と権限の強化に向かっていく。

野球はこういうふうにしなさい
サッカーはこうたってやりなさい
相撲はこうでなきゃいかん

そういう力が増す。

そこに利害が絡んで
各種企業団体と癒着が起きる。

スポーツ振興会の会員を利益のために使う。

我々はスポーツの振興によって健全な世界にしていこうとしていたはずなのに
全然違ってしまっているじゃないかと会員が不満を言い出す。

スポーツ振興会の反逆者として処分される。

一人になって
地域にスポーツのクラブでも作って
本来のスポーツの振興に貢献する。

そんな一人ひとりが集まって
交流を図ったりする。

スポーツ振興会からすれば
反逆者の集団。

なんだかね。

それってすでに
スポーツ振興会の目的って変わってしまっているよね。

創価学会は今
日蓮仏法を基調とした団体で
居続けられているのでしょうかね?

仏法の体感・体験に溢れているのかどうか?




[787] レッツ ハンドシグナル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月25日(木)12時55分9秒   通報   返信・引用

ポルナレフ教官の
円融円満法レッスン動画。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/17525394.html



[786] 四聖活

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月21日(日)10時51分26秒   通報   返信・引用   編集済

私が思うに本当の脱構築とは
「絶対的な正しさが存在しうる」という
分離を離れることだと認識する。

正しさを追求しようというマインドにとってそれは
自分が特別に悪いものだと認定され
排除されるような危機感を抱き反発する。

相手を打ち負かすなどして
正しさを保存・強化し
それが正しいことであると同意を求め
偏った正義の理念を構築していく。

「強くなりたい」「分かってほしい」「認めてほしい」
そういった不足感があり

嫉んだり謗ったり怒ったり

勝つと決めて努力を開始しても
それは善にも悪にも通じ
臆病から脱しきったわけではない。

正しさが単独で存在することは無く
間違いを間違いだと発見し指摘するから
それを指摘している自分の側が正しいという
二極性を仮に設定しているだけだ。

唯一絶対に正しいものを構築しようとすればするほど
それ以外のものは悪として構築されていく。

正しいものを認めてもらいたいと願うほどに
自分は悪い世界の中を生きているのだということになる。

脱構築は構築を根本的に否定しているわけではない。
構築という前提が無ければ脱構築は無く
そのどちらが正しいのかということも互いの相互作用だと
止揚しうるための技術として脱構築があるだけだ。

六道の渦中の自我を離れることで
六道の世界・自身の内の六道の機能を
同時に俯瞰していく技術。

仏法の捉え直しを言っているのだ。
誰の生命をも否定していない。

六道から離れる技術であるためには
習って再現することが出来る必要がある。

唱題行やアルベア法(アルベアのブログ)や
パンツマルミエ法(円融円満法[564] [566] [567] [569])
各種瞑想法や呼吸法やヨガ等

考えてもバカバカしく思えるのは
そもそも考えるためのものでは無く
やってみるためのものであるからだ。

頭で考えると難行苦行である方が効果が高いように思い
自分を追い込むように行を行おうとするかもしれないが
誰でも簡単・楽ちんに出来ることの方が即歓喜につながっている方法である。

自身の心身の不良不全が改善する。
これを味わっていくことでその法を了解していく。
こちらに起こることは向こう側にも起こせるという気づきがもたらされる。
求道者から救済者への反転が起こる。

そうするとストーリーではなく
今ここの現象として
ただあるということで
奇跡・蘇生・復活の存在であることに向かっていく。

始まりも終わりも
あらゆる分離も無くなっていく。

善悪無記よりも静かな
その通りでしかない黄金の歓喜の世界。

九識心王真如の都。

本尊というのはそれである。

このことを言われてマインドがうるさく言うのは
それは全て思考概念のストーリーではないですか?

その思考概念・感情情動は誰が作っていますか?
あなたではないですか?

なぜそれを作ったんですか?

最初の最初の想い。
本当はどうしてほしかったんですか?

その時の相手の立場に立ってみて考えてみて下さい。

本当はどうしようとして
どんな想いでいたのでしょうか?

全部全部、あなたが作っているのです。

あなたは今でも生かされているのです。
どんなに間違いを上書きしても見捨てられていないのです。

全ては受容という現象化
全ては受容されているのです。

マインドを鎮めて下さい。
ひたすらただあってみてください。
新しい息を吸い
古い息を吐きだしてください。

あなたは本当に欲しいものに
あなたの意志で直接向かって良いのです。

世界の大転換です。



[785] ふでをすすめる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月20日(土)11時37分46秒   通報   返信・引用

松戸氏の日蓮仏法2.0であるが
順に読み進めようとすると凡雑だと感じ
なかなか読み進まない。

私、読む側の書を読むということへの力不足もあるが
松戸氏本人も、そこのところは凡雑になっている
と認めているところもあるようだ。

そこで、ご本人と絡んでみたり
他の人と絡んでいるところを見ながら
言っているところを抜き出して読んでみると

なるほどなるほど
面白いという印象も受ける。

私にとっても、考えを深める契機にもなる。

<宿坊>不二の仏法と不二否定の権威  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69048

共通する部分を見ようと思えば
共通する部分は多いのだと思う。

凡雑にはなっているが、それだけ
長年にわたって多くの議論を経験してきたからでもあるようだ。

松戸市のそれは論議の上から(単に論理ではない)
本当の南無妙法蓮華経に向かっていこうという傾向

私のそれは法理と体感の上から
本当の南無妙法蓮華経の中身を示し促そうという傾向

(と書くと主観の思考概念なので
本来そういう違いは無いのかもしれないが)

があるかもしれない。

今後の展開も深化の意思を持ちながら
観照・俯瞰していこう。



[784] 後世の造立

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月15日(月)15時04分33秒   通報   返信・引用   編集済

戒壇の大御本尊は後世の造立であるということについて
その論拠となるところを確認してみよう。

端的な結論としては
日禅授与本尊の主題を写し取り
板に合わせてその他の相貌が配置・書写されている。
<youtube>犀角独歩 大石寺「本門戒壇の大御本尊」を検証する①
https://www.youtube.com/watch?v=bIspyPbyfiQ

例えば、インターネットでIPアドレスが一致していれば
同一人物であるとしか考えられないように

主題の文字が完全に一致しているなら
そのまま写し取ったものとしか考えられない。

絶版となっているが金原 明彦氏の
日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実には
多角的に資料によって検証してある。

(所持している人と知り合う機会があったので
読まさせてもらいました)

例えば「経(經)」の書き方について
弘安二年十月十二日であれば
日蓮大聖人の筆は「つ」の形になっているべきところが
戒壇の大御本尊ではそれより後の「ツ」の形になっている。

く 一   く 一
く つ   く ツ
不 土   不 土

また、その他相貌も比較検証すると
弘安三年三月から同八月までの本尊であることが導き出され
弘安二年十月十二日という日付と一致しない。

弘安3年5月9日の日禅授与の本尊を
書写した相貌であるとしか立証されようがないのだ。

ここで留意しておきたいのは真実を知った上で
例えば金原氏は信仰の対象として再評価しようという
その姿勢があることである。

少なくとも創価三代の会長は
(教学レポート・遠藤文書から池田先生は
大御本尊の事はいじってはいけないとされたことが真実であるなら)
戒壇の大御本尊への信心を貫いており

創価学会の信心は、そこに連なっているのだから
簡単に放棄するべきものでは無い。

さて、それでは戒壇の大御本尊は
いつ誰が何のために造立したのか
ということになる。

戒壇の大御本尊は正面から見て、ただ縦長の長方形ではなく
下部に台座に取り付けるための束になっている構造があるという。

日蓮大聖人の御真筆の本尊が丁重に秘蔵されるものだとして
対してこの楠の板曼荼羅は即座に信徒が目通りできるものとして
法華講衆等(戒壇本尊の腰書きにあるが日蓮大聖人御在世時には確認できない)
の信仰心からの供養によって造立されたのではないか

そうすると元来は、弘安二年十月十二日という日付は真筆だと偽るためではなく
もっと別の意味、本来の『聖人御難事』の「余は二十七年なり」
二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃える純粋なものだったのではないか。

参照<気楽非活>「余は二十七年なり」って。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/12/31/001320

時期について金原氏の推察によると
戒壇の大御本尊の他に二体のみ存在する楠板本尊との
関連性から考えて応水十九年(1402年)を下限
日時~日影の時の造立であろうということである。

さて、戒壇の大御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」
と書かれているのであるが
「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
という日興門流の教義に即しておらず

元々はそのような日蓮大聖人の真筆の
生身の日蓮大聖人の当体というような
肝心の中心の御本尊として造立されていない。

日蓮正宗の御本尊は『御本尊七箇相承』に適うように
書かれているが、これは日興上人・日目上人の在世以後に
作られたものだと思われる。

<気楽非活>『御本尊七箇相承』から考える。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/12/001857

一方で日興門流において「仏滅度後二千二百三十余年」
への「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
というような教義は戒壇の大御本尊が造立されたであろう
時期よりも早くから見て取れる。

<気楽非活>興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/12/060620

七箇相承に関しては金原氏の著作には無く
私の考察である。

金原氏の研究によると、
日蓮大聖人滅後の日興上人の足跡を見ても
身延に相承された大御本尊があったとは
見ることが出来ないという事実を浮かび上がらせている。

日蓮正宗では「唯授一人の血脈相承」というが
少なくとも史実の上では
日蓮大聖人から日興上人への
あったとされる相承に
戒壇の大御本尊は含まれていない。

日興門流における「奉書写之」とは
戒壇の大御本尊を書写したということではなく

単に「これは書写した御本尊です」ということ。

日興上人が手本として書写した御本尊は
複数実在が確認できる。

さて、二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃えた御本尊を信仰の中心とし

『御本尊七箇相承』等によって本尊の雑乱が防がれ

日蓮大聖人に元々無かったわけではない
本覚の思想が具体的に組み入れられ
末法の御本仏日蓮大聖人と立てた宗派の中で

現実の上で投獄されながらも国家諫暁し殉教された初代会長。
共に投獄され、本覚の本質を体得された二代会長。
一閻浮提総与の世界への広宣流布を実現していった三代会長。

ここには必然性、
これでなければならなかったというものもある。

その意味が果たして
戦後昭和の日本において
一定の役割を果たした

というようなものに納まって良いものかどうか。

今再び、日本は戦争できる国を視野に入れた方向に
舵を切っている。

本来、創価学会として最も大切にしなければならない部分が
今、全く真逆のことを会長を中心とした執行部を先頭にして
進められている。

「立正安国」の精神は
どうした時に最も息づいているのか。

宗教を個人の観念論に終わらせず
実際の平和勢力として蘇生させていく

誰かがやってくれるだろうでは
どうにもならない。

自分がやると決めることだ。
やると決めるから力が得られるのである。

信力行力仏力法力の全てをもって
成し遂げていくのである。



[783] 狂信・狂行・狂学

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月13日(土)12時14分30秒   通報   返信・引用

<2003年度任用試験のために>信・行・学
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/3390/ninyo/sin_gyo_gaku.html

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361㌻)

~信は信受ともいいます。教えを信じて受け入れるということです。自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道が信なのです。~

~正しい法理を学ぶという、この教学の研鑚がないと、ともすれば我見という、自分勝手な理解に陥ってしまう危険性があり、また誤った教えを説く者にだまされてしまう恐れがあります。~

信・行・学と区別し別個のものというような認識があるかもしれないが
それらは別々にどれかあれば良いのではなく、本来一体でそろっている。
その信心において、「行者として学ぶ」ことが無ければ
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道を示すことは無い。

正しくその信心において、「行者として学ぶ」ことが有れば必ず
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道の中にいる。

折伏をすれば難が起こるのは道理。
「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」
である。

信者として学ぶのか学者として学ぶのか行者として学ぶのかは違い
一生成仏へは、信心をもって行者として学ぶ上で
師子王の如くなる心をもつことが肝要である。

師弟不二である。

<宿坊>第一回関東記念総会・第三回全国女子部幹部会 平成三年一月十五日(全集七十六巻)  投稿者:飛車
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68684

~正法を信じている人には、「邪(じゃ)信(しん)」はないが、「狂信(きょうしん)」は起(お)こりうる。
「正信(しょうしん)」か「狂信(きょうしん)」か――その分かれ目は、人としての《振(ふ)る舞(ま)い》のなかに現れるといってよい。社会性に反する行動や、非常識な言動で人々に迷惑をかけることは、「正信」の人の姿ではない。「狂信」に通じていくと考えられる。~

<宿坊>池田先生の思想に学ぶ ~狂信者~  投稿者:信濃町の人びと
http://6027.teacup.com/situation/bbs/21099

~(エリー・ヴィーゼル)博士は述べられている。
 「狂信的とは、宗教においてはドグマティズム(教条主義、独断的主張)であり、政治においては全体主義である。狂信者は、真実を歪め、侵す。彼は物事や人々を、あるがままに見ることができず、憎悪によって、偶像やイメージをたいへん醜く作りだし、それらに憤慨する」と。
 狂信者とは、自分につごうのいいように事実をねじ曲げ、正しいものを正しいと見ることができない。意にそわないものは悪と決めつけ、憎しみによって相手の悪いイメージをふくらませ、勝手に怒りだすというのである。
 じつに、“本質”をついている。
 「狂信者は、本当の議論から身を隠そうとする。なぜなら、対話の概念が、彼には相いれない異質のものだからである。狂信者は、多元論や多様性を恐れる。また学問をひどく嫌う。彼はモノローグ(独白)によってのみ、いかに話すかを知っている。狂信者にとって、対話は無用なものなのである」
 対話拒否――これが狂信者の証であると~

この概念基準から言うと
現在の創価は「狂信化」している。

否、ずっと狂信性を組織内に抱えていたから
智者としてそれを指摘していた。

正信・邪信・狂信
正行・邪行・狂行
正学・邪学・狂学

アンチアンチというのは
アンチよりも視野狭窄であることも多い。

話しにならない独善性。

日本会議の方向性の内閣(悪王)が
人間主義を破って全体主義を行使し(正法を破る)
狂信の職員たちが徒党を組んで(邪法の僧等が方人をなして)
池田先生の指導を改竄・都合よく使用する時(智者を失はん時)
難を恐れず師弟不二で人間主義を行く心の者が(師子王の如くなる心をもてる者)
必ず自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入っていく(必ず仏になるべし)

それは自身の生命現象として起こすことであって
思考概念で思い込んだって仕方ないけれどもね。

対話拒否の狂信の会長・執行部・職員。
学会員同士の対話まで制限し査問処分を繰り返す狂行。
見た目だけ取り繕って正当化する狂学。

狂ったバイアスの連鎖。

あなたの選択です。
どんな心をもつのか。

狂信・狂行・狂学の苦しみのループから抜け出るのは
その心の選択です。



[782] 学者、信者、行者

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月12日(金)12時30分8秒   通報   返信・引用

内容としてかぶるが
再度、学者、信者、行者の違いという見方で

母が「今夜はご馳走よ、早く帰っておいで」と、子にメールを打って、
この母が後に信仰の対象になったとする話を考えてみる。

聖職者の用意したご馳走を食べるのが信者の信仰の活動とする。
本山が究極のご馳走のレシピなるものを握っている。
その究極のレシピは信仰対象の母が作ったものとされているが、実際には後世に作られたもの。
それでも信者たちは、それを疑わずに、それを食し、それによって得た活力によって実生活に充実を得ていた。
ある学者が、そんなレシピが当時に存在したはずがない、と証明する。
でも、それは、信者として、子の側として恩恵を受ける本質とも
行者として、母の側に立って、愛する人を歓喜させようという本質とも
ズレた話になる。
だからと言っても、その宗教としては、大切なのは心で、ご馳走は関係ないというものではなく
あくまでも、ご馳走を食べるということを通して、異体同心の団結をして、本質の心を広宣流布する。
その実践が、その実践として最も力を持ってなされるために、そのための手立てというものと、
それを捻じ曲げて、聖職者が上、信者が下というような、権威のために作られたものの違い
あるいは、それが作られた経緯とは結果的に、真逆の効果として発揮される場合も考えられる。

学者は、宗祖原理の純粋性を見ようとするが、心が分からないので視野が狭くなり、確証性バイアスで、正当性証明のための、構築という方向になる。

対して、行者である場合には、法のため人のため広宣流布のためという奮い起こした心が、仏法に照らして間違いがないかという対境として見る。その感応、共振の感覚の中で、真筆では無いとされる中にも、確かにこの共振を増幅させるためのものを発見したりする。

これによってこれを広宣流布するために、信者としての、ご馳走を食べることによって、その原動力を得て活動していく。

悲しいかな現在、学会本部の動向は、
三代の会長が貫いた行者の心に肉薄することなく
大切なものをどんどん失っていく方向だ。



[781] 信心と学問

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月11日(木)14時10分38秒   通報   返信・引用

信心の側の見方と
学問の側の見方

自ずから信心の側は
定義しづらいものがある。

例えば母が子に
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
と、メールを打ったとする。

後世にこの母が信仰の対象になったとする。

この母がごちそうと定義したものは何か?
肉料理が無ければならないとか
何品から何品であるとか
それを御馳走として頂くことが信仰活動だとする。

米の炊き方から具材の切り方
味付け調理手順に至るまで
細かく設定するのか

いやいや、母が子に対した
心こそ大切なんだとするのか。

しかし、母が子を想うように
「しなければならない」と言うと
いかにも窮屈な義務感になり

本来の母の想いとは異質なものになる。

信者は子でありただ母のごちそうを求めればよい
という場合には
ごちそうを提供する聖職者の言うことが
絶対化され一方的になり
子が母を超えて成長していくようなことは
あってはならないというような
それも本来の母の想いとは異質なものになる。

ある時、子が親孝行しようとして
究極の本式の御馳走を食べるのに
ふさわしい建物を建てるためにと
300億円用意してきたとする。

それもどうやって集めたのかと聞くと
わずか4日間で集めたと言ったとする。

聖職者が
この究極のごちそうは私が提供するのだから
あなたたちは有難く思えという態度になったとする。

信者は信者で
こんな孝行を実現できる子は他にはない。
母なる存在を超えてごちそうの恩恵を世界に広めるのだ
という性格だったとする。

そのなかでお互いがお互いの中に
それとして「あるまじき部分」を見て
指摘し合うとして

取り巻きが問題を悪化させる。

ごちそうのことはよくわからないが
この親子の巨大な巨額を動かせるような力を
なんとか利用することは出来ないだろうかと
考えるものが出てくる。

この大きな力を
世間的には悪であるようなことをしてでも
より確実でより大きなものにしていこうと
動くものが出てくる。

一番の邪魔者は
物言わぬ究極のごちそうよりも
巨大な力を行使させた子のそのトップの
巨大な求心力であった。

その子のトップは
より多くの人を御馳走のパーティーに参加させようと
捉え方によってはあたかも
自分がごちそうを提供しふるまっているかのように
民衆に接していた。

そこに難癖をつけた。

ごちそうを提供するのは母で
母は母であるというだけで
子よりも正しい。
子は母の言うことを聞かなければいけない。

そういう決着をつけさせた。

元子のトップは一人
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
というありのままの真心を
それと同じように持ち続けた。

ごちそうの品目に対する研鑽
この品まではごちそうに加えても良いとか言うことと

このごちそうを振る舞った時の心

信心とは何なのか?

究極のごちそうを振る舞われて感動した
してもらってうれしかったことを

自分も自分のありのままで
人に喜んでもらえるように行動していこうと

そういうことを
理屈で押さえ込むのでは

そういう権威による統率によるのであれば

本当の信心は
失われてしまうのではないかと

俯瞰が必要だということだ。



[780] 西洋東洋の俯瞰へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 9日(火)12時07分51秒   通報   返信・引用

ざっくりと言えば西洋と東洋の感受性の違いというものがある。

どちらかと言えば西洋的なのは
論理的に決定因子を抽出して
それさえ利用できれば他はどうでもいい。
物事の変化は自分によって起こすものだ。

どちらかと言えば東洋的なのは
細かい違い決定因子なんていうものは気にせず
ぱっと見の雰囲気という曖昧なもので
馴染めるか馴染めないかという居心地を見る。
物事の変化は環境の変化によるところが大きい。

<東洋人と西洋人の心理の違い by 世界まる見え特捜部>
https://plaza.rakuten.co.jp/adbiz/diary/200908270000/

52年路線問題と54年宗門問題の間の年
昭和53年、海外での布教を考察したハワイレポートというものがある。
http://nippon-senmon.tripod.com/soukagakkai/shukyou/hawaii_report.html

松戸氏の日蓮仏法2.0の触りを読んでみているが
氏が脱構築と呼んでいるものは単に
日蓮正宗教義から脱却しようとする
西洋的自己完成のための理屈の概念
といった感がある。

従来の儀式的仏法が受け入れられがたい海外
また、日本においても独立した宗教団体として
脱却するものを考えようという上では
一定の効果はあるのであろうが

縁起、空観、一念三千の仏法から言うと
その原理抽出志向には
物足りなさも感じる。

何より、思考概念だなぁ、と。

池田先生の「法華経の智慧」が創価としての
まずもっての思考概念からの完成形である。

西洋と東洋の二極性という構築を
俯瞰した眼差しから脱構築している
深い生命哲学が根ざしている。

松戸仏法の思考概念のそれとは
申し訳ないがモノが違う。

<正>日本的伝統教義<反>西洋的仏法受容
<合>法華経の智慧

そんな感じがする。
その構図を学ぶ教材の一つとして

あるいは、確かに到達点としてではなく
入り口を広げるという点においては

価値を見出せることを否定しないが

法華経の智慧を入り口
松戸仏法を完成形のように見るのは
違うのではないかと思う。

あくまで触りを読んだ個人的感想であることを
断っておく。

ところで
原田執行部が断行しようとした日蓮世界宗の構想は
ハワイレポートで既に海外には受け入れられないことが
指摘されているそのものだ。

民衆をいかに無視した横暴であるか

日本的伝統教義を踏みにじり
西洋的仏法受容を踏みにじり
トインビー対談から法華経の智慧まで
過去のものとして無かったことにしようとする。

直弟子?
ちょっと歌っちゃうよ?

♪あるー日 聖教新聞に
でっかい文字が躍ってた
私の直弟子会長を
中心にしていくんだよ~

嘘こくな このやろー
こきゃぁがったな このやろー

師匠を宣揚するどころか
全てを踏みにじる~

(曲「くそくらえ節」)



[779] 自在を自在として自在に通じる智慧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 6日(土)09時56分45秒   通報   返信・引用

今という生命現象それ自体は
それ自体として自在に起こっている。

この生命現象を正しく理解し
あるべき自然さを何とか表現して
従うべき法として表そうとすれば非自在になる。

それは思考概念であり100%の正確さにはなりえない。
砂粒一つだって
何個の原子からできていて
どういった素粒子の現象で
どういう環境の時にはどういう振る舞いをして
全体の中ではどういう役割を担っていて
どういった経緯で砂粒になっていて
その大元の由来は何で
どんな味で匂いで色で
誰のどんな願いによってその開示を要請されて
そのことが社会に対してどんな影響をもたらすのか・・・

国土世間というと広い世界を思い浮かべるが
この砂粒一つもそのまま国土世間でもある。

現象であり生命であり法華経であり一念三千である。

ただある。
あるようにあるということが
何ものにおいても同じでありそこに分離は無く
しかも世間として違いの現れを一念心が経験する。

人間の思考力想像力というものは
自ずから限界があるが
法という非自在の規定が
それを矮小化するものなのか
それでもなお無限へと飛翔させゆくものなのか
そこが色界無色界の分水嶺でもあり
仏法と非仏法の違いでもある。
瞑想力というものは
思索力をゆうに越えて
空相実相の真実を観るものである。
仏教だから仏法なのではなく
その眼差しが仏法である。
本当の一流は仏法に通じている。

本当には実際にはどれだけ
池田先生本人自身が
世界の一流との対談を成しえたのかはともかく

創価というものがそれらを成し遂げ
それは池田先生あってこそだった
というのは少なくとも本当だろう。

世界の一流の中での仏法の統合。
人類の精神の遺産の結実。
平和文化教育の開花した世界の実現へ。

それぞれの自身の、こちらの妙法が
それら一流から一念三千の真実を
映し出せるように磨き上げられていなければ
その道を踏襲し実現させていくことは出来ない。

いくら近くで薫陶を受けたような者でも
そこに野心や名聞名利や嫉妬があるのであれば
滑稽なほどにその全体が見えていない。
お山の大将になれば全部を牛耳ることが出来ると思っている。

どのような組織団体でも
自分で作り上げたわけではない後継ぎ争いだけの代には
通じていたはずのものが変異してしまうということが起こりうる。

本当の指導者には
偉大な詩人の美しい詩心のような精神が必要だ。

それは聴衆受けとかそういうことではなく
野心や名聞名利や嫉妬を越えて強く輝くには
この精神の獲得によるしかないということだ。

外へ打って出ない集った者たちだけ
整った修行の中で静かに瞑想するだけなら
そこまでのものは必要ないかもしれないが

本来の池田先生が目指したはずの
世界の交流からなる仏法には

その偉大な師子王の精神の獲得が必要である。

ただこの一点において
欲望渦巻く社会から離れて修行するのではなく
欲望渦巻く社会の中にいるままでの修行にあって
歓喜へと反転させていくことが出来たのである。

特権階級のようにも振る舞える位置にあって
この師子王の詩心があるかどうかが
欲界の第六天か仏法へ通じる偉大な指導者かの
非非自在次元での妙法に照らされた本有かどうかの
分水嶺となっていくものがある。

民衆の勇気と歓喜に直結した
真実の自在を自在として自在に顕す詩心。

それによれば名聞名利はすぐに炙り出される。
欲界の権威はそうなったら滅ぼされると思い
躍起になってそれを迫害し仏法を破壊する。

一人ひとりが師子王の己心の法を打ち立てる。
その法のため人のための気づきの促しである。

後ろ暗い陰険な世界
組織信仰とは決別するのだ。

民衆の凱歌を共に歌おう。



[778] 最良の選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 5日(金)03時30分19秒   通報   返信・引用   編集済

「自在」ということを仮に

何者にも影響されることの無い智慧
他者を意のままにする影響力

の二通り設定しよう。

他者を意のままにする影響力は
第六天の魔王

何者にも影響されることの無い智慧は
報身如来

とすると

その間には

ルールの下での統制という良識の「非自在」があり
制度に従った正義の梵天に当てはまる。

報身如来の智慧を「自在」という基準に考えれば
梵天は「非自在」
第六天は「非非自在」であり
本当にはそのような「自在」は「自在」として存在していない。

化儀・教義というものは
「非自在」に相当する。

「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり」(富士宗学要集 一ー一一二頁)

御本尊授与というのは
理に適った公平さで行われるべきである。

宗門が学会を切ったような
学会本部がセルビアを切ったような

「非非自在」によって「第一尊厳の化儀」を覆すのは
教団を世俗化させ仏法の功徳を反転させることになる。

「非自在」を通じて本当の「自在」を覚知する道であるべきところが
「自在」と「非非自在」を混同した増上慢を量産して
いよいよ歓喜の無い異様な教団へと変貌させる。

とにかく我々が中心であり正義なんだ。
言うことを聞かないならば悪として断罪するのみだ。

自由がきかないシワ寄せを他者に押し付け
結局ますます自由がきかなくなる。

何もかもがぐちゃぐちゃになって
もうどうしてよいのか自分たちにも分からなくなる。

そして権威に頼るしかなくなる。

本来の「自在」の覚知のための仏法の「非自在」を考えてみると

それは一切の何者にも影響されない智慧を最深の本質とするので

あなたはこの非自在を縁として
一切の何者にも影響されない智慧を開くべきであるが
それはもちろん一切の何者にも影響されないものなので
ここに非自在として用意された一切の縁や私の言葉は
本質的究極的には、その獲得に一切影響を与えるものでは無い。

要するに「一人立て」だ。

その「一人立て」というメッセージを
最大限に自覚するための最良の手立て。

そういうものとして化儀・教義を樹立するためには
自ら一人立ち一切の何者にも影響されない智慧を覚知しておくことが求められる。

そういったレベルでの話では
史実か史実でないかよりも
覚知できるのか覚知できないのかが重要になる。

最良の結果が出せるのは史実だとは限らない。

生命と言っても関係性の連続循環でしかない。

今回、仮に
「自在」「非自在」「非非自在」としたが
その三界の区別を明らかに見

非二元の側の実際の如来の智慧によって
(行使する自我の個人は無い)

実際の世界の中でどれだけのものを
気づいていけるのかである。

どこまでも大きく俯瞰しなければ見誤る。

個人の生活の悩みだって
指導を受けて信心の眼からの俯瞰を求めるのに

広宣流布の全体に関わる一大事を思うにあっては
個人的な拘りというものの執着ではなく
だからと言って多数派の意見にまとまれば良いというものでもなく

本質を本質として見抜いた上で
決断と決断の

本当に全員が享受できるためのものへと
浄化コントロール推進が

個々人を超えて無始無終の非二元のレベルで起こっていることを
イメージと呼吸というところのただ生命という勝負所に
呼び起こし湧現させる。

その自身の禅定と大聖人の御書と二十八品の法華経とが
真偽史実を越えて生命の上で合致する位置。

師弟不二とそれとが同一であること。

その究極性は究極的には
何に縁して何を成したからということに
一切影響されることなく

そもそも影響される自分があるから
それを自分と思っては隠されて気づけないのであって

ただそのベールをはがしていけば
あることに気づく歓喜には至る。

広宣流布という次元には
法華経の非二元の体感覚知によることだけの今ここである。



[777] がいこつの諸行無常

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 1日(月)02時09分28秒   通報   返信・引用   編集済

小さい頃(小学校低学年のころ?)
よく聞いていた歌

くそくらえ節
https://www.youtube.com/watch?v=kv03261ldZ0
がいこつの唄
https://www.youtube.com/watch?v=-ffrIDEGqTY

そういうのがベースにあり
そういった世の中のおかしさに対して
それの解決を実現させていく創価学会であり
そのための深い仏法哲学として
生命の営みを解き明かしたもの
それを一念三千として私は
実際の世界の仕組みを解き明かすために
何度も何度も何度も何度も
考察を重ねてきた。

私にとって境涯の深さ大きさとは
一念三千の理解・体感覚知・智慧化・技化の度合いでもある。

元より私は、その事の一念三千のためにある。

増上慢との対峙
その難の中で理解・体感覚知・智慧化・技化は
次のステップへと私を運んでくれる。

そういう段階を経てきているから
それは自ずからある程度論理的であるのが自然だが

一個の論理に執着しては
論理は成熟しないというパラドクスがある。

例えば整数以外を数と認めないとすれば
数学の発展はそこで止まってしまう。

非科学的という言葉があるが
大方のそれは正しい表現ではない。

未科学的と言うべきだ。

気功や瞑想等、非科学的な心の持ちようと思われたのも今は過去だ。
今では代謝機能や脳の構造にまで影響をもたらすことが研究されている。

科学よりも先に、現象は実際に起こっているのだ。

科学だけあっても実際の生活に現象として役に立たなければその価値は薄い。

体感の上の生命の基本は一念三千しかない。

その三世間、非二元までの了解のためには
アルベア論の領域までを体感覚知することが求められる。

宇宙の始まりをさえ越える覚知がある。

三世間を読み違わないことは難しい。

衆生というと人びとであるが
基本的には衆生世間という場合には
仮和合した一個の生命、一人である。

無限に多くの一人でありながらも
全ての一人はただ一人でもある。

国土世間はそこにいる衆生にとって一つでありながら
そこにある生命の分だけ無限に別々でもある。

経験は見えているはずのものが
全て見えているわけではない。

ただ結論ありきで論理を組み立てるのではなく
あるがままを見ていく体感のままに
そのもののそのままが究極の論理になる。

そうなんだけれどそれが難しいのは

日常会話の言葉だけではない
本来体感から確立された仏法用語を借りたりするが
その仏法用語なりを概念として理解しようとしてしまうため
体感と概念との乖離が生じる。

概念に留まってしまえば
むしろあるがままを観るためには邪魔となり
その論理が思考概念となる以上は
必ず破折が可能なものとなる。

あるがまま自体だけが
破折が不可能である。

仏法において本来
いわゆる昨今の学会活動のようなことが行なのではなく
そのあるがままへの
イメージ法・呼吸法といった不二への行法としての
唱題行があり
そこへ向かう上での二者関係という生命の体得に
折伏行がある。

それらの出発点が信心であるが
この信心ということには段階がある。

それが五眼三身ということになる。

日蓮仏法を行じることは
地涌の菩薩を行じることであるが

その中にも十界があるのであり

概念の解除をするべき段階というのはあるのである。

そうして無上道に入る。

組織信仰というものは
それをさせないようにする
思考概念の上塗りの世界である。

組織信仰を打ち破り
真の生命の輝きを開くのだ。



[776] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月27日(木)12時17分24秒   通報   返信・引用

プライスレスなんて言葉が流行って
誰も彼もあれにもこれにも
プライスレスって言いだすと
プライスレスの価値が下がるよね。

全然一生のお願いじゃない一生のお願い的に。

究極のプラスレスは我が生命。

雪山童子はその生命の法のために今生の身を鬼神の食べ物として差し出す。
死んでしまってもいいくらいに生命に価値がある。と。

前に確か、貧乏は豊かさの一形態なんてのも
紹介しましたね。

正反対が同一とも言えるのは
紙の表と裏のようなものだから。

また、ヤンキーがちょっと優しいところを見せると
ものすごくいい人に思い

聖職者がちょっと悪いことをすると
ものすごい極悪人に思う。

いっそ普通にはどう考えてもおかしいレベルなら
信心の世界なんだからこれには甚深の意味があるんだと
必要以上に信じ込んでしまったりとか。

自分の得ているイメージと目の前の現実の標準偏差みたいな
過剰な思い込みや反転が起こる。
全部、相対的ですね。

自分が「やっちまった」って気になっていることも
他人から見ればそうでもなかったり

他人から見てすごく気になる癖とか
本人はたいがい無自覚だし

そういう自身を見つめ直すこと

そういう時に神経に障るようなバイアスがあるのは
それは受容を歪める罪障であり

それを解きほぐし自在の境涯になっていくのが
人間革命なのだと思うけれど

往々にして思い込みを重ねバイアスを強化して
ガチガチになりながらこじ開けることが
最高の信心であるかのような錯覚があり

まぁだからやっぱり
空観を含む一念三千の中道によらないと

起こしたベクトルに対してどこかで
真逆のベクトルが働き

それは同時に一つの事として起こっている。

同じとして起こることと
真逆として起こること。

その気づき方とコントロール。
それが智慧と技でもあり

自己機能の区分け体感覚知によって
「ああ、なんだ、そういうことか」
という納得として

脱落・脱力・解放し
各チャクラの体感の実感や
ただあるというダイレクトパス
南無妙法蓮華経の了解
そういったものが覚知できるようになる。

今の同時代現象として
そういうことへの直接的な心身の
アプローチが開かれている。

つまり難行苦行や組織的統制の期待依存が外れ
覚書の思考概念を暗記し解釈するのではなく
直接的な存在への指し示しから言葉を自在に使える方向になり

本当のプライスレスな我が心身生命非二元を
より多くの人が

その地涌の生命を実感していく。

この地涌の生命だけは
全ての人が四六時中
これこそプライスレスだと言っても

価値が下がることは無く
むしろいよいよ実感して価値が上がる。

無上道となる。

ああ、そういえば
仏教が難しく感じるのの一つは
読み違わないようにしようという思考概念を
働かせるから、むしろ読み違う。

教義改正問題の一連の中に
これは拙速な教義改正に異を唱えた方であるが

最初の角度が少しでもズレると
10年先100年先ではとんでもない
大きな間違いとなって現れるという懸念(趣意)
があったかと思うが

正しいようで南無妙法蓮華経になりきっていない。
因果が同時になっていない。

批判の仕方を非難しているのではなく
もっと別の次元の話だ。

思考概念を前提とした思考概念になっていて
今ここにない幻想に苦しんでいる。

仏教で学無学というのは
学=まだ学ぶ必要がある
無学=もう学ぶ必要が無い
なんだけど
ではここでいう学びとは何か?

思考概念では読み違わないのは難しいよね。

八万の法蔵の全てを
これで完全に読み違っていないという
思考概念を作り上げてから
完璧な教義で統制しますか?

ナンセンス、永遠に完成しない。

答えは常に今ここ、因果同時だ。

シンプルに間違いは今即間違いだ。

つまり創価の中で体感無くして言われていることの全ては
「どうでもいい」

とはいえ向上そのものを否定しない。

心身生命非二元に向かえば
必然的に法華経が
これそれ自体だと了解できる。

カマキリのオスメスは
君のためなら死ねると
殺してしまいたいほど好きが
見た目上成立しますが

当然、そんな思考概念があるわけではなく
自然界の運行の上の機能としてただある。

食べる食べられるが一つの事としてそこにある。

人間的思考概念の上では
「君のためなら死ねる」なんて
受け手によれば脅迫の一種でもある。

一人の他人が受け取るには重い。

仏法は無=無限であるので
仏法は「仏法のためなら死ねる」も
なんなく受容する。

「同じだ」ということも
「違うんだ」ということも
受け取り手によって
「同じ」とも「違う」とも取る。

結局は「非ず」を重ねることでしか
表現できないようなそれは
自身で体感覚知するしかない。


<「残して死ぬ」これが本能。生物達の壮絶なる「交尾」>
https://matome.naver.jp/odai/2142165567550676801

バリアフリー

健常者が何の気なく築いているものが
弱者の側には困難として立ちふさがる。

弱者に光を当て
その立場になって困難を取り除く。

そういう見直し、反省。

人と人。

功徳ある人を目指そう。



[775] プライスレス

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 4月26日(水)16時13分52秒   通報   返信・引用

中学生時代、プライスレスという言葉を初めて聞いた時、値打ちが無いと読み違いました。

スモークフリーも煙草吸い放題だと勘違いしました。


値の付けようが無いほど
煙の煩わしさから解放された

反意語もまた同じ土俵に乗ってる時点で、究極は同じになるのでしょうか


殺してしまいたいほど好き

これはちょっと違うかな(~_~;)



[774] 永遠無限

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月26日(水)12時32分59秒   通報   返信・引用

<宿坊>戸田先生指導:御本尊に関する質問  投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2017年 3月 9日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65859

本当に戒壇の大御本尊を分身散体の法門によって
日蓮大聖人の心と同じに出来ている分身体
久遠元初自受用報身如来の当体として見るには

五眼三身をもって九識心王真如を識るという
信心の深化、法華経の立体視
自己自身と分離の無い、その本源へと
観心していく必要がある。

その過程において本来
「空観」を避けることが出来ない。

大乗の仏法の理解には空観を体得しなければならないと
戸田先生もそう言っていたはずだ。

<宿坊>如来誠諦之語  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/67758

提婆達多品第十二までで
全ての人が成仏が可能である原理が示される。
(理の一念三千)

勧持品第十三で
どんな悪世になっていかなる難を受けようとも
法華経を受持し説いていく弟子の思いが述べられる。

(その一念三千を受持し広める決意とそこに起こること)

安楽行品第十四で
仏の側から見た安楽な智慧と禅定をもって
法華経を受持し説いていくべき姿勢が説かれる。

(菩薩行として空あるいは一念三千を受持し広めると言っても
それはまだ如来に比べれば思考概念であり
本当の如来のそれは菩薩の思惟するそれを凌駕している)

従地涌出品第十五で
釈尊の側でずっと教えを聞いてきた
今生で初めて釈尊から教えを授かっていると思っている
多くの他土の菩薩や迹化の菩薩たちの広布の誓願を退けて
そんなことが必要ないのは
さらに桁違いに多くの桁違いに立派な菩薩たちが
地より涌き出でそれを遂行する者たちだからだという。

(仏の側で仏の言葉に頼って執着したからといって
それを思惟する思惟や自己都合に縛られているのであり
それを軽々と乗り越える生命というものは
あることを信じればどっと湧き起こるのだ)

如来寿量品第十六で
仏の生命の永遠無限を明かす。

(本当の仏眼はここにしかない)

分別功徳品第十七から数品で
それを信じた功徳が語られる。

(正しく空あるいは一念三千を悟る etc.)

九識論において深層へ進むにつれて
自他の区別、善悪の区別、意識現象の区別
などが無くなっていき真如という無分別智へ向かう。

その最深が永遠無限であり
そこへの往復にあって
空あるいは一念三千への探求
空あるいは一念三千を了解した救済者への反転がある。

そこの往復切符が
大難があろうとも救済者になるという
誓願・決意を伴った信心である。

師匠と弟子の呼応
そのやり取りの中で探求し
しだいに分離がなくなる

信心と難とのセット現象
その現象の中で格闘し
しだいに安楽と難の分離がなくなる

御本尊と自身の感応
その戒壇の中で精進し
しだいに今生と永遠の分離がなくなる。

「私とは何か?」
それがそのまま答えになっていく。

<宿坊>徹して学びましょう  投稿者:反板の反板
http://6027.teacup.com/situation/bbs/67666

二乗根性という反省点からも
悟りに向かおうとすることが
自我を縮小し消滅に向かわせるような
そういうイメージがあるかと思うが

空観という大乗仏法であることは既に
その克服として取り組まれるもので

真の自己拡大の道なのである。

九識へ向かうということは
宇宙大の自己へ
またそれ以上の自己へと境涯を拡大させるものである。

「私とは何か?」ということに取り組む
哲学にせよ宗教にせよスピリチャルにせよ

同じ命題に取り組み
同じ法の宇宙にあり
そこにある生命現象が同じである以上

深さや角度や表現が違えど
もたらされる気づきの生命現象の体感は同じである。

もし違うのならその人に
この仏法を教えても無意味ということになる。

もちろん後から土地柄や時代に合わせて付随されたものは
それが変われば無意味になる部分もあるのだろうが

根源の命題は人という生命現象である以上
誰人にとっても同じなのである。

今言っていることからすると
別個の思考概念にはなるが

コズミック体なんてネーミングは
いかにも拡大の志向性のイメージである。

静かで神聖に煌めいているように見える夜空の宇宙も
その実、想像を絶するような因果が
それは文字通り渦巻いている。

渦巻いていることは善でも悪でもない。
ただそうあるし、どうこうできない。

色々渦巻いた時に苦しみを感じるのは
その次元と分離して生きようとしているからでもある。

それの方が卑小な生き方なのだ。

<かんながら>摩訶不思議
http://abetoshiro.ti-da.net/e9506261.html

「受け手」だけのままでは
自ずから「同じ」への限界がある。

言葉は解釈されて変換されるため
最終部分は「こうだ」という限定的表現が無い。

「こうだ」という場合
あなたの現象に対して私の現象があるという
その呼応の促しがあるのみである。

法のため人のための
誓願・決意と実行。

それでいて、犠牲にしない
ただあるを味わい楽しむ
空観の智慧と禅定の

私が言うには「頑張らない」
というところからの俯瞰。

そして無=無限と決める。

言葉を借りて言うのだけれど
言葉というのは言葉でしかなくて
「これ」にたいして万能でないから

こういう心地にいながら
熟練度の低さ未熟さから

人に何か伝える時
片言になってしまったり
そこで伝える必要のない心まで伝わらせてしまったり

それも私の「これ」生命現象ですから
反面教師とするところは
大いに反面教師としてください。

無上道ですから
私自身、法のため人のため
どうにか噛み砕いて

歓喜の一分でも伝えられることがあれば
それこそが功徳なのであり
そのために信心をします。



[773] 正法への気づき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月24日(月)03時56分58秒   通報   返信・引用

宗教のために人間があるのではなく
人間のために宗教がある。

宗教が無くては法が無いのではなく
人と法が一箇であるから結果的に宗教があるのである。

真実は宗教が与えてくれるのではなく
真実の法の讃嘆の手段として理を尽くすのが宗教である。

言葉の解釈で法が自身と分離したものと思えば
その人我の自己都合によって
理不尽な権威主義になる。

自己都合とはいうけれど
他者からの評価との整合性の
取捨選択のクセでもあるが

細かい言葉尻を気にした評価
しぐさや対応を気にした調和
一は全、全は一への飛翔

というような区分けで見ると

一見して自己不都合ともいえるようなことも
思考概念であることにおいて自己都合である。

自尊も卑下も同根なのである。

だからこそその生じた過程において
いじめる側といじめられる側が明確な場合
いじめる側が100%悪いとしなければ
その中道への最短ルートにはならない。

自尊心の肥大化した幹部がのさばっている裏には
その分だけ自分を卑下してしまっている心を病んでいる学会員がいる。

それはセット現象であり
傲慢な幹部の呵責だけでも
メンタルヘルスのケアだけでも
片方だけではダメで
同根の問題としての解決が必要である。

つまりは思考概念の都合による組織運営から
体感覚知の調和体への蘇生が必要である。

それは意味や形式や成果や評価にばかり
気を取られていては出来ない。

思考概念の上での問題は
その思考概念が消えれば消える。

正法は何を間違うことも無く良いも悪いも無く
ただその在り方を人間が解釈している。

気づけばいいのだ。

どれほどに正しく作動しているのか
良い悪いではなく
ただあるというそのままを味わうのだ。

あるということをあらしめている意識そのもの。

その意識において起こっていることの
気づきが何をもたらせるのか

魔を魔と見破り
幻想を幻想と見破る
智慧と技による世界になれば

どうしてありもしない脅威を膨らませて
戦乱の危機を迎えるようなことがあるだろうか?

正法への気づきというものは
必然的平和への唯一と言っていい道である。

自然に仏国土へと至るべしである。



[772] Re:試論 日蓮仏法とは その2

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月22日(土)11時54分0秒   通報   返信・引用

サイヤさん、それです。
ありがとうございます。
つながりました。

余分を言うと余分になるので
全くそれですとしておきます。

自ずからの歓喜への讃嘆を述べます。
それこそ醍醐味の功徳だと思います。

対比して信濃町の中心に
いかにそれが失われていて
組織全体もそれをなぞって
いかに陳腐になっているか

その元凶との対峙の中で
繰り返されるそれ自体が

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経。

一人の力なんて無力だなんてことは
だからそれは元凶の側の
個々人を無力化するための事であり

それとは違う次元の
無限の仏力・法力の
あるという中にあるという体験において
無力とか無意味とかいう次元ではない
六根清浄があって

だからサイヤさんがそれを伝える時にあって
サイヤさんのそれは全くそれです。

思いをはせると歓喜がわきます。
ありがとうございます。



[771] 試論 日蓮仏法とは その2

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月21日(金)16時13分15秒   通報   返信・引用

                                             ・
創価と正宗以外は御義口伝・百六箇抄を偽書と看做しているという。身内だけに通用する御書としており、学術的、対外的には価値の無いものであるという。創価では教学部顧問の立場にある宮田教授が、真蹟だけを用いて教学の再構築を目指しているとも聞く。そうなると久遠元初自受用身如来という概念は放棄されることとなろうか。

釈迦本仏説を採る方々は五百塵点劫に成道した久遠実成の釈尊を本仏とするのだろうが、その釈尊は誰を師匠に成道したというのだろう。寿量品に我本行菩薩道とある通り、菩薩の道を行じて成道したわけだが、どの仏のもとで修業したというのだろうか。開目抄の「寿量品の文の底にしづめたり」という御金言を知らない訳ではあるまい。

学術的な価値があろうがなかろうが、日蓮仏法を奉ずる者にとって、そんなことはどっちでもいい。少なくとも私にとってはどちらでもいいことだ。大聖人を久遠元初自受用身如来と信じ、人法一箇の御本尊に唱題し、六根清浄の功徳を毎日いただいている私には、学者が何を云おうがまったく関係の無い話である。

2003年から付け始めた唱題表だが、来年の誕生日には3000万遍に達する予定だ。いただいた功徳は枚挙に暇がないが、六根清浄の功徳を日々いただいていると自覚できることが最も大きい功徳と思う。御本尊の偉大さが分からないので、世の学者と云われる者たちは、愚にも付かないことで云い争っているのだろう。

日蓮大聖人が顕された御本尊には、無限の仏力・法力が備わる。一切衆生を成仏せしめる力が備わる御本尊を、いったい誰が顕せるというのだろう。大聖人を僧宝と貶める釈迦本仏説の輩も、御本尊の偉大な功力が分かっていないのだろう。五老僧の末裔ではそれも致し方ないことなのかも知れない。

このように見てくると、大聖人を久遠元初自受用身如来ではないとすることは不可能となってくる。もちろん私の信心と私の功徳から見てのことである。六根清浄の功徳をいただいて、御本尊に感謝の祈りが出来るようになると、人法一箇の御本尊であることが分かるようになる。神秘体験をするわけではないが分かるのである。

「以信得入」という。初めは信を以て入るのであるが、入ってしまえば信は不要になる。このように云うと誤解を招く恐れがあるが、「信じる」という努力を要する行為は必要なく、ただ御本尊と自分が「ある」だけになる。上手く表現できないが、信じるも信じないもない状態というか、信じようとしなくても自ずとそうなっている自分がいるのである。

別に悟りを啓いた訳ではない。実生活の中では種々の問題は出来する。心身ともに疲れて帰宅することもしょっちゅうである。御本尊の前に座し唱題していても、雑念は涌き放題である。しかし唱題し続けているうちに、徐々に祈りが定まり、祈りが感謝に替わり、一時間の唱題が終わる。毎日その繰り返しが続いている。

日蓮仏法を論ずるつもりが、あらぬ方向へ話が進んでしまったが、このように現在私は大聖人の仏法を奉じている。学者が何を云おうが、創価が大御本尊を受持の対象としないと云おうが、関係ないと云ってしまえばそれまでだが、邪教化する創価を見放しては、不知恩の謗りを免れまい。それ故斯様に物申すのである。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[770] 私とは何か?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月20日(木)12時16分51秒   通報   返信・引用

私とは何か?
その確たるものを掴みたい。

「人はどこから来て
どこへ行くのか?」

人はみな幸せになるために生きているというのは
その命題を誰もが解決させられるという方途の確信である。

絶対的幸福境涯というものはそこにあるということだ。

私とは何か?

「これだ」と思って掴んだ瞬間
引きずられて苦悩する。

どこかから来て
どこかへ去っていくだけのもの

次の瞬間にはもう
今ここには実存していない幻想。

そのいくつかを掴み続けて
幻想の人生物語、ファンタジーワールドを膨らませる。

そのファンタジーワールドをもって
絶対的現実に挑もうとするが
それがファンタジーワールドであり
絶対的現実に挑んでいるのだという事を
了解できていないので思うようにいかない。

これがダメなら次は何を掴めば良いのか?

掴むべきものを探し
私とは何かという命題を忘れる。

どこかから来て
どこかへ去っていくもの

それは普遍の私ではない。

何も掴まずに
ただ今ここにある時
それが私だ。

境と智が冥合するのは
その反転の気づきの体感にある時である。

私はどこから来たのでもないし
どこへも行かない。

私とは何かに迷うことと
本尊に迷うということとは同じである。

本尊とはまったく余所に求めるものではないからだ。

法華経とはその境智冥合のためのことが
ストーリーとして描かれている。

本来は生命感覚である。

その境智冥合のための
ストーリーからの反転の
生命感覚の恩恵に誰もが気づけるための
それの伝授法として
御本尊に題目を唱えるという
技法が存在している。

ただ師匠から弟子へ
その心王たる無分別智を
在らしめんとするために
あるのであるが

心こそ大切を思えば

その境智をして
無限へと広がりゆくためこそなれば

あらゆる差異を越えて
その境智において

全ては非二元である。



[769] 時代と巨匠と後継と統制と自由

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月18日(火)14時18分33秒   通報   返信・引用

一旦、仏法の流れというものの概念枠を外し
時代を動かした巨匠の一人として
語るものであり、仏法の正しさというのとは
少し角度の違う話です。

「天才」「神様」というワードから
私が思い浮かぶのは手塚治虫です。

グーグルで「天才 神様」だけで検索してみると
さすがに上位を独占するようなことは無いけど
出てきました。

【天才はこうして作られた!】漫画の神様「手塚治虫」の才能を引き出した、母からの仰天アドバイス
http://hot-topic-news.com/osamu-tezuka-mother

さて、だけど確かに「天才」という言葉から連想しますが
その人物像は「天才」という言葉に納まるような
スマートなものとは認識していません。

一面には執着心が強く嫉妬深い。
自分が一番でないと気が済まない独善性がある。

そんな葛藤の中で苦しみながら
時にそれを反省し見つめながら
時代のうねりの中へ何かを成す。

そういう「スマートで無さ」というのは
戸田先生にも多分にあったのだと思う。

手塚治虫がアニメーションを制作する時
ディズニーへの対抗心があったのだが

ディズニーの成功が今もなお
ディズニーの枠を保ったまま
多岐にわたるビジネス展開で
魔法のような夢の世界の楽しみを
人びとに提供しているが

手塚治虫の成功の発展は
日本の漫画界の興隆という結果であり
個々人の内発的な可能性の開花である。

純粋に良い作品を作りたいという事から出発した
その発展の違いは、その個々の国の
同時代現象のベースとなっている
意識体の志向性による自然な発露でもある。

この意識機能の違いに気づかなければ
思考概念で欧米型の組織化をしようとしても
疲弊・閉塞していくのである。

日本の漫画は手塚治虫によって
同時代現象に深く組み入ったから
漫画界での気づきが同時代現象を動かす。

たとえば「キャプテン翼」という現象。

翼と日本漫画文化が世界中で愛される理由
『キャプテン翼』原作者・高橋陽一インタビュー
http://www.nippon.com/ja/views/b00103/

~「高校3年の時に、W杯のアルゼンチン大会(1978年)をテレビで見て、『ああ、サッカーってこんなに面白いんだ』と気づいたんです。興味を持って調べてみると、ヨーロッパでは野球よりもサッカーの方が断然盛んで人気があって、競技人口も圧倒的に多い。それで、サッカーというのは世界一のスポーツだということに気づきました。~

ただそれだけの気づきを漫画にしたのであって
どれだけサッカーに精通していて
サッカーの技術を向上させていこうとかいう
上から目線ではない。

手塚治虫→漫画界の興隆→キャプテン翼→サッカー界の興隆

多様な文化の開花。
それは広宣流布の像の一つでもある。

ディズニー型がダメで
手塚治虫型が良いと言っているのではない。

仏法は元より
一つの組織や一国のためだけのものでは無い。

全ては活かされるべきで
包括とバランスということでもある。

同時代現象という事は
非二元への眼差しのシフトにより
自然の生かされている体感として
了解できるのだ。



[768] 歯車

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月14日(金)11時29分54秒   通報   返信・引用

歯車を一つ手にして愛でて
それが果たして
時を知るためのものであることを
説いてみたところで
時は得られず

ならばと直感的に分かりやすい
文字盤のコピーを配ってみたところで
時は示されない。

生命の中央の時計と
時代の中央の時計の不一致による歪みが
世界の運命を大きく歪ませる。

そうならないために護り通していた魂が

文明開化の美辞麗句にうつつを抜かし
目的をはき違えていく。

<日蓮大聖人と私>
法門申さるべき様の事・第八章 京風に媚びる三位房を厳誡
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-date-20170304.html

一度ほころべば
坂を転げ落ちていく。

教義を改ざんし戦争を賛美し神札を受ける
までに至る。

真僧俗和合の見ているところは
生命の中央の時計と
時代の中央の時計の一致へ
という深いところの信心にも感じます。


<YouTube>椎名林檎 - 歌舞伎町の女王
https://www.youtube.com/watch?v=krCk3EcsaxE



[767] 僧侶の妻帯

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月14日(金)08時08分58秒   通報   返信・引用

                                        ・
初めに、以下に論ずるところは創価が宗門の僧侶に対して、妻帯しているから聖僧ではないなどとする、ためにする論ではないことを申し上げておく。妻帯していようがいまいが、高潔なご僧侶はいる。また下劣な坊主もいるであろう。そのような個々人の特質を論ずるつもりはない。宗門の僧侶全般の話である。

「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」日興遺誡置文の一条項である。「後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」と申されて、「万年救護の為に二十六箇条を置」かれたものである。大聖人の仏法を法水寫瓶された僧宝である日興上人が、末流の乱れを戒めんと置かれたのだ。

鎌倉時代、僧侶が「肉食・妻帯」しないのは自明であった。しかし後々の世に、その自明が自明でなくなる時代を日興上人は予見していたのかもしれない。それ故に二十六箇条を置かれたのであろう。宗門の僧侶は明治の初めまで、少なくとも表面上はこの遺誡を守り通してきた。裏で何をしていたかは知らないが。

明治5年、時の明治政府は一片の太政官符を発布した。そこには「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」と書かれていた。これは僧侶が肉を食らおうが妻帯しようが、髪を伸ばそうが勝手にして良いということである。江戸幕府により禁令とされていたものを、明治政府は好き勝手にして良いとしたのである。

この一片の太政官符により真宗以外の僧侶の妻帯が始まった。(真宗はもとより妻帯可)日興上人の予見が現実のものとなったのである。私はこれを仏法とは何の縁もゆかりもない世俗の権威(明治政府)に、仏法が屈し貶められた歴史であると認識している。日興上人の遺誡を太政官符を云い訳に踏みにじったのである。

世俗の権威に屈したのか、それともこれ幸いと迎合したのか。太政官符には「勝手足るべし」とあり、強制されている訳ではないので、後者であったのではないかと推測するが、そうであるとしたらなおさら情けない話である。その後の法主の指南にも妻帯擁護の論があるが、私に云わせれば云い訳に過ぎないものである。

出家とは出世間である。世間一般の生活とは異なる環境で、仏道修行に励むのが出家であろう。末法無戒を盾に出家の妻帯を擁護しても、太政官符を云い訳に日興上人の遺誡を踏みにじった云い逃れに過ぎない。妻帯により僧侶が堕落したと、ひとからげに論ずるつもりはないが、弊害が無いとは云えないだろう。

僧侶の息子が僧侶になれば自ずと閨閥が出来上がる。権力を持つ僧は自分の息子を、身入りの良い寺の住職にしたり、要職へ引き上げたりもするだろう。明治まではあり得なかった、法主の息子が法主になったりもするのである。宗門史上唯一の例として、第六十世阿部日開法主の息子が、第六十七世阿部日顕法主であることはご存知の通りである。

何が云いたいのかといえば、宗門の僧侶に日興遺誡置文を守って欲しいと願うものである。既に妻帯している者に離縁しろなどと乱暴なことは云わない。しかし現在未婚の者はこの遺誡を守り、聖僧として仏道修行に励んでもらいたい。どうしても結婚したければ還俗という手もある。遺誡でも「衆徒に差置く」とある。

私は創価に籍を置くが、創価の宗門批判に同意するものではない。創価は創価で会則改正に伴う邪教化を留めなければならないと考える者である。そうであっても宗門僧侶の妻帯は、世俗の権威に迎合したものとして、改めるべきと考えている。遺誡を守り大聖人、日興上人の時代に戻り、聖僧として生きて欲しいと願う。

このようにして宗門も創価もともに発迹顕本を成し遂げ、新たなる「真・僧俗和合」が叶うのではないかと想像している。邪教化しつつある創価と、世俗の権威に迎合した宗門では、僧俗和合の叶う訳もない。広宣流布は僧俗がいがみ合っていて出来るものではない。大聖人のご遺命と日興上人のご遺誡に従う僧俗になりたいと願う。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[766] 文字列

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月12日(水)14時10分14秒   通報   返信・引用

トランプの下りの時
本来探していたのは
文字列で

その時探していたのは
~それぞれ一つ欠けると意味が変わってしまうような
言葉の組み合わせか何かないかと考えたのが元で
行きついたのが「トランプ」です~
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/655

ということで
また少し違うかもしれないけれども

宿坊の掲示板で
「師弟不二」ハガキを
5月3日までに
池田先生に出そう

という話が少し出て

私も何か送ろうかな?
なんて書いたのだけれど

何としても池田先生のところまで届かせるために
池田先生に見せざるを得ないものとして

眺めているだけで非二元に吸い込まれるような
心を書するチャンネルを使って

黒地に金文字の光沢仕上げで
中央に縦に「師子心玉真如」
両脇に梵字の不動と愛染を書き
池田先生に会える確率のある人物宛に送ってみた。

それはただ 咸皆懷戀慕 而生渇仰心の
一心欲見仏 によるもので

他意は無かったのだけれど
これが何なのか後付けで考えてみると

南無妙法蓮華経の御本尊が
智慧の側として

それと対を成し得る
その智慧を観る禅定の側の
文字列になっているんじゃなかろうか?

そうすると一文字足りないんだけど
非二元の禅定に問うてみるに
「在」という字があえて書かれていない。

「在師子心玉真如」
これは座した時の頭のてっぺんから
お尻の先までの七つのチャクラの順になっている。

南無妙法蓮華経と順を揃えると
在如師子心玉真となる。

そうすると色々に読める。

まず日蓮仏法から外れていない最初は
師子王の如き真の心に在り

つまりそれは成仏を指している。

また、心王真如は師子に在りとも。

書式として「王」を「玉」と書いているが
「たま」という意味で「ぎょく」と読んで

真如に在るは師子の心玉
ならば師弟不二の非二元球を示唆する。

不動愛染は境智を表すけれど

このシンプルさの中では両目でもある。

ウジャトの目ラーの目ホルスの目でもあり
それは第三の目の脳の松果体

チャクラのサードアイに配置される
師に収まる。

心の師が在れば真如の王子

真如の王とは仏と取れるので
心の師が無ければ仏子とは呼べない。

とりあえずこれぐらいにしとこう。

だからそれが何なのかというのは
思考概念で考えるようなことは

そうじゃない。

ただある。



[765] すごい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月11日(火)05時06分10秒   通報   返信・引用

身なりさんさすがですね

「致す」に込められたものに
どんぴしゃりです。

考えてもみなかったことが
始めからそうであったかのように
もたらされます。

曼荼羅はだからそう
そうであったということで
その通りで
すごいですね。

この今あること
生かされていることに
歓喜し感謝します。



[764] ご本尊

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 4月10日(月)21時13分49秒   通報   返信・引用

皆さんこんばんは、清潔な身なりです。

うむうむと読んでます。

タイミングって面白いですよね!!
ここしかないと言うタイミングで何か起こるし、
ナイスタイミングとバットタイミング以外無いようにも思います。
結局このタイミングしかなかったみたいな(^^)

やっぱり曼荼羅のご本尊様を眺めると落ち着きますねぇ(^^)

話が飛んでスミマセン<(_ _)>

出てくる感情を大切にしながら、丁寧に生活するように心がけてます。



[763] 致す

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月10日(月)14時20分45秒   通報   返信・引用

<YouTube>A Rocket to the Moon - I Do [w/ Lyrics] 3:29
https://www.youtube.com/watch?v=ZKeP69zw6e4



[762] 出る

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 8日(土)12時17分31秒   通報   返信・引用   編集済

<アルベアのブログ>
「非二元」「悟り」の体感・体験現象とは「解放感」「歓喜」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12263603147.html

~~新陳代謝は、いつでも、誰でも「体感が可能」です。この事は、既に誰でも「非二元」「悟り」の体感現象が内在しているという事を示しているものです。あとは「気づく事」だけなのです。
解放感⇒排尿・排泄直後の感覚に似ています。風景を見た時、絵画を見た時、音楽を聴いた時等々が「体感」されたときに「解放感」の感覚がもたらされています。~~

この話はだから元より
信心に限定された話ではなくて
誰にでも自然にある体感の話。

最近で私がこの解放感を大きく感じたのは
[756] 観念観法と一生成仏
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/756
を書いた時である。
「良いの出たなぁ」っていう
本当にそういう感覚だった。

おそらくサイヤさんにおいても最近
書き上げて投稿をした時に
同じような感覚を味わったことが
あるのではないかと思う。

戸田先生は罰というものは
当たるんじゃなくて出るんだ。
ウンコと一緒だ、自分の中にあるから
それが出てくるんだ。

というようなことを
言っていたと思う。

罰が当たったなんて騒ぐんじゃなくて
自分の中にあって、未来まで苦しむべきものを
今、軽く出させていただいているんだから
感謝しなさいと。

どうせ出るなら
罰よりも功徳の方が良いと思うけど
生命の本質の側から言えば
それは全くすべて本来は
功徳として出る新陳代謝なのだ。

自我機能による抵抗
自身に刻まれた宿業
生命のありのままの新陳代謝の仏の生命の活動を否定する命
正法誹謗の罪

それによる抵抗によって
罰として出るのだ。

出たら気づき感謝すれば
その罪はおえおわって
罪障消滅して
功徳として受容していくことが
出来るようになるのだ。

<真実を語る>其罪畢已(ございひっち)
http://tomotiyoo.exblog.jp/22034153/

「その罪おえおわって」とは
法華経不軽品第二十に説かれている。

全ての人の仏性を信じて礼拝する
ということが御本尊に祈ることに含まれている。

<アルベアのブログ>
「二者関係」「自他関係」「主客関係」「縁起」⇒「相互依存」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12263603617.html

全ての二者関係は究極するところ
自身対御本尊の二者関係が
姿を変えて現れているのであり

仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり
ということが当に真実なのだ。

逆に言えば御本尊というものが
本当には何を指して御本尊なのか
ということでもある。

もっともそれは日蓮大聖人が
文字曼荼羅として顕してくれたから
一切衆生に開かれているのだが

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり

また
然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり

なのである。

個々別々の二者関係
→御本尊と自身の関係の現れの影
→仏と法華経と衆生、御本尊と自身の而二不二
→九識心王真如の都、無分別智、非二元

<かんながら>独坐大雄峰
http://abetoshiro.ti-da.net/e9468604.html

何か連続してシンクロしている。

「出る」という感覚の開放の味わい。
それを促す意識の置き方使い方。
呼吸と昇天。

そうした時の自在の智慧。

「分かっていない」妙法。

自受用報身如来の覚知。

観念論の反転の大御本尊。

その化儀の広宣流布。

無上道の智慧を開く。

そういう断片断片。

法華経がある。

それを力強く呼び出だす唱題。
非二元の世界。

すらすらと文章化して
伝えられはしないので
もどかしいですね。



[761] 無限パズル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 7日(金)04時29分24秒   通報   返信・引用

仏法における
「同じ」「違いが無い」
ということの
十界それぞれの
「そのまま」という時の
「そのまま」というのは
分かっていない方の
「そのまま」である。

不可思議の方の
「そのまま」である。

人生の複雑さ
宇宙の複雑さ
そこにストーリーを構成する時
その置き換え組み換えが出来る種類が
無限である場合

知りえていないストーリーの割合は
99.99999・・・・%で
数学上イコールで100%である。

「私とは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。
「それを分かっているのは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。
「それ以外を分かっていないのは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。

「分かっている」は「分かる」と「分かつ」の
二重の意味の現在進行形として見れば

私が分離させて比較して
私が一方に正を、もう一方に反を見て
0%の世界の中で一喜一憂している
自作自演なのであるが

私の側から見れば
むしろこの世界の方が
世界のほとんどであるかのように感じ

この世界での出来事が
全く自身の幸不幸を決めてしまうように感じる。

むしろ100%である方の
分断の無い未知の「分かっていない」世界には
無関心であることの方が日常である。

九識心王真如の都・不変真如の理・隋縁真如の智
というところの真如とは無分別智であり
100%の「分かっていない」方である。

分かったら究極的にはそれではないので
誰にもそれは分かっていない。

それは何ものをも分かっておらず
全ての何ものも100%それである。

その100%に0%の膜の経験がある。

意味を分かろうとする時
分離した何かと分離した何かを
結び付けて物語を構築するが

そうしてしまうと
分かっている0%の方に向かう。

「工夫は唯だ 人我の見を離る
見を離るるの機要
内 虚にして 外 事あるのみ
これ 人我を 離るるの道
これ 坐禅の玄旨なり」
http://matsu880.blog93.fc2.com/blog-entry-123.html

「分からない」のではなく
「分かっていない」を観る。

「分かっている」は一界しか観ていない。
「分かっていない」は十界を観ている。

己心にこの不可思議の十界を観る。

「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念々に起こるなり
謂南無妙法蓮華経は精進行なり」

分かっていない余すところの無い
そのままの智慧の全てを
譲り受ける唱題行である。

知的理解でないものを
知的に理解の補助をしようというもので
難しいことを書いているようであるが

それは文意を追うからであって
やってみりゃ
ただそれだけのことの意識の使い方。

期待依存することなく
「分かっていない」を観ればいい。

<池田名誉会長講義 御書と師弟 第3回 御義口伝と青年
2008年12月25日付 聖教新聞>
http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20081225.txt



[760] 美しき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 6日(木)03時19分10秒   通報   返信・引用

良い歌声ですね。

師弟の心、師弟の魂。

その息づかい。

確かな歓喜のあった学会。

崩れざる黄金の魂を
今再び一人ひとりの胸中に。

師弟不二の道を。



[759] こちらの声が好き

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月 5日(水)08時53分39秒   通報   返信・引用

蘇生さん、こんにちは

下記、途中まで独唱する彼女の声が好きです。(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=oYgpkyAcFEw

http://macska2012.blog.fc2.com/



[758] 不可思議の妙法のリズム

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 5日(水)02時01分17秒   通報   返信・引用

当然、この掲示板だからこそ
サイヤさんの祈りもあって
そういう全体によって
起こっているので

私個人が何か超能力とか
そういうものをもって起こしているのではなく

必要なことが必要な順に
ただ起こって無駄がない。

分離したこの身を見れば
卑下したくもなるけれども

ひとたび胸に御本尊を輝かせたならば
生命の讃歌を歌い上げよう。

サイヤさんの宿坊への投稿
その勇気も

間違いなく何かを開いた。

地球の目覚めの
大御本尊の合致の
生命の世紀の実現の

奏者のハーモニーは

大河の流れのように
一度や二度といったことではなく

その在り方全てが無限となって
この流れは誰人にも
止めることは出来ないと

師匠が愛をもって讃えた
そのものなのだ。

前投稿[757] 自己機能を伴った思考は
2017年 4月 4日(火)11時44分42秒

~~自己機能を伴った思考では
奏者のハーモニーが
プレゼントしてくれている。~~

<かんながら>ちょっとした練習
http://abetoshiro.ti-da.net/e9461834.html
2017年04月04日 Posted by Toshiro Abe at 11:47

~~( ̄д ̄) 「夢から覚めようとジタバタするんじゃなくて、お前が静かになればいいじゃん。

夢の成分は思考だから、思考を静めてみな。

すると思考の外側には、ただ静かなプレゼンスがある。

それが、お前が求めている幸福の時間だら」~~

不可思議が
「思議すべからず」と読むことの
それなんだけど

この妙法のリズム

宇宙のリズムとの合致。

この生命の全て。

余すところなくそれになれば
それの生命を開けば

ただ海原に向かって
流れてゆくに違いない。

<YouTube>青年よ21世紀の広布の山を登れ
https://www.youtube.com/watch?v=6IFNBBLQCgY



[757] 自己機能を伴った思考

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 4日(火)11時44分42秒   通報   返信・引用

同じ思考パターンのステージ
枠内に囚われている限りは

例えばギャンブルでディーラーに
心情が把握されている状態で
ああすれば勝てるか、こうすれば勝てるか
次こそは勝ってみせると意気込んでみても
結果に一喜一憂することを俯瞰されて
「ギャンブルをする」ということから
抜け出せないよう支配されている。

掲げた目標に向かって貫き
反省もし研究も重ね熱を上げるほどに
掌の上、用意されたステージの上で
思い込みの思考がぐるぐると回る。

ぐるぐるぐるぐる六道ぐるぐる。

第六天の魔王が用意したステージで
自我の愚考は熱い思いを煽られて
冷めることができずに血走った目で
自分の信念を押し通そうとするのだ。

その時には必死で懸命なんだけど
目が覚めて熱が冷めて後から振り返れば
あの時は若かったなぁバカだったなぁの
一笑の話になる。

愚考から抜け出さない限り
一生は一笑に終わっていく。

抜け出すためには
第六天の魔王を俯瞰し返す視座が必要になる。

冷める必要があり覚める必要がある。

与えられた言葉に特別なイメージを付け加えて
特別な世界、特別な自分を作り上げていないかどうか。

頭の中にしか存在しないものなのか
もっと内奥から何をせずとも起こっているものなのか?

ただただあるものはあるものとして
起こるものは起こるものとして
何も付け足さず
ただ腹からの呼吸になってみる。
ただ南無妙法蓮華経になってみる。

愚考というものは常に
外からの作用に対して
反作用することによって
どうにもならないものを
自分の中、あるいは自分そのものとして
作り上げているのだ。

こうして生命に詰まった余分なものを
排泄するという自己機能を働かせる。

思い込みが何を反転させてしまっていたのか。

考えるでもなく
そのまま見て取るのだ。

これをもたらせている
内奥の生命のままの輝きに
私を添えて奏でてみると

物事の順序が反転する。

今までの愚考は
起こり終わったことに
あーだこーだと言っていたが

今や私は
全体の生命の上で起ころうとしていることが
知ろうとするでもなく
全く不思議なことに
ここにあるのだ。

何の不手際も無く
何ら余すところなく
生命がただある。

自己機能を伴った思考では
奏者のハーモニーが
プレゼントしてくれている。

起こり終わったことに
声を乗せても
自分に跳ね返ってくるだけであるが

起こっている波そのままの声は
どこまでも遥か
消えることなく響き渡る。

私は生かされている。

私はそれである。

あるのだ。



[756] 観念観法と一生成仏

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月30日(木)13時21分13秒   通報   返信・引用   編集済

「観念観法と一生成仏」なんて括りにすると
「日蓮仏法は観念論じゃないんだよ」なんて声が
聞こえてきそうであるが

多くの場合のそこには
「観念論じゃないんだよ」の誤用があると思う。

それこそ「観念論じゃないんだよ」という
観念だけが独り歩きしている観念論になっているのだ。

これもまた池田先生の側と
そうじゃない組織人間の側に
まったくの反転が見られるのだ。

学会組織の意向に慣れ親しむと
学会本部というものは
池田先生の意思の通りのことを
実現させていくことをしている
深い師弟の信心のあるところだと思い込み
その正当化に加担する生命が起こる。

純真なだけでは利用されてしまう。

「観念論」という言葉を調べると
観念観法の仏法的意味の場合と
哲学のイデアリスムを指す場合と
単に現実に基づいていない頭の中だけの観念
というような種類が分けて記されている。

組織人間の側が「観念論だ」「二乗根性だ」
と言う場合、対話拒否のシーンで言わないだろうか?

「難しいこと言っていないでとにかく従え」
という傲慢な根性だ。

また、きれいごと言ったってお金がなきゃ組織は運営できないでしょ?
きれいごと言ったって票が集まらなきゃ民衆の生活を変えられないでしょ?
そういうことが上手く回るように
方々手を尽くして私にしかできない戦いをしているんだから
少々汚いことのように見えたって
そこは信心で受け止めなさい。

みたいな全然仏法じゃないものが基調になって
結局、仏法者として絶対に師子吼するべき時に
全く何も言えず長いものに巻かれる羽目になる。

<随筆 新・人間革命 279 法悟空
不二の旅立ち「8・24」③>
http://shiohama.web.fc2.com/zuihitu-279.html

~~「師弟直結」で戦うということは、いかなることか。
 師は、「戸田の命より大切な創価学会の組織」と言明されている。したがって、この学会の組織で、広宣流布の拡大に戦うこと以外に「師弟直結」はありえない。あとは、観念論だ。
 とともに、私は、わが師への無数のいわれなき悪口誹謗を断じて放置しなかった。こと師匠と学会の正義を冒涜する者に対しては、相手が誰人であれ、真っ正面から破折していった。~~

~~青年は、流れを傍観しながら、ただ先輩に追従しているだけでは絶対にならない。
 断じて、臆病な野干(キツネの類)が吠えるごとき、遠吠えであってはならない。
 正義の信念に立って、自分自身の勇気と努力で、新しい流れを起こしてこそ、青年であるからだ。
 私は、師を苦しめ抜い宗門と憤然と対決した。 ~~

<随筆 新・人間革命 262 法悟空
新会員の友を全力で育成>
http://shiohama.web.fc2.com/zuihitu-262.html

~~めぐりくる春の、その花びらは美しい。  人間の歴史には、厳寒のごとく虐げられた、苦痛の歴史があまりにも多い。  しかし、春の勝利は、忍耐強く待つことである。

 そういえば、二百年ほど前のドイツの著名な学者が言った言葉がある。  その大意は、自分自身を根本的に改善していくことによってのみ、そこに新しい光が、自分自身の生存の上に、また使命の上にさし登ることができる――というものであったと記憶している。

 ともあれ、その彼、フィヒテは、心の改善のみが真の知恵をつくりあげると訴えたのである。  これは、私たちの叫ぶ人間革命、精神革命の大道を歩む正しさを証明し、励ましてくれる言葉ととれるであろう。

 フィヒテは、カント、ヘーゲルとともに、ドイツ観念論を代表する哲学者であり、べルリン大学の学長も務めた教育者であった。  大変な苦労人である。  紐織り職人の子として生まれ(一七六二年)、青年時代は貧困と不遇のなか、学問の道で身を立てんとして努力を続けた。~~

戸田先生も池田先生も
「哲学」と「仏法」を否定しないし
むしろ絶対に必要としている。

ただ観念の遊戯に終わることを否定している。

<赤鬼のブログ>
一念三千法門 第六章観念観法も妙法五字に納まる
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1777631.html

~~これまで天台大師の法門をふまえ、観心修行による成仏について述べられてきたが、本段では天台家の一念三千の観心・一心三観も、所詮は妙法蓮華経の五字に納まるとされ、その意義を天台大師の釈を用いて明かされている。
 当時の天台宗・禅宗のあいだで、経を読誦しなくても観念観法の修行のみで成仏できるとしていた邪義を破されながら、日蓮大聖人独自の立場から末法適時の正義を示されるのである。
 すなわち、天台大師が法華経によって立てた一念三千の観念・一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まるのであり、妙法蓮華経の題目を唱えることであると仰せられている。
 それは、一心三観は、所詮、妙法を悟るための修行の方法にすぎないからであり、文永11年(1274)ご述作の立正観抄に「妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり」(0531-01)と述べられていることでも明らかである。「観門」は実践的修行方法のことである。換言すれば、天台大師は自身の内証の妙法を秘して、外用として一心三観・一念三千を説いたということができよう。
 しかも、この妙法蓮華経の五字は「我等が一心に納りて」と仰せのように、我ら衆生の生命の当体である。観念観法の究極の悟りである妙法蓮華経は、もともと衆生の一心に納まっているのであるから、妙法蓮華経の五時の題目を唱えることによって、我が身が妙法の当体であると覚知し成仏することができるのである。
妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵
 天台大師自身、妙法蓮華経について、法華玄義本序で「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり…三世の如来の証得する所なり」と釈している。
 この文について、元意の辺でいえば「本地甚深」とは久遠元初をさす。すなわち、妙法蓮華経は人法一箇の久遠元初の自受用身が胸奥に秘めておられる大法であり、三世の諸仏が等しく成仏得道した能生の根源である、との意である。~~

その意を聞き理解しようというのは声聞である。
その意のままを体感で覚知しようというのは縁覚である。
その意のままに化儀の広宣流布をしようというのは菩薩である。
その意をもって化導する、意の前に久遠元初からあって
意を意としてもたらさせているのが仏である。

日蓮仏法において
己心に十界を観る
観心の本尊が肝心である。

<アルベアのブログ>「観念観法」1
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12212969271.html

「観念論ではいけない」ということの本来は
悟りとか深い仏法哲理とかは必要ないという事ではなく

「仏法哲理は深いなぁ」ということに
出会えたことだけに幸せを感じて終わるのではなく

この深い仏法哲理をもって
現実の人生を
現実の社会を
現実の世界を変革していくことにあり

深い仏法哲理が
現実の平和構築にあって
絶対に必要なんだという事である。

日蓮仏法の主軸がしっかりあるなら
色眼鏡で選り好みするのではなく
学べる機会があるなら
貪欲に学ぶというのも一つである。

現象のあり方に気づけばそれは
それによって自身から失うものなどなく

ただ南無妙法蓮華経がある。

ただあり
絶対に大丈夫なのだ。



[755] 無分断の御本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月28日(火)05時35分0秒   通報   返信・引用

えーと、昔話の続きで
男子部に上がって
理想と現実のギャップとか
色々あったり

学生部上りが未活になる確率が
高いというのは言われることであって

少なくとも一度は壁にぶちあたる

なんかさ、学生部の純粋な目線から
学んだ池田先生の理想の組織と
実際の四者組織ってなんか違うじゃん?

まぁ、それはさておき

法華経の智慧ですよ
目を輝かせて読みましたよ。

まず一つは
全ての人に仏性があるんです
これはすごいことなんです

ってことを宣揚し
自分の知人、また地域の人、世界の民衆の
幸福を願い祈るわけです。

で、部員さんから問われる
「その仏性は本仏と同じなのか違うのか?」

はたと困ってしまいまして
思索をするわけですが

思考概念の上では
「違う」と答えざるを得ない壁があるんですよね。

違うと答える宿業の
命だったという事なのでしょう。

違いがあると思えば無益であるという
内容の御書があるかと思います。
そちらをとるなら
「同じ」と答えるべきでした。

学会版の御書全集に収められている
中には、そのあたりの二重性があって

「よく御書…を読む場合、全体を把握しつつ一か所を深く読みとらなくてはならない。また、一か所の意味を深くくみとりつつ、全体をトータルに理解していかなくてはならない、といわれる。
なぜならば、一遍の題目でも成仏できるという意味の御書もある。更にいくら長い間、信心していても『うるし千ばいに蟹の足一つ』で地獄におちてしまうこともある。これらは相矛盾するような御金言のように思えるが、この点を間違えてしまうと、教条主義の弊に陥り、御書を正しく拝読したことにはならない。重大なあやまちをおかす場合が多いのです――と。会長はよく言われますね」

というレベルとは
趣が異なるのではないかと思う。

まぁいいんです

今は私は「それそのもの」と答えるだけです。

それは思考概念で答えたって仕方のないことです。
究極的には。

それはそれとして

当時もう一つ私の主張したことに

「御本尊には分断だけが書かれていない」

ということを言ったんですよ。

その当時ですから
まだ思考概念なんですけど
その理解の上でなお
分断が無い
ひと繋ぎの世界だと見たんです。

昔話はこれぐらいにして

御本尊の論議は
よほど機が熟さないと
まともな論議にならないんじゃないかと思う。

元来の創価の御本尊への信仰は
一切が大御本尊を中心としたものだ。

法華経の信仰は
ただ一のみあって
二も三もない。

大御本尊が自分のところにないなら
じゃあこの御本尊
というものじゃない。

現段階では私は
大御本尊への真っ直ぐな信仰を否定しないし
かといって本当に未来が開ける最善の選択が
あるのだというのならば
それが絶対にないとは私個人は言い切らない。

それはそれとして
御本尊の問題とは別個に

私個人としては

「脱構築」とか「チャクラ」とか
同じものに行きついているかもしれないものを
当然、中身を知る前から門前払いにはしない。

サイヤさんの志向性を尊重することと
私自身の志向性とは角度の違うことである。

まぁ読まざるを得ないものであるなら
読むことになるだろうし

今のところ、あえて
どうしても読もうというものでもない。

真実は静かに
誰に見られずとも
それを起こしていくものなのだ。

潜水艦のようにね。



[754] Re: Re: ふと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)22時23分33秒   通報   返信・引用   編集済

サイヤさん回答ありがとうございます。

加筆修正の
「民衆仏法の確立」について考えてみた
読みました。

なるほどやはり
大御本尊の受持ということが
根幹なのですね。

思えば執行部の
「大御本尊を受持の対象にしない」
というのは

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
ですから

「成仏の方途を捨てます」と
言っているようなものでもありますね。

「とにかく耳障りの良い言葉で
信心をしている気にさせてあげますから
私たちの言うとおりに一生懸命働いて下さい」
なんていうのは欺瞞しかありません。

<赤鬼のブログ>四条金吾殿御返事(此経難持御書)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1584721.html
~~「天台大師の云く『信力の故に受け念力の故に持つ』云云」
 受と持の根本的な違いがここに明らかである。信と念との相違が、それである。信とは、まだ、仏の言葉あるいは御本尊、妙法を自分以外に置き、ただ、それを疑わないという段階である。「受」という言葉がしめすように、与えられるものを受けるという受け身の姿勢である。
 それに対して、念とは、仏の教え、御本尊、妙法を我が生命として、主観的、能動的に実践していく姿勢である。自身の内にとりこみ確立したのであるから、外界からのいかなる障害、迫害がおそってこようと、崩れることはない。故に、持続しくることが可能となるのである。
 先の「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」ということも、このことからふり返ってみるならば、単に、入信と、その後の信心の持続という関係ではなく、瞬間瞬間の信仰の姿勢の相違を述べられたものと拝せるのである。~~

誰が何を受け何を持つのか
師弟も信仰も
その生命の縁起の智慧の活動でもあり
だから一生成仏もあるのだと思います。

「抑此の経釈の心は仏になる道は豈 境智の二法にあらずや、 されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」
<赤鬼のブログ>曾谷殿御返事(成仏用心抄)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1602024.html

御本尊には万法の体の仏の不可思議境と
その自体顕照の姿の智慧が顕されているから
凡夫の想念で軽々しく判断して
受持の対象にしないなんていうのは
おかしいですよね。

<宿坊の掲示板>
戸田先生指導:御本尊に関する質問  投稿者:寝たきりオジサン
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65859

私自身は広く模索している側でもありますので
縁に随って色々と書いていますが

この掲示板が中心となっているのは
大御本尊の仏智による縁であることを外せば
たちまちに悪縁に随っていることに
なってしまうからでもあると思います。

また気になることがあれば
質問することもあろうかと思います。

よろしくお願いします。



[753] Re: ふと

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月26日(日)16時41分30秒   通報   返信・引用

蘇生さん

投稿ありがとうございます。

先ず文字面をよく見てください。
松戸氏は「日蓮仏法2.0」と云っています。
これは日蓮仏法そのもののヴァージョンアップです。

それに対し日寛教学というのは、大聖人の仏法の教学の部分を
日蓮仏法に即して解釈・宣揚していることになると解釈しています。

松戸氏の著作をまだ読んでいないので、文字面からだけの判断ですが、
真蹟御本尊の版権を得てその書写を配布していると聞き及んでいますので、
日蓮仏法2.0は日寛教学と云われるものとは次元を異にすると思われます。

蘇生さんの云う「日蓮真蹟主義」が何処までを指すのか分かりませんが、
上記のような所見ですのでそちらに組することにはならないと思います。

「民衆仏法の確立」にも法体の広宣流布ということで書いています。
そちらも参考にしてください。
(最初ここにアップしたものに加筆修正があります)

http://macska2012.blog.fc2.com/

http://macska2012.blog.fc2.com/



[752] ふと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)15時32分34秒   通報   返信・引用

サイヤさん
気づいた部分で、私情ではなく
論理的な部分で一点指摘しておきます。

<宿坊の掲示板>
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66360
日蓮仏法  投稿者:スーパー摧邪人  投稿日:2017年 3月20日(月)22時32分25秒

日蓮仏法に2.0とか3.0とか定義したら、それは既に日蓮仏法ではない。
松戸仏法(松戸本仏)というのなら、まだ話は分かりますが。
http://macska2012.blog.fc2.com/

との事ですが
置き換えれば

日寛教学とか学会教学とか定義したら、それは既に日蓮仏法ではない。
戸田仏法(戸田本仏)というのなら、まだ話は分かりますが。

という日蓮真蹟主義の主張に分がある方向になります。
これはパラドクスなんですが

どういった部分が肝心となってくるのでしょうか?



[751] ワンピースの生命

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)14時50分17秒   通報   返信・引用   編集済

二十歳ぐらいのことだか
仏法対話の中で

「お前それは自分が無いじゃないか」
「自分の言葉で言っていないじゃないか」
「そんなのは綺麗ごとだ」

なんて言われて
でも自分としては自分で考えて
自分の言葉で言っているつもりで
確かにあるものの実感のはずで

「御本尊に祈れば分かります」
なんて言えるだけの自信があれば良かったんだけど

元々の性格や生い立ちもあり
不安症で自分を卑下しているようなところがあったから

綺麗ごとって何?どういうこと?
その自分って何?どういうこと???

ってな感じで、
世間の感覚が分からない自分が
ズレた人間なんじゃないかと
不安を感じていた。

自分って何?自分ってどういうこと?
自分、自分、自分・・・

その苦しさと
御本尊に向かう時の絶対感と

学生部の活動の中で
御書を学び池田先生の指導を学び
学会の歴史を学び。

そういう魂の原点・原石。

今、法華経を生命論で見るならば
自分というものの強い固執というのが
法華経の会座にいられなかった
退席した五千人であると思う。

そういったエゴの強い人師論師の言を
選択して末法は迷いの文化が築かれている。

一見、そういったエゴを離れた
悟りの世界を究めたような仏教宗派も

その実、法華経の生命の智慧を根本と出来ないのは
末法においては結局、五千人の末流となってしまっているのである。

自分という分離の消失した
非二元・ワンピースの生命としての法華経を見れば
今ここの一念三千そのものである。

個々別々の法華経ではなく
末法においてはこのワンピースの
南無妙法蓮華経に帰依するのである。

この時、二処三会は人間の思う
時間空間の物語とは異なる
フラクタルのタイミングの
縁起の智慧となる。

これは広義の声によっての
妙の三義「開く」「蘇生」「円満具足」
の実現である。

生命感覚的に虚空会は
誰もが参加しているし誰も参加していない
分離した自分の無い認識前の気づきである。

後霊山会は、それがそのまま今ここであることの
気づきの認識後の流布の世界である。

前霊山会は、その気づきがもたらされるための
退席した五千人も含めた
生命の実相という全て。

「その時」を自覚した時が「その時」であり
「その時」の全ては霊山会の実相なのである。

日々の勤行唱題は
そのような太陽の仏法の生命が

あるようにある
このままがそれであるという

智慧の門に入る信心の
帰命の儀式なのである。

この法華経のワンピースの生命の中にあって
分離した自分や対象化した他が無い次元において

誰が言ったから、どういう考えだから
そういうことは凡夫の側の時間空間のことであって

仏法そのものの生命の現象として
そこに本当の悟りが語られているなら
それがまさに悟りというものであるし

そこに本当の真実が語られているなら
それがまさに真実というものである。

それは受け取り手の境涯が
執着の迷いの言葉とも取るし
否定して闘争する言葉とも取るし
自分の利になる言葉とも取るし
平和実現の希望とも取る。

自身の生命が法華経である時には
法華経として聞けるのである。

その時には人の言葉を聞いているのではなく
法の声を聞いているのである。

順序としては
まず何をおいても日蓮仏法を専念して学び
その後、その軸が歪まないなら暇があれば天台も学びなさい
というのは日興上人の遺誡である。

聞法下種も発心下種も
功徳は同じだから

ならば語る内容としての
組織信仰への勧誘や
聖教新聞の購読や
選挙応援の依頼ではなく

どれだけ純真に
信心の心の声を響かせられるかに
功徳があり

乱暴にやったって功徳なんてないよ。

乗り越えていきましょう。
皆で勝利しましょう。

絶対に大丈夫です。

永遠不滅です。

あなた自身がそれなのです。



[750] 飛ばねぇ智慧はただの悪知恵だ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月25日(土)02時20分57秒   通報   返信・引用

二年ほど前にね
唱題会の御祈念を皆が書いているところに

皆それぞれ
具体的なことを書いている人も
抽象的なことを書いている人もいたけど

私が書いたのは
人間革命として頑張らないを広宣流布する
だったか?

自分自身、ニュアンスとしての志向性は
そうなんだけれども
ハッキリと説明しろと言われたら
さわりしか説明できなかったと思う。

その時の区男は「頑張らない」も
大切なことだと思うって
評価してくれて

でも「頑張らないとか言いながら
一番頑張っているよね」みたに言われて

そうじゃなくって
これは私の頑張らないの発露なんだと
思ってはいても説明しきれないから
何も言わず流したけど。

人間革命として頑張らないを広宣流布する
という目標自体
これの説明を出来るようになる
ということも含めた目標。
自分の中でそれを完成させた時
それを説明できるようになる。
しかもこれは今に思えば非二元なので
そうなった時それは広宣流布されている。
というか今に思えば初めから
そうなった時ではなく
始まりも終わりも無く
それは禅定そのものの事だった。

<かんながら>阿部のWeb講演を一般公開します
http://abetoshiro.ti-da.net/e9437099.html

この記事に公開されている
Web講演を見てもらえれば

この場合の「頑張る」が
何を示しているのかの面は
説明されていると思う。

何か対象にして合わせる
不自然さの維持の努力なんですね。

つまり無作三身の否定の努力。

だから頑張れば頑張るほど
苦しみを生む。

私が言っているこの場合の
「頑張らない」のと「努力が無い」のは違う。

頑張らないという事をさえ頑張らないので
自然に起こる努力が
そのままにある。

その中において
頑張るのが今ここに起こる時には起こる。

「頑張りましょう」
「頑張れますか?」と言う時には
その機微を分かった上で

不自然さへの努力の
重荷の解放の後押しとして発火点を作り
また多くの人へ伝え広がるための
一念を定めるための慈悲からの言葉でなければ

思考概念に陥った「頑張れ」では
行き詰まる。
苦しみを背負わせる。

池田先生の側と
そうじゃない組織人間の側の
違いである。

究極の自然さとは
御本尊と自分との間に
何ものをも挟まず

ゆえに、そこには境目が無く
非二元の今ここである。

しかしこれには順序・段階がある。

「大風ふき候へども つよきすけをかひぬれば たうれず」

とあるように、また

「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」

とあるように

仏法を教えてくれる人が必要になる。

「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」

であり、学び思考概念で理解して伝えていく。

しかし智慧を開くのは
信心による自己機能の体感である。

これは自身の内の法であり
それは禅定に基づいている。

仏法を教えてくれる人が
親兄弟であれ
気の知れた同志であれ
信頼できる先輩であれ
非二元のマスターであれ
人生の師匠であれ
御本仏であれ

その門の位置は教えてくれるが
門を開くのは自身の信心であり

そこには
そこまで導いてくれた人をさえ挟まず
非二元の本尊の戒壇の
生命そのものの体感。

それのあるがままの無作三身。

誰かを何かを
挟んでいる限りは
そこにはその反転があり
その執着によって迷う。

悟りの智慧がもたらされない。

「師弟相違せばなに事も成べからず」
なんていうのは

凡夫の思考概念では
これぐらいの意味だろうなんて
勝手に解釈して考える。

言いつけを守るとか
言ってることが違ったらいけないとか
人に対する接し方とか
正義とか恩とか。

そういう思考概念を追うのが
不自然さの努力になる。

本当には究極の自然さの中以外には
どんな何を重ねたって
相違はあります。

言っていることが分かるかな?
不自然さを手放すのって怖いですよね。
だから勇気なんですよ。

あなたはどこから来たのでもないし
どこへも行かない。

ただある。

門を開ければそこは
歓喜の世界です。

あなたがあなたのまま
仏法なのです。



[749] 声仏事の意識の使い方

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月23日(木)03時23分46秒   通報   返信・引用

「声仏事を為す」(御書708㌻)について考察する。

御義口伝 南無妙法蓮華経において
「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、 釈に云く 声仏事を為す之を名けて経と為すと、 或は三世常恒なるを経と云うなり」
とある。

南無妙法蓮華経の経とは
「三世常恒なる」
つまり永遠に普遍性のある
全ての人の言語音声。

ここで
「声仏事を為す」のであって
「言葉仏事を為す」のではない

言葉があって言語音声になるのではなく
声があって言語音声になる。

思考概念があってそれを説明するのではなく
自己機能があってその思いを響かせる声が
言語音声になる。

「言(ことば)と云(い)うは心の思いを響かして声を顕す」(563㌻、「三世諸仏総勘文教相廃立」)

私が今、何を言わんとしているのかというと
御書の理解のための説明もさることながら
意識の使い方の昇華を促している。

例えば
関西弁を語る

関西弁で語る

関西弁が語る
という意識の使い方の技化である。

「関西弁が語る」は通常に考えれば
おかしいようであるが

分離した自分が消えている非二元においては
仮にそのような表現が成り立つ。

仏法の知識を語っている人よりも
仏法の体感で語っている人が優れている。
仏法の体感で語っている人よりも
仏法そのものの全体意識が語っている現象の方が優れている。

言葉の上に現れている意味ではなく
その現象それ自体は
永遠の普遍性である。

その次元での声は
人間が音として認識できるものに限らず
あらゆるものの変化の振動であり
一切の現象である。

文字も今ここに現れている現象として声である。

一切の現象への思いの入れ方
意識の使い方。

これによって声が仏事を為す。
全体自身が全体自身として現象化する。

奇跡を起こす。

それが祈りが叶うという事である。

表面上同じ意味の言葉であっても
その声の質によって
起こせる結果には違いが出る。

鐘を大きく打てば大きな音という結果が返ってくる。
鐘を小さく打てば小さな音という結果が返ってくる。

また、ピアノの鍵盤を
闇雲に大きく叩いても
美しい音楽にはならない。

そこには修練を経た
魂の律動があって
美しい音楽を奏でられる。

それができる魂になった時
そこに不協和音があれば
すぐに察知できる。

人の思いの機微を察知し
全体を美しいハーモニーとして
その全てを
無くてはならないものとして
輝かせていく。

生命の世紀とは
そういうことによる平和の実現。

勇気ある対話という
言葉を善く使うことが出発点である。

対話なき一方的な押し付けのために
言葉を悪しく使う声というものは
その仏法の破壊であり

正義の声を上げた罪なき民衆を
分断するそれこそが
破和合僧である。

<随筆 人間世紀の光 No.192  (2009.6.28付 聖教新聞)
対話こそ わが人生>
http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-184.html



[748] 魔法の言葉

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月21日(火)12時20分56秒   通報   返信・引用

民衆仏法の確立
→民衆が化法も司る仏法
→民衆を束ねている組織が決める教義が是
→会長の認定が絶対で会長は偉い

この仏法精神にのっとって
時の与党が決める解釈改憲は是であり
時の権力の一存次第で
危険分子を一早く取り除ける法律は是である。

って

耳障りの良い言葉で
仏法破壊の
とんでもない力の論理ですね。

恐るべし恐るべし。

この分水嶺の見極めが
求められますね。



[747] 民衆仏法の確立

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月20日(月)20時24分26秒   通報   返信・引用

                                                           ・
2014年の会則改正について、翌年1月29・30日に聖教新聞4・5面に教学部による解説が掲載された。その中で、それまで日蓮大聖人の出世の本懐は大御本尊であるとされていたものを、「民衆仏法の確立」と「三大秘法の確立」として化法の改変を行った。ここで云われた「民衆仏法の確立」について考えたところを述べようと思う。

「民衆仏法の確立」とはなんと耳当りの良い命題であろうか。貴族仏法でもない、出家仏法でもない、世間一般大衆のための仏法。大聖人は出世の本懐として民衆仏法を確立されたとするものであるが、果たしてこの命題は真であろうか。創価は熱原の法難により大聖人の仏法が民衆の間に定着したとしてこのように云う。

池田先生は会長就任の挨拶の際、「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらさせていただきます!」と叫ばれた。ここで重要なのは、大聖人の門下が目指すのは「化儀の広宣流布」だということ。それに対し法体(化法)の広宣流布は既に大聖人が遂げられているということだ。

大聖人の「末法の御本仏」であるという御立場からして、出世の本懐とは「化法の確立」でなければならない。化法(教義)は弟子が作れるものではないからだ。末法万年の一切衆生を救済する仏法であるが故、大聖人は大慈大悲をもって大御本尊を顕され、日蓮仏法の化法を確立されたと考える。

このように考えて創価の云う大聖人の出世の本懐を見てみると、「三大秘法の確立」は化法に該当するのでよしとしても、「民衆仏法の確立」は当たらないと云えよう。大聖人の仏法が民衆仏法であるというのは、日蓮仏法の必然的帰結であって化儀に相当する。したがって「民衆部法の確立」を大聖人の出世の本懐とすることは出来ない。

日蓮仏法は一切衆生のためのものである。民衆仏法だから貴族や王族は受持出来ないかと問われれば、そんなことは無いのである。そうであるならなおさら、大聖人の出世の本懐が「民衆仏法の確立」などという狭められたカテゴリーに押し込められてよいはずがない。ポピュリズムに迎合する必要はないのである。

創価の解説が出てから2年以上も経って、ようやくこの瑕疵に気付いたとは、どう云い訳しても遅すぎる。耳当りの良い言葉であったため見過ごしたのか、化法と化儀の違いを正しく認識できていなかったのか、ただ頭が悪かっただけなのかは不問に付すとして、創価の云い分はこの瑕疵からしても成立しないと云えよう。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[746] 接続の

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月19日(日)12時19分35秒   通報   返信・引用

日寛教学の真髄とするところが
非二元という言葉以前の体感であったとして

表現し教え伝える時にあっては
同時代現象を借りて
思考概念で上書きして残すことになる。

そのものは言語化できないし
説明のための言語は
受け手によって修正された意味に
転換されてしまうので
手法としてはそうなるのだ。

表現としては同時代現象を
借りるのであるから
そこに類似性や包摂はあり
「非二元の体感のため」という
「接続」の意識を見ずに言葉を追えば
「盗用である」という思考概念にも流れる。

さらには同時代現象の中で
他宗からの批判もあり
自宗をただ護るだけの
体系化した教義の形で表現されたことは

その教義を考える時にあって
反転した愚考の上書きに陥りやすいことの
要因になっていることもある。

日寛教学において非二元への接続は
人法一箇の御本尊への信を始まりとするが

このことの責任の中心者としての
使命の自覚を見るならば
その清流の流れの主張は尊べるものであるが

嫉妬心などから愚考が上書きされ
法主信仰・宗門組織信仰・本山聖地信仰

(会長信仰・創価組織信仰・信濃町聖地信仰)
(この類似が同時代現象でもある)

というものに転換されたならば
もはやその本質は絶たれてしまう。

本門の方が迹門より勝れていることと
佐渡での発迹顕本を考えると

日蓮大聖人の佐渡以後での違いは
御本尊を定めるかどうかであり

多宗派の多くでは
本迹一致と見て釈迦本仏を立て
御本尊を軽んじている。

どの御本尊に功徳があるかということは別にしても
御本尊を軽んじる信心では
接続による大きな力の発揮は期待しにくい。

一心に御本尊を見る
心を一にして御本尊を見る
一心を見れば御本尊である。

サイヤさんにとって大きな壁となるのは

おそらくほとんどの学会員にとって
真僧俗和合については
議論のテーブルにさえつくことはしない。

日顕宗を切るのは
五重の相対を外しても学ぶ
創価学会の基礎として教え込まれている。

民衆生命or法主血脈or学会組織。

同じ御本尊を尊ぶようであっても
どこに帰着するのかの違いがある。

法主血脈の復活という事を目指すのならば
一人で日蓮正宗に行く勇気が無い事を
自己正当化して
お門違いな文句を言っているだけとの
責めや一蹴されることを
いかに説いて納得させるかである。

そこを曖昧にして論議しても
本当の納得やそのための連帯は生まれない。

私の場合は民衆生命の
非二元への帰着
その起こりの関係性の
縁に随って
それであることがあるだけ。

何もいらない妙法の光そのものへ
向かっている今があるだけ。

何者にとっても敵でも味方でもない
智慧そのものへの志向性。

自分があるのではなくそれである。

とか言いつつ
やっぱり凡夫ですけどね。

再掲<斧節【onobushi】>佐前佐後と日蓮の悟りに関する疑問
http://onobushi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8511.html

<宿坊の掲示板>
大白法を穏没させる訳にはいきません  投稿者:一人のSGI 代理投稿  投稿日:2017年 3月12日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66044

一人のSGI様  投稿者:スーパー摧邪人  投稿日:2017年 3月13日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66076

スーパー摧邪人様  投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 3月13日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66089

再掲させていただきました。  投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 3月19日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66283

<アルベアのブログ>
「私は在るという感覚―マハラジとの対話―」カスタマーレビューより
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12257670872.html
~~『もし彼が真我を見出すためにするならば、何であれ彼のすることは間違いなく彼自身へと導くだろう。
 本物の動機、それが重要であって、やり方ではない。
 真剣さ、それが唯一の成功の条件だ』~~



[745] 己心の寿量品の久遠教主釈尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月18日(土)14時25分45秒   通報   返信・引用

日蓮大聖人が
久遠教主釈尊というなら久遠教主釈尊
それ自体がそれの存在自体でありそれが日蓮である
という非二元

それに対する日寛上人の
気づきという非二元。

その同じ非二元から
使命を自覚し受け取った戸田先生。

そういう次元は

言葉の上の思考概念の
史実がどうだ
本当の教えはどうだ
誰それの何がどうだ

そういったこととは
根本的に異なる

体感の了解・覚知・気づき
全体の存在そのもの

同時代現象のその
生命である。



[744] 本仏の違い

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月17日(金)13時29分28秒   通報   返信・引用

釈迦本仏で考える場合

王家の出身という高貴な身分と
種々の修行の末悟りを開き
完全な徳や相を備えた煌びやかな存在

仏をそういう前提で考えるのなら
生まれ変わって転生して仏になる
という話の方が「なるほど」となる。

法華経の文上がそうなっているのは
至極当然である。

日蓮大聖人はそういう見方をしない。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
であり

自身を「今生には貧窮下賎の者と生れ
旃陀羅(せんだら)が家より出たり」
また「糞嚢(ふんのう)に金をつつめるなるべし」
とまで譬えられている。

日蓮本仏と見る場合には
今の外見上や立場やその身自体が
どんなに汚らわしいもののようであっても
その内に黄金の精神を宿すことができる
という生き方を見ることになる。

また日蓮仏法は無始無終であり
何かをしたら何処かで始まるものでは無く
解り開けば気づく事である。

イマジネーションの世界が糞嚢であり
言葉以前の生命現象が金である。

何の言葉にも縛られていない生命現象自体は
すでに個という存在ではない。

一生成仏とは一生のうちに成仏するというよりかは
仏の活動が開かれているから一生があるのでもある。

ただその真実に気づけない。
だから心を磨いてその真実を映せる鏡を磨く。

その一心に仏を見ようとする心が
その一心を見れば仏でもあるのである。

一切の現象は一念三千
妙法蓮華経の現れである。

何かこれに漏れるものがあるであろうか。

凡夫だけは「仏とは生命」の活動の外にあるのだろうか。

自分は何か特別なことをしていると
思い込んでしまうのが常ではあるが
そんな特別な自分という思い込みさえも
自分だけでその自分によって作り出したものはない。

「生かされている」という一点において
あらゆる違いはそこには存在しない。

しかるにそれは
差異を認め、その相手の価値を認めるという事でもある。

だからといって何でもかんでも
「すごいね」「そのままでいいよ」
ってなわけでもない。

だけどもそのまま
起こっていることを起こっているままに
受け入れる。

解る解らないが、その努力が必要ないことは無いが
言葉によって言葉以後にあるものは糞嚢であり
それ以前の生命活動の金にある
体感体験をしていくことだ。

どんなに精巧な世界地図を描いたとしても
それで世界旅行の経験をしたことにはならない。

今ここにある世界の中での経験がそのまま
一生成仏なのだ。

そのそれ自体を完全に開ききったならば
本仏というなら本仏
妙法蓮華経というなら妙法蓮華経
無作三身というなら無作三身
それ自体がそれの存在自体でありそれが私である
という非二元になる。

「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」
<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧239
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8112

という読み替えは端的にそれである。

一心欲見仏は妙法蓮華経にも配される。

<創価教学研究室(赤鬼のブログ)>
義浄房御書(己心仏界抄) 第三章 寿量の文に己心の仏界を顕す
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51470.html
「日蓮云く一とは妙なり心とは法なり 欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、 此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」

あなたはあなた自身の行動が分かっているか?

問いなさい。
「後ろの正面だ~ぁれ??」



[743] 対岸

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月15日(水)13時15分49秒   通報   返信・引用

<気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆>
自身の信仰を築く旅。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/15/050000

に批評があります。

~~~~~
創価学会の内部で、現今の教団に疑問を持ち、その原因を「創価学会が邪教化した」とか「教団が池田名誉会長の心を忘れた」とか、情緒論で立て直しを図ろうとする方々もいます。
私から言わせればそれは違うと思います。
~~~~~

アルベア論的に言えば
それは互いに正反の関係にある。

サイヤさんは言われるまでもなく
創価学会の日蓮正宗への復活までを
視野に入れて模索しているので

気楽に語ろう著者が
そういう信心ならこうすればいい
と言っていることを
もっと大きな形でしようとしている。

その岸から言っていることも
この岸から言っていることも
言葉尻をとらえれば真逆とも見えるし
本質の現象としては同じとも言える。

ここに分断があると見るのは
三界の見方であり

如来の側から見れば
その全体がただある。

これとこれが繋ぎ合わさるなど
ありえないと思うようなことまでをも
その常識を破り繰り返しつなぎ合わせる。

批判と包摂。三変土田。
文字曼荼羅の御本尊。
生命現象の俯瞰。

その全てを一念に
事の一念三千。



[742] 岸辺に友と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月15日(水)11時24分25秒   通報   返信・引用   編集済

日蓮本仏論を考えるにあたって
「日蓮本仏論」と「一生成仏論」の
多段階性、多階層性について考えなければ
「これに従え」という一方的なものになって
終わるのではないかという懸念がある。

日蓮本仏を信じることが唯一の一生成仏の方途だと言うなら
一生成仏をすれば「何仏」になるのか明確に示せなければ
むしろ日蓮本仏論では一生成仏できないという事になりかねない。

本仏?迹仏?十方諸仏?過去仏?未来仏?

「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

戸田先生の「仏とは生命」
「我、地涌の菩薩なり」という悟達は展開すると

「経文の文底とは悉く、他の事ではない今ここにある『生命』の事なんだ」
「この文底の真実を伝え行くことが、他の誰でもない戸田の遣わされた使命なんだ」

ということであると思う。

日蓮大聖人の仏法は釈迦一代の説法よりはるかに優れている
→とはいえ、それの指し示しているのはあなた自身の生命の事なんだ。

矢印から後を消してしまえば
ただの権威である。

史実・真蹟のみを追うのでは
そもそも釈迦滅後の後世に作られた
法華経の信仰が成り立たない。

後世の弟子によって
本物が本物であったことが
生命の真実として証明されていく
それ自体が仏法であるとも言える。

虚妄であるのか方便であるのか
より生命の真実に迫ったものなのか

その方向性が正しく法華経の文底
「法華経の智慧」に通じているのか。

実践の中で経験し獲得して
開いていくものであろう。

<かんながら>ダイヤモンドスートラ 釈尊曰く
http://abetoshiro.ti-da.net/e9415517.html

<アルベアのブログに紹介されたYOUTUBE動画>
「タバコ売りから覚者へ」ニサルガダッタ・マハラジを語るエックハルト
https://www.youtube.com/watch?v=_2YqqWwg2NM

仏法は「川を渡る経験」でもある。

「あの人は川を渡った人だ」
なんてことはどうでもいい。

自分が川を渡るかどうかである。

「法華経の智慧」によって
渡ってみるしかないのだ。

その時に「同じ」だということ
「いない」ということが
了解できる。



[741] 柔らかく風

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月13日(月)13時44分36秒   通報   返信・引用

~~~~~
空には 鳥の飛ぶ道がある 海にも 魚の通る道がある
目には見えないが 重力の波は 大宇宙を貫いている
生命それ自体にも 目に見えず しかも厳然と実在する法則があるのだ
諸君が進む大道は たとえ誰人が見ずとも
未曾有の栄光の花道であることを 僕は確信したい
君たちよ 大木となれ 力と福運の葉を茂らせよ
勝利の花を爛漫と咲かせ 実を結べ
僕は 根っこになる 根は見えない 見えなくてもよいのだ
~~~~~
長編詩 「大いなる希望」より
http://sokanomori.exblog.jp/14906157/

師弟不二を大地とすれば
たとえ一時枝葉が刈り取られようとも
もう一度、さらに立派な大樹と育てばよいのだ。

悪しき生命にある時は
その大地を変革することなく
枝葉を整えようとしても
本質が変わることはない。

苦しみの繰り返しの歴史に
終止符を打つには
根っこの変革をしなければならないのだ。

<ノンデュアリティセッション ジュンコセレンディー>
いよいよ「苦しみ」の終焉に向かって・・・ 【No.38】
https://www.youtube.com/watch?v=s-8ReekZ8kI

若かりし頃
理想と現実のギャップにもがき

二乗根性だと責められ
独自の罰論的な抑圧による活動の強制の
しだいに仏壇を開くこともせず
池田先生の指導にも独自の解釈で一本調子に曲げる
そんな深夜までの毎日拠点の中

「これは何だろう?」と不思議に思った
JUDY AND MARY の歌詞群。

「扉を開けて時々なら逃げるのもいいわ」
「ハードルは低くしておくものよ覚えててね」

JUDY AND MARY 【Hello! Orange Sunshine】のベースを弾いてみた!
https://www.youtube.com/watch?v=MDi-zTnxRRo
JUDY AND MARYのmottoをベースで弾いてみた
https://www.youtube.com/watch?v=Ue9jA8h68ig

戦いの精神には合わないようだけれども
だからと言ってそれは責められるものだろうか?

「そんな風に求めてばっかりじゃ魂も枯れちゃうわ
難しい言葉ばっかりじゃあの子とも仲良くなれないの」

JUDY AND MARY 【散歩道】のベースを弾いてみた!
https://www.youtube.com/watch?v=S2Y3EKGZlp4

「頭柔らかくしよう」
「何よりも大切な事 手をつなごう 柔らかい風が吹く」
「夕暮れにも早く気づく」

一念三千の俯瞰。

その上の・・・救済。

南無妙法蓮華経



[740] 化法の定義

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月11日(土)12時49分14秒   通報   返信・引用   編集済

仏教哲学大辞典 第三版によると

けほう【化法】 仏が衆生を教化するために説いた教
法のこと。化儀に対する語。天台大師は釈尊釈尊一代五十
年の説法を、その内容から化法の四教として蔵教・通
教・別教・円教の四つに分けている。〔御書〕 釈迦
一代五時継図(六四三㌻)

とある。

<創価教学研究室(赤鬼のブログ)>釈迦一代五時継図
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52398.html

~~~~~
 仏が自ら四十余年の方便権経を破折されていることは、次の経文に明らかである。無量義経説法品第二に「私は前に道場の菩提樹下に威儀を整え座して六年を経て、無上の正しく平等な悟りを成就することを得た。仏の眼をもって一切の諸法を観るに宣べ説くべからず。理由は何か、諸の衆生の性質や欲情が同じでないことを知ったからである。性質や欲情が同じでないので種々に法を説いた。種々に法を説くことは巧みな手段の力をもってなしたのであって、四十余年の間はまだ真実を説き顕していない」とある。また「文の言葉は一つであるけれども、意味はおのおの各異なっている」とある。
 伝教大師の無量義経の注釈に「衆生の性質や欲情が同じでないので種々に法を説くとは、衆生の機根にかなった教えを挙げるのである。 釈尊一代の四十余年間に説いた教えを略して、蔵・通・別・円の化法の四教およびそれらに頓・漸・秘密・不定の化儀の四教を加えて八教がある。いわゆる菩提樹下で華厳教、鹿野苑で阿含、大宝坊の中で方等経、霊鷲山などで般若経、そして一乗法を説き演べ、また大乗・小乗の菩薩の長い劫を経る修行、小乗の三蔵教、大乗の通教、大乗の別教、大乗の円教、また頓教・漸教・不定教・秘密教というように、爾前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の方便権教はおのおの同じではない。この故に種々の説法とすると名付ける」とある。また「衆生の機根に随って説かれる五種の性分などなど三界六道の門の外に出るための方便、三乗の教えに差別のある権教、権を帯びた一乗法を説いて、いまだ自らの悟りに随って説かれる一仏乗など、火宅から逃れた露地の真実の安穏、平等に説かれる即身成仏の道、権教を捨てる一乗法を説き顕していない。この故に『説くこと方便力をもってす。四十余年間にはいまだ真実を顕さない』というのである」とある。
 無量義経十功徳品第三に「もし衆生がこの経を聞くことができれば、これは偉い大な利益である。理由は何か。もしよく修行すれば、必ず速く無上の悟りを得ることができるからである。衆生の中で聞くことができない者は、まさにこれらは偉大な利益を失うのであるとしりなさい。無量無辺不可思議阿僧祇という長遠な劫を過ぎたとしても、ついにぐ無上の悟りを得ることができない。理由は何か。悟りの大道を知らない故に険しい道を行くときに障害が多い故である」とある。
 注無量義経に「遠く無上の悟りを得ることができないとは、いまだ即身成仏の道である一乗の海路を解していないということである。いまだ純粋円満な六種の修行の頑丈な船に乗っていないからである。いまだ真実の相と巧みな手段という順風を得ていないからである。この故に声聞・縁覚・菩薩の三乗が横道に逸れて進んでおり、険しくて歩行するには障害が多い所であり、労苦や誤った想念と実在しない夢の中の大河である。この故に無量義経十功徳品に、速く無上の悟りを得ることができないと説いているのであえる」とある。
 法華秀句巻下に「法華経を讃めているけれども、かえって法華経の心を殺している」とある。無量義経説法品第二に「次に方等部の十二部経・摩訶般若波羅蜜経・華厳経を説いて、菩薩の長遠な劫を経る修行を宣べ説いたけれども」とある。
 伝教大師は法華秀句巻下に「謹しんで無量義経の文を思索するに、方等部の十二部経とは法相宗の依りどころとする経である。摩訶般若波羅蜜経とは三論宗の依りどころとする経である。華厳経とは華厳宗の依りどころとする経である。これらは長遠な劫を経る修行を説いているけれども、いまだ偉大な即身成仏の道を知らないのである」とある。

   ┌説処は霊山虚空の二処三会・実報土の説
   ├実大乗
   ├八箇年の説
   ├又開会の妙典とも純円一実の説とも一円機の説とも云う                  ・
法華経┼醍醐味
   ├円教
   ├頓・不定と秘密無し
   ├結経は普賢経
   └仏立宗──法華宗──天台宗

       ┌一に霊山会序品より法師品に至る十品
二処三会の儀式┼二に虚空会 宝塔品より神力品に至る十一品
       └三に霊山会 嘱累品より勧発品に至る七品

     ┌序品より十四品は迹門なり 開権顕実と名く
本迹の両門┴涌出品より十四品は本門なり 開近顕遠と名く

 この法華経は第五時の教である。無量義経を開経とし、観普賢菩薩行法経を結経とする。化儀は漸教を開して頓教に帰すこと。また三乗を会して一乗に帰すことであり、化法は純一の円教である。般若経を説いた後、沙羅双樹で涅槃経を説き入滅する前、ひたすら純一の円教の機根に対して真実の教えを説くのである。日光が普く照らすときは、時刻を測る日時計の影は縮まないし、伸びないようなものである。頭を低くし手を挙げるという軽い敬礼もすべて仏道を成就する。あなたは実に我が子であり、私は実にあなたの父である。ただ仏が滅度するのは滅後の衆生に渇仰の心を起こさせるためである。
 この第五時の教は白昼であって華厳・阿含・方等・般若の是四時ではない。これは醍醐味であって乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味ではない。これは定教であって不定教ではない。これは顕露教であって秘密教ではない。声聞・縁覚・菩薩の三乗、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七方便、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九法界を開会して一仏乗に入らせる。故に、法華経迹門では声聞・縁覚の二乗は初住の位に入って無生無滅の悟りを得て、成仏の記別を受けた。八歳の竜女は男子と変じて即身に無垢世界の成道を唱えた。法華経本門では現在および未来の二世の弟子は仏道の智慧を増し生死の苦しみを少なくする利益を得た。
~~~~~

<宿坊の掲示板>
【人の言葉と一念三千】7/26  投稿者:大仏のグリグリのとこ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65961

~~~~~
仏法では、生命の本質を「一念」と説いています。

この一念とは、

唯心論的な「こころ」とか、唯識論的な「意識」といったものではありません。

むしろこの「こころ」とか「意識」は、生命の本質からいえば、
ほんの一部に過ぎず、当然、こころと意識も一念に含まれます。

仏法でいう一念とは、

生命の「実感・形態・性分・法則性・力用・所作(行動)・因果・環境」などの全体を包含し、
しかもそれらを内より統一している生命そのものの実在(不変の実体)を〝一念〟といっているのです。

この一念の変革を完璧に説いているのが日蓮仏法の「事の一念三千」です。

また、一念がどう展開されていくかは〝三千〟という体系でとらえることができます。
この〝三千の体系〟の基礎になっているのが「十界・十界互具・十如是・三世間」なのです。

つまり、三千という展開なくして、一念の実在はなく、
三千のあらゆる相もバラバラにあるのではなく、一つの実在のなかに融和している。

これが一念三千の法門です。
~~~~~

化法とは
どんな現象にも対応するシンプルでダイレクトな法とか
現状に対して一つステージアップするための法とか
いつもとは別の角度から活路を見出すための法とか
習い深めるための道筋を事細かに表した法とか
その区別の教判。

化儀とは
誘引の手段を使わず悟りの内容をそのまま説く手段とか
低いところから高い所へ徐々に誘引していく手段とか
相手にはそれと気づかれずに包摂させていく手段とか
意味は分からずとも印やマントラや曼荼羅とかで誘引する手段とか
その区別の教判。


だから私が考えるにはむしろ
「仏とは生命」としての事の一念三千が化法で

行学の形式、また、特に信仰に勧誘している時に限らず
誰かと何かと関わっている時の対応。
「その姿がそのまま折伏になっているんです」と
言われるような、24時間 365日の振る舞い。
そこに化儀がある。

もちろん、その拠り所として
「末法の御本仏日蓮大聖人」の
一大秘法、三大秘法、六大秘法という化法

それのための広宣流布の活動
という化儀があって初めて

三代の会長が貫いた創価学会であると思う。



[739] 民衆の仏法のために

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月10日(金)11時25分16秒   通報   返信・引用

広宣流布への決定した思い無くして
学会活動の歓喜は語れない。

その思いを削ぐことは、だから
広宣流布の団体としての衰退に向かう。

あるいは広宣流布の前提を崩すことは
その組織の崩落を意味する。

冗談抜きな話で創価の中で
谷川佳樹が偉くなるほどに
女子部の活動家は激減し
広宣流布の組織としての体裁は崩落している。

<宿坊の掲示板>その名は、タ・ニ・ガ・ワ!!  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/58952
~~「俺は、将来、会長になる男だ。その為の布石は全部、打ってあるんだ。」
「先生、先生って、言ってればいいんだ。周りはバカなやつばかりだ。簡単だ、すぐに上に上がれる。」
「信心している女は、だましやすいんだ、先生、先生、といっていれば、簡単に信用してくれる。」~~

<宿坊の掲示板>谷川さん、女子部は今も「扶養家族」なんですか?  投稿者:小作人@地上の発心
http://6027.teacup.com/situation/bbs/54795
~~「女子部? いますけど女子部は広宣流布の扶養家族ですから~」~~

<よくわかる創価学会>大御本尊決別問題の経緯 2016.2.23
http://www.soka-news.jp/endo-1.html

<気楽に語ろう☆>教学の破綻と次期会長のこと。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/02/060856
~~とりわけ谷川主任副会長は教学の問題について楽観的に考えていますよね。
でも言わせてもらえば、彼には教学の重要性がさして理解できていないってことなんじゃないですかね。~~

<気楽に語ろう☆>見えない敵と闘う創価学会
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/11/25/054440
~~注目したいのは谷川氏が「外の敵と闘わないから内部に乱れが生じる」と考えているところです。~~

そんな谷川氏が次期会長候補にまでなれるだけの
狂いというものが、それはずっと学会本部には
内在していた。

恐るべし恐るべし。

一方の世間に目をやると
花畑牧場の田中義剛が言ってたのは
タレントなんて飲まなきゃやってられない。
そういう人種による
人を小ばかにする内容の薄い
娯楽番組に席巻されていたりする。

内を見ても外を見ても
これでは真面目に信心をしてきた者は
路頭に迷ってしまう。

さて、仏について戸田先生には両輪とも言うべき
ダブルスタンダードがあったんではないかと思う。

つまり「仏とは生命」と
「末法の御本仏日蓮大聖人」です。

現象を伴った歓喜と畏怖の峻厳な世界。

本来の創価学会が掲げた
「末法の御本仏日蓮大聖人」は
サイヤさんのおっしゃる通りなんだと思います。

<4.日寛教学にみる三大秘法義の理論的開示の諸相>
http://sokaspirit.com/content-ja/pdfs/chapter04_jp.pdf

この論の大前提となるのが
本因妙の教主釈尊=久遠元初自受用身=日蓮
なんですが

「仏とは生命」から見返すと
あくまでも日寛教学の個別的な志向性ではないかと思います。

とはいえ何の志向性もなく「仏とは生命」と言うと
川を渡りたい人に対して「これは川です」と
言うばかりで川を渡る方法を与えないようなものです。

日寛教学は必要なんだけれども

じゃあハナから御書の「教主釈尊」の部分を全部
「日蓮大聖人」と置き換えて「これでよし」と
思考停止することが果たして

永劫に川を渡し続ける力強さであるのか?

その力強さの本質を考えるにあたって
日蓮大聖人は何を悟ったのかに
肉薄する必要があるのではないかと思う。

「恐れ多い」「従っていればいい」
というのでは、権威に対する服従であり
民衆の仏法と呼べるものでは無いと思う。

<斧節【onobushi】>真蹟主義について考える
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100123/p3

<斧節【onobushi】>佐前佐後と日蓮の悟りに関する疑問
http://onobushi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8511.html

<気楽に語ろう☆>他宗批判と諸教包摂ということ。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/02/21/060226

思考概念の上では
論を緻密にすれば緻密にするほど
迷宮のようでもあります。

であるならばむしろ
「こう習ったんだからこうなんだ」と
頑として動じないことの方が
前進に支障がない。

その場合のそれは
その論によって前進するのか
その魂によって前進するのか
両方が見事にマッチして前進するのかです。

論だけに固執した時
かえって失うものが無いかどうか?

本当の論の価値に気づけているか?

悩ましくも有難いと
私は思います。


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