いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


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[800] 仏法・大白法・正法光

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月22日(木)10時59分42秒   通報   返信・引用   編集済

永遠に絶対に滅しない個別は無い。
永遠に寸分も間違わないと確証できる個別は無い。
それは縁起の法からも言える。

人間革命二巻「光と影」より
http://kaidaten.hatenablog.com/entry/2015/12/27/001709
~君の経験でわかるように、無批判に信じるということは、恐ろしいことなんだ。世の中に、こんな恐ろしいことはない。間違ったものを信じると、人は不幸のどん底に落ちる。どんなに正直で、どんなに立派な人であっても、この法則に逆らうことはできない。~
~結論的に言って、日蓮大聖人は、一切の不幸の根本は、誤った宗教・思想にあると断言していらっしゃる。そして、究極のところ、正しい宗教・思想は、何であるかをご存じだったから、あらゆる迫害に屈せず、命をかけ、大確信をもって、お説きになったのだ。~

元々創価学会としては日蓮正宗が唯一絶対に正しい教えで
一切の不幸の根本を断って人々を幸福にする
というスタンスがあった。

しかし宗門の正しさも
学会本部の正しさも
儚い幻想として崩れ去っている。

自我機能の人情としては
ならば本当に正しい教えはどこにあるのかと探す。

大御本尊の疑義
凡夫即極の御書の疑義
日蓮本仏論の疑義
五時八経の疑義
法華経の疑義

そうではない。

崩れ去ってなお崩れ去らないものを知らねばならない。

「正しい宗教」と「間違った宗教」という絶対的隔絶があって
「正しい宗教さえ用いればいい」というのは崩れる。

そもそも「日蓮をもちいぬるとも悪しくうやまわば国滅ぶべし」である。

体感知こそが本質である場合
あらゆる個別の教義
言葉の上に現れている意味
思考概念の枠組みというものは
便宜的であり方便である。

検証可能な実際に起こることの体感知。
そこには宗教枠、教義の枠、思考概念の枠は無い。
文底の体感知を了解していくと
それは個別の所有者がいない。

どこにでもあり、誰でもがそれである。

表面上、いかに違うということが現れていても
最奥の「仏とは生命」の「妙法蓮華経」は同じである。

個人においても思想宗教においても。

その体感知をもって
「思想宗教の普遍の最奥」「神聖なものとの絆」「生命の不思議」
との関わり方、信じ方が思考概念だけになれば
二極分離となり、一切の不幸の根本になる。

信じるべき絶対の正しい宗教が固定的にあるのではなく
生命の最奥をどれだけ開くかどうかがあるだけなのだ。

三種の法華経(二十八品・一念三千・大御本尊)それぞれの
表面を見れば、その変遷を見れば、外的要因史実関係を見れば
一貫していないということが目に付くだろう。

しかし「仏とは生命」と呼んだそれは
本末究竟して等しい諸法実相があるだけだ。

絶対的幸福境涯と言って、戸田先生には絶対の体感知の確信があったのだ。
絶対に間違わない正しい宗教の組織が個別に永続的に存在し続けるというのは幻想である。

法華経を信じる。
法華経の行者。
法華経の非二元。

思考概念で読み取れば、意味は千差万別である。
同じ体感知の上には距離も時間も個別的所有者もない。

真如(無分別智)が来っている。
如来(仏)というものは、この非二元である。




[799] ビジョンと正反イメージ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月21日(水)13時27分57秒   通報   返信・引用

身体そのものが、本来は自然の光の延長そのもの。
法華経の思考概念で言えば、我が身宝塔です。
色香美味の我が身の禅定です。
妙法蓮華経です。

ビジョンは、分離を経験します。
イメージは、もたらされる誘導性の電磁的・量子力学的反応です。

在るという和合された光を分離して
一方に「正」を見た時、その対極に「反」あるいは「邪」を見ることが
色を見続けた時に補色の反作用がストックされるように
自身の内に不可避的にイメージ分離の発生をします。

自分を正としてみれば世の中はこんなにダメだ
世の中を正としてみれば自分はこんなにダメだ
ということが「見る」から「機能として自然発生」する。

本来引きずられる必要のないものに引きずられるから迷う。
「見る」→「機能として分離が自然発生」→「分離の所有者があって見ている」

「分離の所有者があって見ている」というのが三界の見方、凡夫の迷いである。
「分離が自然発生」する前の「見る」ということが悟りで所有者がいない。

見て発生した分離の目先の損得(肉眼)
見て発生した分離の全体の統括(天眼)
見て分離が発生することから離脱(慧眼)
見れば分離が発生する自然の法(法眼)
分離が発生する前の見る(仏眼)

各宗教の違いというものは
その宗教をやっている人が認識しているほど
はっきりとした違いはない。

分離は、分離があると思ってみている人にとってあるだけだ。

仏教という特別なものがあって
声聞・縁覚・菩薩のための法がそれぞれ別にあるように説いてきたけれど
そのような違い、分離というものは無くて
一瞬即永遠の一仏乗があるだけなのですよ。
というのが法華経であるとも言える。

一仏乗は一瞬即永遠に遍満する普遍であり
どんな人界の中にでも仏界がある。

だからそれを説く法華経が正でそれ以外が邪(肉眼)
だから法華経をもって全体を正しく統括する(天眼)
ただ全体の本質としての法華経になる(慧眼)
生命の諸法実相がある(法眼)
非二元(仏眼)

「創価だけ」「日蓮仏法だけ」を「特別に見れば」
自然の機能として必ず「これが正しい」「これは間違っている」
という分離が発生する。

特別に見るというのは自我機能によるもので
自然の機能として起こることは自己機能によるものだ。

個別があるという自我機能が先に来ることで
分離という迷いが生じ苦悩に引きずられる。

律動法によって自己機能が先にあることを意識すれば
色心不二の和合の世界の正法光である。

創価に、良いところもあれば悪いところもある。
個別として絶対が存在することは無い。

多くの人のところに体感覚知のためのツールとして広げ
実際の社会変革のための各分野の進出をしているが

体感覚知のためのプログラムが樹立できておらず
現場現場の思考概念によってなされ
内実が損なわれ、分離の世俗化が
思い込み信じ込みによってむしろ強化されている。

世俗化の思考概念を離れ、ただ祈る際
恩恵はあるが、指導者、授ける者の不在によって
世俗化にブレーキがかからず、恩恵に時間がかかったり
思考概念の固着が進むと得られなくなったりする。

後継者の不在、救済者の不在が問題である。

無上道であるとは言っても
最初の回復改善の恩恵、意識の変容は
それほどに時間のかかるものでは無い。

「初信の功徳」「新入会者の育成」

この時の、新入会者の信仰の体感覚知のプログラムが無い。
初信の功徳は自分で得るもので、あとは組織活動にどんどん参加させるだけ。

これでは、まともな信仰の恩恵で世界に平和や幸福をもたらすことは無い。

インドの聖者カルキ・バガヴァンのワンネスディクシャという体感覚知プログラムがある。
同時代現象の例としてあげるもので、これを推奨するものでは無い。
インド国内向けに6日間
海外向けに21日間のプログラムをしている。
http://joy-healing.jp/readings/special/59.html
http://joy-healing.jp/contents/deeksha.html

このプログラムの中では祈る対象は何でも良い。
実際の脳の変化、意識の変容を伴った永続的効果のある
宗教の枠を越えた悟りの体感覚知プログラムである。

バガヴァン氏の理想の理念と
池田先生が実際の行動を伴って訴えたことは
重なる部分がある。

法は諸法実相しかなく同じである。
<宿坊>法華玄義・序王 2  投稿者:体長1.3mの巨大猫
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70589

本当に若者に体感覚知のある教育をすること。
人間を育て、人間不在を解消すること。

個々に寛解、蘇生、奇跡の歓喜を味わいながら
全体の正法光への和合へ。

その軸を了解しなければ
池田先生が「道遠くてもそれしかない」と言った教育も
思考概念であらぬ方向に行ってしまう。

道理ではないか。

創価だから間違わないなんていう盲信は危険だ。
会長は偉いんですと言わしめる会長は間違いなのだ。



[798] エアビジョン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月16日(金)14時25分4秒   通報   返信・引用

光の三原色
http://juku-ru.com/gensyoku.htm
~「赤、緑、青の光を組み合わせれば、ほとんど全ての光の色を作りだすことができる」~

本当だろうか?
ちょっと嘘がある。

赤、緑、青では紫外線を認識できるカラスの視覚ビジョンは再現されないし
モノクロの視覚の生き物にはそのビジョンの再現には単色で十分だ。

要するに

人間が肉眼のビジョンだと思って認識しているものは
人間の眼球内の赤、緑、青の波長の受容器に依存した
作用反作用を元に高度に辻褄合わせ補完された
「人としてこう見るべき」という経験である。

虹の色を数える時、国によってその色数は変わる。
「人としてこう見るべき」という前提が変わるからだ。

大自然の中で生きる原住民は、
産業文明の中で生きる人が見分けられないような
微細な緑色の違いをはっきりと見分ける一方で
産業文明の中で生きる人が当然のように見分けている
カラフルな色を見分けられないことがある。

色の見分けは、
それを示す言葉と、体感と、実用とによって
その文化と、そこにいる個々人に定着している。

視覚は人間にとって
ひときわ特別な感覚である。

他の感覚(触覚・聴覚・嗅覚・味覚)と比べて、
分離が無い事を確認することが難しくなっている。

それだけ高度に視覚は
強固に個の自分があると思い込む
分離の処理がなされた上で
ビジョンを経験している。

鏡を見て、自分の右目を見る、自分の左目を見る
というように視線を動かす時
眼球が動いていることを認識しづらい。

視線が合っているということの辻褄合わせが
通常無意識下で実際の変化より優先されている。

スマホなどで画面側のカメラでやってみると
視線が少しずれる等で、自分の眼球の動きが見えたりする。

その経験が新鮮なうち、あるいは定着すれば
鏡でも自分の眼球の動きが見える。

他の感覚(触覚・聴覚・嗅覚・味覚)は

唐辛子の味覚の辛さとヒリヒリする痛覚の痛さは境目が曖昧である。
「ツンとする」というのは嗅覚なのか味覚なのか痛覚なのか曖昧である。
骨伝導という方法や低周波等の振動は聴覚なのか触覚なのか曖昧である。

「ツンとする」のツンを見せて下さいと言っても
一次的なそのものは示しがたい。

発生源となる元、それを味わった人間の表情しぐさ、ツンとするという言葉
それらが結びついているという経験の記憶によって
それらから連想することは出来る。

「識」というものは
体感の受容というものと
「べき」というものによって経験する分離の「想」というものを

橋渡しし、つなぎ合わせ、貫いている。

「想」が間違えば「行」が失敗する。

例えば階段を上り下りする時
段数を誤認識していれば
エア階段・エア地面に焦ることになる。

それはその時、実際には階段が無かったからエア階段だったと気づくだけで
「行」としては常に「想」によるエア階段を上るという段階を通じて
人間らしく左右の足を交互に使って階段を上るのである。

階段の一段一段に対する動作が
階段即是エア、エア即是階段になることで上手くいっている。

階段即是エア、エア即是エアになった時に失敗する。

「探求はこうあるべき」ということに
段階を登る結果が伴わないのはエア探求になる。

実在と違うものを信じ込ませるのは
エア信心である。

多くの人生はエア自分による失敗の連続でもある。
過小⇔過大な作用反作用のエア自分による不良不全。

優良健全な自然のままの実在であることが本来である。
そのブレズレの無い智慧が自受用身である。

特定宗教枠の思い込み信じ込みの上に築くのはエア自受用身である。
エア自受用身を信じれば失敗し不良不全になるのだ。

思い込み信じ込みの上でなく
自身の自然の実在と想とが即の関係になることで
エア即是自受用身になるのである。

そのあるがままの無作三身という結果を実際に伴うために
律動法が推奨される。

そこには、宗教枠は消える。

「気づいている」「体感」「ビジョン」「思考」「感情」
があるだけだ。

「ビジョン」を「思考」によって上書きしていけば
ズレブレによる不良不全の「感情」が大きくなる。

「ビジョン」に潜む「べき」を「体感」によって解除していけば
非二元の「気づいている」によってあるがままのあるだけあるだけがあるだけが・・・・・(無限)

「~になる」という完結ではない無上道の歓喜の中の大歓喜。

今回の視覚についての添付

<YOUTUBE>What Is The Resolution Of The Eye?
https://www.youtube.com/watch?v=4I5Q3UXkGd0
例によって設定→字幕→自動翻訳→日本語

↑は<人間の目の解像度は、何万画素?>
http://www.gizmodo.jp/2014/03/post_14178.html
より。

<子犬のへや>犬の目・視覚
http://www.koinuno-heya.com/zukan/sight.html#two

<YOUTUBE>錯覚-an optical illution- モノクロ写真に色がつく
https://www.youtube.com/watch?v=poHJWt_Tk6Y

↑は<ネコノヒゲ>白黒なのにカラーに見える!錯覚画像
http://nekonohige.minmike.com/shirokuro_color_sakkaku.html
より。



[797] 非二元の悟りへの短縮

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月14日(水)14時17分16秒   通報   返信・引用   編集済

妙法蓮華経安楽行品第十四 現代語訳より
「この世に存在する有形無形の一切のものを得ず 知らず見ず
これをすなわち名づけて 悟りを求める修行者のなすべき行動とする
一切のこの世に存在する有形無形の一切のものは 空であり存在しない
永遠でなく、また、起こることも滅することもない
これを悟りの智慧を開いた者の 親しく近づくべき場所と名づける」

空と言えば有名なのが
色即是空 空即是色であるが

直感的に置き換えてみる。

」即是「   」
「   」即是「



妙法蓮華経如来寿量品第十六 現代語訳より
「もしも、生命のあるすべてのものが、私の所に来たときには、私は仏の眼によってその信仰などの生命活動や感覚の原動力の利発なことと愚鈍なことを観察する。
相手に応じて道理を言い聞かせて理解させ、あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ、
またまたこの世に出現して、「仏の悟りを得た境地へ入りこの世を去るに違いない」と言い、また種々の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって深く複雑な教えを説いて、 生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせた。
諸々の仏法に帰依した男子よ、如来は諸々の生命のあるものすべての中で自己の悟りを第一とする教えを願っている福徳の薄い心身に宿ったけがれの多い者を見たときは、
この人の為に「私は若くして出家し一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得た」と説いた。
しかしながら私が実に仏となって以来長く久しいことは、この通りである。
ただ人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって生命のあるものすべてを教え導いて、仏道に入らせようとしてこの様に説いた。
諸々の仏法に帰依した男子よ、如来が演説する経典は、皆、生命のあるものすべてを迷いの世界から渡してそこから脱出させるためである。
或るときは自己について説き、或るときは他者について説き、或るときは自己を表現し、
或るときは他者を表現し、或るときは自己の事柄を表現し、或るときは他の事柄を表現する。
その言葉や演説は全て真実であって虚妄ではない。
理由は何故かというと、如来はありのままに、欲界・色界・無色界の三つの世界のそのものの内面などを表す姿・形・ありさまを正しく認識するからである。
出生や死亡など無く、もしくは老化もしくは成長、またこの世での存在および滅度も無い。
実在でもなく虚無でもなく、不変でもなく多様でもない、三界に住む者が三界を見るようなことではない。
このような事を如来は明らかに見て誤りが有ることは無い。」

欲界という「感情」の満足を求める世界
が欲しいは嫌だ)
色界という「肉体」の技術が磨かれる世界
をどんな割合で光らせればになるかの職人的技術)
無色界という「思い」を純粋に樹立する思考世界
は電磁波の波長の違いで、分光によって組成を知ったりできる真理探究)

これらは迷いの世界であって
この迷いの世界から脱出させるために仏は
その無始無終の寿命をもって
あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ
相手に合わせ、生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせる。

「どうしても『私が』悟りたいんだ」というストーリーを望んでいる者に対しては
「私はこんな風にして最高の悟りを得たんだよ」というストーリーを用意して説いた。

だけど本当のことを言うと、「   」の智慧は無始無終の寿命なので
仏は、「生まれた」「悟った」「死んでいく」ということは無く

■は■■は■■は■と気づいている意識がそのままで分離が無く

」そのままで「   」であり
「   」と言ってもそのままで「」なのである。

御義口伝 無量義経六箇の大事
「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」

「こうすれば悟れる」「こうすれば成仏する」というストーリーも
「悟ればこうなる」「成仏すればこうなる」というストーリーも

迷いがそれを望んで見ているのだ。

あなたが望むから仏は
あなたのために、あなたのためのストーリーを
構成しているのだ。

今、この瞬間も、その仏はあなたのために
あなたの歓喜のためを構成している。

その仏、南無妙法蓮華経如来はどこにいますか?

あなたが迷う限り
仏はあなたの迷いの中にいるのです。

開けば出てくるのです。

意味や理由より前の事です。
ストーリーよりも前、言葉より前です。

ただ「私」があるだけの
どこにも行こうとしない何かを変えようともしない気づいている意識。

全てのエネルギー変換の前のニュートラル状態。

それに寄り添ってみるのです。

正法光の律動法(アルベア法)
より純粋なエネルギーである気功のエネルギー変換を体感します。

自然な同時体験、同時体感なのです。

ニュートラルなエネルギーを意識の向け方・使い方によって
現象をコントロールする技術、不良不全を回復すると同時に

光への回帰、ストーリーの脱落、心身脱落でもあるのです。

自然の内の「」即是「   」 、「   」即是「」なのです。

ただ、3ヶ月続けてやってみれば歓喜へとリライフされます。

悟りへの探求は従来の意識解明の観察だけでは
思考の抵抗が強かったり
億劫だったり苦痛が多かったり
迷宮に入ってしまったり
そうとうの覚悟や悲しみ苦悩とか
よっぽどのタイミングのはまり等のモチベーションが必要だったりしますが

律動法はそれらを短縮・軽減します。

今回の記事に関連する非二元の探求の内容を添付します。

<気づきのダンス>悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

<YOUTUBE>非二元とセラピーの接点 溝口あゆかさん [悟りへの道]


<シンプル生命の詩>一瞥できる体感作りが律動
~全ての「概念の区分け」は、私がそう作って気づいているのだと
自覚していく事を自覚という。
(十界)

なぜ、そういう「概念の区分け」を生み出していったのかという
元をたどっていって最初の分離を置き換えてみるのを内観という。
(十界互具)

「概念の区分け」を外して「ただ不思議の中にある」「あるようにある」
という「ただあるだけの意識」で本質へと味わうことを観照という。
(諸法実相十如是)

「ただある本質」が、特別な別の事としてあるのではなく
どの単位においても、主体も客体もなく
そのままで改めることなく一は全・全は一の
不思議の動体であることを呼び起こすことを律動という。
(三世間)~



[796] 宿坊より代理投稿『自我偈解説』転載

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月10日(土)13時41分9秒   通報   返信・引用

<宿坊>宮川氏よりの代理投稿です。  投稿者:ダメよ~ ダメダメ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70253
~~これが法華経の心であり、大聖人の心、そして師の大慈悲です。
どのように不思議であろうとも、経文の一字一句が、絶対の真理と信じて読む時、
一念三千を、自らの内に得、全てが己身の出来事と分かります。
全てが自身の責任であり、全てが自身の思うまま━━━即ち、誰もが『自受用身』
=欲しいがままに受け持(たも)つ身であることが分かる事と思います。

これが成仏という事であり、それは歓喜の中の大歓喜の境涯です。

『自我偈解説』

私(釈尊)が仏に成る事を得てから、
これまで経過した時は無量百千万億載阿僧祇という想像も出来ない程、長い時です。
(その間)常に法を説いて無数億という数え切れぬ程、
たくさんの人々を教化して仏道に導き入れてきました。
そのようにして、今に至るまで数限りない時を経て来ているのです。
私(仏)は、人々を救おうとする故に、方便を用いて涅槃(死)の姿を現じますが、
実は入滅していないのです。

常に、ここ(貴方の側)に居て法を説いているのです。
私は常に、ここに居るけれど諸々の神通力に依って、迷いの衆生に対して、近くに居るけれども見えなくしているのです。人々は私(釈尊)が入滅したのを見て、
広く私の舎利(骨)を供養して、皆が私を恋い慕う心を持ち、渇仰する心を生ずるのです。
人々は既に信伏し、心が清く真っ直ぐになり、
心の底から仏に会いたいと念願し、その為には自らの身命も惜しまないようになります。
その時にこそ私は、多くの弟子(仏、菩薩、諸天善神)と共に、霊鷲山(貴方の側)に出現するのです。

その時、私は貴方に語るでしょう。
『私は、いつも貴方の側に居て離れることはないのですよ。
方便の力で入滅(死)の姿や不死の姿を現すのですよ。
又、他の国土で私を敬い、信ずる人がいるなら私は、又そこに出現して、その人の為に、この妙法を説くのですよ。

しかし、あなた方はその事が解らず只、私が入滅したと思うのです』と。
私は多くの人々が、苦しみの海に沈んでいるのを見ます。
それ故に、わざと姿を現さず、その人々に渇仰の心を生じさせるのです。
人々の心に仏を恋い慕う心が生じた時、私は姿を現わして、最高の妙法を説くのです。
(人々を救う為に姿を隠したり、現したりするという)私の神通力はこの様なものです。
阿僧祇劫という非常に長い間、私は常にこの霊鷲山(貴方の側)に居て、又、折に触れてその他の場所にも行くのです。

迷いの衆生が『世界が滅んで、大火に焼かれている!』と見る時も、
私と貴方の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界、人界の人々で満ちています。
そこには種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの豪華な堂閣があり、宝の樹にはたくさんの花が咲き香り、多くの実が生っています。

まさに、ここは善なる正義の人々が遊楽する場所なのです。
多くの天人達が種々の楽器で常に素晴らしく美しい音楽を奏でて、
天空からは目出度い曼陀羅華(天上界の華)を降らせ、それが私と貴方の頭上に注がれています。
私(釈尊)の浄土は壊れることはないのに、迷いの人々は世界が劫火に焼き尽くされ、憂い、怖れ、諸々の苦悩が充満していると見るのです。

この諸々の罪の人々は悪業の因縁によって阿僧祇劫という大変に長い時を過ぎても、
三宝(偉大なる妙法)の名を聞くことが無いし、私の姿を見ることが出来ないのです。
多くの功徳を積み、心が柔和で真っ直ぐな人は皆、私(仏)の身が此処に存在して法を説いているのを見ます。私はある時には、この人々に仏の寿命は無量であると説きます。
久しくして漸く仏を見た人には、仏には逢い難いと説くのです。
私の智慧の力はこの様なものなのです。

智慧の光は無量で、私の寿命も無数劫(永遠)なのです。
私は長い修行の結果として、それを得たのです。
あなた方よ!智慧ある人々よ!この事を疑ってはいけません。
疑いを永久に断じ尽くさねばなりません。
仏の言葉は真実であり、偽りはありません。

例えば、名医である父が巧みな方便で、本心を失った子供達を救う為に実際は死んでないのに、
死んだと言ったのを誰も嘘つきだと言わないように、私もこの世界の全ての人々の父であり、彼らの多くの苦しみや災いを救いたいのです。
凡夫は心が顛倒しているので、私は実際には、いつもこの世に居るのですが、彼らには私は入滅すると言うのです。

何故かと言うと常に私を見ていると、驕りや欲しいままの心を生じ、ふしだらで五欲に執着し悪道に落ちてしまうからです。私は常に人々が仏道修行に励んでいるか、励んでいないを知って、
どうやって救っていくべきかを考え、その考えに従って様々な法を説くのです。

私は、いつもいつも、この事を念じています。
すなわち、どの様にすれば貴方を無上の道(絶対の幸福の道、悟りの道)に入らせ、
速やかに仏身(金剛不壊の色心)を成就させる事が出来るだろうかと。~~



[795] 一念精進行

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月10日(土)12時13分10秒   通報   返信・引用

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790)
池田先生は若き日より、この「御義口伝」を身で拝し切る覚悟で、戸田先生の弟子としての戦闘を貫いてきたと綴られる。池田先生の一念である。池田先生の偉大さは、その一念による精進行を貫いたことなのである。

僭越ながら、この一念精進行を
思考概念の上から生命感覚になじませることを試みよう。

辛労と言うも、そこには難行苦行感・悲壮感は解除され
生命の自然あるがままの歓喜として蘇生されるのである。

辛労とはWeblio辞書より三省堂 大辞林によると
ほねを折ること。つらい苦労をすること。辛苦。 「長年の-が報われる」 「 -辛苦」 「前きに-せる一生の事業を空くして/経国美談 竜渓」 〔同音語の「心労」はあれこれ気を回して心を悩ますことであるが,それに対して「辛労」は実際につらい苦労をすることをいう〕

これが「つらい」→「心地よさ」 例)ランナーズハイ
「不安・疑い」→「安心・納得」に反転し

「生きている実感」を味わい「実存解明」されるのである。

一念三千そのものであることが
それ自体が精進行でもあるとなる、開かれるのである。

「一念に億劫の」とは「久遠即今ここの」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「常と云い無量劫と云う即ち本有所具の妙法なり所謂南無妙法蓮華経なり」(788)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「元初の一念一法界より外に更に六道四聖とて有る可からざるなり所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり今日とは末法を指して今日と云うなり」(788)
三世諸仏総勘文抄にいわく「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(0562-08)

「辛労を尽せば」とは「苦難(出禅)の中にも殉教精神即安楽(入禅)に至る自在の脈動を尽くせば」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「一心静なる時は入禅、一心散乱する時は出禅、静散即本覚と知るを悉く知るとは云うなり所謂南無妙法蓮華経は入禅出禅なり云云」(791)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「此の文は我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり」(789)
開目抄にいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(232)

「本来無作の三身念念に起るなり」とは「自らの心身の瞬間瞬間の、意味を伴う前の真如が、成仏の因である億劫の菩薩修行によって開かれた仏の果、自然のままの生かされている十如実相の起こりであることに、知識ではなく体感で気づいていくのだ。」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「自身の仏乗を悟つて 自身の宮殿に入るなり 所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(787)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「本来相即の三身の妙理を初めて覚知するを求無上道とは云うなり所謂南無妙法蓮華経なり」(789)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「色心幻化四大五陰元より悪習なり然るに本覚真如は常住なり所謂南無妙法蓮華経なり」(789)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「法界皆本来三諦一心に具わる事を顕せば己心の念念仏に値う事を即ち世世値仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経は是なり」(791)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「十界各各本有本覚の十如是なれば地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり所謂南無妙法蓮華経の受持なり云云」(791)
開目抄にいわく「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(234)

「所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」とは「いわゆる仏の不可思議な歓喜の法の動体蓮華の律動に帰命する智慧とは、混じりけの無い純粋清浄な無限の真如、動と光の生命現象の実存解明を実感し、持ち続け、伝播させていく歓喜の中の大歓喜の行動なのである。」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788)
池田名誉会長講義 御書と師弟 第3回 御義口伝と青年
http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20081225.txt
~精進の「精」とは「無雑」。混じりけのない信心です。「進」とは「無間」。絶え間ない前進です。~
<アルベアのブログ>「当体蓮華」は「動体蓮華」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371590.html
~「当体蓮華」の「当体」と書かれた言語状況と今日の言語状況とは著しく異なります。「当体」という文字情報により「脈動する身体」が生き生きと反応しないのです。「受け手」の文化状況が違うからです。しかし「動体」という単語に置き換えると【変換】「脈動感」が感じられるのです。感知できるようになるのです。このことを「名字即」と言います。~

繋げてみると
「久遠即今ここの」「苦難(出禅)の中にも殉教精神即安楽(入禅)に至る自在の脈動を尽くせば」「自らの心身の瞬間瞬間の、意味を伴う前の真如が、成仏の因である億劫の菩薩修行によって開かれた仏の果、自然のままの生かされている十如実相の起こりであることに、知識ではなく体感で気づいていくのだ。」「いわゆる仏の不可思議な歓喜の法の動体蓮華の律動に帰命する智慧とは、混じりけの無い純粋清浄な無限の真如、動と光の生命現象の実存解明を実感し、持ち続け、伝播させていく歓喜の中の大歓喜の行動なのである。」

もし、万法の現象の中心をここに出して見せて下さいと言っても
もし、現象を覚知して変革や導きをなす智慧の根源をここに出して見せて下さいと言っても
もし、宇宙の経験の中心をここに出して見せて下さいと言っても

万人が即座に「あぁ、確かにこれだね」というものを示すことは出来ない。

それは各人が自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入っていくための
観心という作業を実際にやってみなければ「これ」が解らないのだが

思考概念の世界では迷宮に入ってしまう。

経験している実際のままではなく
整理するための言葉の意味に囚われて実存とは別物になるからだ。

ただ律動法ということによって自然のままに
「これ」のありようそのままになる。

本来、これはこのままこれなのだ。

教えを信じるということは
方法を受け入れて実践してみるということだ。

実践によってそれが本当だと
生かされている実感が湧き実存解明に至れば

信じるも信じないも
偽らざる本当のことでしかないという受容
自然体へとなっていく。

注意しなければならないのは
どこまでが本人の体感知による受容で
どこまでが教えられたことの思い込み信じ込みであるのか

その当人ではなかなか気づけないということだ。

自然のままの体感知の受容に至るには
すべからく思考概念を外していって
本来無作の三身を了解していく。

仏の随自意は九界の側は
完全に受容をしてみるより他ない。

意図思惑・思考概念が入る分だけそれは
拒絶して疑っているのだ。

「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」
である。

思考概念を外す
――教えられてきたことを手放すのである。

それは元より辛い選択である。

開目抄は「法華経を信じれば安楽になる」という思い込み信じ込み期待依存を手放した時にこそ
本当の仏性による安楽が自然に開かれるのだということであり

受難即安楽なのである。

もし、究極の信心というものをここに出して見せて下さいと言っても
万人が即座に「あぁ、確かにこれだね」というものを示すことは出来ないが

開かれた時には
「これ」そのものが自然のままに
信心それ自体であり

無作三身とは「これ」それ自体である。

「これ」に気づいているということが
自在の受けて用いる智慧、報身である。

御本尊は、気づいているということの証明である。

それ自体である時にはそれ自体である。
それは己心の法に気づいているのである。

その真如に主体と客体は無く
一身即三身である。

その一心を見れば仏であり
「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)
なのである。

完全な受容は、生命に対してであり
言葉の意図から教えられることを手放して
ありのままになるのだから
言葉を変えれば完全な能動性でもある。

言葉の表裏、二元性は
二者関係の中に分離として生じているのであり
本質は非二元の「これ」だけである。

サイヤさんのブログ<SOKA2015>信心の深化
http://macska2012.blog.fc2.com/blog-entry-54.html
~何が大事と云って「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」との御文の通り、仏になること以上に大事なことは無い~
~変な譬えかもしれませんが、男性が自分が男であると決意することは無いでしょう。(一部ゲイとかバイとか呼ばれる方を除きます)男であることは当然のこととして自覚しています。これと同様に広宣流布が自らの使命であることが、自分が男であることと同様に、当然のこととして自覚されるようになるのです。~

<アルベアのブログ>「対象化」「モノ化」「擬人化」すると「固定観念」に変換されてしまう
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371561.html
~依存・期待すると、ますます対象として固定化されてしまい「脈動している現象」が覚知できなくなるのです。信じれば、信じるほど反転する現象がもたらされてしまうのです。「疑わざるを信という」事が「信じる事」と言う意図となり反転してしまうのです。「疑わざるを信」とは「自然であること」が本来の意味なのです。~

<アルベアのブログ>「体感すること」心身の不適応者の話から
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371642.html
~現代人の「体感音痴症候群」は偏差値が70以上、IQが160以上あっても関係ありません。このことに薄々気づいていたのが「死ぬ瞬間」の著者で知られているキューブラ・ロスだったのです。~

<シンプル生命の詩>知能から智慧へ
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/18015134.html
~知能というものは
平等でないことにストレスを感じる能力であり
知能が高いということは
より些細な事にも不平等を感じられるということだ

智慧というものは
むしろ違いを愉しむ工夫であり
智慧が豊富だということは
より些細な事にも愉しみを見出せるということだ~

<宿坊>話題と関係ないですが  投稿者:多華果
http://6027.teacup.com/situation/bbs/55026
~東大話法規則
 1)自分の信念ではなく、~

<白樺教育館>東大病 ‐ 「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm



[794] 意味連関 味わう体感知

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 8日(木)14時22分21秒   通報   返信・引用

<宿坊>「生命」に学べ、妙法蓮華経に学べへの考察!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70048

<宿坊>「思い出す」への考察!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70107

<宿坊>今此三界  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70128

<アルベアのブログ>「思考・概念」⇒文系的思考・理系的思考・体育系的思考
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12281785000.html

<アルベアのブログ>「現象がある」⇒「言語が生まれ」⇒「思考が生まれ」⇒「概念」が誕生した。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12281781168.html

概念連関から思考・言語、そして現象連関へ、
その生命を味わっていく体感知。

この掲示板の内輪話になりますが、思い出すと言えば
「てぃーてぃーてぃー」を思い出します。

ライディーン違いの思い出。

元は戒壇の大御本尊の印象の話からでしたね。

<youtube>勇者ライディーン OP STEREO
https://www.youtube.com/watch?v=2i-s6cXI2Vg

↑↓
<youtube>YMO 雷電 (TV ver)
https://www.youtube.com/watch?v=ofyn-SPNV5Q

「てぃーてぃーてぃー」という言葉だけから
びびっと雷電のように思い出しつながる。
片隅にある記憶の呼び起こし。

勇者ライディーン OPは
この板のタイトルの元になっているレインボーマンの
アニメ版のOPを見るとどことなく共通点もあるようにも思う。

<youtube>Rainbowman OP
https://www.youtube.com/watch?v=Ukw8HMaJCIA


<歌詞タイム>勇者ライディーン
http://www.kasi-time.com/item-35482.html
<うたまっぷ>行けレインボーマン
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=T00609

<宿坊>御本尊一覧  投稿者:ROMですが…
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70046



[793] 意味連関 法界と自身

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 6日(火)13時18分34秒   通報   返信・引用

<宿坊>日蓮仏法2.0さん  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69918
~「意味」として私たちは「御本尊」を「御本尊」としていると言えるのではないでしょうか。「境地冥合」とはその「意味」の合致です。「意味連関」です。ここで大切なのは、というより根幹となるのが「信じるに足る」ということです。私たちは「信」をもって「御本尊」に向かっています。~

この内容から触発を受けて↓の投稿

<宿坊>法理から智慧へ  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69972

議題は意味関連じゃなくて意味連関だよと指摘が入る。↓

<宿坊>意味連関!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69979

その中で御義口伝が引用される。

~法華経序品第一の始に「如」の字、普賢菩薩勧発品第二十八の終わりに「去」を置かれていることの御義口伝に次のようにあります。
 「去は開の義 如は合の義なり 開は分別の心なり 合は無分別の意なり、此の開合を生仏に配当する時は合は仏界 開は衆生なり、序品の始に如の字を顕したるは生仏不二の義なり=中略=如去の二字は生死の二法なり、伝教云く『去は無来之如来無去之円去』等と云云」(御義口伝782㌻)。
 如の字は一切法是心の義 去の字は心是一切法の義なり、一切法是心は迹門の不変真如なり心是一切法は本門の随縁真如なり、然る間・法界を一心に縮むるは如の義なり 法界に開くは去の義なり三諦三観の口決相承と意同じ」(御義口伝782㌻)~

<宿坊>連関・・・!  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69990

それを受けて再考察。

~創価の三代の会長は現代に難を呼び起こし
大御本尊信仰の上にリンケージさせた。
その合の仏界としての大御本尊がある。
その智慧を開いて社会を変革する創価の信心であった。~

~法界と自身・御本尊と自身・師匠と自身
その間に何も挟まない信心の血脈。~

こう来た。
御義口伝を開いていって
自然の流れから紡がれた言葉だ。

法界と自身?新しい気がする。

<SOKAnet 教学用語検索>法界(ほうかい)
「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。

要するに「自分が変われば環境も変わる」

苦しみの界にあったとして、誰かが変えてくれるものでは無く
本質は自身の事として変えていくんだということ。

法界と自身、言えなくはない。

しかし、法界と自身・御本尊と自身・師匠と自身
その間に何も挟まない信心の血脈。

こう並べると、その位置付けが・・・?

しかし妙に、あぁ!そうか!
というものでもある。

教義も史実も一旦おいて
本来の創価生命感覚の上で置き換えてみる。

師匠とは総じては一切衆生を善知識としていくこと
別しては創価三代と意を同じくする同志
肝要は池田先生

間に何も挟まず帰依する僧宝。
僧宝は本来的には自分が実際に所属する組織、僧伽。

法界とは総じては宇宙森羅万象の縁起の法
別しては法華経の一念三千の法
肝要は南無妙法蓮華経

間に何も挟まず帰依する法宝。
ただしこれは、理解の上や
特定の対象物にあるものではなく
今ここという法界それ自体。

御本尊とは総じてはあらゆる思想宗教哲学に紡がれた叡智
別しては日蓮己心の正宗分の智慧
肝要は久遠元初自受用報身の大御本尊

間に何も挟まず帰依する仏宝。
法を法として認識するための智慧。
仏界が仏界としてもたらす慈悲。

師匠へは自覚
御本尊へは内観
法界へは観照

それによって通じていく。

その気づいている意識の上で
非二元を体感覚知していき
三宝一体がただあると了解する。

受け取り手次第。
どう感じるのもあなたの生命現象です。

己心に十界を観る内観の智慧。
一切のことは序分流通分になる。
観心本尊抄の通り。

あなた自身の生命現象の体感覚知をしていくのです。

気づいていますか?
あなた自身が南無妙法蓮華経であることを。



[792] 諸法実相 如是力 如是作 相関図

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 2日(金)20時26分12秒   通報   返信・引用   編集済

<諸法実相 如是力 如是作 相関>
:┏━━ 如是 本末究竟等 ━依報┓:
:法 ・ 空即是↓ 帰 ↑九識 ・・ 国:
:界 法┏→ 正┳ 色 ┳━━ ┓十 土:
:┃ 力┣→ 業┻ 法 ╋光明 ┫界 ┃:
:┃ ・ ┣ ┻応┻ 衆・ ┃:
: 浄 信・縁 生:
: ・ 力・起 ↓:
:行 ←━→ 識 ←━→ 受:
(中)経↑ 行・想 ↑・如 如・(仮)
:┃ ・無 力・起 ┃煩是 是・ ┃:
:┃ 慈明 ・報・ ↓悩報 縁仏 ┃:
:律 悲┗ 正報━ 想 ←心法 ┛力 対:
:動 ・ ・智慧↑ 命 ↓色即是 ・ 境:
:┗ ━━━ 如是 性 (空) 妙━━ ┛:

この図はニュアンスでしかない。

是の如くというのは
言葉の概念の中に探すものでは無く
気づいている意識そのものだということだ。

余分な思考概念を折って伏せて素直に観心をする。

己心に十界を観ることで智慧を湧かせる。

一念三千のウィキペディア
~因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義の文を見て、その文字の中に不二法門に入り、一心三観の観法を開悟会得し~云々とある。

因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義とは
因縁によって生じたもの、これは空であり、これは仮であり、これは中である
というようなことだ。

雲のごとく水のごとく: 道元・その人と教え(P76~130) P121

このリンクの前後を読めば
円教というものがいかなるものか
なんとなく分かるだろうか。

これは法理の探求である。

思考概念で説明を求めれば
どんどん複雑になる。

律動法によって
シンプルに腑に落ちるという
探求の終わりを早めることが出来る。

複雑さではない
これのままが
ただある。

~仏の成就(じょうじゅ)せる所は、第一の希有(けう)なる難解(なんげ)の法にして、唯(ただ)、仏と仏のみ、乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究(きわ)め尽くせばなり。謂(い)う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり~

その上で
「一念三千の法門は、ただ、法華経の本門、寿量品の文の底に沈めたり」
ということが

実現されていくところが
法華経の非二元である。



[791] 空~縁起→五陰→九識→十如是~

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月31日(水)12時44分46秒   通報   返信・引用

空を中心に考えていくと
実に複雑に見える仏法も
シンプルに理解していくことが出来る。

一念三千の要素、十界・十如是・三世間のうち
その概念が最後に成立しているのが十如是である。

なにせ法華経原典には無く
鳩摩羅什が漢訳する時に編み出したものである。

仏法の発展においてそれが
空を中心に、それを純円一実のものとする方向に
あるのかどうかを順を追ってみよう。

まずは縁起(ウィキペディア)を見よう。

「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」
これは二者関係の真理を見れば無我であり無分別・非二元であるということだ。

そしてそれは
「わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり」
自然の法・天然の法である。

だが
「およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである」
というところからは虚無を感じたり、全てを滅する行に向くかもしれない。

この時点では所詮は
「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」
という、各別された仏の特別な悟りであり、弟子はそれよりも低い悟りを目指すことになる。

その無我の悟りを得られるよう自身の内を見ていく方法に
五陰(五蘊・ウィキペディア)がある。

これは一個人の生命現象の内観であり、一念三千からすると
三世間の内の一つの部分観ということになる。

第七識をもって悟りとするような方向だ。

釈迦の悟りは九識だけれども
弟子は七識を得させてもらって満足する。

九識の段階を上げて八識以上の視座から五陰を見ていくと
個人という枠に留まらなくなっていく。

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

我々は現象を直接には見ていない。
にもかかわらず現象を見ていると思っているからそこに分離が生じている。

実際には五官によって受容された経験の五識を味わっている。
特殊な意識の使い方をしない限り見えるものが見えるし聞こえるものが聞こえる。
その時点で、特に意識しなくても人を見分けたり空間把握したりしている。
実際そのものではない仮の世界(仮諦)を経験していて
その経験から対象(音・色・味・匂い・感触)を分離して取り出すことは出来ない。

実際に取り出して示すことは出来ないけれども
六識の意識のイメージの中に再現・想起させることは出来る。
この想起されたものはどこにあるのかというと
空の世界(空諦)の中にあるのである。
この空諦の働きが乱れていると煩悩となり
強く差別を感じて苦しみを生む思考概念となる。

行は本来は自然・天然の電磁的・化学的・量子的な反応である。
暑い→汗が出る、酸っぱい→唾液が出る、興奮→鼓動が高鳴る等。
ここに煩悩からの意図思惑が強く働くと不良不全をきたしていく。
不自然・非天然を選択していくことになるからだ。
そういう道理であり法の働きである。
この自然の法に対して無我であるところが
無意識の七識となり、その中道の覚知が中諦になる。

無我の中道の法であると、色というのは個人の肉体でなく
宇宙のダイナミックな業の流転となり
それは常に蘇生・循環の働きであり
良いも悪いもないという無記になる。
この八識の覚知から現実の世界の中で
法のため人のためにいくのが菩薩道となる。
しかしそれだけでは延々と終わらない歴劫修行である。

そこで純円一実への視座の上昇が必要となる。
それを成すところが十如是の説かれているところとなる。
理の上での九識への視座の上昇である。

仏と仏だけが知っている実相は
「是の如き」なんだ。

は????

もうそんな風に言われたら
思考でいくら追い求めたって仕方がない。

余分な思考概念は折って伏せて素直になる。

今ここのあるがまま
自然の法・天然の法になりきる。

ただ律動と共にある。

その方法が唱題行でありアルベア法である。

そこに本門寿量品の如来の知見
正法光への飛翔がもたらされていく。

それが九識の視座になる。
それは真如(非二元)である。



[790] 空という真理

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月30日(火)13時26分10秒   通報   返信・引用   編集済

およそ仏教において本来は
「空」というものを中心にして考えなければ
その判別も、その真髄も無いと言える。

「空」自体は仏教の中で一貫して同じであるとも言えるし
やはりその教判によって違うとも言える。

<YAHOO!知恵袋>仏教大論議53 「小乗の空」と「大乗の空」とどう違うのか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1270716957

教判の側のアンサーがやや正確性に欠き
ベストアンサーを逃している。

五時八経というものが、史実とは違うという観点から
しばしば今日では無用のものだという論が展開されるが

五眼三身のステップアップの観点から
教判としての五時八経は意味を失わないと私は思う。

五重の相対の観点は史実とマッチさせていくことが出来る。

その点の整合性がきっちり説明されれば良いだけだと思う。

<日 蓮 正 宗 入 門>という個人HPの
1.釈尊一代の教え・・五時八教
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_2.htm

この内容をソラで言える学会員ってどれくらいいるだろう?

私自身、五時は言える
化法の四教は見れば、あぁこれね
化儀の四教は、こんなだっけか

そんな感じでもある。

<ウィキペディア>教相判釈←これも見比べれば補完されると思う。

さて<日 蓮 正 宗 入 門>「1.釈尊一代の教え・・五時八教」の説明の中で
~~円教(えんきょう)とは、宇宙法界の一切が円満に融合し、不可思議な当体であることを明かした教えです。
 円教では、空・仮・中の三諦は孤立することなく、一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて、一諦即三諦・三諦即一諦の関係が説かれています。 これを「円融の三諦」といいます。~~

~~なお、円教の理は華厳時・方等時・般若時にも一応説かれていますが、蔵・通・別の方便教と混合しているため、純粋な教えではありません。このためそれらを「爾前の円」といわれています。これに対して、法華経は純粋に円融円満の教義が明かされた教えであり、これを「純円独妙」といいます。~~

アルベア論で「まとも」と紹介されている非二元者のそれは
三諦別個の空ではなく円教的な無分離ではないかと思う。

観心とは観空でもある。

その意味から言うと
観心の本尊が

宇宙法界の一切が円満に融合した不可思議な当体でないわけがない。

しかるに日蓮正宗が創価学会にした批判を見ると
「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」
というようなことを「法勝人劣の邪義」だという。

http://www.correct-religion.com/ryouran/html/souka_2.html

それって「純円独妙」の法華経を否定し
正法を誹謗しているんじゃないのかな
と思う。

それを引き起こしているのが
唯授一人血脈付法への執着ではないかと。

我が身宝塔
己心の法
己心の仏性

それが日蓮大聖人ただ一人の専売特許
唯授一人血脈付法の御法主上人猊下だけの内証。

そんな仏法ではない。

御書にも数多くある。
己心の外にあると思えば無益だと。

三諦は、「誰でも」今ここにあるその経験を
思考概念ではなくダイレクトに見ていくと
そうであることが了解されていく。

それを見るためには
思考概念の癒着を解くことが必要になる。

その方法が自己機能の活性化だ。
知識の詰込みが仏法を深化させるのではない。

ただあるということに寄り添うのだ。
今ここに歓喜を湧現させていくのだ。



[789] ??

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月29日(月)13時24分29秒   通報   返信・引用

人法一箇について

<宿坊>松戸様へ  投稿者:一人のSGI
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69508
~この本の着眼点の根拠は、大御本尊信仰=日蓮久遠本仏信仰からの脱却を目指すというものですね。
つまり、世界にひとつの偉大な大御本尊、宇宙に一人の久遠の本仏、という、「ひとつだけ、ひとりだけ」というのは違うのではないか、、と。

言葉を変えて言えば、御本尊自体が秘めている普遍の価値と、大聖人も偉大な一人の凡夫なのだという真実を突き合わせて、御本尊と大聖人を
再解釈し、凡夫の私達の手に取り戻そうという試みだと言えますでしょうか。
そういう観点は私も同意します。~

悟りというものの探求
自己機能の活性化→意識機能の観察

→諸法緒論の蘇生→智慧の技化

→正法光の飛翔と救済

仏とは何か?
→非二元の覚知

本仏とは何か?
→一切の仏が師とした法華経の非二元
一念三千の慈悲からの救済

日蓮大聖人は末法の御本仏か?
→末法の御本仏を求める末法の衆生が
日蓮大聖人を末法の御本仏にしている

末法の衆生は何に従うべきか?
→正法光からの智慧
(所持者・主体者は無く権威は生じない)

正念とは何か?
→正法光を恐れない抵抗値の無い受容

正法光とは何か?
→正法の光

正法とは何か?
→非二元

非二元とは何か?
→深く意識の在り方が覚知された九識の真如

南無妙法蓮華経とは何か?
→法華経の意識体を通した
九識の真如からの救済

文字曼荼羅本尊とは何か?
→法華経の意識体を通した
救済の冥合のところ

折伏とは何か?
→正法光への抵抗を減らしていく救済

<気楽非活>「折伏」の用例。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/29/002055

大御本尊とは?

→→

ここに述べたことの全て
大御本尊を否定しない意識体による
ストーリーであって
生命それ自体・非二元それ自体ではない。

非二元からの否定する必要がないための
ストーリーでもある。

一切の権威ではなく
非二元の正法光において
否定する必要はない。

一は全、全は一。

否定しないと言いながら
実は全部の意味付けを否定してもいて
それでもやっぱり否定される存在は無い
とかいいながら存在は否定されて
気づいている意識だけがあるとも言えるし

まぁ、意識っていうものが
まずはどうなっているのかです。

それがなければ
本当の救済などないということが
それによって了解され

そのことのためとして再展開
蘇生という方向をもたらすのです。

美辞麗句と真実は見分けなければならない。

意味だけの意味なのか
実在の正法光の体感覚知なのか。

アルベア論は今、
必要なこととして
救済の気づきのためにあります。



[788] 欺瞞

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月27日(土)14時23分22秒   通報   返信・引用   編集済

「友好活動」って何なんですかね。

<気楽非活>選挙支援活動の欺瞞。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/25/060008

話しはちょっと変わるけど例えば

スポーツ振興会というものがあったとして

スポーツをすることの心身への好影響を学ぶ。

そういう研究のデータを集めたりして
どうやって行こうかと会議を重ねる。

やがてスポーツの振興ではなく
スポーツ振興会自体の拡大と権限の強化に向かっていく。

野球はこういうふうにしなさい
サッカーはこうやってやりなさい
相撲はこうでなきゃいかん

そういう力が増す。

そこに利害が絡んで
各種企業団体と癒着が起きる。

スポーツ振興会の会員を利益のために使う。

我々はスポーツの振興によって健全な世界にしていこうとしていたはずなのに
全然違ってしまっているじゃないかと会員が不満を言い出す。

スポーツ振興会の反逆者として処分される。

一人になって
地域にスポーツのクラブでも作って
本来のスポーツの振興に貢献する。

そんな一人ひとりが集まって
交流を図ったりする。

スポーツ振興会からすれば
反逆者の集団。

なんだかね。

それってすでに
スポーツ振興会の目的って変わってしまっているよね。

創価学会は今
日蓮仏法を基調とした団体で
居続けられているのでしょうかね?

仏法の体感・体験に溢れているのかどうか?



[787] レッツ ハンドシグナル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月25日(木)12時55分9秒   通報   返信・引用

ポルナレフ教官の
円融円満法レッスン動画。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/17525394.html



[786] 四聖活

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月21日(日)10時51分26秒   通報   返信・引用   編集済

私が思うに本当の脱構築とは
「絶対的な正しさが存在しうる」という
分離を離れることだと認識する。

正しさを追求しようというマインドにとってそれは
自分が特別に悪いものだと認定され
排除されるような危機感を抱き反発する。

相手を打ち負かすなどして
正しさを保存・強化し
それが正しいことであると同意を求め
偏った正義の理念を構築していく。

「強くなりたい」「分かってほしい」「認めてほしい」
そういった不足感があり

嫉んだり謗ったり怒ったり

勝つと決めて努力を開始しても
それは善にも悪にも通じ
臆病から脱しきったわけではない。

正しさが単独で存在することは無く
間違いを間違いだと発見し指摘するから
それを指摘している自分の側が正しいという
二極性を仮に設定しているだけだ。

唯一絶対に正しいものを構築しようとすればするほど
それ以外のものは悪として構築されていく。

正しいものを認めてもらいたいと願うほどに
自分は悪い世界の中を生きているのだということになる。

脱構築は構築を根本的に否定しているわけではない。
構築という前提が無ければ脱構築は無く
そのどちらが正しいのかということも互いの相互作用だと
止揚しうるための技術として脱構築があるだけだ。

六道の渦中の自我を離れることで
六道の世界・自身の内の六道の機能を
同時に俯瞰していく技術。

仏法の捉え直しを言っているのだ。
誰の生命をも否定していない。

六道から離れる技術であるためには
習って再現することが出来る必要がある。

唱題行やアルベア法(アルベアのブログ)や
パンツマルミエ法(円融円満法[564] [566] [567] [569])
各種瞑想法や呼吸法やヨガ等

考えてもバカバカしく思えるのは
そもそも考えるためのものでは無く
やってみるためのものであるからだ。

頭で考えると難行苦行である方が効果が高いように思い
自分を追い込むように行を行おうとするかもしれないが
誰でも簡単・楽ちんに出来ることの方が即歓喜につながっている方法である。

自身の心身の不良不全が改善する。
これを味わっていくことでその法を了解していく。
こちらに起こることは向こう側にも起こせるという気づきがもたらされる。
求道者から救済者への反転が起こる。

そうするとストーリーではなく
今ここの現象として
ただあるということで
奇跡・蘇生・復活の存在であることに向かっていく。

始まりも終わりも
あらゆる分離も無くなっていく。

善悪無記よりも静かな
その通りでしかない黄金の歓喜の世界。

九識心王真如の都。

本尊というのはそれである。

このことを言われてマインドがうるさく言うのは
それは全て思考概念のストーリーではないですか?

その思考概念・感情情動は誰が作っていますか?
あなたではないですか?

なぜそれを作ったんですか?

最初の最初の想い。
本当はどうしてほしかったんですか?

その時の相手の立場に立ってみて考えてみて下さい。

本当はどうしようとして
どんな想いでいたのでしょうか?

全部全部、あなたが作っているのです。

あなたは今でも生かされているのです。
どんなに間違いを上書きしても見捨てられていないのです。

全ては受容という現象化
全ては受容されているのです。

マインドを鎮めて下さい。
ひたすらただあってみてください。
新しい息を吸い
古い息を吐きだしてください。

あなたは本当に欲しいものに
あなたの意志で直接向かって良いのです。

世界の大転換です。



[785] ふでをすすめる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月20日(土)11時37分46秒   通報   返信・引用

松戸氏の日蓮仏法2.0であるが
順に読み進めようとすると凡雑だと感じ
なかなか読み進まない。

私、読む側の書を読むということへの力不足もあるが
松戸氏本人も、そこのところは凡雑になっている
と認めているところもあるようだ。

そこで、ご本人と絡んでみたり
他の人と絡んでいるところを見ながら
言っているところを抜き出して読んでみると

なるほどなるほど
面白いという印象も受ける。

私にとっても、考えを深める契機にもなる。

<宿坊>不二の仏法と不二否定の権威  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69048

共通する部分を見ようと思えば
共通する部分は多いのだと思う。

凡雑にはなっているが、それだけ
長年にわたって多くの議論を経験してきたからでもあるようだ。

松戸市のそれは論議の上から(単に論理ではない)
本当の南無妙法蓮華経に向かっていこうという傾向

私のそれは法理と体感の上から
本当の南無妙法蓮華経の中身を示し促そうという傾向

(と書くと主観の思考概念なので
本来そういう違いは無いのかもしれないが)

があるかもしれない。

今後の展開も深化の意思を持ちながら
観照・俯瞰していこう。



[784] 後世の造立

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月15日(月)15時04分33秒   通報   返信・引用   編集済

戒壇の大御本尊は後世の造立であるということについて
その論拠となるところを確認してみよう。

端的な結論としては
日禅授与本尊の主題を写し取り
板に合わせてその他の相貌が配置・書写されている。
<youtube>犀角独歩 大石寺「本門戒壇の大御本尊」を検証する①
https://www.youtube.com/watch?v=bIspyPbyfiQ

例えば、インターネットでIPアドレスが一致していれば
同一人物であるとしか考えられないように

主題の文字が完全に一致しているなら
そのまま写し取ったものとしか考えられない。

絶版となっているが金原 明彦氏の
日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実には
多角的に資料によって検証してある。

(所持している人と知り合う機会があったので
読まさせてもらいました)

例えば「経(經)」の書き方について
弘安二年十月十二日であれば
日蓮大聖人の筆は「つ」の形になっているべきところが
戒壇の大御本尊ではそれより後の「ツ」の形になっている。

く 一   く 一
く つ   く ツ
不 土   不 土

また、その他相貌も比較検証すると
弘安三年三月から同八月までの本尊であることが導き出され
弘安二年十月十二日という日付と一致しない。

弘安3年5月9日の日禅授与の本尊を
書写した相貌であるとしか立証されようがないのだ。

ここで留意しておきたいのは真実を知った上で
例えば金原氏は信仰の対象として再評価しようという
その姿勢があることである。

少なくとも創価三代の会長は
(教学レポート・遠藤文書から池田先生は
大御本尊の事はいじってはいけないとされたことが真実であるなら)
戒壇の大御本尊への信心を貫いており

創価学会の信心は、そこに連なっているのだから
簡単に放棄するべきものでは無い。

さて、それでは戒壇の大御本尊は
いつ誰が何のために造立したのか
ということになる。

戒壇の大御本尊は正面から見て、ただ縦長の長方形ではなく
下部に台座に取り付けるための束になっている構造があるという。

日蓮大聖人の御真筆の本尊が丁重に秘蔵されるものだとして
対してこの楠の板曼荼羅は即座に信徒が目通りできるものとして
法華講衆等(戒壇本尊の腰書きにあるが日蓮大聖人御在世時には確認できない)
の信仰心からの供養によって造立されたのではないか

そうすると元来は、弘安二年十月十二日という日付は真筆だと偽るためではなく
もっと別の意味、本来の『聖人御難事』の「余は二十七年なり」
二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃える純粋なものだったのではないか。

参照<気楽非活>「余は二十七年なり」って。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/12/31/001320

時期について金原氏の推察によると
戒壇の大御本尊の他に二体のみ存在する楠板本尊との
関連性から考えて応水十九年(1402年)を下限
日時~日影の時の造立であろうということである。

さて、戒壇の大御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」
と書かれているのであるが
「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
という日興門流の教義に即しておらず

元々はそのような日蓮大聖人の真筆の
生身の日蓮大聖人の当体というような
肝心の中心の御本尊として造立されていない。

日蓮正宗の御本尊は『御本尊七箇相承』に適うように
書かれているが、これは日興上人・日目上人の在世以後に
作られたものだと思われる。

<気楽非活>『御本尊七箇相承』から考える。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/12/001857

一方で日興門流において「仏滅度後二千二百三十余年」
への「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
というような教義は戒壇の大御本尊が造立されたであろう
時期よりも早くから見て取れる。

<気楽非活>興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/12/060620

七箇相承に関しては金原氏の著作には無く
私の考察である。

金原氏の研究によると、
日蓮大聖人滅後の日興上人の足跡を見ても
身延に相承された大御本尊があったとは
見ることが出来ないという事実を浮かび上がらせている。

日蓮正宗では「唯授一人の血脈相承」というが
少なくとも史実の上では
日蓮大聖人から日興上人への
あったとされる相承に
戒壇の大御本尊は含まれていない。

日興門流における「奉書写之」とは
戒壇の大御本尊を書写したということではなく

単に「これは書写した御本尊です」ということ。

日興上人が手本として書写した御本尊は
複数実在が確認できる。

さて、二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃えた御本尊を信仰の中心とし

『御本尊七箇相承』等によって本尊の雑乱が防がれ

日蓮大聖人に元々無かったわけではない
本覚の思想が具体的に組み入れられ
末法の御本仏日蓮大聖人と立てた宗派の中で

現実の上で投獄されながらも国家諫暁し殉教された初代会長。
共に投獄され、本覚の本質を体得された二代会長。
一閻浮提総与の世界への広宣流布を実現していった三代会長。

ここには必然性、
これでなければならなかったというものもある。

その意味が果たして
戦後昭和の日本において
一定の役割を果たした

というようなものに納まって良いものかどうか。

今再び、日本は戦争できる国を視野に入れた方向に
舵を切っている。

本来、創価学会として最も大切にしなければならない部分が
今、全く真逆のことを会長を中心とした執行部を先頭にして
進められている。

「立正安国」の精神は
どうした時に最も息づいているのか。

宗教を個人の観念論に終わらせず
実際の平和勢力として蘇生させていく

誰かがやってくれるだろうでは
どうにもならない。

自分がやると決めることだ。
やると決めるから力が得られるのである。

信力行力仏力法力の全てをもって
成し遂げていくのである。



[783] 狂信・狂行・狂学

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月13日(土)12時14分30秒   通報   返信・引用

<2003年度任用試験のために>信・行・学
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/3390/ninyo/sin_gyo_gaku.html

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361㌻)

~信は信受ともいいます。教えを信じて受け入れるということです。自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道が信なのです。~

~正しい法理を学ぶという、この教学の研鑚がないと、ともすれば我見という、自分勝手な理解に陥ってしまう危険性があり、また誤った教えを説く者にだまされてしまう恐れがあります。~

信・行・学と区別し別個のものというような認識があるかもしれないが
それらは別々にどれかあれば良いのではなく、本来一体でそろっている。
その信心において、「行者として学ぶ」ことが無ければ
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道を示すことは無い。

正しくその信心において、「行者として学ぶ」ことが有れば必ず
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道の中にいる。

折伏をすれば難が起こるのは道理。
「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」
である。

信者として学ぶのか学者として学ぶのか行者として学ぶのかは違い
一生成仏へは、信心をもって行者として学ぶ上で
師子王の如くなる心をもつことが肝要である。

師弟不二である。

<宿坊>第一回関東記念総会・第三回全国女子部幹部会 平成三年一月十五日(全集七十六巻)  投稿者:飛車
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68684

~正法を信じている人には、「邪(じゃ)信(しん)」はないが、「狂信(きょうしん)」は起(お)こりうる。
「正信(しょうしん)」か「狂信(きょうしん)」か――その分かれ目は、人としての《振(ふ)る舞(ま)い》のなかに現れるといってよい。社会性に反する行動や、非常識な言動で人々に迷惑をかけることは、「正信」の人の姿ではない。「狂信」に通じていくと考えられる。~

<宿坊>池田先生の思想に学ぶ ~狂信者~  投稿者:信濃町の人びと
http://6027.teacup.com/situation/bbs/21099

~(エリー・ヴィーゼル)博士は述べられている。
 「狂信的とは、宗教においてはドグマティズム(教条主義、独断的主張)であり、政治においては全体主義である。狂信者は、真実を歪め、侵す。彼は物事や人々を、あるがままに見ることができず、憎悪によって、偶像やイメージをたいへん醜く作りだし、それらに憤慨する」と。
 狂信者とは、自分につごうのいいように事実をねじ曲げ、正しいものを正しいと見ることができない。意にそわないものは悪と決めつけ、憎しみによって相手の悪いイメージをふくらませ、勝手に怒りだすというのである。
 じつに、“本質”をついている。
 「狂信者は、本当の議論から身を隠そうとする。なぜなら、対話の概念が、彼には相いれない異質のものだからである。狂信者は、多元論や多様性を恐れる。また学問をひどく嫌う。彼はモノローグ(独白)によってのみ、いかに話すかを知っている。狂信者にとって、対話は無用なものなのである」
 対話拒否――これが狂信者の証であると~

この概念基準から言うと
現在の創価は「狂信化」している。

否、ずっと狂信性を組織内に抱えていたから
智者としてそれを指摘していた。

正信・邪信・狂信
正行・邪行・狂行
正学・邪学・狂学

アンチアンチというのは
アンチよりも視野狭窄であることも多い。

話しにならない独善性。

日本会議の方向性の内閣(悪王)が
人間主義を破って全体主義を行使し(正法を破る)
狂信の職員たちが徒党を組んで(邪法の僧等が方人をなして)
池田先生の指導を改竄・都合よく使用する時(智者を失はん時)
難を恐れず師弟不二で人間主義を行く心の者が(師子王の如くなる心をもてる者)
必ず自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入っていく(必ず仏になるべし)

それは自身の生命現象として起こすことであって
思考概念で思い込んだって仕方ないけれどもね。

対話拒否の狂信の会長・執行部・職員。
学会員同士の対話まで制限し査問処分を繰り返す狂行。
見た目だけ取り繕って正当化する狂学。

狂ったバイアスの連鎖。

あなたの選択です。
どんな心をもつのか。

狂信・狂行・狂学の苦しみのループから抜け出るのは
その心の選択です。



[782] 学者、信者、行者

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月12日(金)12時30分8秒   通報   返信・引用

内容としてかぶるが
再度、学者、信者、行者の違いという見方で

母が「今夜はご馳走よ、早く帰っておいで」と、子にメールを打って、
この母が後に信仰の対象になったとする話を考えてみる。

聖職者の用意したご馳走を食べるのが信者の信仰の活動とする。
本山が究極のご馳走のレシピなるものを握っている。
その究極のレシピは信仰対象の母が作ったものとされているが、実際には後世に作られたもの。
それでも信者たちは、それを疑わずに、それを食し、それによって得た活力によって実生活に充実を得ていた。
ある学者が、そんなレシピが当時に存在したはずがない、と証明する。
でも、それは、信者として、子の側として恩恵を受ける本質とも
行者として、母の側に立って、愛する人を歓喜させようという本質とも
ズレた話になる。
だからと言っても、その宗教としては、大切なのは心で、ご馳走は関係ないというものではなく
あくまでも、ご馳走を食べるということを通して、異体同心の団結をして、本質の心を広宣流布する。
その実践が、その実践として最も力を持ってなされるために、そのための手立てというものと、
それを捻じ曲げて、聖職者が上、信者が下というような、権威のために作られたものの違い
あるいは、それが作られた経緯とは結果的に、真逆の効果として発揮される場合も考えられる。

学者は、宗祖原理の純粋性を見ようとするが、心が分からないので視野が狭くなり、確証性バイアスで、正当性証明のための、構築という方向になる。

対して、行者である場合には、法のため人のため広宣流布のためという奮い起こした心が、仏法に照らして間違いがないかという対境として見る。その感応、共振の感覚の中で、真筆では無いとされる中にも、確かにこの共振を増幅させるためのものを発見したりする。

これによってこれを広宣流布するために、信者としての、ご馳走を食べることによって、その原動力を得て活動していく。

悲しいかな現在、学会本部の動向は、
三代の会長が貫いた行者の心に肉薄することなく
大切なものをどんどん失っていく方向だ。



[781] 信心と学問

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月11日(木)14時10分38秒   通報   返信・引用

信心の側の見方と
学問の側の見方

自ずから信心の側は
定義しづらいものがある。

例えば母が子に
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
と、メールを打ったとする。

後世にこの母が信仰の対象になったとする。

この母がごちそうと定義したものは何か?
肉料理が無ければならないとか
何品から何品であるとか
それを御馳走として頂くことが信仰活動だとする。

米の炊き方から具材の切り方
味付け調理手順に至るまで
細かく設定するのか

いやいや、母が子に対した
心こそ大切なんだとするのか。

しかし、母が子を想うように
「しなければならない」と言うと
いかにも窮屈な義務感になり

本来の母の想いとは異質なものになる。

信者は子でありただ母のごちそうを求めればよい
という場合には
ごちそうを提供する聖職者の言うことが
絶対化され一方的になり
子が母を超えて成長していくようなことは
あってはならないというような
それも本来の母の想いとは異質なものになる。

ある時、子が親孝行しようとして
究極の本式の御馳走を食べるのに
ふさわしい建物を建てるためにと
300億円用意してきたとする。

それもどうやって集めたのかと聞くと
わずか4日間で集めたと言ったとする。

聖職者が
この究極のごちそうは私が提供するのだから
あなたたちは有難く思えという態度になったとする。

信者は信者で
こんな孝行を実現できる子は他にはない。
母なる存在を超えてごちそうの恩恵を世界に広めるのだ
という性格だったとする。

そのなかでお互いがお互いの中に
それとして「あるまじき部分」を見て
指摘し合うとして

取り巻きが問題を悪化させる。

ごちそうのことはよくわからないが
この親子の巨大な巨額を動かせるような力を
なんとか利用することは出来ないだろうかと
考えるものが出てくる。

この大きな力を
世間的には悪であるようなことをしてでも
より確実でより大きなものにしていこうと
動くものが出てくる。

一番の邪魔者は
物言わぬ究極のごちそうよりも
巨大な力を行使させた子のそのトップの
巨大な求心力であった。

その子のトップは
より多くの人を御馳走のパーティーに参加させようと
捉え方によってはあたかも
自分がごちそうを提供しふるまっているかのように
民衆に接していた。

そこに難癖をつけた。

ごちそうを提供するのは母で
母は母であるというだけで
子よりも正しい。
子は母の言うことを聞かなければいけない。

そういう決着をつけさせた。

元子のトップは一人
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
というありのままの真心を
それと同じように持ち続けた。

ごちそうの品目に対する研鑽
この品まではごちそうに加えても良いとか言うことと

このごちそうを振る舞った時の心

信心とは何なのか?

究極のごちそうを振る舞われて感動した
してもらってうれしかったことを

自分も自分のありのままで
人に喜んでもらえるように行動していこうと

そういうことを
理屈で押さえ込むのでは

そういう権威による統率によるのであれば

本当の信心は
失われてしまうのではないかと

俯瞰が必要だということだ。



[780] 西洋東洋の俯瞰へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 9日(火)12時07分51秒   通報   返信・引用

ざっくりと言えば西洋と東洋の感受性の違いというものがある。

どちらかと言えば西洋的なのは
論理的に決定因子を抽出して
それさえ利用できれば他はどうでもいい。
物事の変化は自分によって起こすものだ。

どちらかと言えば東洋的なのは
細かい違い決定因子なんていうものは気にせず
ぱっと見の雰囲気という曖昧なもので
馴染めるか馴染めないかという居心地を見る。
物事の変化は環境の変化によるところが大きい。

<東洋人と西洋人の心理の違い by 世界まる見え特捜部>
https://plaza.rakuten.co.jp/adbiz/diary/200908270000/

52年路線問題と54年宗門問題の間の年
昭和53年、海外での布教を考察したハワイレポートというものがある。
http://nippon-senmon.tripod.com/soukagakkai/shukyou/hawaii_report.html

松戸氏の日蓮仏法2.0の触りを読んでみているが
氏が脱構築と呼んでいるものは単に
日蓮正宗教義から脱却しようとする
西洋的自己完成のための理屈の概念
といった感がある。

従来の儀式的仏法が受け入れられがたい海外
また、日本においても独立した宗教団体として
脱却するものを考えようという上では
一定の効果はあるのであろうが

縁起、空観、一念三千の仏法から言うと
その原理抽出志向には
物足りなさも感じる。

何より、思考概念だなぁ、と。

池田先生の「法華経の智慧」が創価としての
まずもっての思考概念からの完成形である。

西洋と東洋の二極性という構築を
俯瞰した眼差しから脱構築している
深い生命哲学が根ざしている。

松戸仏法の思考概念のそれとは
申し訳ないがモノが違う。

<正>日本的伝統教義<反>西洋的仏法受容
<合>法華経の智慧

そんな感じがする。
その構図を学ぶ教材の一つとして

あるいは、確かに到達点としてではなく
入り口を広げるという点においては

価値を見出せることを否定しないが

法華経の智慧を入り口
松戸仏法を完成形のように見るのは
違うのではないかと思う。

あくまで触りを読んだ個人的感想であることを
断っておく。

ところで
原田執行部が断行しようとした日蓮世界宗の構想は
ハワイレポートで既に海外には受け入れられないことが
指摘されているそのものだ。

民衆をいかに無視した横暴であるか

日本的伝統教義を踏みにじり
西洋的仏法受容を踏みにじり
トインビー対談から法華経の智慧まで
過去のものとして無かったことにしようとする。

直弟子?
ちょっと歌っちゃうよ?

♪あるー日 聖教新聞に
でっかい文字が躍ってた
私の直弟子会長を
中心にしていくんだよ~

嘘こくな このやろー
こきゃぁがったな このやろー

師匠を宣揚するどころか
全てを踏みにじる~

(曲「くそくらえ節」)



[779] 自在を自在として自在に通じる智慧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 6日(土)09時56分45秒   通報   返信・引用

今という生命現象それ自体は
それ自体として自在に起こっている。

この生命現象を正しく理解し
あるべき自然さを何とか表現して
従うべき法として表そうとすれば非自在になる。

それは思考概念であり100%の正確さにはなりえない。
砂粒一つだって
何個の原子からできていて
どういった素粒子の現象で
どういう環境の時にはどういう振る舞いをして
全体の中ではどういう役割を担っていて
どういった経緯で砂粒になっていて
その大元の由来は何で
どんな味で匂いで色で
誰のどんな願いによってその開示を要請されて
そのことが社会に対してどんな影響をもたらすのか・・・

国土世間というと広い世界を思い浮かべるが
この砂粒一つもそのまま国土世間でもある。

現象であり生命であり法華経であり一念三千である。

ただある。
あるようにあるということが
何ものにおいても同じでありそこに分離は無く
しかも世間として違いの現れを一念心が経験する。

人間の思考力想像力というものは
自ずから限界があるが
法という非自在の規定が
それを矮小化するものなのか
それでもなお無限へと飛翔させゆくものなのか
そこが色界無色界の分水嶺でもあり
仏法と非仏法の違いでもある。
瞑想力というものは
思索力をゆうに越えて
空相実相の真実を観るものである。
仏教だから仏法なのではなく
その眼差しが仏法である。
本当の一流は仏法に通じている。

本当には実際にはどれだけ
池田先生本人自身が
世界の一流との対談を成しえたのかはともかく

創価というものがそれらを成し遂げ
それは池田先生あってこそだった
というのは少なくとも本当だろう。

世界の一流の中での仏法の統合。
人類の精神の遺産の結実。
平和文化教育の開花した世界の実現へ。

それぞれの自身の、こちらの妙法が
それら一流から一念三千の真実を
映し出せるように磨き上げられていなければ
その道を踏襲し実現させていくことは出来ない。

いくら近くで薫陶を受けたような者でも
そこに野心や名聞名利や嫉妬があるのであれば
滑稽なほどにその全体が見えていない。
お山の大将になれば全部を牛耳ることが出来ると思っている。

どのような組織団体でも
自分で作り上げたわけではない後継ぎ争いだけの代には
通じていたはずのものが変異してしまうということが起こりうる。

本当の指導者には
偉大な詩人の美しい詩心のような精神が必要だ。

それは聴衆受けとかそういうことではなく
野心や名聞名利や嫉妬を越えて強く輝くには
この精神の獲得によるしかないということだ。

外へ打って出ない集った者たちだけ
整った修行の中で静かに瞑想するだけなら
そこまでのものは必要ないかもしれないが

本来の池田先生が目指したはずの
世界の交流からなる仏法には

その偉大な師子王の精神の獲得が必要である。

ただこの一点において
欲望渦巻く社会から離れて修行するのではなく
欲望渦巻く社会の中にいるままでの修行にあって
歓喜へと反転させていくことが出来たのである。

特権階級のようにも振る舞える位置にあって
この師子王の詩心があるかどうかが
欲界の第六天か仏法へ通じる偉大な指導者かの
非非自在次元での妙法に照らされた本有かどうかの
分水嶺となっていくものがある。

民衆の勇気と歓喜に直結した
真実の自在を自在として自在に顕す詩心。

それによれば名聞名利はすぐに炙り出される。
欲界の権威はそうなったら滅ぼされると思い
躍起になってそれを迫害し仏法を破壊する。

一人ひとりが師子王の己心の法を打ち立てる。
その法のため人のための気づきの促しである。

後ろ暗い陰険な世界
組織信仰とは決別するのだ。

民衆の凱歌を共に歌おう。



[778] 最良の選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 5日(金)03時30分19秒   通報   返信・引用   編集済

「自在」ということを仮に

何者にも影響されることの無い智慧
他者を意のままにする影響力

の二通り設定しよう。

他者を意のままにする影響力は
第六天の魔王

何者にも影響されることの無い智慧は
報身如来

とすると

その間には

ルールの下での統制という良識の「非自在」があり
制度に従った正義の梵天に当てはまる。

報身如来の智慧を「自在」という基準に考えれば
梵天は「非自在」
第六天は「非非自在」であり
本当にはそのような「自在」は「自在」として存在していない。

化儀・教義というものは
「非自在」に相当する。

「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり」(富士宗学要集 一ー一一二頁)

御本尊授与というのは
理に適った公平さで行われるべきである。

宗門が学会を切ったような
学会本部がセルビアを切ったような

「非非自在」によって「第一尊厳の化儀」を覆すのは
教団を世俗化させ仏法の功徳を反転させることになる。

「非自在」を通じて本当の「自在」を覚知する道であるべきところが
「自在」と「非非自在」を混同した増上慢を量産して
いよいよ歓喜の無い異様な教団へと変貌させる。

とにかく我々が中心であり正義なんだ。
言うことを聞かないならば悪として断罪するのみだ。

自由がきかないシワ寄せを他者に押し付け
結局ますます自由がきかなくなる。

何もかもがぐちゃぐちゃになって
もうどうしてよいのか自分たちにも分からなくなる。

そして権威に頼るしかなくなる。

本来の「自在」の覚知のための仏法の「非自在」を考えてみると

それは一切の何者にも影響されない智慧を最深の本質とするので

あなたはこの非自在を縁として
一切の何者にも影響されない智慧を開くべきであるが
それはもちろん一切の何者にも影響されないものなので
ここに非自在として用意された一切の縁や私の言葉は
本質的究極的には、その獲得に一切影響を与えるものでは無い。

要するに「一人立て」だ。

その「一人立て」というメッセージを
最大限に自覚するための最良の手立て。

そういうものとして化儀・教義を樹立するためには
自ら一人立ち一切の何者にも影響されない智慧を覚知しておくことが求められる。

そういったレベルでの話では
史実か史実でないかよりも
覚知できるのか覚知できないのかが重要になる。

最良の結果が出せるのは史実だとは限らない。

生命と言っても関係性の連続循環でしかない。

今回、仮に
「自在」「非自在」「非非自在」としたが
その三界の区別を明らかに見

非二元の側の実際の如来の智慧によって
(行使する自我の個人は無い)

実際の世界の中でどれだけのものを
気づいていけるのかである。

どこまでも大きく俯瞰しなければ見誤る。

個人の生活の悩みだって
指導を受けて信心の眼からの俯瞰を求めるのに

広宣流布の全体に関わる一大事を思うにあっては
個人的な拘りというものの執着ではなく
だからと言って多数派の意見にまとまれば良いというものでもなく

本質を本質として見抜いた上で
決断と決断の

本当に全員が享受できるためのものへと
浄化コントロール推進が

個々人を超えて無始無終の非二元のレベルで起こっていることを
イメージと呼吸というところのただ生命という勝負所に
呼び起こし湧現させる。

その自身の禅定と大聖人の御書と二十八品の法華経とが
真偽史実を越えて生命の上で合致する位置。

師弟不二とそれとが同一であること。

その究極性は究極的には
何に縁して何を成したからということに
一切影響されることなく

そもそも影響される自分があるから
それを自分と思っては隠されて気づけないのであって

ただそのベールをはがしていけば
あることに気づく歓喜には至る。

広宣流布という次元には
法華経の非二元の体感覚知によることだけの今ここである。



[777] がいこつの諸行無常

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 1日(月)02時09分28秒   通報   返信・引用   編集済

小さい頃(小学校低学年のころ?)
よく聞いていた歌

くそくらえ節
https://www.youtube.com/watch?v=kv03261ldZ0
がいこつの唄
https://www.youtube.com/watch?v=-ffrIDEGqTY

そういうのがベースにあり
そういった世の中のおかしさに対して
それの解決を実現させていく創価学会であり
そのための深い仏法哲学として
生命の営みを解き明かしたもの
それを一念三千として私は
実際の世界の仕組みを解き明かすために
何度も何度も何度も何度も
考察を重ねてきた。

私にとって境涯の深さ大きさとは
一念三千の理解・体感覚知・智慧化・技化の度合いでもある。

元より私は、その事の一念三千のためにある。

増上慢との対峙
その難の中で理解・体感覚知・智慧化・技化は
次のステップへと私を運んでくれる。

そういう段階を経てきているから
それは自ずからある程度論理的であるのが自然だが

一個の論理に執着しては
論理は成熟しないというパラドクスがある。

例えば整数以外を数と認めないとすれば
数学の発展はそこで止まってしまう。

非科学的という言葉があるが
大方のそれは正しい表現ではない。

未科学的と言うべきだ。

気功や瞑想等、非科学的な心の持ちようと思われたのも今は過去だ。
今では代謝機能や脳の構造にまで影響をもたらすことが研究されている。

科学よりも先に、現象は実際に起こっているのだ。

科学だけあっても実際の生活に現象として役に立たなければその価値は薄い。

体感の上の生命の基本は一念三千しかない。

その三世間、非二元までの了解のためには
アルベア論の領域までを体感覚知することが求められる。

宇宙の始まりをさえ越える覚知がある。

三世間を読み違わないことは難しい。

衆生というと人びとであるが
基本的には衆生世間という場合には
仮和合した一個の生命、一人である。

無限に多くの一人でありながらも
全ての一人はただ一人でもある。

国土世間はそこにいる衆生にとって一つでありながら
そこにある生命の分だけ無限に別々でもある。

経験は見えているはずのものが
全て見えているわけではない。

ただ結論ありきで論理を組み立てるのではなく
あるがままを見ていく体感のままに
そのもののそのままが究極の論理になる。

そうなんだけれどそれが難しいのは

日常会話の言葉だけではない
本来体感から確立された仏法用語を借りたりするが
その仏法用語なりを概念として理解しようとしてしまうため
体感と概念との乖離が生じる。

概念に留まってしまえば
むしろあるがままを観るためには邪魔となり
その論理が思考概念となる以上は
必ず破折が可能なものとなる。

あるがまま自体だけが
破折が不可能である。

仏法において本来
いわゆる昨今の学会活動のようなことが行なのではなく
そのあるがままへの
イメージ法・呼吸法といった不二への行法としての
唱題行があり
そこへ向かう上での二者関係という生命の体得に
折伏行がある。

それらの出発点が信心であるが
この信心ということには段階がある。

それが五眼三身ということになる。

日蓮仏法を行じることは
地涌の菩薩を行じることであるが

その中にも十界があるのであり

概念の解除をするべき段階というのはあるのである。

そうして無上道に入る。

組織信仰というものは
それをさせないようにする
思考概念の上塗りの世界である。

組織信仰を打ち破り
真の生命の輝きを開くのだ。



[776] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月27日(木)12時17分24秒   通報   返信・引用

プライスレスなんて言葉が流行って
誰も彼もあれにもこれにも
プライスレスって言いだすと
プライスレスの価値が下がるよね。

全然一生のお願いじゃない一生のお願い的に。

究極のプラスレスは我が生命。

雪山童子はその生命の法のために今生の身を鬼神の食べ物として差し出す。
死んでしまってもいいくらいに生命に価値がある。と。

前に確か、貧乏は豊かさの一形態なんてのも
紹介しましたね。

正反対が同一とも言えるのは
紙の表と裏のようなものだから。

また、ヤンキーがちょっと優しいところを見せると
ものすごくいい人に思い

聖職者がちょっと悪いことをすると
ものすごい極悪人に思う。

いっそ普通にはどう考えてもおかしいレベルなら
信心の世界なんだからこれには甚深の意味があるんだと
必要以上に信じ込んでしまったりとか。

自分の得ているイメージと目の前の現実の標準偏差みたいな
過剰な思い込みや反転が起こる。
全部、相対的ですね。

自分が「やっちまった」って気になっていることも
他人から見ればそうでもなかったり

他人から見てすごく気になる癖とか
本人はたいがい無自覚だし

そういう自身を見つめ直すこと

そういう時に神経に障るようなバイアスがあるのは
それは受容を歪める罪障であり

それを解きほぐし自在の境涯になっていくのが
人間革命なのだと思うけれど

往々にして思い込みを重ねバイアスを強化して
ガチガチになりながらこじ開けることが
最高の信心であるかのような錯覚があり

まぁだからやっぱり
空観を含む一念三千の中道によらないと

起こしたベクトルに対してどこかで
真逆のベクトルが働き

それは同時に一つの事として起こっている。

同じとして起こることと
真逆として起こること。

その気づき方とコントロール。
それが智慧と技でもあり

自己機能の区分け体感覚知によって
「ああ、なんだ、そういうことか」
という納得として

脱落・脱力・解放し
各チャクラの体感の実感や
ただあるというダイレクトパス
南無妙法蓮華経の了解
そういったものが覚知できるようになる。

今の同時代現象として
そういうことへの直接的な心身の
アプローチが開かれている。

つまり難行苦行や組織的統制の期待依存が外れ
覚書の思考概念を暗記し解釈するのではなく
直接的な存在への指し示しから言葉を自在に使える方向になり

本当のプライスレスな我が心身生命非二元を
より多くの人が

その地涌の生命を実感していく。

この地涌の生命だけは
全ての人が四六時中
これこそプライスレスだと言っても

価値が下がることは無く
むしろいよいよ実感して価値が上がる。

無上道となる。

ああ、そういえば
仏教が難しく感じるのの一つは
読み違わないようにしようという思考概念を
働かせるから、むしろ読み違う。

教義改正問題の一連の中に
これは拙速な教義改正に異を唱えた方であるが

最初の角度が少しでもズレると
10年先100年先ではとんでもない
大きな間違いとなって現れるという懸念(趣意)
があったかと思うが

正しいようで南無妙法蓮華経になりきっていない。
因果が同時になっていない。

批判の仕方を非難しているのではなく
もっと別の次元の話だ。

思考概念を前提とした思考概念になっていて
今ここにない幻想に苦しんでいる。

仏教で学無学というのは
学=まだ学ぶ必要がある
無学=もう学ぶ必要が無い
なんだけど
ではここでいう学びとは何か?

思考概念では読み違わないのは難しいよね。

八万の法蔵の全てを
これで完全に読み違っていないという
思考概念を作り上げてから
完璧な教義で統制しますか?

ナンセンス、永遠に完成しない。

答えは常に今ここ、因果同時だ。

シンプルに間違いは今即間違いだ。

つまり創価の中で体感無くして言われていることの全ては
「どうでもいい」

とはいえ向上そのものを否定しない。

心身生命非二元に向かえば
必然的に法華経が
これそれ自体だと了解できる。

カマキリのオスメスは
君のためなら死ねると
殺してしまいたいほど好きが
見た目上成立しますが

当然、そんな思考概念があるわけではなく
自然界の運行の上の機能としてただある。

食べる食べられるが一つの事としてそこにある。

人間的思考概念の上では
「君のためなら死ねる」なんて
受け手によれば脅迫の一種でもある。

一人の他人が受け取るには重い。

仏法は無=無限であるので
仏法は「仏法のためなら死ねる」も
なんなく受容する。

「同じだ」ということも
「違うんだ」ということも
受け取り手によって
「同じ」とも「違う」とも取る。

結局は「非ず」を重ねることでしか
表現できないようなそれは
自身で体感覚知するしかない。


<「残して死ぬ」これが本能。生物達の壮絶なる「交尾」>
https://matome.naver.jp/odai/2142165567550676801

バリアフリー

健常者が何の気なく築いているものが
弱者の側には困難として立ちふさがる。

弱者に光を当て
その立場になって困難を取り除く。

そういう見直し、反省。

人と人。

功徳ある人を目指そう。



[775] プライスレス

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 4月26日(水)16時13分52秒   通報   返信・引用

中学生時代、プライスレスという言葉を初めて聞いた時、値打ちが無いと読み違いました。

スモークフリーも煙草吸い放題だと勘違いしました。


値の付けようが無いほど
煙の煩わしさから解放された

反意語もまた同じ土俵に乗ってる時点で、究極は同じになるのでしょうか


殺してしまいたいほど好き

これはちょっと違うかな(~_~;)



[774] 永遠無限

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月26日(水)12時32分59秒   通報   返信・引用

<宿坊>戸田先生指導:御本尊に関する質問  投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2017年 3月 9日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65859

本当に戒壇の大御本尊を分身散体の法門によって
日蓮大聖人の心と同じに出来ている分身体
久遠元初自受用報身如来の当体として見るには

五眼三身をもって九識心王真如を識るという
信心の深化、法華経の立体視
自己自身と分離の無い、その本源へと
観心していく必要がある。

その過程において本来
「空観」を避けることが出来ない。

大乗の仏法の理解には空観を体得しなければならないと
戸田先生もそう言っていたはずだ。

<宿坊>如来誠諦之語  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/67758

提婆達多品第十二までで
全ての人が成仏が可能である原理が示される。
(理の一念三千)

勧持品第十三で
どんな悪世になっていかなる難を受けようとも
法華経を受持し説いていく弟子の思いが述べられる。

(その一念三千を受持し広める決意とそこに起こること)

安楽行品第十四で
仏の側から見た安楽な智慧と禅定をもって
法華経を受持し説いていくべき姿勢が説かれる。

(菩薩行として空あるいは一念三千を受持し広めると言っても
それはまだ如来に比べれば思考概念であり
本当の如来のそれは菩薩の思惟するそれを凌駕している)

従地涌出品第十五で
釈尊の側でずっと教えを聞いてきた
今生で初めて釈尊から教えを授かっていると思っている
多くの他土の菩薩や迹化の菩薩たちの広布の誓願を退けて
そんなことが必要ないのは
さらに桁違いに多くの桁違いに立派な菩薩たちが
地より涌き出でそれを遂行する者たちだからだという。

(仏の側で仏の言葉に頼って執着したからといって
それを思惟する思惟や自己都合に縛られているのであり
それを軽々と乗り越える生命というものは
あることを信じればどっと湧き起こるのだ)

如来寿量品第十六で
仏の生命の永遠無限を明かす。

(本当の仏眼はここにしかない)

分別功徳品第十七から数品で
それを信じた功徳が語られる。

(正しく空あるいは一念三千を悟る etc.)

九識論において深層へ進むにつれて
自他の区別、善悪の区別、意識現象の区別
などが無くなっていき真如という無分別智へ向かう。

その最深が永遠無限であり
そこへの往復にあって
空あるいは一念三千への探求
空あるいは一念三千を了解した救済者への反転がある。

そこの往復切符が
大難があろうとも救済者になるという
誓願・決意を伴った信心である。

師匠と弟子の呼応
そのやり取りの中で探求し
しだいに分離がなくなる

信心と難とのセット現象
その現象の中で格闘し
しだいに安楽と難の分離がなくなる

御本尊と自身の感応
その戒壇の中で精進し
しだいに今生と永遠の分離がなくなる。

「私とは何か?」
それがそのまま答えになっていく。

<宿坊>徹して学びましょう  投稿者:反板の反板
http://6027.teacup.com/situation/bbs/67666

二乗根性という反省点からも
悟りに向かおうとすることが
自我を縮小し消滅に向かわせるような
そういうイメージがあるかと思うが

空観という大乗仏法であることは既に
その克服として取り組まれるもので

真の自己拡大の道なのである。

九識へ向かうということは
宇宙大の自己へ
またそれ以上の自己へと境涯を拡大させるものである。

「私とは何か?」ということに取り組む
哲学にせよ宗教にせよスピリチャルにせよ

同じ命題に取り組み
同じ法の宇宙にあり
そこにある生命現象が同じである以上

深さや角度や表現が違えど
もたらされる気づきの生命現象の体感は同じである。

もし違うのならその人に
この仏法を教えても無意味ということになる。

もちろん後から土地柄や時代に合わせて付随されたものは
それが変われば無意味になる部分もあるのだろうが

根源の命題は人という生命現象である以上
誰人にとっても同じなのである。

今言っていることからすると
別個の思考概念にはなるが

コズミック体なんてネーミングは
いかにも拡大の志向性のイメージである。

静かで神聖に煌めいているように見える夜空の宇宙も
その実、想像を絶するような因果が
それは文字通り渦巻いている。

渦巻いていることは善でも悪でもない。
ただそうあるし、どうこうできない。

色々渦巻いた時に苦しみを感じるのは
その次元と分離して生きようとしているからでもある。

それの方が卑小な生き方なのだ。

<かんながら>摩訶不思議
http://abetoshiro.ti-da.net/e9506261.html

「受け手」だけのままでは
自ずから「同じ」への限界がある。

言葉は解釈されて変換されるため
最終部分は「こうだ」という限定的表現が無い。

「こうだ」という場合
あなたの現象に対して私の現象があるという
その呼応の促しがあるのみである。

法のため人のための
誓願・決意と実行。

それでいて、犠牲にしない
ただあるを味わい楽しむ
空観の智慧と禅定の

私が言うには「頑張らない」
というところからの俯瞰。

そして無=無限と決める。

言葉を借りて言うのだけれど
言葉というのは言葉でしかなくて
「これ」にたいして万能でないから

こういう心地にいながら
熟練度の低さ未熟さから

人に何か伝える時
片言になってしまったり
そこで伝える必要のない心まで伝わらせてしまったり

それも私の「これ」生命現象ですから
反面教師とするところは
大いに反面教師としてください。

無上道ですから
私自身、法のため人のため
どうにか噛み砕いて

歓喜の一分でも伝えられることがあれば
それこそが功徳なのであり
そのために信心をします。



[773] 正法への気づき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月24日(月)03時56分58秒   通報   返信・引用

宗教のために人間があるのではなく
人間のために宗教がある。

宗教が無くては法が無いのではなく
人と法が一箇であるから結果的に宗教があるのである。

真実は宗教が与えてくれるのではなく
真実の法の讃嘆の手段として理を尽くすのが宗教である。

言葉の解釈で法が自身と分離したものと思えば
その人我の自己都合によって
理不尽な権威主義になる。

自己都合とはいうけれど
他者からの評価との整合性の
取捨選択のクセでもあるが

細かい言葉尻を気にした評価
しぐさや対応を気にした調和
一は全、全は一への飛翔

というような区分けで見ると

一見して自己不都合ともいえるようなことも
思考概念であることにおいて自己都合である。

自尊も卑下も同根なのである。

だからこそその生じた過程において
いじめる側といじめられる側が明確な場合
いじめる側が100%悪いとしなければ
その中道への最短ルートにはならない。

自尊心の肥大化した幹部がのさばっている裏には
その分だけ自分を卑下してしまっている心を病んでいる学会員がいる。

それはセット現象であり
傲慢な幹部の呵責だけでも
メンタルヘルスのケアだけでも
片方だけではダメで
同根の問題としての解決が必要である。

つまりは思考概念の都合による組織運営から
体感覚知の調和体への蘇生が必要である。

それは意味や形式や成果や評価にばかり
気を取られていては出来ない。

思考概念の上での問題は
その思考概念が消えれば消える。

正法は何を間違うことも無く良いも悪いも無く
ただその在り方を人間が解釈している。

気づけばいいのだ。

どれほどに正しく作動しているのか
良い悪いではなく
ただあるというそのままを味わうのだ。

あるということをあらしめている意識そのもの。

その意識において起こっていることの
気づきが何をもたらせるのか

魔を魔と見破り
幻想を幻想と見破る
智慧と技による世界になれば

どうしてありもしない脅威を膨らませて
戦乱の危機を迎えるようなことがあるだろうか?

正法への気づきというものは
必然的平和への唯一と言っていい道である。

自然に仏国土へと至るべしである。



[772] Re:試論 日蓮仏法とは その2

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月22日(土)11時54分0秒   通報   返信・引用

サイヤさん、それです。
ありがとうございます。
つながりました。

余分を言うと余分になるので
全くそれですとしておきます。

自ずからの歓喜への讃嘆を述べます。
それこそ醍醐味の功徳だと思います。

対比して信濃町の中心に
いかにそれが失われていて
組織全体もそれをなぞって
いかに陳腐になっているか

その元凶との対峙の中で
繰り返されるそれ自体が

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経。

一人の力なんて無力だなんてことは
だからそれは元凶の側の
個々人を無力化するための事であり

それとは違う次元の
無限の仏力・法力の
あるという中にあるという体験において
無力とか無意味とかいう次元ではない
六根清浄があって

だからサイヤさんがそれを伝える時にあって
サイヤさんのそれは全くそれです。

思いをはせると歓喜がわきます。
ありがとうございます。



[771] 試論 日蓮仏法とは その2

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月21日(金)16時13分15秒   通報   返信・引用

                                             ・
創価と正宗以外は御義口伝・百六箇抄を偽書と看做しているという。身内だけに通用する御書としており、学術的、対外的には価値の無いものであるという。創価では教学部顧問の立場にある宮田教授が、真蹟だけを用いて教学の再構築を目指しているとも聞く。そうなると久遠元初自受用身如来という概念は放棄されることとなろうか。

釈迦本仏説を採る方々は五百塵点劫に成道した久遠実成の釈尊を本仏とするのだろうが、その釈尊は誰を師匠に成道したというのだろう。寿量品に我本行菩薩道とある通り、菩薩の道を行じて成道したわけだが、どの仏のもとで修業したというのだろうか。開目抄の「寿量品の文の底にしづめたり」という御金言を知らない訳ではあるまい。

学術的な価値があろうがなかろうが、日蓮仏法を奉ずる者にとって、そんなことはどっちでもいい。少なくとも私にとってはどちらでもいいことだ。大聖人を久遠元初自受用身如来と信じ、人法一箇の御本尊に唱題し、六根清浄の功徳を毎日いただいている私には、学者が何を云おうがまったく関係の無い話である。

2003年から付け始めた唱題表だが、来年の誕生日には3000万遍に達する予定だ。いただいた功徳は枚挙に暇がないが、六根清浄の功徳を日々いただいていると自覚できることが最も大きい功徳と思う。御本尊の偉大さが分からないので、世の学者と云われる者たちは、愚にも付かないことで云い争っているのだろう。

日蓮大聖人が顕された御本尊には、無限の仏力・法力が備わる。一切衆生を成仏せしめる力が備わる御本尊を、いったい誰が顕せるというのだろう。大聖人を僧宝と貶める釈迦本仏説の輩も、御本尊の偉大な功力が分かっていないのだろう。五老僧の末裔ではそれも致し方ないことなのかも知れない。

このように見てくると、大聖人を久遠元初自受用身如来ではないとすることは不可能となってくる。もちろん私の信心と私の功徳から見てのことである。六根清浄の功徳をいただいて、御本尊に感謝の祈りが出来るようになると、人法一箇の御本尊であることが分かるようになる。神秘体験をするわけではないが分かるのである。

「以信得入」という。初めは信を以て入るのであるが、入ってしまえば信は不要になる。このように云うと誤解を招く恐れがあるが、「信じる」という努力を要する行為は必要なく、ただ御本尊と自分が「ある」だけになる。上手く表現できないが、信じるも信じないもない状態というか、信じようとしなくても自ずとそうなっている自分がいるのである。

別に悟りを啓いた訳ではない。実生活の中では種々の問題は出来する。心身ともに疲れて帰宅することもしょっちゅうである。御本尊の前に座し唱題していても、雑念は涌き放題である。しかし唱題し続けているうちに、徐々に祈りが定まり、祈りが感謝に替わり、一時間の唱題が終わる。毎日その繰り返しが続いている。

日蓮仏法を論ずるつもりが、あらぬ方向へ話が進んでしまったが、このように現在私は大聖人の仏法を奉じている。学者が何を云おうが、創価が大御本尊を受持の対象としないと云おうが、関係ないと云ってしまえばそれまでだが、邪教化する創価を見放しては、不知恩の謗りを免れまい。それ故斯様に物申すのである。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[770] 私とは何か?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月20日(木)12時16分51秒   通報   返信・引用

私とは何か?
その確たるものを掴みたい。

「人はどこから来て
どこへ行くのか?」

人はみな幸せになるために生きているというのは
その命題を誰もが解決させられるという方途の確信である。

絶対的幸福境涯というものはそこにあるということだ。

私とは何か?

「これだ」と思って掴んだ瞬間
引きずられて苦悩する。

どこかから来て
どこかへ去っていくだけのもの

次の瞬間にはもう
今ここには実存していない幻想。

そのいくつかを掴み続けて
幻想の人生物語、ファンタジーワールドを膨らませる。

そのファンタジーワールドをもって
絶対的現実に挑もうとするが
それがファンタジーワールドであり
絶対的現実に挑んでいるのだという事を
了解できていないので思うようにいかない。

これがダメなら次は何を掴めば良いのか?

掴むべきものを探し
私とは何かという命題を忘れる。

どこかから来て
どこかへ去っていくもの

それは普遍の私ではない。

何も掴まずに
ただ今ここにある時
それが私だ。

境と智が冥合するのは
その反転の気づきの体感にある時である。

私はどこから来たのでもないし
どこへも行かない。

私とは何かに迷うことと
本尊に迷うということとは同じである。

本尊とはまったく余所に求めるものではないからだ。

法華経とはその境智冥合のためのことが
ストーリーとして描かれている。

本来は生命感覚である。

その境智冥合のための
ストーリーからの反転の
生命感覚の恩恵に誰もが気づけるための
それの伝授法として
御本尊に題目を唱えるという
技法が存在している。

ただ師匠から弟子へ
その心王たる無分別智を
在らしめんとするために
あるのであるが

心こそ大切を思えば

その境智をして
無限へと広がりゆくためこそなれば

あらゆる差異を越えて
その境智において

全ては非二元である。



[769] 時代と巨匠と後継と統制と自由

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月18日(火)14時18分33秒   通報   返信・引用

一旦、仏法の流れというものの概念枠を外し
時代を動かした巨匠の一人として
語るものであり、仏法の正しさというのとは
少し角度の違う話です。

「天才」「神様」というワードから
私が思い浮かぶのは手塚治虫です。

グーグルで「天才 神様」だけで検索してみると
さすがに上位を独占するようなことは無いけど
出てきました。

【天才はこうして作られた!】漫画の神様「手塚治虫」の才能を引き出した、母からの仰天アドバイス
http://hot-topic-news.com/osamu-tezuka-mother

さて、だけど確かに「天才」という言葉から連想しますが
その人物像は「天才」という言葉に納まるような
スマートなものとは認識していません。

一面には執着心が強く嫉妬深い。
自分が一番でないと気が済まない独善性がある。

そんな葛藤の中で苦しみながら
時にそれを反省し見つめながら
時代のうねりの中へ何かを成す。

そういう「スマートで無さ」というのは
戸田先生にも多分にあったのだと思う。

手塚治虫がアニメーションを制作する時
ディズニーへの対抗心があったのだが

ディズニーの成功が今もなお
ディズニーの枠を保ったまま
多岐にわたるビジネス展開で
魔法のような夢の世界の楽しみを
人びとに提供しているが

手塚治虫の成功の発展は
日本の漫画界の興隆という結果であり
個々人の内発的な可能性の開花である。

純粋に良い作品を作りたいという事から出発した
その発展の違いは、その個々の国の
同時代現象のベースとなっている
意識体の志向性による自然な発露でもある。

この意識機能の違いに気づかなければ
思考概念で欧米型の組織化をしようとしても
疲弊・閉塞していくのである。

日本の漫画は手塚治虫によって
同時代現象に深く組み入ったから
漫画界での気づきが同時代現象を動かす。

たとえば「キャプテン翼」という現象。

翼と日本漫画文化が世界中で愛される理由
『キャプテン翼』原作者・高橋陽一インタビュー
http://www.nippon.com/ja/views/b00103/

~「高校3年の時に、W杯のアルゼンチン大会(1978年)をテレビで見て、『ああ、サッカーってこんなに面白いんだ』と気づいたんです。興味を持って調べてみると、ヨーロッパでは野球よりもサッカーの方が断然盛んで人気があって、競技人口も圧倒的に多い。それで、サッカーというのは世界一のスポーツだということに気づきました。~

ただそれだけの気づきを漫画にしたのであって
どれだけサッカーに精通していて
サッカーの技術を向上させていこうとかいう
上から目線ではない。

手塚治虫→漫画界の興隆→キャプテン翼→サッカー界の興隆

多様な文化の開花。
それは広宣流布の像の一つでもある。

ディズニー型がダメで
手塚治虫型が良いと言っているのではない。

仏法は元より
一つの組織や一国のためだけのものでは無い。

全ては活かされるべきで
包括とバランスということでもある。

同時代現象という事は
非二元への眼差しのシフトにより
自然の生かされている体感として
了解できるのだ。



[768] 歯車

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月14日(金)11時29分54秒   通報   返信・引用

歯車を一つ手にして愛でて
それが果たして
時を知るためのものであることを
説いてみたところで
時は得られず

ならばと直感的に分かりやすい
文字盤のコピーを配ってみたところで
時は示されない。

生命の中央の時計と
時代の中央の時計の不一致による歪みが
世界の運命を大きく歪ませる。

そうならないために護り通していた魂が

文明開化の美辞麗句にうつつを抜かし
目的をはき違えていく。

<日蓮大聖人と私>
法門申さるべき様の事・第八章 京風に媚びる三位房を厳誡
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-date-20170304.html

一度ほころべば
坂を転げ落ちていく。

教義を改ざんし戦争を賛美し神札を受ける
までに至る。

真僧俗和合の見ているところは
生命の中央の時計と
時代の中央の時計の一致へ
という深いところの信心にも感じます。


<YouTube>椎名林檎 - 歌舞伎町の女王
https://www.youtube.com/watch?v=krCk3EcsaxE



[767] 僧侶の妻帯

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月14日(金)08時08分58秒   通報   返信・引用

                                        ・
初めに、以下に論ずるところは創価が宗門の僧侶に対して、妻帯しているから聖僧ではないなどとする、ためにする論ではないことを申し上げておく。妻帯していようがいまいが、高潔なご僧侶はいる。また下劣な坊主もいるであろう。そのような個々人の特質を論ずるつもりはない。宗門の僧侶全般の話である。

「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」日興遺誡置文の一条項である。「後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」と申されて、「万年救護の為に二十六箇条を置」かれたものである。大聖人の仏法を法水寫瓶された僧宝である日興上人が、末流の乱れを戒めんと置かれたのだ。

鎌倉時代、僧侶が「肉食・妻帯」しないのは自明であった。しかし後々の世に、その自明が自明でなくなる時代を日興上人は予見していたのかもしれない。それ故に二十六箇条を置かれたのであろう。宗門の僧侶は明治の初めまで、少なくとも表面上はこの遺誡を守り通してきた。裏で何をしていたかは知らないが。

明治5年、時の明治政府は一片の太政官符を発布した。そこには「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」と書かれていた。これは僧侶が肉を食らおうが妻帯しようが、髪を伸ばそうが勝手にして良いということである。江戸幕府により禁令とされていたものを、明治政府は好き勝手にして良いとしたのである。

この一片の太政官符により真宗以外の僧侶の妻帯が始まった。(真宗はもとより妻帯可)日興上人の予見が現実のものとなったのである。私はこれを仏法とは何の縁もゆかりもない世俗の権威(明治政府)に、仏法が屈し貶められた歴史であると認識している。日興上人の遺誡を太政官符を云い訳に踏みにじったのである。

世俗の権威に屈したのか、それともこれ幸いと迎合したのか。太政官符には「勝手足るべし」とあり、強制されている訳ではないので、後者であったのではないかと推測するが、そうであるとしたらなおさら情けない話である。その後の法主の指南にも妻帯擁護の論があるが、私に云わせれば云い訳に過ぎないものである。

出家とは出世間である。世間一般の生活とは異なる環境で、仏道修行に励むのが出家であろう。末法無戒を盾に出家の妻帯を擁護しても、太政官符を云い訳に日興上人の遺誡を踏みにじった云い逃れに過ぎない。妻帯により僧侶が堕落したと、ひとからげに論ずるつもりはないが、弊害が無いとは云えないだろう。

僧侶の息子が僧侶になれば自ずと閨閥が出来上がる。権力を持つ僧は自分の息子を、身入りの良い寺の住職にしたり、要職へ引き上げたりもするだろう。明治まではあり得なかった、法主の息子が法主になったりもするのである。宗門史上唯一の例として、第六十世阿部日開法主の息子が、第六十七世阿部日顕法主であることはご存知の通りである。

何が云いたいのかといえば、宗門の僧侶に日興遺誡置文を守って欲しいと願うものである。既に妻帯している者に離縁しろなどと乱暴なことは云わない。しかし現在未婚の者はこの遺誡を守り、聖僧として仏道修行に励んでもらいたい。どうしても結婚したければ還俗という手もある。遺誡でも「衆徒に差置く」とある。

私は創価に籍を置くが、創価の宗門批判に同意するものではない。創価は創価で会則改正に伴う邪教化を留めなければならないと考える者である。そうであっても宗門僧侶の妻帯は、世俗の権威に迎合したものとして、改めるべきと考えている。遺誡を守り大聖人、日興上人の時代に戻り、聖僧として生きて欲しいと願う。

このようにして宗門も創価もともに発迹顕本を成し遂げ、新たなる「真・僧俗和合」が叶うのではないかと想像している。邪教化しつつある創価と、世俗の権威に迎合した宗門では、僧俗和合の叶う訳もない。広宣流布は僧俗がいがみ合っていて出来るものではない。大聖人のご遺命と日興上人のご遺誡に従う僧俗になりたいと願う。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[766] 文字列

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月12日(水)14時10分14秒   通報   返信・引用

トランプの下りの時
本来探していたのは
文字列で

その時探していたのは
~それぞれ一つ欠けると意味が変わってしまうような
言葉の組み合わせか何かないかと考えたのが元で
行きついたのが「トランプ」です~
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/655

ということで
また少し違うかもしれないけれども

宿坊の掲示板で
「師弟不二」ハガキを
5月3日までに
池田先生に出そう

という話が少し出て

私も何か送ろうかな?
なんて書いたのだけれど

何としても池田先生のところまで届かせるために
池田先生に見せざるを得ないものとして

眺めているだけで非二元に吸い込まれるような
心を書するチャンネルを使って

黒地に金文字の光沢仕上げで
中央に縦に「師子心玉真如」
両脇に梵字の不動と愛染を書き
池田先生に会える確率のある人物宛に送ってみた。

それはただ 咸皆懷戀慕 而生渇仰心の
一心欲見仏 によるもので

他意は無かったのだけれど
これが何なのか後付けで考えてみると

南無妙法蓮華経の御本尊が
智慧の側として

それと対を成し得る
その智慧を観る禅定の側の
文字列になっているんじゃなかろうか?

そうすると一文字足りないんだけど
非二元の禅定に問うてみるに
「在」という字があえて書かれていない。

「在師子心玉真如」
これは座した時の頭のてっぺんから
お尻の先までの七つのチャクラの順になっている。

南無妙法蓮華経と順を揃えると
在如師子心玉真となる。

そうすると色々に読める。

まず日蓮仏法から外れていない最初は
師子王の如き真の心に在り

つまりそれは成仏を指している。

また、心王真如は師子に在りとも。

書式として「王」を「玉」と書いているが
「たま」という意味で「ぎょく」と読んで

真如に在るは師子の心玉
ならば師弟不二の非二元球を示唆する。

不動愛染は境智を表すけれど

このシンプルさの中では両目でもある。

ウジャトの目ラーの目ホルスの目でもあり
それは第三の目の脳の松果体

チャクラのサードアイに配置される
師に収まる。

心の師が在れば真如の王子

真如の王とは仏と取れるので
心の師が無ければ仏子とは呼べない。

とりあえずこれぐらいにしとこう。

だからそれが何なのかというのは
思考概念で考えるようなことは

そうじゃない。

ただある。



[765] すごい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月11日(火)05時06分10秒   通報   返信・引用

身なりさんさすがですね

「致す」に込められたものに
どんぴしゃりです。

考えてもみなかったことが
始めからそうであったかのように
もたらされます。

曼荼羅はだからそう
そうであったということで
その通りで
すごいですね。

この今あること
生かされていることに
歓喜し感謝します。



[764] ご本尊

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 4月10日(月)21時13分49秒   通報   返信・引用

皆さんこんばんは、清潔な身なりです。

うむうむと読んでます。

タイミングって面白いですよね!!
ここしかないと言うタイミングで何か起こるし、
ナイスタイミングとバットタイミング以外無いようにも思います。
結局このタイミングしかなかったみたいな(^^)

やっぱり曼荼羅のご本尊様を眺めると落ち着きますねぇ(^^)

話が飛んでスミマセン<(_ _)>

出てくる感情を大切にしながら、丁寧に生活するように心がけてます。



[763] 致す

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月10日(月)14時20分45秒   通報   返信・引用

<YouTube>A Rocket to the Moon - I Do [w/ Lyrics] 3:29
https://www.youtube.com/watch?v=ZKeP69zw6e4



[762] 出る

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 8日(土)12時17分31秒   通報   返信・引用   編集済

<アルベアのブログ>
「非二元」「悟り」の体感・体験現象とは「解放感」「歓喜」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12263603147.html

~~新陳代謝は、いつでも、誰でも「体感が可能」です。この事は、既に誰でも「非二元」「悟り」の体感現象が内在しているという事を示しているものです。あとは「気づく事」だけなのです。
解放感⇒排尿・排泄直後の感覚に似ています。風景を見た時、絵画を見た時、音楽を聴いた時等々が「体感」されたときに「解放感」の感覚がもたらされています。~~

この話はだから元より
信心に限定された話ではなくて
誰にでも自然にある体感の話。

最近で私がこの解放感を大きく感じたのは
[756] 観念観法と一生成仏
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/756
を書いた時である。
「良いの出たなぁ」っていう
本当にそういう感覚だった。

おそらくサイヤさんにおいても最近
書き上げて投稿をした時に
同じような感覚を味わったことが
あるのではないかと思う。

戸田先生は罰というものは
当たるんじゃなくて出るんだ。
ウンコと一緒だ、自分の中にあるから
それが出てくるんだ。

というようなことを
言っていたと思う。

罰が当たったなんて騒ぐんじゃなくて
自分の中にあって、未来まで苦しむべきものを
今、軽く出させていただいているんだから
感謝しなさいと。

どうせ出るなら
罰よりも功徳の方が良いと思うけど
生命の本質の側から言えば
それは全くすべて本来は
功徳として出る新陳代謝なのだ。

自我機能による抵抗
自身に刻まれた宿業
生命のありのままの新陳代謝の仏の生命の活動を否定する命
正法誹謗の罪

それによる抵抗によって
罰として出るのだ。

出たら気づき感謝すれば
その罪はおえおわって
罪障消滅して
功徳として受容していくことが
出来るようになるのだ。

<真実を語る>其罪畢已(ございひっち)
http://tomotiyoo.exblog.jp/22034153/

「その罪おえおわって」とは
法華経不軽品第二十に説かれている。

全ての人の仏性を信じて礼拝する
ということが御本尊に祈ることに含まれている。

<アルベアのブログ>
「二者関係」「自他関係」「主客関係」「縁起」⇒「相互依存」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12263603617.html

全ての二者関係は究極するところ
自身対御本尊の二者関係が
姿を変えて現れているのであり

仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり
ということが当に真実なのだ。

逆に言えば御本尊というものが
本当には何を指して御本尊なのか
ということでもある。

もっともそれは日蓮大聖人が
文字曼荼羅として顕してくれたから
一切衆生に開かれているのだが

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり

また
然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり

なのである。

個々別々の二者関係
→御本尊と自身の関係の現れの影
→仏と法華経と衆生、御本尊と自身の而二不二
→九識心王真如の都、無分別智、非二元

<かんながら>独坐大雄峰
http://abetoshiro.ti-da.net/e9468604.html

何か連続してシンクロしている。

「出る」という感覚の開放の味わい。
それを促す意識の置き方使い方。
呼吸と昇天。

そうした時の自在の智慧。

「分かっていない」妙法。

自受用報身如来の覚知。

観念論の反転の大御本尊。

その化儀の広宣流布。

無上道の智慧を開く。

そういう断片断片。

法華経がある。

それを力強く呼び出だす唱題。
非二元の世界。

すらすらと文章化して
伝えられはしないので
もどかしいですね。



[761] 無限パズル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 7日(金)04時29分24秒   通報   返信・引用

仏法における
「同じ」「違いが無い」
ということの
十界それぞれの
「そのまま」という時の
「そのまま」というのは
分かっていない方の
「そのまま」である。

不可思議の方の
「そのまま」である。

人生の複雑さ
宇宙の複雑さ
そこにストーリーを構成する時
その置き換え組み換えが出来る種類が
無限である場合

知りえていないストーリーの割合は
99.99999・・・・%で
数学上イコールで100%である。

「私とは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。
「それを分かっているのは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。
「それ以外を分かっていないのは誰か?」という問いに「私」と答えてみる。

「分かっている」は「分かる」と「分かつ」の
二重の意味の現在進行形として見れば

私が分離させて比較して
私が一方に正を、もう一方に反を見て
0%の世界の中で一喜一憂している
自作自演なのであるが

私の側から見れば
むしろこの世界の方が
世界のほとんどであるかのように感じ

この世界での出来事が
全く自身の幸不幸を決めてしまうように感じる。

むしろ100%である方の
分断の無い未知の「分かっていない」世界には
無関心であることの方が日常である。

九識心王真如の都・不変真如の理・隋縁真如の智
というところの真如とは無分別智であり
100%の「分かっていない」方である。

分かったら究極的にはそれではないので
誰にもそれは分かっていない。

それは何ものをも分かっておらず
全ての何ものも100%それである。

その100%に0%の膜の経験がある。

意味を分かろうとする時
分離した何かと分離した何かを
結び付けて物語を構築するが

そうしてしまうと
分かっている0%の方に向かう。

「工夫は唯だ 人我の見を離る
見を離るるの機要
内 虚にして 外 事あるのみ
これ 人我を 離るるの道
これ 坐禅の玄旨なり」
http://matsu880.blog93.fc2.com/blog-entry-123.html

「分からない」のではなく
「分かっていない」を観る。

「分かっている」は一界しか観ていない。
「分かっていない」は十界を観ている。

己心にこの不可思議の十界を観る。

「一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念々に起こるなり
謂南無妙法蓮華経は精進行なり」

分かっていない余すところの無い
そのままの智慧の全てを
譲り受ける唱題行である。

知的理解でないものを
知的に理解の補助をしようというもので
難しいことを書いているようであるが

それは文意を追うからであって
やってみりゃ
ただそれだけのことの意識の使い方。

期待依存することなく
「分かっていない」を観ればいい。

<池田名誉会長講義 御書と師弟 第3回 御義口伝と青年
2008年12月25日付 聖教新聞>
http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20081225.txt



[760] 美しき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 6日(木)03時19分10秒   通報   返信・引用

良い歌声ですね。

師弟の心、師弟の魂。

その息づかい。

確かな歓喜のあった学会。

崩れざる黄金の魂を
今再び一人ひとりの胸中に。

師弟不二の道を。



[759] こちらの声が好き

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月 5日(水)08時53分39秒   通報   返信・引用

蘇生さん、こんにちは

下記、途中まで独唱する彼女の声が好きです。(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=oYgpkyAcFEw

http://macska2012.blog.fc2.com/



[758] 不可思議の妙法のリズム

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 5日(水)02時01分17秒   通報   返信・引用

当然、この掲示板だからこそ
サイヤさんの祈りもあって
そういう全体によって
起こっているので

私個人が何か超能力とか
そういうものをもって起こしているのではなく

必要なことが必要な順に
ただ起こって無駄がない。

分離したこの身を見れば
卑下したくもなるけれども

ひとたび胸に御本尊を輝かせたならば
生命の讃歌を歌い上げよう。

サイヤさんの宿坊への投稿
その勇気も

間違いなく何かを開いた。

地球の目覚めの
大御本尊の合致の
生命の世紀の実現の

奏者のハーモニーは

大河の流れのように
一度や二度といったことではなく

その在り方全てが無限となって
この流れは誰人にも
止めることは出来ないと

師匠が愛をもって讃えた
そのものなのだ。

前投稿[757] 自己機能を伴った思考は
2017年 4月 4日(火)11時44分42秒

~~自己機能を伴った思考では
奏者のハーモニーが
プレゼントしてくれている。~~

<かんながら>ちょっとした練習
http://abetoshiro.ti-da.net/e9461834.html
2017年04月04日 Posted by Toshiro Abe at 11:47

~~( ̄д ̄) 「夢から覚めようとジタバタするんじゃなくて、お前が静かになればいいじゃん。

夢の成分は思考だから、思考を静めてみな。

すると思考の外側には、ただ静かなプレゼンスがある。

それが、お前が求めている幸福の時間だら」~~

不可思議が
「思議すべからず」と読むことの
それなんだけど

この妙法のリズム

宇宙のリズムとの合致。

この生命の全て。

余すところなくそれになれば
それの生命を開けば

ただ海原に向かって
流れてゆくに違いない。

<YouTube>青年よ21世紀の広布の山を登れ
https://www.youtube.com/watch?v=6IFNBBLQCgY



[757] 自己機能を伴った思考

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月 4日(火)11時44分42秒   通報   返信・引用

同じ思考パターンのステージ
枠内に囚われている限りは

例えばギャンブルでディーラーに
心情が把握されている状態で
ああすれば勝てるか、こうすれば勝てるか
次こそは勝ってみせると意気込んでみても
結果に一喜一憂することを俯瞰されて
「ギャンブルをする」ということから
抜け出せないよう支配されている。

掲げた目標に向かって貫き
反省もし研究も重ね熱を上げるほどに
掌の上、用意されたステージの上で
思い込みの思考がぐるぐると回る。

ぐるぐるぐるぐる六道ぐるぐる。

第六天の魔王が用意したステージで
自我の愚考は熱い思いを煽られて
冷めることができずに血走った目で
自分の信念を押し通そうとするのだ。

その時には必死で懸命なんだけど
目が覚めて熱が冷めて後から振り返れば
あの時は若かったなぁバカだったなぁの
一笑の話になる。

愚考から抜け出さない限り
一生は一笑に終わっていく。

抜け出すためには
第六天の魔王を俯瞰し返す視座が必要になる。

冷める必要があり覚める必要がある。

与えられた言葉に特別なイメージを付け加えて
特別な世界、特別な自分を作り上げていないかどうか。

頭の中にしか存在しないものなのか
もっと内奥から何をせずとも起こっているものなのか?

ただただあるものはあるものとして
起こるものは起こるものとして
何も付け足さず
ただ腹からの呼吸になってみる。
ただ南無妙法蓮華経になってみる。

愚考というものは常に
外からの作用に対して
反作用することによって
どうにもならないものを
自分の中、あるいは自分そのものとして
作り上げているのだ。

こうして生命に詰まった余分なものを
排泄するという自己機能を働かせる。

思い込みが何を反転させてしまっていたのか。

考えるでもなく
そのまま見て取るのだ。

これをもたらせている
内奥の生命のままの輝きに
私を添えて奏でてみると

物事の順序が反転する。

今までの愚考は
起こり終わったことに
あーだこーだと言っていたが

今や私は
全体の生命の上で起ころうとしていることが
知ろうとするでもなく
全く不思議なことに
ここにあるのだ。

何の不手際も無く
何ら余すところなく
生命がただある。

自己機能を伴った思考では
奏者のハーモニーが
プレゼントしてくれている。

起こり終わったことに
声を乗せても
自分に跳ね返ってくるだけであるが

起こっている波そのままの声は
どこまでも遥か
消えることなく響き渡る。

私は生かされている。

私はそれである。

あるのだ。



[756] 観念観法と一生成仏

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月30日(木)13時21分13秒   通報   返信・引用   編集済

「観念観法と一生成仏」なんて括りにすると
「日蓮仏法は観念論じゃないんだよ」なんて声が
聞こえてきそうであるが

多くの場合のそこには
「観念論じゃないんだよ」の誤用があると思う。

それこそ「観念論じゃないんだよ」という
観念だけが独り歩きしている観念論になっているのだ。

これもまた池田先生の側と
そうじゃない組織人間の側に
まったくの反転が見られるのだ。

学会組織の意向に慣れ親しむと
学会本部というものは
池田先生の意思の通りのことを
実現させていくことをしている
深い師弟の信心のあるところだと思い込み
その正当化に加担する生命が起こる。

純真なだけでは利用されてしまう。

「観念論」という言葉を調べると
観念観法の仏法的意味の場合と
哲学のイデアリスムを指す場合と
単に現実に基づいていない頭の中だけの観念
というような種類が分けて記されている。

組織人間の側が「観念論だ」「二乗根性だ」
と言う場合、対話拒否のシーンで言わないだろうか?

「難しいこと言っていないでとにかく従え」
という傲慢な根性だ。

また、きれいごと言ったってお金がなきゃ組織は運営できないでしょ?
きれいごと言ったって票が集まらなきゃ民衆の生活を変えられないでしょ?
そういうことが上手く回るように
方々手を尽くして私にしかできない戦いをしているんだから
少々汚いことのように見えたって
そこは信心で受け止めなさい。

みたいな全然仏法じゃないものが基調になって
結局、仏法者として絶対に師子吼するべき時に
全く何も言えず長いものに巻かれる羽目になる。

<随筆 新・人間革命 279 法悟空
不二の旅立ち「8・24」③>
http://shiohama.web.fc2.com/zuihitu-279.html

~~「師弟直結」で戦うということは、いかなることか。
 師は、「戸田の命より大切な創価学会の組織」と言明されている。したがって、この学会の組織で、広宣流布の拡大に戦うこと以外に「師弟直結」はありえない。あとは、観念論だ。
 とともに、私は、わが師への無数のいわれなき悪口誹謗を断じて放置しなかった。こと師匠と学会の正義を冒涜する者に対しては、相手が誰人であれ、真っ正面から破折していった。~~

~~青年は、流れを傍観しながら、ただ先輩に追従しているだけでは絶対にならない。
 断じて、臆病な野干(キツネの類)が吠えるごとき、遠吠えであってはならない。
 正義の信念に立って、自分自身の勇気と努力で、新しい流れを起こしてこそ、青年であるからだ。
 私は、師を苦しめ抜い宗門と憤然と対決した。 ~~

<随筆 新・人間革命 262 法悟空
新会員の友を全力で育成>
http://shiohama.web.fc2.com/zuihitu-262.html

~~めぐりくる春の、その花びらは美しい。  人間の歴史には、厳寒のごとく虐げられた、苦痛の歴史があまりにも多い。  しかし、春の勝利は、忍耐強く待つことである。

 そういえば、二百年ほど前のドイツの著名な学者が言った言葉がある。  その大意は、自分自身を根本的に改善していくことによってのみ、そこに新しい光が、自分自身の生存の上に、また使命の上にさし登ることができる――というものであったと記憶している。

 ともあれ、その彼、フィヒテは、心の改善のみが真の知恵をつくりあげると訴えたのである。  これは、私たちの叫ぶ人間革命、精神革命の大道を歩む正しさを証明し、励ましてくれる言葉ととれるであろう。

 フィヒテは、カント、ヘーゲルとともに、ドイツ観念論を代表する哲学者であり、べルリン大学の学長も務めた教育者であった。  大変な苦労人である。  紐織り職人の子として生まれ(一七六二年)、青年時代は貧困と不遇のなか、学問の道で身を立てんとして努力を続けた。~~

戸田先生も池田先生も
「哲学」と「仏法」を否定しないし
むしろ絶対に必要としている。

ただ観念の遊戯に終わることを否定している。

<赤鬼のブログ>
一念三千法門 第六章観念観法も妙法五字に納まる
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1777631.html

~~これまで天台大師の法門をふまえ、観心修行による成仏について述べられてきたが、本段では天台家の一念三千の観心・一心三観も、所詮は妙法蓮華経の五字に納まるとされ、その意義を天台大師の釈を用いて明かされている。
 当時の天台宗・禅宗のあいだで、経を読誦しなくても観念観法の修行のみで成仏できるとしていた邪義を破されながら、日蓮大聖人独自の立場から末法適時の正義を示されるのである。
 すなわち、天台大師が法華経によって立てた一念三千の観念・一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まるのであり、妙法蓮華経の題目を唱えることであると仰せられている。
 それは、一心三観は、所詮、妙法を悟るための修行の方法にすぎないからであり、文永11年(1274)ご述作の立正観抄に「妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり」(0531-01)と述べられていることでも明らかである。「観門」は実践的修行方法のことである。換言すれば、天台大師は自身の内証の妙法を秘して、外用として一心三観・一念三千を説いたということができよう。
 しかも、この妙法蓮華経の五字は「我等が一心に納りて」と仰せのように、我ら衆生の生命の当体である。観念観法の究極の悟りである妙法蓮華経は、もともと衆生の一心に納まっているのであるから、妙法蓮華経の五時の題目を唱えることによって、我が身が妙法の当体であると覚知し成仏することができるのである。
妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵
 天台大師自身、妙法蓮華経について、法華玄義本序で「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり…三世の如来の証得する所なり」と釈している。
 この文について、元意の辺でいえば「本地甚深」とは久遠元初をさす。すなわち、妙法蓮華経は人法一箇の久遠元初の自受用身が胸奥に秘めておられる大法であり、三世の諸仏が等しく成仏得道した能生の根源である、との意である。~~

その意を聞き理解しようというのは声聞である。
その意のままを体感で覚知しようというのは縁覚である。
その意のままに化儀の広宣流布をしようというのは菩薩である。
その意をもって化導する、意の前に久遠元初からあって
意を意としてもたらさせているのが仏である。

日蓮仏法において
己心に十界を観る
観心の本尊が肝心である。

<アルベアのブログ>「観念観法」1
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12212969271.html

「観念論ではいけない」ということの本来は
悟りとか深い仏法哲理とかは必要ないという事ではなく

「仏法哲理は深いなぁ」ということに
出会えたことだけに幸せを感じて終わるのではなく

この深い仏法哲理をもって
現実の人生を
現実の社会を
現実の世界を変革していくことにあり

深い仏法哲理が
現実の平和構築にあって
絶対に必要なんだという事である。

日蓮仏法の主軸がしっかりあるなら
色眼鏡で選り好みするのではなく
学べる機会があるなら
貪欲に学ぶというのも一つである。

現象のあり方に気づけばそれは
それによって自身から失うものなどなく

ただ南無妙法蓮華経がある。

ただあり
絶対に大丈夫なのだ。



[755] 無分断の御本尊

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月28日(火)05時35分0秒   通報   返信・引用

えーと、昔話の続きで
男子部に上がって
理想と現実のギャップとか
色々あったり

学生部上りが未活になる確率が
高いというのは言われることであって

少なくとも一度は壁にぶちあたる

なんかさ、学生部の純粋な目線から
学んだ池田先生の理想の組織と
実際の四者組織ってなんか違うじゃん?

まぁ、それはさておき

法華経の智慧ですよ
目を輝かせて読みましたよ。

まず一つは
全ての人に仏性があるんです
これはすごいことなんです

ってことを宣揚し
自分の知人、また地域の人、世界の民衆の
幸福を願い祈るわけです。

で、部員さんから問われる
「その仏性は本仏と同じなのか違うのか?」

はたと困ってしまいまして
思索をするわけですが

思考概念の上では
「違う」と答えざるを得ない壁があるんですよね。

違うと答える宿業の
命だったという事なのでしょう。

違いがあると思えば無益であるという
内容の御書があるかと思います。
そちらをとるなら
「同じ」と答えるべきでした。

学会版の御書全集に収められている
中には、そのあたりの二重性があって

「よく御書…を読む場合、全体を把握しつつ一か所を深く読みとらなくてはならない。また、一か所の意味を深くくみとりつつ、全体をトータルに理解していかなくてはならない、といわれる。
なぜならば、一遍の題目でも成仏できるという意味の御書もある。更にいくら長い間、信心していても『うるし千ばいに蟹の足一つ』で地獄におちてしまうこともある。これらは相矛盾するような御金言のように思えるが、この点を間違えてしまうと、教条主義の弊に陥り、御書を正しく拝読したことにはならない。重大なあやまちをおかす場合が多いのです――と。会長はよく言われますね」

というレベルとは
趣が異なるのではないかと思う。

まぁいいんです

今は私は「それそのもの」と答えるだけです。

それは思考概念で答えたって仕方のないことです。
究極的には。

それはそれとして

当時もう一つ私の主張したことに

「御本尊には分断だけが書かれていない」

ということを言ったんですよ。

その当時ですから
まだ思考概念なんですけど
その理解の上でなお
分断が無い
ひと繋ぎの世界だと見たんです。

昔話はこれぐらいにして

御本尊の論議は
よほど機が熟さないと
まともな論議にならないんじゃないかと思う。

元来の創価の御本尊への信仰は
一切が大御本尊を中心としたものだ。

法華経の信仰は
ただ一のみあって
二も三もない。

大御本尊が自分のところにないなら
じゃあこの御本尊
というものじゃない。

現段階では私は
大御本尊への真っ直ぐな信仰を否定しないし
かといって本当に未来が開ける最善の選択が
あるのだというのならば
それが絶対にないとは私個人は言い切らない。

それはそれとして
御本尊の問題とは別個に

私個人としては

「脱構築」とか「チャクラ」とか
同じものに行きついているかもしれないものを
当然、中身を知る前から門前払いにはしない。

サイヤさんの志向性を尊重することと
私自身の志向性とは角度の違うことである。

まぁ読まざるを得ないものであるなら
読むことになるだろうし

今のところ、あえて
どうしても読もうというものでもない。

真実は静かに
誰に見られずとも
それを起こしていくものなのだ。

潜水艦のようにね。



[754] Re: Re: ふと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)22時23分33秒   通報   返信・引用   編集済

サイヤさん回答ありがとうございます。

加筆修正の
「民衆仏法の確立」について考えてみた
読みました。

なるほどやはり
大御本尊の受持ということが
根幹なのですね。

思えば執行部の
「大御本尊を受持の対象にしない」
というのは

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
ですから

「成仏の方途を捨てます」と
言っているようなものでもありますね。

「とにかく耳障りの良い言葉で
信心をしている気にさせてあげますから
私たちの言うとおりに一生懸命働いて下さい」
なんていうのは欺瞞しかありません。

<赤鬼のブログ>四条金吾殿御返事(此経難持御書)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1584721.html
~~「天台大師の云く『信力の故に受け念力の故に持つ』云云」
 受と持の根本的な違いがここに明らかである。信と念との相違が、それである。信とは、まだ、仏の言葉あるいは御本尊、妙法を自分以外に置き、ただ、それを疑わないという段階である。「受」という言葉がしめすように、与えられるものを受けるという受け身の姿勢である。
 それに対して、念とは、仏の教え、御本尊、妙法を我が生命として、主観的、能動的に実践していく姿勢である。自身の内にとりこみ確立したのであるから、外界からのいかなる障害、迫害がおそってこようと、崩れることはない。故に、持続しくることが可能となるのである。
 先の「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」ということも、このことからふり返ってみるならば、単に、入信と、その後の信心の持続という関係ではなく、瞬間瞬間の信仰の姿勢の相違を述べられたものと拝せるのである。~~

誰が何を受け何を持つのか
師弟も信仰も
その生命の縁起の智慧の活動でもあり
だから一生成仏もあるのだと思います。

「抑此の経釈の心は仏になる道は豈 境智の二法にあらずや、 されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」
<赤鬼のブログ>曾谷殿御返事(成仏用心抄)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1602024.html

御本尊には万法の体の仏の不可思議境と
その自体顕照の姿の智慧が顕されているから
凡夫の想念で軽々しく判断して
受持の対象にしないなんていうのは
おかしいですよね。

<宿坊の掲示板>
戸田先生指導:御本尊に関する質問  投稿者:寝たきりオジサン
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65859

私自身は広く模索している側でもありますので
縁に随って色々と書いていますが

この掲示板が中心となっているのは
大御本尊の仏智による縁であることを外せば
たちまちに悪縁に随っていることに
なってしまうからでもあると思います。

また気になることがあれば
質問することもあろうかと思います。

よろしくお願いします。



[753] Re: ふと

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 3月26日(日)16時41分30秒   通報   返信・引用

蘇生さん

投稿ありがとうございます。

先ず文字面をよく見てください。
松戸氏は「日蓮仏法2.0」と云っています。
これは日蓮仏法そのもののヴァージョンアップです。

それに対し日寛教学というのは、大聖人の仏法の教学の部分を
日蓮仏法に即して解釈・宣揚していることになると解釈しています。

松戸氏の著作をまだ読んでいないので、文字面からだけの判断ですが、
真蹟御本尊の版権を得てその書写を配布していると聞き及んでいますので、
日蓮仏法2.0は日寛教学と云われるものとは次元を異にすると思われます。

蘇生さんの云う「日蓮真蹟主義」が何処までを指すのか分かりませんが、
上記のような所見ですのでそちらに組することにはならないと思います。

「民衆仏法の確立」にも法体の広宣流布ということで書いています。
そちらも参考にしてください。
(最初ここにアップしたものに加筆修正があります)

http://macska2012.blog.fc2.com/

http://macska2012.blog.fc2.com/



[752] ふと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)15時32分34秒   通報   返信・引用

サイヤさん
気づいた部分で、私情ではなく
論理的な部分で一点指摘しておきます。

<宿坊の掲示板>
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66360
日蓮仏法  投稿者:スーパー摧邪人  投稿日:2017年 3月20日(月)22時32分25秒

日蓮仏法に2.0とか3.0とか定義したら、それは既に日蓮仏法ではない。
松戸仏法(松戸本仏)というのなら、まだ話は分かりますが。
http://macska2012.blog.fc2.com/

との事ですが
置き換えれば

日寛教学とか学会教学とか定義したら、それは既に日蓮仏法ではない。
戸田仏法(戸田本仏)というのなら、まだ話は分かりますが。

という日蓮真蹟主義の主張に分がある方向になります。
これはパラドクスなんですが

どういった部分が肝心となってくるのでしょうか?



[751] ワンピースの生命

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 3月26日(日)14時50分17秒   通報   返信・引用   編集済

二十歳ぐらいのことだか
仏法対話の中で

「お前それは自分が無いじゃないか」
「自分の言葉で言っていないじゃないか」
「そんなのは綺麗ごとだ」

なんて言われて
でも自分としては自分で考えて
自分の言葉で言っているつもりで
確かにあるものの実感のはずで

「御本尊に祈れば分かります」
なんて言えるだけの自信があれば良かったんだけど

元々の性格や生い立ちもあり
不安症で自分を卑下しているようなところがあったから

綺麗ごとって何?どういうこと?
その自分って何?どういうこと???

ってな感じで、
世間の感覚が分からない自分が
ズレた人間なんじゃないかと
不安を感じていた。

自分って何?自分ってどういうこと?
自分、自分、自分・・・

その苦しさと
御本尊に向かう時の絶対感と

学生部の活動の中で
御書を学び池田先生の指導を学び
学会の歴史を学び。

そういう魂の原点・原石。

今、法華経を生命論で見るならば
自分というものの強い固執というのが
法華経の会座にいられなかった
退席した五千人であると思う。

そういったエゴの強い人師論師の言を
選択して末法は迷いの文化が築かれている。

一見、そういったエゴを離れた
悟りの世界を究めたような仏教宗派も

その実、法華経の生命の智慧を根本と出来ないのは
末法においては結局、五千人の末流となってしまっているのである。

自分という分離の消失した
非二元・ワンピースの生命としての法華経を見れば
今ここの一念三千そのものである。

個々別々の法華経ではなく
末法においてはこのワンピースの
南無妙法蓮華経に帰依するのである。

この時、二処三会は人間の思う
時間空間の物語とは異なる
フラクタルのタイミングの
縁起の智慧となる。

これは広義の声によっての
妙の三義「開く」「蘇生」「円満具足」
の実現である。

生命感覚的に虚空会は
誰もが参加しているし誰も参加していない
分離した自分の無い認識前の気づきである。

後霊山会は、それがそのまま今ここであることの
気づきの認識後の流布の世界である。

前霊山会は、その気づきがもたらされるための
退席した五千人も含めた
生命の実相という全て。

「その時」を自覚した時が「その時」であり
「その時」の全ては霊山会の実相なのである。

日々の勤行唱題は
そのような太陽の仏法の生命が

あるようにある
このままがそれであるという

智慧の門に入る信心の
帰命の儀式なのである。

この法華経のワンピースの生命の中にあって
分離した自分や対象化した他が無い次元において

誰が言ったから、どういう考えだから
そういうことは凡夫の側の時間空間のことであって

仏法そのものの生命の現象として
そこに本当の悟りが語られているなら
それがまさに悟りというものであるし

そこに本当の真実が語られているなら
それがまさに真実というものである。

それは受け取り手の境涯が
執着の迷いの言葉とも取るし
否定して闘争する言葉とも取るし
自分の利になる言葉とも取るし
平和実現の希望とも取る。

自身の生命が法華経である時には
法華経として聞けるのである。

その時には人の言葉を聞いているのではなく
法の声を聞いているのである。

順序としては
まず何をおいても日蓮仏法を専念して学び
その後、その軸が歪まないなら暇があれば天台も学びなさい
というのは日興上人の遺誡である。

聞法下種も発心下種も
功徳は同じだから

ならば語る内容としての
組織信仰への勧誘や
聖教新聞の購読や
選挙応援の依頼ではなく

どれだけ純真に
信心の心の声を響かせられるかに
功徳があり

乱暴にやったって功徳なんてないよ。

乗り越えていきましょう。
皆で勝利しましょう。

絶対に大丈夫です。

永遠不滅です。

あなた自身がそれなのです。


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