いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


772件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[835] 生命現象として見る

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月19日(土)11時53分8秒   通報   返信・引用

しかし書いてみて逆に気づいてみると

ーーこれはただ誰に向けているのでもない言葉であり
ただその時そう見える記号であり
それに対してどういう感情が起こるかは
一切自身の問題であり

問題が有るということに気づけるのならばむしろ
「ありがたい」とも受け取れるものである。

<かんながら>お悩み専用スペース
http://abetoshiro.jp/archives/3305993.html

↑これもクッションです。

「自負する」という言葉があるが
自負する必要ってあるのだろうか?

「私は〇〇だと自負している」
これって分離宣言とも言える。

大石寺から分離した宗教団体は創価学会だけではなく
その分離の元凶は
大御本尊を中心とした戒壇思想にあるのではないか?

顕正会なんて顕著ですよね。

アブラハムの宗教と言われる
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教

共通の聖地であるエルサレムは争いの種であり
「国際管理地区」として国連に管理されている。
http://honkaramanabu.seesaa.net/article/446280668.html

下種の日蓮仏法と言っても
南無妙法蓮華経と唱える宗教が
どれぐらい枝分かれをしているかを見れば

その下種というものは
自負というものとは別の何かでないと

平和にはつながらないのではないか?

どの仏教宗派にも
基本的には仏の真髄は自分のところにあると
自負して開かれている事だろう。

「悟りの生命現象は同じ」ということによって
自負の解除をすることが
平和へと繋がらないだろうか?

最も意味を持たないシンボルというのは
そういう方向性を持ちえないだろうか?

生命現象として見る。

<イマジン・ハッピー・ライフ>法華経唱題による徹底的な生活実践指導
http://imagine-happy-life.tokyo/blogs/post/24

御本尊への勤行唱題が正しいっていう自負の思い込み信じ込みではなく
生命現象として見てみる。

俯瞰しなければ戦争は無くならないのです。

<youtube>Why war won't over?なぜ戦争がなくならない?02
https://www.youtube.com/watch?v=8ZxIkcUO6P0

最も正しいと思うものによって
むしろ分離していく。

日蓮大聖人・大御本尊
正宗教学・学会教学
戸田先生の指導・池田先生の指導

いかに愚考の歴史であり
それを生み出しているものは何かである。

後世の一心の愚考なのである。
固定化された絶対な特別というものを分離する愚行である。

分離させて持ち逃げすれば溝は埋まらない。
そもそもそれを生み出したのはその行為だ。

最も意味を持たないシンボル。
所有者のいないシンボル。

体感によって
その高い抽象度を
歓喜のエネルギーとするのだ。




[834] 涅槃

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月19日(土)00時10分28秒   通報   返信・引用   編集済

未練や執着が有ったら涅槃じゃない。
でも、涅槃でも願いや慈悲はある。
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
との通り。

つまり仏性(非二元)の上での願いというものは
未練や執着とは全く異質のものである。

きれいさっぱり未練も執着もない上で

何者も今以上になるということは無いし
何者も「今ここ」「これ」以上のものを得ることは無いと
完全に受容している上で

すでに比較すべきものの何も無い
一即全、全即一の
ただ慈悲、ただ願い、ただ智慧だ。

それはその時、完全に成就されている。

本仏というならそういうことであり
「日蓮大聖人」というのは
最も意味を持たないシンボル
というのは
その境智を褒め称えればこそである。

仏性(非二元)というものは
解除・解放・開放によってあるのだ。

自我機能の囚われが無明であり
気づきによる実存が法性なのである。

同じ御本尊を信じても
自我機能による決めつけが介在する分だけ
無明に覆われているのである。

誰の問題でもなく自身の問題である。

大御本尊はここにある。

むろん思考概念のレベルや
未練や執着のレベルで言っても
それは違うだろうし

必ずしも「大御本尊」なのかどうかは
その実在に対しての
その人の信心によるかもしれないが

私がこの掲示板で言う分には少なくとも
「大御本尊」なのである。

「最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
https://plaza.rakuten.co.jp/anboclub/diary/201008300013/
(随筆「我らの勝利の大道」20)

ただ雨は降り
ただ声は響き
ただ熱は迸り

それはいささかも変わることなく
まさに今ここなのだ。

学会員が何を誇り
学会員が何に奮起し
学会員が何に怒り
学会員が何を柱として
歴史を刻んだのか。

堂々と歴史を語れない欺瞞の組織になるためだったのか。

悟りとは言っても
そういう思いに蓋をすることによるものでは無いのだ。

編集追加<Care of the Soul>投影~思考は現実化しない♪~
https://ayukablog.wordpress.com/2017/08/13/投影~思考は現実化しない♪~/

押し殺したり単純に忘れたりすることと
解除・解放・開放は違う。

本当に晴れやかに
きれいさっぱりとなるまで
最後までやりきる。

いまさらやめてはだめなのだ。

自身の本質はシンプルなはずである。

複雑になっているのは知らず知らず言い訳であり
ごまかしである。

自身は今ここにしかいないし
本質はどの時もこの時も一切変わらず
「今ここ」というものしか無いのである。

ここに一切が含まれて
これが一切である。

この事実だけが事実であり
誰も逃れることは出来ない。

これ以上のものも
これ以下のものも無い。

一心が世界を地獄にも
一心が世界を仏国土にもするのである。

どの如是の面
どの世間に対してもである。

心王というものは
一人一宇宙
一人一宗
一人一本仏でもあるのだ。

不二なのだ。



[833] そもそも宗教

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月17日(木)03時17分10秒   通報   返信・引用

エネルギーは高いところから
低いところに向かって流れる。

会長から会員の方向。
御本尊から信仰者の方向。

でも、それだけだと縦社会ですよね。
平等的な仏法じゃない。

空という状態から正邪を見出す
その分離過程にエネルギーが生じる。

非二元から二者関係が生じる
そこにエネルギーが生まれる。

初めからガチガチに分離した自分であれば
そこにはエネルギーは生じないわけだ。

自己をエネルギーの高い
一心の三智の状態にするから
そこから何か行動をする時に
それがエネルギーとして放出する。

それを実現させたのが
戸田先生であり池田先生だ。

その次元を継げるものがいるのか?

本質として今、何が現象化しているのか?

大御本尊をキープできるだけの
空の体感の後継者がいなくなっている
という正法としての存続問題だ。

言葉であれ人であれ組織であれ対象物であれ
そのものが、そのものとして
絶対であることが無い事は

そもそもそれが仏法だ。

苫米地英人氏の動画が
これはなかなか面白い。

うん、まぁ、これは、
見てどうかは、自己責任だけどね。

アルベア論のぷるぷる気功の張永祥先生とも絡んでいるみたい。
<アマゾン>ドクター苫米地&神の手氣功師「すごい氣が出るDVDブック」

だから信用性が有るという話しではないのだけれど。

<youtube>苫米地博士による『人はなぜ、宗教にハマるのか?』紹介動画
<youtube>苫米地博士が語る「気功の科学」 【苫米地英人×長倉顕太】
<youtube>【苫米地英人VSダイゴ】宗教と超能力との関係とは?

<youtube>【悪用厳禁!】苫米地英人「一瞬で相手をひとめ惚れさせる方法」
一瞬で相手をひとめ惚れさせる方法自体より、前半の話が、面白い。
方法自体はね、悪いことに使ったら還著於本人だと思いますよ。
話しの中でも出てくるけど、今世を越えた血脈まで信じさせる手法でさえありうるってことだね。
思い込み信じ込みへの介入の技術。
次元は違っても、創価学会という宗教団体が
そういった類の技術を一切使っていないかと言うと
善悪の判断はおいておいて、無くはないでしょう。
いやむしろ、臨場感があればこそ力ある宗教でありうる面が有るしね。
善悪無記。ただある。



[832] ざっくり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月15日(火)23時37分32秒   通報   返信・引用

神秘体験→自己機能
教学との整合性→自我機能
在り方の変容→意識機能

発迹顕本→受信すべきものと発信すべきものの表裏

大御本尊→仮和合のシンボル

妙法→空を包摂する一心の三智

//一個宗教団体としての物語の塊

縁起の法→エントロピー型のゲシュタルト
空→最も情報を持たない一つ
(人間>霊長類>哺乳類>動物>生物>依正不二>ただ在る>有無に非ずという空)

空を包摂する妙法の大御本尊というシンボルを中心とした
中心に近いほど強い意味を持つエントロピー型のゲシュタルト

ここに神秘体験という自己機能が重ねられることによって
分離された神話世界でなく現実の上に展開する妙法

だが、そういう「思考概念」に偏ると内実が無くなる。

//

例えば、平行線をたどる二つの宗教があって
そこに一つの切り口で直線を引いてみると
そこに現れる角度は同じになる。

生命論の空観と
道元の生命観は

同じ「仏法」に対して
同じ「空」で切り口を入れるので
そこに現れる「角度」は同じである。

日蓮大聖人は様々な経典を
都合よく使っているようにも見ることが出来るが
何と何が同じであるかの指し示しと見れば
その全体像の包摂だとも見れる。

その包摂は
「日蓮大聖人の」己心の法をベースとして成されている。

この「日蓮大聖人の」という括りをどう見るかが
信仰者の在り方を左右するところとなる。

教義というものはえてして
指さされている太陽そのものではなく
さしている指を研究してありがたがる。

その超克のための自己機能の体感であり
他宗に対する批判が
自宗に対しても超克として現れなければ
それはただ、歪んだ偏頗な「指」になる。

歪んで正しい方向さえ示していない指。

ただ衆生を迷わせるだけである。

//

思い込みと信じ込みを分けてみると

思い込みとは
自分がどういう価値基準であるかを決めつけること

信じ込みとは
属している集団の価値基準が正しいと決めつけること

相互に強化される。
例えば、「信仰なんだからこれが当然だ」
という風にだ。

だが、釈尊・龍樹・日蓮らがした本質が
そういう在り方の否定だとしたらどうだろう?

信じれば信じるほど遠ざかる何かが
同じ一つの事の捉え方の中に生まれ得る。

だからある意味
戸田先生は空の覚知へ導こうとしたところもあるが
その空観が定着しなかった時点で
大乗仏教としては失敗だという一面もある。

しかし、池田先生が各方面
様々な識者たちと語り合ったことなどで
チャンスが残されている。

普遍性を開く道が残されている。

普遍性のために仮に考えてみると
「日蓮大聖人」というのは
最も意味を持たないシンボルとして
意味を持つ信仰である。

南無妙法蓮華経として一切が平等の
無限の価値の信仰である。

もちろんそれだって
思考概念であっては同じである。

いずれにしても
自我機能・自己機能・意識機能の見分け・区分けというものが成されなければ、ただただズルズルと終わるだけである。

<youtube>苫米地英人「仏教・釈迦の悟りの内容とは?」/博士の自由な対談 (映像版) [ 2010年6月17日 ]
https://www.youtube.com/watch?v=t9HqpMAtU9Q
↑般若心経のくだりは、阿羅漢果の特別性の否定に大乗仏教運動があるんだから、そこをつっこんでもしかたないだろうというつっこみを、つい思考概念で入れたくなるが、まぁ、一つの思考概念として、説明されているものではある。
今回の記事で、一部、この動画の縁起の概念と空の概念を採用している。

<youtube>【5金スペシャル・Part2】矢作直樹氏:霊魂と肉体: あの世とこの世を分かつもの
https://www.youtube.com/watch?v=z6bjgNLYCjY#t=2302.657542
へぇ、スピリチャル勉強してるんだ、って感じです。東京大学名誉教授という肩書で堂々と語っている。近年の一部学会員の、ちょっとでもオカルトの気が有るものを拒絶する姿勢と比べて、どちらがより生命に対して真摯な態度であるかということだ。

<youtube>価値基準と無限の価値の無意味の非二元の話
https://www.youtube.com/watch?v=iKhNuV7e-9s
作ってみた動画だ。思い込みと信じ込みの違いの気づきはここから。アウトプットの時にもたらされるものは多い。

<youtube>Fermat's Last Theorem: フェルマーの最終定理
https://www.youtube.com/watch?v=se7s17x39eA
以前にも紹介したことがあるかとも思うが、数学ミステリー白熱教室よりである。より高い次元から見た「同じ」の模索の可能性。



[831] 昔からある場所

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月14日(月)01時13分36秒   通報   返信・引用

言葉は不便だ。
言葉は思考だからだ。

言葉は便利だ。
言葉は指し示しであり現れだからだ。

不可思議という言葉は
不可思議そのものではない。

不可思議があるということを示しているにすぎない。

考えることが出来ないものの覚知に
一体どれだけ言葉を重ねることに意味があるだろうか?

考える自分があるという風に
考えによって自分を考える自分があるという時

考えている自分を考えることが出来るということは
その時それは考えられているのであって考えているのではない。

自分というものは考えによって考え出されているにすぎない。

何も、何の違いも知らず何の言葉も持たない時には
あなたはただ訪れる現象だ。

例えば数学であれば
全ての自然数の和=-1/12
全ての素数の積=4π^2
といった一見、通常には理解出来ないような式も
論理的に突き詰めて理解されるべきものである。

ところが覚者によって
「これ」「今ここ」「妙法」等と言われるものの本質は
本当の不可思議の気づきそのものであって論理では無いのだ。

その本質は何の救いもなく
完全な救済である。

宗教やスピリチャルや哲学は
それを思考で理解しなければ
それになれないわけではなく

もしかしたらあるいは
何の予備知識もなくその本質に気づいてしまったら
あまりにもいたたまれないから
指し示し導くと同時に
はじめから緩和するための嘘としてあるのかもしれない。

方便というやつである。

説明できる何かのためではなく
不可思議のためのそれなので
それを分析しても
それの現れではあっても
そこにはそれは無い。

本質は初めから救われている。
救われておらずいたたまれないのは
マインドであり自我機能である。

しかしそれは解放され救済されるのである。

自我機能・自己機能・意識機能の区分けによって
スムーズに救済されるのである。

最初はそういうスタートなのだ。

後世の人間の思考概念が
あーだこーだとややこしくして
選民気取り・選別者気取りで
一向に救済が無くなっているのである。

ただあることに
あってみなさいということである。

何を考え出さなくても
初めからそれであることを思い出すために
ただ一心が有るということに
考えを付け足さずに素直に向かうのである。

誰の言葉だからどうだなんてことは
そこで考える必要はない。

自身があるだけだ。

我見を恐れる?
誰の言葉を信じるかの選択も我見だし
自分一人で判断するのが我見だというのも我見だ。

我見を捨てるというなら
一切のマインドのおしゃべりから離れることだ。

その時そこに、どんな感じがあるのか
味わうのだ。

忘れられていた自分自身を思い出して
受け入れて、味わうのだ。

その本質は、深く味わえば
自分(だと思っていたもの)だけのものでは無いのだ。

だからその本質の味わいこそが
本当に我見ではないものである。

それまで自我機能であった時には
全く余所ごとの物語であったり
全く空虚な言葉にすぎなかったものが

それらが本質の体感であることに反転する。

ああ、全くその通りなのだ。

仏の言葉は、神の言葉は
全くその通りに
ここにあふれているのである。

<youtube>エックハルト・トール
https://www.youtube.com/watch?v=aKlIBhTkHSw
https://www.youtube.com/watch?v=iWJyabSgaKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VUHzA67Teck
https://www.youtube.com/watch?v=VWV6-hFNuKw
https://www.youtube.com/watch?v=uAthYt7zUUk

律動法1.スワイショウ
<youtube>【実演】究極の朝の運動Ⅰ【両手振り運動】
https://www.youtube.com/watch?v=N16QwFFjcT8

2.プルプル気功
【究極の朝の運動Ⅱ】実践編ぷるぷる運動
https://www.youtube.com/watch?v=P-4SXh6tCb4

3.火の呼吸
瞑想 カパラバティで心地よく ~毎朝ヨガ習慣~
https://www.youtube.com/watch?v=BuGPJakuJLg
ヨガ動画 (2-1) :カパーラバーティ呼吸法
https://www.youtube.com/watch?v=_EuTE7QQAPU

4.スワイショウ

イメージ
生命現象~ゴールデンワールド~
https://www.youtube.com/watch?v=NfdgKZ7HR4U

気分転換<youtube>Hello, Again ~昔からある場所~ - MY LITTLE LOVER(フル)
https://www.youtube.com/watch?v=ULnypfsI4og



[830] 五百塵点劫

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月11日(金)15時18分55秒   通報   返信・引用

三次元+時間というのは
認識後の固定化の相対的世界である。

幅と奥行きが入れ替わったとしても
高さと奥行きが入れ替わったとしても
歴史は対称性から外れない。

だが、時間と奥行きが入れ替わったら
それは、この認識の物語は塗り変わってしまう。

時空の入れ替わりのパターン
1×2×3×4で24パターンの内

1×2×3の6パターンだけが
認識後の物語においても対称性を保つ。

三次元と時間に一貫している光速においては
時間経過はなく距離だけが存在するので

光速にとっては24パターン全てが
物語の無い対称性を保っている宇宙になる。

超弦理論の11次元の入れ替えパターンは
1×2×3×4×5×6×7×8×9×10×11で
約4千万(39916800)パターンになる。

先ほどの光速不変の24パターンは
この約4千万パターンの内にある。

この約4千万パターンの中には
光速を超えた伝達があるという
光速の法則が破れる量子力学的世界もある。

約4千万パターンの入れ替えで対称性を保つためには
超弦理論的世界の法則である必要がある。

シュレディンガーの猫に言われる
観察されて初めてあることがある
量子力学的世界も含まれる宇宙である。

つまりこの約4千万パターンの入れ替えで対称性を保つ宇宙は
有るのでもあり無いのでもある真理の宇宙である。

約4千万パターンの内の一つである
人間にとって正規の認識後の宇宙に
一念三千を観じ、三千通りの現れと見る。

約4千万パターンのそれぞれにも三千通りの現れを見れば
約4千万×三千で1200億通りになる。

この1200億通りが瞬間瞬間であり
1200億×1200億×1200億×・・・
というフラクタルが展開する。

さて、あなたは
この全てのパターンを一つ一つ読み上げ尽くすことが
出来るだろうかどうだろうか?

その、することが出来ないことが
されているのがこの宇宙である。

「今ここ」である。

光速の法則で時間の前後は無くなり
量子力学においてはその距離も無くなり逆行もあり
有るのでもなく無いのでもない。

例えば素数が無限にあることは
分かっている素数を全て掛け合わせ
1を足してみると、
まだ分かっていない素数を見つけないと
因数分解できないので
それはどこまでいっても終わらなく無限である。

無限でありながら
一つでもあり
無でもある。

実際に読み上げられている一つ一つの経験が
一念三千である。

それは差異があるということの強調ではなく

認識後だけに固定化されているような差異は
本当の真実からすれば
取るに足りないということである。

このように非二元の知見というものは
認識後の思考による見方とは異なるのである。

1200億×1200億×1200億×・・・
そのどれもが、対象化されるから認識されるものであり
純粋な気づいている意識ではない。

気づいている意識であるということは
誰にとっても間違いなく当たり前であり

認識後からして当たり前で無いのは
この気づいている意識は
何が所有しているものでもなく
所有者がいないということである。

完璧なものは無いということは
全ては完全であるということでもある。

全てのパターンは
ただあるのである。

非二元が死ぬということは無い。

不死を得る。

ただ、そのままでは観念論である。

現実にそれを現象化・技化する智慧が必要になる。

そのための物語や方便がある。

<無限の宇宙>仏陀の悟り
http://amurita.upgrade12.net/2014/01/budda/

↑なんだか笑ってしまうところもあるが
そういうパラレルな中現界の物語も
1200億パターンのうちの一つなのだろうきっと(笑)



[829] 人生いろいろ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月10日(木)06時09分4秒   通報   返信・引用

身なりさん、いつもどうもです。
必要が起きて生かされている。
全部がそうですね。

優れた作家が偉大な人格の持ち主とは限らない。
優れた数学者が冷静な客観視の持ち主とは限らない。
崇高な伝道師、教師でも人間であるときは何をするかはわからない。

数学者の例、

<youtube>3-2. 五次方程式が代数的に解けないわけ
https://www.youtube.com/watch?v=qwYyXtttns0
最初に数学者ガロアの紹介があります。

彼の物語を近年のラノベタイトル風にすると
「私の論文が通らないのは
どう考えても
こくおうが悪い!」だそうです。

私もある意味、
「私の論文が通らないのは
どう考えても
執行部が悪い!」
ということから始まっている部分もある。

「さとり」に関して言うと極端な話
オウム真理教の麻原彰晃が学んだという
ダンテス・ダイジの書籍を見ると
他の悟りを求める方法と比較して外れてはいない。
魅力的ですらある。

オウム真理教があれだけの事件を起こしておきながら
アレフとして存続する信者とは何なのか。

でも立場を変えればもしかしたら
平和思想をこれだけ反故にされておきながら
未だ公明党の支持を止めない学会員の方がおかしいのかもしれない。

物事の見方というのはそれぞれだ。
でもそれだけを言うと、何も始まらないので

そのためのアルベア論
そのための法華経
そのための日蓮仏法
そのための池田先生の指導

それの用い方がある。

最初で最後は「自身の選択」である。

さて、ちょっと俯瞰。
<wiki>宗教一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E4%B8%80%E8%A6%A7

その全ての覚者は「これ(久遠元初)」を師として悟りを得た。

ここで久遠元初とは「今ここ」の最初の二者関係だ。
最初の気づき、気づいている意識だ。
非二元から、最初の選択なのだ。

「師弟」「主従」「親子」
その最初の選択なのである。

選択によって重きが変わり
思考概念によって歪曲し固定化し閉塞する。

主に仕えることがメインの宗教か
親孝行のような義を重んじる宗教か
師弟の伝達による宗教か。

大元を尋ねれば一つなのだ。

包摂として見るならば、その全部・全体である。

たとえ無宗教という主張であれ
どんなとんでも宗教であれ
この存在の気づきである以上
何者もこれ以外にない。

個別としての絶対完璧は無いけれども
指し示す促しは「これ」なのだ。

どれだけ「これ」そのものかということには
脱個別ということになり

そこにおいて私はいないのである。

まぁ、難しいことは分からなくとも
大笑いできる日がある今を
楽しんでいきましょう。



[828] 蘇生さんへ追伸

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月 9日(水)22時14分1秒   通報   返信・引用

ご無沙汰してます
がたまに覗いて全記事読ませてもらってます。

伝道師パラマハンサ・ヨガナンダ

記憶が定かなら彼も晩秋を汚していた気がします。
その手の話は多いみたいで、嫉妬によるデマかもしれませんが、もし本当でもそれはそれで面白いですね

どんなに崇高な伝道師、教師でも人間であるときは何をするかはわからない
自我機能のエラーなんでしょうかねぇ
しゃばでは何でもありですね(^O^)

それでは陰ながら投稿楽しみにしてます。
またお邪魔します。

サイヤさんもお久しぶりです。
掲示板解放ありがとうございます。
平凡な生活の楽しみの一つにさせてもらってます。



[827] 必要な人しか目の前にいない

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月 9日(水)22時03分42秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは
清潔な身なりです

歳をとる度に環境が変わりまわりの人たちも変化していきます。

よくよく考えるとその時々で不可欠な人ばかり

今もそう
好きなひと嫌いなひと苦手な人と相手に抱く感情は違えど、どうやら今の私に必要な人ばかりのようです

うまく言えないですが好きな人といるとストレスが発散される感じで、嫌いな人といると考えさせられ自分を省みることができるし、苦手な人と接すると単純に鍛えられます。

なんだかんだで今日も笑えたし、まとめて私なんでしょうね
題目が上がらないときはそれさえも必要な流れで、しばらくするとご本尊の前から離れなくなったり
そんな凸凹があっても笑ってるんで上手くいってるんでしょうね

きっと 明日も大笑いしますよ

なにせ娘と夜釣りの予定ですから(^O^)



[826] 厳在

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 9日(水)07時20分50秒   通報   返信・引用

ビートルズやスティーブジョブズらに影響を与えた
ヨガの伝道師パラマハンサ・ヨガナンダという人物がいる。

瞑想によって得た体感知を
彼はアメリカに渡って
それを科学として語り広める。

つまり、宗教的な霊学から
宗教性を排除した化学的な哲学として開いた。

共通性の普遍の体感知である。

<パラマハンサ・ヨガナンダのコトバ>
http://mandalaya.com/s7.html
http://mandalaya.com/pa-yo.html

ジョンレノンの
イマジン
https://www.youtube.com/watch?v=M0d_P-QMdNQ

あるいは
Let it be
https://www.youtube.com/watch?v=IgpJD5KzR0k

一方、創価学会第二代会長戸田城聖先生は

ともすれば本来は閉鎖的な
よもや、日蓮を信じないところにおいては
どこにも通用しない日蓮正当概念に

自身の体感知によって
化学的な哲学の側面を取り入れた。

つまり、科学的な哲学から
生命論を開いた宗教的な霊学として蘇らせた。

アニメ人間革命 第4巻「生命の庭」(獄中の悟達)
https://www.youtube.com/watch?v=WNR6nSWnFCs&t=572s

”厳として存在するもの”の覚知

このシーンは先の薬王品とも重なる。
(あるいは意図的に重ねられたか)

ともあれ、その両者
ヨガナンダと戸田先生

宗教的な霊学と化学的な哲学との”済度”。

その太極の脱構築。

そのどちらでもあり
どちらでもない第三の道を
池田先生は持っていたかもしれない。

ヨガナンダの言葉のページの中に
~「あなたは単にお金を稼ぎ、子供を作り、死んでいくために生まれたわけではありません。
 あなたには輝かしい究極の目的があります。

 あなたは無限ある神から生まれて来たのです。

 あなたが求め、夢見てきたものすべてを満足させるものが、
 神なる場所で、気付いてもらうのをじっと待っています。

 神の無限の宝庫は、あなたのものです。

 どうして ぐずぐずするのですか。
 どうして回り道ばかりして無駄に時間を過ごすのですか?
 まっしぐらに神の元に行きなさい。」

仏教ではこれを「菩提心を得る」といいます。
覚りを開くために生まれてきたと、気付くことなのです。
       (おん・ぼうじしった・ぼだはだやみ)~
と、あるけれども
これは思考概念の区分けでは真言系の発菩提心になる。
http://mandalaya.com/sidai.html

法華経においては
如来の一切の所有の法
如来の一切の自在の神力
如来の一切の秘要の蔵
如来の一切の甚深の事
の自得である。
https://blogs.yahoo.co.jp/jojon_folk/887040.html

本来ならば日蓮大聖人が”先駆け”であるならば
以下に陸続と続くべきものではなかろうか?

固定的・閉鎖的な思考概念がそれを妨げ
特別化の分離に隷属する。

<Care of the Soul “魂のケア” 溝口あゆか公式ブログ>
https://ayukablog.wordpress.com/2017/08/03/みんなが密かに求めているもの♪

“想像してみよう、国境がない世界を(Imagine there’s no countries)”
“あなたは私のことを夢想家と言うかもしれない。(you may say I’m a dreamer)”

律動法は、太極の済度の
直接的な気づきの手法であり

国境も、宗教の違いも
そこには無い。

それは厳とした存在なのだ。



[825] 止観と薬王品

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 8日(火)06時07分23秒   通報   返信・引用

まず、<アルベアのブログ>藤本晃の「悟りの階梯」kotaroさんのコメント
~『止(サマタ)瞑想と観(ヴィパッサナー)瞑想の違い:p130~』のところで、
『生滅を繰り返しているのだけど実体としてあるかのように見える現象をしっかり捉え、その滅する瞬間を見極めて無常を「体験」するのが、悟るための観瞑想。「ずーっとそこにある(はずの)一つの対象」に心を集中し続けて現世の超越的な楽を得るのが、禅定のための止瞑想。観瞑想と止瞑想は、本来、水と油のように異なる瞑想なのです。禅定と悟りも、別ものです。禅定は、心が物質的な束縛を離れて味わう超越的な、しかし現世での心の楽です。悟りは、滅の瞬間の、何ものにも触れない寂静です。』とある。~

次に
妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三 現代語訳
を見る。
~この一切衆生喜見菩薩は自ら願って苦行を習い、
日月浄明徳仏の教えの中に於て、雑念を去り仏道修行に専心し心身を整えるために一定の場所を歩き回り、一心に仏になる事を求めて一万二千歳の年月を満たし終わった。その身が清らかであるため、三千大千世界の生命のあるものすべての生まれる時や死ぬ時、上下・好醜・善所悪所が悉く身の中に反映され現れる状態(現一切色身三昧)を得た。
この心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得て、心は大いに歓喜した。そして、こう思って言った。
私が三十二相をそなえた仏の生身の形を現わす動揺しない状態を得たのは、皆これ、法華経を聞くことによって得た力である。
私は今、当然、日月浄明徳仏および法華経を供養するべきである。
即時に、この心を一つの対象に集中して動揺しない状態に入って、虚空から天上に咲く白い蓮華・天上に咲く白い大きな蓮華・細かく粉末にした黒栴檀を降らし、
何もない空間の中に満たして雲のように降らし、また閻浮提州の南のはてで取れた栴壇の香を降らした。
この香の六銖(4.6グラム)の重さは、その価値が娑婆世界に等しい。これを以って仏に供養した。
この供養をなし終って、心を一つの対象に集中して動揺しない状態から立ち上って、自ら思い言った。
「私が、神通力でいくら仏を供養したとしても、身をもって供養するに越したことはないだろう。」
そこで、諸々の香、栴檀・琥珀・乳香・畢力迦(インドヤコウボク)・沈水・膠香を飲み、
また、チャンパカ・諸々の華香油を飲んで千二百歳の年月を満たし終わった。
その後に、香油を身体に塗り、日月浄明徳仏の前に於いて、天の宝衣を自ら身にまとい、
諸々の香油を注ぎ、神通力の願によって自らの身を燃やした。その光明は、普く八十億のガンジス河の砂の数に等しい世界を照らした。~

「日月浄明徳仏の教えの中に於て、雑念を去り仏道修行に専心し心身を整えるために一定の場所を歩き回り、一心に仏になる事を求めて」
=悟るための観瞑想
=教えられた「動」の方法によって心身を整える

「心を一つの対象に集中して動揺しない状態(現一切色身三昧)」
=禅定のための止瞑想
=逆説的に、「これ」によって心に大いに歓喜をもたらせるのが法華経というエネルギー

「私が、神通力でいくら仏を供養したとしても、身をもって供養するに越したことはないだろう。」
=身口意の内の身の供養へ、意で唱える題目→口で唱える題目→身で唱える題目

「神通力の願によって自らの身を燃やした」
=法のため人のための誓願による発熱・発光・燃焼
=身をもって具体的な現象化をさせて灯明・灯台となる。

信仰形態としてではなく
普遍的な生命現象として「同じ」を見る。

信仰形態を見れば法華経は
塔を立てて仏の遺骨を供養するような
そういう物語でもある。

その教相ではなく
観心の文底だ。

「薬王品の広宣流布」は「宿王家菩薩」に付属されている。 <気楽非活>
一つのモデルケースの物語だ。

他得の対象である。

自得の寿量品の何であるのかを
俯瞰するためでもある。

それらは、ただ一つでもあり
無限に多角的でもあり
それ自体が無いのでもある。

ただあり
あるようにある。



[824] 九識

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 6日(日)05時43分24秒   通報   返信・引用

眼を開けている時に見えているものは
実在そのものではなく
創られたビジョンである。

だから、思考で考えがちであることとは逆に
眼を開けている時にあるビジョン世界が
眼を閉じている時にもあるということは無く

眼を閉じている時にある世界こそが
眼を開けている時にもあるのである。

それは同様に
音、味、匂い、感触、思考、存在、業の流転
についても、そのようである。

つまり、それら以前の
久遠元初から見れば
生死は不二である。

色心も不二である。

曼荼羅本尊というものはビジョン伝達である。
それは実在ではなく瞬間の光である。
そこに教義・教学は存在していない。

池田哲学も、戸田教学も、日寛教学も
弟子日興も、師日蓮も、天台教学も、諸経典も
釈尊の言葉も無い。

それらは思考を開いている世界だけにある
思考概念である。

良くも悪くも曼荼羅本尊は
ただ日蓮の慈悲による瞬間の光である。

久遠元初の瞬間の光の慈悲としてならば
その瞬間には
瞬間の音も味も匂いも感触も思考も存在も業の流転も
その瞬間に同時にあるのである。

その瞬間には
曼荼羅本尊という存在も業も
自分という存在も業も
別々にあるということはなく
その瞬間だけがあるのである。

無限に瞬間しかない事において
「これ」があるだけであり
全ては「無」でもある。

無量無辺 即 我実であり
一瞬 即 本行菩薩道である。

そうである歓喜のメロディーの太陽として
音律以前の音律を
南無妙法蓮華経に顕している。

本来は「無」「空」の光の歓喜である。
宗教的転換の表現なのである。

個別であるという時には
池田先生であれ日蓮大聖人であれ
体感体であると同時に
思考概念体でもあるという
意識体である。

違えば違うということが
違いとして見られる。

非二元においては
無限に同じ、「これ」という一つ、「無」「空」しか無い。

思考するかぎり
違いが違いとして認識され現象化するので
有るものが有り続け
「それ」と「これ」という別々であり
差異ある有限が有限の中にある。

非二元において思考は
するのではなく
ただ久遠なのだ。

日蓮大聖人にとっての
その何もかも久遠の
その一瞬の光のビジョンとしての
曼荼羅本尊なのである。

元より、無限に同じ、「これ」という一つ、「無」「空」なのである。

思考より以前、存在より以前、業より以前である。

無記すらない無無記である。

九識とはそういうことである。



[823] いよいよ8月

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 2日(水)12時01分32秒   通報   返信・引用

仏教の思考概念の上に信仰を確立している者にとって
成仏のためのきっかけとなる最初の気づきとは

思考概念の呪縛・循環に対する気づきの大きな衝撃と現れます。

「信じる」ことが「信じ込み」になっている気づきの反転です。

鳥は卵からかえる前、自分が鳥であることを知っているだろうか?
人間は生まれる前、自分が人間であることを知っていただろうか?

親なる存在によって形成された
護り育むための一時的機能性。
思考概念の枠組み・殻。

それを世界の全てと思い込み
それを永遠に守ろうとしても
いずれ失われるのは外から俯瞰すれば明白だが
未だ世を知らない者は、自分には関係ないと思っている。

禅であれ念仏であれ大乗仏教には
八識までの識に対する覚知は含まれている。

http://parabuddha.blogspot.jp/2011/10/04_18.html
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html

南無妙法蓮華経は九識心王真如の都だから
それよりも勝れている?

本当にそうですか?
それは何ですか?それはどれですか?

~「守」まず、師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を習得する第一段階。
「破」経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第二段階。
「離」これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、思うがままに至芸の境地に飛躍す る第三段階。~
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki05.html

「気づき」の3階梯~ルパート・スパイラ2017/01/17 に公開8分59秒
https://www.youtube.com/watch?v=MNiB3h_tdJU

ルパート・スパイラさんは溝口あゆかさんが
非二元について最も影響を受けた人物です。

ルパート・スパイラさんの話は生の法華経的であり
溝口あゆかさんの方法は一心三観的です。

大和田菜穂さんの話は
八識の側からの語りです。

そのような開かれた見方が出来ないならば
それは”閉鎖的”です。

アルベア論は開き・和合し・蘇生する見方です。

時を見誤れば、閉鎖的な「守」は
大きな害毒となります。

割れた卵の殻を拾い集め繋ぎ合わせ
元に戻ろうとしても、それは叶いません。

鳥の本願は大空へ飛翔することです。

同時代現象として起きているのです。
本願の道は已(すで)にあり今あり当(まさ)にあるのです。

創価という枠組みの七識(存在前提)を経れば
本来、苦楽善悪無記の八識の暴流(ただあるという変化)が
対苦・対楽・対善・対悪として
個の自分の執着の六識の上に激しく感情として現れます。

思考概念によって反転しているのです。

存在前提を強化しようとしても
破れ、循環してしまうのです。

幾重もの相対が現象化するのです。

開き・和合し・蘇生するとは
探求の終わり・相対の終わりです。

反転できないという不可能を
反転できるという可能にするのです。

復活・救済・蘇生です。

ワンネスからの視点であり
無・空からの視点であり
無限からの視点です。

トリプルポイントへのサポートが開かれている
今年の夏です。

体感覚知・了解へチャレンジしてください。

<アルベアのブログ>夏休み・夏期講習会の開催
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12297937411.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12297937629.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12297952995.html



[821] 縁非縁六大秘法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月29日(土)03時28分53秒   通報   返信・引用

「意を体して」のパラドクスの
思考概念の上での回答が
信の題目・行の題目である。

確かにそうだ。

で、あるということは
日寛上人はこれをパラドクスとして
認識したということでもある。

認識したから区分けをした。

で、認識後の区分けの
言葉・思考概念だけを「縁」とすれば
思考概念の上書き、信じ込み思い込みになる。

だからその六大秘法の信じ込み思い込みだけでは
パラドクスの本当の解決にはならない。

十界の内九界までは
様々な事を「縁」として現れる。

だが仏界だけは現しがたい。

ここまではいいかな?

だからそのための
三大秘法ないし一大秘法・六大秘法がある?

まぁ、そうあせらずに
もうちょっと考えてみましょう。

「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」(p1358)

これらの秘法は
自作でない虚空会です。

日蓮大聖人の自作でないとするならば
誰の自作でもない。

誰もいない、私はいない側です。

その虚空会の側には
前霊鷲山会の、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれずに
此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となるという

このことは「無」「空」の側に全てが平等に縁していることによって
つまり「非縁」であり

「非縁」であるということは
「縁」となる枠組みや対象化がなく

ゆえに「日蓮仏法」ではない。

だから、私が展開している
純粋な日蓮仏法でない部分は
だからこそ純粋な日蓮仏法でもある。
(言葉だけを見れば詭弁です。)

単縁・日蓮仏法では思い込み信じ込みの
九界各別であり

縁非縁・日蓮仏法であって初めて
純円一実がある。

ここに縁・六大秘法と
非縁・六大秘法が開かれる。

律動法は非縁・行の題目、勤行となる。

「縁非縁」は「生死」「妙法」である。

ここに全ての「同じ」が開かれる。

多重構造です。
フラクタル構造です。

本尊の覚知の同じを成(ひら)くのです。

<宿坊>覚知と本尊  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71311

「無」「空」は実際には「今ここ」だけれど
「体感」としては何億年、何百億年
それでもなお完全には達しない過去という「非縁」なので
「久遠」ともいうのです。

大乗仏教は、これの体感によって形成されている。

ここに書いていることは思考概念です。

同じと書いた瞬間に同じという思考概念に変換されます。
志向性は、個々別々に違います。

非縁について
<気楽非活>龍樹の『中論』を読む (1)~(6)
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/02/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/03/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/10/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/13/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/24/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/28/000000



[820] 動(あた)ると信が内発する血脈

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月27日(木)14時13分47秒   通報   返信・引用

生死一大事血脈抄<創価教学研究室 (Tommyのブログ)>
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51938.html

「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり」

法とは、境として、自我で納得できる側。
通常、人間が「この世界を生きている」と思っている世界の現れ。
自我が「この世界」と「観じる」のが「法」であり「生」である。

妙とは、境ではなく性であり、普通、自我では実在を納得できない側。
量子的確率性・可能性、虚数的パラドックス性、超常的霊性、超克的空性
そういった「実在認識野(仮名)」で実在として認識できない側。
通常、人間が「この世界に実在しているリアリティー」を実感できない側。
「言語」「思考」「実在認識」が深く癒着している状態では「観じられない」
不可思議、不可説の妙観の側に「妙」があり「死」がある。

虹の色に橙を見ない民族にとって、橙は存在していないだろうか?
虹の色に橙を見る民族にとって、橙は本当に橙として存在しているだろうか?

虫の声を聞けない民族にとって、虫の声は存在していないだろうか?
虫の声を聞ける民族にとって、虫の声は本当に虫の声として存在しているだろうか?

このこと(此の生死の二法)によって十界を味わっているというのが
十界の当体なのである。

「生」の側の「実在認識」から「生死」の「実存解明」への飛翔が
「当体蓮華」ということであるが、その思索だけでは実際の飛翔と比べ
限定的な思考領域のカオス運動の偶発にしかすぎず
「分かった」ような気がしたけど「あれ?うまく説明できないや」
「ん?あれ?どういうことだっけ?チンプンカンプンだぞ??」
と、元に戻ってしまうことが起きる。

「当体」とは「道理に中(あた)る」「本体に該当する」「去来する如の動き」であり

「動とは動(あた)ると読むなり」となる。

「歓喜に動(あた)る」「本因本果に当たる」「正法光に中(あた)る」です。

「歓喜に動(あた)る」ので「感動」するのです。

「律」とは歓喜・感動のリズムであり
それを呼び呼ばれて集まらせるのが「律動法」であり

その律動の心身が本因本果・本願の功徳聚の当体となるのです。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無し」
という功徳聚の当体です。

文字曼荼羅本尊が顕しているそれです。

「所詮臨終只今にありと解(さと)りて信心を致して」

「臨終の覚悟」というものは、五段階によって反転します。
それは二者関係を通して経験するのです。
志向性は違えども同じように経験するのです。

思い詰めた決意から
感動の詰まった脈動へと蘇るのです。

苦を解いて覚めて悟った如(真如・如理・如智・如動)。

つまりこれは、苦(さと)り、解(さと)り、覚(さと)り、悟(さと)り、如(さと)りです。

苦悩即真如。
この十界世界全部が「さとり」と「識」るのです。

「(現代訳)総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
 もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものである。」

後半の原文は「然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、 若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、 剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し、」です。

「意を体して」というのは異体同心の解釈であろうが
意図思惑によって、バインドのパラドックスがある。

「教義解釈」の「限界性」でもある。

ただ「南無妙法蓮華経と唱えたてまつる」「行」が重要なのか
「行」自体ではなく、その文底の「意義」が重要なのか
はたまた日蓮大聖人の「意思」が重要なのか
(自称)広宣流布の団体の「意向」が重要なのか?

例えば会社の採用面接で
「2×5は?」と質問されて
A君は即座に「10」と答えた。
B君は「会社の意向に従います」と答えた。
A君は落ち、B君が採用された。

それが正しい在り方かどうか考えて
どうでもよくないなら消えない。
どうでもいいなら消える。

解かれなければ留まる。

「妙法」「生死」「十界」のパラドクスです。

「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、 『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ。」

はたして日蓮大聖人滅後の今
生死の二法がどう腑に落ちるのか。

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、 生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、 煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」

臨終正念のために備えること。(死の五段階を習う等)
逆説的に、それが祈念である。

死んだ後の事は死んでみないと分からない
だから現世利益が重要だといっても

仏法の意味として捉えるなら本来は

臨終正念といってもその時になってみないと分からない
だから気づきによって目先の損得に一喜一憂することから離れ
今生きている中で正念の実証を示していきなさい、である。

難に遭い人我の煩悩があるから苦しみを見るということも
そのまま「さとり」なんだと解(さと)り、覚(さと)り、悟(さと)り、如(さと)っていきなさい。

その煩悩即菩提・生死即涅槃が信心の血脈であり
そうでないならば、法華経を持っても正念は無い。

「委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。」
詳しくはまた申し上げよう。恐恐謹言。

<アルベアのブログ>重力と恩寵・シモーヌ・ヴェーユ 「考える事・生きる事」より
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12296199060.html



[819] 言葉

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月26日(水)13時56分30秒   通報   返信・引用   編集済

「開く」は二者関係の電磁的な反転の気づき現象。
「成(ひら)く」は脱落した「在る」のそれそのまま。

「開く」という瞬間そのものを
さらに「成(ひら)く」と
そこには誰もいない全体が有無を超克している。

前霊鷲山会から後霊鷲山会への反転現象の瞬間そのものに
虚空会が全てとして全ての有無を超克している。

法華経によって法が構成されているのではなく
現象の構造があって法を法華経として構成している。

「真我に聞けば是は真如なり」
「『私はいない(非二元・悟り)』に『置いて(信→put→置く)』は
『今ここ(諸法実相)』は『個即全体(一念三千・妙法蓮華経)』である」

<かんながら(引っ越しされている)>私はいない
http://abetoshiro.jp/archives/3019548.html

前霊鷲山会 input 虚空会 put 後霊鷲山会 output

前霊鷲山会・後霊鷲山会には私がありストーリーがある。
虚空会には私がなくストーリーがない。

法華経原典と鳩摩羅什訳妙法蓮華経の構成の違いは
このこと(是の事)(直接的メッセージ・信)の
直接知(開の成)によって
まさにその時からoutputへの反転を可能としている。

<気楽非活>二処三会は存在しない。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/06/19/005408

経典としての法華経自体をより完全なものへと構成していくストーリー
(法華経へのinput)から
完全な経典の法華経を元に攻略筋を発見し攻略していくストーリー
(法華経からのoutput)への反転である。

ゲーム開発からゲームをプレイしてもらうへの反転のようである。

十如是等の組み入れ、後霊鷲山会のロック解除・完成
プレイヤーが一念三千のアイテムをゲットしていき
南無妙法蓮華経状態(御本尊)を目指す。

非二元の側から突き放した言い方をすれば
開発もプレイも、そういったストーリーは「どうでもいい」。

「成(ひら)」かれれば、ただ「在る」。
御本尊の累乗的救済世界は、「ただある」に「ある」。

救済の一つ一つの「ストーリー」は
衝撃→歓喜といった風に現れる。

<アルベア論>「衝撃の心構え」
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/437
<アルベアのブログ>「死の五段階説」は「衝撃の五段階」⇒反転」⇒「歓喜の五段階」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12247566127.html

非二元の側から言えば
あって終わり、それだけ。
連鎖もストーリーもない。

仏眼があるから
仏眼がそのままでその他の四眼を得ている。
仏眼にストーリーはなく
他の四眼を得ているからストーリーがある。

立正安国論
「旅客」の「近年の大災害」への「嘆き」
衝撃の五段階、認めたくない現状
なぜ日本がこんな目に遭うのか
仏法を頼って救済を求めているが
一向に良くならない苦しみという四段階から始まっている。

対して「主人」の法華経の「気づきの五段階」から
対話が繰り広げられるという
「ストーリー構成」になっている。

その異の苦(個々人としての苦しみ)は
同じ日本人、同じ人間、同じ生命という同苦である。

あって終わり。
それ以上何も起こらないから蘇生が開かれる。

言葉にすればパラドックスを感じる。
「そんなバカな」と怒る。

その「怒り」の正体は何であるのか?

衆生本有の妙理へ気づくための縁として
受容という五段階を迎えられるかどうか?

<宿坊>衆生本有の妙理を観ずる! 投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72474

特定宗教の正当性として見るのか
普遍の現象の諸法実相として見るのか?

例えば、虚数というものは腑に落ちにくい。
人間の感覚と
計算上、矛盾があるかどうかが食い違う。

<虚数は存在するか?>
http://www.geocities.jp/x_seek/imaginary_number.html

自我機能はストーリーに変換できないと納得しない。

自我機能は、本当は納得いかない不可思議な事だらけだけど
適当なストーリーを創作して納得することにしている。

その納得速度の突破に律動(因)とトリプルポイント(果)が同時にある。

納得しようとすること手放して(果)
存在のメッセージのままを腑に落とす (因)。

音の壁」と「熱の壁」を同時に超えるようなもので
それが同時であるということは光速だということである。

概念世界でなく今ここです。
難しく考える必要はなく
皆が完全に「出来ているのです」。

考えることが出来ないようなことを
「既にしている」のです。

それは誰かがいてしているのではなく
「私はいない」なのです。

<youtube>【不思議】頭がおかしくなりそう。有名な4つのパラドックス。
https://www.youtube.com/watch?v=gyjiuKqQmJk

【衝撃】「日本人だけなぜ?」あの声が聞こえるのか!?唖然・・・世界もビックリ…!
https://www.youtube.com/watch?v=UMsAHZf2bbg

日本人だけが持つ感性!第7感??日本にだけある言葉【海外が感動する日本の力】
https://www.youtube.com/watch?v=L8HSvUGsAQU

「もったいない」という日本語は
「環境 3R + Respect」を一言で表せる
世界でも類を見ない言葉だそうです。

では、南無妙法蓮華経とは・・・?



[818] 日蓮と同意

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月25日(火)04時46分59秒   通報   返信・引用   編集済

「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
これは大石寺教学、学会教学にとって文証である。

諸法実相抄の一文である。

日蓮大聖人が生きていた時であるならば
同意であるかどうかの呼吸はそこにあるだろう。

生きていた日蓮大聖人と交流があった者にとって
あえて日蓮大聖人を本仏と呼ぶこともない。

しかし滅後においてそれは本覚の反転の作為になる。

本覚を約束されたいならば
日蓮の教えに信伏随従しなさいという偶像崇拝化である。

本覚を美辞麗句化し、利用し、二項対立化して
本覚を謳いながらその体も用も具わっていない教団となる。

それは、諸法実相抄を肯定する側にも
否定する側にも影響をもたらし思考概念化し
結果、日蓮系教団において誰も悟りが解らないという
ダブルバインドの現象化をする。

だから、滅後においては逆説的に
地涌の菩薩の実際の体感覚知を了解することが
御本仏日蓮大聖人を自身の内に呼び起こすことになる。

これが理証である。

つまるところ
戸田先生の獄中の悟達が、その現証なのだ。

「だから、創価学会が正しい」と言うのでは
それはまた偶像崇拝化の危険性が高い。

事実、体感覚知のある池田先生が公の場に姿を現さなくなって
わずか数年のうちに現象化している。

地涌の菩薩とは何だろうか?

方便品で如我等無異「我が如く等しくして異なること無からしめん」
という始覚の仏の誓願に

見宝塔品で六難九易が説かれるも
勧持品で三類の強敵が現れようともと
疑いを起こさなかった迹化の菩薩が

涌出品でまるで仏の姿そのものの
無数の立派な菩薩の登場に度肝を抜き
動執生疑を起こす。

寿量品で久遠が明かされる。

久遠実成の釈尊に久遠の自覚があるのはもちろんだが
当然のこととして久遠から教化された地涌の菩薩にも久遠の自覚があるだろう。

久遠とは、思考においてはどこまで考えても
辿り着くことの無い、認識の前の今ここである。

そこは非二元という真如であり
そこには「I am」という真我があり
世界(三世十方)になる前の等しさがあり
三千の異なりと一念という無の瞬間のそのままである。

「仏とは生命」とは
このことの戸田先生の志向性の表現である。

久遠の自覚了解である。

法華経の非二元が了解されれば
日蓮と同意なのである。

それは仏界即九界、九界即仏界であり
始覚の迹化ではなく久遠の本化であり
南無妙法蓮華経である。

法華経の智慧158
日有の教学思想の諸問題(4)(宮田幸一)



[817] 求道心と四仏知見

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月24日(月)03時27分30秒   通報   返信・引用

<大白法・平成9年4月16日刊(第476号より転載)教学用語解説(26)>四仏知見
http://tidouji.la.coocan.jp/yougo/4/476a.html

「求」を「開」けば「示」になるという
二者関係の反転になる。

「道」に「入」れば「悟」になるという
二者関係の脱落の不二になる。

「求」は受信、インプット「示」は発信、アウトプット
「開」とは電磁的な気づき現象

また「求」は弟子「示」は師匠
「開」とは胸中に開く十法界の本尊

「道」とは中道、道理に中(あた)る生かされている今ここ
「悟」とは非二元、空の自性の「I am」
「入」とは即仮に入観している。

また「道」とは無上道、未曽有の極まるところの無い法
「悟」とは不可思議、不可説を妙観する智慧
「入」とは気づくためのリアリティという慈悲。対象としての事象、法華経、大御本尊。

「心」に「仏知見」を「識」らせるという
九識心王真如の開示悟入が始覚諸仏の出世の本懐。

「一心」の「仏識三身(妙法蓮華経)」の「観(I am)」の
久遠九界即久遠仏界、久遠仏界即久遠九界、
体解即観心、観心即体解の正法十法界一念三千が南無妙法蓮華経。

世々間々は一心の道のパラレルワールドであり
瞬間の三千は非時非処非想という有無の同時の量子力学的振る舞いであり

人間人間は衆生世間衆生世間であり
その世々間々も一心の三諦である。

世間の十如是が十界互具であり
少しでも不完全のあるものを握りしめ囚われれば
累乗的に矮小化し対立化する。

無疑の受容の「信」という受信アンテナを
一仏乗の大事の因縁の流れに広く開き
それを発信し宣べ示し球の布とする。

宇宙即我、我即宇宙の智慧の門、智慧チャンネル。

人我の見は人我の見に引きずられる。
内虚にして外事あるのみ。

思考概念を手放す。

その方途の律動法。

さっぱりとシンプルに
今ここの輝きがある。



[816] スイカ・スイカ・スイカ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月23日(日)03時05分0秒   通報   返信・引用

野菜か果物かは人間の側から見た
便宜的な概念で

スイカは野菜であろうとか
果物であろうとか
そういうことはせず
自然のままに
あるがままにある。

人間だけかもしれないですね
人間であるために
人間らしくあろうと努力をするのは。

「生命」とは何か?
「生き方」とは何か?

「仏教」とは何か?

例えば厳しい戒律を遵守し法と共にある高僧が
村々を巡回し、「ありがたや、ありがたや」と言われて
供養を受ける。

その高潔がその世界に秩序と道徳をもたらし
和合の安寧に満たされる。

それがそれとしてそうあり続けるなら
それも仏教だろう。

しかしてまず内部から
法と共にある高僧であろうとしすぎるがために
和合ではなく分離へと反転する。

あるいは外的要因
産業革命やグローバル化によって
時代の要請が変わる。

法は、高僧とだけ共にあるのではない。
大衆の中に、それまでに培われたものが
その一人ひとりの和合への在り方を問う

実際的な、生き方の運動になる。

和合とは何か?と問う時
それは「本来の生命とは何か?」であり
「本来の生き方とは何か?」であり

その諸法実相は十如是であり

即仮、即空、即中であり

即無始無終無量無辺である。

「仏とは生命なり」であるならば
当然、思考としては「生命とは何か?」を考える必要が出てくる。

「生命哲学」であり「生命論」である。

「禅問答みたいだ」ということを
邪宗的で必要のないことだという
俗創価思考がある場合があるが

ごく、浅い反応的思考概念であるならば
仏法志向ではなく俗志向なのである。

『みみずを二つに切った。両方動いているが仏性はどっちに行った?』
http://www.plinst.jp/musouan/aoyama04.html

これは道元禅師の正法眼蔵の公安である。

~「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」
これこそ永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。

不潔な拘置所にはシラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミはのこのこと遊びにはいだしてきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。
まず一匹をつぶしたが、他の一匹はそんなことにとんぢゃくなく動いている。

つぶされたシラミの生命は、いったいどこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか。
また、桜の木がある。あの枝を折って花びんにさしておいたら、やがてつぼみは花となり、
弱々しい若葉も開いてくる。

この桜の枝の生命と、もとの桜の木の生命とは別のものであるか、同じものであるのだろうか。
生命とはますます不可解のものである。~
http://nitiren21.blog.shinobi.jp/生命論 戸田城聖

一方これは創価の生命論です。

全く違う別々のことを言っていますか?
同じ生命の仏性のことを言っていませんか?

このことの覚知には「空」の覚知が必要なのです。
体感覚知、体解です。

~いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。

われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。

大宇宙の生命それ自体である。これを「空(くう)」というのである。「空」とは存在するといえば、その存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。

たとえていえば「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現して見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて、怒るという性分が現れてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。~

こういう説明に、思考概念で
分かったつもりになって何の役にも立たない。

道元禅師の正法眼蔵の公安のリンクのページの中に
~この『悉く仏性有り』という見方は、たとえばさくらんぼの中に種があるように、私の中に仏性の種と言う尊いものをもっているから、持ち主の私も尊い、というような考え方となり、切り口によっては尊くないところばかりになりかねないという一面もあります。~
とある。

創価の現状として
純粋に悪でしかない存在があり
その悪を切るという
そういう思考概念として現象化しているのではないか。

戸田先生の存命中は、獄中での体感知から
その空へ思考概念の結びつけをしながら
その思考概念からの脱却・昇華として
信仰の活動があり

そこに功徳があったのかもしれない。

その体感知の師弟不二を
わずか池田先生だけが昇華させた。

マグドナルド・ベイン「心身の神癒」を
感性の鋭い人が目を通せば分かるように
本質は宗教を越えてある。

そのことを戸田先生は
「日蓮をはじめ、釈尊、キリスト、マホメット(ムハンマド)といった宗教の創始者たちが一堂に会して『会議』を開けば、話は早いのだ」
と言ったが

池田先生は、それをもっと
本質的・実際的・実践的に対話の道を開いていった。
http://12393912.at.webry.info/201005/article_1.html

本質の響き合いです。
響き合い飛翔することを目指した。

鳴るべき音が鳴り重なり
奏でられるメロディーの飛翔。

その歓喜。

それはそれとし
律動法から導かれるものによって

まぁ、法華玄義なんてものは
こういうタイミングでもなければ
なんとなくすらも分からないものかもしれないし

色々と不思議なリズムです。

<宿坊>法華玄義・譚玄本序  投稿者:体長1.3mの巨大猫
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71994
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72033
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72053
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72074
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72109
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http://6027.teacup.com/situation/bbs/72193
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72235
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72286
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72335

気分転換<youtube>2人でハンドベル-butterfly(バタフライ-木村カエラ)
https://www.youtube.com/watch?v=fBx77fuX0YI

パチスロの絵柄にベル・スイカ・チェリーが多く使われる理由 ... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1043056670

この角度からも、スイカはフルーツの認識のようですね??

しかしスイカは野菜だという話もよく聞くし、
認識的にはそっちによってました。



[815] スイカは野菜か果物か

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 7月20日(木)17時28分54秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは
清潔な身なりです。

スイカは野菜か果物か

いまだに大真面目に論争があるようです。
どちらの意見ももっともだけども、決定打に欠けるようです。

うちの息子に訪ねると

昨日のスイカは果物だった
なぜなら甘かったから

だそうです。
もっともですね。

少なくとも息子にとって昨日のスイカは果物だった

これを 否定するのは無理のようです。

世の中こんなものみたいですね(^.^)



[814] 普賢に優劣無し

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月20日(木)13時14分5秒   通報   返信・引用   編集済

人間に優れているも劣っているも無い。
人間に優劣があるところは
一切衆生が等しく遊楽している所の
自受法楽ではない。

酒・金・女
地位・名誉・人脈
真・善・美

あるものはあるものとして
「ただ女房と酒うちのみて」

無いものは無いものとして
「世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。」

これがあるだけという
このままの真理を理解する賢さといっても

それは瞬間の在り方だけであって
そんな「賢さ」という自分が不変のものとして
在り続けることは無い。

善への心根も、美への感性も
同様である。

今どれだけ関心を持っているか
どれだけ「好き」でやっているのか。

誰かがやってくれるだろうといっても
そんな「誰か」は「仏眼」の上には存在していない。

「誰か」に期待依存している分だけ
「仏力」は閉ざされている。

「仏力」が閉ざされていれば
「法力」は劣化していく。

なぜ「法」が劣化していっているのかに気づけず
あれに期待し、これに依存し
ますます「仏」を見えなくしているのが
創価の現状である。

「好き」だから「真似をしてみる」
ここにおいてストーリーのある意図思惑であっては
結局、そこまでしか現象化しない。

意図思惑の無い
そこにおいて純粋さが開いていく。

自分の賢さではなく
普遍の賢さが開かれる。

東より太陽が昇り
光のエネルギーが届いていくと
世界そのものが無限に賢いという
感謝が輝いているのだ。

自分が賢くなろうとして握りしめてきたものを
手を放し普遍へと返していくのだ。

真実を失うことなく
思い続けることが消える。

思考することのスペックは限られている。
この限定性に個別の自分の物語を見ている。
これの容量や使い方が頭脳という自分の賢さで

法華経を締めくくる「普賢」とは区別される。

普賢とは、頭脳しない方、思わない方の
賢さなのである。

思いを消費しないことによって
この真実がこのままに真実なのである。

留めることなく
留めるものなく
留まるものない。

一瞬一瞬が、ただその在り方である。

囚われを外すのだという思考概念で
囚われは外れない。

頭脳という側は囚われである。
全ての事は普遍の側なのである。

ここへは一種、
言葉としてお題目を並べている。

律動法による「ビリビリ感」の
多角的観察の

瞬間瞬間の掘り起こしの
二者関係のための模索です。

思考することにあるのではなく
あることにあるのです。



[813] 都の月をば

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月16日(日)11時13分27秒   通報   返信・引用

「十方とは十界」ということは「道」ということです。

個々別々としては「道の先」に「目的」があり
「どの道をどのように行くか」に境界、違いがあるという
ストーリーの在り方です。

「六道」「四聖道」「八正道
「道を開く」「道を歩む」「道を修める」「道を継ぐ」

絶えず道に流れ通うのが血脈であり
未来にまで流れ通わせるのが広宣流布です。

世界とは
過去・現在・未来という三「世」に渡って
十方に十界という境「界」が在るという相です。

済度と言って渡され済んでも
世界は世界として三世十方の法界です。

此岸と彼岸は振り返れば同じという非二元です。
全ての道は今ここへ繋がっていて
全ての道は今ここから繋がっていて
全ての世界には今ここしか無くて
全ての今ここには特定の永遠無限の個別は無い。

異時異所でありながら同時同所である二而不二。

思考概念では妙法はパラドックス化する。

藤子不二雄の作品にSF短編シリーズがある。
普通はSFとはサイエンス・フィクションであるが
藤子不二雄は「すこしふしぎ」と当てている。

視点によって現れる不思議によって
概念が揺らぐ衝撃が起こる。
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20130227

それは「すこし」という適度なところで
ストーリー化されている。

妙法は不思議そのもので違いを持たない。

十方世界には十方微塵世界・三千大千世界
というような数限りない境界・差別の世界があり
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/jsekai.html

しかもそれは一心の方便であって
今ここに同時同所である。

それぞれを、やるということは「術」であり
それぞれが、あるということが「道」である。

術は独自的な流派となり
道は同一的な在り方となる。

弓道と禅道に同一性の概念もある。
http://www.kajita-m.jp/0002%20matui4manabutanosisa.htm

「中てる弓ではなく、中る弓を引く」
https://www.youtube.com/watch?v=qQPI87-ahy4
木の中に仏が宿る
http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/houwa32.html

道を修めることは素直で謙虚です。

道々に道を求める求道から
ただ十法界として在るという救済へ

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命

妙法を俯瞰するという一心に
素直に柔軟に在って
「自分の道」というそれぞれでなく
修めて皆済され足りている

三世十方は権である。
実がそれらでないならば
今ここを離れて実があるはずがない。

今ここの実相の本来が法華経である。

「これ」

法華経の智慧226
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8023



[812] 衆生所遊楽

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月13日(木)13時09分26秒   通報   返信・引用

「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外(ほか)の遊楽なきなり。経に云く「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)」云云。此の文、あに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。衆生のうちに貴殿もれ給うべきや。所とは一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。遊楽とは我等が色心・依正ともに一念三千・自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」とは是なり。ただ世間の留難(るなん)来(きた)るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合(あわ)せて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいた(致)し給へ。恐恐謹言。」

四条金吾に対して「四条金吾よ」ではなく
「一切衆生」との呼びかけから始まる。

一切衆生即四条金吾、四条金吾即一切衆生である。

四条金吾が南無妙法蓮華経と唱えていること
一切衆生が南無妙法蓮華経と唱えていること
日蓮大聖人が南無妙法蓮華経と唱えていること

それが常住している事
自己機能の受容によって法を楽しむ。

衆生所遊楽とは
どういう所で誰が遊楽しているのか。

所を言えば四条金吾の肉体即一閻浮提の
今ここの依正不二の色法であり

誰かを言えば四条金吾の精神即一切衆生の
「I am」の自他不二の心法であり

遊楽とは四条金吾個別の人我の見ではなく
その色心不二・一念三千・自受用身の仏知見であり

「南無妙法蓮華経と唱うる」とは
しかもその四条金吾と仏知見に分離が無いことの気づきである。

「口は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり、此の妙は前三教に未だ之を説かず故に秘と云うなり、故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり」(714)

十界曼荼羅は十方曼荼羅でもあり
十界の相貌は「方」、主題の不思議宝塔は「便」であり
文字曼荼羅本尊が一心の方便でもある。

「自分とは誰か?」
自性の中心核は無い。

では誰が「南無妙法蓮華経と唱うる」のか?

全体、一念三千がそのまま
南無妙法蓮華経と唱えているのである。

南無妙法蓮華経と唱えている全体の外には世界は無い。

十方十界が南無妙法蓮華経と唱えている不思議が本尊であり
それへの気づきが自受用身であり
それは遊楽である。

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(御書三二九頁)

全体そのものが尽きることの無い
慈悲によって生かされている南無妙法蓮華経なので
現世安穏・後生善処である。

「世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。」
「ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。」

憤怒のままに暴れるのではない。
愚痴を愚痴で終わらせるのではない。

観心の本尊への気づきとするのだ。

あなたは何だ?
四条金吾という一瞬の夢のために瞋り尽きるのか
法華経の行者として一切衆生の遊楽を味わうのか

一瞬の夢の苦は一瞬の夢の苦と覚り
法華経の行者の遊楽をこそ遊楽と開いていくのです。

歓喜の中の大歓喜の自受法楽へと向かうのです。

じたばたするのは強盛の信力とは言えませんよ。
雄大な心に末法万年の広宣流布が完成されるのです。

悩みの本当の解決へと
しっかりとエネルギーを向ける。

全体のエネルギーがそう働くのであれば
どうして解決しない悩みがあろうか?

個別の人我の見で見るから
そのエネルギーの向け方や解決のスパン
解決の可能性、願望の真偽、効果などが
思考概念として対象化され
「こういうものだ」「こんなものだ」と
解決されないことの自己機能になる。

思い込んでいることではなく
信じ込んでいることではなく
ただ願って起こっていることの
回復改善として自己機能をし
悩みを解決させる。

気づけばそれは起こっているのだ。

気づいている歓喜を選択していくのだ。

<アルベアのブログ>「悩み」とは⇒自我機能の働き作用
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12292138743.html

気分転換
怪獣倶楽部~空想特撮青春記~(全4話 計100分)
http://www.dailymotion.com/video/x5p38nh
http://www.dailymotion.com/video/x5q2smb
http://www.dailymotion.com/video/x5r4y48
http://www.dailymotion.com/video/x5rwzsm



[809] 立正観

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 6日(木)12時23分42秒   通報   返信・引用   編集済

噂は噂、都市伝説、街談巷説、道聴塗説、話半分
好きですよね、人って。

自我機能が自我機能を引っ張る、翻弄される。

嘘を作った意図思惑に、見抜いたという思い込み。

あれが本当、これが本当、どれが本当?
これが嘘だからあれも嘘?

主義主張、自己都合の思考概念。

だからそれは「どうでもいい」

今ここに関係ない。

御書にしても御本尊にしても
ただ紙と墨、あるいは木と漆と金箔。

ただそれがあるのを
一心がそこに何があるのかを見る。

色→受→想→行→識

仏教を学んでも、仏教を智慧化技化できない学者が
あれやこれや、あーだこーだと言う。

選挙戦のお好み焼き理論という俗論がある。
選挙を頼まれる人は、それほど深く精通していない人がほとんどなので
新しい話を聞くたびに、なるほどと思ってそっちにひっくり返る。
だから選挙というものは、ひっくり返して、ひっくり返されて
それでも最後にもう一度ひっくり返して投票してもらうのだと。

仏法の深淵からすれば限りなく薄っぺらい。
投票依頼を受けさせるのは簡単で、保たせるのは難しい。

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」

その場限りの思考概念の納得で信じることを受け入れるのは簡単だが
体感からの揺るがない自得を持つことは難しい。

なぜ難しいかと言うと、授受の二者関係の双方に
意図思惑が働くから難しい。

意図思惑の無い「空」の体感が意図思惑に隠されるから難しい。

つまり意図思惑が消えれば反転する。

これしかないという空しか伝わりようがなく、それは失われなく
むしろ全くズレブレのない思考概念を完全に伝える方が難しい。

立正観抄」という御書がある。

この真偽問題(花野充昭)を見ると、
いかに思考概念の主義主張の世界であるかが垣間見える。

それはそれとして、御書の内容を見る。

そこには、禅天魔の達磨の禅観と
法華経による妙禅の一心三観・一念三千の観法が
分けられている。

しかし
一心三観・一念三千の観法と言っても
未だ天台智顗の可思議による
法華経の不可思議の妙観への行者の修行の方法にすぎない。

ゆえに
一心三観・一念三千の観法を修行すると言っても
肝心の法華経を貶めては元も子もない。

「理」→「事」→「動」であるべきところが
その血脈を失う。

日蓮大聖人は「法華経しかないという全体」
事の一念三千の御本尊を己心に見て顕わし
「動」へという
「南無妙法蓮華経 日蓮」を開いた。

(言語化に難あり、あえて深く言語化すべきではない)

御義口伝 方便品八箇の大事 第一 方便品の事
「南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり」等々

「理」→「事」→「動」への繰り返し確認の引用である)

「動」の中においては不可思議であって
「可思議」は無・空であって
思議できるような一切は消える。

「日蓮仏法」というものも消える。
日蓮大聖人という個別も消える。

禅天魔の達磨の禅観と
法華経による妙禅の一心三観・一念三千の観法の違いも消える。

「動」→「事」→「理」への反転が開かれる時にあっては
それ自体がそれ自体で一切である。

如来寿命は0であり
如来寿命は∞であり
如来寿命が1である。

言葉をいくらなぞっても、
そこには捨て去られるべきものがあるだけだ。

律動法によって「動」を知る時に復活する。
「動」によって開き蘇生し円満となる。



[808] アビダルマ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 4日(火)13時35分17秒   通報   返信・引用   編集済

気楽非活」さんの言っていることを
ざっくりと考えてみるもので
不勉強により、正確性を欠くかもしれない。

まず諸行無常っていうことで
この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するもので
不変のものはないということを
釈迦牟尼仏が入滅に際し、沙羅双樹の木の下で説いたとされる。

しかして非想非非想処を目指すにあたって
釈迦牟尼仏の残した教え(ダルマ)と向き合い
覚知すべき一定の体系を研鑽し(アビ)
その究極の法(アビダルマ)の上に全てを説明しよう

つまり諸行無常を諸行無常として成り立たせている
三世不変のアビダルマの覚知が悟りへの道だという学派が
上座部仏教の説一切有部だと、ざっくりと言えるだろうか。

参照アビダルマ哲学入門  阿毘達磨倶舎論入門   改訂版

眼,耳,鼻,舌,身,意の六根
色,声,香,味,触,法の六境
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識 の六識
合わせて十八界とする。

また、五位七十五法 等を書いた
世親(天親)の『倶舎論』が有名である。

五位七十五法における
「心王」の位置が興味深い。

御書「一念三千理事」では
仏法発展の順を追って倶舎論から
十二因縁が説明されている。

原始仏教から部派仏教にかけて行われたもので,すべての存在を五蘊(ごうん),十二処,十八界などの諸要素(法)に分析し,そこに自我はない(人空)と見るものである。これは,自我への執着を絶つことを目的としたが,諸要素の実在を肯定する多元論的実在論に陥った。(世界大百科事典【空観】より

倶舎論を書いた世親(天親)は、その後
弥勒を開祖とする大乗の瑜伽行唯識学派に転向している。

この学派は
ヨーガ(=瑜伽(ゆが))の実践の中に唯識の体験を得、教理にまとめた。

現在我々が知っている九識論の元になっているそれであり
実践的に六識を発展させたとも言えるか。

ウィキ阿摩羅識を見ると、概要が分かる。

説一切有部が不変の法という境を見出そうとしたのに対して

唯識学派では
法という境に求めるのではなく
思考を受けている意根に求めるのではなく
認識する意識の内奥の性を求めた。

日蓮仏法においては
九識心王真如の都という「仏性」ということになる。

さて、回り道をしたが、中論の龍樹を見よう。

時代的には瑜伽行唯識学派より前
中観派の祖師が龍樹である。

上座部仏教の説一切有部に対して

まぁ、ざっくりと言うと
自我機能の探求による思考概念の上書きの愚考だと断じて
相対的現実の見方、三つの区分けを論じたという事だ。

上座部仏教が法が実在し自分が空であるとするのに対し
大乗では仏性があり、一切法は空になる。

で、気楽非活さんが言ってるのは、その空である法を
一念三千として体系化して対象化するのなら
元の木阿弥で思考概念になるのではないのか。

そこに重きを置いたら、
大乗の運動から外れているのではないのか。

そんな感じだろうか?

南無妙法蓮華経とは何なのか
御本尊とは何なのか

究極の法が
有るのか無いのか。

考える限り
思考概念の「考え」だよねそれは。

しかし考えてみることがあるから
それを思考概念の「考え」と見分けることも出来る。

仏性と法と仮観が一心に在る。
分離していない真如の真我。

1973年阪神タイガース対中日ドラゴンズ
延長戦ノーヒットノーランを達成した江夏投手は
自らのホームランで試合を終わらせたという。

相対的には

大地が震動しなくても
自らが震動すれば大地が震動している。

法華経に描かれる振動の先。

そこに自ら何を見るか。

ただそれ



[806] 無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 1日(土)13時05分47秒   通報   返信・引用   編集済

前々回の~法華経における釈尊の第一声に提示された前提の
「諸仏智慧甚深無量其智慧門」という
「是」は「如」であって
他人事の思考概念を元にした一切の修行法
いかなる努力をもってしても
それでは不可能である。~のだけれども

前々々回には~自分自分になってしまえば
ちょっとした差異にも嫉み
拘った正しさが通らないと瞋りに震える。~
とも言っていて、他人事でもいけないし
自分自分でもいけない。

本当の自他不二、「個」即「全体」の
悟りに必要な空の智慧の自受用身。

それのためには
では、どうすればよいのか?

「そんなの智慧の門には以信得入と言って
ただ信じることが大切で、だから
この正しい仏法を唯一世界へ広宣流布している
唯一正しい教団の創価学会の信心が大切なんです。
教学と言っても、これだけが分かっていれば良いのです。」
なんて言う人がいたとして

↑これは、ただの言葉であってどうでもいいのです。

「よく言った、その通りだ」⇔「それは違う、なんたる思考停止か」
↑受け手の作用反作用です。自我機能の思考概念です。

一切引っかかる所の無い
純粋な球の、法のため人のための体感知の無限
このエネルギー、恐れるところの無い、味わい尽くす、これの定まった明晰な静寂、脱構築されるところの、ただある智慧の、空の不二である歓喜の・・・

妙法蓮華経 方便品 第二 には
~舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。~

と、あります。

「深く無際に入り、一切未曾有の法を」
思考概念で認識した後の一切は「既」曾有の法です。
極まるところの無い、起こる前の無限の今ここへ深く入り
一切が未だ何者にも分別されていない存在そのものを

「成就せり」という見方は迹門です。
本門から見ると「成就されている」が
常に分離なくあって法を説いています。
永遠無限そのものの本地です。

そこへ至るにはと見ると迹門の「理屈」です。
本門から見れば、
そこから自然に初めに起こっているものは
という「事象」になります。

無量とは無量心で、無限の覚知からの心です。
理屈を言うと慈・悲・喜・捨です。

無碍とは抵抗値の無い完全な受容の球です。
理屈を言うと法・義・辞・楽説の智慧です。

力とはありのままの体感知のエネルギーが「もたらす」見分け区分けの能力です。
理屈を言うと見分け知る十種類の「得ている」力です。

無所畏とは、後付けの不安要素が無く反転していない元のままです。
理屈を言うと一切智・漏尽(ろじん)・説障道・説尽苦道の畏れるところの無い智慧です。

禅定とは今ここにあるこれです。
理屈を言うと心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修することです。

解脱とは脱構築され終わっている0=∞=1です。
理屈を言うと執着を離れ苦しみの輪廻の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することです。

三昧とは一切全てが未だ味わっていない無限です。
理屈を言うと精神を集中し、雑念を捨て去ることです。

https://blogs.yahoo.co.jp/imnobody0864/22801765.html
http://buddhism.k-solution.info/2013/10/_1_1.html

「理屈を言うと」と分けて言ったけれども
文字化されていることで全て思考概念の理屈になっています。

「事行」に拘っても
そのままには伝わらないのです。

思考概念に変換されてしまいます。

各人の思い思いの解釈になってしまうのです。

禅定・三昧による真理の探求から
無所畏の折伏の事行への志向性が虚しく
思い込み信じ込みの愚考の愚行へと反転してしまうのです。

『御義口伝』「説法とは南無妙法蓮華経なり、心無所畏とは今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と呼ばはる所の折伏なり」(御書 一七七九㌻)

http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yougo%20kaisetu/musyoi/01.html

折伏が御本仏日蓮大聖人の
勇ましく切って折って伏せる特質だという
愚考へと反転するのです。

愚考は組織から利用されるのです。
一つでも少しでも拘りがある者に対しては
その拘りを突いて躍らせることが出来るのです。

拘りを突くいやらしさ、利用非利用の疲弊作用が循環しているのです。
パワーゲーム・マネーゲーム・正義ゲームの化かし合いです。
バイアスのかけ合い、マインドコントロール天下の志向(第六天魔王)
があるのです。

不良不全がもたらされるのです。
グーミンからの脱出方法(解脱)が分からない
もたらされていないのです。

永遠無限の本地からあるがままが説かれ
グーミンからの脱出がもたらされる
ただそれだけのことが本当の折伏です。

律動法を実践すればあり
もたらされでいることが自然であることが
了解されるのです。

解脱でない変革は上書きです。

解脱の変革は上書きではなく
かぶせにいかなくて良いのです。
自然に自発するのです。

内奥から溢れ出る歓喜なのです。

気分転換
<youtube>前前前世 (movie ver.) RADWIMPS MV
https://www.youtube.com/watch?v=PDSkFeMVNFs

<youtube>スピッツ / 運命の人
https://www.youtube.com/watch?v=AMWDAuPx26Q

<youtube>スピッツ / 愛のしるし
https://www.youtube.com/watch?v=7awhzclrBMc
<youtube>PUFFY 『愛のしるし』
https://www.youtube.com/watch?v=i0wWgX9Xg8I



[805] 「   」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月29日(木)12時27分34秒   通報   返信・引用

<youtube>100分de名著「維摩経
https://www.youtube.com/watch?v=VnKXI0QEJMg
https://www.youtube.com/watch?v=PGZs2zfK49I
https://www.youtube.com/watch?v=pQyq1690C0Q
https://www.youtube.com/watch?v=49lG04zWBXc

維摩経は御書の中では浄名経の名で出てくる。

大乗の空の思想の経であり不二の法門が説かれている。

一生成仏はその空の不二の法門が大きく関わっている。

<日蓮大聖人と私>一生成仏抄・第四章 迷悟不二に約し題目修行を勧む
http://aoshiro634.blog.fc2.com/?m2=form&no=1226

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧246
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8139

師弟不二って何だろうね。

「池田先生が師匠、私は弟子」というのは
どこまで立派にやり遂げたとしても
それだけでは立派な師弟ではあっても
師匠と弟子が別であって不二ではない。

思考概念の思い込み信じ込みでは
俯瞰が出来なくなる。

都合の悪いことは覆い隠し
「在り方」を歪める。

気づけば「異様」である。

「異様」と見られることに取り合わず
おためごかしの号令に
バイアスに麻痺した中毒の期待依存。

いつかきっと続けていれば?

良くならないですよ。
今ここしか無いのですから。

気づけば
それがそうあるだけ。

無駄とか無駄じゃないとかという分別が
在るままに無いままであり
離れないし離れるし
変換するし変換しない。

師弟不二から師弟不二を見れば
見た次の瞬間には分離して歪んでいて

常に脱構築、解体、再構築できることが
一人立つということであるし
一人立つとはそんなものではない。

どうでもいい。

良いも悪いもなく、ただ、どうでもいい。

「どうでもいい」を「       」

これがあるだけ。
是が如なだけ。

<アルベアのブログ>
「自我機能」⇒「思考・概念」に「気づく」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913873.html

「体感調整」としての「スワイショウ・ぷるぷる気功・火の呼吸」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913932.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913997.html

「律動法」の実践をすると、
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287914095.html

法師品に「是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の大慈悲心是なり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり如来の座とは一切法空是なり」
御義口伝には「衣とは柔和忍辱の衣、当著忍辱柔和忍辱鎧是なり、座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり、室とは慈悲に住して弘むるゆえなり母の子を思うが如くなり」

思考概念に気づき離れて清浄な男女は
「如」が去来する如是を覚知し
「どうでもいい」の本質を纏い
空性の本分の「個」即「全体」に座して
人びとのためにその覚るところを語りなさい。

気分転換
<youtube>Makoto Kawamoto ? LIVE
https://www.youtube.com/watch?v=0bAb8bHn2IQ

神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる

同じもの同じ感じかたしてるの 愛してる 愛してる 愛してる

<youtube>川本真琴 桜 (makoto kawamoto sakura)
https://www.youtube.com/watch?v=nZTTKgmbTs0

松本「ね、このこ聞いてもすぐ返してくるでしょ」



[804] 三身如来の如理の十如是を如是我聞 にょにょっ!?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月28日(水)13時12分2秒   通報   返信・引用   編集済

法華経迹門において二乗作仏が説かれていきますが

それは十如是の中身であって
「是」はこのよう(如)ですか?
「是」はこのよう(如)ですよ。
「如」とはこのよう(是)ですか?
「如」とはこのよう(是)ですよ。

という中身の確認であって
説かれた核心は諸法実相の十如是である。

つまり法華経迹門とは
三身如来の如理(諸法実相)とは
是の如きであるということを
是の如く私は聞いたという内容であり

他人事である限り「如」も「是」も
全くのよそ事であって利益が無い。

ただのおとぎ話である。

「是」が他人事なのである。
いくら誰が「是」を説明したとしても
他人事である限り真の「如」という真如が分からないのだ。

真如が分からないゆえに真我である無作三身が分からない。

つまり「是の如く我聞き」から
「真我に聞けば是は真如なり」への反転が文底になる。

自身の事としてありありとある諸法実相への反転である。

その自身とは自我偈の自身であり
ゆえに十如是・自我偈を読誦する。

法華経における釈尊の第一声に提示された前提の
「諸仏智慧甚深無量其智慧門」という
「是」は「如」であって
他人事の思考概念を元にした一切の修行法
いかなる努力をもってしても
それでは不可能である。

智慧とは一心の三智(三観)である。
一心の三智とは一心を空観・仮観・中観として観て悟ったところである。
御義口伝 諸仏智慧甚深無量其智慧門の事にある。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55255952.html

天台大師は「調身」「調息」「調心」を「悟り」に至る修行法として摩訶止観にまとめた。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287615513.html

日蓮大聖人は三大秘法を顕した。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/54991588.html

ここに一貫される自身自得の一心の三智が
法華経の非二元であり

ここから思考概念によってズレブレが生じれば
いくら自分は正しい修業を積んでいると思い込んでも
悪道に堕ちることは免れないのである。

裏を返せば
このことの了解がなされれば宗教枠を外すことも可能だし
その了解のための動法が正法になる。

「これ」とは「如」であり
「如」とは「これ」であり
如去し如来する如理・如智・如動である。

一心の三智を思考概念に変換すれば
様々に言うことが出来るが
例えば仮諦はバーチャルリアリティーだとも言える。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55738617.html

思考概念はどこまでいっても
思考概念の上書きであることに注意しなければならない。

もたらされている体感知に気づくための
意識するガイド・ナビである。

仮の中の特定に自分があるかどうか。
和合している仮の仮を外していけば何が残るのか?

さあ、勇気を出して試してみるのだ。

それが上手くいくようにエネルギーと祈りを送ります。



[803] 号令じゃない

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月27日(火)12時29分34秒   通報   返信・引用

「夢や希望を大きく持つこと」
「決してあきらめず努力を続けること」
それらが実現し「得られること」

「すでに得ていると思っているもの」
「これから得られると思っているもの」
それらが「崩れ去ること」

「すでに崩れ去ったと思っているもの」
「これから崩れ去ると思っているもの」
その「崩れ去りが崩れ去ること」

欲ベースで考える思考概念
あるいは欲を外してなお
それらという違いの世界であるところのものとは
如来の知見は違う。

水族館に行って色々な魚を見ると
常に泳ぎ回っている魚もいるし
「本当に生きているの?」と思うような
じっとして動かないような魚もいる。

ただ横たわって、ただある魚。
ただそこに一体化し和合している。
人間のようなうるさいマインド(言語思考)もない。
ただあるという意識がある。
「水魚の思い」は観照意識の誘因になる。
プールなどでの水中体験は
「あることの感覚の呼び起こし」になる。

「自他彼此の心無く」とは見ていると見られているが
同じようにあり同じように感じている。
これが自分の見ているだという特別な執着がない。
背後からの視線に気づくという現象。
なんとなくイメージが伝わるという現象。

同じように唱題に取り組んでいる人たちとか
同じように瞑想に取り組んでいる人たちとか
同じように趣味に夢中になっている人たちとか
たとえ離れた場所にいても同じ価値の輝きの生命にある。

自分自分になってしまえば
ちょっとした差異にも嫉み
拘った正しさが通らないと瞋りに震える。

例えば何かの給付金の制度があって
もらえるかどうかギリギリのところで
努力をしてみたけどもらえなかったら
穏やかでいられないかもしれない。

嘘や要領のよさで損得をすることに疲弊する。
正しさにこだわっても融通がきかなくなる。

沈静化して凝り固まった沈殿物。
重ね重ねられたマインドの思考概念。

上書きしたって表面が変わったとしても根本的には消えない。

置き去りにされて取り残される孤独感になる。

マインドが沈殿しないためには
活性化のエネルギー状態になればいい。

一切衆生を乗せて余りある無限永遠は
自然にあり

それなのだ。

正法光の律動法による
イノベーションである。



[802] 今、黄金のハビタブルゾーン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月26日(月)03時24分44秒   通報   返信・引用

意味があることに意味はない。
前提があることの前提はない。
善意であるための善はない。
悪意であるための悪はない。
立派であるための精進はない。
堕落であるための惰性はない。
見られるために姿が見てはいない。
思われるために心が思ってはいない。
説かれるために法が説いてはいない。
生命のための寿命はない。

自我偈より
 衆生見劫尽 大火所焼時
 我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆妓楽
 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
 憂怖諸苦悩 如是悉充満

『自我偈解説』より
~~迷いの衆生が『世界が滅んで、大火に焼かれている!』と見る時も、
私と貴方の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界、人界の人々で満ちています。
そこには種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの豪華な堂閣があり、宝の樹にはたくさんの花が咲き香り、多くの実が生っています。

まさに、ここは善なる正義の人々が遊楽する場所なのです。
多くの天人達が種々の楽器で常に素晴らしく美しい音楽を奏でて、
天空からは目出度い曼陀羅華(天上界の華)を降らせ、それが私と貴方の頭上に注がれています。
私(釈尊)の浄土は壊れることはないのに、迷いの人々は世界が劫火に焼き尽くされ、憂い、怖れ、諸々の苦悩が充満していると見るのです。~~

あなたが考える「こうだ」という世界の全てが
それは火が付けば燃えてしまう紙切れのようなもので
絶対に保障されている正しさは無い。
思考概念による社会の制度というものは
「こうだ」というものを意図的に信じさせ
それをいかに上手くコントロールしようかという
思惑によって見せかけられている。
どの思惑に乗っかるか。
縁起に対して「こうだ」という判断基準を持ち込んで
それに対して正しいことが正しさだと認識する。
しかし何が何をもたらすのかなど、
事前に完全に判断できる基準など存在せず
しかも何がもたらされるかの因は厳然とある。
事前に分かっていたとしたら選ばなかったような議員が
えてして選挙で選ばれて当選したりもする。
「全ての人を仏の無上道に」という一仏乗に乗っかろうとしても
それが本当にそうであるのかを
それが意図思惑の思考概念であるならば
火の付けば燃える何の確証もない紙切れと同じだということも知らないままでは
どうして知ることが出来ようか。
正しくあろうとすることが正しさではない。
「きっかけ」があるだけで、一体いかなるものでも
燃え上って何も残らないのだ。
世界の全てが滅んで大火に燃やされるということでもなければ
それでもなおの不変を確かな実感とするのは難しいのかもしれない。
どんなに希望に燃えている時も
どんなに絶望に落ち込んでいる時も
もう何も発見しないことの発見の不思議。
私は何でもないしあなたは何でもない。
私が報恩感謝する人であればあなたは諸天であるし
あなたが報恩感謝する人であれば私は諸天である。
ただあるそれが満ちているだけ。
何かを判断したり何かで判断したり執着したり囚われたりしない。
思考に囚われて生きるのが「死んだように生きる」なのか
思考で判断をせずに生きるのが「死んだように生きる」なのか
「死んだように生きる」のが幸福なのか不幸なのか。
一切のこれは
思考概念を解除して気づけば
魅力に満ちたストーリーである。
園林のように堂閣のように
花が咲くように実がなるように。
輝きに満ちたビジョンだ。
これを楽しむためにこれがある。
善とは期待依存せずに素直に味わう、ただその静かで明晰な球だ。
その禅定の歓喜に気づけばそれはリズムを打ち音楽を奏で
法界には祝福が降り注いでいる。
いつ、どんな時であっても
それはそれとしてそうある。
自分の判断を持ち込めば
その判断基準が判断によって焼かれる。
太陽に近づくほど
燃え尽きないものは無い。
ちょうど良いところで私たちは生かされている。
春夏秋冬季節は巡る。
気づいていますか?
黄金の世紀の太陽の光の中へ
それが今であることの体感覚知に。



[800] 仏法・大白法・正法光

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月22日(木)10時59分42秒   通報   返信・引用   編集済

永遠に絶対に滅しない個別は無い。
永遠に寸分も間違わないと確証できる個別は無い。
それは縁起の法からも言える。

人間革命二巻「光と影」より
http://kaidaten.hatenablog.com/entry/2015/12/27/001709
~君の経験でわかるように、無批判に信じるということは、恐ろしいことなんだ。世の中に、こんな恐ろしいことはない。間違ったものを信じると、人は不幸のどん底に落ちる。どんなに正直で、どんなに立派な人であっても、この法則に逆らうことはできない。~
~結論的に言って、日蓮大聖人は、一切の不幸の根本は、誤った宗教・思想にあると断言していらっしゃる。そして、究極のところ、正しい宗教・思想は、何であるかをご存じだったから、あらゆる迫害に屈せず、命をかけ、大確信をもって、お説きになったのだ。~

元々創価学会としては日蓮正宗が唯一絶対に正しい教えで
一切の不幸の根本を断って人々を幸福にする
というスタンスがあった。

しかし宗門の正しさも
学会本部の正しさも
儚い幻想として崩れ去っている。

自我機能の人情としては
ならば本当に正しい教えはどこにあるのかと探す。

大御本尊の疑義
凡夫即極の御書の疑義
日蓮本仏論の疑義
五時八経の疑義
法華経の疑義

そうではない。

崩れ去ってなお崩れ去らないものを知らねばならない。

「正しい宗教」と「間違った宗教」という絶対的隔絶があって
「正しい宗教さえ用いればいい」というのは崩れる。

そもそも「日蓮をもちいぬるとも悪しくうやまわば国滅ぶべし」である。

体感知こそが本質である場合
あらゆる個別の教義
言葉の上に現れている意味
思考概念の枠組みというものは
便宜的であり方便である。

検証可能な実際に起こることの体感知。
そこには宗教枠、教義の枠、思考概念の枠は無い。
文底の体感知を了解していくと
それは個別の所有者がいない。

どこにでもあり、誰でもがそれである。

表面上、いかに違うということが現れていても
最奥の「仏とは生命」の「妙法蓮華経」は同じである。

個人においても思想宗教においても。

その体感知をもって
「思想宗教の普遍の最奥」「神聖なものとの絆」「生命の不思議」
との関わり方、信じ方が思考概念だけになれば
二極分離となり、一切の不幸の根本になる。

信じるべき絶対の正しい宗教が固定的にあるのではなく
生命の最奥をどれだけ開くかどうかがあるだけなのだ。

三種の法華経(二十八品・一念三千・大御本尊)それぞれの
表面を見れば、その変遷を見れば、外的要因史実関係を見れば
一貫していないということが目に付くだろう。

しかし「仏とは生命」と呼んだそれは
本末究竟して等しい諸法実相があるだけだ。

絶対的幸福境涯と言って、戸田先生には絶対の体感知の確信があったのだ。
絶対に間違わない正しい宗教の組織が個別に永続的に存在し続けるというのは幻想である。

法華経を信じる。
法華経の行者。
法華経の非二元。

思考概念で読み取れば、意味は千差万別である。
同じ体感知の上には距離も時間も個別的所有者もない。

真如(無分別智)が来っている。
如来(仏)というものは、この非二元である。



[799] ビジョンと正反イメージ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月21日(水)13時27分57秒   通報   返信・引用

身体そのものが、本来は自然の光の延長そのもの。
法華経の思考概念で言えば、我が身宝塔です。
色香美味の我が身の禅定です。
妙法蓮華経です。

ビジョンは、分離を経験します。
イメージは、もたらされる誘導性の電磁的・量子力学的反応です。

在るという和合された光を分離して
一方に「正」を見た時、その対極に「反」あるいは「邪」を見ることが
色を見続けた時に補色の反作用がストックされるように
自身の内に不可避的にイメージ分離の発生をします。

自分を正としてみれば世の中はこんなにダメだ
世の中を正としてみれば自分はこんなにダメだ
ということが「見る」から「機能として自然発生」する。

本来引きずられる必要のないものに引きずられるから迷う。
「見る」→「機能として分離が自然発生」→「分離の所有者があって見ている」

「分離の所有者があって見ている」というのが三界の見方、凡夫の迷いである。
「分離が自然発生」する前の「見る」ということが悟りで所有者がいない。

見て発生した分離の目先の損得(肉眼)
見て発生した分離の全体の統括(天眼)
見て分離が発生することから離脱(慧眼)
見れば分離が発生する自然の法(法眼)
分離が発生する前の見る(仏眼)

各宗教の違いというものは
その宗教をやっている人が認識しているほど
はっきりとした違いはない。

分離は、分離があると思ってみている人にとってあるだけだ。

仏教という特別なものがあって
声聞・縁覚・菩薩のための法がそれぞれ別にあるように説いてきたけれど
そのような違い、分離というものは無くて
一瞬即永遠の一仏乗があるだけなのですよ。
というのが法華経であるとも言える。

一仏乗は一瞬即永遠に遍満する普遍であり
どんな人界の中にでも仏界がある。

だからそれを説く法華経が正でそれ以外が邪(肉眼)
だから法華経をもって全体を正しく統括する(天眼)
ただ全体の本質としての法華経になる(慧眼)
生命の諸法実相がある(法眼)
非二元(仏眼)

「創価だけ」「日蓮仏法だけ」を「特別に見れば」
自然の機能として必ず「これが正しい」「これは間違っている」
という分離が発生する。

特別に見るというのは自我機能によるもので
自然の機能として起こることは自己機能によるものだ。

個別があるという自我機能が先に来ることで
分離という迷いが生じ苦悩に引きずられる。

律動法によって自己機能が先にあることを意識すれば
色心不二の和合の世界の正法光である。

創価に、良いところもあれば悪いところもある。
個別として絶対が存在することは無い。

多くの人のところに体感覚知のためのツールとして広げ
実際の社会変革のための各分野の進出をしているが

体感覚知のためのプログラムが樹立できておらず
現場現場の思考概念によってなされ
内実が損なわれ、分離の世俗化が
思い込み信じ込みによってむしろ強化されている。

世俗化の思考概念を離れ、ただ祈る際
恩恵はあるが、指導者、授ける者の不在によって
世俗化にブレーキがかからず、恩恵に時間がかかったり
思考概念の固着が進むと得られなくなったりする。

後継者の不在、救済者の不在が問題である。

無上道であるとは言っても
最初の回復改善の恩恵、意識の変容は
それほどに時間のかかるものでは無い。

「初信の功徳」「新入会者の育成」

この時の、新入会者の信仰の体感覚知のプログラムが無い。
初信の功徳は自分で得るもので、あとは組織活動にどんどん参加させるだけ。

これでは、まともな信仰の恩恵で世界に平和や幸福をもたらすことは無い。

インドの聖者カルキ・バガヴァンのワンネスディクシャという体感覚知プログラムがある。
同時代現象の例としてあげるもので、これを推奨するものでは無い。
インド国内向けに6日間
海外向けに21日間のプログラムをしている。
http://joy-healing.jp/readings/special/59.html
http://joy-healing.jp/contents/deeksha.html

このプログラムの中では祈る対象は何でも良い。
実際の脳の変化、意識の変容を伴った永続的効果のある
宗教の枠を越えた悟りの体感覚知プログラムである。

バガヴァン氏の理想の理念と
池田先生が実際の行動を伴って訴えたことは
重なる部分がある。

法は諸法実相しかなく同じである。
<宿坊>法華玄義・序王 2  投稿者:体長1.3mの巨大猫
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70589

本当に若者に体感覚知のある教育をすること。
人間を育て、人間不在を解消すること。

個々に寛解、蘇生、奇跡の歓喜を味わいながら
全体の正法光への和合へ。

その軸を了解しなければ
池田先生が「道遠くてもそれしかない」と言った教育も
思考概念であらぬ方向に行ってしまう。

道理ではないか。

創価だから間違わないなんていう盲信は危険だ。
会長は偉いんですと言わしめる会長は間違いなのだ。



[798] エアビジョン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月16日(金)14時25分4秒   通報   返信・引用

光の三原色
http://juku-ru.com/gensyoku.htm
~「赤、緑、青の光を組み合わせれば、ほとんど全ての光の色を作りだすことができる」~

本当だろうか?
ちょっと嘘がある。

赤、緑、青では紫外線を認識できるカラスの視覚ビジョンは再現されないし
モノクロの視覚の生き物にはそのビジョンの再現には単色で十分だ。

要するに

人間が肉眼のビジョンだと思って認識しているものは
人間の眼球内の赤、緑、青の波長の受容器に依存した
作用反作用を元に高度に辻褄合わせ補完された
「人としてこう見るべき」という経験である。

虹の色を数える時、国によってその色数は変わる。
「人としてこう見るべき」という前提が変わるからだ。

大自然の中で生きる原住民は、
産業文明の中で生きる人が見分けられないような
微細な緑色の違いをはっきりと見分ける一方で
産業文明の中で生きる人が当然のように見分けている
カラフルな色を見分けられないことがある。

色の見分けは、
それを示す言葉と、体感と、実用とによって
その文化と、そこにいる個々人に定着している。

視覚は人間にとって
ひときわ特別な感覚である。

他の感覚(触覚・聴覚・嗅覚・味覚)と比べて、
分離が無い事を確認することが難しくなっている。

それだけ高度に視覚は
強固に個の自分があると思い込む
分離の処理がなされた上で
ビジョンを経験している。

鏡を見て、自分の右目を見る、自分の左目を見る
というように視線を動かす時
眼球が動いていることを認識しづらい。

視線が合っているということの辻褄合わせが
通常無意識下で実際の変化より優先されている。

スマホなどで画面側のカメラでやってみると
視線が少しずれる等で、自分の眼球の動きが見えたりする。

その経験が新鮮なうち、あるいは定着すれば
鏡でも自分の眼球の動きが見える。

他の感覚(触覚・聴覚・嗅覚・味覚)は

唐辛子の味覚の辛さとヒリヒリする痛覚の痛さは境目が曖昧である。
「ツンとする」というのは嗅覚なのか味覚なのか痛覚なのか曖昧である。
骨伝導という方法や低周波等の振動は聴覚なのか触覚なのか曖昧である。

「ツンとする」のツンを見せて下さいと言っても
一次的なそのものは示しがたい。

発生源となる元、それを味わった人間の表情しぐさ、ツンとするという言葉
それらが結びついているという経験の記憶によって
それらから連想することは出来る。

「識」というものは
体感の受容というものと
「べき」というものによって経験する分離の「想」というものを

橋渡しし、つなぎ合わせ、貫いている。

「想」が間違えば「行」が失敗する。

例えば階段を上り下りする時
段数を誤認識していれば
エア階段・エア地面に焦ることになる。

それはその時、実際には階段が無かったからエア階段だったと気づくだけで
「行」としては常に「想」によるエア階段を上るという段階を通じて
人間らしく左右の足を交互に使って階段を上るのである。

階段の一段一段に対する動作が
階段即是エア、エア即是階段になることで上手くいっている。

階段即是エア、エア即是エアになった時に失敗する。

「探求はこうあるべき」ということに
段階を登る結果が伴わないのはエア探求になる。

実在と違うものを信じ込ませるのは
エア信心である。

多くの人生はエア自分による失敗の連続でもある。
過小⇔過大な作用反作用のエア自分による不良不全。

優良健全な自然のままの実在であることが本来である。
そのブレズレの無い智慧が自受用身である。

特定宗教枠の思い込み信じ込みの上に築くのはエア自受用身である。
エア自受用身を信じれば失敗し不良不全になるのだ。

思い込み信じ込みの上でなく
自身の自然の実在と想とが即の関係になることで
エア即是自受用身になるのである。

そのあるがままの無作三身という結果を実際に伴うために
律動法が推奨される。

そこには、宗教枠は消える。

「気づいている」「体感」「ビジョン」「思考」「感情」
があるだけだ。

「ビジョン」を「思考」によって上書きしていけば
ズレブレによる不良不全の「感情」が大きくなる。

「ビジョン」に潜む「べき」を「体感」によって解除していけば
非二元の「気づいている」によってあるがままのあるだけあるだけがあるだけが・・・・・(無限)

「~になる」という完結ではない無上道の歓喜の中の大歓喜。

今回の視覚についての添付

<YOUTUBE>What Is The Resolution Of The Eye?
https://www.youtube.com/watch?v=4I5Q3UXkGd0
例によって設定→字幕→自動翻訳→日本語

↑は<人間の目の解像度は、何万画素?>
http://www.gizmodo.jp/2014/03/post_14178.html
より。

<子犬のへや>犬の目・視覚
http://www.koinuno-heya.com/zukan/sight.html#two

<YOUTUBE>錯覚-an optical illution- モノクロ写真に色がつく
https://www.youtube.com/watch?v=poHJWt_Tk6Y

↑は<ネコノヒゲ>白黒なのにカラーに見える!錯覚画像
http://nekonohige.minmike.com/shirokuro_color_sakkaku.html
より。



[797] 非二元の悟りへの短縮

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月14日(水)14時17分16秒   通報   返信・引用   編集済

妙法蓮華経安楽行品第十四 現代語訳より
「この世に存在する有形無形の一切のものを得ず 知らず見ず
これをすなわち名づけて 悟りを求める修行者のなすべき行動とする
一切のこの世に存在する有形無形の一切のものは 空であり存在しない
永遠でなく、また、起こることも滅することもない
これを悟りの智慧を開いた者の 親しく近づくべき場所と名づける」

空と言えば有名なのが
色即是空 空即是色であるが

直感的に置き換えてみる。

」即是「   」
「   」即是「



妙法蓮華経如来寿量品第十六 現代語訳より
「もしも、生命のあるすべてのものが、私の所に来たときには、私は仏の眼によってその信仰などの生命活動や感覚の原動力の利発なことと愚鈍なことを観察する。
相手に応じて道理を言い聞かせて理解させ、あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ、
またまたこの世に出現して、「仏の悟りを得た境地へ入りこの世を去るに違いない」と言い、また種々の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって深く複雑な教えを説いて、 生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせた。
諸々の仏法に帰依した男子よ、如来は諸々の生命のあるものすべての中で自己の悟りを第一とする教えを願っている福徳の薄い心身に宿ったけがれの多い者を見たときは、
この人の為に「私は若くして出家し一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得た」と説いた。
しかしながら私が実に仏となって以来長く久しいことは、この通りである。
ただ人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって生命のあるものすべてを教え導いて、仏道に入らせようとしてこの様に説いた。
諸々の仏法に帰依した男子よ、如来が演説する経典は、皆、生命のあるものすべてを迷いの世界から渡してそこから脱出させるためである。
或るときは自己について説き、或るときは他者について説き、或るときは自己を表現し、
或るときは他者を表現し、或るときは自己の事柄を表現し、或るときは他の事柄を表現する。
その言葉や演説は全て真実であって虚妄ではない。
理由は何故かというと、如来はありのままに、欲界・色界・無色界の三つの世界のそのものの内面などを表す姿・形・ありさまを正しく認識するからである。
出生や死亡など無く、もしくは老化もしくは成長、またこの世での存在および滅度も無い。
実在でもなく虚無でもなく、不変でもなく多様でもない、三界に住む者が三界を見るようなことではない。
このような事を如来は明らかに見て誤りが有ることは無い。」

欲界という「感情」の満足を求める世界
が欲しいは嫌だ)
色界という「肉体」の技術が磨かれる世界
をどんな割合で光らせればになるかの職人的技術)
無色界という「思い」を純粋に樹立する思考世界
は電磁波の波長の違いで、分光によって組成を知ったりできる真理探究)

これらは迷いの世界であって
この迷いの世界から脱出させるために仏は
その無始無終の寿命をもって
あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ
相手に合わせ、生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせる。

「どうしても『私が』悟りたいんだ」というストーリーを望んでいる者に対しては
「私はこんな風にして最高の悟りを得たんだよ」というストーリーを用意して説いた。

だけど本当のことを言うと、「   」の智慧は無始無終の寿命なので
仏は、「生まれた」「悟った」「死んでいく」ということは無く

■は■■は■■は■と気づいている意識がそのままで分離が無く

」そのままで「   」であり
「   」と言ってもそのままで「」なのである。

御義口伝 無量義経六箇の大事
「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」

「こうすれば悟れる」「こうすれば成仏する」というストーリーも
「悟ればこうなる」「成仏すればこうなる」というストーリーも

迷いがそれを望んで見ているのだ。

あなたが望むから仏は
あなたのために、あなたのためのストーリーを
構成しているのだ。

今、この瞬間も、その仏はあなたのために
あなたの歓喜のためを構成している。

その仏、南無妙法蓮華経如来はどこにいますか?

あなたが迷う限り
仏はあなたの迷いの中にいるのです。

開けば出てくるのです。

意味や理由より前の事です。
ストーリーよりも前、言葉より前です。

ただ「私」があるだけの
どこにも行こうとしない何かを変えようともしない気づいている意識。

全てのエネルギー変換の前のニュートラル状態。

それに寄り添ってみるのです。

正法光の律動法(アルベア法)
より純粋なエネルギーである気功のエネルギー変換を体感します。

自然な同時体験、同時体感なのです。

ニュートラルなエネルギーを意識の向け方・使い方によって
現象をコントロールする技術、不良不全を回復すると同時に

光への回帰、ストーリーの脱落、心身脱落でもあるのです。

自然の内の「」即是「   」 、「   」即是「」なのです。

ただ、3ヶ月続けてやってみれば歓喜へとリライフされます。

悟りへの探求は従来の意識解明の観察だけでは
思考の抵抗が強かったり
億劫だったり苦痛が多かったり
迷宮に入ってしまったり
そうとうの覚悟や悲しみ苦悩とか
よっぽどのタイミングのはまり等のモチベーションが必要だったりしますが

律動法はそれらを短縮・軽減します。

今回の記事に関連する非二元の探求の内容を添付します。

<気づきのダンス>悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

<YOUTUBE>非二元とセラピーの接点 溝口あゆかさん [悟りへの道]


<シンプル生命の詩>一瞥できる体感作りが律動
~全ての「概念の区分け」は、私がそう作って気づいているのだと
自覚していく事を自覚という。
(十界)

なぜ、そういう「概念の区分け」を生み出していったのかという
元をたどっていって最初の分離を置き換えてみるのを内観という。
(十界互具)

「概念の区分け」を外して「ただ不思議の中にある」「あるようにある」
という「ただあるだけの意識」で本質へと味わうことを観照という。
(諸法実相十如是)

「ただある本質」が、特別な別の事としてあるのではなく
どの単位においても、主体も客体もなく
そのままで改めることなく一は全・全は一の
不思議の動体であることを呼び起こすことを律動という。
(三世間)~



[796] 宿坊より代理投稿『自我偈解説』転載

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月10日(土)13時41分9秒   通報   返信・引用

<宿坊>宮川氏よりの代理投稿です。  投稿者:ダメよ~ ダメダメ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70253
~~これが法華経の心であり、大聖人の心、そして師の大慈悲です。
どのように不思議であろうとも、経文の一字一句が、絶対の真理と信じて読む時、
一念三千を、自らの内に得、全てが己身の出来事と分かります。
全てが自身の責任であり、全てが自身の思うまま━━━即ち、誰もが『自受用身』
=欲しいがままに受け持(たも)つ身であることが分かる事と思います。

これが成仏という事であり、それは歓喜の中の大歓喜の境涯です。

『自我偈解説』

私(釈尊)が仏に成る事を得てから、
これまで経過した時は無量百千万億載阿僧祇という想像も出来ない程、長い時です。
(その間)常に法を説いて無数億という数え切れぬ程、
たくさんの人々を教化して仏道に導き入れてきました。
そのようにして、今に至るまで数限りない時を経て来ているのです。
私(仏)は、人々を救おうとする故に、方便を用いて涅槃(死)の姿を現じますが、
実は入滅していないのです。

常に、ここ(貴方の側)に居て法を説いているのです。
私は常に、ここに居るけれど諸々の神通力に依って、迷いの衆生に対して、近くに居るけれども見えなくしているのです。人々は私(釈尊)が入滅したのを見て、
広く私の舎利(骨)を供養して、皆が私を恋い慕う心を持ち、渇仰する心を生ずるのです。
人々は既に信伏し、心が清く真っ直ぐになり、
心の底から仏に会いたいと念願し、その為には自らの身命も惜しまないようになります。
その時にこそ私は、多くの弟子(仏、菩薩、諸天善神)と共に、霊鷲山(貴方の側)に出現するのです。

その時、私は貴方に語るでしょう。
『私は、いつも貴方の側に居て離れることはないのですよ。
方便の力で入滅(死)の姿や不死の姿を現すのですよ。
又、他の国土で私を敬い、信ずる人がいるなら私は、又そこに出現して、その人の為に、この妙法を説くのですよ。

しかし、あなた方はその事が解らず只、私が入滅したと思うのです』と。
私は多くの人々が、苦しみの海に沈んでいるのを見ます。
それ故に、わざと姿を現さず、その人々に渇仰の心を生じさせるのです。
人々の心に仏を恋い慕う心が生じた時、私は姿を現わして、最高の妙法を説くのです。
(人々を救う為に姿を隠したり、現したりするという)私の神通力はこの様なものです。
阿僧祇劫という非常に長い間、私は常にこの霊鷲山(貴方の側)に居て、又、折に触れてその他の場所にも行くのです。

迷いの衆生が『世界が滅んで、大火に焼かれている!』と見る時も、
私と貴方の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界、人界の人々で満ちています。
そこには種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの豪華な堂閣があり、宝の樹にはたくさんの花が咲き香り、多くの実が生っています。

まさに、ここは善なる正義の人々が遊楽する場所なのです。
多くの天人達が種々の楽器で常に素晴らしく美しい音楽を奏でて、
天空からは目出度い曼陀羅華(天上界の華)を降らせ、それが私と貴方の頭上に注がれています。
私(釈尊)の浄土は壊れることはないのに、迷いの人々は世界が劫火に焼き尽くされ、憂い、怖れ、諸々の苦悩が充満していると見るのです。

この諸々の罪の人々は悪業の因縁によって阿僧祇劫という大変に長い時を過ぎても、
三宝(偉大なる妙法)の名を聞くことが無いし、私の姿を見ることが出来ないのです。
多くの功徳を積み、心が柔和で真っ直ぐな人は皆、私(仏)の身が此処に存在して法を説いているのを見ます。私はある時には、この人々に仏の寿命は無量であると説きます。
久しくして漸く仏を見た人には、仏には逢い難いと説くのです。
私の智慧の力はこの様なものなのです。

智慧の光は無量で、私の寿命も無数劫(永遠)なのです。
私は長い修行の結果として、それを得たのです。
あなた方よ!智慧ある人々よ!この事を疑ってはいけません。
疑いを永久に断じ尽くさねばなりません。
仏の言葉は真実であり、偽りはありません。

例えば、名医である父が巧みな方便で、本心を失った子供達を救う為に実際は死んでないのに、
死んだと言ったのを誰も嘘つきだと言わないように、私もこの世界の全ての人々の父であり、彼らの多くの苦しみや災いを救いたいのです。
凡夫は心が顛倒しているので、私は実際には、いつもこの世に居るのですが、彼らには私は入滅すると言うのです。

何故かと言うと常に私を見ていると、驕りや欲しいままの心を生じ、ふしだらで五欲に執着し悪道に落ちてしまうからです。私は常に人々が仏道修行に励んでいるか、励んでいないを知って、
どうやって救っていくべきかを考え、その考えに従って様々な法を説くのです。

私は、いつもいつも、この事を念じています。
すなわち、どの様にすれば貴方を無上の道(絶対の幸福の道、悟りの道)に入らせ、
速やかに仏身(金剛不壊の色心)を成就させる事が出来るだろうかと。~~



[795] 一念精進行

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月10日(土)12時13分10秒   通報   返信・引用

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790)
池田先生は若き日より、この「御義口伝」を身で拝し切る覚悟で、戸田先生の弟子としての戦闘を貫いてきたと綴られる。池田先生の一念である。池田先生の偉大さは、その一念による精進行を貫いたことなのである。

僭越ながら、この一念精進行を
思考概念の上から生命感覚になじませることを試みよう。

辛労と言うも、そこには難行苦行感・悲壮感は解除され
生命の自然あるがままの歓喜として蘇生されるのである。

辛労とはWeblio辞書より三省堂 大辞林によると
ほねを折ること。つらい苦労をすること。辛苦。 「長年の-が報われる」 「 -辛苦」 「前きに-せる一生の事業を空くして/経国美談 竜渓」 〔同音語の「心労」はあれこれ気を回して心を悩ますことであるが,それに対して「辛労」は実際につらい苦労をすることをいう〕

これが「つらい」→「心地よさ」 例)ランナーズハイ
「不安・疑い」→「安心・納得」に反転し

「生きている実感」を味わい「実存解明」されるのである。

一念三千そのものであることが
それ自体が精進行でもあるとなる、開かれるのである。

「一念に億劫の」とは「久遠即今ここの」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「常と云い無量劫と云う即ち本有所具の妙法なり所謂南無妙法蓮華経なり」(788)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「元初の一念一法界より外に更に六道四聖とて有る可からざるなり所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり今日とは末法を指して今日と云うなり」(788)
三世諸仏総勘文抄にいわく「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(0562-08)

「辛労を尽せば」とは「苦難(出禅)の中にも殉教精神即安楽(入禅)に至る自在の脈動を尽くせば」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「一心静なる時は入禅、一心散乱する時は出禅、静散即本覚と知るを悉く知るとは云うなり所謂南無妙法蓮華経は入禅出禅なり云云」(791)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「此の文は我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり」(789)
開目抄にいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(232)

「本来無作の三身念念に起るなり」とは「自らの心身の瞬間瞬間の、意味を伴う前の真如が、成仏の因である億劫の菩薩修行によって開かれた仏の果、自然のままの生かされている十如実相の起こりであることに、知識ではなく体感で気づいていくのだ。」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「自身の仏乗を悟つて 自身の宮殿に入るなり 所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(787)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「本来相即の三身の妙理を初めて覚知するを求無上道とは云うなり所謂南無妙法蓮華経なり」(789)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「色心幻化四大五陰元より悪習なり然るに本覚真如は常住なり所謂南無妙法蓮華経なり」(789)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「法界皆本来三諦一心に具わる事を顕せば己心の念念仏に値う事を即ち世世値仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経は是なり」(791)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「十界各各本有本覚の十如是なれば地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり所謂南無妙法蓮華経の受持なり云云」(791)
開目抄にいわく「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(234)

「所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」とは「いわゆる仏の不可思議な歓喜の法の動体蓮華の律動に帰命する智慧とは、混じりけの無い純粋清浄な無限の真如、動と光の生命現象の実存解明を実感し、持ち続け、伝播させていく歓喜の中の大歓喜の行動なのである。」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788)
池田名誉会長講義 御書と師弟 第3回 御義口伝と青年
http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20081225.txt
~精進の「精」とは「無雑」。混じりけのない信心です。「進」とは「無間」。絶え間ない前進です。~
<アルベアのブログ>「当体蓮華」は「動体蓮華」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371590.html
~「当体蓮華」の「当体」と書かれた言語状況と今日の言語状況とは著しく異なります。「当体」という文字情報により「脈動する身体」が生き生きと反応しないのです。「受け手」の文化状況が違うからです。しかし「動体」という単語に置き換えると【変換】「脈動感」が感じられるのです。感知できるようになるのです。このことを「名字即」と言います。~

繋げてみると
「久遠即今ここの」「苦難(出禅)の中にも殉教精神即安楽(入禅)に至る自在の脈動を尽くせば」「自らの心身の瞬間瞬間の、意味を伴う前の真如が、成仏の因である億劫の菩薩修行によって開かれた仏の果、自然のままの生かされている十如実相の起こりであることに、知識ではなく体感で気づいていくのだ。」「いわゆる仏の不可思議な歓喜の法の動体蓮華の律動に帰命する智慧とは、混じりけの無い純粋清浄な無限の真如、動と光の生命現象の実存解明を実感し、持ち続け、伝播させていく歓喜の中の大歓喜の行動なのである。」

もし、万法の現象の中心をここに出して見せて下さいと言っても
もし、現象を覚知して変革や導きをなす智慧の根源をここに出して見せて下さいと言っても
もし、宇宙の経験の中心をここに出して見せて下さいと言っても

万人が即座に「あぁ、確かにこれだね」というものを示すことは出来ない。

それは各人が自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入っていくための
観心という作業を実際にやってみなければ「これ」が解らないのだが

思考概念の世界では迷宮に入ってしまう。

経験している実際のままではなく
整理するための言葉の意味に囚われて実存とは別物になるからだ。

ただ律動法ということによって自然のままに
「これ」のありようそのままになる。

本来、これはこのままこれなのだ。

教えを信じるということは
方法を受け入れて実践してみるということだ。

実践によってそれが本当だと
生かされている実感が湧き実存解明に至れば

信じるも信じないも
偽らざる本当のことでしかないという受容
自然体へとなっていく。

注意しなければならないのは
どこまでが本人の体感知による受容で
どこまでが教えられたことの思い込み信じ込みであるのか

その当人ではなかなか気づけないということだ。

自然のままの体感知の受容に至るには
すべからく思考概念を外していって
本来無作の三身を了解していく。

仏の随自意は九界の側は
完全に受容をしてみるより他ない。

意図思惑・思考概念が入る分だけそれは
拒絶して疑っているのだ。

「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」
である。

思考概念を外す
――教えられてきたことを手放すのである。

それは元より辛い選択である。

開目抄は「法華経を信じれば安楽になる」という思い込み信じ込み期待依存を手放した時にこそ
本当の仏性による安楽が自然に開かれるのだということであり

受難即安楽なのである。

もし、究極の信心というものをここに出して見せて下さいと言っても
万人が即座に「あぁ、確かにこれだね」というものを示すことは出来ないが

開かれた時には
「これ」そのものが自然のままに
信心それ自体であり

無作三身とは「これ」それ自体である。

「これ」に気づいているということが
自在の受けて用いる智慧、報身である。

御本尊は、気づいているということの証明である。

それ自体である時にはそれ自体である。
それは己心の法に気づいているのである。

その真如に主体と客体は無く
一身即三身である。

その一心を見れば仏であり
「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)
なのである。

完全な受容は、生命に対してであり
言葉の意図から教えられることを手放して
ありのままになるのだから
言葉を変えれば完全な能動性でもある。

言葉の表裏、二元性は
二者関係の中に分離として生じているのであり
本質は非二元の「これ」だけである。

サイヤさんのブログ<SOKA2015>信心の深化
http://macska2012.blog.fc2.com/blog-entry-54.html
~何が大事と云って「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」との御文の通り、仏になること以上に大事なことは無い~
~変な譬えかもしれませんが、男性が自分が男であると決意することは無いでしょう。(一部ゲイとかバイとか呼ばれる方を除きます)男であることは当然のこととして自覚しています。これと同様に広宣流布が自らの使命であることが、自分が男であることと同様に、当然のこととして自覚されるようになるのです。~

<アルベアのブログ>「対象化」「モノ化」「擬人化」すると「固定観念」に変換されてしまう
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371561.html
~依存・期待すると、ますます対象として固定化されてしまい「脈動している現象」が覚知できなくなるのです。信じれば、信じるほど反転する現象がもたらされてしまうのです。「疑わざるを信という」事が「信じる事」と言う意図となり反転してしまうのです。「疑わざるを信」とは「自然であること」が本来の意味なのです。~

<アルベアのブログ>「体感すること」心身の不適応者の話から
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371642.html
~現代人の「体感音痴症候群」は偏差値が70以上、IQが160以上あっても関係ありません。このことに薄々気づいていたのが「死ぬ瞬間」の著者で知られているキューブラ・ロスだったのです。~

<シンプル生命の詩>知能から智慧へ
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/18015134.html
~知能というものは
平等でないことにストレスを感じる能力であり
知能が高いということは
より些細な事にも不平等を感じられるということだ

智慧というものは
むしろ違いを愉しむ工夫であり
智慧が豊富だということは
より些細な事にも愉しみを見出せるということだ~

<宿坊>話題と関係ないですが  投稿者:多華果
http://6027.teacup.com/situation/bbs/55026
~東大話法規則
 1)自分の信念ではなく、~

<白樺教育館>東大病 ‐ 「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm



[794] 意味連関 味わう体感知

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 8日(木)14時22分21秒   通報   返信・引用

<宿坊>「生命」に学べ、妙法蓮華経に学べへの考察!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70048

<宿坊>「思い出す」への考察!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70107

<宿坊>今此三界  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70128

<アルベアのブログ>「思考・概念」⇒文系的思考・理系的思考・体育系的思考
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12281785000.html

<アルベアのブログ>「現象がある」⇒「言語が生まれ」⇒「思考が生まれ」⇒「概念」が誕生した。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12281781168.html

概念連関から思考・言語、そして現象連関へ、
その生命を味わっていく体感知。

この掲示板の内輪話になりますが、思い出すと言えば
「てぃーてぃーてぃー」を思い出します。

ライディーン違いの思い出。

元は戒壇の大御本尊の印象の話からでしたね。

<youtube>勇者ライディーン OP STEREO
https://www.youtube.com/watch?v=2i-s6cXI2Vg

↑↓
<youtube>YMO 雷電 (TV ver)
https://www.youtube.com/watch?v=ofyn-SPNV5Q

「てぃーてぃーてぃー」という言葉だけから
びびっと雷電のように思い出しつながる。
片隅にある記憶の呼び起こし。

勇者ライディーン OPは
この板のタイトルの元になっているレインボーマンの
アニメ版のOPを見るとどことなく共通点もあるようにも思う。

<youtube>Rainbowman OP
https://www.youtube.com/watch?v=Ukw8HMaJCIA


<歌詞タイム>勇者ライディーン
http://www.kasi-time.com/item-35482.html
<うたまっぷ>行けレインボーマン
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=T00609

<宿坊>御本尊一覧  投稿者:ROMですが…
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70046



[793] 意味連関 法界と自身

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 6日(火)13時18分34秒   通報   返信・引用

<宿坊>日蓮仏法2.0さん  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69918
~「意味」として私たちは「御本尊」を「御本尊」としていると言えるのではないでしょうか。「境地冥合」とはその「意味」の合致です。「意味連関」です。ここで大切なのは、というより根幹となるのが「信じるに足る」ということです。私たちは「信」をもって「御本尊」に向かっています。~

この内容から触発を受けて↓の投稿

<宿坊>法理から智慧へ  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69972

議題は意味関連じゃなくて意味連関だよと指摘が入る。↓

<宿坊>意味連関!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69979

その中で御義口伝が引用される。

~法華経序品第一の始に「如」の字、普賢菩薩勧発品第二十八の終わりに「去」を置かれていることの御義口伝に次のようにあります。
 「去は開の義 如は合の義なり 開は分別の心なり 合は無分別の意なり、此の開合を生仏に配当する時は合は仏界 開は衆生なり、序品の始に如の字を顕したるは生仏不二の義なり=中略=如去の二字は生死の二法なり、伝教云く『去は無来之如来無去之円去』等と云云」(御義口伝782㌻)。
 如の字は一切法是心の義 去の字は心是一切法の義なり、一切法是心は迹門の不変真如なり心是一切法は本門の随縁真如なり、然る間・法界を一心に縮むるは如の義なり 法界に開くは去の義なり三諦三観の口決相承と意同じ」(御義口伝782㌻)~

<宿坊>連関・・・!  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69990

それを受けて再考察。

~創価の三代の会長は現代に難を呼び起こし
大御本尊信仰の上にリンケージさせた。
その合の仏界としての大御本尊がある。
その智慧を開いて社会を変革する創価の信心であった。~

~法界と自身・御本尊と自身・師匠と自身
その間に何も挟まない信心の血脈。~

こう来た。
御義口伝を開いていって
自然の流れから紡がれた言葉だ。

法界と自身?新しい気がする。

<SOKAnet 教学用語検索>法界(ほうかい)
「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。

要するに「自分が変われば環境も変わる」

苦しみの界にあったとして、誰かが変えてくれるものでは無く
本質は自身の事として変えていくんだということ。

法界と自身、言えなくはない。

しかし、法界と自身・御本尊と自身・師匠と自身
その間に何も挟まない信心の血脈。

こう並べると、その位置付けが・・・?

しかし妙に、あぁ!そうか!
というものでもある。

教義も史実も一旦おいて
本来の創価生命感覚の上で置き換えてみる。

師匠とは総じては一切衆生を善知識としていくこと
別しては創価三代と意を同じくする同志
肝要は池田先生

間に何も挟まず帰依する僧宝。
僧宝は本来的には自分が実際に所属する組織、僧伽。

法界とは総じては宇宙森羅万象の縁起の法
別しては法華経の一念三千の法
肝要は南無妙法蓮華経

間に何も挟まず帰依する法宝。
ただしこれは、理解の上や
特定の対象物にあるものではなく
今ここという法界それ自体。

御本尊とは総じてはあらゆる思想宗教哲学に紡がれた叡智
別しては日蓮己心の正宗分の智慧
肝要は久遠元初自受用報身の大御本尊

間に何も挟まず帰依する仏宝。
法を法として認識するための智慧。
仏界が仏界としてもたらす慈悲。

師匠へは自覚
御本尊へは内観
法界へは観照

それによって通じていく。

その気づいている意識の上で
非二元を体感覚知していき
三宝一体がただあると了解する。

受け取り手次第。
どう感じるのもあなたの生命現象です。

己心に十界を観る内観の智慧。
一切のことは序分流通分になる。
観心本尊抄の通り。

あなた自身の生命現象の体感覚知をしていくのです。

気づいていますか?
あなた自身が南無妙法蓮華経であることを。



[792] 諸法実相 如是力 如是作 相関図

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 2日(金)20時26分12秒   通報   返信・引用   編集済

<諸法実相 如是力 如是作 相関>
:┏━━ 如是 本末究竟等 ━依報┓:
:法 ・ 空即是↓ 帰 ↑九識 ・・ 国:
:界 法┏→ 正┳ 色 ┳━━ ┓十 土:
:┃ 力┣→ 業┻ 法 ╋光明 ┫界 ┃:
:┃ ・ ┣ ┻応┻ 衆・ ┃:
: 浄 信・縁 生:
: ・ 力・起 ↓:
:行 ←━→ 識 ←━→ 受:
(中)経↑ 行・想 ↑・如 如・(仮)
:┃ ・無 力・起 ┃煩是 是・ ┃:
:┃ 慈明 ・報・ ↓悩報 縁仏 ┃:
:律 悲┗ 正報━ 想 ←心法 ┛力 対:
:動 ・ ・智慧↑ 命 ↓色即是 ・ 境:
:┗ ━━━ 如是 性 (空) 妙━━ ┛:

この図はニュアンスでしかない。

是の如くというのは
言葉の概念の中に探すものでは無く
気づいている意識そのものだということだ。

余分な思考概念を折って伏せて素直に観心をする。

己心に十界を観ることで智慧を湧かせる。

一念三千のウィキペディア
~因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義の文を見て、その文字の中に不二法門に入り、一心三観の観法を開悟会得し~云々とある。

因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義とは
因縁によって生じたもの、これは空であり、これは仮であり、これは中である
というようなことだ。

雲のごとく水のごとく: 道元・その人と教え(P76~130) P121

このリンクの前後を読めば
円教というものがいかなるものか
なんとなく分かるだろうか。

これは法理の探求である。

思考概念で説明を求めれば
どんどん複雑になる。

律動法によって
シンプルに腑に落ちるという
探求の終わりを早めることが出来る。

複雑さではない
これのままが
ただある。

~仏の成就(じょうじゅ)せる所は、第一の希有(けう)なる難解(なんげ)の法にして、唯(ただ)、仏と仏のみ、乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究(きわ)め尽くせばなり。謂(い)う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり~

その上で
「一念三千の法門は、ただ、法華経の本門、寿量品の文の底に沈めたり」
ということが

実現されていくところが
法華経の非二元である。



[791] 空~縁起→五陰→九識→十如是~

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月31日(水)12時44分46秒   通報   返信・引用

空を中心に考えていくと
実に複雑に見える仏法も
シンプルに理解していくことが出来る。

一念三千の要素、十界・十如是・三世間のうち
その概念が最後に成立しているのが十如是である。

なにせ法華経原典には無く
鳩摩羅什が漢訳する時に編み出したものである。

仏法の発展においてそれが
空を中心に、それを純円一実のものとする方向に
あるのかどうかを順を追ってみよう。

まずは縁起(ウィキペディア)を見よう。

「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」
これは二者関係の真理を見れば無我であり無分別・非二元であるということだ。

そしてそれは
「わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり」
自然の法・天然の法である。

だが
「およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである」
というところからは虚無を感じたり、全てを滅する行に向くかもしれない。

この時点では所詮は
「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」
という、各別された仏の特別な悟りであり、弟子はそれよりも低い悟りを目指すことになる。

その無我の悟りを得られるよう自身の内を見ていく方法に
五陰(五蘊・ウィキペディア)がある。

これは一個人の生命現象の内観であり、一念三千からすると
三世間の内の一つの部分観ということになる。

第七識をもって悟りとするような方向だ。

釈迦の悟りは九識だけれども
弟子は七識を得させてもらって満足する。

九識の段階を上げて八識以上の視座から五陰を見ていくと
個人という枠に留まらなくなっていく。

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

我々は現象を直接には見ていない。
にもかかわらず現象を見ていると思っているからそこに分離が生じている。

実際には五官によって受容された経験の五識を味わっている。
特殊な意識の使い方をしない限り見えるものが見えるし聞こえるものが聞こえる。
その時点で、特に意識しなくても人を見分けたり空間把握したりしている。
実際そのものではない仮の世界(仮諦)を経験していて
その経験から対象(音・色・味・匂い・感触)を分離して取り出すことは出来ない。

実際に取り出して示すことは出来ないけれども
六識の意識のイメージの中に再現・想起させることは出来る。
この想起されたものはどこにあるのかというと
空の世界(空諦)の中にあるのである。
この空諦の働きが乱れていると煩悩となり
強く差別を感じて苦しみを生む思考概念となる。

行は本来は自然・天然の電磁的・化学的・量子的な反応である。
暑い→汗が出る、酸っぱい→唾液が出る、興奮→鼓動が高鳴る等。
ここに煩悩からの意図思惑が強く働くと不良不全をきたしていく。
不自然・非天然を選択していくことになるからだ。
そういう道理であり法の働きである。
この自然の法に対して無我であるところが
無意識の七識となり、その中道の覚知が中諦になる。

無我の中道の法であると、色というのは個人の肉体でなく
宇宙のダイナミックな業の流転となり
それは常に蘇生・循環の働きであり
良いも悪いもないという無記になる。
この八識の覚知から現実の世界の中で
法のため人のためにいくのが菩薩道となる。
しかしそれだけでは延々と終わらない歴劫修行である。

そこで純円一実への視座の上昇が必要となる。
それを成すところが十如是の説かれているところとなる。
理の上での九識への視座の上昇である。

仏と仏だけが知っている実相は
「是の如き」なんだ。

は????

もうそんな風に言われたら
思考でいくら追い求めたって仕方がない。

余分な思考概念は折って伏せて素直になる。

今ここのあるがまま
自然の法・天然の法になりきる。

ただ律動と共にある。

その方法が唱題行でありアルベア法である。

そこに本門寿量品の如来の知見
正法光への飛翔がもたらされていく。

それが九識の視座になる。
それは真如(非二元)である。



[790] 空という真理

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月30日(火)13時26分10秒   通報   返信・引用   編集済

およそ仏教において本来は
「空」というものを中心にして考えなければ
その判別も、その真髄も無いと言える。

「空」自体は仏教の中で一貫して同じであるとも言えるし
やはりその教判によって違うとも言える。

<YAHOO!知恵袋>仏教大論議53 「小乗の空」と「大乗の空」とどう違うのか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1270716957

教判の側のアンサーがやや正確性に欠き
ベストアンサーを逃している。

五時八経というものが、史実とは違うという観点から
しばしば今日では無用のものだという論が展開されるが

五眼三身のステップアップの観点から
教判としての五時八経は意味を失わないと私は思う。

五重の相対の観点は史実とマッチさせていくことが出来る。

その点の整合性がきっちり説明されれば良いだけだと思う。

<日 蓮 正 宗 入 門>という個人HPの
1.釈尊一代の教え・・五時八教
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_2.htm

この内容をソラで言える学会員ってどれくらいいるだろう?

私自身、五時は言える
化法の四教は見れば、あぁこれね
化儀の四教は、こんなだっけか

そんな感じでもある。

<ウィキペディア>教相判釈←これも見比べれば補完されると思う。

さて<日 蓮 正 宗 入 門>「1.釈尊一代の教え・・五時八教」の説明の中で
~~円教(えんきょう)とは、宇宙法界の一切が円満に融合し、不可思議な当体であることを明かした教えです。
 円教では、空・仮・中の三諦は孤立することなく、一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて、一諦即三諦・三諦即一諦の関係が説かれています。 これを「円融の三諦」といいます。~~

~~なお、円教の理は華厳時・方等時・般若時にも一応説かれていますが、蔵・通・別の方便教と混合しているため、純粋な教えではありません。このためそれらを「爾前の円」といわれています。これに対して、法華経は純粋に円融円満の教義が明かされた教えであり、これを「純円独妙」といいます。~~

アルベア論で「まとも」と紹介されている非二元者のそれは
三諦別個の空ではなく円教的な無分離ではないかと思う。

観心とは観空でもある。

その意味から言うと
観心の本尊が

宇宙法界の一切が円満に融合した不可思議な当体でないわけがない。

しかるに日蓮正宗が創価学会にした批判を見ると
「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」
というようなことを「法勝人劣の邪義」だという。

http://www.correct-religion.com/ryouran/html/souka_2.html

それって「純円独妙」の法華経を否定し
正法を誹謗しているんじゃないのかな
と思う。

それを引き起こしているのが
唯授一人血脈付法への執着ではないかと。

我が身宝塔
己心の法
己心の仏性

それが日蓮大聖人ただ一人の専売特許
唯授一人血脈付法の御法主上人猊下だけの内証。

そんな仏法ではない。

御書にも数多くある。
己心の外にあると思えば無益だと。

三諦は、「誰でも」今ここにあるその経験を
思考概念ではなくダイレクトに見ていくと
そうであることが了解されていく。

それを見るためには
思考概念の癒着を解くことが必要になる。

その方法が自己機能の活性化だ。
知識の詰込みが仏法を深化させるのではない。

ただあるということに寄り添うのだ。
今ここに歓喜を湧現させていくのだ。



[789] ??

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月29日(月)13時24分29秒   通報   返信・引用

人法一箇について

<宿坊>松戸様へ  投稿者:一人のSGI
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69508
~この本の着眼点の根拠は、大御本尊信仰=日蓮久遠本仏信仰からの脱却を目指すというものですね。
つまり、世界にひとつの偉大な大御本尊、宇宙に一人の久遠の本仏、という、「ひとつだけ、ひとりだけ」というのは違うのではないか、、と。

言葉を変えて言えば、御本尊自体が秘めている普遍の価値と、大聖人も偉大な一人の凡夫なのだという真実を突き合わせて、御本尊と大聖人を
再解釈し、凡夫の私達の手に取り戻そうという試みだと言えますでしょうか。
そういう観点は私も同意します。~

悟りというものの探求
自己機能の活性化→意識機能の観察

→諸法緒論の蘇生→智慧の技化

→正法光の飛翔と救済

仏とは何か?
→非二元の覚知

本仏とは何か?
→一切の仏が師とした法華経の非二元
一念三千の慈悲からの救済

日蓮大聖人は末法の御本仏か?
→末法の御本仏を求める末法の衆生が
日蓮大聖人を末法の御本仏にしている

末法の衆生は何に従うべきか?
→正法光からの智慧
(所持者・主体者は無く権威は生じない)

正念とは何か?
→正法光を恐れない抵抗値の無い受容

正法光とは何か?
→正法の光

正法とは何か?
→非二元

非二元とは何か?
→深く意識の在り方が覚知された九識の真如

南無妙法蓮華経とは何か?
→法華経の意識体を通した
九識の真如からの救済

文字曼荼羅本尊とは何か?
→法華経の意識体を通した
救済の冥合のところ

折伏とは何か?
→正法光への抵抗を減らしていく救済

<気楽非活>「折伏」の用例。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/29/002055

大御本尊とは?

→→

ここに述べたことの全て
大御本尊を否定しない意識体による
ストーリーであって
生命それ自体・非二元それ自体ではない。

非二元からの否定する必要がないための
ストーリーでもある。

一切の権威ではなく
非二元の正法光において
否定する必要はない。

一は全、全は一。

否定しないと言いながら
実は全部の意味付けを否定してもいて
それでもやっぱり否定される存在は無い
とかいいながら存在は否定されて
気づいている意識だけがあるとも言えるし

まぁ、意識っていうものが
まずはどうなっているのかです。

それがなければ
本当の救済などないということが
それによって了解され

そのことのためとして再展開
蘇生という方向をもたらすのです。

美辞麗句と真実は見分けなければならない。

意味だけの意味なのか
実在の正法光の体感覚知なのか。

アルベア論は今、
必要なこととして
救済の気づきのためにあります。



[788] 欺瞞

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月27日(土)14時23分22秒   通報   返信・引用   編集済

「友好活動」って何なんですかね。

<気楽非活>選挙支援活動の欺瞞。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/25/060008

話しはちょっと変わるけど例えば

スポーツ振興会というものがあったとして

スポーツをすることの心身への好影響を学ぶ。

そういう研究のデータを集めたりして
どうやって行こうかと会議を重ねる。

やがてスポーツの振興ではなく
スポーツ振興会自体の拡大と権限の強化に向かっていく。

野球はこういうふうにしなさい
サッカーはこうやってやりなさい
相撲はこうでなきゃいかん

そういう力が増す。

そこに利害が絡んで
各種企業団体と癒着が起きる。

スポーツ振興会の会員を利益のために使う。

我々はスポーツの振興によって健全な世界にしていこうとしていたはずなのに
全然違ってしまっているじゃないかと会員が不満を言い出す。

スポーツ振興会の反逆者として処分される。

一人になって
地域にスポーツのクラブでも作って
本来のスポーツの振興に貢献する。

そんな一人ひとりが集まって
交流を図ったりする。

スポーツ振興会からすれば
反逆者の集団。

なんだかね。

それってすでに
スポーツ振興会の目的って変わってしまっているよね。

創価学会は今
日蓮仏法を基調とした団体で
居続けられているのでしょうかね?

仏法の体感・体験に溢れているのかどうか?



[787] レッツ ハンドシグナル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月25日(木)12時55分9秒   通報   返信・引用

ポルナレフ教官の
円融円満法レッスン動画。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/17525394.html



[786] 四聖活

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月21日(日)10時51分26秒   通報   返信・引用   編集済

私が思うに本当の脱構築とは
「絶対的な正しさが存在しうる」という
分離を離れることだと認識する。

正しさを追求しようというマインドにとってそれは
自分が特別に悪いものだと認定され
排除されるような危機感を抱き反発する。

相手を打ち負かすなどして
正しさを保存・強化し
それが正しいことであると同意を求め
偏った正義の理念を構築していく。

「強くなりたい」「分かってほしい」「認めてほしい」
そういった不足感があり

嫉んだり謗ったり怒ったり

勝つと決めて努力を開始しても
それは善にも悪にも通じ
臆病から脱しきったわけではない。

正しさが単独で存在することは無く
間違いを間違いだと発見し指摘するから
それを指摘している自分の側が正しいという
二極性を仮に設定しているだけだ。

唯一絶対に正しいものを構築しようとすればするほど
それ以外のものは悪として構築されていく。

正しいものを認めてもらいたいと願うほどに
自分は悪い世界の中を生きているのだということになる。

脱構築は構築を根本的に否定しているわけではない。
構築という前提が無ければ脱構築は無く
そのどちらが正しいのかということも互いの相互作用だと
止揚しうるための技術として脱構築があるだけだ。

六道の渦中の自我を離れることで
六道の世界・自身の内の六道の機能を
同時に俯瞰していく技術。

仏法の捉え直しを言っているのだ。
誰の生命をも否定していない。

六道から離れる技術であるためには
習って再現することが出来る必要がある。

唱題行やアルベア法(アルベアのブログ)や
パンツマルミエ法(円融円満法[564] [566] [567] [569])
各種瞑想法や呼吸法やヨガ等

考えてもバカバカしく思えるのは
そもそも考えるためのものでは無く
やってみるためのものであるからだ。

頭で考えると難行苦行である方が効果が高いように思い
自分を追い込むように行を行おうとするかもしれないが
誰でも簡単・楽ちんに出来ることの方が即歓喜につながっている方法である。

自身の心身の不良不全が改善する。
これを味わっていくことでその法を了解していく。
こちらに起こることは向こう側にも起こせるという気づきがもたらされる。
求道者から救済者への反転が起こる。

そうするとストーリーではなく
今ここの現象として
ただあるということで
奇跡・蘇生・復活の存在であることに向かっていく。

始まりも終わりも
あらゆる分離も無くなっていく。

善悪無記よりも静かな
その通りでしかない黄金の歓喜の世界。

九識心王真如の都。

本尊というのはそれである。

このことを言われてマインドがうるさく言うのは
それは全て思考概念のストーリーではないですか?

その思考概念・感情情動は誰が作っていますか?
あなたではないですか?

なぜそれを作ったんですか?

最初の最初の想い。
本当はどうしてほしかったんですか?

その時の相手の立場に立ってみて考えてみて下さい。

本当はどうしようとして
どんな想いでいたのでしょうか?

全部全部、あなたが作っているのです。

あなたは今でも生かされているのです。
どんなに間違いを上書きしても見捨てられていないのです。

全ては受容という現象化
全ては受容されているのです。

マインドを鎮めて下さい。
ひたすらただあってみてください。
新しい息を吸い
古い息を吐きだしてください。

あなたは本当に欲しいものに
あなたの意志で直接向かって良いのです。

世界の大転換です。



[785] ふでをすすめる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月20日(土)11時37分46秒   通報   返信・引用

松戸氏の日蓮仏法2.0であるが
順に読み進めようとすると凡雑だと感じ
なかなか読み進まない。

私、読む側の書を読むということへの力不足もあるが
松戸氏本人も、そこのところは凡雑になっている
と認めているところもあるようだ。

そこで、ご本人と絡んでみたり
他の人と絡んでいるところを見ながら
言っているところを抜き出して読んでみると

なるほどなるほど
面白いという印象も受ける。

私にとっても、考えを深める契機にもなる。

<宿坊>不二の仏法と不二否定の権威  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69048

共通する部分を見ようと思えば
共通する部分は多いのだと思う。

凡雑にはなっているが、それだけ
長年にわたって多くの議論を経験してきたからでもあるようだ。

松戸市のそれは論議の上から(単に論理ではない)
本当の南無妙法蓮華経に向かっていこうという傾向

私のそれは法理と体感の上から
本当の南無妙法蓮華経の中身を示し促そうという傾向

(と書くと主観の思考概念なので
本来そういう違いは無いのかもしれないが)

があるかもしれない。

今後の展開も深化の意思を持ちながら
観照・俯瞰していこう。



[784] 後世の造立

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月15日(月)15時04分33秒   通報   返信・引用   編集済

戒壇の大御本尊は後世の造立であるということについて
その論拠となるところを確認してみよう。

端的な結論としては
日禅授与本尊の主題を写し取り
板に合わせてその他の相貌が配置・書写されている。
<youtube>犀角独歩 大石寺「本門戒壇の大御本尊」を検証する①
https://www.youtube.com/watch?v=bIspyPbyfiQ

例えば、インターネットでIPアドレスが一致していれば
同一人物であるとしか考えられないように

主題の文字が完全に一致しているなら
そのまま写し取ったものとしか考えられない。

絶版となっているが金原 明彦氏の
日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実には
多角的に資料によって検証してある。

(所持している人と知り合う機会があったので
読まさせてもらいました)

例えば「経(經)」の書き方について
弘安二年十月十二日であれば
日蓮大聖人の筆は「つ」の形になっているべきところが
戒壇の大御本尊ではそれより後の「ツ」の形になっている。

く 一   く 一
く つ   く ツ
不 土   不 土

また、その他相貌も比較検証すると
弘安三年三月から同八月までの本尊であることが導き出され
弘安二年十月十二日という日付と一致しない。

弘安3年5月9日の日禅授与の本尊を
書写した相貌であるとしか立証されようがないのだ。

ここで留意しておきたいのは真実を知った上で
例えば金原氏は信仰の対象として再評価しようという
その姿勢があることである。

少なくとも創価三代の会長は
(教学レポート・遠藤文書から池田先生は
大御本尊の事はいじってはいけないとされたことが真実であるなら)
戒壇の大御本尊への信心を貫いており

創価学会の信心は、そこに連なっているのだから
簡単に放棄するべきものでは無い。

さて、それでは戒壇の大御本尊は
いつ誰が何のために造立したのか
ということになる。

戒壇の大御本尊は正面から見て、ただ縦長の長方形ではなく
下部に台座に取り付けるための束になっている構造があるという。

日蓮大聖人の御真筆の本尊が丁重に秘蔵されるものだとして
対してこの楠の板曼荼羅は即座に信徒が目通りできるものとして
法華講衆等(戒壇本尊の腰書きにあるが日蓮大聖人御在世時には確認できない)
の信仰心からの供養によって造立されたのではないか

そうすると元来は、弘安二年十月十二日という日付は真筆だと偽るためではなく
もっと別の意味、本来の『聖人御難事』の「余は二十七年なり」
二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃える純粋なものだったのではないか。

参照<気楽非活>「余は二十七年なり」って。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/12/31/001320

時期について金原氏の推察によると
戒壇の大御本尊の他に二体のみ存在する楠板本尊との
関連性から考えて応水十九年(1402年)を下限
日時~日影の時の造立であろうということである。

さて、戒壇の大御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」
と書かれているのであるが
「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
という日興門流の教義に即しておらず

元々はそのような日蓮大聖人の真筆の
生身の日蓮大聖人の当体というような
肝心の中心の御本尊として造立されていない。

日蓮正宗の御本尊は『御本尊七箇相承』に適うように
書かれているが、これは日興上人・日目上人の在世以後に
作られたものだと思われる。

<気楽非活>『御本尊七箇相承』から考える。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/12/001857

一方で日興門流において「仏滅度後二千二百三十余年」
への「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
というような教義は戒壇の大御本尊が造立されたであろう
時期よりも早くから見て取れる。

<気楽非活>興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/12/060620

七箇相承に関しては金原氏の著作には無く
私の考察である。

金原氏の研究によると、
日蓮大聖人滅後の日興上人の足跡を見ても
身延に相承された大御本尊があったとは
見ることが出来ないという事実を浮かび上がらせている。

日蓮正宗では「唯授一人の血脈相承」というが
少なくとも史実の上では
日蓮大聖人から日興上人への
あったとされる相承に
戒壇の大御本尊は含まれていない。

日興門流における「奉書写之」とは
戒壇の大御本尊を書写したということではなく

単に「これは書写した御本尊です」ということ。

日興上人が手本として書写した御本尊は
複数実在が確認できる。

さて、二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃えた御本尊を信仰の中心とし

『御本尊七箇相承』等によって本尊の雑乱が防がれ

日蓮大聖人に元々無かったわけではない
本覚の思想が具体的に組み入れられ
末法の御本仏日蓮大聖人と立てた宗派の中で

現実の上で投獄されながらも国家諫暁し殉教された初代会長。
共に投獄され、本覚の本質を体得された二代会長。
一閻浮提総与の世界への広宣流布を実現していった三代会長。

ここには必然性、
これでなければならなかったというものもある。

その意味が果たして
戦後昭和の日本において
一定の役割を果たした

というようなものに納まって良いものかどうか。

今再び、日本は戦争できる国を視野に入れた方向に
舵を切っている。

本来、創価学会として最も大切にしなければならない部分が
今、全く真逆のことを会長を中心とした執行部を先頭にして
進められている。

「立正安国」の精神は
どうした時に最も息づいているのか。

宗教を個人の観念論に終わらせず
実際の平和勢力として蘇生させていく

誰かがやってくれるだろうでは
どうにもならない。

自分がやると決めることだ。
やると決めるから力が得られるのである。

信力行力仏力法力の全てをもって
成し遂げていくのである。



[783] 狂信・狂行・狂学

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月13日(土)12時14分30秒   通報   返信・引用

<2003年度任用試験のために>信・行・学
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/3390/ninyo/sin_gyo_gaku.html

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361㌻)

~信は信受ともいいます。教えを信じて受け入れるということです。自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道が信なのです。~

~正しい法理を学ぶという、この教学の研鑚がないと、ともすれば我見という、自分勝手な理解に陥ってしまう危険性があり、また誤った教えを説く者にだまされてしまう恐れがあります。~

信・行・学と区別し別個のものというような認識があるかもしれないが
それらは別々にどれかあれば良いのではなく、本来一体でそろっている。
その信心において、「行者として学ぶ」ことが無ければ
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道を示すことは無い。

正しくその信心において、「行者として学ぶ」ことが有れば必ず
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道の中にいる。

折伏をすれば難が起こるのは道理。
「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」
である。

信者として学ぶのか学者として学ぶのか行者として学ぶのかは違い
一生成仏へは、信心をもって行者として学ぶ上で
師子王の如くなる心をもつことが肝要である。

師弟不二である。

<宿坊>第一回関東記念総会・第三回全国女子部幹部会 平成三年一月十五日(全集七十六巻)  投稿者:飛車
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68684

~正法を信じている人には、「邪(じゃ)信(しん)」はないが、「狂信(きょうしん)」は起(お)こりうる。
「正信(しょうしん)」か「狂信(きょうしん)」か――その分かれ目は、人としての《振(ふ)る舞(ま)い》のなかに現れるといってよい。社会性に反する行動や、非常識な言動で人々に迷惑をかけることは、「正信」の人の姿ではない。「狂信」に通じていくと考えられる。~

<宿坊>池田先生の思想に学ぶ ~狂信者~  投稿者:信濃町の人びと
http://6027.teacup.com/situation/bbs/21099

~(エリー・ヴィーゼル)博士は述べられている。
 「狂信的とは、宗教においてはドグマティズム(教条主義、独断的主張)であり、政治においては全体主義である。狂信者は、真実を歪め、侵す。彼は物事や人々を、あるがままに見ることができず、憎悪によって、偶像やイメージをたいへん醜く作りだし、それらに憤慨する」と。
 狂信者とは、自分につごうのいいように事実をねじ曲げ、正しいものを正しいと見ることができない。意にそわないものは悪と決めつけ、憎しみによって相手の悪いイメージをふくらませ、勝手に怒りだすというのである。
 じつに、“本質”をついている。
 「狂信者は、本当の議論から身を隠そうとする。なぜなら、対話の概念が、彼には相いれない異質のものだからである。狂信者は、多元論や多様性を恐れる。また学問をひどく嫌う。彼はモノローグ(独白)によってのみ、いかに話すかを知っている。狂信者にとって、対話は無用なものなのである」
 対話拒否――これが狂信者の証であると~

この概念基準から言うと
現在の創価は「狂信化」している。

否、ずっと狂信性を組織内に抱えていたから
智者としてそれを指摘していた。

正信・邪信・狂信
正行・邪行・狂行
正学・邪学・狂学

アンチアンチというのは
アンチよりも視野狭窄であることも多い。

話しにならない独善性。

日本会議の方向性の内閣(悪王)が
人間主義を破って全体主義を行使し(正法を破る)
狂信の職員たちが徒党を組んで(邪法の僧等が方人をなして)
池田先生の指導を改竄・都合よく使用する時(智者を失はん時)
難を恐れず師弟不二で人間主義を行く心の者が(師子王の如くなる心をもてる者)
必ず自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入っていく(必ず仏になるべし)

それは自身の生命現象として起こすことであって
思考概念で思い込んだって仕方ないけれどもね。

対話拒否の狂信の会長・執行部・職員。
学会員同士の対話まで制限し査問処分を繰り返す狂行。
見た目だけ取り繕って正当化する狂学。

狂ったバイアスの連鎖。

あなたの選択です。
どんな心をもつのか。

狂信・狂行・狂学の苦しみのループから抜け出るのは
その心の選択です。



[782] 学者、信者、行者

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月12日(金)12時30分8秒   通報   返信・引用

内容としてかぶるが
再度、学者、信者、行者の違いという見方で

母が「今夜はご馳走よ、早く帰っておいで」と、子にメールを打って、
この母が後に信仰の対象になったとする話を考えてみる。

聖職者の用意したご馳走を食べるのが信者の信仰の活動とする。
本山が究極のご馳走のレシピなるものを握っている。
その究極のレシピは信仰対象の母が作ったものとされているが、実際には後世に作られたもの。
それでも信者たちは、それを疑わずに、それを食し、それによって得た活力によって実生活に充実を得ていた。
ある学者が、そんなレシピが当時に存在したはずがない、と証明する。
でも、それは、信者として、子の側として恩恵を受ける本質とも
行者として、母の側に立って、愛する人を歓喜させようという本質とも
ズレた話になる。
だからと言っても、その宗教としては、大切なのは心で、ご馳走は関係ないというものではなく
あくまでも、ご馳走を食べるということを通して、異体同心の団結をして、本質の心を広宣流布する。
その実践が、その実践として最も力を持ってなされるために、そのための手立てというものと、
それを捻じ曲げて、聖職者が上、信者が下というような、権威のために作られたものの違い
あるいは、それが作られた経緯とは結果的に、真逆の効果として発揮される場合も考えられる。

学者は、宗祖原理の純粋性を見ようとするが、心が分からないので視野が狭くなり、確証性バイアスで、正当性証明のための、構築という方向になる。

対して、行者である場合には、法のため人のため広宣流布のためという奮い起こした心が、仏法に照らして間違いがないかという対境として見る。その感応、共振の感覚の中で、真筆では無いとされる中にも、確かにこの共振を増幅させるためのものを発見したりする。

これによってこれを広宣流布するために、信者としての、ご馳走を食べることによって、その原動力を得て活動していく。

悲しいかな現在、学会本部の動向は、
三代の会長が貫いた行者の心に肉薄することなく
大切なものをどんどん失っていく方向だ。



[781] 信心と学問

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月11日(木)14時10分38秒   通報   返信・引用

信心の側の見方と
学問の側の見方

自ずから信心の側は
定義しづらいものがある。

例えば母が子に
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
と、メールを打ったとする。

後世にこの母が信仰の対象になったとする。

この母がごちそうと定義したものは何か?
肉料理が無ければならないとか
何品から何品であるとか
それを御馳走として頂くことが信仰活動だとする。

米の炊き方から具材の切り方
味付け調理手順に至るまで
細かく設定するのか

いやいや、母が子に対した
心こそ大切なんだとするのか。

しかし、母が子を想うように
「しなければならない」と言うと
いかにも窮屈な義務感になり

本来の母の想いとは異質なものになる。

信者は子でありただ母のごちそうを求めればよい
という場合には
ごちそうを提供する聖職者の言うことが
絶対化され一方的になり
子が母を超えて成長していくようなことは
あってはならないというような
それも本来の母の想いとは異質なものになる。

ある時、子が親孝行しようとして
究極の本式の御馳走を食べるのに
ふさわしい建物を建てるためにと
300億円用意してきたとする。

それもどうやって集めたのかと聞くと
わずか4日間で集めたと言ったとする。

聖職者が
この究極のごちそうは私が提供するのだから
あなたたちは有難く思えという態度になったとする。

信者は信者で
こんな孝行を実現できる子は他にはない。
母なる存在を超えてごちそうの恩恵を世界に広めるのだ
という性格だったとする。

そのなかでお互いがお互いの中に
それとして「あるまじき部分」を見て
指摘し合うとして

取り巻きが問題を悪化させる。

ごちそうのことはよくわからないが
この親子の巨大な巨額を動かせるような力を
なんとか利用することは出来ないだろうかと
考えるものが出てくる。

この大きな力を
世間的には悪であるようなことをしてでも
より確実でより大きなものにしていこうと
動くものが出てくる。

一番の邪魔者は
物言わぬ究極のごちそうよりも
巨大な力を行使させた子のそのトップの
巨大な求心力であった。

その子のトップは
より多くの人を御馳走のパーティーに参加させようと
捉え方によってはあたかも
自分がごちそうを提供しふるまっているかのように
民衆に接していた。

そこに難癖をつけた。

ごちそうを提供するのは母で
母は母であるというだけで
子よりも正しい。
子は母の言うことを聞かなければいけない。

そういう決着をつけさせた。

元子のトップは一人
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
というありのままの真心を
それと同じように持ち続けた。

ごちそうの品目に対する研鑽
この品まではごちそうに加えても良いとか言うことと

このごちそうを振る舞った時の心

信心とは何なのか?

究極のごちそうを振る舞われて感動した
してもらってうれしかったことを

自分も自分のありのままで
人に喜んでもらえるように行動していこうと

そういうことを
理屈で押さえ込むのでは

そういう権威による統率によるのであれば

本当の信心は
失われてしまうのではないかと

俯瞰が必要だということだ。


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