いまさら やめては だめなのだ

反宿坊板、及びそれに類する掲示板へのリンクはご遠慮ください。 串投稿もご遠慮ください。 他者に対する発言は充分な根拠を示してください。



カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


813件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[876] Re:困った先輩

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月14日(火)22時04分29秒   通報   返信・引用

身なりさん、お久しぶりです。
良い自己機能の気づき
意識のシフトですね。

信心とは不思議
個々人の気づき現象による蘇生でもあります。

益々の活躍を祈ります。




[875] 困った先輩

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年11月14日(火)15時09分47秒   通報   返信・引用

お久しぶりです、清潔な身なりです。

どうも反りが合わない困った先輩Fさん

明日はFさんと揉めません様にと祈ってみる。

結果なにも変わらない。やっぱり揉める。


もういよいよ限界に近づき、Fさんが移動になるか会社を辞めます様にと祈ってみる。

結果なにも変わらない。益々元気に出社してくる。

益々必死になって祈る、
ふと気づく
困った先輩などはじめから存在しなくて、自分が勝手に困っていただけ

祈っているうちに困難の原因が解消されてしまう。

信心とは不思議



[874] 灯明

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月14日(火)12時03分51秒   通報   返信・引用

自らを灯明とせよ
法を灯明とせよ。

覚えておいてほしい。

それは二つのことを言っていない。

全く同じ一つのことを言っている。

遺言なのだ。
たった一つのシンプルなことしか言っていないのだ。

どちらなのかと迷わせるようなものではない。

つまり、その釈尊の遺言は
人法一箇、色身不二を言っているのだ。

色(肉体)と心(マインド)は不二である。

マインドが能動の時には
肉体は身体の働きをし
その心身は人として振る舞う。

マインドが受動の時には
肉体は完全な知識としてあり
その色心不二は法として振る舞う。

どちらである時も
同じ色心不二の当体であり
人法一箇である。

これが宝塔であり智慧である。

自灯明・法灯明とは人法一箇
生命の輝きの光なのである。

どうか、忘れないでもらいたいのは

「救済者になるのだ」という義を貫くのが本物の探求であり
言葉に頼って何かが成るのではない。

その瞬間における人法一箇の智慧によるのが救済であり
知識のパターンに当てはめてこなすものではない。

我此土安穏 天人常充満の仏眼によってブレズレなく受容するのであり
特定対象のみに同調同化して負うものではない。

受動のマインドの法の覚知であり
能動のマインドの人が見つけることではない。

マインドのおしゃべりを追いかけず(依義不依語)
博識になることを追いかけず(依智不依識)
完全な非二元の体感了解でないものを追いかけず(依了義経不依不了義経)
人生のストーリーを追いかけず(依法不依人)

ただそのままであることの深み
醍醐味を味わっていきなさい。

常にそれは完全な光である。
それを恐れてはならない。

恐れてはならないというのは
恐れも受け入れて開いて観ていきなさいということである。

どのようなネガティブに思える思い・感情・感覚も
慈悲・愛・光・全体・空・至福・歓喜に気づくためのギフトである。

強引さは必要ない。

強引になるということは
そこには何かの投影があるので

何の投影であるのかを見ていくのだ。
それも慈悲・愛・光・全体・空・至福・歓喜に気づくためのギフトである。

愛する君よ。
だからこそ言っておくのだ。

本当の孤独を見つけなさい。
本当の孤独を見つめなさい。
本当の孤独を愛しなさい。
孤独というギフトを開きなさい。

しかしこれは
山にこもって修行をすることを勧めているのではない。

どんな場所に行ったらあるのでもなく
どんな場所にいる時にもある。
そのギフトがあるのは自分自身の、
その内側なのである。

私がこの場からいなくなれば
私にはもう会えないように思うだろう。

事実、どこを探しても
私の残した言葉や
私を模した偶像は見つかっても
私そのものは見つからないはずだ。

しかしただ一つ
あなたが真の孤独を発見し開く時には
そこに私を発見するのだ。

さあ共に
人の心に明かりを灯していこう。



[873] 言葉の先へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月13日(月)02時11分34秒   通報   返信・引用

自我機能なのか
自己機能なのか
意識機能なのか
その見分け・区分け

それに尽きる。

ただあると了解すれば
我此土安穏 天人常充満である。

その当人の完全なる
五眼三身の

記述された
対象化・モノ化・擬人化の

変換によって作られた認識しかなく

還元されて体感する経験しかない。

歪んだ認識にそってある
感情の起伏があり同化して
ズレブレを苦楽として体感経験する。

縁は同じでも因が異なれば
果報は異なる。

それは認識の歪みによって
諸法実相を諸法実相として観ていないからである。

因果が同時である瞬間において
縁・報というものは主客がなくそのままのそれであり

その、そのままが相であり体であり
性というものもそのままのそのものであり

全く究極的に本質も微細も等しい。

何も禁止されていない
自由な表現をもって出現していること

願いとして願って出現している。

完全な主客の無さ・脱落においては
認識はあっても起きず表現が無いので

揺らぎを仮定している。

相乗的に複雑化した認識の重なりで
本質が忘れられる。

そこに衆生は
遂に世界が炎に焼かれるとまで観る。

しかしその時も
我此土安穏 天人常充満なのだ。

思考概念は揺らぎの相乗の時間の産物であり
ズレブレ歪みの上書きである。

体感の側からの感情の解放。
その実体験・実経験。

決め、探求し、探求の終わりが来る。
それは確実に実際に起こる。

はじめからこれは
そういうものでしかないからだ。

それはそうするかぎり
必要なことが必要なように起こっている。

本質は愛・慈悲だからだ。

あなたは閉じこもるために信じるのか
観られることを受容して観て開くのか。

観られる側以外の何ものを観ることが出来るのか
観尽くせば

観るものを観ることが出来ないのは自明の理だ。

頭で解るのではなく

実際に腑に落ちる体感をすることだ。

願いとして願って出現しているのである。



[872] 無分別智

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月 9日(木)08時31分14秒   通報   返信・引用

主体と客体がないということは
原因と結果が完全に同時であり
原因と結果が完全に同時ということは
時間の流れがないということであり
時間の流れがないということは
解釈や言葉が入り込む余地がなく
そのままにして永遠であり
生死間の思考視点では自由落下であり
委ねもたらされである時には無限飛翔であり
ただ観る時には球である
球である時には
それで全てであり
それが全てであり
全てがそれである
それは一切無人無境である
諸法無我諸法空相とも
しかるに
常なくば無常なく
楽なくば苦なく
我なくば無我なく
浄なくば不浄なし
彼が親は常楽我浄である
此が子が無常苦無我不浄である
常楽我浄は生死不二であり涅槃であり妙である
無常苦無我不浄は生死各別であり分離であり法である
落下を恐れるマインドは
子を掴み生ある我と顛倒を起こす
顛倒の我は法を習うと思えども
そのような事実があるのではなく
顛倒を正当化する解釈を付けて
幻想に納得しているのである
その我があると見ることを人我見
その法があると見ることを法我見という
生死各別の生を持っている
人生を生きていると思っているものは
ことごとく全て思い込みである
いかに真実の法を習うように見えても
教えが示している法があると信じているものは
ことごとく全て信じ込みである
愛する子を自由にしてやりなさい
縛るから反発するのである
反発されれば他に何も見えなくなる
そのような狭い視野で法を求め解釈を試みても
真実には程遠い
このことを悟り
愛にある時には
親子は言葉も距離もなく一体同時である
これを妙法蓮華とも
師子心王ともいう
子が元気なこと
子が幸せなこと
子が立派に成長すること
どんなにダメでも子が子であること
そこにはどこまでも愛がある



[871] 人法一箇の本質は??

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月 4日(土)11時47分32秒   通報   返信・引用

~になりたい、~が欲しい
そういう願望がある時

できるだけ具体的に、はっきりイメージできるぐらい
それが祈りを叶えるコツという指導があって

そして御本尊に向かって唱題する時に経験するビジョンは

実際にそこにある御本尊のビジョンと
願いによって作り出したイメージのビジョンが重なり合っている。

そういう祈り方、そういう経験をすることはないだろうか?

「受」と「想」の同時認識、同時経験である。

そしてまた、誓願の祈りが大事なんだ
という指導がある時

広宣流布のために役に立てる人になろう
民衆救済のために覚知すべき法を覚知しよう

そういう純粋な「行」(~しようという意思)である時には
イメージの範囲は我見の範囲を超えて広がっていく。

そうした時に
こちらの願いで作り出しているビジョンの他に
もたらされているビジョンがある事に気づくかどうかがある。

例えば光のイメージがやってきた
心地よい唱題の声が聞こえてきた
いい香りが漂ってきた、等。

気づいているのが「識」である。

ビジョンだけでなく
六境の色,声,香,味,触,法それぞれの
もたらされている体感覚知。

「あー!在る!!これだー!!!」
どーん!と気づくかもしれないし

徐々に味わって気づくかもしれないし

「気づいたら気づいていた」かもしれない。

「仏とは自分の生命のことだったんだ」
という五陰世間(五蘊世間)の体感覚知である。

そして組織や社会も生命を織りなしているという気づき。
(衆生世間)
この宇宙全体が大生命だという気づき。
(国土世間)

その時に
あー全部このことだったんだ
南無妙法蓮華経なのである。

これが円満の法華経本門。

このあるがままの諸法実相の中で

法の中心を探そうとすれば諸法空相である。
我の中心を探そうとすれば諸法無我である。

この諸法実相をコントロールしている
法の核も我の核も無い。

ただ諸法実相だけが今ここにある。
という、そのものが法としてもたらされている。

その円融が法華経迹門。

法華経の随所には
空をよく理解するという功徳が説かれている。

空をよく理解するとは
苦しみが無くなる、
あるいは安心へと反転するとは
どういうことなのかの本質の気づきである。

まさにあるように観て自在の菩薩の心で
その法は語られる。

あなたたちは色形のある固有のものとして
対象を区切って見ているけれどもさ
そういう区切りを見ないで
ビジョン全体、即、「これ」
として見ればさ、区切られた固有のものなんてない
そんなのは「空」なわけさ
でね、こういうふうに「空」を説明してみると
届くことのない超越した
はかり知れないもののように考えない?
ただでさえ「空」なのに
はるか遠い広大な空を探して見つかる?
見つからないでしょ?
あなたの「空」の全部は、即、
ここにある「これ」なんですよ
ビジョンとしては
そのビジョンで全部
え?ビジョンの外に世界は無いと言っているのかって?
言っていますね。
いいですか?
あなたがどういう機能なのかという話なんです。
あなたには今、
あなたに見えている以外のビジョンはないんです。
ありのままを見ているかもしれないし
自動的に補正されて見ているのかもしれないし
幻覚を見ているかもしれないけれども
ともかく、それしかない。
あなたの後ろや壁の向こう
そこにも広がっているはずと思っているのは
「思っている」んです。
そういう「想」もまた広がりや固有を
対象化してそういうものがあるとして考えるけれど
そんな対象物を別のものとして考えず
思考全体、即、「これ」
として浮かべればさ、対象化された別のものなんてない
そんなのも「空」なんですよ
で、またこう説明した時にどうしても
「空」を判断したくて対象化した概念にしたいけど
そうすると「空」そのものじゃないという矛盾があって
超越したはかり知れないもののように感じる。
判断出来て、それが何か分かったら
どうにもならないことまで考えて
苦しんでしまうことの全部が無くなるわけじゃないよね。
思考が起こっているんだね、
いいんだよ、気づいているよ
と、受容するだけでいい。
あなたの「空」の全部は、即、
今浮かんでいる「これ」なんですよ
想としてはその浮かんだもので全部。
真実のままを思っているかもしれないし
自動的に後付けされた理屈かもしれないし
我見で歪んだ世界を思っているかもしれないけれども
ともかく、そのありのまましかない。
ここまで説明して
そうすると空即是は色だけじゃない。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。
受・想・行・識もかくの如しだと。
現象だけに当てはめて空が余ることもないし
大きな想定に当てはめても小さな想定に当てはめても
想が大きすぎることも小さすぎることもない。
ただ現象があって
ただ受容が起こって
ただ想い浮かんで
ただしようとすることがあって
ただそれを認識している。
そこにどんなあなたが固有に存在する必要があって
どんな実在なら、思うままに支配しきれるか?
思うままにならないという「苦」は
どうすれば無くなるのか。
そもそも本当に
思い通りにコントロールしなければならないほど
それは悪いものなのだろうか?
少しでも
本当の本当にコントロールできることなんて
あるのだろうか?
全ては空より起こっているんだ。
それは生じたり滅したり
善くなったり悪くなったり
増えたり減ったりしない。
空とは現象であるという固定ではない。
また受容、想いの操作、すること、認識によって
得られるというどれか固定ではない。
眼・耳・鼻・舌・身・意の執着の有無ではない。
色・声・香・味・触・法の中の個別は取り出せない。
頑張り続けることで得られるものでもない。
意識を消すようなことで得られるものではない。
苦しみや無常を見つめて得られるものではない。
根本の迷い・コアビリーフに気づいて得られるものではない。
道を究めて悟るところを目指して得られるものではない。
何も得ようとしない事によって得られるものでもない。
知恵比べだね。
あなたがこれについて考えるとすれば
あなたはそれをしていない。
何がそれをしているか?
ただ「空」から起こっている。
経験している誰かは居る?
経験を作っている誰かは居る?
経験から取り出せる何かはある?
あなたはどこにある?
あなたってどんな何?
何が重要?
何かを認識する時
そこに何が実在している?
誰かを認識する時
そこに何が実在している?
なぜそれをそう認識するのか
ちゃんと見つめたことある?
誰がそれを作ったの?
なぜそれを作ったの?
気づいてほしい
救済してほしいというそれに
蓋をしてもまた
一段と大きな声になって届く。
もちろん
誰だっていきなり全部直視できないよ。
全部一人で解決させる必要もない。
そのために手を差し伸べる役目の
私たち菩薩の道を行くものがいるんだからさ。
そうだね、
いつでも思い出せるように
きっと上手くいくように
おまじないを教えてあげるよ・・・
かけがえのないあなたが
幸せでありますように。



[870] 資料

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年11月 2日(木)11時55分56秒   通報   返信・引用

無量義経 仏の身 三十四の非ず
ウパニシャッド 真我 「~ではない、~ではない」
梵我一如を始めて語った人物
人我見・法我見
諸法無我の法
而二不二《ににふに》
ブッダの沈黙
~~しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。
仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。

最も古層に属する原始仏典のひとつ(スッタニパータ、4章と5章)には、ブッダの宗教観としてつぎのような洞察が残されています。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
(903)
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
(904)
もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。
けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
(905)
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。
また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。
(906)
(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197~198頁)
ブッダが宗教に見たものはドグマへの執着であり、その愚かさです。
そのために、ブッダは、ある特定の種類の(形而上学的)質問に対しては沈黙したと仏典は記しています。
このことを「無記」あるいは「無捨置」といいます。

ブッダの沈黙は宗教や哲学の形而上学的論議そのものに対する批判です。
「人が死後も存在して生き続けるかどうか」と言う質問は、ブッダが答えることを拒否した14(あるいは10)種類の形而上学的質問のうちの一つだったのです。
それは、「毒矢のたとえ」や「ヴァチャとの対話」などの経に残されています。
ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。
そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。
すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。
世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。
だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。
もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」
(中略)
「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。
(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」
以上のことを世尊は語られた。
尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473~478頁)

かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。
その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。
二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。
「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。
これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」
「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」
「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」
「そうではない。」
・・・(中略)・・・ さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。
だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁)
このように、ブッダは「人は死後にもなお存するかどうか」というような種類の形而上学的問いには答えなかった、と仏典は記録しています。
そのような問いに対する見解はドグマ(独断)に過ぎないからです。
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。

このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。
現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。
初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。
・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)
ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。
つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。
ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。~~



[869] ジャッジ、序列、固定的前提

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月31日(火)01時52分34秒   通報   返信・引用

普段、私たちは
何かにつけて
優劣を決めたがる。

直接、自分の身に起こっていることの反応なのか
(自己機能)

思考概念のストーリーに対してのジャッジなのか
(自我機能)

意識体の関与による同化なのか
(意識機能)

内向きに問い
あるがままに見て
ジャッジをせずに味わうことが
受動的である。

おそらくおよそ
創価学会の活動家・幹部であるほど
苦手そうなことである。

あれが悪だ、あれと戦うんだと
明快に威勢がいい方が
活動家として羨望され地位を上げる。

そこには善悪の判断の
固定的前提が重宝される。

言い方を変えれば
レッテルを貼る共通の基準である。

自分で考え自分の心に従うことは我見で
疑うことが許されず
「信心で受け止めろ」と一喝される。

一喝する側とされる側
従属させる側とされる側。

訓練と称して
上が黒を白と言ったら白なんだと

間違っていると分かっている事でも
序列上位が正しいという固定的前提によって
ジャッジすることが正義とされる。

それのどこに仏法があるんだろう?
どこの悪徳ブラック企業だよ。

戸田先生池田先生が作った党だから
戸田先生池田先生が作った新聞だから
戸田先生池田先生が作った組織だから

強固な固定的前提
信じ込ませ思い込ませ刷り込みバイアスを強化する。

これが日蓮仏法なんだって
広宣流布・平和のためなんだって

どこがだろう。

ー池田先生の言葉
全員が会長の心で

それはとりもなおさず
間違っていると思う幹部や組織に
随う必要はない、ということではないか。

明確に
会長が上、会員が下
そうなったら創価学会も邪宗とも言っている。

さて、ではどうするのか。
一度はまれば抜け出しがたいこの
ブラックな思考体系から
どうすれば抜け出せるのか。

単純にジャッジの極端な反転というのでは
仏法的な深化がもたらされず

いくら怒りを燃やして戦い

いくら文献を集めて「本来の仏法」を構築しようとしても
そのままのステージにあっては
「月を指す指」を都合よく解釈するにすぎない。

そこで本当の気づき、本当の悟り・非二元のための
エネルギーの動による自然の
あるがままの受動・受容が必要となる。

そうでなくては
真如・無作三身を説く御義口伝は体解できない。

能動的には内への問いである。

アルベア論に種々紹介されてきた。

ここでは藤沢烈 BLOG
576旅 ケン・ウィルバー『意識のスペクトル 2.意識の深化』★★★★★
を紹介しておく。前回記事の補足となる。
http://retz.seesaa.net/article/107939662.html

律動法を続けることで
自然に気づきがもたらされ
自然にその精度が上がっていく。

救済の促しが開かれていく。

思考概念のジャッジではなく

体感覚知の見分け、区分けを獲得していくのだ。



[868] ハチクジ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月28日(土)12時27分29秒   通報   返信・引用   編集済

心のどこかで「何かが違う」と感じている
それはとりもなおさず「迷い」であり

「これだ!」という気づきを得て
迷いが消え道が開けるのが
それと対を成す。

問うことによって遡り
陰と陽の要素が、実は同じ要因であった
という迷いの対消滅
而二不二の体感知、歓喜の法である。

その気づきの階層は
受動的で俯瞰した方向性によって深化するものであり
広く大乗仏教の唯識思想や
それを取り入れたトランスパーソナル心理学などに
分類学的に説明される。

http://gakusix.cocolog-nifty.com/ikirukotoba/2014/08/post-01c1.html
http://gakusix.cocolog-nifty.com/ikirukotoba/2006/01/post_b4f0.html

そうした分類学的に見た場合に
個別性(パーソナル)の境界の超克
そして肉体と心の境界の超克の覚知が
究極するところとなっていく。

「一念三千」そして「色心不二を一極」である。

それを覚知した時には
今ここ、このままで種子の発露である。

鳩摩羅什訳の法華経以後には
その「悟り」に向かうだけでなく
能動性へ帰ってきて
それが自然ありのままに表現される志向を持つ。

現実における、意味の解消解決である。

戦後、急速に発展した創価学会。

戸田先生の体感知を軸にして
戦争の傷跡からの反転の力を
青年の熱と力に転換し
苦悩にあえぐ民衆の救済を実現していったことに
成功の要因があったのではないか。

しかし、それだけでは
いつまでも戦後ではないし
能動性には常に陽と陰の要素が内在するので
川を渡り終えれば筏が不必要になるように
速やかな新陳代謝が必要であり

それが出来ず執着する時には
陽が出終われば陰の要素が引き寄せられる。

つまり陽の要素「絶対平和の希求」は
平和ボケして自分が頑張らなくてもいいやと
思っている人ばかりになって活動が衰退すると

誰もが平和を希求して骨身を惜しまなくなるための
「あの頃のような身に染みる戦争体験の現実味」を引き寄せる。
例えば戦争可能な国造りの一助を行ったりである。

陽の要素「苦悩にあえぐ民衆の救済」は
普通にしていればそれなりに楽しいし幸せと
みんなが思って活動に身が入らない時には

陰の「誰か、もしくは自分が苦悩にあえいでいなければならない」
という前提条件があり
心の平穏をかき乱すような
いちゃもん、煽り、見せしめ等をする。

過去の栄光に執着があり同化していると
新しい課題を提示された時や深化を促された時

こんなに頑張ってきたのに認めてもらえない
下に見られている、否定されている

等と思い込み魔が差す。

旧態依然としたところから抜け出せず

それは課題の更新が出来ず
新しい志向に適応できず

川を渡り終えても筏を抱きしめているようなものだ。

ともすれば川を氾濫させて洪水を起こして
「ほら、筏を持っているのはこんなに正しいんだ」と言いたい。

そういったことで政治の民衆のためへの軌道修正や
自組織の腐敗堕落の改革といった課題が
むしろ気づけない事によって
前の課題の陰の要素を引き寄せる。

執着は戦後の発展の戦いが
煌びやかであったがためでもある。

深化が出来ていないところから
能動性を叫び続けても
広宣流布は後退するのである。

受動によって深いところに気づくことによって
自然の発露、歓喜の躍動となるのである。

そういったことに気づかないように
思考概念の強化、刷り込み、
バイアスによる正当化
正義という信じ込み思い込みが繰り返される。

生命哲学と謳いながら
生命を無視する愚行である。

生命とは、仏法とは
「これ」だということを

体感覚知すれば広宣流布されるのだ。

「夫(そ)れ浄土と云(い)うも地獄と云うも外(ほか)には候(そうら)はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るを仏といふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとリ候(そうろう)ぞ」
(上野殿後家尼御返事、1504㌻)


〈通解〉 さて、浄土といっても地獄といってもほかにあるのではない。ただ我らの胸中にあるのである。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫という。これを悟ることができるのが法華経である。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのである。



[867] 日蓮大聖人は南無妙法蓮華経をどんな風に唱え始めたんだろうね

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月27日(金)11時39分24秒   通報   返信・引用

良い悪いではなく

創価学会が創価学会として存続するには
創価学会として価値を創造し続けること
だと思います。

創価学会が創造すべき価値とは
三代の会長に形成されていった
体感知と平和思想を基盤とした
青年の、厳しくも明るく自由な熱と力、
それ自体と、それによる価値の創造が
主であると思います。

そうすると創価学会を繁栄させる会長に必要な資質とは
三代の会長の思想と体感覚知を真に理解し継承し
自らと同じ世代や、礎を築いた先輩方を大切にするだけでなく
まだ右も左も分からない無名の若者に心を砕き
その厳しくも明るく自由な熱と力を
引き出せるかどうかにかかっている。

今の信濃町には、望むべくもない。

H会長の「壮年部の皆さん頑張りましょう」
(あなたたちなら分かってくれますね、頼みますよ)は

信濃町の作った利得を、壮年男性で保護していきましょう的な

先日、アルベアさんが手塚治虫「火の鳥」に学ぶという記事を書いていたけど
それで言うとヒミコ様的な滅び行く文化の病のようにも感じられる。
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12322310081.html

戸田先生は、時代背景や組織の発展の段階もあって
エンジンは一つあればいい
自分と数人の理解者がいれば何度でも始動させるという面

池田先生は、これからの時代推移の予測もあって
一人ひとり全員が会長の心を持つんだという面が伝わる。

それは別々の面が見えているけど
違う二つのことではないと思う。

旧態依然としたものに囚われず
自由に枝を伸ばしていく若く新しいエネルギーなくして
何が価値の創造か。

さて、「御義口伝」なのであるが
真摯な取り組みによってしか得られえない
と書いたが

それは、枠に囚われない真摯な学びと(学)
主観の上で強烈な法難の体験と、さらなる法難の覚悟(信)

それと、何らかの瞑想・坐禅・止観・律動法といったもの(行)

が、必要であると思う。

もし大きな会合で学会幹部が30分の枠を取っておいて
「今から30分、瞑想をやりましょう」って言ったら
どうなるだろうな。

だらだら内容の薄いことや、創価バイアスを強化させる話をするのはOKで
やっつけや祈祷じみた唱題行以外の仏道修行をやらせたらNG。

そういう空気、あると思う。

だからそれでは、御義口伝の覚知には至らない。

師弟交互の反転現象、電磁的反応伝達、魂のラリーでもある。

日蓮大聖人は、法華経、理の一念三千等を習い
当然そこには、止観などの修行もしたうえで

南無妙法蓮華経と唱え始めた。

初めは文字曼荼羅本尊も無かったし
それがどんな風な唱題行だったのか謎もある。
創価学会で今されているより
ずっともっと瞑想修行に近いものだったかもしれない。

立正安国論提出から法難に至って作用反作用で
仏敵を責める、唱題行しかない、ということが前面に出る。

理を借りて事を顕すような形
法難の体感知がメインで、瞑想の冷静な理は
借りて拾い出だす。

この際、客観的に気楽非活さんの言っているように
御義口伝を後世のものとして

そうすると今度は
日蓮大聖人の壮絶な法難の体感知を借りて
内面の理を深く見つめて深化させたことがうかがえる。
事をもって理を深める。

御義口伝、血脈抄、総勘文抄・・・
その深められた凡夫即極の理を

法難の体感覚知によって
再び事の上に開いたのが創価の三代。

例えば、この世対抗バトンリレー大会があったとしよう。

バトンは受け渡されるたび逆側を持たれながら渡される。

バトンは不思議な事に、
複数に分かれたり
それぞれ形を変えたりしている。

聖火リレーみたいに
持つ方と掲げる方を決めて渡し合っている人もいる。

どのバトンを受け取るかは自由だ。

青年が自ら受け取りたいと願い
持つだけで燃え立つようなバトンかどうかだ。

ウンチクを並べて
すごいよアピールして
ぜひ、ぜひって

今の青年にとってはことさら嘘くさいよね。

さぁバトン受け取ったね
選挙だ選挙だ功徳あるよ。

青年がついてくるわけないよね。

本当はもっと違うバトンを受け取ったはずだ。
本当はもっと違うバトンを持っているはずだ。

忘れているなら
思い出さなきゃいけない。

問うのだ。
俯瞰して観るのだ。

悪いことが起きて
無理にでも
どうしてこんなことになってしまったのかと
問わなければならなくなる
衝撃の五段階よりも

気づきの五段階にしていくのだ。

本来の「行」とは
どういったものであるのだろうか。



[866] 御義口伝の真摯な取り組みに全生命をかけた実践の心の師

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月21日(土)03時56分2秒   通報   返信・引用

南無妙法蓮華経と御本尊に唱えて
「あー!在る!!これだー!!!」
どーん!

っていうのを
ただ知りたいっていうのを祈り詰めて
初信の功徳で頂く人ってたまにいるんですよね。

それで慢心しちゃうと
変な方向にいきそうな場合もあるんですけどね。

え?その変な方向って、
当にお前がしているそれじゃないのかって?

広大無辺の非二元の受け皿の上で
真摯に取り組みます。

「御義口伝」というものは
史実の上では
少なくとも文章化されたのはおそらく後世で

(参照、気楽非活http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/10/20/000000

それにしたって真摯な取り組みによってしか
得られえないことが書いてある。

「日蓮真蹟の内容と
全然違うじゃないか。
そんなのは教義の逸脱だ。」

って言うとしたら

あれ?
それってどっかで聞き覚えのある感じだなぁ
と思う。

52年路線、そして54年をとりまく非難。

池田先生自身、御義口伝の
時代考証の疑義は把握していた。

それでもなお
これは正しいと力を込めたのが
御義口伝でもある。

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」
全生命をかけてこれを読んだ。

残念ながら、その体感覚知を継げる幹部がおらず
組織に体感覚知の受け皿が乏しい。

せっかく初信の功徳で覚知したものも
活動に追われてうやむやになる。

体感覚知のない組織は
パワーゲームによって世俗化する。

情報統制をしてバイアスを強化して
意のままに会員を動かすことに躍起だ。

選挙戦には特に顕著だし
体感が消え尽きれば
折伏戦も追随する。

いくら儲かったとかの蔵の功徳より
この体感して健康になる身の功徳の方が上で
全てが慈悲の心としてもたらされているということの智慧化する心の功徳が第一である。

凡夫の身に智慧が湧き
人のため法のために行動する。

その規範として心の師
池田先生であろう。

それは同時に
我が胸奥の事の一念三千を師とすることである。

仏の生命である。

この非二元(真如)を体感覚知することは
広大無辺の宇宙に自在に飛翔することがもたらされる。

我即宇宙、宇宙即我である。

妙の三義の実現である。



[865] 異体同心 問いかけ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月20日(金)12時18分37秒   通報   返信・引用

それぞれに課題(思考・行動)クオリア(感情・感覚)を
三世(基準・衝動・目的)に貫いている体(識)。

それぞれの六根
私には私の人生・世界があり
あなたにはあなたの人生・世界がある。

外に広げていけば
関西には関西の伝統・文化があり
関東には関東の伝統・文化が

東洋には東洋の伝統・文化があり
西洋には西洋のの伝統・文化が

地球には地球の生態・環境があり
どこかの星の人類にはその生態・環境がある。

内に見ていけば
目・口・鼻・舌・皮膚また各臓器や組織
それぞれに察知したことでそれぞれの反応をし
それを伝え合っている。

そういった内外の現象の全てを貫いているものとして
ワンネス・仏智・無分別智と呼ばれるようなものが想定される。

それは普段は
個人として別々に現れている部分を
フォーカスすることに慣れきってしまっているだけで

それも別々でない「在る」によって
個別という仮がもたらされている
それそのものの現象である。

同じ一つである。

そして、その私が対象を見ているという経験を
よく観察していくと

対象という分離したものは無く
私という分離したものは無く

「見ている」だけがある。

異体同心とは、より本質に近い
気づきがもたらされているかどうかだ。

より本質に近い気づきは
より本質に近い現象・エネルギーに基づく事となり
それは敗北の要因の軽減になり
またより力を発揮できることになる。

対して同体異心とは

本来の個々の体を無視して
用意した型に嵌めて統一し

それ以外の道を断って排除する
不自然の構築からなる。

内に見ても外に見ても
阿鼻叫喚の絵図となり
心が付いていかずバラバラになる。

敗北の要因を多く作る。

教条主義の号令では
いつか崩れ去る。

さて、日蓮大聖人が幕府に提出した立正安国論。

「邪宗を滅ぼし唯一正しい私の教えにつくべきだ」だったのか
「胸襟を開いて本質の気づきへの対話を開始しましょう」だったのか。

その国に対しての仮想セッションは
何の気付きを促したのか。

「やれば分かる唱題行」は
何に気づくためのものだったのか。

論理・ウンチクの
あなたは怒るけどここにこう書いてあるよ
ここのところのこの部分が重要だよ

等というのは、経や論や釈を用いるが
より本源的には智慧からもたらされている。

智慧とはどこにある?

仏典?

それだけ?
それって智慧でなく知識なんじゃないの?

それで本当に自身内外三世全てに対応できる?

日蓮大聖人は
何によってどんな智慧に気づいたの?

それは他の高僧とは何が違うの?

蘭室の友に交はりて麻畝の性と成った人はいないの?
あるいは毒鼓の縁で後に気づいた人はいないの?

排除の精神ではいても気づけないんじゃないの?

本当は気づいている人がいて、それを排除して
独自性に拘っていったら
本質の抜け落ちたおかしなものにならなくない?

正統性って何?
ここ以外にあってはならないもの?
それって独善じゃない?

あなたは何ですか?
あなたは誰ですか?

智慧とはどこにありますか?



[864] 智者に我義やぶられずば×アドラー課題の分離×而二不二

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月19日(木)02時15分54秒   通報   返信・引用

「法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(開目抄 232㌻)

(「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期すならば、日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義は破られない限り、そのような言い訳に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵に過ぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。)

ひとまず冷静に考えよう。

これは誰の課題か?

日蓮大聖人の課題である。

私の課題でもあなたの課題でもないし
まして他人に押し付ける課題ではない。

而二不二というものは決して
その課題や感情への同一化ではない。

桜梅桃李あるがままの
それぞれの課題がある。

その、あるがままを変えれば
地位や名誉や財産を与えようと言われても
あるがままを変えなければ
大切な人の命を奪うと脅されても

用いない。

日蓮大聖人が変わることは無い。

否、日蓮大聖人が信じたものは
そんなことで変わるようなものでは無かったということが

信じ込んだのではなく、もたらされた。

そこに覚知された大生命の輝きの前では

ガリレオが地球の公転を確信していたように
どんな不当に真実を曲げる圧力が働いても

真実が立証される日がやってくる。

日蓮大聖人はここでは
用いてはならないと言っているのではなく
私は(知っているから)用いないと言っている。

やがて立証される大生命哲学にとって
それが護り通されたその瞬間は
その仏の大生命と而二不二であり

一切諸法・生命にとって
柱であり眼目であり大船である。

日蓮大聖人はそれを瞬間では終わらせずに
「在る」として支えよう
開ききっていこう
現象化させていこう
と、誓願されたのである。

このようであり
臆病の心を選択しない限りは

既に言葉を超えた悟りでもあるので
外からの言葉で

決して崩れ去るものではない。

科学が何を証明したとしても
主体と客体のない非二元(真如)は
そのままでそれである。

敵に我義やぶられずばでも
智者に我義諭されずばでもなく
智者に我義やぶられずばである。

これを外に設定するのであれば
不可能を提示して煽るダブルバインドである。

ゆえに、この智者とは
我が生命の内奥

仏の生命である。

而二不二の響き合いによる
仏の生命の飛翔によってのみ
世界はさらに開かれ行くのである。

それは言葉で丸め込むものではない。

そしてそれはだからこそ
その仏の生命の飛翔は
それぞれ桜梅桃李の志向性によって
その中に宗教枠の解除があったとしても

日蓮大聖人の誓願に反してはいない。

この場合、破るとは言っても
倒して間違ったものにするのではなく

隔たりを突破して超克することだ。

そして包み返すことによって
内に息づくのである。

筏の譬え
http://www1.odn.ne.jp/ceu55990/IKADANOTATOE.html
~この譬えは、同じ釈尊の教えを聞いても、皆と違う見解を持つ弟子がなぜ現れるのか、という弟子の疑問に答えたものです。この時釈尊は、”蛇の譬え”と言われるものと、この筏の譬えを用いて明確に答えました。~

アドラー課題の分離
http://diamond.jp/articles/-/46565?page=3



[863] 恋と気づきと分別と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月17日(火)12時49分14秒   通報   返信・引用

生死を貫く生命、

それは目指すものでは無く
もたらされていることに気づくかどうかがあるだけだ。

自分とは何者であるのかという
「定義」の構築を期待依存するから
探求が終わらず

その思考概念の積み重ねに
意図思惑が働く。

ここにあって生かされている自己とは
関係の無い虚像に支配される。

そういった自我機能で考える
賢さ愚かさの違いや、正義邪悪の違いは
紙の裏表ほどの違いしかないものに陥る。
(戸田先生もそのようなことを言っていた)

無記としてもたらされていることに基準の線を引いて
こっちが善そっちが悪とやったって
その線が視界に入った時だけ発動する
本当には違いのない表と裏なのだ。

私のこれは本物だけど
あなたのそれは偽物だ。

そういうことをもって連帯すれば
嫌われ者になったって仕方ない。

宗教枠というものにとって
そういったことは課題であろう。

例えば、気に入った異性がいて仲良くなって
「実は俺、創価学会員なんだよ」と言ったとたんに
顔色が変わって決裂する。

創価学会が作ってきた創価学会とそれ以外という区別が
世間にとってもその裏表として区別されている。

その区別が目に入ったとたんに
世界が二分される。

自我機能の世界なのだ。

それが視界に入って働く前
いっしょにいて心地いいと思う

あ、いい匂いがする
あ、やさしい
あ、私のこと見ててくれる
あ、こんな世界を見せてくれるんだ

そういう気づきが自己機能で
それはもたらされるものだ。

初めから、
この人と付き合ったら友達に自慢できる
なんてよぎっているものは自我機能だ。

信心は恋愛のようにやるんだというのは
自己機能の促しなのである。

桂正和の漫画、I'sで
「そんな、好きなんて気持ち説明できないよ」
なーんていうセリフがあったんだけど

あー、切ないね。

<アルベアのブログ>「気づき現象」とは感覚反応
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12320218664.html

<アルベアのブログ>「非二元」「悟り」は「目指す」のではない「気づく事」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12320218777.html

核心だね。



[862] 正義の旗

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月13日(金)12時45分28秒   通報   返信・引用

時折、肯定的に紹介したりもする
気楽非活さんのブログがあるが

色々なスタンス
正宗の教義、学ばない学会員、偶像的な池田先生への熱
等々に対して、批判的な論考も多く書かれている。

今書こうとしているのは
気楽非活氏への批判のためではなく
我が己の見つめ直しである。

御書や法華経・諸経、あるいは教義や創価三代の指導は
学ぶ対象であって、
何を信じるかの判断や、どう行動するかの判断の
考え方の基を作ることであり
悟りの側から見れば
抵抗のないあるがままの自然への回帰への
何が引っ掛かっているのか気づくための手助けである。
そういう生命との関係性であるから
無謬の如く信じる対象とすれば
不自然の構築になって
自然への回帰の気づきが起こりにくい。
つまり、学びへの対し方としては本来
疑問に思ってはいけないことは無いし
何を学び取ってどう考えるかは
少なくとも一旦は保障される。
初めから100%正しく理解しなければならず
正しく理解しなければ発言権が無い
というような類のものでは無く
それぞれの人の心の自由は
そのままで、尊重されるべきものである。
ただ、もっと学んでいこう
人生の先輩の言葉に
また、新しい感性の発想の言葉に
耳を傾けていこうという姿勢が大事である。

学んだことは行動に
そしてまた、行動の結果から学んでいく。
学んで終わりではなく
やってみることが大事だ。
変な理由を付けて何もやらないよりは
間違っているかもしれなくても
覚悟を決めて一歩を踏み出すこと、
また、迷って何もできないのと
何もしないと決めて何もしないをするのも違うし、
迷って何もできない事でさえ
本質としては
宇宙生命に受容されている等しい生命である。

行と学は大事ではあるけれどもどうでもいい。
信がそうあった時の受け皿として道を用意してくださっているのである。
行と学は信心より起こるのである。

信心とは何か。
何も信じずに生きている人はいない。

ここはパソコンやスマホから見れる掲示板で
これは、日本人に読むことの出来る日本語で
いちいち考えはしないけど
結果的に知って信じているから
自然の内に、この行動をしている。

今、財布にこれぐらいのお金が入っていて
これは日本国内で商品と交換できるもので
これによって食べ物を得ることが出来る。
いちいち考えはしないけど
結果的に知って信じているから
自然の内に、この行動をしている。

もし、突然に、海外へワープさせられたら
通じる言葉もなく、通用するお金もなく
信じているものが通用しなくなる。

そこで何もなくなるかと言うと
右足と左足を交互に前に出せば歩けるというのは
地球の陸上であれば変わらず
信の中心がそこにあってサバイバルの精進がされていれば
身一つあれば生きていけて
海外にワープさせられたぐらいでは動揺しないかもしれない。

人間にとって一番の問題は
誰もが最後には死というものをむかえ
そこには何が通用するのかということである。

つまり、仏法の信の対象は
生死を越えて貫く生命である。

そういうものであるから
何をはく奪されても
たとえ今世の生を奪われても
護り通すものである。

熱原の法難で彼らが護り通したものであり
700年後の昭和54年に池田先生が護り通したものである。

池田先生がただ我一人と痛感した
正義の旗である。

気楽非活氏のブログで
どうしても私が、最も過剰に反応した記事がある。

「恩師の二十三回忌に思う」の扱いに関する記事だ。

池田先生が自ら
「教義の逸脱は私の思い上がりでした。
宗門の伝統や教義の方が大事なのでそれに従います。」
としたような印象を与えかねない。

そこを刈ってしまえば
どんなに学んだところで
理論の遊戯の自己満足ではないか。

思考概念の世界でしか通用しないではないか。

http://gogensanzin.hatenablog.com/entry/2017/05/11/022054
↑ここに抗議を書いたのが5月11日

新・人間革命 雌伏68
聖教新聞2017年6月14日3面でも
その本質が踏みにじられている。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71236

「正義」の揮毫は
この掲示板を立ち上げたサイヤさんのブログにも
堂々と掲げられている。
http://macska2012.blog.fc2.com/

何が信心なのか。
何を受持するのか。

それを隠させてはならないし
曲げさせてはならない。

「各々師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干の吼(ほう)るなり日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり」
聖人御難事(1190ページ)



[861] 巡る 循環 慣性系

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月 9日(月)04時04分49秒   通報   返信・引用

小さい頃
初めてエスカレーターに乗る時
それは怖かったり当惑したりしなかっただろうか?

だが、一度乗れてしまえば
慣れてしまえば何でもない事になる。

私はどちらかと言うと今でも
さすがにエスカレーターは平気だが

車の車線変更をすることとか
日常会話の流れに乗ることとか
苦手である。

どこか不安を抱えている。

苦手でないものとして
携帯電話に初めてネットの機能が付いた
iモードの頃

初めてそこで触れ合った
文字での会話の表現世界。

感動があった。

「表現世界」というのは
言いたいことを、
一段落以上書いてから
放出され

途中で遮られないから
そう区分けしてみた。

LINEみたいなのは
それは得意ではない。

人それぞれ
出来るようになっている事
当たり前になっている事
得意な事が違う。

人それぞれ
当人にとっての当然という
現実の慣性系を生きている。

見たいように見ている軌道を選択をしている。

それぞれ
大きな流れの慣性系
小さな流れの慣性系
激しい流れの慣性系
穏やかな流れの慣性系

あるいは
天の川銀河のアンドロメダ星雲と近づいていく慣性系の中に
太陽系が巡る慣性系があって
その中に、それぞれの惑星の、またその中に衛星の軌道の慣性があるように

そういう同時代現象の中の
個々人の現象でもある。

どの軌道が正しいかなんて言っても
それぞれあるようにある。

色んな思いが巡り
色んな感情が巡り
色んな出来事や身体の感覚が巡る。

いかに何が正しいかということが
思い込みの産物でしかないかということだ。

速度や方向の違う慣性系を
間近で見ようとか見させようとかするほど
何が何なのか分からないし
衝突して壊れる恐怖がある。

観察には適切な距離が必要で
その流れに乗りたいと思った時には
速度や方向を合わせながら合流していく。

自身が今、どんな流れの中にあるのか

それは、今当然だと思っていることを見ているだけでは
周りに流されているだけであり盲目的である。

俯瞰するということが無ければ
先を知ることは出来ない。

いかに思い込みを現実だと思って生きているのかを
自覚することだ。

あれに驚きこれに嘆いて
常にどこかに向かおうとしているのが
思考概念のマインドだ。

今ここの体感からの俯瞰は不動で
「自分が」というマインドではないところだ。

あっちが正しいこっちが正しい
誰が言った言ってない

それはマインドがジタバタしているだけだ。

仏眼からの視点か法眼からか慧眼からか天眼からか肉眼からか
その俯瞰などの違いがあるだけであり

受け手読み手の側が
仏眼で還元するか法眼からか慧眼からか天眼からか肉眼からか
その違いがあるだけである。

非ず非ずでしか表現できないもの。

それは必然的に
「それはこれですか?」と聞かれれば
「それには非ず」という答えにしかならない。

いくら考えて決定論的に落ち着かせようとしても
無限に非ずを重ねるしかなく
マインドの願望の探求は終わらない。

ただやって
ただ自然の事実があって
ありのまま了解する。

自分自身である。



[860] 信仰は誰がつくるのか

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年10月 3日(火)12時38分56秒   通報   返信・引用

私事。
学会2世に生まれた。
母は若かった。
小さい頃(幼稚園より前)から
各種会合についていかされたり
種々習い事の教室にいったり。
幼稚園に入り世間の世界とのギャップがあり
自分のズレに不安を覚える。
母は私を叱る時、反省の色が少ないと見えると
「お母さんが恥ずかしいねんで」と決め台詞のように言った。
僕の幸せのためじゃなく、自分の都合なんだねと思ってシュンとした。
そのシュンを母はもしかしたら反省してくれたと思い
これは効くと思ったかもしれない。
僕が思いのままに言ったり行動したりすることは
お母さんが恥ずかしいので、僕は我慢しなくちゃいけない。
ではお母さんが安心することは何か?
御本尊を信じ池田先生の指導と行動を学ぶことだ。
ある時、両親の喧嘩の仲裁を呼びに行って(インパクトの強い出来事)
結果的に両親は離婚することになった。
僕の行動は、お母さんが恥ずかしいだけでなく
一家への不幸をもたらした。
男というものは女子供を幸せにはしない。
弟に当たり散らした。
母は仕事、僕は家で一人で学校の宿題をやろうとして
でも向き合えなくて一文字も書けなくて苦しくて泣いた。
中学の時、母から運動部に入れと言われたので入ったバスケ部で
基礎体力のトレーニングの苦しさが、色んな苦しさとリンクしたのだろうが
毎回、訳も分からずリタイアして泣いていた。
あいつはヘタレだと囁かれた。
自信が持てず一度もレギュラーになれなかった。
同部活内の一人に、自分より不幸な人間を見つけたと思われたのか
支配的に底辺として扱われ、いじめられた。
弟に、このことは母には言うなと釘を刺し圧力をかけた。
案の定、母は気づかない。
僕はちゃんと見られていなく知られていなく
母の中の僕は一般論からの類推で構成された。
それへの拒絶を、できるだけ弟には向けずに
拳が壊れるぐらいに物を殴ったりした。
御本尊への信仰と、池田先生の指導に希望を見ることと
子供向けの少林寺拳法の紹介本で読んだ
精神を安定させるための、にわか丹田呼吸法と
派生して自得した自律訓練法に近いものと
一瞥の信仰体験による確信と
マンガかになる夢を追う希望と。
心を充実させるものも多かったので
私は決して、負けてはいなかった。
だが後に、私は完全に敗北することになる。
しかしそれは、敗北することが勝利でもあったのだ。

アルベアさんが教材として提示する
映画『沈黙‐サイレンス‐』

それは何を指し示しているのだろう。

感じる自身の生命現象。

釈尊が経典を作ったのではない。
弟子と自称する人々が経典を作り信仰を作った。

経典が一念三千を作ったのではない。
勝劣解明を自称する人々が一念三千を作り法華経信仰を作った。

一念三千が南無妙法蓮華経を作ったのではない。
慈悲を自称する聖人が南無妙法蓮華経を作った。

南無妙法蓮華経が創価学会を作ったのではない。
三代の会長が理想の世界平和の南無妙法蓮華経信仰を作った。

創価学会が私の信仰を作ったのではない。
私がこの宇宙の・・・

迷いとは何か?
悟りとは何か?

何を開くのか
体感による自然の発露。



[859] 迷いと覚りと救済と

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月29日(金)12時12分39秒   通報   返信・引用   編集済

こころの時代~宗教・人生~「生きる意味とは ―ニヒリズムを超えて―」
【出演】島根大学名誉教授…松塚豊茂,【きき手】金光寿郎
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2017-09-24/31/4491/2008285/

<YAHOO!知恵袋>ニヒリズム(虚無主義)をわかりやすく、たとえ話などで説明できますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442251839
~虚無主義とは『物事の意義や目的といったものは存在しない』とする考え方に留まるひとのこと。ここに集う私たちにとってもっともわかりやすい例は、毎日のように飽きることなく繰り返されるあの質問である。すなわち『人生に意味なんてあるのですか?(どうせ無いのに)』という立場のことである。

意義や目的のようなものに対して取りうる態度は三つある。ひとつは絶対主義で、絶対的なものとしてあるという立場。ふたつめは虚無主義で、そんなものは無いとする立場。みっつめは相対主義で、意義や目的はそれぞれの人が見いだすものだとする立場。~

ニヒリズムを越えて松塚氏の話は
念仏を回転軸とした虚無主義の反転。

浅はかな学会脳としては
念仏はただ死後を願うもので
題目は今世において宿命転換をなすものと
そういう決めつけがある。

だが番組を見ると
それがあまりにも固定的な
偏見である面も否めない。

松塚氏は言う
仏法において本来信じるということは
考え方を固定・限定するものでは無く
自由な発想・自由な考えを包摂するものであると。
(趣意)

死んだら終わりで何もなくなり
だから生きることに本質的な意味はない
というニヒリズム(虚無主義)を越えることは

死んだ後に得るものでは無くて
生きている内に確立するものだと。

番組内では無明という言葉は使われなかったと思うが
思考概念の上では無明とはニヒリズム(虚無主義)
とも捉えられる。

学会脳では念仏では無明を越えられず
流されて同一化してしまうようなイメージさえあるが

むしろ、そういう匂いのあるものを
学会員の陳腐なプライドは毛嫌いして蓋をして逃げ回って
今ここに生きていること以外のところに優越感を作り上げる。

それは目をそらし迷い続けることの選択だ。

池田先生の世界の識者との対談が
どれだけ目を背けず開くための闘争であったかということでもある。

今ここに生きていること以外のところに優越感を作り上げるとは
例えば、阪神タイガースが勝った日は酒が美味い
阪神タイガースが負ければ寝つきが悪い。
そんなことは今ここに生きているという事実には
本当には関係の無いことなのだ。
思いと感情と身体の癒着が生み出しているにすぎない。

この癒着を刷り込まれることは
権威・搾取・支配といったものに服従する
土壌になりうる。

公明党が勝った負けた
創価学会が発展した評価された。
そういったことが
そういう次元で利用されていないだろうか。

そうこう見ていくと
では本質的に念仏と題目は何が違うんだと。

伝え方の違い、実践の違い
その本質は何か?

「正しいんだから正しいんだ」では話にならない。
それは信心ではなく
信心に向き合えない逃げである。

教・機・時・国 ・教法流布の先後
その中でも時が大事であると。
思考概念の上ではそうだが
実際の今ここの自身の事でなければ意味が無い。

結局は迷って自らを運ぼうとする。

「 自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、
万法すすみて自己を修証するはさとりなり。」
(正法眼蔵 現成公案)

邪宗の僧の言葉で片付く言葉ではない。

伝え方の違い、実践の違いの前に
伝えるものの中身、実践するものの中身が無ければ
伝え方も実践の仕方も糞もない。

教団の中心者が表層だけ真似るなんて
民衆をたぶらかす天魔に他ならないのだ。

非二元の現象化が起こるべくもない。

さて
牧口先生、戸田先生、池田先生
それぞれ伝え方の違い、実践の仕方の違いがあるが
(アルベア論の表現では個人の志向性)

このことは、まだ思考概念の範疇だが
生命に変化をもたらす生命の姿勢として

池田先生の「私が来たからもう大丈夫だよ」
という言葉に、私はその片鱗を感じてきた。

先日、非二元の溝口あゆかさんの推奨する
EFTという心理セラピーの技術を習った。

感情の解放から
思考概念の自然な変化を
身体を通してもたらせるものだ。

思考概念の範疇ではあるが
体感に意識を向けることには役立つものであり

体感に意識が向くということは
実際に変化がもたらされるものである。

そのEFTの発展形に
マトリックスインプリンティングというものがあり
私はまだ習ってはいないのだが

興味をもって動画を見るかぎり
「私が来たからもう大丈夫だよ」というワードが
変化させるための最初のワードとして用いられている。

MRセッション事例「犬のトラウマをMRで癒す」
https://www.youtube.com/watch?v=N8dyGj2zw1k
MRセッション事例「2歳のときの孤独感を感じたシーンを癒す」
https://www.youtube.com/watch?v=DPP-z4Gwzxs
MRセッション事例「人前で話すときに声が震える」
https://www.youtube.com/watch?v=vykaho79BqY

どれだけの救済の世界を実際に開くのか。

どれだけ実際に目の前にいる人の蘇生をなせるのか。

どれだけ本当に解放された飛翔をもたらすのか。

<宿坊>人間革命  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74706

ただ迷っているだけのことを考えていると思い込むか
本当にしっかりと道のために向き合って考えるか?

<アルベアのブログ>「八正道」はっしょうどう
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314616977.html
<アルベアのブログ>ブッダは何故「八正道」を説いたのか
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314617051.html
<アルベアのブログ>「正しい事」を自得する方法として「調身・調息・調心」がある
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314922940.html
<アルベアのブログ>「非二元」から見た「調身・調息・調心」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12314923008.html

あなた自身のことです。
あなた自身の生命現象なのです。

誰にでも起こるのです。
南無妙法蓮華経。



[858] 理科的謗法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月21日(木)12時02分33秒   通報   返信・引用   編集済

本来、謗法とは何か?
理科的に読み解いていこう。

正法を自分自身の生命現象の体感として

逆の方向性の十四誹謗を分類すると
自身の生命現象に蓋をして取り組まない事
思考概念の物語によって判断すること
感情の作るリアリティに飲まれること。
そういう切り口で見ることも出来るかもしれない。

自身の生命現象に蓋というのは例えば依存症、
もしくは依存とまではいかなくても好きな事。
それをやっている間は
自分自身の生命現象の問題を忘れていられる。
ただあることをただあることとして
それを味わい楽しむのが本来で
問題の本質から目をそらすためにやる時
それは楽しくなくなっても苦しくなっても
やめられない依存症となっていく。
創価学会の組織的に
選挙戦への依存症のような面もあるかもしれない。
理念と反していて苦しくても
本質に蓋をして、やらないではいられない
苦しみを生み広げる身口意のメカニズムに
陥ってしまっている状態。

何かの考えを得て
分かったつもり、解決したつもりになるのも
自身の生命現象に蓋をすることであるが
行為でまぎらわせることと
考え方に固執して蓋をすることを
分けて考えてみよう。
思考概念の物語とは
正法は自分自身の生命現象であるのに
それ自体でなく対象化し分離の壁を作る執着である。
「○○ということにしておく」という枠であり
定義できない不可思議な自身の生命現象に対して
定義して分離・選別して安心を得ようとする。
自分自身の生命現象に対して信頼しないがゆえに
外に言われていることから保証してもらおうという働きでもある。
創価学会の組織的に
「創価学会仏」と呼ぼうというような
「我々こそが正しい」という保障を
自分自身の生命現象の証明ではなく
対象化し用意された枠に入っているかどうかで
判断し安心したいという願望にすがっているかもしれない。
それ以上問題に取り組まなくて良いようにしよう
という逃げ・退転の心である。
「正しいものを信じているから正しい」では
その正しさと定義されるものは、権威と化す。
本当は信心が正しいかどうかというのは
その自分自身の生命現象の体感にしかない。
体感の現象化であって
考え方による判断では無いのだ。
思考概念の世界で生きてきた者にとって
体感は解り辛くすぐ考えに流れてしまいがちであり
アルベア論の実践はそれを教えてくれる。

ちなみにこの投稿は思考概念である。

感情の作るリアリティとは
人それぞれ同じものを見た時にも
そこに感じる現実は違うということだ。
同じ車を見ても
「男のステータス」「便利な乗り物」
「環境の敵」「危険な乗り物」
どう見えるかは人それぞれだ。
それぞれにリアリティがあって
それは交通事故の経験が強烈な者にとっては
「怖い」という感情がくっついて
より強い現実として「危険な乗り物」になる。
つまり、感情・身体の経験・概念の癒着によって
生み出されている現実にすぎないということであり
それぞれの自身の生命現象の問題の解決には
それぞれの経験による感情と概念の癒着の
解放が必要だということになる。
それを巧みにするのが、本来の宗教であり
いかに強固な現実だと思っている不遇も
生命の本質的なメカニズムから解決させるものである。
例えば法主には従わなければならない
会長には従わなければならない
という思い込みを解除するための時と
意図思惑によって最悪な法主だ
悪魔のような党だ、人外の会長だという
レッテルを貼ろうという時に
フレーズ自体は同じようなものになるかもしれない。
現実だと思ってしまっていることの解決のためなのか
感情の押し付けで都合の良い現実を作り上げるためなのか。
言葉尻だけでは、それは分からない。
相互理解の必要性がある。
そういうことを踏まえた上で
簡単に思い込んでしまうのではなくて
思い込ませて解決とするのではなくて
率直な思い、率直な感情、率直な経験を
素直に出していき、
受容と解消、そして新しい漲る生命の誓いのために
そうした時、笑顔の咲き誇る
民衆の対話の連帯が実現するのではないだろうか?

http://



[857] 解放の体感の味わい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月18日(月)23時23分34秒   通報   返信・引用

人はそれぞれ
自分のフィルターを通して
世界を見ている。

その人にとっての世界は
そのフィルターを通しての世界であり

これにリアリティがあるのだから
その人にとってそれが真実で

その真実に合わないものは
真実でない間違った偽物ということになる。

同じもの、同じ真実を見ても
それぞれフィルターを通すがゆえに

別々の見え方をし
相対的な世界を形成する。

頭では分かったとしても
フィルターを通してみた世界だけが
リアルである感覚は強固である。

それは、思考と感情と身体とが
強固に結びついていて
手放さないという執着である。

潜在意識のコアなところから
癒着して積み上がったものが
自分を形成し

真実を見えなくさせている。

無限に多角的であるそのどれもが
相対的な価値でしかなく

そこにただ一つの真実というものは
存在しない。

感情はエネルギーの流れであり
解釈の理由をもって感じることを拒んだとき

その思考と感情と、
拒むというネガティブな身体反応がセットになって留まる。

世間の凡雑な抑圧・ストレスは
感情を味わうことを拒むきっかけを多く与える。

感情の流れが滞りネガティブが溜まると不良不全になる。

つまり、これを改善回復するには
身体にある起こる感情と思考を味わい
エネルギーの流れを良くして解放していくことだ。

抱え込んで溜まっているものを手放していくと
自分自身というものは
エネルギー開放の流れと共に広がっていく。

ついには
自分というものが何も無くて
それでいて無限であって
「気づいている」

そういう方向から確かに

これだったんだというものが顔をのぞかせる。

一瞥体験であり生命体験である。

そこからエネルギーを発し流れさせれば
それに対して解放回復改善の方向を与える。

これが起こることの体感覚知。

方法と、その現象の解釈は何であれ

そういうことは抜きにして
その歓喜の味わいを体感覚知するのだ。

そして二者関係において
それを促していくのである。

あなた自身なのだ。



[856] ニュアンス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月17日(日)06時31分13秒   通報   返信・引用

「法があるからあなたは不自由だ」
「法の下であなたは自由だ」
「あなたが自由だから法が働いている」

そういうニュアンスの違い。

http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-570.html
~夫(そ)れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を・・・・・~

理科的に見るならば

《この世界的な愛(仏性)の実践というものは
「あなたの愛(存在)の自由」を先として

そのそれぞれの枠組み(国や組織)の教育というものは
意図思惑への誘導のプロセスを先としている。

ゆえに、愛(仏性)というものは
「不自由の世界」を「反転した救済」にするものであり

枠組みの中の偉い立場に君臨する者は
あなたはこれに従いなさいと規定するのである。

日本という国は
世界の中で見れば小さな国であるけれども

その存在の意味合いで言えば
どの国よりも重要である。

愛(仏性)の実践は一つ大きな階層の世界で始まったけれども
一つ小さなフラクタルの日本という国に働きとして留まる。

これは階層構造の理科的な天然の帰結なのである。》

また、随他意と随自意を見るならば
https://ameblo.jp/garlicking/entry-11165768742.html

向こうの反応世界にある愛(仏性)では
それは愛(仏性)ではあっても
他人事への恋い焦がれであり

自身に起こっている「思い」「感情感覚」「身体反応」
それ自体が受容して味わえば愛(仏性)であることが
救済者への反転に必要な覚知である。

~~同志への指針~

法華経は、万人の無限の可能性を信じ抜き、開き切っていく、随自意の教えだ。「我が身は即仏なり」「万人が皆仏なり」との大歓喜の表現である。~



[855] 身で読むのは体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月14日(木)11時49分9秒   通報   返信・引用

法華経、或いは仏法というものを
身で読むということは「実感」「体感」であり

「人間革命」「成仏」というものは
「体感による了解」による「探求の終わり」であり
救済者への反転である。

その「生命論」こそが「仏法の本体」である。

どうしたら自分と同じ境涯にできるか、常に心を砕き
その真理への全人格的な格闘によって汲み上げるのが
「法華経の智慧」である。

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧7
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6392
~それは「非ず」という否定形を重ねてしか表現できない何かである。どんな「定義」をしても、そこから、はみ出してしまう面をもつ何かである。しかも、どんなに否定形を重ねても、それでもなお厳然と存在する実在である。
だからといって、それを単に言語表現を超えたものとか、不可思議なもの、空なるものとか言って、仏を超越的なものに祭り上げても、何も分かったことにはならない。戸田先生は「実感」としてつかみたかった。「体得」されたかった。空虚で観念的な理解では、決して満足されなかった。~

~まさに「身」で読もうとされたのです。
法華経では「一切衆生の成仏]を説く。しからば、その仏とはいかなる実在か。成仏とは何か。これは仏教全体の根幹にかかわる問題です。戸田先生は、この根本問題を深く思索され、追究されたのです。~

~「仏とは、生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」~

~「生命」には多様性がある。豊かさ、闊達さがある。それでいて、法則的であり、一定のリズムがある。この「多様性の調和」を教えたのが一念三千です。その一念三千を体得したのが仏だ。
しかも「生命」には開放性がある。外界と交流し、物質やエネルギーや情報をたえず交換する開かれた存在である。それでいながら、自律性を保っているのが生命です。宇宙全体に開かれた開放性、そして調和ある自由、これが生命の特徴である。
仏の広大無辺の境涯とは、生命のこの自由、開放、調和を、最大限に実現した境涯だとも言える。
妙の三義には「開く」義、「円満」の義、「蘇生」の義がありますが、これこそ「生命」の特質です。そして「仏」の特質にほかならない。
ある意味で、仏典はすべて生命論です。天台の仏法は「己心の中に行ずる所の法門を説く(説己心中 所行法門)」(御書 p239)とされ、大聖人は「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(御書 p563)と仰せになった。~

~仏法の目的は、結局、境涯を変えるところにあるのです。
また生命論といっても、学会が独自に始めたものではありません。日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です。これを継承したのが学会てす。
釈尊は、生老病死という人生の苦と対決して、自己の内奥の広大な世界を開いていった。
天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として説明した。
華厳経では、心と仏と衆生は無作別であると説いているが、天台は、これを借りて、心と仏と衆生の三つの次元で法華経の妙法を諭した。「生命」は、これら三つを統一的に表現できる、現代的な言葉でもあります。
そして日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、御義口伝をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。
すなわち、生命論こそが仏法の本体であった。~

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧8
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6395
~真理に対する全人格的な格闘によって、法華経の奥底から汲み上げられたものです。これこそ「法華経の智慧」と言える。
ゆえに、この「生命論」には、知識を与えるだけでなく、発想の転換を促す力がある。そして希望へ、現実の行動へとつながっている。「生きる力」を湧きたたせる「事の哲学」です。~

~「人間革命」とは、成仏の現代的表現です。総体革命とは「広宣流布」です。
それらは、あたかも地球が「自転」しながら太陽の周りを「公転」する姿に似ている。自転によって昼と夜があり、公転によって四季がある。
私たちは、太陽の仏法の光に包まれながら、昼もあれば夜もある ?- 無限向上の人間革命史を綴っている。また冬もあれば春もある ?- 広宣流布の春秋のロマンを奏で、進んでいるのです。
ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」 ?- 戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。~

~本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。
「生命は万人にある」「生命は尊い」。これは、だれ人も否定できません。「仏とは生命なり」との宣言は、何より、仏法の真髄は「自分自身」にこそあることを、はっきりさせたのではないだろうか。~

「普遍の真理」の「現象自体」は、
言葉が付く前の、ただあるものである。
自己機能の本来である。

「独自性」というものは、
言葉によって定義付けされるアイデンティティである。
自我機能による後付けである。

不可思議の「普遍の真理」という「妙」の神秘性と
体感によってフィードバックされる了解(法)を調和させる
貫かれている意識の使い方・向け方(信仰)。
関与でない自身の意識機能が即全体との不二。

アルベア論があって私の論があるのではなく
体感に対する疑問に答え得るものとして
アルベア論との出会いが
選択されていることがただある。

近年の創価学会は普遍の法を謳いながらも
「独立した宗教団体だから関係ない」とか
「宗教的独自性を示せました」とか
自我機能を自我機能で上書きするような方向で
そこに「仏法の本体」である「生命論」の「体感」がなく
自我機能を自我機能で上書きしているにすぎない。

その上書きへの反発は、
多く元の自我機能への執着を先として起こっている。

新たなアイデンティティの確立を阻むものを排除しようとする自我機能と
元のアイデンティティが崩されそうなことへの防衛の自我機能の紛争である。

前者は積み上げてきたものの少なさから権威を表として強制改革をし
後者は今まで積み上げてきたものの正当性を主張する。

前者は未来へのこだわりであり
後者は過去へのこだわりである。

「多様性の調和」を教えた一念三千を体得し
俯瞰した生命論、今ここの視点が本質的な解決に求められる。

一念三千を体得したのが仏なので
それは一人立つ「人間革命」という「成仏」であり
その仏を成(ひら)く事が、信仰の目的であり

体感すべき生命へ意識を向け気づく事である。

<かんながら>神との遭遇の日
http://abetoshiro.jp/archives/3788805.html
<かんながら>かんながら・月光編
http://abetoshiro.jp/archives/2210851.html

<宿坊>無謀なる挑戦1~4  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64703
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64704
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64705
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64706

<創価の森通信>関西創価学会「雨の文化祭」
http://sokafree.exblog.jp/24466799/

何をどう感じるかは、あなた自身の生命現象です。



[854]

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月13日(水)11時32分49秒   通報   返信・引用

例えば、直感的・第六感的に
「あ、これならできる、いける」と思い
アイデアと行動と結果が同時に進んでいくような状態。

前提や理由や始まりが漠然として
ただ自然に至っている受容。

対して、時に些細な友達の言葉
「○○って△△だよね」みたいなものから
自分の中に価値基準が作られ
自分に対する肯定や否定につながるものほど
縛られて囚われていく。

特に、親から子への否定的な言葉というものは
深く傷として刻まれやすい。

言葉によって得た執着の世界で
仮説を立て探求を深め理論を構築する。
方向を知り前進を重ね別の状態になろうとする。

自己機能と自我機能。
それを貫く意識機能。

本来は今ここに生まれた
考えではなく感じる使命、
思い出せば始まりも終わりもなく
ただ自らの歓喜なのだが

理由がいる自我機能の世界に対して
理由付けて優劣を作り上げる。

いくら正しいものを知識として集めても
智慧として働かせられなければ

例えば筋道の違う二つの説き方がある時
相手の立場に立って選び取り
薬として解放に向かわせることが出来ない。

別の状態に恋い焦がれても
自我機能の中にいる限り
それは延々と問題を分離創出するし

無謬の法を求めようとしても
智慧が無ければ
たちどころに悪へも転じる。

事実、多く
正義が人の命を奪ってきたのが人類の歴史だ。

仏の本質が、何に厳しく
何を讃嘆するものなのか。

いづれ行き着く南無妙法蓮華経の日

その時は共に
日蓮大聖人とお会いしましょう。



[853] 幼少期

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月13日(水)02時01分54秒   通報   返信・引用   編集済

小学校低学年までだったと思いますが、
自分は日本に生まれたことが特別のように思ってました。漠然と…

何なんでしょうねぇ
理由がないんです、そして自分は特別な人間だとも思ってましたね(*_*)
思ってると言うより感じてるんです、考えではないんですね、だから理由がないんです。只々そう感じてるんです。

18才位からその感覚が薄らぐと同時に劣等感が湧いてきました。これは理由があります。
簡単にいうと怠けモノなんですね、快楽に流されやすい怠け者。破滅型の人間ってやつです。

それでもこの年で子供三人の五人家族で勤め人をやってるんで破滅型人間からも落ちこぼれましたけど……

落ちこぼれも中途半端で何となく形だけ取り繕う、突き抜けれないんです。

最近はそんな半端野郎な自分を許してしまう、腑抜け野郎に成り下がってますが、いづれ行き着く南無妙法蓮華経の日を楽しみに楽しく暮らしたいと思ってます。

こんな私ですが毎日楽しくやってます(^O^)



[852] フラクタル ニッポン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 9日(土)12時17分59秒   通報   返信・引用

まぁ、与太話のつもりで

<youtube>【驚愕の都市伝説】世界地図を縮小したら、日本地図になった!日本は世界の中心かも??
https://www.youtube.com/watch?v=6CcZplUIaMI

<TVで育ったボクだから>サイエンスZERO ミニチュアオーシャン! 小さな大洋 日本海からの警告
http://blog.livedoor.jp/sawagani036/archives/3619839.html

世界の要素が凝縮されたような日本。

その日本を、日本海が下になるようにひっくり返して見ると
「心」という字になる。

私は今、日本の地にいるけど
地上から日本全体の形は見えず

それ(地図の日本)がここだというのは
学んできたことを「心(脳)」で認識して判断している。

サイエンスZERO番組内で
ウラジオストクの冷たい水が
日本海の深層海流に流れていく
「沈み込み」という現象に触れられているが

これはもっと大きな
ブラックホールの成長や
銀河系の仕組みにも
同じような事が起こる。

フラクタルな現象を意識の向け方使い方で
全体に気づいていく。

その了解は、言葉では語りきれない情報量であり
八識であり業の循環であり法眼であり
自然であり善悪無記であり
色心不二、依正不二、生死不二であり
球の階層の体感である。

心、居ながらにして、万象を識る。

目は口ほどに物を言うなんていうのは
了解・気づきの度合いや志向性の違いがあるだけで
誰もが、別の何かではなく
本来的にそれそのものだということです。

言葉の中に内実があるのではないことは
日本地図の中に日本が実在しているのでは
ないのと同じようなものです。

ともあれ、深く了解したとして
これにはまだ主客があります。

主客のない九識の非二元は
識るも識らないも、「私はそれである」です。

その有無でない律動が
南無妙法蓮華経です。

<アルベアのブログ>「絶対的幸福」は、ただ「気づく事」1~3
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12309021636.html
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12309021784.html
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12309021920.html

<かんながら(旧)>そのときあなたは
http://abetoshiro.ti-da.net/e8320155.html

何が何であろうと
誰がどうであろうと
マインドが口を挟もうとも

本当に自身が解決すべきことは
これに気づくかどうかである。

南無妙法蓮華経。

それは、例えば低い階層とか
どれかの階層が無くなるのではなく

それもそのままそれであって
他の四眼を全て持つのが仏眼でもあるのです。



[851] 釣りよか

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 6日(水)11時24分49秒   通報   返信・引用

そんじょそこいらの釣り番組より
よっぽど見入ってしまうよね。

そういう臨場感をもって取り組めば
今の時代

そういう単位の行動が
それだけ多くを引き付け得るよ。



[850] 蘇生さんへ

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月 5日(火)17時22分41秒   通報   返信・引用

釣りよかでしょう登録させてもらいました。

気分転換に(^O^)



[849] 「信念」と「信心」を包摂

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 5日(火)03時12分4秒   通報   返信・引用

徹底して知って
把握して
意識機能で貫いて
乗りこなす。

例えば
ある魚が「呼吸は水中でするものだ」と言います。
ある哺乳類が「呼吸は空気中でするものだ」と言います。

その食い違う対立した意見に対して
「それは、肺呼吸とエラ呼吸の違いだよ」と言うためには
それらを包摂する、一つ高い抽象度

脊椎動物というゲシュタルトが必要になる。

そうした時、皮膚に何が生えているのか
鱗か、毛か、羽毛かという一部を見ただけで
それが何に属するのかも分かる。

例えば、速いレーシングカーを造るという時
ただ良いエンジン、ただ良いタイヤ
というものを組み合わせていくだけではなく
その車が何をした時、何が起こっているのか
その全体を貫いて把握することで
速い車のバランスを実現する。

それはそのゲシュタルトに対する
意識機能で貫いた臨場感を伴った
俯瞰と言う方向性である。

抽象度を上げ俯瞰するための方法として
一つには意識で貫いて把握するまで徹底して知ることであり

もう一つには、より高い立ち位置に対して対峙することである。

校内一を目指すよりも
日本一、世界一を意識する方が高いパフォーマンスが求められる。

日蓮大聖人で言えば
「日本第一の智者となし給へ」と祈願をし諸経を学び
時の政府や並みいる高僧と対峙をした。

その上で自身をも超克するところに
発迹顕本があるのではなかろうか。

「この地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」
「地球民族主義」の構想「原水爆禁止宣言」の発表
「創価学会は宗教界の王者である」との師子吼

戸田先生の烈々たる大情熱の気迫である。

これはどういった抽象度に立脚するものか。

牧口先生の「一宗が滅びるのを嘆くのではない」
という道に即して言えば
一宗の盛衰だけのものではない。

「この地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」
「地球民族主義」の構想「原水爆禁止宣言」の発表
「創価学会は宗教界の王者である」との師子吼

それぞれは「信念」である。

日蓮仏法、三大秘法に対するものは「信心」である。

その「信念」と「信心」を包摂するところにこそ
創価の心があるべきであり

その現場を誰よりも知り把握し
臨場感をもって意識で貫いたのが池田先生であり

だからそれは、どこで何が起こっているか
高いレベルで応えることが出来るのであろう。

<宿坊>代理投稿 投稿者:SMAP万歳
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73796

https://soka-gakkai-international-0507.jimdo.com/池田-名誉会長-祈り/
~祈りとは
祈り――それは、あきらめない勇気だ。
自分には無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ。“現状は必ず変えられる!必ず!”確信を命の底に刻み込む作業だ。

祈り――それは、恐怖の破壊なのだ。悲哀の追放なのだ。希望の点火なのだ。運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。
自らを信じよ!卑下するなかれ!卑下は仏法への違背だ。胸中の仏界への冒涜だからだ。

祈り――それは、我が生命のギアを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。宇宙に包み込まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福へ幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。

2004.10.10
我がふるさとは世界~

確信・希望・包摂

三世十方全ての覚者を包摂する
南無妙法蓮華経。

それは
「今ここ」「これ」「非二元」である。

全く余所ではない
意識によって貫く「事」なのである。

それは「気づく」事なのだ。

それ(一念三千)しか起きていないのである。

↓抽象度の苫米地氏とGTRの水野氏の対談
<youtube>【超大物二人の対談】苫米地英人氏×水野和敏氏
https://www.youtube.com/watch?v=1BTlTlAn8ps

気分転換<youtube>釣りよかでしょう。
https://www.youtube.com/channel/UC4QadOSsJu54Qs8z99shRiQ



[848] ビビビの去来

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 3日(日)03時12分40秒   通報   返信・引用

釣果おめでとう。
イイネ(^-^)

私たちは
「もたらされ」を頂いて
生かされている。

「生命」と「神聖さ」との関わりだ。

それは恵みへの歓喜・感動・感謝となる。

人間の愚考はそれをつまらないものに
エネルギー変換する。

本来はこの活動・現象に
物語も言葉もない。

でも言葉によって
物語によって
人は人であることを思い出す。

二者関係を鋭敏に促せる。

仮定や解釈は如何様にも出来る。
あるいは現実の認識も。

釣りというのは不思議な要素が顕著だったりする。
釣因釣果の同時。
釣ったから釣れた。
釣れたから釣った。
「これ」が「これ」を引き寄せた。

人間の脳は嘘をつく。
嘘をつくために言葉があり
言葉によるものは嘘しかなく
言葉は方便以上にはならない。

なぜどのような経緯で釣れたかの物語は
物語以上にはならず体感それ自体ではない。

人間のやるせなさの要因に
言葉によって自然には無いものに概念を作って
ゆえに自然に還元されないエネルギー変換で
自然の範疇を越えた争いをし疲弊する事があろう。

例えば自然には
ナワバリはあっても国境はない。

微妙なニュアンスであるが
固定的に明確化するほど不足感が増す。

方法論で釣ろうとして
同じようにやって釣れなかった時には
期待依存への反作用の感情が起こる。

ビビビっというのは不足感とは逆の「もたらされ」の
不思議な感覚ではないかと思う。

その瞬間にそれになりきって
既にそれが実現していると言えるようなもの。

というか、これも
あんまり概念として固定的に明確化すると
反転すると思われる。

こう俯瞰していくと
池田先生が示されたもののうち
あえて概念として固定的に明確化する事が避けられたものの中に
だからこそ重要なものも
きっとあり

もしかしたら、それしか無いとまで
言える可能性すらある。

つまるところ師弟不二とは
非二元の体感覚知によってしか
実現されえず

ここに書いた言葉自体は
概念であり全くそれ自体ではない。

要は自分自身の事です。

対象化では無いのです。
彼岸はここに同時なのです。

それへの瞬間の二者関係の電磁的作用が
ビビビという臨場感なのです。

愛なのです。



[847] 釣果だけ(^O^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月 2日(土)18時45分5秒   通報   返信・引用

本命アカハタは30cm止まりでしたが
キジハタ45㎝1.2kg

今日もビビビっと来ましたよ、娘の仕掛けが急に釣れそうに見えて、同じ仕掛けに替えての1投目?
それでキジハタです
でも娘の同じ仕掛には来ない?(*_*)

なんだかなぁ~

長めのお題目の功徳でしょうね(^O^)???



[846] 活性の波動

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 2日(土)01時35分57秒   通報   返信・引用

例えば
縄文時代と現代とじゃ
生きるために必要な能力は違う

と、思考概念は考える。

文化を発展させて
人類は進化したと考える。

しかし、人間自身というものは変わっていない。
自己機能は一定である。

そこに乖離があって
エネルギー変換後の文化は
手に入れたと思って頼ることで
むしろ人間自身から失われる。

魚の活性など、本来そこに感じ取れる自己機能があって
自然との折り合いがもたらされるものが

文明の力によって根こそぎ捕ってしまえると
そうならないためのルールと抜け道の
根本的な幸福からかけ離れた化かし合いになる。

楽を求めるほどに
ストレス社会へと反転され

「生活のために、生きている」と
「生きるために、生活している」が
反転している。

「楽を得たければ必死に働くか
他人を騙すことに麻痺しろ」
というような命題に

「規定通りにやって自分で考えない」
事によって気づかない選択をする。

そして
「なんだかんだ言っても上手くいっている」
と思い込む。

それは自然の上の
「なるようになる」とは違う。

「好きこそものの上手なれ」
そこに眠っている力。

波動が合致すれば
生きていることで生活ができる。

好き、楽しい、直感、釣果に直結。

そんな風にきっと
みんながなっていけるように
「創価家族」「地球民族」なんて
言うべきであって

比べて「これ以外ダメ」っていう規定の中で
決める偉い人と、従う一般人があって

既定の枠から外れないための
相互の縛り合いの追い立てみたいな

好きな事も我慢して
組織のために働くのが美徳みたいな

そうなってしまったら
人間の力、凡夫の力も仏の力も法の力も
衰えるのは当然じゃないか。

貧乏人と病人

仕事と家庭

各分野エリート排出と創価家族の団結

↑これが会員個々人の幸福のためなのか
組織の中のエリート貴族のためなのかで
まったく逆転する。

池田先生の思いと後続の違いである。


創価エリートと組織規定に従う団結

財務貧乏とストレス性疾患

「会長は偉いんです」っていう会憲・会則
「財務貧乏とストレス性疾患」を生み広げる力ない宗教。

そんな麻痺したおかしさに支えられる政党。

組織信仰なんて、ホントに功徳ないし
むしろその悪を責める方が功徳があるよ。

間違いない。

身なりさん、釣り楽しんできてくださいね~(^-^)/

<蓮の落胤>「創価学会員物語」の終焉
http://hasu-no-rakuin.hatenablog.com/entry/2017/09/01/045106

<アルベアのブログ>
「生き方」と「生活」の乖離現象
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12291238976.html

「生活のために、生きている」「生きるために、生活している」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12305717523.html

「相対的現象・現実」「絶対的現象・現実」から見た「生死の智慧」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12305966143.html

「体感」とは「思考・概念」の変換
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12306272756.html

「観念観法」1
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12212969271.html



[845] しみじみと

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月 1日(金)21時44分38秒   通報   返信・引用

暑さも一段落してしみじみとする風が吹くようになりました。
明日は久し振りに娘と釣りに行ってきます。

本命はアカハタの40㎝オーバー

不思議なもので三時間釣れてなくても急に釣れる気がし出してほんとに釣れるんです。一度や二度でなくほぼ毎回です。逆に釣れる気がしないままほんとに釣れないこともあります。海というか宇宙全体の波動がすこしだけ取り込めてるのかも知れないですね(^O^)

魚の食い気を察知できてるとか、見えない潮の動きが体に伝わってるのか分かりませんが(^_^;)

楽しんで来ま~す?(^-^)v



[844] しみじみ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 1日(金)05時50分34秒   通報   返信・引用

逆もまた真。
しみじみと不思議なものですね。

しみじみと言えば
振り返ってみれば
「黄金の3年」って
しみじみ、すごい「時」だったと思う。

時に巡り合わせている
実感があったものね。

何ものにも代えられない宝です。

そこで出会った
サイヤさんも身なりさんも
久遠、永遠の宝です。



[843] 逆もまた真

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月31日(木)17時29分34秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは清潔な身なりです。(^O^)

中学2年生の時の数学の先生が好きな言葉を紹介してくれました。
「真実は1つ」
それともう1つ
「逆もまた真」

当時は、なんのこっちゃと 思ってましたが最近少し分かる気がしてきました。

これしかないけどこれだけでもない。

単純だけど超複雑

ミクロだけどマクロ

(^_^;)



[842] 階層と創発とイノベーション

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月30日(水)12時05分6秒   通報   返信・引用   編集済

人・心の師「久遠実成の釈尊」
法・己心の法「皆成仏道の法華経」
一箇・解(さと)り「我等衆生との三つ全く差別無し(理の一念三千)」
↓↓↓
人・心の師「久遠元初自受用身の日蓮大聖人」
法・己心の法「凡夫即極の南無妙法蓮華経」
一箇・覚(さと)り「余所に求むる事なかれの大御本尊(事の一念三千)」
↓↓↓
人・心の師「永遠の師匠の創価三代」
法・己心の法「仏法の生命論の人間主義」
一箇・不二(さと)り「人間革命による広宣流布(実の一念三千)」
↓↓↓
人・心の師「あるがまま自然の愛」
法・己心の法「もたらされる」
一箇・悟り「今ここ(無作の一念三千)」

教義としてどうあるべきかというようなことではなく

その時代時代、その地域の文化地域の文化
その宗教宗教は違っても

自分自身に落とし込む体感を実現する上では
それは人の中から人が消えるという人として自身があり
それは法の中から法が消えるという法として空があり
ゆえに一切が開放され蘇生し円満であるだけの全体が
比較対象の一切が消えて定義が無いので
「思議や言語化が出来ない」である。

このようである以上
全ての覚者はこれを師として悟ったのであり

それは外に求めるものでは無く
自身に落とし込むという過程で発見するものである。

「対象化が無い」「主客が無い」であり
仮にそれをエネルギーと呼ぼうとした時
言葉にした瞬間、対象化されてしまい

「エネルギー」と「エネルギーでないもの」が
分離されてしまい差異が生じる。

そういった差異のない、その全体と
個々別々の仮の相対世界の認識の間に

起こす創発・イノベーションの智慧というものが
南無妙法蓮華経であるとも言える。

創発<人事労務用語辞典の解説> (コトバンク)
~~「創発」とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない特性が、全体として現れること。物理学や生物学などで使われる用語「emergence」(発現)が語源で、自律的な要素が集積し組織化することにより、個々のふるまいを凌駕する高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象あるいは状態をいいます。所与の条件に基づく予測や計画、意図を超えたイノベーションが誘発されるところから「創発」と呼ばれ、組織論やナレッジマネジメントの分野では、個々人の能力や発想を組み合わせて創造的な成果に結びつける取り組みとして注目を集めています。~~
<世界大百科事典内の創発の言及>(同コトバンク)
~~…たとえば,細胞とそれから構成される生体組織や,社員個人とそれが構成する会社組織など。 この二つの階層間には,〈創発emergence〉と呼ばれる非線形なフィードバックが働く,と人工生命の哲学は主張する。すなわち,下の階層における個々の構成要素(個人)の自由な運動が,上の階層における全体的なパターン(社会の状況)を生み出し,またこのうえの階層のパターンが,下の要素(個人)の運動の境界条件としてフィードバックし,個々の運動を間接的に支配する。…~~

創発という言葉は
こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 唯識に生きる 第5回「唯識の科学性」の
立教大学名誉教授 横山紘一氏とカリフォルニア工科大学教授 大栗博司氏の対談中
語られた言葉からという経緯である。
http://o.x0.com/m/563688
~~私たちの思考っていうのは言葉で思考しているわけですから私が「自分は何であろう」と問うというのは言葉で問うている。
もちろんそのとおりですよね。
でもそういう言葉を表現できるという事はそういう思考がその背後にあるという事だと思うんですよね。
脳が言葉を作り出したと…。
そうですねええ。
「自分」という言葉が指し示すものは一体何かと。
簡単に言うとね「自分」ってあるかどうかは科学で証明できないと言われましたけど私はもう単純にね「自分!自分!」と。
それでこう手を見て「誰の手ですか?」「自分の手だ」とね。
それで「手」という名詞は見えるけど「自分」という言葉ねこれに対応するものをこうやって目を開けてもいいし目をつぶってもいいからその言葉そのものが指し示すものを探してみろって言うんですよみんなにね。
そしたらもう誰も見つからないわけだ。
でもそういう意味では手もないかもしれないですよね。
というのは手っていうのもこれは手の中の分子がこういうふうに結び付き合っているわけでそれをどんどん分析していくとただ単に原子がこういう形に関係し合ってここに存在してるわけですから分析していくと手自身はなくなってしまうわけですよね。
そういう理解のしかたの時に一番難しいのはその個々の要素からどういうふうにしてこういう手というこの一つの機能を持ったものが一体として動くものが現れてくるか…。
科学では「創発」という言葉を。
「創造」の「創」と「発生」の「発」と創発と。
そういうふうに個々の原子みたいなものから出来ているものが関係し合い相互作用し合ってその手という一つの機能を持った実体が出てくるというのはこれ創発という現象なんですね。
でもそれをよくよく見てみるとその手というものはそれは1個としてあるものではなくってその原子たちの集まりとしてしか存在してないものですよね。
ですから「自分」というのもそれと同じものの意味でないという。
つまり脳の中に個々に分けていくと結局脳の脳細胞とかニューロンの間の相互作用でそういう情報処理が行われてる。
それをまあ世界モデルとして「自分」というふうに考えているわけだと思うんですけれども。
あの変な事を聞きますが素粒子論とかねそれから宇宙論をやっても人間の苦しみとか悩みはなくなりませんよね。
それはもちろんなくならないですよね。
そこが全くね方向性が違うわけだ。
科学の目指すものというのは…私たちの住んでいるこの世界の仕組みを理解しようというのが科学の目指す事なんですけれども唯識の目指すものというのはむしろこの世界の自分がたまたま生まれてきてしまったこの世界がどんなものであるかというよりはその中の私自身の心の働きがどういうものであるかと。
そういう理解したい方向が違うという事…。
やっぱり苦しみなんですよ。
なぜ苦しみが起こるかと言ったらね全部自分が主体的に真ん中にあるわけだ。
自分の身体自分の家庭自分の国自分の会社自分ってね。
全部自分なんですよ。~~

仏法の指導者というものが
どういった資質を持つべきであるか

まぁそれも「どうでもいい」んだけれども

どっちから
どっちを見ればどうなのかということを

まず「どっち」と「どっち」があるのかを
区分けするところからが必要になる。

それをしているのがアルベア論である。



[841] 忘却の見ないために見てしまう選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月27日(日)23時57分45秒   通報   返信・引用   編集済

教相(文上)において仏が語っているものは思考概念の知識であり
観心(己心)において仏がもたらせるものは現象の体感である。

「仏は常にここにあって法を説く」という法華経の知識に対して
「仏の説く法が常にもたらされている」という体感が文底である。

それは問えばリターンがあるということであり
仏との対話の実現である。

アルベアのブログにニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」が紹介されたが

法四依
依義不依語(義に依りて語に依らざれ) を考えるならば

「神」と「仏」という語の違いではなく
その現象の在り方を問い、同質の意味が見て取れる。

私個人の、志向性はもちろん
「御本尊に照らして考えてみます」という
そこから必ずリターン(答)を得てみせるという
体感を願う祈りに始まっていて

始まりがそれであるならば
そこからの内容は、それと不二である。

気づきの幅が無限に広がりうる
「法華経現象」「南無妙法蓮華経現象」の
全容と宇宙と我との、真如・非二元の探求である。

語に依る探求でなく、義に依る探求であればこそ
特定の宗教の思考概念ではなく
普遍的・科学的な視点に立つことを可能にし
より多様性に対して有意義をもたらすことが出来るのだ。

それは、そのためには
限定的な知識によって決めつけるのではなく
相互を活かしきる智慧が必要である。

智慧ということは
「~しなければならない」「~してはならない」
という枠に囚われることのない
その瞬間に応じた、真如・非二元の気づきのための
促しである。

依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
知識の押し付けでなく、智慧によって促すのだ。

私にとってアルベア論の律動法は
「法華経現象」「非二元」をより体感する促しである。
義を了解するための二者関係間の伝達である。

何かに熱中する時、集中的に見えているものと、見えていない事がある。
見えている対象化されているものだけを見る時
見えていない事が欠けている事は不了義の部分が出来る。

御本尊に祈る時
別のものと思わない一心に、法華経が了義経(円満の法)として
その一心を見れば蘇って思い出すことによって、
仏との対話の方法が開かれるのであり

己心の外にあると対象化してしまえば
たちまちに不了義経になり
沈黙に対して愚考をくりひろげるのである。

依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)

創価三代の会長が一心に定めた大御本尊を
「大謗法の地にあるから」と対象化して切り離すのは

了義経として機能するべき信心を
不了義経化して捨てることである。

権力迎合のための選挙支援や
盲従の資金源のための弘教運動の
負担を減らすために信仰を縮小。

百害あって一徳の功徳もない。

大御本尊が後世の造立だとして
御本尊を求める一心の強さによる
特別な御本尊であるとも見ることは出来る。

まぁ、それは思考概念という所になるが
それにしても2014年の会則改正は
義のない語による智慧のない無慈悲な切り方だった。

ともあれ「大御本尊」の経緯を考えれば
どうしても説明は人為的にならざるを得ない部分がある。
肯定するにせよ否定するにせよだ。

だから、この問題に対しては特に
「法華経現象」「南無妙法蓮華経現象」の
全容と宇宙と我との、真如・非二元の
己心の仏との対話によってもたらされる法による解決がいる。

無記、ただある。
それは説明の概念にはならない体感による。

それは、どのような形にせよ
法はもたらされていたし
法はもたらされているし
法はもたらされていく。

戸田先生、池田先生が体感したことは
私たちもすでに体感しているということが
本質的に師弟不二である。

そんなバカな
戸田先生、池田先生は特別だという思いに熱中して
対象化するから見ないという選択をして忘れているのだ。

永遠の生命の上では
全ての存在、日蓮大聖人も釈尊もイエスも不二で体感している。

だから、思い出せば、知識を越えた対話が成り立つ。
そこに法がある。

思い出せば、それにあふれている。

人生とは
未体験パターンを体感する
衆生所遊楽の舞台なのである。



[840] 対の価値

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月25日(金)18時02分50秒   通報   返信・引用

宇宙に孕まれている矛盾を見て取るということは
宇宙が矛盾なく存在していることと矛盾しないという
それ自体が矛盾としてあり

これに善悪は無い。

仏教史に孕まれている矛盾を見て取るということと
創価教学が矛盾なく存在し得るということを矛盾させないことは
臨場感の涌出のエネルギーの空であり

これに正邪は無い。

私はあなたの善悪ではないし
私はあなたの正邪ではない。

これは個々の思考概念には
その志向性の違いがあり
重要度の順序が変わって
表現が異なるということである。

私とあなたの善悪は同じものであるし
私とあなたの正邪は同じものである。

これは重要度の順序を解除して
志向性を体感の現象として見れば
全く別々のものなどない一つである。

思考概念というものは
志向性によって重要度の順序を分離抽出した体系であるが
分離が生じる際には対となる裏分離があり
むしろ、その裏の分離の価値をもって
抽出された表の価値も等価として価値付けされる。

「南無妙法蓮華経と唱えることは
意味が分からなくても効果がある」
というのは正しく伝えられれば正しく唱え効果があり
「効果があることに価値や意味がある」のでもあり
「価値や意味が分かればこそ効果を引き出せる」
というのも効果が現れない場合、何が悪いかの確認に必要である。

一つの概念に、置き換え、裏の意味、裏の価値
そういった重要度の体系がある。

置き換えによっては
「同じように、あるいはそれ以上に効果があるなら
南無妙法蓮華経と唱えるスタイルでなくてもよい」
ということも、等価として言えるのであるが
その重要度をどう置くかは個々人の志向性なのである。

日蓮大聖人の時代、日蓮大聖人にとって
南無妙法蓮華経以上のものが無いと確信したから
それしかないものとして
その他一切三世十方の総体に対して等価の
南無妙法蓮華経として広めた。
と言っても、その時点ではどれだけ広めえたか。

信じて行うということは誰の責任でもなく
自身の責任であるということだ。

自身の作り出した重要度の順序の中で
それを仏や神(諸天)として信じているのである。

御本尊と自身を同じとして見るということは
全く事実として、その時それは同一の事の
置き換えの違いにすぎないものなのである。

弘教の方法の概念に摂受と折伏がある。
『佐渡御書』 に、「仏法は摂受・折伏時によるべし」(957P)
『開目抄』 には、「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(235P)
『観心本尊抄』で「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(254P)
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-184.html

これの置き換え、裏の意味、裏の価値
を考えてみる。

まず、摂受・折伏に強く触れているのは
佐渡期の限定的期間のようだ。

その上で
~「折伏を前とす、常不軽品の如し」(御書235ページ)とする『開目抄』の一節は、実は古写本には存在しません。~
<気楽非活>摂受と折伏について。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/23/000000

~日蓮の云う折伏が、行儀の中でも武力・暴力の介入を認めるもの~
という読み解き方もあり
平和思想との矛盾の声もしばしば
様々な立ち位置・角度からあがるところです。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/imanari001_inf.html

創価教学の表の概念は
「末法という邪智・謗法の者の多い時だから
正しい日蓮仏法による折伏が正しいのだ」
という感じではないかと思います。

ただそれだけでは

佐渡期の日蓮大聖人への「間違っているから、そんな境遇に陥ったのではないのか」
ということに対する「むしろ正しい」とする「弁明」の論拠・根拠を

あらかじめ防衛線として張って
がむしゃらに前進するための糧としたにすぎないほどの価値になる。

本質的には払拭しきれない矛盾も抱えている。

そこで、より抽象度の高い
俯瞰の見方が必要になるのではないか。

自我の執着の解決が、本来仏法の方向でもある。

「こういう時だから、こういう方法でやれば
自我を貫き通せる」という一面だけでは
自我の執着の本質の、素直な解決策ではない。

それは過去から未来への視点だけであって
未来から過去への視点が欠けているのである。

だから反転すれば
「個人が時に随って行う」のではなく
「時の全体性が縁に随ってもたらせる」のである。

より重要な本門の随縁真如の智である。

一切が脱落した「I am」という不変真如の理に対して
気づかせるための神仏の声としてもたらされているのである。

不変真如の理と随縁真如の智の
表裏・二者関係によって気づきが現象化するのである。

全ては必要な事として起こったし
起こっているし
起こっていくのである。

昨日が目標とした8月24日であるが
期待依存したような
期待依存されたようなものの
執着の帰結ではなく

「抽象度の階層に対する自由」への
当たり前の自然さの
同じ今ここの響き合いの光・振動、
三世のトリプルポイントの
<言葉で定義できない>としての
もたらされなのであった。



[839] 「従因至果」「従果向因」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月24日(木)02時24分15秒   通報   返信・引用

最後の方、ちょっと急ぎ気味で書いたので
一足飛びだった感がありますね。

経緯としてはyoutube動画で少し興味をもった
苫米地氏の、アマゾンで売れているらしい
「苫米地英人、宇宙を語る」を買ってみて
2/5ほど読み進めてみて

それは脳機能学者ゆえに深く精通していて
脳機能学者ゆえに突っ込みどころも満載と
思うんだけれども、その中で
「時間は未来から過去に流れているのは
今、哲学などではもはや常識」的な
「今回は、だから深くは触れないが
その前提で読み進めてほしい」的な内容があったので

思考実験、体感観察などをしてみて
瞬間の中に「これかな?」という感覚はあると確認できる。

たぶん、体感の次元と
思考概念の次元では落差は大きい。

今ここがプラスマイナス0の時間である時
認識される時間の流れがプラスの時間流として分離する時
その分離を経験する視座はマイナスの時間流としてあり
そのプラスとマイナスが不二として今ここの空相がある。
これは同時に、実相というものが何であるかということでもある。
これは意識の使い方の、技術・覚知であり
思考概念とは異なる「体感」である。

コップが割れるという事が起こったら元には戻らない
これを不可逆的と言い、人間の認識世界のスケールの事象は
多くは不可逆的に見え、時間は一方通行のように見える。
それを全体の常識とするところに人我の決めつけがある。

極大、極小の世界、時空の伸び縮み・星の軌道・素粒子の振る舞い等々は
逆回しすれば、同じ法則の下で、逆の経路をたどっていく可逆的であり
時間の正負は意味を成さない領域がある。

これは「在り方」を言っていて中立的。

さて「思考概念」ですが
思考概念だからダメというものではなく語ります。

将棋のコンピュータープログラムで言うと
まずは基本ルールのプログラムだね
棒銀戦法を覚えさせたら強くなるかな?
中飛車を覚えさせたら強くなるかな?
王手飛車取りのチャンスを逃さなければ強くなるかな?
詰将棋のパターンを覚えさせたら強くなるかな?
という因を積み重ねていって果につなげていこうという
「従因至果」というのが過去から未来ということ。

王を詰ませるという大前提
有利な局面に達するという中前提
有利に進めるための戦法を取るという小前提
その中でトライ&エラーで逆算するという
「従果向因」の行動体が未来から過去ということ。

勝利からの逆算
勝っているという確信が先にある
成仏が確定しているという確信が先にある。

そうすると「今ここ」の捉え方が反転する。

<宿坊>『法華経の智慧』から『御書の世界』へ  投稿者:多様性万歳
http://6027.teacup.com/situation/bbs/36064

「気づき」「体感」とは何も行動しなくなるのではなく
行動の全てが歓喜というベースによってなされる
そのトリプルポイントであってこそとも言える。

「従因至果」「従果向因」というのが
小難しいただの論理で、実生活に役には立たないと思うなかれ。

「子育て」というところに落とし込んでいるブログがヒットしました。
<森へ行こう(心とからだと子育てと)>
「考え方を学ぶ」(従因向果 従果向因)
https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201612250000/

「苫米地英人、宇宙を語る」では
極小のビッグバンの宇宙は
エントロピーが極大になるというような話を
脳機能学を軸に語られている。

それはそれとして
「今ここ」に「未来からの視座」と「過去からの経験」があり
一心がそれらを「場」の上に涌出させている。

「脳の場のクセ」「場の在り方の違い」があるだけと反転してみれば
「視座」も「経験」も実在ではなく無いとも言える。

無いかといえば有るし
有るかと言えば無い。

そういう「空」である。

宗教的思考概念としては
指摘の記事<時間は未来から過去に流れるという話>
によってみられるところからの
密教と日蓮仏法の
在り方同士の在り方は
曼荼羅本尊や一生成仏にも関わる問題でもある。



[838] 因果同時

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月23日(水)16時33分6秒   通報   返信・引用

ご紹介に時間が過去に流れるやつ見ました(^O^)

こんがらがりましたが結局いまが結果であり因でもあるみたいな?

今"だけってことですね(^.^)



[837] 階層 悟りの階梯

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月23日(水)12時46分57秒   通報   返信・引用

物質的宇宙というのは
人間が仮に受諾・創造している
超弦理論的世界の法則の約4千万パターンと比べて
6パターンの整合世界。(仮諦)

数え尽くすことが出来ないということの
象徴的例題は巡回セールスマン問題
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47988

というものがある。

仮に30都市を最短で巡回するための計算をしようとすると
しらみつぶしに4.42×10の30乗通りを比較することになり
計算速度10テラフロップスで25京年かかる。
(「プレステ4」は1.84テラフロップス、地球シミュレーターは35.86テラフロップス)

量子コンピューターというのが期待されているのは
そういった複雑な計算に対して
途中のしらみつぶしをすっ飛ばして
エネルギー状態の調和として瞬間的に解を求められるから。
(素人理解かも?)

人間が普段、やるしかなくてやっている生活は
そういった複雑性に対して
最適解とはいかなくても
経験を通してそれなりの解を実行していくこと。

個々人の仕事・趣味・生活にしても
そのトライ&エラーによって成熟していくし

様々な分野において
叡智の積み重ね、
継承・発展がある。

だから、本格的に実用的な量子コンピュータが
まだ実現しないということをもって

例えば将棋のような複雑なゲームにおいては
そう簡単にコンピュータが
人間の優位性を越えることは無いだろうと考えられていた。

しかし、AIというものが
それをあっけなく覆す。

<youtube>2017年 NHKスペシャル ~人口知能 天使か悪魔か2017年 羽生善治~
https://www.youtube.com/watch?v=OIrJ4pzs5c8

将棋は二次元+時間のゲーム。
9マス×9マス×手数。

この限定性に対する
パターンの経験において
コンピュータが人間を圧倒していく。

AIが経験を獲得し積み重ねていくものである以上
人間が数局やる間にAI同士の数千数万局を経験し
圧倒していく。

ここでAIは、膨大な経験があるから強く
どういった考え方・理論で勝つのか、なぜその手が強いのか
AIを作ったプログラマーにも分からない。

AIの打つ手は時に、あっと驚く独創的なものでもある。
AIは最後の勝利への道筋があるだけで途中の執着がない。

つまり、示し顕せる論理の無い法空と
執着がない無我によって
今ここに対する最適の智慧を発揮する

階層の違いに対する無抵抗受容の一実相である。

より大きなものへ還元されることは死であり
限定的な意味をもって存在することは生である。

<宿坊>生命の不思議  投稿者:一人のSGI
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73350
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73351
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73352
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73353
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73354
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73355
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73356

普通、死とは何だろうと
生の側から死の側を考えることはあっても
逆は無いように思うが

それは、6パターン整合性の認識後の世界に
意味を添加する試みであって
死はこの6パターンに限定されない。

認識する前には生死は不二であり
死の側から生の側を見る時に智慧となる。

この時、時間はどちらに向かって流れているだろうか?

<時間は未来から過去に流れるという話>
http://bloom.at.webry.info/201105/article_2.html



[836] 仏法の勝負

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月21日(月)12時27分15秒   通報   返信・引用   編集済

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」(四条金吾殿御返事、1165頁)
何にでも勝つことじゃなくって
仏法の本当の勝負所に勝つために
平時の信行学がある。

成仏を開くか否か
「迷い」に住するか「悟り」に住するか。

それは形式ではなく
響き合いの中にある。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73297

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」
というのが何に対応しているかを見ると

「王法と申すは賞罰を本とせり」であり
「故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」です。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51784.html

功徳だ罰だと言っているものが
はたしてどちらの性質のものであるのか。

少なくとも近年の執行部の
「池田先生との響き合い」への排除
である改竄や意向の無視
教義変更や査問活動

あるいは政党の支援中心の活動
しかも与党の強引さに加担というもの自体
王法活動団体になっている。

王仏冥合なんて言葉が
ずいぶんと都合よく解釈されているのだろう。

そんな言葉一つで仏法が負けていれば

言葉巧みに自在にしようという力に負けて
とても世雄なんて呼べやしない。

口先と本質が違っている。
それはダブルバインドであり
それに対して真面目であろうとして
抱え込んでしまえば

心を病んでしまうのは
それは当然にあることだ。
http://thoughtsandlife21.hatenablog.com/entry/2017/08/21/080049

それは気づくためのシグナルのはずなのに

「心の弱さだ」なんて一蹴して排除する。

だから深刻化する。
その深刻化している事にも気づけない、あるいは無視する。

口先と本質が違うことへの本格的な改革
それに手を付けようとするとしたら

誰にどんな風に賞讃され
どういったところの機嫌を損ねて罰せられるか

そんな賞罰を本としている人種が
信濃町学会本部を動かしている。

そのおかしさに声を上げて
賞罰をちらつかされても
実施されても屈せず

声を上げている人間もいる。

その主張や手段は様々かもしれないが
俯瞰によって視座を上昇させ

仏法の世界を雄弁に語るのだ。

なぜ「正しい仏法」と信じられるもののはずなのに
これほど多くの人たちが多く苦しまなければならないのか。
自分で選んで入信した者だけではなく
親が入信していて、素直に信じて
何かおかしさを抱えて病んでいる子供も多い。

口先と本質が違うことを平気でやり押し付け
省みず人を傷つけることが強さと言うなら
そんな強さはいらない。

それが我見と言うなら私は我見で十分だ。

何が勝つことが民衆の勝利であるのか。

私たちは!勝とう!



[835] 生命現象として見る

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月19日(土)11時53分8秒   通報   返信・引用

しかし書いてみて逆に気づいてみると

ーーこれはただ誰に向けているのでもない言葉であり
ただその時そう見える記号であり
それに対してどういう感情が起こるかは
一切自身の問題であり

問題が有るということに気づけるのならばむしろ
「ありがたい」とも受け取れるものである。

<かんながら>お悩み専用スペース
http://abetoshiro.jp/archives/3305993.html

↑これもクッションです。

「自負する」という言葉があるが
自負する必要ってあるのだろうか?

「私は〇〇だと自負している」
これって分離宣言とも言える。

大石寺から分離した宗教団体は創価学会だけではなく
その分離の元凶は
大御本尊を中心とした戒壇思想にあるのではないか?

顕正会なんて顕著ですよね。

アブラハムの宗教と言われる
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教

共通の聖地であるエルサレムは争いの種であり
「国際管理地区」として国連に管理されている。
http://honkaramanabu.seesaa.net/article/446280668.html

下種の日蓮仏法と言っても
南無妙法蓮華経と唱える宗教が
どれぐらい枝分かれをしているかを見れば

その下種というものは
自負というものとは別の何かでないと

平和にはつながらないのではないか?

どの仏教宗派にも
基本的には仏の真髄は自分のところにあると
自負して開かれている事だろう。

「悟りの生命現象は同じ」ということによって
自負の解除をすることが
平和へと繋がらないだろうか?

最も意味を持たないシンボルというのは
そういう方向性を持ちえないだろうか?

生命現象として見る。

<イマジン・ハッピー・ライフ>法華経唱題による徹底的な生活実践指導
http://imagine-happy-life.tokyo/blogs/post/24

御本尊への勤行唱題が正しいっていう自負の思い込み信じ込みではなく
生命現象として見てみる。

俯瞰しなければ戦争は無くならないのです。

<youtube>Why war won't over?なぜ戦争がなくならない?02
https://www.youtube.com/watch?v=8ZxIkcUO6P0

最も正しいと思うものによって
むしろ分離していく。

日蓮大聖人・大御本尊
正宗教学・学会教学
戸田先生の指導・池田先生の指導

いかに愚考の歴史であり
それを生み出しているものは何かである。

後世の一心の愚考なのである。
固定化された絶対な特別というものを分離する愚行である。

分離させて持ち逃げすれば溝は埋まらない。
そもそもそれを生み出したのはその行為だ。

最も意味を持たないシンボル。
所有者のいないシンボル。

体感によって
その高い抽象度を
歓喜のエネルギーとするのだ。



[834] 涅槃

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月19日(土)00時10分28秒   通報   返信・引用   編集済

未練や執着が有ったら涅槃じゃない。
でも、涅槃でも願いや慈悲はある。
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
との通り。

つまり仏性(非二元)の上での願いというものは
未練や執着とは全く異質のものである。

きれいさっぱり未練も執着もない上で

何者も今以上になるということは無いし
何者も「今ここ」「これ」以上のものを得ることは無いと
完全に受容している上で

すでに比較すべきものの何も無い
一即全、全即一の
ただ慈悲、ただ願い、ただ智慧だ。

それはその時、完全に成就されている。

本仏というならそういうことであり
「日蓮大聖人」というのは
最も意味を持たないシンボル
というのは
その境智を褒め称えればこそである。

仏性(非二元)というものは
解除・解放・開放によってあるのだ。

自我機能の囚われが無明であり
気づきによる実存が法性なのである。

同じ御本尊を信じても
自我機能による決めつけが介在する分だけ
無明に覆われているのである。

誰の問題でもなく自身の問題である。

大御本尊はここにある。

むろん思考概念のレベルや
未練や執着のレベルで言っても
それは違うだろうし

必ずしも「大御本尊」なのかどうかは
その実在に対しての
その人の信心によるかもしれないが

私がこの掲示板で言う分には少なくとも
「大御本尊」なのである。

「最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
https://plaza.rakuten.co.jp/anboclub/diary/201008300013/
(随筆「我らの勝利の大道」20)

ただ雨は降り
ただ声は響き
ただ熱は迸り

それはいささかも変わることなく
まさに今ここなのだ。

学会員が何を誇り
学会員が何に奮起し
学会員が何に怒り
学会員が何を柱として
歴史を刻んだのか。

堂々と歴史を語れない欺瞞の組織になるためだったのか。

悟りとは言っても
そういう思いに蓋をすることによるものでは無いのだ。

編集追加<Care of the Soul>投影~思考は現実化しない♪~
https://ayukablog.wordpress.com/2017/08/13/投影~思考は現実化しない♪~/

押し殺したり単純に忘れたりすることと
解除・解放・開放は違う。

本当に晴れやかに
きれいさっぱりとなるまで
最後までやりきる。

いまさらやめてはだめなのだ。

自身の本質はシンプルなはずである。

複雑になっているのは知らず知らず言い訳であり
ごまかしである。

自身は今ここにしかいないし
本質はどの時もこの時も一切変わらず
「今ここ」というものしか無いのである。

ここに一切が含まれて
これが一切である。

この事実だけが事実であり
誰も逃れることは出来ない。

これ以上のものも
これ以下のものも無い。

一心が世界を地獄にも
一心が世界を仏国土にもするのである。

どの如是の面
どの世間に対してもである。

心王というものは
一人一宇宙
一人一宗
一人一本仏でもあるのだ。

不二なのだ。



[833] そもそも宗教

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月17日(木)03時17分10秒   通報   返信・引用

エネルギーは高いところから
低いところに向かって流れる。

会長から会員の方向。
御本尊から信仰者の方向。

でも、それだけだと縦社会ですよね。
平等的な仏法じゃない。

空という状態から正邪を見出す
その分離過程にエネルギーが生じる。

非二元から二者関係が生じる
そこにエネルギーが生まれる。

初めからガチガチに分離した自分であれば
そこにはエネルギーは生じないわけだ。

自己をエネルギーの高い
一心の三智の状態にするから
そこから何か行動をする時に
それがエネルギーとして放出する。

それを実現させたのが
戸田先生であり池田先生だ。

その次元を継げるものがいるのか?

本質として今、何が現象化しているのか?

大御本尊をキープできるだけの
空の体感の後継者がいなくなっている
という正法としての存続問題だ。

言葉であれ人であれ組織であれ対象物であれ
そのものが、そのものとして
絶対であることが無い事は

そもそもそれが仏法だ。

苫米地英人氏の動画が
これはなかなか面白い。

うん、まぁ、これは、
見てどうかは、自己責任だけどね。

アルベア論のぷるぷる気功の張永祥先生とも絡んでいるみたい。
<アマゾン>ドクター苫米地&神の手氣功師「すごい氣が出るDVDブック」

だから信用性が有るという話しではないのだけれど。

<youtube>苫米地博士による『人はなぜ、宗教にハマるのか?』紹介動画
<youtube>苫米地博士が語る「気功の科学」 【苫米地英人×長倉顕太】
<youtube>【苫米地英人VSダイゴ】宗教と超能力との関係とは?

<youtube>【悪用厳禁!】苫米地英人「一瞬で相手をひとめ惚れさせる方法」
一瞬で相手をひとめ惚れさせる方法自体より、前半の話が、面白い。
方法自体はね、悪いことに使ったら還著於本人だと思いますよ。
話しの中でも出てくるけど、今世を越えた血脈まで信じさせる手法でさえありうるってことだね。
思い込み信じ込みへの介入の技術。
次元は違っても、創価学会という宗教団体が
そういった類の技術を一切使っていないかと言うと
善悪の判断はおいておいて、無くはないでしょう。
いやむしろ、臨場感があればこそ力ある宗教でありうる面が有るしね。
善悪無記。ただある。



[832] ざっくり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月15日(火)23時37分32秒   通報   返信・引用

神秘体験→自己機能
教学との整合性→自我機能
在り方の変容→意識機能

発迹顕本→受信すべきものと発信すべきものの表裏

大御本尊→仮和合のシンボル

妙法→空を包摂する一心の三智

//一個宗教団体としての物語の塊

縁起の法→エントロピー型のゲシュタルト
空→最も情報を持たない一つ
(人間>霊長類>哺乳類>動物>生物>依正不二>ただ在る>有無に非ずという空)

空を包摂する妙法の大御本尊というシンボルを中心とした
中心に近いほど強い意味を持つエントロピー型のゲシュタルト

ここに神秘体験という自己機能が重ねられることによって
分離された神話世界でなく現実の上に展開する妙法

だが、そういう「思考概念」に偏ると内実が無くなる。

//

例えば、平行線をたどる二つの宗教があって
そこに一つの切り口で直線を引いてみると
そこに現れる角度は同じになる。

生命論の空観と
道元の生命観は

同じ「仏法」に対して
同じ「空」で切り口を入れるので
そこに現れる「角度」は同じである。

日蓮大聖人は様々な経典を
都合よく使っているようにも見ることが出来るが
何と何が同じであるかの指し示しと見れば
その全体像の包摂だとも見れる。

その包摂は
「日蓮大聖人の」己心の法をベースとして成されている。

この「日蓮大聖人の」という括りをどう見るかが
信仰者の在り方を左右するところとなる。

教義というものはえてして
指さされている太陽そのものではなく
さしている指を研究してありがたがる。

その超克のための自己機能の体感であり
他宗に対する批判が
自宗に対しても超克として現れなければ
それはただ、歪んだ偏頗な「指」になる。

歪んで正しい方向さえ示していない指。

ただ衆生を迷わせるだけである。

//

思い込みと信じ込みを分けてみると

思い込みとは
自分がどういう価値基準であるかを決めつけること

信じ込みとは
属している集団の価値基準が正しいと決めつけること

相互に強化される。
例えば、「信仰なんだからこれが当然だ」
という風にだ。

だが、釈尊・龍樹・日蓮らがした本質が
そういう在り方の否定だとしたらどうだろう?

信じれば信じるほど遠ざかる何かが
同じ一つの事の捉え方の中に生まれ得る。

だからある意味
戸田先生は空の覚知へ導こうとしたところもあるが
その空観が定着しなかった時点で
大乗仏教としては失敗だという一面もある。

しかし、池田先生が各方面
様々な識者たちと語り合ったことなどで
チャンスが残されている。

普遍性を開く道が残されている。

普遍性のために仮に考えてみると
「日蓮大聖人」というのは
最も意味を持たないシンボルとして
意味を持つ信仰である。

南無妙法蓮華経として一切が平等の
無限の価値の信仰である。

もちろんそれだって
思考概念であっては同じである。

いずれにしても
自我機能・自己機能・意識機能の見分け・区分けというものが成されなければ、ただただズルズルと終わるだけである。

<youtube>苫米地英人「仏教・釈迦の悟りの内容とは?」/博士の自由な対談 (映像版) [ 2010年6月17日 ]
https://www.youtube.com/watch?v=t9HqpMAtU9Q
↑般若心経のくだりは、阿羅漢果の特別性の否定に大乗仏教運動があるんだから、そこをつっこんでもしかたないだろうというつっこみを、つい思考概念で入れたくなるが、まぁ、一つの思考概念として、説明されているものではある。
今回の記事で、一部、この動画の縁起の概念と空の概念を採用している。

<youtube>【5金スペシャル・Part2】矢作直樹氏:霊魂と肉体: あの世とこの世を分かつもの
https://www.youtube.com/watch?v=z6bjgNLYCjY#t=2302.657542
へぇ、スピリチャル勉強してるんだ、って感じです。東京大学名誉教授という肩書で堂々と語っている。近年の一部学会員の、ちょっとでもオカルトの気が有るものを拒絶する姿勢と比べて、どちらがより生命に対して真摯な態度であるかということだ。

<youtube>価値基準と無限の価値の無意味の非二元の話
https://www.youtube.com/watch?v=iKhNuV7e-9s
作ってみた動画だ。思い込みと信じ込みの違いの気づきはここから。アウトプットの時にもたらされるものは多い。

<youtube>Fermat's Last Theorem: フェルマーの最終定理
https://www.youtube.com/watch?v=se7s17x39eA
以前にも紹介したことがあるかとも思うが、数学ミステリー白熱教室よりである。より高い次元から見た「同じ」の模索の可能性。



[831] 昔からある場所

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月14日(月)01時13分36秒   通報   返信・引用

言葉は不便だ。
言葉は思考だからだ。

言葉は便利だ。
言葉は指し示しであり現れだからだ。

不可思議という言葉は
不可思議そのものではない。

不可思議があるということを示しているにすぎない。

考えることが出来ないものの覚知に
一体どれだけ言葉を重ねることに意味があるだろうか?

考える自分があるという風に
考えによって自分を考える自分があるという時

考えている自分を考えることが出来るということは
その時それは考えられているのであって考えているのではない。

自分というものは考えによって考え出されているにすぎない。

何も、何の違いも知らず何の言葉も持たない時には
あなたはただ訪れる現象だ。

例えば数学であれば
全ての自然数の和=-1/12
全ての素数の積=4π^2
といった一見、通常には理解出来ないような式も
論理的に突き詰めて理解されるべきものである。

ところが覚者によって
「これ」「今ここ」「妙法」等と言われるものの本質は
本当の不可思議の気づきそのものであって論理では無いのだ。

その本質は何の救いもなく
完全な救済である。

宗教やスピリチャルや哲学は
それを思考で理解しなければ
それになれないわけではなく

もしかしたらあるいは
何の予備知識もなくその本質に気づいてしまったら
あまりにもいたたまれないから
指し示し導くと同時に
はじめから緩和するための嘘としてあるのかもしれない。

方便というやつである。

説明できる何かのためではなく
不可思議のためのそれなので
それを分析しても
それの現れではあっても
そこにはそれは無い。

本質は初めから救われている。
救われておらずいたたまれないのは
マインドであり自我機能である。

しかしそれは解放され救済されるのである。

自我機能・自己機能・意識機能の区分けによって
スムーズに救済されるのである。

最初はそういうスタートなのだ。

後世の人間の思考概念が
あーだこーだとややこしくして
選民気取り・選別者気取りで
一向に救済が無くなっているのである。

ただあることに
あってみなさいということである。

何を考え出さなくても
初めからそれであることを思い出すために
ただ一心が有るということに
考えを付け足さずに素直に向かうのである。

誰の言葉だからどうだなんてことは
そこで考える必要はない。

自身があるだけだ。

我見を恐れる?
誰の言葉を信じるかの選択も我見だし
自分一人で判断するのが我見だというのも我見だ。

我見を捨てるというなら
一切のマインドのおしゃべりから離れることだ。

その時そこに、どんな感じがあるのか
味わうのだ。

忘れられていた自分自身を思い出して
受け入れて、味わうのだ。

その本質は、深く味わえば
自分(だと思っていたもの)だけのものでは無いのだ。

だからその本質の味わいこそが
本当に我見ではないものである。

それまで自我機能であった時には
全く余所ごとの物語であったり
全く空虚な言葉にすぎなかったものが

それらが本質の体感であることに反転する。

ああ、全くその通りなのだ。

仏の言葉は、神の言葉は
全くその通りに
ここにあふれているのである。

<youtube>エックハルト・トール
https://www.youtube.com/watch?v=aKlIBhTkHSw
https://www.youtube.com/watch?v=iWJyabSgaKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VUHzA67Teck
https://www.youtube.com/watch?v=VWV6-hFNuKw
https://www.youtube.com/watch?v=uAthYt7zUUk

律動法1.スワイショウ
<youtube>【実演】究極の朝の運動Ⅰ【両手振り運動】
https://www.youtube.com/watch?v=N16QwFFjcT8

2.プルプル気功
【究極の朝の運動Ⅱ】実践編ぷるぷる運動
https://www.youtube.com/watch?v=P-4SXh6tCb4

3.火の呼吸
瞑想 カパラバティで心地よく ~毎朝ヨガ習慣~
https://www.youtube.com/watch?v=BuGPJakuJLg
ヨガ動画 (2-1) :カパーラバーティ呼吸法
https://www.youtube.com/watch?v=_EuTE7QQAPU

4.スワイショウ

イメージ
生命現象~ゴールデンワールド~
https://www.youtube.com/watch?v=NfdgKZ7HR4U

気分転換<youtube>Hello, Again ~昔からある場所~ - MY LITTLE LOVER(フル)
https://www.youtube.com/watch?v=ULnypfsI4og



[830] 五百塵点劫

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月11日(金)15時18分55秒   通報   返信・引用

三次元+時間というのは
認識後の固定化の相対的世界である。

幅と奥行きが入れ替わったとしても
高さと奥行きが入れ替わったとしても
歴史は対称性から外れない。

だが、時間と奥行きが入れ替わったら
それは、この認識の物語は塗り変わってしまう。

時空の入れ替わりのパターン
1×2×3×4で24パターンの内

1×2×3の6パターンだけが
認識後の物語においても対称性を保つ。

三次元と時間に一貫している光速においては
時間経過はなく距離だけが存在するので

光速にとっては24パターン全てが
物語の無い対称性を保っている宇宙になる。

超弦理論の11次元の入れ替えパターンは
1×2×3×4×5×6×7×8×9×10×11で
約4千万(39916800)パターンになる。

先ほどの光速不変の24パターンは
この約4千万パターンの内にある。

この約4千万パターンの中には
光速を超えた伝達があるという
光速の法則が破れる量子力学的世界もある。

約4千万パターンの入れ替えで対称性を保つためには
超弦理論的世界の法則である必要がある。

シュレディンガーの猫に言われる
観察されて初めてあることがある
量子力学的世界も含まれる宇宙である。

つまりこの約4千万パターンの入れ替えで対称性を保つ宇宙は
有るのでもあり無いのでもある真理の宇宙である。

約4千万パターンの内の一つである
人間にとって正規の認識後の宇宙に
一念三千を観じ、三千通りの現れと見る。

約4千万パターンのそれぞれにも三千通りの現れを見れば
約4千万×三千で1200億通りになる。

この1200億通りが瞬間瞬間であり
1200億×1200億×1200億×・・・
というフラクタルが展開する。

さて、あなたは
この全てのパターンを一つ一つ読み上げ尽くすことが
出来るだろうかどうだろうか?

その、することが出来ないことが
されているのがこの宇宙である。

「今ここ」である。

光速の法則で時間の前後は無くなり
量子力学においてはその距離も無くなり逆行もあり
有るのでもなく無いのでもない。

例えば素数が無限にあることは
分かっている素数を全て掛け合わせ
1を足してみると、
まだ分かっていない素数を見つけないと
因数分解できないので
それはどこまでいっても終わらなく無限である。

無限でありながら
一つでもあり
無でもある。

実際に読み上げられている一つ一つの経験が
一念三千である。

それは差異があるということの強調ではなく

認識後だけに固定化されているような差異は
本当の真実からすれば
取るに足りないということである。

このように非二元の知見というものは
認識後の思考による見方とは異なるのである。

1200億×1200億×1200億×・・・
そのどれもが、対象化されるから認識されるものであり
純粋な気づいている意識ではない。

気づいている意識であるということは
誰にとっても間違いなく当たり前であり

認識後からして当たり前で無いのは
この気づいている意識は
何が所有しているものでもなく
所有者がいないということである。

完璧なものは無いということは
全ては完全であるということでもある。

全てのパターンは
ただあるのである。

非二元が死ぬということは無い。

不死を得る。

ただ、そのままでは観念論である。

現実にそれを現象化・技化する智慧が必要になる。

そのための物語や方便がある。

<無限の宇宙>仏陀の悟り
http://amurita.upgrade12.net/2014/01/budda/

↑なんだか笑ってしまうところもあるが
そういうパラレルな中現界の物語も
1200億パターンのうちの一つなのだろうきっと(笑)



[829] 人生いろいろ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月10日(木)06時09分4秒   通報   返信・引用

身なりさん、いつもどうもです。
必要が起きて生かされている。
全部がそうですね。

優れた作家が偉大な人格の持ち主とは限らない。
優れた数学者が冷静な客観視の持ち主とは限らない。
崇高な伝道師、教師でも人間であるときは何をするかはわからない。

数学者の例、

<youtube>3-2. 五次方程式が代数的に解けないわけ
https://www.youtube.com/watch?v=qwYyXtttns0
最初に数学者ガロアの紹介があります。

彼の物語を近年のラノベタイトル風にすると
「私の論文が通らないのは
どう考えても
こくおうが悪い!」だそうです。

私もある意味、
「私の論文が通らないのは
どう考えても
執行部が悪い!」
ということから始まっている部分もある。

「さとり」に関して言うと極端な話
オウム真理教の麻原彰晃が学んだという
ダンテス・ダイジの書籍を見ると
他の悟りを求める方法と比較して外れてはいない。
魅力的ですらある。

オウム真理教があれだけの事件を起こしておきながら
アレフとして存続する信者とは何なのか。

でも立場を変えればもしかしたら
平和思想をこれだけ反故にされておきながら
未だ公明党の支持を止めない学会員の方がおかしいのかもしれない。

物事の見方というのはそれぞれだ。
でもそれだけを言うと、何も始まらないので

そのためのアルベア論
そのための法華経
そのための日蓮仏法
そのための池田先生の指導

それの用い方がある。

最初で最後は「自身の選択」である。

さて、ちょっと俯瞰。
<wiki>宗教一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E4%B8%80%E8%A6%A7

その全ての覚者は「これ(久遠元初)」を師として悟りを得た。

ここで久遠元初とは「今ここ」の最初の二者関係だ。
最初の気づき、気づいている意識だ。
非二元から、最初の選択なのだ。

「師弟」「主従」「親子」
その最初の選択なのである。

選択によって重きが変わり
思考概念によって歪曲し固定化し閉塞する。

主に仕えることがメインの宗教か
親孝行のような義を重んじる宗教か
師弟の伝達による宗教か。

大元を尋ねれば一つなのだ。

包摂として見るならば、その全部・全体である。

たとえ無宗教という主張であれ
どんなとんでも宗教であれ
この存在の気づきである以上
何者もこれ以外にない。

個別としての絶対完璧は無いけれども
指し示す促しは「これ」なのだ。

どれだけ「これ」そのものかということには
脱個別ということになり

そこにおいて私はいないのである。

まぁ、難しいことは分からなくとも
大笑いできる日がある今を
楽しんでいきましょう。



[828] 蘇生さんへ追伸

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月 9日(水)22時14分1秒   通報   返信・引用

ご無沙汰してます
がたまに覗いて全記事読ませてもらってます。

伝道師パラマハンサ・ヨガナンダ

記憶が定かなら彼も晩秋を汚していた気がします。
その手の話は多いみたいで、嫉妬によるデマかもしれませんが、もし本当でもそれはそれで面白いですね

どんなに崇高な伝道師、教師でも人間であるときは何をするかはわからない
自我機能のエラーなんでしょうかねぇ
しゃばでは何でもありですね(^O^)

それでは陰ながら投稿楽しみにしてます。
またお邪魔します。

サイヤさんもお久しぶりです。
掲示板解放ありがとうございます。
平凡な生活の楽しみの一つにさせてもらってます。



[827] 必要な人しか目の前にいない

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月 9日(水)22時03分42秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは
清潔な身なりです

歳をとる度に環境が変わりまわりの人たちも変化していきます。

よくよく考えるとその時々で不可欠な人ばかり

今もそう
好きなひと嫌いなひと苦手な人と相手に抱く感情は違えど、どうやら今の私に必要な人ばかりのようです

うまく言えないですが好きな人といるとストレスが発散される感じで、嫌いな人といると考えさせられ自分を省みることができるし、苦手な人と接すると単純に鍛えられます。

なんだかんだで今日も笑えたし、まとめて私なんでしょうね
題目が上がらないときはそれさえも必要な流れで、しばらくするとご本尊の前から離れなくなったり
そんな凸凹があっても笑ってるんで上手くいってるんでしょうね

きっと 明日も大笑いしますよ

なにせ娘と夜釣りの予定ですから(^O^)


レンタル掲示板
813件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.