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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


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[818] 日蓮と同意

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月25日(火)04時46分59秒   通報   返信・引用   編集済

「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
これは大石寺教学、学会教学にとって文証である。

諸法実相抄の一文である。

日蓮大聖人が生きていた時であるならば
同意であるかどうかの呼吸はそこにあるだろう。

生きていた日蓮大聖人と交流があった者にとって
あえて日蓮大聖人を本仏と呼ぶこともない。

しかし滅後においてそれは本覚の反転の作為になる。

本覚を約束されたいならば
日蓮の教えに信伏随従しなさいという偶像崇拝化である。

本覚を美辞麗句化し、利用し、二項対立化して
本覚を謳いながらその体も用も具わっていない教団となる。

それは、諸法実相抄を肯定する側にも
否定する側にも影響をもたらし思考概念化し
結果、日蓮系教団において誰も悟りが解らないという
ダブルバインドの現象化をする。

だから、滅後においては逆説的に
地涌の菩薩の実際の体感覚知を了解することが
御本仏日蓮大聖人を自身の内に呼び起こすことになる。

これが理証である。

つまるところ
戸田先生の獄中の悟達が、その現証なのだ。

「だから、創価学会が正しい」と言うのでは
それはまた偶像崇拝化の危険性が高い。

事実、体感覚知のある池田先生が公の場に姿を現さなくなって
わずか数年のうちに現象化している。

地涌の菩薩とは何だろうか?

方便品で如我等無異「我が如く等しくして異なること無からしめん」
という始覚の仏の誓願に

見宝塔品で六難九易が説かれるも
勧持品で三類の強敵が現れようともと
疑いを起こさなかった迹化の菩薩が

涌出品でまるで仏の姿そのものの
無数の立派な菩薩の登場に度肝を抜き
動執生疑を起こす。

寿量品で久遠が明かされる。

久遠実成の釈尊に久遠の自覚があるのはもちろんだが
当然のこととして久遠から教化された地涌の菩薩にも久遠の自覚があるだろう。

久遠とは、思考においてはどこまで考えても
辿り着くことの無い、認識の前の今ここである。

そこは非二元という真如であり
そこには「I am」という真我があり
世界(三世十方)になる前の等しさがあり
三千の異なりと一念という無の瞬間のそのままである。

「仏とは生命」とは
このことの戸田先生の志向性の表現である。

久遠の自覚了解である。

法華経の非二元が了解されれば
日蓮と同意なのである。

それは仏界即九界、九界即仏界であり
始覚の迹化ではなく久遠の本化であり
南無妙法蓮華経である。

法華経の智慧158
日有の教学思想の諸問題(4)(宮田幸一)




[817] 求道心と四仏知見

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月24日(月)03時27分30秒   通報   返信・引用

<大白法・平成9年4月16日刊(第476号より転載)教学用語解説(26)>四仏知見
http://tidouji.la.coocan.jp/yougo/4/476a.html

「求」を「開」けば「示」になるという
二者関係の反転になる。

「道」に「入」れば「悟」になるという
二者関係の脱落の不二になる。

「求」は受信、インプット「示」は発信、アウトプット
「開」とは電磁的な気づき現象

また「求」は弟子「示」は師匠
「開」とは胸中に開く十法界の本尊

「道」とは中道、道理に中(あた)る生かされている今ここ
「悟」とは非二元、空の自性の「I am」
「入」とは即仮に入観している。

また「道」とは無上道、未曽有の極まるところの無い法
「悟」とは不可思議、不可説を妙観する智慧
「入」とは気づくためのリアリティという慈悲。対象としての事象、法華経、大御本尊。

「心」に「仏知見」を「識」らせるという
九識心王真如の開示悟入が始覚諸仏の出世の本懐。

「一心」の「仏識三身(妙法蓮華経)」の「観(I am)」の
久遠九界即久遠仏界、久遠仏界即久遠九界、
体解即観心、観心即体解の正法十法界一念三千が南無妙法蓮華経。

世々間々は一心の道のパラレルワールドであり
瞬間の三千は非時非処非想という有無の同時の量子力学的振る舞いであり

人間人間は衆生世間衆生世間であり
その世々間々も一心の三諦である。

世間の十如是が十界互具であり
少しでも不完全のあるものを握りしめ囚われれば
累乗的に矮小化し対立化する。

無疑の受容の「信」という受信アンテナを
一仏乗の大事の因縁の流れに広く開き
それを発信し宣べ示し球の布とする。

宇宙即我、我即宇宙の智慧の門、智慧チャンネル。

人我の見は人我の見に引きずられる。
内虚にして外事あるのみ。

思考概念を手放す。

その方途の律動法。

さっぱりとシンプルに
今ここの輝きがある。



[816] スイカ・スイカ・スイカ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月23日(日)03時05分0秒   通報   返信・引用

野菜か果物かは人間の側から見た
便宜的な概念で

スイカは野菜であろうとか
果物であろうとか
そういうことはせず
自然のままに
あるがままにある。

人間だけかもしれないですね
人間であるために
人間らしくあろうと努力をするのは。

「生命」とは何か?
「生き方」とは何か?

「仏教」とは何か?

例えば厳しい戒律を遵守し法と共にある高僧が
村々を巡回し、「ありがたや、ありがたや」と言われて
供養を受ける。

その高潔がその世界に秩序と道徳をもたらし
和合の安寧に満たされる。

それがそれとしてそうあり続けるなら
それも仏教だろう。

しかしてまず内部から
法と共にある高僧であろうとしすぎるがために
和合ではなく分離へと反転する。

あるいは外的要因
産業革命やグローバル化によって
時代の要請が変わる。

法は、高僧とだけ共にあるのではない。
大衆の中に、それまでに培われたものが
その一人ひとりの和合への在り方を問う

実際的な、生き方の運動になる。

和合とは何か?と問う時
それは「本来の生命とは何か?」であり
「本来の生き方とは何か?」であり

その諸法実相は十如是であり

即仮、即空、即中であり

即無始無終無量無辺である。

「仏とは生命なり」であるならば
当然、思考としては「生命とは何か?」を考える必要が出てくる。

「生命哲学」であり「生命論」である。

「禅問答みたいだ」ということを
邪宗的で必要のないことだという
俗創価思考がある場合があるが

ごく、浅い反応的思考概念であるならば
仏法志向ではなく俗志向なのである。

『みみずを二つに切った。両方動いているが仏性はどっちに行った?』
http://www.plinst.jp/musouan/aoyama04.html

これは道元禅師の正法眼蔵の公安である。

~「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」
これこそ永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。

不潔な拘置所にはシラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミはのこのこと遊びにはいだしてきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。
まず一匹をつぶしたが、他の一匹はそんなことにとんぢゃくなく動いている。

つぶされたシラミの生命は、いったいどこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか。
また、桜の木がある。あの枝を折って花びんにさしておいたら、やがてつぼみは花となり、
弱々しい若葉も開いてくる。

この桜の枝の生命と、もとの桜の木の生命とは別のものであるか、同じものであるのだろうか。
生命とはますます不可解のものである。~
http://nitiren21.blog.shinobi.jp/生命論 戸田城聖

一方これは創価の生命論です。

全く違う別々のことを言っていますか?
同じ生命の仏性のことを言っていませんか?

このことの覚知には「空」の覚知が必要なのです。
体感覚知、体解です。

~いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。

われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。

大宇宙の生命それ自体である。これを「空(くう)」というのである。「空」とは存在するといえば、その存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。

たとえていえば「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現して見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて、怒るという性分が現れてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。~

こういう説明に、思考概念で
分かったつもりになって何の役にも立たない。

道元禅師の正法眼蔵の公安のリンクのページの中に
~この『悉く仏性有り』という見方は、たとえばさくらんぼの中に種があるように、私の中に仏性の種と言う尊いものをもっているから、持ち主の私も尊い、というような考え方となり、切り口によっては尊くないところばかりになりかねないという一面もあります。~
とある。

創価の現状として
純粋に悪でしかない存在があり
その悪を切るという
そういう思考概念として現象化しているのではないか。

戸田先生の存命中は、獄中での体感知から
その空へ思考概念の結びつけをしながら
その思考概念からの脱却・昇華として
信仰の活動があり

そこに功徳があったのかもしれない。

その体感知の師弟不二を
わずか池田先生だけが昇華させた。

マグドナルド・ベイン「心身の神癒」を
感性の鋭い人が目を通せば分かるように
本質は宗教を越えてある。

そのことを戸田先生は
「日蓮をはじめ、釈尊、キリスト、マホメット(ムハンマド)といった宗教の創始者たちが一堂に会して『会議』を開けば、話は早いのだ」
と言ったが

池田先生は、それをもっと
本質的・実際的・実践的に対話の道を開いていった。
http://12393912.at.webry.info/201005/article_1.html

本質の響き合いです。
響き合い飛翔することを目指した。

鳴るべき音が鳴り重なり
奏でられるメロディーの飛翔。

その歓喜。

それはそれとし
律動法から導かれるものによって

まぁ、法華玄義なんてものは
こういうタイミングでもなければ
なんとなくすらも分からないものかもしれないし

色々と不思議なリズムです。

<宿坊>法華玄義・譚玄本序  投稿者:体長1.3mの巨大猫
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71994
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72033
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72053
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72074
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72109
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72138
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72166
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72193
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72235
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72286
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72335

気分転換<youtube>2人でハンドベル-butterfly(バタフライ-木村カエラ)
https://www.youtube.com/watch?v=fBx77fuX0YI

パチスロの絵柄にベル・スイカ・チェリーが多く使われる理由 ... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1043056670

この角度からも、スイカはフルーツの認識のようですね??

しかしスイカは野菜だという話もよく聞くし、
認識的にはそっちによってました。



[815] スイカは野菜か果物か

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 7月20日(木)17時28分54秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは
清潔な身なりです。

スイカは野菜か果物か

いまだに大真面目に論争があるようです。
どちらの意見ももっともだけども、決定打に欠けるようです。

うちの息子に訪ねると

昨日のスイカは果物だった
なぜなら甘かったから

だそうです。
もっともですね。

少なくとも息子にとって昨日のスイカは果物だった

これを 否定するのは無理のようです。

世の中こんなものみたいですね(^.^)



[814] 普賢に優劣無し

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月20日(木)13時14分5秒   通報   返信・引用   編集済

人間に優れているも劣っているも無い。
人間に優劣があるところは
一切衆生が等しく遊楽している所の
自受法楽ではない。

酒・金・女
地位・名誉・人脈
真・善・美

あるものはあるものとして
「ただ女房と酒うちのみて」

無いものは無いものとして
「世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。」

これがあるだけという
このままの真理を理解する賢さといっても

それは瞬間の在り方だけであって
そんな「賢さ」という自分が不変のものとして
在り続けることは無い。

善への心根も、美への感性も
同様である。

今どれだけ関心を持っているか
どれだけ「好き」でやっているのか。

誰かがやってくれるだろうといっても
そんな「誰か」は「仏眼」の上には存在していない。

「誰か」に期待依存している分だけ
「仏力」は閉ざされている。

「仏力」が閉ざされていれば
「法力」は劣化していく。

なぜ「法」が劣化していっているのかに気づけず
あれに期待し、これに依存し
ますます「仏」を見えなくしているのが
創価の現状である。

「好き」だから「真似をしてみる」
ここにおいてストーリーのある意図思惑であっては
結局、そこまでしか現象化しない。

意図思惑の無い
そこにおいて純粋さが開いていく。

自分の賢さではなく
普遍の賢さが開かれる。

東より太陽が昇り
光のエネルギーが届いていくと
世界そのものが無限に賢いという
感謝が輝いているのだ。

自分が賢くなろうとして握りしめてきたものを
手を放し普遍へと返していくのだ。

真実を失うことなく
思い続けることが消える。

思考することのスペックは限られている。
この限定性に個別の自分の物語を見ている。
これの容量や使い方が頭脳という自分の賢さで

法華経を締めくくる「普賢」とは区別される。

普賢とは、頭脳しない方、思わない方の
賢さなのである。

思いを消費しないことによって
この真実がこのままに真実なのである。

留めることなく
留めるものなく
留まるものない。

一瞬一瞬が、ただその在り方である。

囚われを外すのだという思考概念で
囚われは外れない。

頭脳という側は囚われである。
全ての事は普遍の側なのである。

ここへは一種、
言葉としてお題目を並べている。

律動法による「ビリビリ感」の
多角的観察の

瞬間瞬間の掘り起こしの
二者関係のための模索です。

思考することにあるのではなく
あることにあるのです。



[813] 都の月をば

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月16日(日)11時13分27秒   通報   返信・引用

「十方とは十界」ということは「道」ということです。

個々別々としては「道の先」に「目的」があり
「どの道をどのように行くか」に境界、違いがあるという
ストーリーの在り方です。

「六道」「四聖道」「八正道
「道を開く」「道を歩む」「道を修める」「道を継ぐ」

絶えず道に流れ通うのが血脈であり
未来にまで流れ通わせるのが広宣流布です。

世界とは
過去・現在・未来という三「世」に渡って
十方に十界という境「界」が在るという相です。

済度と言って渡され済んでも
世界は世界として三世十方の法界です。

此岸と彼岸は振り返れば同じという非二元です。
全ての道は今ここへ繋がっていて
全ての道は今ここから繋がっていて
全ての世界には今ここしか無くて
全ての今ここには特定の永遠無限の個別は無い。

異時異所でありながら同時同所である二而不二。

思考概念では妙法はパラドックス化する。

藤子不二雄の作品にSF短編シリーズがある。
普通はSFとはサイエンス・フィクションであるが
藤子不二雄は「すこしふしぎ」と当てている。

視点によって現れる不思議によって
概念が揺らぐ衝撃が起こる。
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20130227

それは「すこし」という適度なところで
ストーリー化されている。

妙法は不思議そのもので違いを持たない。

十方世界には十方微塵世界・三千大千世界
というような数限りない境界・差別の世界があり
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/jsekai.html

しかもそれは一心の方便であって
今ここに同時同所である。

それぞれを、やるということは「術」であり
それぞれが、あるということが「道」である。

術は独自的な流派となり
道は同一的な在り方となる。

弓道と禅道に同一性の概念もある。
http://www.kajita-m.jp/0002%20matui4manabutanosisa.htm

「中てる弓ではなく、中る弓を引く」
https://www.youtube.com/watch?v=qQPI87-ahy4
木の中に仏が宿る
http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/houwa32.html

道を修めることは素直で謙虚です。

道々に道を求める求道から
ただ十法界として在るという救済へ

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命

妙法を俯瞰するという一心に
素直に柔軟に在って
「自分の道」というそれぞれでなく
修めて皆済され足りている

三世十方は権である。
実がそれらでないならば
今ここを離れて実があるはずがない。

今ここの実相の本来が法華経である。

「これ」

法華経の智慧226
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8023



[812] 衆生所遊楽

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月13日(木)13時09分26秒   通報   返信・引用

「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外(ほか)の遊楽なきなり。経に云く「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)」云云。此の文、あに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。衆生のうちに貴殿もれ給うべきや。所とは一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。遊楽とは我等が色心・依正ともに一念三千・自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」とは是なり。ただ世間の留難(るなん)来(きた)るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合(あわ)せて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいた(致)し給へ。恐恐謹言。」

四条金吾に対して「四条金吾よ」ではなく
「一切衆生」との呼びかけから始まる。

一切衆生即四条金吾、四条金吾即一切衆生である。

四条金吾が南無妙法蓮華経と唱えていること
一切衆生が南無妙法蓮華経と唱えていること
日蓮大聖人が南無妙法蓮華経と唱えていること

それが常住している事
自己機能の受容によって法を楽しむ。

衆生所遊楽とは
どういう所で誰が遊楽しているのか。

所を言えば四条金吾の肉体即一閻浮提の
今ここの依正不二の色法であり

誰かを言えば四条金吾の精神即一切衆生の
「I am」の自他不二の心法であり

遊楽とは四条金吾個別の人我の見ではなく
その色心不二・一念三千・自受用身の仏知見であり

「南無妙法蓮華経と唱うる」とは
しかもその四条金吾と仏知見に分離が無いことの気づきである。

「口は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり、此の妙は前三教に未だ之を説かず故に秘と云うなり、故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり」(714)

十界曼荼羅は十方曼荼羅でもあり
十界の相貌は「方」、主題の不思議宝塔は「便」であり
文字曼荼羅本尊が一心の方便でもある。

「自分とは誰か?」
自性の中心核は無い。

では誰が「南無妙法蓮華経と唱うる」のか?

全体、一念三千がそのまま
南無妙法蓮華経と唱えているのである。

南無妙法蓮華経と唱えている全体の外には世界は無い。

十方十界が南無妙法蓮華経と唱えている不思議が本尊であり
それへの気づきが自受用身であり
それは遊楽である。

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(御書三二九頁)

全体そのものが尽きることの無い
慈悲によって生かされている南無妙法蓮華経なので
現世安穏・後生善処である。

「世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。」
「ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。」

憤怒のままに暴れるのではない。
愚痴を愚痴で終わらせるのではない。

観心の本尊への気づきとするのだ。

あなたは何だ?
四条金吾という一瞬の夢のために瞋り尽きるのか
法華経の行者として一切衆生の遊楽を味わうのか

一瞬の夢の苦は一瞬の夢の苦と覚り
法華経の行者の遊楽をこそ遊楽と開いていくのです。

歓喜の中の大歓喜の自受法楽へと向かうのです。

じたばたするのは強盛の信力とは言えませんよ。
雄大な心に末法万年の広宣流布が完成されるのです。

悩みの本当の解決へと
しっかりとエネルギーを向ける。

全体のエネルギーがそう働くのであれば
どうして解決しない悩みがあろうか?

個別の人我の見で見るから
そのエネルギーの向け方や解決のスパン
解決の可能性、願望の真偽、効果などが
思考概念として対象化され
「こういうものだ」「こんなものだ」と
解決されないことの自己機能になる。

思い込んでいることではなく
信じ込んでいることではなく
ただ願って起こっていることの
回復改善として自己機能をし
悩みを解決させる。

気づけばそれは起こっているのだ。

気づいている歓喜を選択していくのだ。

<アルベアのブログ>「悩み」とは⇒自我機能の働き作用
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12292138743.html

気分転換
怪獣倶楽部~空想特撮青春記~(全4話 計100分)
http://www.dailymotion.com/video/x5p38nh
http://www.dailymotion.com/video/x5q2smb
http://www.dailymotion.com/video/x5r4y48
http://www.dailymotion.com/video/x5rwzsm



[809] 立正観

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 6日(木)12時23分42秒   通報   返信・引用   編集済

噂は噂、都市伝説、街談巷説、道聴塗説、話半分
好きですよね、人って。

自我機能が自我機能を引っ張る、翻弄される。

嘘を作った意図思惑に、見抜いたという思い込み。

あれが本当、これが本当、どれが本当?
これが嘘だからあれも嘘?

主義主張、自己都合の思考概念。

だからそれは「どうでもいい」

今ここに関係ない。

御書にしても御本尊にしても
ただ紙と墨、あるいは木と漆と金箔。

ただそれがあるのを
一心がそこに何があるのかを見る。

色→受→想→行→識

仏教を学んでも、仏教を智慧化技化できない学者が
あれやこれや、あーだこーだと言う。

選挙戦のお好み焼き理論という俗論がある。
選挙を頼まれる人は、それほど深く精通していない人がほとんどなので
新しい話を聞くたびに、なるほどと思ってそっちにひっくり返る。
だから選挙というものは、ひっくり返して、ひっくり返されて
それでも最後にもう一度ひっくり返して投票してもらうのだと。

仏法の深淵からすれば限りなく薄っぺらい。
投票依頼を受けさせるのは簡単で、保たせるのは難しい。

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」

その場限りの思考概念の納得で信じることを受け入れるのは簡単だが
体感からの揺るがない自得を持つことは難しい。

なぜ難しいかと言うと、授受の二者関係の双方に
意図思惑が働くから難しい。

意図思惑の無い「空」の体感が意図思惑に隠されるから難しい。

つまり意図思惑が消えれば反転する。

これしかないという空しか伝わりようがなく、それは失われなく
むしろ全くズレブレのない思考概念を完全に伝える方が難しい。

立正観抄」という御書がある。

この真偽問題(花野充昭)を見ると、
いかに思考概念の主義主張の世界であるかが垣間見える。

それはそれとして、御書の内容を見る。

そこには、禅天魔の達磨の禅観と
法華経による妙禅の一心三観・一念三千の観法が
分けられている。

しかし
一心三観・一念三千の観法と言っても
未だ天台智顗の可思議による
法華経の不可思議の妙観への行者の修行の方法にすぎない。

ゆえに
一心三観・一念三千の観法を修行すると言っても
肝心の法華経を貶めては元も子もない。

「理」→「事」→「動」であるべきところが
その血脈を失う。

日蓮大聖人は「法華経しかないという全体」
事の一念三千の御本尊を己心に見て顕わし
「動」へという
「南無妙法蓮華経 日蓮」を開いた。

(言語化に難あり、あえて深く言語化すべきではない)

御義口伝 方便品八箇の大事 第一 方便品の事
「南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり」等々

「理」→「事」→「動」への繰り返し確認の引用である)

「動」の中においては不可思議であって
「可思議」は無・空であって
思議できるような一切は消える。

「日蓮仏法」というものも消える。
日蓮大聖人という個別も消える。

禅天魔の達磨の禅観と
法華経による妙禅の一心三観・一念三千の観法の違いも消える。

「動」→「事」→「理」への反転が開かれる時にあっては
それ自体がそれ自体で一切である。

如来寿命は0であり
如来寿命は∞であり
如来寿命が1である。

言葉をいくらなぞっても、
そこには捨て去られるべきものがあるだけだ。

律動法によって「動」を知る時に復活する。
「動」によって開き蘇生し円満となる。



[808] アビダルマ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 4日(火)13時35分17秒   通報   返信・引用   編集済

気楽非活」さんの言っていることを
ざっくりと考えてみるもので
不勉強により、正確性を欠くかもしれない。

まず諸行無常っていうことで
この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するもので
不変のものはないということを
釈迦牟尼仏が入滅に際し、沙羅双樹の木の下で説いたとされる。

しかして非想非非想処を目指すにあたって
釈迦牟尼仏の残した教え(ダルマ)と向き合い
覚知すべき一定の体系を研鑽し(アビ)
その究極の法(アビダルマ)の上に全てを説明しよう

つまり諸行無常を諸行無常として成り立たせている
三世不変のアビダルマの覚知が悟りへの道だという学派が
上座部仏教の説一切有部だと、ざっくりと言えるだろうか。

参照アビダルマ哲学入門  阿毘達磨倶舎論入門   改訂版

眼,耳,鼻,舌,身,意の六根
色,声,香,味,触,法の六境
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識 の六識
合わせて十八界とする。

また、五位七十五法 等を書いた
世親(天親)の『倶舎論』が有名である。

五位七十五法における
「心王」の位置が興味深い。

御書「一念三千理事」では
仏法発展の順を追って倶舎論から
十二因縁が説明されている。

原始仏教から部派仏教にかけて行われたもので,すべての存在を五蘊(ごうん),十二処,十八界などの諸要素(法)に分析し,そこに自我はない(人空)と見るものである。これは,自我への執着を絶つことを目的としたが,諸要素の実在を肯定する多元論的実在論に陥った。(世界大百科事典【空観】より

倶舎論を書いた世親(天親)は、その後
弥勒を開祖とする大乗の瑜伽行唯識学派に転向している。

この学派は
ヨーガ(=瑜伽(ゆが))の実践の中に唯識の体験を得、教理にまとめた。

現在我々が知っている九識論の元になっているそれであり
実践的に六識を発展させたとも言えるか。

ウィキ阿摩羅識を見ると、概要が分かる。

説一切有部が不変の法という境を見出そうとしたのに対して

唯識学派では
法という境に求めるのではなく
思考を受けている意根に求めるのではなく
認識する意識の内奥の性を求めた。

日蓮仏法においては
九識心王真如の都という「仏性」ということになる。

さて、回り道をしたが、中論の龍樹を見よう。

時代的には瑜伽行唯識学派より前
中観派の祖師が龍樹である。

上座部仏教の説一切有部に対して

まぁ、ざっくりと言うと
自我機能の探求による思考概念の上書きの愚考だと断じて
相対的現実の見方、三つの区分けを論じたという事だ。

上座部仏教が法が実在し自分が空であるとするのに対し
大乗では仏性があり、一切法は空になる。

で、気楽非活さんが言ってるのは、その空である法を
一念三千として体系化して対象化するのなら
元の木阿弥で思考概念になるのではないのか。

そこに重きを置いたら、
大乗の運動から外れているのではないのか。

そんな感じだろうか?

南無妙法蓮華経とは何なのか
御本尊とは何なのか

究極の法が
有るのか無いのか。

考える限り
思考概念の「考え」だよねそれは。

しかし考えてみることがあるから
それを思考概念の「考え」と見分けることも出来る。

仏性と法と仮観が一心に在る。
分離していない真如の真我。

1973年阪神タイガース対中日ドラゴンズ
延長戦ノーヒットノーランを達成した江夏投手は
自らのホームランで試合を終わらせたという。

相対的には

大地が震動しなくても
自らが震動すれば大地が震動している。

法華経に描かれる振動の先。

そこに自ら何を見るか。

ただそれ



[806] 無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 1日(土)13時05分47秒   通報   返信・引用   編集済

前々回の~法華経における釈尊の第一声に提示された前提の
「諸仏智慧甚深無量其智慧門」という
「是」は「如」であって
他人事の思考概念を元にした一切の修行法
いかなる努力をもってしても
それでは不可能である。~のだけれども

前々々回には~自分自分になってしまえば
ちょっとした差異にも嫉み
拘った正しさが通らないと瞋りに震える。~
とも言っていて、他人事でもいけないし
自分自分でもいけない。

本当の自他不二、「個」即「全体」の
悟りに必要な空の智慧の自受用身。

それのためには
では、どうすればよいのか?

「そんなの智慧の門には以信得入と言って
ただ信じることが大切で、だから
この正しい仏法を唯一世界へ広宣流布している
唯一正しい教団の創価学会の信心が大切なんです。
教学と言っても、これだけが分かっていれば良いのです。」
なんて言う人がいたとして

↑これは、ただの言葉であってどうでもいいのです。

「よく言った、その通りだ」⇔「それは違う、なんたる思考停止か」
↑受け手の作用反作用です。自我機能の思考概念です。

一切引っかかる所の無い
純粋な球の、法のため人のための体感知の無限
このエネルギー、恐れるところの無い、味わい尽くす、これの定まった明晰な静寂、脱構築されるところの、ただある智慧の、空の不二である歓喜の・・・

妙法蓮華経 方便品 第二 には
~舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。~

と、あります。

「深く無際に入り、一切未曾有の法を」
思考概念で認識した後の一切は「既」曾有の法です。
極まるところの無い、起こる前の無限の今ここへ深く入り
一切が未だ何者にも分別されていない存在そのものを

「成就せり」という見方は迹門です。
本門から見ると「成就されている」が
常に分離なくあって法を説いています。
永遠無限そのものの本地です。

そこへ至るにはと見ると迹門の「理屈」です。
本門から見れば、
そこから自然に初めに起こっているものは
という「事象」になります。

無量とは無量心で、無限の覚知からの心です。
理屈を言うと慈・悲・喜・捨です。

無碍とは抵抗値の無い完全な受容の球です。
理屈を言うと法・義・辞・楽説の智慧です。

力とはありのままの体感知のエネルギーが「もたらす」見分け区分けの能力です。
理屈を言うと見分け知る十種類の「得ている」力です。

無所畏とは、後付けの不安要素が無く反転していない元のままです。
理屈を言うと一切智・漏尽(ろじん)・説障道・説尽苦道の畏れるところの無い智慧です。

禅定とは今ここにあるこれです。
理屈を言うと心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修することです。

解脱とは脱構築され終わっている0=∞=1です。
理屈を言うと執着を離れ苦しみの輪廻の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することです。

三昧とは一切全てが未だ味わっていない無限です。
理屈を言うと精神を集中し、雑念を捨て去ることです。

https://blogs.yahoo.co.jp/imnobody0864/22801765.html
http://buddhism.k-solution.info/2013/10/_1_1.html

「理屈を言うと」と分けて言ったけれども
文字化されていることで全て思考概念の理屈になっています。

「事行」に拘っても
そのままには伝わらないのです。

思考概念に変換されてしまいます。

各人の思い思いの解釈になってしまうのです。

禅定・三昧による真理の探求から
無所畏の折伏の事行への志向性が虚しく
思い込み信じ込みの愚考の愚行へと反転してしまうのです。

『御義口伝』「説法とは南無妙法蓮華経なり、心無所畏とは今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と呼ばはる所の折伏なり」(御書 一七七九㌻)

http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yougo%20kaisetu/musyoi/01.html

折伏が御本仏日蓮大聖人の
勇ましく切って折って伏せる特質だという
愚考へと反転するのです。

愚考は組織から利用されるのです。
一つでも少しでも拘りがある者に対しては
その拘りを突いて躍らせることが出来るのです。

拘りを突くいやらしさ、利用非利用の疲弊作用が循環しているのです。
パワーゲーム・マネーゲーム・正義ゲームの化かし合いです。
バイアスのかけ合い、マインドコントロール天下の志向(第六天魔王)
があるのです。

不良不全がもたらされるのです。
グーミンからの脱出方法(解脱)が分からない
もたらされていないのです。

永遠無限の本地からあるがままが説かれ
グーミンからの脱出がもたらされる
ただそれだけのことが本当の折伏です。

律動法を実践すればあり
もたらされでいることが自然であることが
了解されるのです。

解脱でない変革は上書きです。

解脱の変革は上書きではなく
かぶせにいかなくて良いのです。
自然に自発するのです。

内奥から溢れ出る歓喜なのです。

気分転換
<youtube>前前前世 (movie ver.) RADWIMPS MV
https://www.youtube.com/watch?v=PDSkFeMVNFs

<youtube>スピッツ / 運命の人
https://www.youtube.com/watch?v=AMWDAuPx26Q

<youtube>スピッツ / 愛のしるし
https://www.youtube.com/watch?v=7awhzclrBMc
<youtube>PUFFY 『愛のしるし』
https://www.youtube.com/watch?v=i0wWgX9Xg8I



[805] 「   」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月29日(木)12時27分34秒   通報   返信・引用

<youtube>100分de名著「維摩経
https://www.youtube.com/watch?v=VnKXI0QEJMg
https://www.youtube.com/watch?v=PGZs2zfK49I
https://www.youtube.com/watch?v=pQyq1690C0Q
https://www.youtube.com/watch?v=49lG04zWBXc

維摩経は御書の中では浄名経の名で出てくる。

大乗の空の思想の経であり不二の法門が説かれている。

一生成仏はその空の不二の法門が大きく関わっている。

<日蓮大聖人と私>一生成仏抄・第四章 迷悟不二に約し題目修行を勧む
http://aoshiro634.blog.fc2.com/?m2=form&no=1226

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧246
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8139

師弟不二って何だろうね。

「池田先生が師匠、私は弟子」というのは
どこまで立派にやり遂げたとしても
それだけでは立派な師弟ではあっても
師匠と弟子が別であって不二ではない。

思考概念の思い込み信じ込みでは
俯瞰が出来なくなる。

都合の悪いことは覆い隠し
「在り方」を歪める。

気づけば「異様」である。

「異様」と見られることに取り合わず
おためごかしの号令に
バイアスに麻痺した中毒の期待依存。

いつかきっと続けていれば?

良くならないですよ。
今ここしか無いのですから。

気づけば
それがそうあるだけ。

無駄とか無駄じゃないとかという分別が
在るままに無いままであり
離れないし離れるし
変換するし変換しない。

師弟不二から師弟不二を見れば
見た次の瞬間には分離して歪んでいて

常に脱構築、解体、再構築できることが
一人立つということであるし
一人立つとはそんなものではない。

どうでもいい。

良いも悪いもなく、ただ、どうでもいい。

「どうでもいい」を「       」

これがあるだけ。
是が如なだけ。

<アルベアのブログ>
「自我機能」⇒「思考・概念」に「気づく」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913873.html

「体感調整」としての「スワイショウ・ぷるぷる気功・火の呼吸」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913932.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913997.html

「律動法」の実践をすると、
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287914095.html

法師品に「是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の大慈悲心是なり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり如来の座とは一切法空是なり」
御義口伝には「衣とは柔和忍辱の衣、当著忍辱柔和忍辱鎧是なり、座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり、室とは慈悲に住して弘むるゆえなり母の子を思うが如くなり」

思考概念に気づき離れて清浄な男女は
「如」が去来する如是を覚知し
「どうでもいい」の本質を纏い
空性の本分の「個」即「全体」に座して
人びとのためにその覚るところを語りなさい。

気分転換
<youtube>Makoto Kawamoto ? LIVE
https://www.youtube.com/watch?v=0bAb8bHn2IQ

神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる

同じもの同じ感じかたしてるの 愛してる 愛してる 愛してる

<youtube>川本真琴 桜 (makoto kawamoto sakura)
https://www.youtube.com/watch?v=nZTTKgmbTs0

松本「ね、このこ聞いてもすぐ返してくるでしょ」



[804] 三身如来の如理の十如是を如是我聞 にょにょっ!?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月28日(水)13時12分2秒   通報   返信・引用   編集済

法華経迹門において二乗作仏が説かれていきますが

それは十如是の中身であって
「是」はこのよう(如)ですか?
「是」はこのよう(如)ですよ。
「如」とはこのよう(是)ですか?
「如」とはこのよう(是)ですよ。

という中身の確認であって
説かれた核心は諸法実相の十如是である。

つまり法華経迹門とは
三身如来の如理(諸法実相)とは
是の如きであるということを
是の如く私は聞いたという内容であり

他人事である限り「如」も「是」も
全くのよそ事であって利益が無い。

ただのおとぎ話である。

「是」が他人事なのである。
いくら誰が「是」を説明したとしても
他人事である限り真の「如」という真如が分からないのだ。

真如が分からないゆえに真我である無作三身が分からない。

つまり「是の如く我聞き」から
「真我に聞けば是は真如なり」への反転が文底になる。

自身の事としてありありとある諸法実相への反転である。

その自身とは自我偈の自身であり
ゆえに十如是・自我偈を読誦する。

法華経における釈尊の第一声に提示された前提の
「諸仏智慧甚深無量其智慧門」という
「是」は「如」であって
他人事の思考概念を元にした一切の修行法
いかなる努力をもってしても
それでは不可能である。

智慧とは一心の三智(三観)である。
一心の三智とは一心を空観・仮観・中観として観て悟ったところである。
御義口伝 諸仏智慧甚深無量其智慧門の事にある。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55255952.html

天台大師は「調身」「調息」「調心」を「悟り」に至る修行法として摩訶止観にまとめた。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287615513.html

日蓮大聖人は三大秘法を顕した。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/54991588.html

ここに一貫される自身自得の一心の三智が
法華経の非二元であり

ここから思考概念によってズレブレが生じれば
いくら自分は正しい修業を積んでいると思い込んでも
悪道に堕ちることは免れないのである。

裏を返せば
このことの了解がなされれば宗教枠を外すことも可能だし
その了解のための動法が正法になる。

「これ」とは「如」であり
「如」とは「これ」であり
如去し如来する如理・如智・如動である。

一心の三智を思考概念に変換すれば
様々に言うことが出来るが
例えば仮諦はバーチャルリアリティーだとも言える。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55738617.html

思考概念はどこまでいっても
思考概念の上書きであることに注意しなければならない。

もたらされている体感知に気づくための
意識するガイド・ナビである。

仮の中の特定に自分があるかどうか。
和合している仮の仮を外していけば何が残るのか?

さあ、勇気を出して試してみるのだ。

それが上手くいくようにエネルギーと祈りを送ります。



[803] 号令じゃない

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月27日(火)12時29分34秒   通報   返信・引用

「夢や希望を大きく持つこと」
「決してあきらめず努力を続けること」
それらが実現し「得られること」

「すでに得ていると思っているもの」
「これから得られると思っているもの」
それらが「崩れ去ること」

「すでに崩れ去ったと思っているもの」
「これから崩れ去ると思っているもの」
その「崩れ去りが崩れ去ること」

欲ベースで考える思考概念
あるいは欲を外してなお
それらという違いの世界であるところのものとは
如来の知見は違う。

水族館に行って色々な魚を見ると
常に泳ぎ回っている魚もいるし
「本当に生きているの?」と思うような
じっとして動かないような魚もいる。

ただ横たわって、ただある魚。
ただそこに一体化し和合している。
人間のようなうるさいマインド(言語思考)もない。
ただあるという意識がある。
「水魚の思い」は観照意識の誘因になる。
プールなどでの水中体験は
「あることの感覚の呼び起こし」になる。

「自他彼此の心無く」とは見ていると見られているが
同じようにあり同じように感じている。
これが自分の見ているだという特別な執着がない。
背後からの視線に気づくという現象。
なんとなくイメージが伝わるという現象。

同じように唱題に取り組んでいる人たちとか
同じように瞑想に取り組んでいる人たちとか
同じように趣味に夢中になっている人たちとか
たとえ離れた場所にいても同じ価値の輝きの生命にある。

自分自分になってしまえば
ちょっとした差異にも嫉み
拘った正しさが通らないと瞋りに震える。

例えば何かの給付金の制度があって
もらえるかどうかギリギリのところで
努力をしてみたけどもらえなかったら
穏やかでいられないかもしれない。

嘘や要領のよさで損得をすることに疲弊する。
正しさにこだわっても融通がきかなくなる。

沈静化して凝り固まった沈殿物。
重ね重ねられたマインドの思考概念。

上書きしたって表面が変わったとしても根本的には消えない。

置き去りにされて取り残される孤独感になる。

マインドが沈殿しないためには
活性化のエネルギー状態になればいい。

一切衆生を乗せて余りある無限永遠は
自然にあり

それなのだ。

正法光の律動法による
イノベーションである。



[802] 今、黄金のハビタブルゾーン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月26日(月)03時24分44秒   通報   返信・引用

意味があることに意味はない。
前提があることの前提はない。
善意であるための善はない。
悪意であるための悪はない。
立派であるための精進はない。
堕落であるための惰性はない。
見られるために姿が見てはいない。
思われるために心が思ってはいない。
説かれるために法が説いてはいない。
生命のための寿命はない。

自我偈より
 衆生見劫尽 大火所焼時
 我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆妓楽
 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
 憂怖諸苦悩 如是悉充満

『自我偈解説』より
~~迷いの衆生が『世界が滅んで、大火に焼かれている!』と見る時も、
私と貴方の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界、人界の人々で満ちています。
そこには種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの豪華な堂閣があり、宝の樹にはたくさんの花が咲き香り、多くの実が生っています。

まさに、ここは善なる正義の人々が遊楽する場所なのです。
多くの天人達が種々の楽器で常に素晴らしく美しい音楽を奏でて、
天空からは目出度い曼陀羅華(天上界の華)を降らせ、それが私と貴方の頭上に注がれています。
私(釈尊)の浄土は壊れることはないのに、迷いの人々は世界が劫火に焼き尽くされ、憂い、怖れ、諸々の苦悩が充満していると見るのです。~~

あなたが考える「こうだ」という世界の全てが
それは火が付けば燃えてしまう紙切れのようなもので
絶対に保障されている正しさは無い。
思考概念による社会の制度というものは
「こうだ」というものを意図的に信じさせ
それをいかに上手くコントロールしようかという
思惑によって見せかけられている。
どの思惑に乗っかるか。
縁起に対して「こうだ」という判断基準を持ち込んで
それに対して正しいことが正しさだと認識する。
しかし何が何をもたらすのかなど、
事前に完全に判断できる基準など存在せず
しかも何がもたらされるかの因は厳然とある。
事前に分かっていたとしたら選ばなかったような議員が
えてして選挙で選ばれて当選したりもする。
「全ての人を仏の無上道に」という一仏乗に乗っかろうとしても
それが本当にそうであるのかを
それが意図思惑の思考概念であるならば
火の付けば燃える何の確証もない紙切れと同じだということも知らないままでは
どうして知ることが出来ようか。
正しくあろうとすることが正しさではない。
「きっかけ」があるだけで、一体いかなるものでも
燃え上って何も残らないのだ。
世界の全てが滅んで大火に燃やされるということでもなければ
それでもなおの不変を確かな実感とするのは難しいのかもしれない。
どんなに希望に燃えている時も
どんなに絶望に落ち込んでいる時も
もう何も発見しないことの発見の不思議。
私は何でもないしあなたは何でもない。
私が報恩感謝する人であればあなたは諸天であるし
あなたが報恩感謝する人であれば私は諸天である。
ただあるそれが満ちているだけ。
何かを判断したり何かで判断したり執着したり囚われたりしない。
思考に囚われて生きるのが「死んだように生きる」なのか
思考で判断をせずに生きるのが「死んだように生きる」なのか
「死んだように生きる」のが幸福なのか不幸なのか。
一切のこれは
思考概念を解除して気づけば
魅力に満ちたストーリーである。
園林のように堂閣のように
花が咲くように実がなるように。
輝きに満ちたビジョンだ。
これを楽しむためにこれがある。
善とは期待依存せずに素直に味わう、ただその静かで明晰な球だ。
その禅定の歓喜に気づけばそれはリズムを打ち音楽を奏で
法界には祝福が降り注いでいる。
いつ、どんな時であっても
それはそれとしてそうある。
自分の判断を持ち込めば
その判断基準が判断によって焼かれる。
太陽に近づくほど
燃え尽きないものは無い。
ちょうど良いところで私たちは生かされている。
春夏秋冬季節は巡る。
気づいていますか?
黄金の世紀の太陽の光の中へ
それが今であることの体感覚知に。



[800] 仏法・大白法・正法光

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月22日(木)10時59分42秒   通報   返信・引用   編集済

永遠に絶対に滅しない個別は無い。
永遠に寸分も間違わないと確証できる個別は無い。
それは縁起の法からも言える。

人間革命二巻「光と影」より
http://kaidaten.hatenablog.com/entry/2015/12/27/001709
~君の経験でわかるように、無批判に信じるということは、恐ろしいことなんだ。世の中に、こんな恐ろしいことはない。間違ったものを信じると、人は不幸のどん底に落ちる。どんなに正直で、どんなに立派な人であっても、この法則に逆らうことはできない。~
~結論的に言って、日蓮大聖人は、一切の不幸の根本は、誤った宗教・思想にあると断言していらっしゃる。そして、究極のところ、正しい宗教・思想は、何であるかをご存じだったから、あらゆる迫害に屈せず、命をかけ、大確信をもって、お説きになったのだ。~

元々創価学会としては日蓮正宗が唯一絶対に正しい教えで
一切の不幸の根本を断って人々を幸福にする
というスタンスがあった。

しかし宗門の正しさも
学会本部の正しさも
儚い幻想として崩れ去っている。

自我機能の人情としては
ならば本当に正しい教えはどこにあるのかと探す。

大御本尊の疑義
凡夫即極の御書の疑義
日蓮本仏論の疑義
五時八経の疑義
法華経の疑義

そうではない。

崩れ去ってなお崩れ去らないものを知らねばならない。

「正しい宗教」と「間違った宗教」という絶対的隔絶があって
「正しい宗教さえ用いればいい」というのは崩れる。

そもそも「日蓮をもちいぬるとも悪しくうやまわば国滅ぶべし」である。

体感知こそが本質である場合
あらゆる個別の教義
言葉の上に現れている意味
思考概念の枠組みというものは
便宜的であり方便である。

検証可能な実際に起こることの体感知。
そこには宗教枠、教義の枠、思考概念の枠は無い。
文底の体感知を了解していくと
それは個別の所有者がいない。

どこにでもあり、誰でもがそれである。

表面上、いかに違うということが現れていても
最奥の「仏とは生命」の「妙法蓮華経」は同じである。

個人においても思想宗教においても。

その体感知をもって
「思想宗教の普遍の最奥」「神聖なものとの絆」「生命の不思議」
との関わり方、信じ方が思考概念だけになれば
二極分離となり、一切の不幸の根本になる。

信じるべき絶対の正しい宗教が固定的にあるのではなく
生命の最奥をどれだけ開くかどうかがあるだけなのだ。

三種の法華経(二十八品・一念三千・大御本尊)それぞれの
表面を見れば、その変遷を見れば、外的要因史実関係を見れば
一貫していないということが目に付くだろう。

しかし「仏とは生命」と呼んだそれは
本末究竟して等しい諸法実相があるだけだ。

絶対的幸福境涯と言って、戸田先生には絶対の体感知の確信があったのだ。
絶対に間違わない正しい宗教の組織が個別に永続的に存在し続けるというのは幻想である。

法華経を信じる。
法華経の行者。
法華経の非二元。

思考概念で読み取れば、意味は千差万別である。
同じ体感知の上には距離も時間も個別的所有者もない。

真如(無分別智)が来っている。
如来(仏)というものは、この非二元である。



[799] ビジョンと正反イメージ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月21日(水)13時27分57秒   通報   返信・引用

身体そのものが、本来は自然の光の延長そのもの。
法華経の思考概念で言えば、我が身宝塔です。
色香美味の我が身の禅定です。
妙法蓮華経です。

ビジョンは、分離を経験します。
イメージは、もたらされる誘導性の電磁的・量子力学的反応です。

在るという和合された光を分離して
一方に「正」を見た時、その対極に「反」あるいは「邪」を見ることが
色を見続けた時に補色の反作用がストックされるように
自身の内に不可避的にイメージ分離の発生をします。

自分を正としてみれば世の中はこんなにダメだ
世の中を正としてみれば自分はこんなにダメだ
ということが「見る」から「機能として自然発生」する。

本来引きずられる必要のないものに引きずられるから迷う。
「見る」→「機能として分離が自然発生」→「分離の所有者があって見ている」

「分離の所有者があって見ている」というのが三界の見方、凡夫の迷いである。
「分離が自然発生」する前の「見る」ということが悟りで所有者がいない。

見て発生した分離の目先の損得(肉眼)
見て発生した分離の全体の統括(天眼)
見て分離が発生することから離脱(慧眼)
見れば分離が発生する自然の法(法眼)
分離が発生する前の見る(仏眼)

各宗教の違いというものは
その宗教をやっている人が認識しているほど
はっきりとした違いはない。

分離は、分離があると思ってみている人にとってあるだけだ。

仏教という特別なものがあって
声聞・縁覚・菩薩のための法がそれぞれ別にあるように説いてきたけれど
そのような違い、分離というものは無くて
一瞬即永遠の一仏乗があるだけなのですよ。
というのが法華経であるとも言える。

一仏乗は一瞬即永遠に遍満する普遍であり
どんな人界の中にでも仏界がある。

だからそれを説く法華経が正でそれ以外が邪(肉眼)
だから法華経をもって全体を正しく統括する(天眼)
ただ全体の本質としての法華経になる(慧眼)
生命の諸法実相がある(法眼)
非二元(仏眼)

「創価だけ」「日蓮仏法だけ」を「特別に見れば」
自然の機能として必ず「これが正しい」「これは間違っている」
という分離が発生する。

特別に見るというのは自我機能によるもので
自然の機能として起こることは自己機能によるものだ。

個別があるという自我機能が先に来ることで
分離という迷いが生じ苦悩に引きずられる。

律動法によって自己機能が先にあることを意識すれば
色心不二の和合の世界の正法光である。

創価に、良いところもあれば悪いところもある。
個別として絶対が存在することは無い。

多くの人のところに体感覚知のためのツールとして広げ
実際の社会変革のための各分野の進出をしているが

体感覚知のためのプログラムが樹立できておらず
現場現場の思考概念によってなされ
内実が損なわれ、分離の世俗化が
思い込み信じ込みによってむしろ強化されている。

世俗化の思考概念を離れ、ただ祈る際
恩恵はあるが、指導者、授ける者の不在によって
世俗化にブレーキがかからず、恩恵に時間がかかったり
思考概念の固着が進むと得られなくなったりする。

後継者の不在、救済者の不在が問題である。

無上道であるとは言っても
最初の回復改善の恩恵、意識の変容は
それほどに時間のかかるものでは無い。

「初信の功徳」「新入会者の育成」

この時の、新入会者の信仰の体感覚知のプログラムが無い。
初信の功徳は自分で得るもので、あとは組織活動にどんどん参加させるだけ。

これでは、まともな信仰の恩恵で世界に平和や幸福をもたらすことは無い。

インドの聖者カルキ・バガヴァンのワンネスディクシャという体感覚知プログラムがある。
同時代現象の例としてあげるもので、これを推奨するものでは無い。
インド国内向けに6日間
海外向けに21日間のプログラムをしている。
http://joy-healing.jp/readings/special/59.html
http://joy-healing.jp/contents/deeksha.html

このプログラムの中では祈る対象は何でも良い。
実際の脳の変化、意識の変容を伴った永続的効果のある
宗教の枠を越えた悟りの体感覚知プログラムである。

バガヴァン氏の理想の理念と
池田先生が実際の行動を伴って訴えたことは
重なる部分がある。

法は諸法実相しかなく同じである。
<宿坊>法華玄義・序王 2  投稿者:体長1.3mの巨大猫
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70589

本当に若者に体感覚知のある教育をすること。
人間を育て、人間不在を解消すること。

個々に寛解、蘇生、奇跡の歓喜を味わいながら
全体の正法光への和合へ。

その軸を了解しなければ
池田先生が「道遠くてもそれしかない」と言った教育も
思考概念であらぬ方向に行ってしまう。

道理ではないか。

創価だから間違わないなんていう盲信は危険だ。
会長は偉いんですと言わしめる会長は間違いなのだ。



[798] エアビジョン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月16日(金)14時25分4秒   通報   返信・引用

光の三原色
http://juku-ru.com/gensyoku.htm
~「赤、緑、青の光を組み合わせれば、ほとんど全ての光の色を作りだすことができる」~

本当だろうか?
ちょっと嘘がある。

赤、緑、青では紫外線を認識できるカラスの視覚ビジョンは再現されないし
モノクロの視覚の生き物にはそのビジョンの再現には単色で十分だ。

要するに

人間が肉眼のビジョンだと思って認識しているものは
人間の眼球内の赤、緑、青の波長の受容器に依存した
作用反作用を元に高度に辻褄合わせ補完された
「人としてこう見るべき」という経験である。

虹の色を数える時、国によってその色数は変わる。
「人としてこう見るべき」という前提が変わるからだ。

大自然の中で生きる原住民は、
産業文明の中で生きる人が見分けられないような
微細な緑色の違いをはっきりと見分ける一方で
産業文明の中で生きる人が当然のように見分けている
カラフルな色を見分けられないことがある。

色の見分けは、
それを示す言葉と、体感と、実用とによって
その文化と、そこにいる個々人に定着している。

視覚は人間にとって
ひときわ特別な感覚である。

他の感覚(触覚・聴覚・嗅覚・味覚)と比べて、
分離が無い事を確認することが難しくなっている。

それだけ高度に視覚は
強固に個の自分があると思い込む
分離の処理がなされた上で
ビジョンを経験している。

鏡を見て、自分の右目を見る、自分の左目を見る
というように視線を動かす時
眼球が動いていることを認識しづらい。

視線が合っているということの辻褄合わせが
通常無意識下で実際の変化より優先されている。

スマホなどで画面側のカメラでやってみると
視線が少しずれる等で、自分の眼球の動きが見えたりする。

その経験が新鮮なうち、あるいは定着すれば
鏡でも自分の眼球の動きが見える。

他の感覚(触覚・聴覚・嗅覚・味覚)は

唐辛子の味覚の辛さとヒリヒリする痛覚の痛さは境目が曖昧である。
「ツンとする」というのは嗅覚なのか味覚なのか痛覚なのか曖昧である。
骨伝導という方法や低周波等の振動は聴覚なのか触覚なのか曖昧である。

「ツンとする」のツンを見せて下さいと言っても
一次的なそのものは示しがたい。

発生源となる元、それを味わった人間の表情しぐさ、ツンとするという言葉
それらが結びついているという経験の記憶によって
それらから連想することは出来る。

「識」というものは
体感の受容というものと
「べき」というものによって経験する分離の「想」というものを

橋渡しし、つなぎ合わせ、貫いている。

「想」が間違えば「行」が失敗する。

例えば階段を上り下りする時
段数を誤認識していれば
エア階段・エア地面に焦ることになる。

それはその時、実際には階段が無かったからエア階段だったと気づくだけで
「行」としては常に「想」によるエア階段を上るという段階を通じて
人間らしく左右の足を交互に使って階段を上るのである。

階段の一段一段に対する動作が
階段即是エア、エア即是階段になることで上手くいっている。

階段即是エア、エア即是エアになった時に失敗する。

「探求はこうあるべき」ということに
段階を登る結果が伴わないのはエア探求になる。

実在と違うものを信じ込ませるのは
エア信心である。

多くの人生はエア自分による失敗の連続でもある。
過小⇔過大な作用反作用のエア自分による不良不全。

優良健全な自然のままの実在であることが本来である。
そのブレズレの無い智慧が自受用身である。

特定宗教枠の思い込み信じ込みの上に築くのはエア自受用身である。
エア自受用身を信じれば失敗し不良不全になるのだ。

思い込み信じ込みの上でなく
自身の自然の実在と想とが即の関係になることで
エア即是自受用身になるのである。

そのあるがままの無作三身という結果を実際に伴うために
律動法が推奨される。

そこには、宗教枠は消える。

「気づいている」「体感」「ビジョン」「思考」「感情」
があるだけだ。

「ビジョン」を「思考」によって上書きしていけば
ズレブレによる不良不全の「感情」が大きくなる。

「ビジョン」に潜む「べき」を「体感」によって解除していけば
非二元の「気づいている」によってあるがままのあるだけあるだけがあるだけが・・・・・(無限)

「~になる」という完結ではない無上道の歓喜の中の大歓喜。

今回の視覚についての添付

<YOUTUBE>What Is The Resolution Of The Eye?
https://www.youtube.com/watch?v=4I5Q3UXkGd0
例によって設定→字幕→自動翻訳→日本語

↑は<人間の目の解像度は、何万画素?>
http://www.gizmodo.jp/2014/03/post_14178.html
より。

<子犬のへや>犬の目・視覚
http://www.koinuno-heya.com/zukan/sight.html#two

<YOUTUBE>錯覚-an optical illution- モノクロ写真に色がつく
https://www.youtube.com/watch?v=poHJWt_Tk6Y

↑は<ネコノヒゲ>白黒なのにカラーに見える!錯覚画像
http://nekonohige.minmike.com/shirokuro_color_sakkaku.html
より。



[797] 非二元の悟りへの短縮

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月14日(水)14時17分16秒   通報   返信・引用   編集済

妙法蓮華経安楽行品第十四 現代語訳より
「この世に存在する有形無形の一切のものを得ず 知らず見ず
これをすなわち名づけて 悟りを求める修行者のなすべき行動とする
一切のこの世に存在する有形無形の一切のものは 空であり存在しない
永遠でなく、また、起こることも滅することもない
これを悟りの智慧を開いた者の 親しく近づくべき場所と名づける」

空と言えば有名なのが
色即是空 空即是色であるが

直感的に置き換えてみる。

」即是「   」
「   」即是「



妙法蓮華経如来寿量品第十六 現代語訳より
「もしも、生命のあるすべてのものが、私の所に来たときには、私は仏の眼によってその信仰などの生命活動や感覚の原動力の利発なことと愚鈍なことを観察する。
相手に応じて道理を言い聞かせて理解させ、あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ、
またまたこの世に出現して、「仏の悟りを得た境地へ入りこの世を去るに違いない」と言い、また種々の人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって深く複雑な教えを説いて、 生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせた。
諸々の仏法に帰依した男子よ、如来は諸々の生命のあるものすべての中で自己の悟りを第一とする教えを願っている福徳の薄い心身に宿ったけがれの多い者を見たときは、
この人の為に「私は若くして出家し一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得た」と説いた。
しかしながら私が実に仏となって以来長く久しいことは、この通りである。
ただ人を真実の教えに導くため仮にとる便宜的な手段によって生命のあるものすべてを教え導いて、仏道に入らせようとしてこの様に説いた。
諸々の仏法に帰依した男子よ、如来が演説する経典は、皆、生命のあるものすべてを迷いの世界から渡してそこから脱出させるためである。
或るときは自己について説き、或るときは他者について説き、或るときは自己を表現し、
或るときは他者を表現し、或るときは自己の事柄を表現し、或るときは他の事柄を表現する。
その言葉や演説は全て真実であって虚妄ではない。
理由は何故かというと、如来はありのままに、欲界・色界・無色界の三つの世界のそのものの内面などを表す姿・形・ありさまを正しく認識するからである。
出生や死亡など無く、もしくは老化もしくは成長、またこの世での存在および滅度も無い。
実在でもなく虚無でもなく、不変でもなく多様でもない、三界に住む者が三界を見るようなことではない。
このような事を如来は明らかに見て誤りが有ることは無い。」

欲界という「感情」の満足を求める世界
が欲しいは嫌だ)
色界という「肉体」の技術が磨かれる世界
をどんな割合で光らせればになるかの職人的技術)
無色界という「思い」を純粋に樹立する思考世界
は電磁波の波長の違いで、分光によって組成を知ったりできる真理探究)

これらは迷いの世界であって
この迷いの世界から脱出させるために仏は
その無始無終の寿命をもって
あちらこちらにおいて自ら説き、違った名前、違った年齢で現われ
相手に合わせ、生命のあるものすべてによく歓喜の心をおこさせる。

「どうしても『私が』悟りたいんだ」というストーリーを望んでいる者に対しては
「私はこんな風にして最高の悟りを得たんだよ」というストーリーを用意して説いた。

だけど本当のことを言うと、「   」の智慧は無始無終の寿命なので
仏は、「生まれた」「悟った」「死んでいく」ということは無く

■は■■は■■は■と気づいている意識がそのままで分離が無く

」そのままで「   」であり
「   」と言ってもそのままで「」なのである。

御義口伝 無量義経六箇の大事
「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」

「こうすれば悟れる」「こうすれば成仏する」というストーリーも
「悟ればこうなる」「成仏すればこうなる」というストーリーも

迷いがそれを望んで見ているのだ。

あなたが望むから仏は
あなたのために、あなたのためのストーリーを
構成しているのだ。

今、この瞬間も、その仏はあなたのために
あなたの歓喜のためを構成している。

その仏、南無妙法蓮華経如来はどこにいますか?

あなたが迷う限り
仏はあなたの迷いの中にいるのです。

開けば出てくるのです。

意味や理由より前の事です。
ストーリーよりも前、言葉より前です。

ただ「私」があるだけの
どこにも行こうとしない何かを変えようともしない気づいている意識。

全てのエネルギー変換の前のニュートラル状態。

それに寄り添ってみるのです。

正法光の律動法(アルベア法)
より純粋なエネルギーである気功のエネルギー変換を体感します。

自然な同時体験、同時体感なのです。

ニュートラルなエネルギーを意識の向け方・使い方によって
現象をコントロールする技術、不良不全を回復すると同時に

光への回帰、ストーリーの脱落、心身脱落でもあるのです。

自然の内の「」即是「   」 、「   」即是「」なのです。

ただ、3ヶ月続けてやってみれば歓喜へとリライフされます。

悟りへの探求は従来の意識解明の観察だけでは
思考の抵抗が強かったり
億劫だったり苦痛が多かったり
迷宮に入ってしまったり
そうとうの覚悟や悲しみ苦悩とか
よっぽどのタイミングのはまり等のモチベーションが必要だったりしますが

律動法はそれらを短縮・軽減します。

今回の記事に関連する非二元の探求の内容を添付します。

<気づきのダンス>悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

<YOUTUBE>非二元とセラピーの接点 溝口あゆかさん [悟りへの道]


<シンプル生命の詩>一瞥できる体感作りが律動
~全ての「概念の区分け」は、私がそう作って気づいているのだと
自覚していく事を自覚という。
(十界)

なぜ、そういう「概念の区分け」を生み出していったのかという
元をたどっていって最初の分離を置き換えてみるのを内観という。
(十界互具)

「概念の区分け」を外して「ただ不思議の中にある」「あるようにある」
という「ただあるだけの意識」で本質へと味わうことを観照という。
(諸法実相十如是)

「ただある本質」が、特別な別の事としてあるのではなく
どの単位においても、主体も客体もなく
そのままで改めることなく一は全・全は一の
不思議の動体であることを呼び起こすことを律動という。
(三世間)~



[796] 宿坊より代理投稿『自我偈解説』転載

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月10日(土)13時41分9秒   通報   返信・引用

<宿坊>宮川氏よりの代理投稿です。  投稿者:ダメよ~ ダメダメ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70253
~~これが法華経の心であり、大聖人の心、そして師の大慈悲です。
どのように不思議であろうとも、経文の一字一句が、絶対の真理と信じて読む時、
一念三千を、自らの内に得、全てが己身の出来事と分かります。
全てが自身の責任であり、全てが自身の思うまま━━━即ち、誰もが『自受用身』
=欲しいがままに受け持(たも)つ身であることが分かる事と思います。

これが成仏という事であり、それは歓喜の中の大歓喜の境涯です。

『自我偈解説』

私(釈尊)が仏に成る事を得てから、
これまで経過した時は無量百千万億載阿僧祇という想像も出来ない程、長い時です。
(その間)常に法を説いて無数億という数え切れぬ程、
たくさんの人々を教化して仏道に導き入れてきました。
そのようにして、今に至るまで数限りない時を経て来ているのです。
私(仏)は、人々を救おうとする故に、方便を用いて涅槃(死)の姿を現じますが、
実は入滅していないのです。

常に、ここ(貴方の側)に居て法を説いているのです。
私は常に、ここに居るけれど諸々の神通力に依って、迷いの衆生に対して、近くに居るけれども見えなくしているのです。人々は私(釈尊)が入滅したのを見て、
広く私の舎利(骨)を供養して、皆が私を恋い慕う心を持ち、渇仰する心を生ずるのです。
人々は既に信伏し、心が清く真っ直ぐになり、
心の底から仏に会いたいと念願し、その為には自らの身命も惜しまないようになります。
その時にこそ私は、多くの弟子(仏、菩薩、諸天善神)と共に、霊鷲山(貴方の側)に出現するのです。

その時、私は貴方に語るでしょう。
『私は、いつも貴方の側に居て離れることはないのですよ。
方便の力で入滅(死)の姿や不死の姿を現すのですよ。
又、他の国土で私を敬い、信ずる人がいるなら私は、又そこに出現して、その人の為に、この妙法を説くのですよ。

しかし、あなた方はその事が解らず只、私が入滅したと思うのです』と。
私は多くの人々が、苦しみの海に沈んでいるのを見ます。
それ故に、わざと姿を現さず、その人々に渇仰の心を生じさせるのです。
人々の心に仏を恋い慕う心が生じた時、私は姿を現わして、最高の妙法を説くのです。
(人々を救う為に姿を隠したり、現したりするという)私の神通力はこの様なものです。
阿僧祇劫という非常に長い間、私は常にこの霊鷲山(貴方の側)に居て、又、折に触れてその他の場所にも行くのです。

迷いの衆生が『世界が滅んで、大火に焼かれている!』と見る時も、
私と貴方の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの天界、人界の人々で満ちています。
そこには種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの豪華な堂閣があり、宝の樹にはたくさんの花が咲き香り、多くの実が生っています。

まさに、ここは善なる正義の人々が遊楽する場所なのです。
多くの天人達が種々の楽器で常に素晴らしく美しい音楽を奏でて、
天空からは目出度い曼陀羅華(天上界の華)を降らせ、それが私と貴方の頭上に注がれています。
私(釈尊)の浄土は壊れることはないのに、迷いの人々は世界が劫火に焼き尽くされ、憂い、怖れ、諸々の苦悩が充満していると見るのです。

この諸々の罪の人々は悪業の因縁によって阿僧祇劫という大変に長い時を過ぎても、
三宝(偉大なる妙法)の名を聞くことが無いし、私の姿を見ることが出来ないのです。
多くの功徳を積み、心が柔和で真っ直ぐな人は皆、私(仏)の身が此処に存在して法を説いているのを見ます。私はある時には、この人々に仏の寿命は無量であると説きます。
久しくして漸く仏を見た人には、仏には逢い難いと説くのです。
私の智慧の力はこの様なものなのです。

智慧の光は無量で、私の寿命も無数劫(永遠)なのです。
私は長い修行の結果として、それを得たのです。
あなた方よ!智慧ある人々よ!この事を疑ってはいけません。
疑いを永久に断じ尽くさねばなりません。
仏の言葉は真実であり、偽りはありません。

例えば、名医である父が巧みな方便で、本心を失った子供達を救う為に実際は死んでないのに、
死んだと言ったのを誰も嘘つきだと言わないように、私もこの世界の全ての人々の父であり、彼らの多くの苦しみや災いを救いたいのです。
凡夫は心が顛倒しているので、私は実際には、いつもこの世に居るのですが、彼らには私は入滅すると言うのです。

何故かと言うと常に私を見ていると、驕りや欲しいままの心を生じ、ふしだらで五欲に執着し悪道に落ちてしまうからです。私は常に人々が仏道修行に励んでいるか、励んでいないを知って、
どうやって救っていくべきかを考え、その考えに従って様々な法を説くのです。

私は、いつもいつも、この事を念じています。
すなわち、どの様にすれば貴方を無上の道(絶対の幸福の道、悟りの道)に入らせ、
速やかに仏身(金剛不壊の色心)を成就させる事が出来るだろうかと。~~



[795] 一念精進行

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月10日(土)12時13分10秒   通報   返信・引用

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790)
池田先生は若き日より、この「御義口伝」を身で拝し切る覚悟で、戸田先生の弟子としての戦闘を貫いてきたと綴られる。池田先生の一念である。池田先生の偉大さは、その一念による精進行を貫いたことなのである。

僭越ながら、この一念精進行を
思考概念の上から生命感覚になじませることを試みよう。

辛労と言うも、そこには難行苦行感・悲壮感は解除され
生命の自然あるがままの歓喜として蘇生されるのである。

辛労とはWeblio辞書より三省堂 大辞林によると
ほねを折ること。つらい苦労をすること。辛苦。 「長年の-が報われる」 「 -辛苦」 「前きに-せる一生の事業を空くして/経国美談 竜渓」 〔同音語の「心労」はあれこれ気を回して心を悩ますことであるが,それに対して「辛労」は実際につらい苦労をすることをいう〕

これが「つらい」→「心地よさ」 例)ランナーズハイ
「不安・疑い」→「安心・納得」に反転し

「生きている実感」を味わい「実存解明」されるのである。

一念三千そのものであることが
それ自体が精進行でもあるとなる、開かれるのである。

「一念に億劫の」とは「久遠即今ここの」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「常と云い無量劫と云う即ち本有所具の妙法なり所謂南無妙法蓮華経なり」(788)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「元初の一念一法界より外に更に六道四聖とて有る可からざるなり所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり今日とは末法を指して今日と云うなり」(788)
三世諸仏総勘文抄にいわく「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(0562-08)

「辛労を尽せば」とは「苦難(出禅)の中にも殉教精神即安楽(入禅)に至る自在の脈動を尽くせば」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「一心静なる時は入禅、一心散乱する時は出禅、静散即本覚と知るを悉く知るとは云うなり所謂南無妙法蓮華経は入禅出禅なり云云」(791)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「此の文は我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり」(789)
開目抄にいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(232)

「本来無作の三身念念に起るなり」とは「自らの心身の瞬間瞬間の、意味を伴う前の真如が、成仏の因である億劫の菩薩修行によって開かれた仏の果、自然のままの生かされている十如実相の起こりであることに、知識ではなく体感で気づいていくのだ。」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「自身の仏乗を悟つて 自身の宮殿に入るなり 所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(787)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「本来相即の三身の妙理を初めて覚知するを求無上道とは云うなり所謂南無妙法蓮華経なり」(789)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「色心幻化四大五陰元より悪習なり然るに本覚真如は常住なり所謂南無妙法蓮華経なり」(789)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「法界皆本来三諦一心に具わる事を顕せば己心の念念仏に値う事を即ち世世値仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経は是なり」(791)
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「十界各各本有本覚の十如是なれば地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり所謂南無妙法蓮華経の受持なり云云」(791)
開目抄にいわく「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(234)

「所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」とは「いわゆる仏の不可思議な歓喜の法の動体蓮華の律動に帰命する智慧とは、混じりけの無い純粋清浄な無限の真如、動と光の生命現象の実存解明を実感し、持ち続け、伝播させていく歓喜の中の大歓喜の行動なのである。」である。
御義口伝 廿八品に一文充の大事にいわく「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788)
池田名誉会長講義 御書と師弟 第3回 御義口伝と青年
http://www.3colorflags.net/sintyaku5/20081225.txt
~精進の「精」とは「無雑」。混じりけのない信心です。「進」とは「無間」。絶え間ない前進です。~
<アルベアのブログ>「当体蓮華」は「動体蓮華」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371590.html
~「当体蓮華」の「当体」と書かれた言語状況と今日の言語状況とは著しく異なります。「当体」という文字情報により「脈動する身体」が生き生きと反応しないのです。「受け手」の文化状況が違うからです。しかし「動体」という単語に置き換えると【変換】「脈動感」が感じられるのです。感知できるようになるのです。このことを「名字即」と言います。~

繋げてみると
「久遠即今ここの」「苦難(出禅)の中にも殉教精神即安楽(入禅)に至る自在の脈動を尽くせば」「自らの心身の瞬間瞬間の、意味を伴う前の真如が、成仏の因である億劫の菩薩修行によって開かれた仏の果、自然のままの生かされている十如実相の起こりであることに、知識ではなく体感で気づいていくのだ。」「いわゆる仏の不可思議な歓喜の法の動体蓮華の律動に帰命する智慧とは、混じりけの無い純粋清浄な無限の真如、動と光の生命現象の実存解明を実感し、持ち続け、伝播させていく歓喜の中の大歓喜の行動なのである。」

もし、万法の現象の中心をここに出して見せて下さいと言っても
もし、現象を覚知して変革や導きをなす智慧の根源をここに出して見せて下さいと言っても
もし、宇宙の経験の中心をここに出して見せて下さいと言っても

万人が即座に「あぁ、確かにこれだね」というものを示すことは出来ない。

それは各人が自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入っていくための
観心という作業を実際にやってみなければ「これ」が解らないのだが

思考概念の世界では迷宮に入ってしまう。

経験している実際のままではなく
整理するための言葉の意味に囚われて実存とは別物になるからだ。

ただ律動法ということによって自然のままに
「これ」のありようそのままになる。

本来、これはこのままこれなのだ。

教えを信じるということは
方法を受け入れて実践してみるということだ。

実践によってそれが本当だと
生かされている実感が湧き実存解明に至れば

信じるも信じないも
偽らざる本当のことでしかないという受容
自然体へとなっていく。

注意しなければならないのは
どこまでが本人の体感知による受容で
どこまでが教えられたことの思い込み信じ込みであるのか

その当人ではなかなか気づけないということだ。

自然のままの体感知の受容に至るには
すべからく思考概念を外していって
本来無作の三身を了解していく。

仏の随自意は九界の側は
完全に受容をしてみるより他ない。

意図思惑・思考概念が入る分だけそれは
拒絶して疑っているのだ。

「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」
である。

思考概念を外す
――教えられてきたことを手放すのである。

それは元より辛い選択である。

開目抄は「法華経を信じれば安楽になる」という思い込み信じ込み期待依存を手放した時にこそ
本当の仏性による安楽が自然に開かれるのだということであり

受難即安楽なのである。

もし、究極の信心というものをここに出して見せて下さいと言っても
万人が即座に「あぁ、確かにこれだね」というものを示すことは出来ないが

開かれた時には
「これ」そのものが自然のままに
信心それ自体であり

無作三身とは「これ」それ自体である。

「これ」に気づいているということが
自在の受けて用いる智慧、報身である。

御本尊は、気づいているということの証明である。

それ自体である時にはそれ自体である。
それは己心の法に気づいているのである。

その真如に主体と客体は無く
一身即三身である。

その一心を見れば仏であり
「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)
なのである。

完全な受容は、生命に対してであり
言葉の意図から教えられることを手放して
ありのままになるのだから
言葉を変えれば完全な能動性でもある。

言葉の表裏、二元性は
二者関係の中に分離として生じているのであり
本質は非二元の「これ」だけである。

サイヤさんのブログ<SOKA2015>信心の深化
http://macska2012.blog.fc2.com/blog-entry-54.html
~何が大事と云って「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」との御文の通り、仏になること以上に大事なことは無い~
~変な譬えかもしれませんが、男性が自分が男であると決意することは無いでしょう。(一部ゲイとかバイとか呼ばれる方を除きます)男であることは当然のこととして自覚しています。これと同様に広宣流布が自らの使命であることが、自分が男であることと同様に、当然のこととして自覚されるようになるのです。~

<アルベアのブログ>「対象化」「モノ化」「擬人化」すると「固定観念」に変換されてしまう
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371561.html
~依存・期待すると、ますます対象として固定化されてしまい「脈動している現象」が覚知できなくなるのです。信じれば、信じるほど反転する現象がもたらされてしまうのです。「疑わざるを信という」事が「信じる事」と言う意図となり反転してしまうのです。「疑わざるを信」とは「自然であること」が本来の意味なのです。~

<アルベアのブログ>「体感すること」心身の不適応者の話から
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12282371642.html
~現代人の「体感音痴症候群」は偏差値が70以上、IQが160以上あっても関係ありません。このことに薄々気づいていたのが「死ぬ瞬間」の著者で知られているキューブラ・ロスだったのです。~

<シンプル生命の詩>知能から智慧へ
http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/18015134.html
~知能というものは
平等でないことにストレスを感じる能力であり
知能が高いということは
より些細な事にも不平等を感じられるということだ

智慧というものは
むしろ違いを愉しむ工夫であり
智慧が豊富だということは
より些細な事にも愉しみを見出せるということだ~

<宿坊>話題と関係ないですが  投稿者:多華果
http://6027.teacup.com/situation/bbs/55026
~東大話法規則
 1)自分の信念ではなく、~

<白樺教育館>東大病 ‐ 「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm



[794] 意味連関 味わう体感知

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 8日(木)14時22分21秒   通報   返信・引用

<宿坊>「生命」に学べ、妙法蓮華経に学べへの考察!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70048

<宿坊>「思い出す」への考察!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70107

<宿坊>今此三界  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70128

<アルベアのブログ>「思考・概念」⇒文系的思考・理系的思考・体育系的思考
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12281785000.html

<アルベアのブログ>「現象がある」⇒「言語が生まれ」⇒「思考が生まれ」⇒「概念」が誕生した。
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12281781168.html

概念連関から思考・言語、そして現象連関へ、
その生命を味わっていく体感知。

この掲示板の内輪話になりますが、思い出すと言えば
「てぃーてぃーてぃー」を思い出します。

ライディーン違いの思い出。

元は戒壇の大御本尊の印象の話からでしたね。

<youtube>勇者ライディーン OP STEREO
https://www.youtube.com/watch?v=2i-s6cXI2Vg

↑↓
<youtube>YMO 雷電 (TV ver)
https://www.youtube.com/watch?v=ofyn-SPNV5Q

「てぃーてぃーてぃー」という言葉だけから
びびっと雷電のように思い出しつながる。
片隅にある記憶の呼び起こし。

勇者ライディーン OPは
この板のタイトルの元になっているレインボーマンの
アニメ版のOPを見るとどことなく共通点もあるようにも思う。

<youtube>Rainbowman OP
https://www.youtube.com/watch?v=Ukw8HMaJCIA


<歌詞タイム>勇者ライディーン
http://www.kasi-time.com/item-35482.html
<うたまっぷ>行けレインボーマン
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=T00609

<宿坊>御本尊一覧  投稿者:ROMですが…
http://6027.teacup.com/situation/bbs/70046



[793] 意味連関 法界と自身

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 6日(火)13時18分34秒   通報   返信・引用

<宿坊>日蓮仏法2.0さん  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69918
~「意味」として私たちは「御本尊」を「御本尊」としていると言えるのではないでしょうか。「境地冥合」とはその「意味」の合致です。「意味連関」です。ここで大切なのは、というより根幹となるのが「信じるに足る」ということです。私たちは「信」をもって「御本尊」に向かっています。~

この内容から触発を受けて↓の投稿

<宿坊>法理から智慧へ  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69972

議題は意味関連じゃなくて意味連関だよと指摘が入る。↓

<宿坊>意味連関!  投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69979

その中で御義口伝が引用される。

~法華経序品第一の始に「如」の字、普賢菩薩勧発品第二十八の終わりに「去」を置かれていることの御義口伝に次のようにあります。
 「去は開の義 如は合の義なり 開は分別の心なり 合は無分別の意なり、此の開合を生仏に配当する時は合は仏界 開は衆生なり、序品の始に如の字を顕したるは生仏不二の義なり=中略=如去の二字は生死の二法なり、伝教云く『去は無来之如来無去之円去』等と云云」(御義口伝782㌻)。
 如の字は一切法是心の義 去の字は心是一切法の義なり、一切法是心は迹門の不変真如なり心是一切法は本門の随縁真如なり、然る間・法界を一心に縮むるは如の義なり 法界に開くは去の義なり三諦三観の口決相承と意同じ」(御義口伝782㌻)~

<宿坊>連関・・・!  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69990

それを受けて再考察。

~創価の三代の会長は現代に難を呼び起こし
大御本尊信仰の上にリンケージさせた。
その合の仏界としての大御本尊がある。
その智慧を開いて社会を変革する創価の信心であった。~

~法界と自身・御本尊と自身・師匠と自身
その間に何も挟まない信心の血脈。~

こう来た。
御義口伝を開いていって
自然の流れから紡がれた言葉だ。

法界と自身?新しい気がする。

<SOKAnet 教学用語検索>法界(ほうかい)
「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。

要するに「自分が変われば環境も変わる」

苦しみの界にあったとして、誰かが変えてくれるものでは無く
本質は自身の事として変えていくんだということ。

法界と自身、言えなくはない。

しかし、法界と自身・御本尊と自身・師匠と自身
その間に何も挟まない信心の血脈。

こう並べると、その位置付けが・・・?

しかし妙に、あぁ!そうか!
というものでもある。

教義も史実も一旦おいて
本来の創価生命感覚の上で置き換えてみる。

師匠とは総じては一切衆生を善知識としていくこと
別しては創価三代と意を同じくする同志
肝要は池田先生

間に何も挟まず帰依する僧宝。
僧宝は本来的には自分が実際に所属する組織、僧伽。

法界とは総じては宇宙森羅万象の縁起の法
別しては法華経の一念三千の法
肝要は南無妙法蓮華経

間に何も挟まず帰依する法宝。
ただしこれは、理解の上や
特定の対象物にあるものではなく
今ここという法界それ自体。

御本尊とは総じてはあらゆる思想宗教哲学に紡がれた叡智
別しては日蓮己心の正宗分の智慧
肝要は久遠元初自受用報身の大御本尊

間に何も挟まず帰依する仏宝。
法を法として認識するための智慧。
仏界が仏界としてもたらす慈悲。

師匠へは自覚
御本尊へは内観
法界へは観照

それによって通じていく。

その気づいている意識の上で
非二元を体感覚知していき
三宝一体がただあると了解する。

受け取り手次第。
どう感じるのもあなたの生命現象です。

己心に十界を観る内観の智慧。
一切のことは序分流通分になる。
観心本尊抄の通り。

あなた自身の生命現象の体感覚知をしていくのです。

気づいていますか?
あなた自身が南無妙法蓮華経であることを。



[792] 諸法実相 如是力 如是作 相関図

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月 2日(金)20時26分12秒   通報   返信・引用   編集済

<諸法実相 如是力 如是作 相関>
:┏━━ 如是 本末究竟等 ━依報┓:
:法 ・ 空即是↓ 帰 ↑九識 ・・ 国:
:界 法┏→ 正┳ 色 ┳━━ ┓十 土:
:┃ 力┣→ 業┻ 法 ╋光明 ┫界 ┃:
:┃ ・ ┣ ┻応┻ 衆・ ┃:
: 浄 信・縁 生:
: ・ 力・起 ↓:
:行 ←━→ 識 ←━→ 受:
(中)経↑ 行・想 ↑・如 如・(仮)
:┃ ・無 力・起 ┃煩是 是・ ┃:
:┃ 慈明 ・報・ ↓悩報 縁仏 ┃:
:律 悲┗ 正報━ 想 ←心法 ┛力 対:
:動 ・ ・智慧↑ 命 ↓色即是 ・ 境:
:┗ ━━━ 如是 性 (空) 妙━━ ┛:

この図はニュアンスでしかない。

是の如くというのは
言葉の概念の中に探すものでは無く
気づいている意識そのものだということだ。

余分な思考概念を折って伏せて素直に観心をする。

己心に十界を観ることで智慧を湧かせる。

一念三千のウィキペディア
~因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義の文を見て、その文字の中に不二法門に入り、一心三観の観法を開悟会得し~云々とある。

因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義とは
因縁によって生じたもの、これは空であり、これは仮であり、これは中である
というようなことだ。

雲のごとく水のごとく: 道元・その人と教え(P76~130) P121

このリンクの前後を読めば
円教というものがいかなるものか
なんとなく分かるだろうか。

これは法理の探求である。

思考概念で説明を求めれば
どんどん複雑になる。

律動法によって
シンプルに腑に落ちるという
探求の終わりを早めることが出来る。

複雑さではない
これのままが
ただある。

~仏の成就(じょうじゅ)せる所は、第一の希有(けう)なる難解(なんげ)の法にして、唯(ただ)、仏と仏のみ、乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究(きわ)め尽くせばなり。謂(い)う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり~

その上で
「一念三千の法門は、ただ、法華経の本門、寿量品の文の底に沈めたり」
ということが

実現されていくところが
法華経の非二元である。



[791] 空~縁起→五陰→九識→十如是~

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月31日(水)12時44分46秒   通報   返信・引用

空を中心に考えていくと
実に複雑に見える仏法も
シンプルに理解していくことが出来る。

一念三千の要素、十界・十如是・三世間のうち
その概念が最後に成立しているのが十如是である。

なにせ法華経原典には無く
鳩摩羅什が漢訳する時に編み出したものである。

仏法の発展においてそれが
空を中心に、それを純円一実のものとする方向に
あるのかどうかを順を追ってみよう。

まずは縁起(ウィキペディア)を見よう。

「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」
これは二者関係の真理を見れば無我であり無分別・非二元であるということだ。

そしてそれは
「わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり」
自然の法・天然の法である。

だが
「およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである」
というところからは虚無を感じたり、全てを滅する行に向くかもしれない。

この時点では所詮は
「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」
という、各別された仏の特別な悟りであり、弟子はそれよりも低い悟りを目指すことになる。

その無我の悟りを得られるよう自身の内を見ていく方法に
五陰(五蘊・ウィキペディア)がある。

これは一個人の生命現象の内観であり、一念三千からすると
三世間の内の一つの部分観ということになる。

第七識をもって悟りとするような方向だ。

釈迦の悟りは九識だけれども
弟子は七識を得させてもらって満足する。

九識の段階を上げて八識以上の視座から五陰を見ていくと
個人という枠に留まらなくなっていく。

┏ ━→ 色 ━━ ┓
┃ ・・ ・ ・・ ┃
┃ ・・ ・ ・・ ↓
行 ←→ 識 ←→ 受
↑ ・・ ↑ ・・ ┃
┃ ・・ ↓ ・・ ┃
┗ ━━ 想 ←━ ┛

我々は現象を直接には見ていない。
にもかかわらず現象を見ていると思っているからそこに分離が生じている。

実際には五官によって受容された経験の五識を味わっている。
特殊な意識の使い方をしない限り見えるものが見えるし聞こえるものが聞こえる。
その時点で、特に意識しなくても人を見分けたり空間把握したりしている。
実際そのものではない仮の世界(仮諦)を経験していて
その経験から対象(音・色・味・匂い・感触)を分離して取り出すことは出来ない。

実際に取り出して示すことは出来ないけれども
六識の意識のイメージの中に再現・想起させることは出来る。
この想起されたものはどこにあるのかというと
空の世界(空諦)の中にあるのである。
この空諦の働きが乱れていると煩悩となり
強く差別を感じて苦しみを生む思考概念となる。

行は本来は自然・天然の電磁的・化学的・量子的な反応である。
暑い→汗が出る、酸っぱい→唾液が出る、興奮→鼓動が高鳴る等。
ここに煩悩からの意図思惑が強く働くと不良不全をきたしていく。
不自然・非天然を選択していくことになるからだ。
そういう道理であり法の働きである。
この自然の法に対して無我であるところが
無意識の七識となり、その中道の覚知が中諦になる。

無我の中道の法であると、色というのは個人の肉体でなく
宇宙のダイナミックな業の流転となり
それは常に蘇生・循環の働きであり
良いも悪いもないという無記になる。
この八識の覚知から現実の世界の中で
法のため人のためにいくのが菩薩道となる。
しかしそれだけでは延々と終わらない歴劫修行である。

そこで純円一実への視座の上昇が必要となる。
それを成すところが十如是の説かれているところとなる。
理の上での九識への視座の上昇である。

仏と仏だけが知っている実相は
「是の如き」なんだ。

は????

もうそんな風に言われたら
思考でいくら追い求めたって仕方がない。

余分な思考概念は折って伏せて素直になる。

今ここのあるがまま
自然の法・天然の法になりきる。

ただ律動と共にある。

その方法が唱題行でありアルベア法である。

そこに本門寿量品の如来の知見
正法光への飛翔がもたらされていく。

それが九識の視座になる。
それは真如(非二元)である。



[790] 空という真理

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月30日(火)13時26分10秒   通報   返信・引用   編集済

およそ仏教において本来は
「空」というものを中心にして考えなければ
その判別も、その真髄も無いと言える。

「空」自体は仏教の中で一貫して同じであるとも言えるし
やはりその教判によって違うとも言える。

<YAHOO!知恵袋>仏教大論議53 「小乗の空」と「大乗の空」とどう違うのか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1270716957

教判の側のアンサーがやや正確性に欠き
ベストアンサーを逃している。

五時八経というものが、史実とは違うという観点から
しばしば今日では無用のものだという論が展開されるが

五眼三身のステップアップの観点から
教判としての五時八経は意味を失わないと私は思う。

五重の相対の観点は史実とマッチさせていくことが出来る。

その点の整合性がきっちり説明されれば良いだけだと思う。

<日 蓮 正 宗 入 門>という個人HPの
1.釈尊一代の教え・・五時八教
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_2.htm

この内容をソラで言える学会員ってどれくらいいるだろう?

私自身、五時は言える
化法の四教は見れば、あぁこれね
化儀の四教は、こんなだっけか

そんな感じでもある。

<ウィキペディア>教相判釈←これも見比べれば補完されると思う。

さて<日 蓮 正 宗 入 門>「1.釈尊一代の教え・・五時八教」の説明の中で
~~円教(えんきょう)とは、宇宙法界の一切が円満に融合し、不可思議な当体であることを明かした教えです。
 円教では、空・仮・中の三諦は孤立することなく、一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて、一諦即三諦・三諦即一諦の関係が説かれています。 これを「円融の三諦」といいます。~~

~~なお、円教の理は華厳時・方等時・般若時にも一応説かれていますが、蔵・通・別の方便教と混合しているため、純粋な教えではありません。このためそれらを「爾前の円」といわれています。これに対して、法華経は純粋に円融円満の教義が明かされた教えであり、これを「純円独妙」といいます。~~

アルベア論で「まとも」と紹介されている非二元者のそれは
三諦別個の空ではなく円教的な無分離ではないかと思う。

観心とは観空でもある。

その意味から言うと
観心の本尊が

宇宙法界の一切が円満に融合した不可思議な当体でないわけがない。

しかるに日蓮正宗が創価学会にした批判を見ると
「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」
というようなことを「法勝人劣の邪義」だという。

http://www.correct-religion.com/ryouran/html/souka_2.html

それって「純円独妙」の法華経を否定し
正法を誹謗しているんじゃないのかな
と思う。

それを引き起こしているのが
唯授一人血脈付法への執着ではないかと。

我が身宝塔
己心の法
己心の仏性

それが日蓮大聖人ただ一人の専売特許
唯授一人血脈付法の御法主上人猊下だけの内証。

そんな仏法ではない。

御書にも数多くある。
己心の外にあると思えば無益だと。

三諦は、「誰でも」今ここにあるその経験を
思考概念ではなくダイレクトに見ていくと
そうであることが了解されていく。

それを見るためには
思考概念の癒着を解くことが必要になる。

その方法が自己機能の活性化だ。
知識の詰込みが仏法を深化させるのではない。

ただあるということに寄り添うのだ。
今ここに歓喜を湧現させていくのだ。



[789] ??

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月29日(月)13時24分29秒   通報   返信・引用

人法一箇について

<宿坊>松戸様へ  投稿者:一人のSGI
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69508
~この本の着眼点の根拠は、大御本尊信仰=日蓮久遠本仏信仰からの脱却を目指すというものですね。
つまり、世界にひとつの偉大な大御本尊、宇宙に一人の久遠の本仏、という、「ひとつだけ、ひとりだけ」というのは違うのではないか、、と。

言葉を変えて言えば、御本尊自体が秘めている普遍の価値と、大聖人も偉大な一人の凡夫なのだという真実を突き合わせて、御本尊と大聖人を
再解釈し、凡夫の私達の手に取り戻そうという試みだと言えますでしょうか。
そういう観点は私も同意します。~

悟りというものの探求
自己機能の活性化→意識機能の観察

→諸法緒論の蘇生→智慧の技化

→正法光の飛翔と救済

仏とは何か?
→非二元の覚知

本仏とは何か?
→一切の仏が師とした法華経の非二元
一念三千の慈悲からの救済

日蓮大聖人は末法の御本仏か?
→末法の御本仏を求める末法の衆生が
日蓮大聖人を末法の御本仏にしている

末法の衆生は何に従うべきか?
→正法光からの智慧
(所持者・主体者は無く権威は生じない)

正念とは何か?
→正法光を恐れない抵抗値の無い受容

正法光とは何か?
→正法の光

正法とは何か?
→非二元

非二元とは何か?
→深く意識の在り方が覚知された九識の真如

南無妙法蓮華経とは何か?
→法華経の意識体を通した
九識の真如からの救済

文字曼荼羅本尊とは何か?
→法華経の意識体を通した
救済の冥合のところ

折伏とは何か?
→正法光への抵抗を減らしていく救済

<気楽非活>「折伏」の用例。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/29/002055

大御本尊とは?

→→

ここに述べたことの全て
大御本尊を否定しない意識体による
ストーリーであって
生命それ自体・非二元それ自体ではない。

非二元からの否定する必要がないための
ストーリーでもある。

一切の権威ではなく
非二元の正法光において
否定する必要はない。

一は全、全は一。

否定しないと言いながら
実は全部の意味付けを否定してもいて
それでもやっぱり否定される存在は無い
とかいいながら存在は否定されて
気づいている意識だけがあるとも言えるし

まぁ、意識っていうものが
まずはどうなっているのかです。

それがなければ
本当の救済などないということが
それによって了解され

そのことのためとして再展開
蘇生という方向をもたらすのです。

美辞麗句と真実は見分けなければならない。

意味だけの意味なのか
実在の正法光の体感覚知なのか。

アルベア論は今、
必要なこととして
救済の気づきのためにあります。



[788] 欺瞞

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月27日(土)14時23分22秒   通報   返信・引用   編集済

「友好活動」って何なんですかね。

<気楽非活>選挙支援活動の欺瞞。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/25/060008

話しはちょっと変わるけど例えば

スポーツ振興会というものがあったとして

スポーツをすることの心身への好影響を学ぶ。

そういう研究のデータを集めたりして
どうやって行こうかと会議を重ねる。

やがてスポーツの振興ではなく
スポーツ振興会自体の拡大と権限の強化に向かっていく。

野球はこういうふうにしなさい
サッカーはこうやってやりなさい
相撲はこうでなきゃいかん

そういう力が増す。

そこに利害が絡んで
各種企業団体と癒着が起きる。

スポーツ振興会の会員を利益のために使う。

我々はスポーツの振興によって健全な世界にしていこうとしていたはずなのに
全然違ってしまっているじゃないかと会員が不満を言い出す。

スポーツ振興会の反逆者として処分される。

一人になって
地域にスポーツのクラブでも作って
本来のスポーツの振興に貢献する。

そんな一人ひとりが集まって
交流を図ったりする。

スポーツ振興会からすれば
反逆者の集団。

なんだかね。

それってすでに
スポーツ振興会の目的って変わってしまっているよね。

創価学会は今
日蓮仏法を基調とした団体で
居続けられているのでしょうかね?

仏法の体感・体験に溢れているのかどうか?



[787] レッツ ハンドシグナル

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月25日(木)12時55分9秒   通報   返信・引用

ポルナレフ教官の
円融円満法レッスン動画。

http://blog.livedoor.jp/gogensanzin/archives/17525394.html



[786] 四聖活

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月21日(日)10時51分26秒   通報   返信・引用   編集済

私が思うに本当の脱構築とは
「絶対的な正しさが存在しうる」という
分離を離れることだと認識する。

正しさを追求しようというマインドにとってそれは
自分が特別に悪いものだと認定され
排除されるような危機感を抱き反発する。

相手を打ち負かすなどして
正しさを保存・強化し
それが正しいことであると同意を求め
偏った正義の理念を構築していく。

「強くなりたい」「分かってほしい」「認めてほしい」
そういった不足感があり

嫉んだり謗ったり怒ったり

勝つと決めて努力を開始しても
それは善にも悪にも通じ
臆病から脱しきったわけではない。

正しさが単独で存在することは無く
間違いを間違いだと発見し指摘するから
それを指摘している自分の側が正しいという
二極性を仮に設定しているだけだ。

唯一絶対に正しいものを構築しようとすればするほど
それ以外のものは悪として構築されていく。

正しいものを認めてもらいたいと願うほどに
自分は悪い世界の中を生きているのだということになる。

脱構築は構築を根本的に否定しているわけではない。
構築という前提が無ければ脱構築は無く
そのどちらが正しいのかということも互いの相互作用だと
止揚しうるための技術として脱構築があるだけだ。

六道の渦中の自我を離れることで
六道の世界・自身の内の六道の機能を
同時に俯瞰していく技術。

仏法の捉え直しを言っているのだ。
誰の生命をも否定していない。

六道から離れる技術であるためには
習って再現することが出来る必要がある。

唱題行やアルベア法(アルベアのブログ)や
パンツマルミエ法(円融円満法[564] [566] [567] [569])
各種瞑想法や呼吸法やヨガ等

考えてもバカバカしく思えるのは
そもそも考えるためのものでは無く
やってみるためのものであるからだ。

頭で考えると難行苦行である方が効果が高いように思い
自分を追い込むように行を行おうとするかもしれないが
誰でも簡単・楽ちんに出来ることの方が即歓喜につながっている方法である。

自身の心身の不良不全が改善する。
これを味わっていくことでその法を了解していく。
こちらに起こることは向こう側にも起こせるという気づきがもたらされる。
求道者から救済者への反転が起こる。

そうするとストーリーではなく
今ここの現象として
ただあるということで
奇跡・蘇生・復活の存在であることに向かっていく。

始まりも終わりも
あらゆる分離も無くなっていく。

善悪無記よりも静かな
その通りでしかない黄金の歓喜の世界。

九識心王真如の都。

本尊というのはそれである。

このことを言われてマインドがうるさく言うのは
それは全て思考概念のストーリーではないですか?

その思考概念・感情情動は誰が作っていますか?
あなたではないですか?

なぜそれを作ったんですか?

最初の最初の想い。
本当はどうしてほしかったんですか?

その時の相手の立場に立ってみて考えてみて下さい。

本当はどうしようとして
どんな想いでいたのでしょうか?

全部全部、あなたが作っているのです。

あなたは今でも生かされているのです。
どんなに間違いを上書きしても見捨てられていないのです。

全ては受容という現象化
全ては受容されているのです。

マインドを鎮めて下さい。
ひたすらただあってみてください。
新しい息を吸い
古い息を吐きだしてください。

あなたは本当に欲しいものに
あなたの意志で直接向かって良いのです。

世界の大転換です。



[785] ふでをすすめる

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月20日(土)11時37分46秒   通報   返信・引用

松戸氏の日蓮仏法2.0であるが
順に読み進めようとすると凡雑だと感じ
なかなか読み進まない。

私、読む側の書を読むということへの力不足もあるが
松戸氏本人も、そこのところは凡雑になっている
と認めているところもあるようだ。

そこで、ご本人と絡んでみたり
他の人と絡んでいるところを見ながら
言っているところを抜き出して読んでみると

なるほどなるほど
面白いという印象も受ける。

私にとっても、考えを深める契機にもなる。

<宿坊>不二の仏法と不二否定の権威  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/69048

共通する部分を見ようと思えば
共通する部分は多いのだと思う。

凡雑にはなっているが、それだけ
長年にわたって多くの議論を経験してきたからでもあるようだ。

松戸市のそれは論議の上から(単に論理ではない)
本当の南無妙法蓮華経に向かっていこうという傾向

私のそれは法理と体感の上から
本当の南無妙法蓮華経の中身を示し促そうという傾向

(と書くと主観の思考概念なので
本来そういう違いは無いのかもしれないが)

があるかもしれない。

今後の展開も深化の意思を持ちながら
観照・俯瞰していこう。



[784] 後世の造立

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月15日(月)15時04分33秒   通報   返信・引用   編集済

戒壇の大御本尊は後世の造立であるということについて
その論拠となるところを確認してみよう。

端的な結論としては
日禅授与本尊の主題を写し取り
板に合わせてその他の相貌が配置・書写されている。
<youtube>犀角独歩 大石寺「本門戒壇の大御本尊」を検証する①
https://www.youtube.com/watch?v=bIspyPbyfiQ

例えば、インターネットでIPアドレスが一致していれば
同一人物であるとしか考えられないように

主題の文字が完全に一致しているなら
そのまま写し取ったものとしか考えられない。

絶版となっているが金原 明彦氏の
日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実には
多角的に資料によって検証してある。

(所持している人と知り合う機会があったので
読まさせてもらいました)

例えば「経(經)」の書き方について
弘安二年十月十二日であれば
日蓮大聖人の筆は「つ」の形になっているべきところが
戒壇の大御本尊ではそれより後の「ツ」の形になっている。

く 一   く 一
く つ   く ツ
不 土   不 土

また、その他相貌も比較検証すると
弘安三年三月から同八月までの本尊であることが導き出され
弘安二年十月十二日という日付と一致しない。

弘安3年5月9日の日禅授与の本尊を
書写した相貌であるとしか立証されようがないのだ。

ここで留意しておきたいのは真実を知った上で
例えば金原氏は信仰の対象として再評価しようという
その姿勢があることである。

少なくとも創価三代の会長は
(教学レポート・遠藤文書から池田先生は
大御本尊の事はいじってはいけないとされたことが真実であるなら)
戒壇の大御本尊への信心を貫いており

創価学会の信心は、そこに連なっているのだから
簡単に放棄するべきものでは無い。

さて、それでは戒壇の大御本尊は
いつ誰が何のために造立したのか
ということになる。

戒壇の大御本尊は正面から見て、ただ縦長の長方形ではなく
下部に台座に取り付けるための束になっている構造があるという。

日蓮大聖人の御真筆の本尊が丁重に秘蔵されるものだとして
対してこの楠の板曼荼羅は即座に信徒が目通りできるものとして
法華講衆等(戒壇本尊の腰書きにあるが日蓮大聖人御在世時には確認できない)
の信仰心からの供養によって造立されたのではないか

そうすると元来は、弘安二年十月十二日という日付は真筆だと偽るためではなく
もっと別の意味、本来の『聖人御難事』の「余は二十七年なり」
二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃える純粋なものだったのではないか。

参照<気楽非活>「余は二十七年なり」って。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2016/12/31/001320

時期について金原氏の推察によると
戒壇の大御本尊の他に二体のみ存在する楠板本尊との
関連性から考えて応水十九年(1402年)を下限
日時~日影の時の造立であろうということである。

さて、戒壇の大御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」
と書かれているのであるが
「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
という日興門流の教義に即しておらず

元々はそのような日蓮大聖人の真筆の
生身の日蓮大聖人の当体というような
肝心の中心の御本尊として造立されていない。

日蓮正宗の御本尊は『御本尊七箇相承』に適うように
書かれているが、これは日興上人・日目上人の在世以後に
作られたものだと思われる。

<気楽非活>『御本尊七箇相承』から考える。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/12/001857

一方で日興門流において「仏滅度後二千二百三十余年」
への「三十余年と書かれている曼荼羅こそが肝心」
というような教義は戒壇の大御本尊が造立されたであろう
時期よりも早くから見て取れる。

<気楽非活>興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/12/060620

七箇相承に関しては金原氏の著作には無く
私の考察である。

金原氏の研究によると、
日蓮大聖人滅後の日興上人の足跡を見ても
身延に相承された大御本尊があったとは
見ることが出来ないという事実を浮かび上がらせている。

日蓮正宗では「唯授一人の血脈相承」というが
少なくとも史実の上では
日蓮大聖人から日興上人への
あったとされる相承に
戒壇の大御本尊は含まれていない。

日興門流における「奉書写之」とは
戒壇の大御本尊を書写したということではなく

単に「これは書写した御本尊です」ということ。

日興上人が手本として書写した御本尊は
複数実在が確認できる。

さて、二十七年の間大難に遭って法華経の行者の姿を示した日蓮大聖人と
熱原の法難に殉教した農民信徒の信心を讃えた御本尊を信仰の中心とし

『御本尊七箇相承』等によって本尊の雑乱が防がれ

日蓮大聖人に元々無かったわけではない
本覚の思想が具体的に組み入れられ
末法の御本仏日蓮大聖人と立てた宗派の中で

現実の上で投獄されながらも国家諫暁し殉教された初代会長。
共に投獄され、本覚の本質を体得された二代会長。
一閻浮提総与の世界への広宣流布を実現していった三代会長。

ここには必然性、
これでなければならなかったというものもある。

その意味が果たして
戦後昭和の日本において
一定の役割を果たした

というようなものに納まって良いものかどうか。

今再び、日本は戦争できる国を視野に入れた方向に
舵を切っている。

本来、創価学会として最も大切にしなければならない部分が
今、全く真逆のことを会長を中心とした執行部を先頭にして
進められている。

「立正安国」の精神は
どうした時に最も息づいているのか。

宗教を個人の観念論に終わらせず
実際の平和勢力として蘇生させていく

誰かがやってくれるだろうでは
どうにもならない。

自分がやると決めることだ。
やると決めるから力が得られるのである。

信力行力仏力法力の全てをもって
成し遂げていくのである。



[783] 狂信・狂行・狂学

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月13日(土)12時14分30秒   通報   返信・引用

<2003年度任用試験のために>信・行・学
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/3390/ninyo/sin_gyo_gaku.html

「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361㌻)

~信は信受ともいいます。教えを信じて受け入れるということです。自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道が信なのです。~

~正しい法理を学ぶという、この教学の研鑚がないと、ともすれば我見という、自分勝手な理解に陥ってしまう危険性があり、また誤った教えを説く者にだまされてしまう恐れがあります。~

信・行・学と区別し別個のものというような認識があるかもしれないが
それらは別々にどれかあれば良いのではなく、本来一体でそろっている。
その信心において、「行者として学ぶ」ことが無ければ
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道を示すことは無い。

正しくその信心において、「行者として学ぶ」ことが有れば必ず
海のように広大な仏の境涯に入るための唯一の道の中にいる。

折伏をすれば難が起こるのは道理。
「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」
である。

信者として学ぶのか学者として学ぶのか行者として学ぶのかは違い
一生成仏へは、信心をもって行者として学ぶ上で
師子王の如くなる心をもつことが肝要である。

師弟不二である。

<宿坊>第一回関東記念総会・第三回全国女子部幹部会 平成三年一月十五日(全集七十六巻)  投稿者:飛車
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68684

~正法を信じている人には、「邪(じゃ)信(しん)」はないが、「狂信(きょうしん)」は起(お)こりうる。
「正信(しょうしん)」か「狂信(きょうしん)」か――その分かれ目は、人としての《振(ふ)る舞(ま)い》のなかに現れるといってよい。社会性に反する行動や、非常識な言動で人々に迷惑をかけることは、「正信」の人の姿ではない。「狂信」に通じていくと考えられる。~

<宿坊>池田先生の思想に学ぶ ~狂信者~  投稿者:信濃町の人びと
http://6027.teacup.com/situation/bbs/21099

~(エリー・ヴィーゼル)博士は述べられている。
 「狂信的とは、宗教においてはドグマティズム(教条主義、独断的主張)であり、政治においては全体主義である。狂信者は、真実を歪め、侵す。彼は物事や人々を、あるがままに見ることができず、憎悪によって、偶像やイメージをたいへん醜く作りだし、それらに憤慨する」と。
 狂信者とは、自分につごうのいいように事実をねじ曲げ、正しいものを正しいと見ることができない。意にそわないものは悪と決めつけ、憎しみによって相手の悪いイメージをふくらませ、勝手に怒りだすというのである。
 じつに、“本質”をついている。
 「狂信者は、本当の議論から身を隠そうとする。なぜなら、対話の概念が、彼には相いれない異質のものだからである。狂信者は、多元論や多様性を恐れる。また学問をひどく嫌う。彼はモノローグ(独白)によってのみ、いかに話すかを知っている。狂信者にとって、対話は無用なものなのである」
 対話拒否――これが狂信者の証であると~

この概念基準から言うと
現在の創価は「狂信化」している。

否、ずっと狂信性を組織内に抱えていたから
智者としてそれを指摘していた。

正信・邪信・狂信
正行・邪行・狂行
正学・邪学・狂学

アンチアンチというのは
アンチよりも視野狭窄であることも多い。

話しにならない独善性。

日本会議の方向性の内閣(悪王)が
人間主義を破って全体主義を行使し(正法を破る)
狂信の職員たちが徒党を組んで(邪法の僧等が方人をなして)
池田先生の指導を改竄・都合よく使用する時(智者を失はん時)
難を恐れず師弟不二で人間主義を行く心の者が(師子王の如くなる心をもてる者)
必ず自身の境涯を遙に超えた、海のように広大な仏の境涯に入っていく(必ず仏になるべし)

それは自身の生命現象として起こすことであって
思考概念で思い込んだって仕方ないけれどもね。

対話拒否の狂信の会長・執行部・職員。
学会員同士の対話まで制限し査問処分を繰り返す狂行。
見た目だけ取り繕って正当化する狂学。

狂ったバイアスの連鎖。

あなたの選択です。
どんな心をもつのか。

狂信・狂行・狂学の苦しみのループから抜け出るのは
その心の選択です。



[782] 学者、信者、行者

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月12日(金)12時30分8秒   通報   返信・引用

内容としてかぶるが
再度、学者、信者、行者の違いという見方で

母が「今夜はご馳走よ、早く帰っておいで」と、子にメールを打って、
この母が後に信仰の対象になったとする話を考えてみる。

聖職者の用意したご馳走を食べるのが信者の信仰の活動とする。
本山が究極のご馳走のレシピなるものを握っている。
その究極のレシピは信仰対象の母が作ったものとされているが、実際には後世に作られたもの。
それでも信者たちは、それを疑わずに、それを食し、それによって得た活力によって実生活に充実を得ていた。
ある学者が、そんなレシピが当時に存在したはずがない、と証明する。
でも、それは、信者として、子の側として恩恵を受ける本質とも
行者として、母の側に立って、愛する人を歓喜させようという本質とも
ズレた話になる。
だからと言っても、その宗教としては、大切なのは心で、ご馳走は関係ないというものではなく
あくまでも、ご馳走を食べるということを通して、異体同心の団結をして、本質の心を広宣流布する。
その実践が、その実践として最も力を持ってなされるために、そのための手立てというものと、
それを捻じ曲げて、聖職者が上、信者が下というような、権威のために作られたものの違い
あるいは、それが作られた経緯とは結果的に、真逆の効果として発揮される場合も考えられる。

学者は、宗祖原理の純粋性を見ようとするが、心が分からないので視野が狭くなり、確証性バイアスで、正当性証明のための、構築という方向になる。

対して、行者である場合には、法のため人のため広宣流布のためという奮い起こした心が、仏法に照らして間違いがないかという対境として見る。その感応、共振の感覚の中で、真筆では無いとされる中にも、確かにこの共振を増幅させるためのものを発見したりする。

これによってこれを広宣流布するために、信者としての、ご馳走を食べることによって、その原動力を得て活動していく。

悲しいかな現在、学会本部の動向は、
三代の会長が貫いた行者の心に肉薄することなく
大切なものをどんどん失っていく方向だ。



[781] 信心と学問

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月11日(木)14時10分38秒   通報   返信・引用

信心の側の見方と
学問の側の見方

自ずから信心の側は
定義しづらいものがある。

例えば母が子に
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
と、メールを打ったとする。

後世にこの母が信仰の対象になったとする。

この母がごちそうと定義したものは何か?
肉料理が無ければならないとか
何品から何品であるとか
それを御馳走として頂くことが信仰活動だとする。

米の炊き方から具材の切り方
味付け調理手順に至るまで
細かく設定するのか

いやいや、母が子に対した
心こそ大切なんだとするのか。

しかし、母が子を想うように
「しなければならない」と言うと
いかにも窮屈な義務感になり

本来の母の想いとは異質なものになる。

信者は子でありただ母のごちそうを求めればよい
という場合には
ごちそうを提供する聖職者の言うことが
絶対化され一方的になり
子が母を超えて成長していくようなことは
あってはならないというような
それも本来の母の想いとは異質なものになる。

ある時、子が親孝行しようとして
究極の本式の御馳走を食べるのに
ふさわしい建物を建てるためにと
300億円用意してきたとする。

それもどうやって集めたのかと聞くと
わずか4日間で集めたと言ったとする。

聖職者が
この究極のごちそうは私が提供するのだから
あなたたちは有難く思えという態度になったとする。

信者は信者で
こんな孝行を実現できる子は他にはない。
母なる存在を超えてごちそうの恩恵を世界に広めるのだ
という性格だったとする。

そのなかでお互いがお互いの中に
それとして「あるまじき部分」を見て
指摘し合うとして

取り巻きが問題を悪化させる。

ごちそうのことはよくわからないが
この親子の巨大な巨額を動かせるような力を
なんとか利用することは出来ないだろうかと
考えるものが出てくる。

この大きな力を
世間的には悪であるようなことをしてでも
より確実でより大きなものにしていこうと
動くものが出てくる。

一番の邪魔者は
物言わぬ究極のごちそうよりも
巨大な力を行使させた子のそのトップの
巨大な求心力であった。

その子のトップは
より多くの人を御馳走のパーティーに参加させようと
捉え方によってはあたかも
自分がごちそうを提供しふるまっているかのように
民衆に接していた。

そこに難癖をつけた。

ごちそうを提供するのは母で
母は母であるというだけで
子よりも正しい。
子は母の言うことを聞かなければいけない。

そういう決着をつけさせた。

元子のトップは一人
「今夜はごちそうだよ、早く帰っておいで」
というありのままの真心を
それと同じように持ち続けた。

ごちそうの品目に対する研鑽
この品まではごちそうに加えても良いとか言うことと

このごちそうを振る舞った時の心

信心とは何なのか?

究極のごちそうを振る舞われて感動した
してもらってうれしかったことを

自分も自分のありのままで
人に喜んでもらえるように行動していこうと

そういうことを
理屈で押さえ込むのでは

そういう権威による統率によるのであれば

本当の信心は
失われてしまうのではないかと

俯瞰が必要だということだ。



[780] 西洋東洋の俯瞰へ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 9日(火)12時07分51秒   通報   返信・引用

ざっくりと言えば西洋と東洋の感受性の違いというものがある。

どちらかと言えば西洋的なのは
論理的に決定因子を抽出して
それさえ利用できれば他はどうでもいい。
物事の変化は自分によって起こすものだ。

どちらかと言えば東洋的なのは
細かい違い決定因子なんていうものは気にせず
ぱっと見の雰囲気という曖昧なもので
馴染めるか馴染めないかという居心地を見る。
物事の変化は環境の変化によるところが大きい。

<東洋人と西洋人の心理の違い by 世界まる見え特捜部>
https://plaza.rakuten.co.jp/adbiz/diary/200908270000/

52年路線問題と54年宗門問題の間の年
昭和53年、海外での布教を考察したハワイレポートというものがある。
http://nippon-senmon.tripod.com/soukagakkai/shukyou/hawaii_report.html

松戸氏の日蓮仏法2.0の触りを読んでみているが
氏が脱構築と呼んでいるものは単に
日蓮正宗教義から脱却しようとする
西洋的自己完成のための理屈の概念
といった感がある。

従来の儀式的仏法が受け入れられがたい海外
また、日本においても独立した宗教団体として
脱却するものを考えようという上では
一定の効果はあるのであろうが

縁起、空観、一念三千の仏法から言うと
その原理抽出志向には
物足りなさも感じる。

何より、思考概念だなぁ、と。

池田先生の「法華経の智慧」が創価としての
まずもっての思考概念からの完成形である。

西洋と東洋の二極性という構築を
俯瞰した眼差しから脱構築している
深い生命哲学が根ざしている。

松戸仏法の思考概念のそれとは
申し訳ないがモノが違う。

<正>日本的伝統教義<反>西洋的仏法受容
<合>法華経の智慧

そんな感じがする。
その構図を学ぶ教材の一つとして

あるいは、確かに到達点としてではなく
入り口を広げるという点においては

価値を見出せることを否定しないが

法華経の智慧を入り口
松戸仏法を完成形のように見るのは
違うのではないかと思う。

あくまで触りを読んだ個人的感想であることを
断っておく。

ところで
原田執行部が断行しようとした日蓮世界宗の構想は
ハワイレポートで既に海外には受け入れられないことが
指摘されているそのものだ。

民衆をいかに無視した横暴であるか

日本的伝統教義を踏みにじり
西洋的仏法受容を踏みにじり
トインビー対談から法華経の智慧まで
過去のものとして無かったことにしようとする。

直弟子?
ちょっと歌っちゃうよ?

♪あるー日 聖教新聞に
でっかい文字が躍ってた
私の直弟子会長を
中心にしていくんだよ~

嘘こくな このやろー
こきゃぁがったな このやろー

師匠を宣揚するどころか
全てを踏みにじる~

(曲「くそくらえ節」)



[779] 自在を自在として自在に通じる智慧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 6日(土)09時56分45秒   通報   返信・引用

今という生命現象それ自体は
それ自体として自在に起こっている。

この生命現象を正しく理解し
あるべき自然さを何とか表現して
従うべき法として表そうとすれば非自在になる。

それは思考概念であり100%の正確さにはなりえない。
砂粒一つだって
何個の原子からできていて
どういった素粒子の現象で
どういう環境の時にはどういう振る舞いをして
全体の中ではどういう役割を担っていて
どういった経緯で砂粒になっていて
その大元の由来は何で
どんな味で匂いで色で
誰のどんな願いによってその開示を要請されて
そのことが社会に対してどんな影響をもたらすのか・・・

国土世間というと広い世界を思い浮かべるが
この砂粒一つもそのまま国土世間でもある。

現象であり生命であり法華経であり一念三千である。

ただある。
あるようにあるということが
何ものにおいても同じでありそこに分離は無く
しかも世間として違いの現れを一念心が経験する。

人間の思考力想像力というものは
自ずから限界があるが
法という非自在の規定が
それを矮小化するものなのか
それでもなお無限へと飛翔させゆくものなのか
そこが色界無色界の分水嶺でもあり
仏法と非仏法の違いでもある。
瞑想力というものは
思索力をゆうに越えて
空相実相の真実を観るものである。
仏教だから仏法なのではなく
その眼差しが仏法である。
本当の一流は仏法に通じている。

本当には実際にはどれだけ
池田先生本人自身が
世界の一流との対談を成しえたのかはともかく

創価というものがそれらを成し遂げ
それは池田先生あってこそだった
というのは少なくとも本当だろう。

世界の一流の中での仏法の統合。
人類の精神の遺産の結実。
平和文化教育の開花した世界の実現へ。

それぞれの自身の、こちらの妙法が
それら一流から一念三千の真実を
映し出せるように磨き上げられていなければ
その道を踏襲し実現させていくことは出来ない。

いくら近くで薫陶を受けたような者でも
そこに野心や名聞名利や嫉妬があるのであれば
滑稽なほどにその全体が見えていない。
お山の大将になれば全部を牛耳ることが出来ると思っている。

どのような組織団体でも
自分で作り上げたわけではない後継ぎ争いだけの代には
通じていたはずのものが変異してしまうということが起こりうる。

本当の指導者には
偉大な詩人の美しい詩心のような精神が必要だ。

それは聴衆受けとかそういうことではなく
野心や名聞名利や嫉妬を越えて強く輝くには
この精神の獲得によるしかないということだ。

外へ打って出ない集った者たちだけ
整った修行の中で静かに瞑想するだけなら
そこまでのものは必要ないかもしれないが

本来の池田先生が目指したはずの
世界の交流からなる仏法には

その偉大な師子王の精神の獲得が必要である。

ただこの一点において
欲望渦巻く社会から離れて修行するのではなく
欲望渦巻く社会の中にいるままでの修行にあって
歓喜へと反転させていくことが出来たのである。

特権階級のようにも振る舞える位置にあって
この師子王の詩心があるかどうかが
欲界の第六天か仏法へ通じる偉大な指導者かの
非非自在次元での妙法に照らされた本有かどうかの
分水嶺となっていくものがある。

民衆の勇気と歓喜に直結した
真実の自在を自在として自在に顕す詩心。

それによれば名聞名利はすぐに炙り出される。
欲界の権威はそうなったら滅ぼされると思い
躍起になってそれを迫害し仏法を破壊する。

一人ひとりが師子王の己心の法を打ち立てる。
その法のため人のための気づきの促しである。

後ろ暗い陰険な世界
組織信仰とは決別するのだ。

民衆の凱歌を共に歌おう。



[778] 最良の選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 5日(金)03時30分19秒   通報   返信・引用   編集済

「自在」ということを仮に

何者にも影響されることの無い智慧
他者を意のままにする影響力

の二通り設定しよう。

他者を意のままにする影響力は
第六天の魔王

何者にも影響されることの無い智慧は
報身如来

とすると

その間には

ルールの下での統制という良識の「非自在」があり
制度に従った正義の梵天に当てはまる。

報身如来の智慧を「自在」という基準に考えれば
梵天は「非自在」
第六天は「非非自在」であり
本当にはそのような「自在」は「自在」として存在していない。

化儀・教義というものは
「非自在」に相当する。

「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり」(富士宗学要集 一ー一一二頁)

御本尊授与というのは
理に適った公平さで行われるべきである。

宗門が学会を切ったような
学会本部がセルビアを切ったような

「非非自在」によって「第一尊厳の化儀」を覆すのは
教団を世俗化させ仏法の功徳を反転させることになる。

「非自在」を通じて本当の「自在」を覚知する道であるべきところが
「自在」と「非非自在」を混同した増上慢を量産して
いよいよ歓喜の無い異様な教団へと変貌させる。

とにかく我々が中心であり正義なんだ。
言うことを聞かないならば悪として断罪するのみだ。

自由がきかないシワ寄せを他者に押し付け
結局ますます自由がきかなくなる。

何もかもがぐちゃぐちゃになって
もうどうしてよいのか自分たちにも分からなくなる。

そして権威に頼るしかなくなる。

本来の「自在」の覚知のための仏法の「非自在」を考えてみると

それは一切の何者にも影響されない智慧を最深の本質とするので

あなたはこの非自在を縁として
一切の何者にも影響されない智慧を開くべきであるが
それはもちろん一切の何者にも影響されないものなので
ここに非自在として用意された一切の縁や私の言葉は
本質的究極的には、その獲得に一切影響を与えるものでは無い。

要するに「一人立て」だ。

その「一人立て」というメッセージを
最大限に自覚するための最良の手立て。

そういうものとして化儀・教義を樹立するためには
自ら一人立ち一切の何者にも影響されない智慧を覚知しておくことが求められる。

そういったレベルでの話では
史実か史実でないかよりも
覚知できるのか覚知できないのかが重要になる。

最良の結果が出せるのは史実だとは限らない。

生命と言っても関係性の連続循環でしかない。

今回、仮に
「自在」「非自在」「非非自在」としたが
その三界の区別を明らかに見

非二元の側の実際の如来の智慧によって
(行使する自我の個人は無い)

実際の世界の中でどれだけのものを
気づいていけるのかである。

どこまでも大きく俯瞰しなければ見誤る。

個人の生活の悩みだって
指導を受けて信心の眼からの俯瞰を求めるのに

広宣流布の全体に関わる一大事を思うにあっては
個人的な拘りというものの執着ではなく
だからと言って多数派の意見にまとまれば良いというものでもなく

本質を本質として見抜いた上で
決断と決断の

本当に全員が享受できるためのものへと
浄化コントロール推進が

個々人を超えて無始無終の非二元のレベルで起こっていることを
イメージと呼吸というところのただ生命という勝負所に
呼び起こし湧現させる。

その自身の禅定と大聖人の御書と二十八品の法華経とが
真偽史実を越えて生命の上で合致する位置。

師弟不二とそれとが同一であること。

その究極性は究極的には
何に縁して何を成したからということに
一切影響されることなく

そもそも影響される自分があるから
それを自分と思っては隠されて気づけないのであって

ただそのベールをはがしていけば
あることに気づく歓喜には至る。

広宣流布という次元には
法華経の非二元の体感覚知によることだけの今ここである。



[777] がいこつの諸行無常

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 5月 1日(月)02時09分28秒   通報   返信・引用   編集済

小さい頃(小学校低学年のころ?)
よく聞いていた歌

くそくらえ節
https://www.youtube.com/watch?v=kv03261ldZ0
がいこつの唄
https://www.youtube.com/watch?v=-ffrIDEGqTY

そういうのがベースにあり
そういった世の中のおかしさに対して
それの解決を実現させていく創価学会であり
そのための深い仏法哲学として
生命の営みを解き明かしたもの
それを一念三千として私は
実際の世界の仕組みを解き明かすために
何度も何度も何度も何度も
考察を重ねてきた。

私にとって境涯の深さ大きさとは
一念三千の理解・体感覚知・智慧化・技化の度合いでもある。

元より私は、その事の一念三千のためにある。

増上慢との対峙
その難の中で理解・体感覚知・智慧化・技化は
次のステップへと私を運んでくれる。

そういう段階を経てきているから
それは自ずからある程度論理的であるのが自然だが

一個の論理に執着しては
論理は成熟しないというパラドクスがある。

例えば整数以外を数と認めないとすれば
数学の発展はそこで止まってしまう。

非科学的という言葉があるが
大方のそれは正しい表現ではない。

未科学的と言うべきだ。

気功や瞑想等、非科学的な心の持ちようと思われたのも今は過去だ。
今では代謝機能や脳の構造にまで影響をもたらすことが研究されている。

科学よりも先に、現象は実際に起こっているのだ。

科学だけあっても実際の生活に現象として役に立たなければその価値は薄い。

体感の上の生命の基本は一念三千しかない。

その三世間、非二元までの了解のためには
アルベア論の領域までを体感覚知することが求められる。

宇宙の始まりをさえ越える覚知がある。

三世間を読み違わないことは難しい。

衆生というと人びとであるが
基本的には衆生世間という場合には
仮和合した一個の生命、一人である。

無限に多くの一人でありながらも
全ての一人はただ一人でもある。

国土世間はそこにいる衆生にとって一つでありながら
そこにある生命の分だけ無限に別々でもある。

経験は見えているはずのものが
全て見えているわけではない。

ただ結論ありきで論理を組み立てるのではなく
あるがままを見ていく体感のままに
そのもののそのままが究極の論理になる。

そうなんだけれどそれが難しいのは

日常会話の言葉だけではない
本来体感から確立された仏法用語を借りたりするが
その仏法用語なりを概念として理解しようとしてしまうため
体感と概念との乖離が生じる。

概念に留まってしまえば
むしろあるがままを観るためには邪魔となり
その論理が思考概念となる以上は
必ず破折が可能なものとなる。

あるがまま自体だけが
破折が不可能である。

仏法において本来
いわゆる昨今の学会活動のようなことが行なのではなく
そのあるがままへの
イメージ法・呼吸法といった不二への行法としての
唱題行があり
そこへ向かう上での二者関係という生命の体得に
折伏行がある。

それらの出発点が信心であるが
この信心ということには段階がある。

それが五眼三身ということになる。

日蓮仏法を行じることは
地涌の菩薩を行じることであるが

その中にも十界があるのであり

概念の解除をするべき段階というのはあるのである。

そうして無上道に入る。

組織信仰というものは
それをさせないようにする
思考概念の上塗りの世界である。

組織信仰を打ち破り
真の生命の輝きを開くのだ。



[776] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月27日(木)12時17分24秒   通報   返信・引用

プライスレスなんて言葉が流行って
誰も彼もあれにもこれにも
プライスレスって言いだすと
プライスレスの価値が下がるよね。

全然一生のお願いじゃない一生のお願い的に。

究極のプラスレスは我が生命。

雪山童子はその生命の法のために今生の身を鬼神の食べ物として差し出す。
死んでしまってもいいくらいに生命に価値がある。と。

前に確か、貧乏は豊かさの一形態なんてのも
紹介しましたね。

正反対が同一とも言えるのは
紙の表と裏のようなものだから。

また、ヤンキーがちょっと優しいところを見せると
ものすごくいい人に思い

聖職者がちょっと悪いことをすると
ものすごい極悪人に思う。

いっそ普通にはどう考えてもおかしいレベルなら
信心の世界なんだからこれには甚深の意味があるんだと
必要以上に信じ込んでしまったりとか。

自分の得ているイメージと目の前の現実の標準偏差みたいな
過剰な思い込みや反転が起こる。
全部、相対的ですね。

自分が「やっちまった」って気になっていることも
他人から見ればそうでもなかったり

他人から見てすごく気になる癖とか
本人はたいがい無自覚だし

そういう自身を見つめ直すこと

そういう時に神経に障るようなバイアスがあるのは
それは受容を歪める罪障であり

それを解きほぐし自在の境涯になっていくのが
人間革命なのだと思うけれど

往々にして思い込みを重ねバイアスを強化して
ガチガチになりながらこじ開けることが
最高の信心であるかのような錯覚があり

まぁだからやっぱり
空観を含む一念三千の中道によらないと

起こしたベクトルに対してどこかで
真逆のベクトルが働き

それは同時に一つの事として起こっている。

同じとして起こることと
真逆として起こること。

その気づき方とコントロール。
それが智慧と技でもあり

自己機能の区分け体感覚知によって
「ああ、なんだ、そういうことか」
という納得として

脱落・脱力・解放し
各チャクラの体感の実感や
ただあるというダイレクトパス
南無妙法蓮華経の了解
そういったものが覚知できるようになる。

今の同時代現象として
そういうことへの直接的な心身の
アプローチが開かれている。

つまり難行苦行や組織的統制の期待依存が外れ
覚書の思考概念を暗記し解釈するのではなく
直接的な存在への指し示しから言葉を自在に使える方向になり

本当のプライスレスな我が心身生命非二元を
より多くの人が

その地涌の生命を実感していく。

この地涌の生命だけは
全ての人が四六時中
これこそプライスレスだと言っても

価値が下がることは無く
むしろいよいよ実感して価値が上がる。

無上道となる。

ああ、そういえば
仏教が難しく感じるのの一つは
読み違わないようにしようという思考概念を
働かせるから、むしろ読み違う。

教義改正問題の一連の中に
これは拙速な教義改正に異を唱えた方であるが

最初の角度が少しでもズレると
10年先100年先ではとんでもない
大きな間違いとなって現れるという懸念(趣意)
があったかと思うが

正しいようで南無妙法蓮華経になりきっていない。
因果が同時になっていない。

批判の仕方を非難しているのではなく
もっと別の次元の話だ。

思考概念を前提とした思考概念になっていて
今ここにない幻想に苦しんでいる。

仏教で学無学というのは
学=まだ学ぶ必要がある
無学=もう学ぶ必要が無い
なんだけど
ではここでいう学びとは何か?

思考概念では読み違わないのは難しいよね。

八万の法蔵の全てを
これで完全に読み違っていないという
思考概念を作り上げてから
完璧な教義で統制しますか?

ナンセンス、永遠に完成しない。

答えは常に今ここ、因果同時だ。

シンプルに間違いは今即間違いだ。

つまり創価の中で体感無くして言われていることの全ては
「どうでもいい」

とはいえ向上そのものを否定しない。

心身生命非二元に向かえば
必然的に法華経が
これそれ自体だと了解できる。

カマキリのオスメスは
君のためなら死ねると
殺してしまいたいほど好きが
見た目上成立しますが

当然、そんな思考概念があるわけではなく
自然界の運行の上の機能としてただある。

食べる食べられるが一つの事としてそこにある。

人間的思考概念の上では
「君のためなら死ねる」なんて
受け手によれば脅迫の一種でもある。

一人の他人が受け取るには重い。

仏法は無=無限であるので
仏法は「仏法のためなら死ねる」も
なんなく受容する。

「同じだ」ということも
「違うんだ」ということも
受け取り手によって
「同じ」とも「違う」とも取る。

結局は「非ず」を重ねることでしか
表現できないようなそれは
自身で体感覚知するしかない。


<「残して死ぬ」これが本能。生物達の壮絶なる「交尾」>
https://matome.naver.jp/odai/2142165567550676801

バリアフリー

健常者が何の気なく築いているものが
弱者の側には困難として立ちふさがる。

弱者に光を当て
その立場になって困難を取り除く。

そういう見直し、反省。

人と人。

功徳ある人を目指そう。



[775] プライスレス

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 4月26日(水)16時13分52秒   通報   返信・引用

中学生時代、プライスレスという言葉を初めて聞いた時、値打ちが無いと読み違いました。

スモークフリーも煙草吸い放題だと勘違いしました。


値の付けようが無いほど
煙の煩わしさから解放された

反意語もまた同じ土俵に乗ってる時点で、究極は同じになるのでしょうか


殺してしまいたいほど好き

これはちょっと違うかな(~_~;)



[774] 永遠無限

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月26日(水)12時32分59秒   通報   返信・引用

<宿坊>戸田先生指導:御本尊に関する質問  投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2017年 3月 9日
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65859

本当に戒壇の大御本尊を分身散体の法門によって
日蓮大聖人の心と同じに出来ている分身体
久遠元初自受用報身如来の当体として見るには

五眼三身をもって九識心王真如を識るという
信心の深化、法華経の立体視
自己自身と分離の無い、その本源へと
観心していく必要がある。

その過程において本来
「空観」を避けることが出来ない。

大乗の仏法の理解には空観を体得しなければならないと
戸田先生もそう言っていたはずだ。

<宿坊>如来誠諦之語  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/67758

提婆達多品第十二までで
全ての人が成仏が可能である原理が示される。
(理の一念三千)

勧持品第十三で
どんな悪世になっていかなる難を受けようとも
法華経を受持し説いていく弟子の思いが述べられる。

(その一念三千を受持し広める決意とそこに起こること)

安楽行品第十四で
仏の側から見た安楽な智慧と禅定をもって
法華経を受持し説いていくべき姿勢が説かれる。

(菩薩行として空あるいは一念三千を受持し広めると言っても
それはまだ如来に比べれば思考概念であり
本当の如来のそれは菩薩の思惟するそれを凌駕している)

従地涌出品第十五で
釈尊の側でずっと教えを聞いてきた
今生で初めて釈尊から教えを授かっていると思っている
多くの他土の菩薩や迹化の菩薩たちの広布の誓願を退けて
そんなことが必要ないのは
さらに桁違いに多くの桁違いに立派な菩薩たちが
地より涌き出でそれを遂行する者たちだからだという。

(仏の側で仏の言葉に頼って執着したからといって
それを思惟する思惟や自己都合に縛られているのであり
それを軽々と乗り越える生命というものは
あることを信じればどっと湧き起こるのだ)

如来寿量品第十六で
仏の生命の永遠無限を明かす。

(本当の仏眼はここにしかない)

分別功徳品第十七から数品で
それを信じた功徳が語られる。

(正しく空あるいは一念三千を悟る etc.)

九識論において深層へ進むにつれて
自他の区別、善悪の区別、意識現象の区別
などが無くなっていき真如という無分別智へ向かう。

その最深が永遠無限であり
そこへの往復にあって
空あるいは一念三千への探求
空あるいは一念三千を了解した救済者への反転がある。

そこの往復切符が
大難があろうとも救済者になるという
誓願・決意を伴った信心である。

師匠と弟子の呼応
そのやり取りの中で探求し
しだいに分離がなくなる

信心と難とのセット現象
その現象の中で格闘し
しだいに安楽と難の分離がなくなる

御本尊と自身の感応
その戒壇の中で精進し
しだいに今生と永遠の分離がなくなる。

「私とは何か?」
それがそのまま答えになっていく。

<宿坊>徹して学びましょう  投稿者:反板の反板
http://6027.teacup.com/situation/bbs/67666

二乗根性という反省点からも
悟りに向かおうとすることが
自我を縮小し消滅に向かわせるような
そういうイメージがあるかと思うが

空観という大乗仏法であることは既に
その克服として取り組まれるもので

真の自己拡大の道なのである。

九識へ向かうということは
宇宙大の自己へ
またそれ以上の自己へと境涯を拡大させるものである。

「私とは何か?」ということに取り組む
哲学にせよ宗教にせよスピリチャルにせよ

同じ命題に取り組み
同じ法の宇宙にあり
そこにある生命現象が同じである以上

深さや角度や表現が違えど
もたらされる気づきの生命現象の体感は同じである。

もし違うのならその人に
この仏法を教えても無意味ということになる。

もちろん後から土地柄や時代に合わせて付随されたものは
それが変われば無意味になる部分もあるのだろうが

根源の命題は人という生命現象である以上
誰人にとっても同じなのである。

今言っていることからすると
別個の思考概念にはなるが

コズミック体なんてネーミングは
いかにも拡大の志向性のイメージである。

静かで神聖に煌めいているように見える夜空の宇宙も
その実、想像を絶するような因果が
それは文字通り渦巻いている。

渦巻いていることは善でも悪でもない。
ただそうあるし、どうこうできない。

色々渦巻いた時に苦しみを感じるのは
その次元と分離して生きようとしているからでもある。

それの方が卑小な生き方なのだ。

<かんながら>摩訶不思議
http://abetoshiro.ti-da.net/e9506261.html

「受け手」だけのままでは
自ずから「同じ」への限界がある。

言葉は解釈されて変換されるため
最終部分は「こうだ」という限定的表現が無い。

「こうだ」という場合
あなたの現象に対して私の現象があるという
その呼応の促しがあるのみである。

法のため人のための
誓願・決意と実行。

それでいて、犠牲にしない
ただあるを味わい楽しむ
空観の智慧と禅定の

私が言うには「頑張らない」
というところからの俯瞰。

そして無=無限と決める。

言葉を借りて言うのだけれど
言葉というのは言葉でしかなくて
「これ」にたいして万能でないから

こういう心地にいながら
熟練度の低さ未熟さから

人に何か伝える時
片言になってしまったり
そこで伝える必要のない心まで伝わらせてしまったり

それも私の「これ」生命現象ですから
反面教師とするところは
大いに反面教師としてください。

無上道ですから
私自身、法のため人のため
どうにか噛み砕いて

歓喜の一分でも伝えられることがあれば
それこそが功徳なのであり
そのために信心をします。



[773] 正法への気づき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月24日(月)03時56分58秒   通報   返信・引用

宗教のために人間があるのではなく
人間のために宗教がある。

宗教が無くては法が無いのではなく
人と法が一箇であるから結果的に宗教があるのである。

真実は宗教が与えてくれるのではなく
真実の法の讃嘆の手段として理を尽くすのが宗教である。

言葉の解釈で法が自身と分離したものと思えば
その人我の自己都合によって
理不尽な権威主義になる。

自己都合とはいうけれど
他者からの評価との整合性の
取捨選択のクセでもあるが

細かい言葉尻を気にした評価
しぐさや対応を気にした調和
一は全、全は一への飛翔

というような区分けで見ると

一見して自己不都合ともいえるようなことも
思考概念であることにおいて自己都合である。

自尊も卑下も同根なのである。

だからこそその生じた過程において
いじめる側といじめられる側が明確な場合
いじめる側が100%悪いとしなければ
その中道への最短ルートにはならない。

自尊心の肥大化した幹部がのさばっている裏には
その分だけ自分を卑下してしまっている心を病んでいる学会員がいる。

それはセット現象であり
傲慢な幹部の呵責だけでも
メンタルヘルスのケアだけでも
片方だけではダメで
同根の問題としての解決が必要である。

つまりは思考概念の都合による組織運営から
体感覚知の調和体への蘇生が必要である。

それは意味や形式や成果や評価にばかり
気を取られていては出来ない。

思考概念の上での問題は
その思考概念が消えれば消える。

正法は何を間違うことも無く良いも悪いも無く
ただその在り方を人間が解釈している。

気づけばいいのだ。

どれほどに正しく作動しているのか
良い悪いではなく
ただあるというそのままを味わうのだ。

あるということをあらしめている意識そのもの。

その意識において起こっていることの
気づきが何をもたらせるのか

魔を魔と見破り
幻想を幻想と見破る
智慧と技による世界になれば

どうしてありもしない脅威を膨らませて
戦乱の危機を迎えるようなことがあるだろうか?

正法への気づきというものは
必然的平和への唯一と言っていい道である。

自然に仏国土へと至るべしである。



[772] Re:試論 日蓮仏法とは その2

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月22日(土)11時54分0秒   通報   返信・引用

サイヤさん、それです。
ありがとうございます。
つながりました。

余分を言うと余分になるので
全くそれですとしておきます。

自ずからの歓喜への讃嘆を述べます。
それこそ醍醐味の功徳だと思います。

対比して信濃町の中心に
いかにそれが失われていて
組織全体もそれをなぞって
いかに陳腐になっているか

その元凶との対峙の中で
繰り返されるそれ自体が

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経。

一人の力なんて無力だなんてことは
だからそれは元凶の側の
個々人を無力化するための事であり

それとは違う次元の
無限の仏力・法力の
あるという中にあるという体験において
無力とか無意味とかいう次元ではない
六根清浄があって

だからサイヤさんがそれを伝える時にあって
サイヤさんのそれは全くそれです。

思いをはせると歓喜がわきます。
ありがとうございます。



[771] 試論 日蓮仏法とは その2

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月21日(金)16時13分15秒   通報   返信・引用

                                             ・
創価と正宗以外は御義口伝・百六箇抄を偽書と看做しているという。身内だけに通用する御書としており、学術的、対外的には価値の無いものであるという。創価では教学部顧問の立場にある宮田教授が、真蹟だけを用いて教学の再構築を目指しているとも聞く。そうなると久遠元初自受用身如来という概念は放棄されることとなろうか。

釈迦本仏説を採る方々は五百塵点劫に成道した久遠実成の釈尊を本仏とするのだろうが、その釈尊は誰を師匠に成道したというのだろう。寿量品に我本行菩薩道とある通り、菩薩の道を行じて成道したわけだが、どの仏のもとで修業したというのだろうか。開目抄の「寿量品の文の底にしづめたり」という御金言を知らない訳ではあるまい。

学術的な価値があろうがなかろうが、日蓮仏法を奉ずる者にとって、そんなことはどっちでもいい。少なくとも私にとってはどちらでもいいことだ。大聖人を久遠元初自受用身如来と信じ、人法一箇の御本尊に唱題し、六根清浄の功徳を毎日いただいている私には、学者が何を云おうがまったく関係の無い話である。

2003年から付け始めた唱題表だが、来年の誕生日には3000万遍に達する予定だ。いただいた功徳は枚挙に暇がないが、六根清浄の功徳を日々いただいていると自覚できることが最も大きい功徳と思う。御本尊の偉大さが分からないので、世の学者と云われる者たちは、愚にも付かないことで云い争っているのだろう。

日蓮大聖人が顕された御本尊には、無限の仏力・法力が備わる。一切衆生を成仏せしめる力が備わる御本尊を、いったい誰が顕せるというのだろう。大聖人を僧宝と貶める釈迦本仏説の輩も、御本尊の偉大な功力が分かっていないのだろう。五老僧の末裔ではそれも致し方ないことなのかも知れない。

このように見てくると、大聖人を久遠元初自受用身如来ではないとすることは不可能となってくる。もちろん私の信心と私の功徳から見てのことである。六根清浄の功徳をいただいて、御本尊に感謝の祈りが出来るようになると、人法一箇の御本尊であることが分かるようになる。神秘体験をするわけではないが分かるのである。

「以信得入」という。初めは信を以て入るのであるが、入ってしまえば信は不要になる。このように云うと誤解を招く恐れがあるが、「信じる」という努力を要する行為は必要なく、ただ御本尊と自分が「ある」だけになる。上手く表現できないが、信じるも信じないもない状態というか、信じようとしなくても自ずとそうなっている自分がいるのである。

別に悟りを啓いた訳ではない。実生活の中では種々の問題は出来する。心身ともに疲れて帰宅することもしょっちゅうである。御本尊の前に座し唱題していても、雑念は涌き放題である。しかし唱題し続けているうちに、徐々に祈りが定まり、祈りが感謝に替わり、一時間の唱題が終わる。毎日その繰り返しが続いている。

日蓮仏法を論ずるつもりが、あらぬ方向へ話が進んでしまったが、このように現在私は大聖人の仏法を奉じている。学者が何を云おうが、創価が大御本尊を受持の対象としないと云おうが、関係ないと云ってしまえばそれまでだが、邪教化する創価を見放しては、不知恩の謗りを免れまい。それ故斯様に物申すのである。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[770] 私とは何か?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月20日(木)12時16分51秒   通報   返信・引用

私とは何か?
その確たるものを掴みたい。

「人はどこから来て
どこへ行くのか?」

人はみな幸せになるために生きているというのは
その命題を誰もが解決させられるという方途の確信である。

絶対的幸福境涯というものはそこにあるということだ。

私とは何か?

「これだ」と思って掴んだ瞬間
引きずられて苦悩する。

どこかから来て
どこかへ去っていくだけのもの

次の瞬間にはもう
今ここには実存していない幻想。

そのいくつかを掴み続けて
幻想の人生物語、ファンタジーワールドを膨らませる。

そのファンタジーワールドをもって
絶対的現実に挑もうとするが
それがファンタジーワールドであり
絶対的現実に挑んでいるのだという事を
了解できていないので思うようにいかない。

これがダメなら次は何を掴めば良いのか?

掴むべきものを探し
私とは何かという命題を忘れる。

どこかから来て
どこかへ去っていくもの

それは普遍の私ではない。

何も掴まずに
ただ今ここにある時
それが私だ。

境と智が冥合するのは
その反転の気づきの体感にある時である。

私はどこから来たのでもないし
どこへも行かない。

私とは何かに迷うことと
本尊に迷うということとは同じである。

本尊とはまったく余所に求めるものではないからだ。

法華経とはその境智冥合のためのことが
ストーリーとして描かれている。

本来は生命感覚である。

その境智冥合のための
ストーリーからの反転の
生命感覚の恩恵に誰もが気づけるための
それの伝授法として
御本尊に題目を唱えるという
技法が存在している。

ただ師匠から弟子へ
その心王たる無分別智を
在らしめんとするために
あるのであるが

心こそ大切を思えば

その境智をして
無限へと広がりゆくためこそなれば

あらゆる差異を越えて
その境智において

全ては非二元である。



[769] 時代と巨匠と後継と統制と自由

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月18日(火)14時18分33秒   通報   返信・引用

一旦、仏法の流れというものの概念枠を外し
時代を動かした巨匠の一人として
語るものであり、仏法の正しさというのとは
少し角度の違う話です。

「天才」「神様」というワードから
私が思い浮かぶのは手塚治虫です。

グーグルで「天才 神様」だけで検索してみると
さすがに上位を独占するようなことは無いけど
出てきました。

【天才はこうして作られた!】漫画の神様「手塚治虫」の才能を引き出した、母からの仰天アドバイス
http://hot-topic-news.com/osamu-tezuka-mother

さて、だけど確かに「天才」という言葉から連想しますが
その人物像は「天才」という言葉に納まるような
スマートなものとは認識していません。

一面には執着心が強く嫉妬深い。
自分が一番でないと気が済まない独善性がある。

そんな葛藤の中で苦しみながら
時にそれを反省し見つめながら
時代のうねりの中へ何かを成す。

そういう「スマートで無さ」というのは
戸田先生にも多分にあったのだと思う。

手塚治虫がアニメーションを制作する時
ディズニーへの対抗心があったのだが

ディズニーの成功が今もなお
ディズニーの枠を保ったまま
多岐にわたるビジネス展開で
魔法のような夢の世界の楽しみを
人びとに提供しているが

手塚治虫の成功の発展は
日本の漫画界の興隆という結果であり
個々人の内発的な可能性の開花である。

純粋に良い作品を作りたいという事から出発した
その発展の違いは、その個々の国の
同時代現象のベースとなっている
意識体の志向性による自然な発露でもある。

この意識機能の違いに気づかなければ
思考概念で欧米型の組織化をしようとしても
疲弊・閉塞していくのである。

日本の漫画は手塚治虫によって
同時代現象に深く組み入ったから
漫画界での気づきが同時代現象を動かす。

たとえば「キャプテン翼」という現象。

翼と日本漫画文化が世界中で愛される理由
『キャプテン翼』原作者・高橋陽一インタビュー
http://www.nippon.com/ja/views/b00103/

~「高校3年の時に、W杯のアルゼンチン大会(1978年)をテレビで見て、『ああ、サッカーってこんなに面白いんだ』と気づいたんです。興味を持って調べてみると、ヨーロッパでは野球よりもサッカーの方が断然盛んで人気があって、競技人口も圧倒的に多い。それで、サッカーというのは世界一のスポーツだということに気づきました。~

ただそれだけの気づきを漫画にしたのであって
どれだけサッカーに精通していて
サッカーの技術を向上させていこうとかいう
上から目線ではない。

手塚治虫→漫画界の興隆→キャプテン翼→サッカー界の興隆

多様な文化の開花。
それは広宣流布の像の一つでもある。

ディズニー型がダメで
手塚治虫型が良いと言っているのではない。

仏法は元より
一つの組織や一国のためだけのものでは無い。

全ては活かされるべきで
包括とバランスということでもある。

同時代現象という事は
非二元への眼差しのシフトにより
自然の生かされている体感として
了解できるのだ。



[768] 歯車

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月14日(金)11時29分54秒   通報   返信・引用

歯車を一つ手にして愛でて
それが果たして
時を知るためのものであることを
説いてみたところで
時は得られず

ならばと直感的に分かりやすい
文字盤のコピーを配ってみたところで
時は示されない。

生命の中央の時計と
時代の中央の時計の不一致による歪みが
世界の運命を大きく歪ませる。

そうならないために護り通していた魂が

文明開化の美辞麗句にうつつを抜かし
目的をはき違えていく。

<日蓮大聖人と私>
法門申さるべき様の事・第八章 京風に媚びる三位房を厳誡
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-date-20170304.html

一度ほころべば
坂を転げ落ちていく。

教義を改ざんし戦争を賛美し神札を受ける
までに至る。

真僧俗和合の見ているところは
生命の中央の時計と
時代の中央の時計の一致へ
という深いところの信心にも感じます。


<YouTube>椎名林檎 - 歌舞伎町の女王
https://www.youtube.com/watch?v=krCk3EcsaxE



[767] 僧侶の妻帯

投稿者: スーパー摧邪人 投稿日:2017年 4月14日(金)08時08分58秒   通報   返信・引用

                                        ・
初めに、以下に論ずるところは創価が宗門の僧侶に対して、妻帯しているから聖僧ではないなどとする、ためにする論ではないことを申し上げておく。妻帯していようがいまいが、高潔なご僧侶はいる。また下劣な坊主もいるであろう。そのような個々人の特質を論ずるつもりはない。宗門の僧侶全般の話である。

「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」日興遺誡置文の一条項である。「後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」と申されて、「万年救護の為に二十六箇条を置」かれたものである。大聖人の仏法を法水寫瓶された僧宝である日興上人が、末流の乱れを戒めんと置かれたのだ。

鎌倉時代、僧侶が「肉食・妻帯」しないのは自明であった。しかし後々の世に、その自明が自明でなくなる時代を日興上人は予見していたのかもしれない。それ故に二十六箇条を置かれたのであろう。宗門の僧侶は明治の初めまで、少なくとも表面上はこの遺誡を守り通してきた。裏で何をしていたかは知らないが。

明治5年、時の明治政府は一片の太政官符を発布した。そこには「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」と書かれていた。これは僧侶が肉を食らおうが妻帯しようが、髪を伸ばそうが勝手にして良いということである。江戸幕府により禁令とされていたものを、明治政府は好き勝手にして良いとしたのである。

この一片の太政官符により真宗以外の僧侶の妻帯が始まった。(真宗はもとより妻帯可)日興上人の予見が現実のものとなったのである。私はこれを仏法とは何の縁もゆかりもない世俗の権威(明治政府)に、仏法が屈し貶められた歴史であると認識している。日興上人の遺誡を太政官符を云い訳に踏みにじったのである。

世俗の権威に屈したのか、それともこれ幸いと迎合したのか。太政官符には「勝手足るべし」とあり、強制されている訳ではないので、後者であったのではないかと推測するが、そうであるとしたらなおさら情けない話である。その後の法主の指南にも妻帯擁護の論があるが、私に云わせれば云い訳に過ぎないものである。

出家とは出世間である。世間一般の生活とは異なる環境で、仏道修行に励むのが出家であろう。末法無戒を盾に出家の妻帯を擁護しても、太政官符を云い訳に日興上人の遺誡を踏みにじった云い逃れに過ぎない。妻帯により僧侶が堕落したと、ひとからげに論ずるつもりはないが、弊害が無いとは云えないだろう。

僧侶の息子が僧侶になれば自ずと閨閥が出来上がる。権力を持つ僧は自分の息子を、身入りの良い寺の住職にしたり、要職へ引き上げたりもするだろう。明治まではあり得なかった、法主の息子が法主になったりもするのである。宗門史上唯一の例として、第六十世阿部日開法主の息子が、第六十七世阿部日顕法主であることはご存知の通りである。

何が云いたいのかといえば、宗門の僧侶に日興遺誡置文を守って欲しいと願うものである。既に妻帯している者に離縁しろなどと乱暴なことは云わない。しかし現在未婚の者はこの遺誡を守り、聖僧として仏道修行に励んでもらいたい。どうしても結婚したければ還俗という手もある。遺誡でも「衆徒に差置く」とある。

私は創価に籍を置くが、創価の宗門批判に同意するものではない。創価は創価で会則改正に伴う邪教化を留めなければならないと考える者である。そうであっても宗門僧侶の妻帯は、世俗の権威に迎合したものとして、改めるべきと考えている。遺誡を守り大聖人、日興上人の時代に戻り、聖僧として生きて欲しいと願う。

このようにして宗門も創価もともに発迹顕本を成し遂げ、新たなる「真・僧俗和合」が叶うのではないかと想像している。邪教化しつつある創価と、世俗の権威に迎合した宗門では、僧俗和合の叶う訳もない。広宣流布は僧俗がいがみ合っていて出来るものではない。大聖人のご遺命と日興上人のご遺誡に従う僧俗になりたいと願う。

http://macska2012.blog.fc2.com/



[766] 文字列

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月12日(水)14時10分14秒   通報   返信・引用

トランプの下りの時
本来探していたのは
文字列で

その時探していたのは
~それぞれ一つ欠けると意味が変わってしまうような
言葉の組み合わせか何かないかと考えたのが元で
行きついたのが「トランプ」です~
http://6212.teacup.com/rainbow/bbs/655

ということで
また少し違うかもしれないけれども

宿坊の掲示板で
「師弟不二」ハガキを
5月3日までに
池田先生に出そう

という話が少し出て

私も何か送ろうかな?
なんて書いたのだけれど

何としても池田先生のところまで届かせるために
池田先生に見せざるを得ないものとして

眺めているだけで非二元に吸い込まれるような
心を書するチャンネルを使って

黒地に金文字の光沢仕上げで
中央に縦に「師子心玉真如」
両脇に梵字の不動と愛染を書き
池田先生に会える確率のある人物宛に送ってみた。

それはただ 咸皆懷戀慕 而生渇仰心の
一心欲見仏 によるもので

他意は無かったのだけれど
これが何なのか後付けで考えてみると

南無妙法蓮華経の御本尊が
智慧の側として

それと対を成し得る
その智慧を観る禅定の側の
文字列になっているんじゃなかろうか?

そうすると一文字足りないんだけど
非二元の禅定に問うてみるに
「在」という字があえて書かれていない。

「在師子心玉真如」
これは座した時の頭のてっぺんから
お尻の先までの七つのチャクラの順になっている。

南無妙法蓮華経と順を揃えると
在如師子心玉真となる。

そうすると色々に読める。

まず日蓮仏法から外れていない最初は
師子王の如き真の心に在り

つまりそれは成仏を指している。

また、心王真如は師子に在りとも。

書式として「王」を「玉」と書いているが
「たま」という意味で「ぎょく」と読んで

真如に在るは師子の心玉
ならば師弟不二の非二元球を示唆する。

不動愛染は境智を表すけれど

このシンプルさの中では両目でもある。

ウジャトの目ラーの目ホルスの目でもあり
それは第三の目の脳の松果体

チャクラのサードアイに配置される
師に収まる。

心の師が在れば真如の王子

真如の王とは仏と取れるので
心の師が無ければ仏子とは呼べない。

とりあえずこれぐらいにしとこう。

だからそれが何なのかというのは
思考概念で考えるようなことは

そうじゃない。

ただある。



[765] すごい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 4月11日(火)05時06分10秒   通報   返信・引用

身なりさんさすがですね

「致す」に込められたものに
どんぴしゃりです。

考えてもみなかったことが
始めからそうであったかのように
もたらされます。

曼荼羅はだからそう
そうであったということで
その通りで
すごいですね。

この今あること
生かされていることに
歓喜し感謝します。


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