いまさら やめては だめなのだ

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カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


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[858] 理科的謗法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月21日(木)12時02分33秒   通報   返信・引用   編集済

本来、謗法とは何か?
理科的に読み解いていこう。

正法を自分自身の生命現象の体感として

逆の方向性の十四誹謗を分類すると
自身の生命現象に蓋をして取り組まない事
思考概念の物語によって判断すること
感情の作るリアリティに飲まれること。
そういう切り口で見ることも出来るかもしれない。

自身の生命現象に蓋というのは例えば依存症、
もしくは依存とまではいかなくても好きな事。
それをやっている間は
自分自身の生命現象の問題を忘れていられる。
ただあることをただあることとして
それを味わい楽しむのが本来で
問題の本質から目をそらすためにやる時
それは楽しくなくなっても苦しくなっても
やめられない依存症となっていく。
創価学会の組織的に
選挙戦への依存症のような面もあるかもしれない。
理念と反していて苦しくても
本質に蓋をして、やらないではいられない
苦しみを生み広げる身口意のメカニズムに
陥ってしまっている状態。

何かの考えを得て
分かったつもり、解決したつもりになるのも
自身の生命現象に蓋をすることであるが
行為でまぎらわせることと
考え方に固執して蓋をすることを
分けて考えてみよう。
思考概念の物語とは
正法は自分自身の生命現象であるのに
それ自体でなく対象化し分離の壁を作る執着である。
「○○ということにしておく」という枠であり
定義できない不可思議な自身の生命現象に対して
定義して分離・選別して安心を得ようとする。
自分自身の生命現象に対して信頼しないがゆえに
外に言われていることから保証してもらおうという働きでもある。
創価学会の組織的に
「創価学会仏」と呼ぼうというような
「我々こそが正しい」という保障を
自分自身の生命現象の証明ではなく
対象化し用意された枠に入っているかどうかで
判断し安心したいという願望にすがっているかもしれない。
それ以上問題に取り組まなくて良いようにしよう
という逃げ・退転の心である。
「正しいものを信じているから正しい」では
その正しさと定義されるものは、権威と化す。
本当は信心が正しいかどうかというのは
その自分自身の生命現象の体感にしかない。
体感の現象化であって
考え方による判断では無いのだ。
思考概念の世界で生きてきた者にとって
体感は解り辛くすぐ考えに流れてしまいがちであり
アルベア論の実践はそれを教えてくれる。

ちなみにこの投稿は思考概念である。

感情の作るリアリティとは
人それぞれ同じものを見た時にも
そこに感じる現実は違うということだ。
同じ車を見ても
「男のステータス」「便利な乗り物」
「環境の敵」「危険な乗り物」
どう見えるかは人それぞれだ。
それぞれにリアリティがあって
それは交通事故の経験が強烈な者にとっては
「怖い」という感情がくっついて
より強い現実として「危険な乗り物」になる。
つまり、感情・身体の経験・概念の癒着によって
生み出されている現実にすぎないということであり
それぞれの自身の生命現象の問題の解決には
それぞれの経験による感情と概念の癒着の
解放が必要だということになる。
それを巧みにするのが、本来の宗教であり
いかに強固な現実だと思っている不遇も
生命の本質的なメカニズムから解決させるものである。
例えば法主には従わなければならない
会長には従わなければならない
という思い込みを解除するための時と
意図思惑によって最悪な法主だ
悪魔のような党だ、人外の会長だという
レッテルを貼ろうという時に
フレーズ自体は同じようなものになるかもしれない。
現実だと思ってしまっていることの解決のためなのか
感情の押し付けで都合の良い現実を作り上げるためなのか。
言葉尻だけでは、それは分からない。
相互理解の必要性がある。
そういうことを踏まえた上で
簡単に思い込んでしまうのではなくて
思い込ませて解決とするのではなくて
率直な思い、率直な感情、率直な経験を
素直に出していき、
受容と解消、そして新しい漲る生命の誓いのために
そうした時、笑顔の咲き誇る
民衆の対話の連帯が実現するのではないだろうか?

http://




[857] 解放の体感の味わい

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月18日(月)23時23分34秒   通報   返信・引用

人はそれぞれ
自分のフィルターを通して
世界を見ている。

その人にとっての世界は
そのフィルターを通しての世界であり

これにリアリティがあるのだから
その人にとってそれが真実で

その真実に合わないものは
真実でない間違った偽物ということになる。

同じもの、同じ真実を見ても
それぞれフィルターを通すがゆえに

別々の見え方をし
相対的な世界を形成する。

頭では分かったとしても
フィルターを通してみた世界だけが
リアルである感覚は強固である。

それは、思考と感情と身体とが
強固に結びついていて
手放さないという執着である。

潜在意識のコアなところから
癒着して積み上がったものが
自分を形成し

真実を見えなくさせている。

無限に多角的であるそのどれもが
相対的な価値でしかなく

そこにただ一つの真実というものは
存在しない。

感情はエネルギーの流れであり
解釈の理由をもって感じることを拒んだとき

その思考と感情と、
拒むというネガティブな身体反応がセットになって留まる。

世間の凡雑な抑圧・ストレスは
感情を味わうことを拒むきっかけを多く与える。

感情の流れが滞りネガティブが溜まると不良不全になる。

つまり、これを改善回復するには
身体にある起こる感情と思考を味わい
エネルギーの流れを良くして解放していくことだ。

抱え込んで溜まっているものを手放していくと
自分自身というものは
エネルギー開放の流れと共に広がっていく。

ついには
自分というものが何も無くて
それでいて無限であって
「気づいている」

そういう方向から確かに

これだったんだというものが顔をのぞかせる。

一瞥体験であり生命体験である。

そこからエネルギーを発し流れさせれば
それに対して解放回復改善の方向を与える。

これが起こることの体感覚知。

方法と、その現象の解釈は何であれ

そういうことは抜きにして
その歓喜の味わいを体感覚知するのだ。

そして二者関係において
それを促していくのである。

あなた自身なのだ。



[856] ニュアンス

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月17日(日)06時31分13秒   通報   返信・引用

「法があるからあなたは不自由だ」
「法の下であなたは自由だ」
「あなたが自由だから法が働いている」

そういうニュアンスの違い。

http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-570.html
~夫(そ)れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を・・・・・~

理科的に見るならば

《この世界的な愛(仏性)の実践というものは
「あなたの愛(存在)の自由」を先として

そのそれぞれの枠組み(国や組織)の教育というものは
意図思惑への誘導のプロセスを先としている。

ゆえに、愛(仏性)というものは
「不自由の世界」を「反転した救済」にするものであり

枠組みの中の偉い立場に君臨する者は
あなたはこれに従いなさいと規定するのである。

日本という国は
世界の中で見れば小さな国であるけれども

その存在の意味合いで言えば
どの国よりも重要である。

愛(仏性)の実践は一つ大きな階層の世界で始まったけれども
一つ小さなフラクタルの日本という国に働きとして留まる。

これは階層構造の理科的な天然の帰結なのである。》

また、随他意と随自意を見るならば
https://ameblo.jp/garlicking/entry-11165768742.html

向こうの反応世界にある愛(仏性)では
それは愛(仏性)ではあっても
他人事への恋い焦がれであり

自身に起こっている「思い」「感情感覚」「身体反応」
それ自体が受容して味わえば愛(仏性)であることが
救済者への反転に必要な覚知である。

~~同志への指針~

法華経は、万人の無限の可能性を信じ抜き、開き切っていく、随自意の教えだ。「我が身は即仏なり」「万人が皆仏なり」との大歓喜の表現である。~



[855] 身で読むのは体感

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月14日(木)11時49分9秒   通報   返信・引用

法華経、或いは仏法というものを
身で読むということは「実感」「体感」であり

「人間革命」「成仏」というものは
「体感による了解」による「探求の終わり」であり
救済者への反転である。

その「生命論」こそが「仏法の本体」である。

どうしたら自分と同じ境涯にできるか、常に心を砕き
その真理への全人格的な格闘によって汲み上げるのが
「法華経の智慧」である。

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧7
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6392
~それは「非ず」という否定形を重ねてしか表現できない何かである。どんな「定義」をしても、そこから、はみ出してしまう面をもつ何かである。しかも、どんなに否定形を重ねても、それでもなお厳然と存在する実在である。
だからといって、それを単に言語表現を超えたものとか、不可思議なもの、空なるものとか言って、仏を超越的なものに祭り上げても、何も分かったことにはならない。戸田先生は「実感」としてつかみたかった。「体得」されたかった。空虚で観念的な理解では、決して満足されなかった。~

~まさに「身」で読もうとされたのです。
法華経では「一切衆生の成仏]を説く。しからば、その仏とはいかなる実在か。成仏とは何か。これは仏教全体の根幹にかかわる問題です。戸田先生は、この根本問題を深く思索され、追究されたのです。~

~「仏とは、生命なんだ! 生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」~

~「生命」には多様性がある。豊かさ、闊達さがある。それでいて、法則的であり、一定のリズムがある。この「多様性の調和」を教えたのが一念三千です。その一念三千を体得したのが仏だ。
しかも「生命」には開放性がある。外界と交流し、物質やエネルギーや情報をたえず交換する開かれた存在である。それでいながら、自律性を保っているのが生命です。宇宙全体に開かれた開放性、そして調和ある自由、これが生命の特徴である。
仏の広大無辺の境涯とは、生命のこの自由、開放、調和を、最大限に実現した境涯だとも言える。
妙の三義には「開く」義、「円満」の義、「蘇生」の義がありますが、これこそ「生命」の特質です。そして「仏」の特質にほかならない。
ある意味で、仏典はすべて生命論です。天台の仏法は「己心の中に行ずる所の法門を説く(説己心中 所行法門)」(御書 p239)とされ、大聖人は「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(御書 p563)と仰せになった。~

~仏法の目的は、結局、境涯を変えるところにあるのです。
また生命論といっても、学会が独自に始めたものではありません。日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です。これを継承したのが学会てす。
釈尊は、生老病死という人生の苦と対決して、自己の内奥の広大な世界を開いていった。
天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として説明した。
華厳経では、心と仏と衆生は無作別であると説いているが、天台は、これを借りて、心と仏と衆生の三つの次元で法華経の妙法を諭した。「生命」は、これら三つを統一的に表現できる、現代的な言葉でもあります。
そして日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、御義口伝をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。
すなわち、生命論こそが仏法の本体であった。~

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧8
http://sgi-shiteifuni.com/?p=6395
~真理に対する全人格的な格闘によって、法華経の奥底から汲み上げられたものです。これこそ「法華経の智慧」と言える。
ゆえに、この「生命論」には、知識を与えるだけでなく、発想の転換を促す力がある。そして希望へ、現実の行動へとつながっている。「生きる力」を湧きたたせる「事の哲学」です。~

~「人間革命」とは、成仏の現代的表現です。総体革命とは「広宣流布」です。
それらは、あたかも地球が「自転」しながら太陽の周りを「公転」する姿に似ている。自転によって昼と夜があり、公転によって四季がある。
私たちは、太陽の仏法の光に包まれながら、昼もあれば夜もある ?- 無限向上の人間革命史を綴っている。また冬もあれば春もある ?- 広宣流布の春秋のロマンを奏で、進んでいるのです。
ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」 ?- 戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。~

~本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。
「生命は万人にある」「生命は尊い」。これは、だれ人も否定できません。「仏とは生命なり」との宣言は、何より、仏法の真髄は「自分自身」にこそあることを、はっきりさせたのではないだろうか。~

「普遍の真理」の「現象自体」は、
言葉が付く前の、ただあるものである。
自己機能の本来である。

「独自性」というものは、
言葉によって定義付けされるアイデンティティである。
自我機能による後付けである。

不可思議の「普遍の真理」という「妙」の神秘性と
体感によってフィードバックされる了解(法)を調和させる
貫かれている意識の使い方・向け方(信仰)。
関与でない自身の意識機能が即全体との不二。

アルベア論があって私の論があるのではなく
体感に対する疑問に答え得るものとして
アルベア論との出会いが
選択されていることがただある。

近年の創価学会は普遍の法を謳いながらも
「独立した宗教団体だから関係ない」とか
「宗教的独自性を示せました」とか
自我機能を自我機能で上書きするような方向で
そこに「仏法の本体」である「生命論」の「体感」がなく
自我機能を自我機能で上書きしているにすぎない。

その上書きへの反発は、
多く元の自我機能への執着を先として起こっている。

新たなアイデンティティの確立を阻むものを排除しようとする自我機能と
元のアイデンティティが崩されそうなことへの防衛の自我機能の紛争である。

前者は積み上げてきたものの少なさから権威を表として強制改革をし
後者は今まで積み上げてきたものの正当性を主張する。

前者は未来へのこだわりであり
後者は過去へのこだわりである。

「多様性の調和」を教えた一念三千を体得し
俯瞰した生命論、今ここの視点が本質的な解決に求められる。

一念三千を体得したのが仏なので
それは一人立つ「人間革命」という「成仏」であり
その仏を成(ひら)く事が、信仰の目的であり

体感すべき生命へ意識を向け気づく事である。

<かんながら>神との遭遇の日
http://abetoshiro.jp/archives/3788805.html
<かんながら>かんながら・月光編
http://abetoshiro.jp/archives/2210851.html

<宿坊>無謀なる挑戦1~4  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64703
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64704
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64705
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64706

<創価の森通信>関西創価学会「雨の文化祭」
http://sokafree.exblog.jp/24466799/

何をどう感じるかは、あなた自身の生命現象です。



[854]

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月13日(水)11時32分49秒   通報   返信・引用

例えば、直感的・第六感的に
「あ、これならできる、いける」と思い
アイデアと行動と結果が同時に進んでいくような状態。

前提や理由や始まりが漠然として
ただ自然に至っている受容。

対して、時に些細な友達の言葉
「○○って△△だよね」みたいなものから
自分の中に価値基準が作られ
自分に対する肯定や否定につながるものほど
縛られて囚われていく。

特に、親から子への否定的な言葉というものは
深く傷として刻まれやすい。

言葉によって得た執着の世界で
仮説を立て探求を深め理論を構築する。
方向を知り前進を重ね別の状態になろうとする。

自己機能と自我機能。
それを貫く意識機能。

本来は今ここに生まれた
考えではなく感じる使命、
思い出せば始まりも終わりもなく
ただ自らの歓喜なのだが

理由がいる自我機能の世界に対して
理由付けて優劣を作り上げる。

いくら正しいものを知識として集めても
智慧として働かせられなければ

例えば筋道の違う二つの説き方がある時
相手の立場に立って選び取り
薬として解放に向かわせることが出来ない。

別の状態に恋い焦がれても
自我機能の中にいる限り
それは延々と問題を分離創出するし

無謬の法を求めようとしても
智慧が無ければ
たちどころに悪へも転じる。

事実、多く
正義が人の命を奪ってきたのが人類の歴史だ。

仏の本質が、何に厳しく
何を讃嘆するものなのか。

いづれ行き着く南無妙法蓮華経の日

その時は共に
日蓮大聖人とお会いしましょう。



[853] 幼少期

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月13日(水)02時01分54秒   通報   返信・引用   編集済

小学校低学年までだったと思いますが、
自分は日本に生まれたことが特別のように思ってました。漠然と…

何なんでしょうねぇ
理由がないんです、そして自分は特別な人間だとも思ってましたね(*_*)
思ってると言うより感じてるんです、考えではないんですね、だから理由がないんです。只々そう感じてるんです。

18才位からその感覚が薄らぐと同時に劣等感が湧いてきました。これは理由があります。
簡単にいうと怠けモノなんですね、快楽に流されやすい怠け者。破滅型の人間ってやつです。

それでもこの年で子供三人の五人家族で勤め人をやってるんで破滅型人間からも落ちこぼれましたけど……

落ちこぼれも中途半端で何となく形だけ取り繕う、突き抜けれないんです。

最近はそんな半端野郎な自分を許してしまう、腑抜け野郎に成り下がってますが、いづれ行き着く南無妙法蓮華経の日を楽しみに楽しく暮らしたいと思ってます。

こんな私ですが毎日楽しくやってます(^O^)



[852] フラクタル ニッポン

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 9日(土)12時17分59秒   通報   返信・引用

まぁ、与太話のつもりで

<youtube>【驚愕の都市伝説】世界地図を縮小したら、日本地図になった!日本は世界の中心かも??
https://www.youtube.com/watch?v=6CcZplUIaMI

<TVで育ったボクだから>サイエンスZERO ミニチュアオーシャン! 小さな大洋 日本海からの警告
http://blog.livedoor.jp/sawagani036/archives/3619839.html

世界の要素が凝縮されたような日本。

その日本を、日本海が下になるようにひっくり返して見ると
「心」という字になる。

私は今、日本の地にいるけど
地上から日本全体の形は見えず

それ(地図の日本)がここだというのは
学んできたことを「心(脳)」で認識して判断している。

サイエンスZERO番組内で
ウラジオストクの冷たい水が
日本海の深層海流に流れていく
「沈み込み」という現象に触れられているが

これはもっと大きな
ブラックホールの成長や
銀河系の仕組みにも
同じような事が起こる。

フラクタルな現象を意識の向け方使い方で
全体に気づいていく。

その了解は、言葉では語りきれない情報量であり
八識であり業の循環であり法眼であり
自然であり善悪無記であり
色心不二、依正不二、生死不二であり
球の階層の体感である。

心、居ながらにして、万象を識る。

目は口ほどに物を言うなんていうのは
了解・気づきの度合いや志向性の違いがあるだけで
誰もが、別の何かではなく
本来的にそれそのものだということです。

言葉の中に内実があるのではないことは
日本地図の中に日本が実在しているのでは
ないのと同じようなものです。

ともあれ、深く了解したとして
これにはまだ主客があります。

主客のない九識の非二元は
識るも識らないも、「私はそれである」です。

その有無でない律動が
南無妙法蓮華経です。

<アルベアのブログ>「絶対的幸福」は、ただ「気づく事」1~3
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12309021636.html
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12309021784.html
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12309021920.html

<かんながら(旧)>そのときあなたは
http://abetoshiro.ti-da.net/e8320155.html

何が何であろうと
誰がどうであろうと
マインドが口を挟もうとも

本当に自身が解決すべきことは
これに気づくかどうかである。

南無妙法蓮華経。

それは、例えば低い階層とか
どれかの階層が無くなるのではなく

それもそのままそれであって
他の四眼を全て持つのが仏眼でもあるのです。



[851] 釣りよか

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 6日(水)11時24分49秒   通報   返信・引用

そんじょそこいらの釣り番組より
よっぽど見入ってしまうよね。

そういう臨場感をもって取り組めば
今の時代

そういう単位の行動が
それだけ多くを引き付け得るよ。



[850] 蘇生さんへ

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月 5日(火)17時22分41秒   通報   返信・引用

釣りよかでしょう登録させてもらいました。

気分転換に(^O^)



[849] 「信念」と「信心」を包摂

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 5日(火)03時12分4秒   通報   返信・引用

徹底して知って
把握して
意識機能で貫いて
乗りこなす。

例えば
ある魚が「呼吸は水中でするものだ」と言います。
ある哺乳類が「呼吸は空気中でするものだ」と言います。

その食い違う対立した意見に対して
「それは、肺呼吸とエラ呼吸の違いだよ」と言うためには
それらを包摂する、一つ高い抽象度

脊椎動物というゲシュタルトが必要になる。

そうした時、皮膚に何が生えているのか
鱗か、毛か、羽毛かという一部を見ただけで
それが何に属するのかも分かる。

例えば、速いレーシングカーを造るという時
ただ良いエンジン、ただ良いタイヤ
というものを組み合わせていくだけではなく
その車が何をした時、何が起こっているのか
その全体を貫いて把握することで
速い車のバランスを実現する。

それはそのゲシュタルトに対する
意識機能で貫いた臨場感を伴った
俯瞰と言う方向性である。

抽象度を上げ俯瞰するための方法として
一つには意識で貫いて把握するまで徹底して知ることであり

もう一つには、より高い立ち位置に対して対峙することである。

校内一を目指すよりも
日本一、世界一を意識する方が高いパフォーマンスが求められる。

日蓮大聖人で言えば
「日本第一の智者となし給へ」と祈願をし諸経を学び
時の政府や並みいる高僧と対峙をした。

その上で自身をも超克するところに
発迹顕本があるのではなかろうか。

「この地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」
「地球民族主義」の構想「原水爆禁止宣言」の発表
「創価学会は宗教界の王者である」との師子吼

戸田先生の烈々たる大情熱の気迫である。

これはどういった抽象度に立脚するものか。

牧口先生の「一宗が滅びるのを嘆くのではない」
という道に即して言えば
一宗の盛衰だけのものではない。

「この地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」
「地球民族主義」の構想「原水爆禁止宣言」の発表
「創価学会は宗教界の王者である」との師子吼

それぞれは「信念」である。

日蓮仏法、三大秘法に対するものは「信心」である。

その「信念」と「信心」を包摂するところにこそ
創価の心があるべきであり

その現場を誰よりも知り把握し
臨場感をもって意識で貫いたのが池田先生であり

だからそれは、どこで何が起こっているか
高いレベルで応えることが出来るのであろう。

<宿坊>代理投稿 投稿者:SMAP万歳
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73796

https://soka-gakkai-international-0507.jimdo.com/池田-名誉会長-祈り/
~祈りとは
祈り――それは、あきらめない勇気だ。
自分には無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ。“現状は必ず変えられる!必ず!”確信を命の底に刻み込む作業だ。

祈り――それは、恐怖の破壊なのだ。悲哀の追放なのだ。希望の点火なのだ。運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。
自らを信じよ!卑下するなかれ!卑下は仏法への違背だ。胸中の仏界への冒涜だからだ。

祈り――それは、我が生命のギアを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。宇宙に包み込まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福へ幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。

2004.10.10
我がふるさとは世界~

確信・希望・包摂

三世十方全ての覚者を包摂する
南無妙法蓮華経。

それは
「今ここ」「これ」「非二元」である。

全く余所ではない
意識によって貫く「事」なのである。

それは「気づく」事なのだ。

それ(一念三千)しか起きていないのである。

↓抽象度の苫米地氏とGTRの水野氏の対談
<youtube>【超大物二人の対談】苫米地英人氏×水野和敏氏
https://www.youtube.com/watch?v=1BTlTlAn8ps

気分転換<youtube>釣りよかでしょう。
https://www.youtube.com/channel/UC4QadOSsJu54Qs8z99shRiQ



[848] ビビビの去来

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 3日(日)03時12分40秒   通報   返信・引用

釣果おめでとう。
イイネ(^-^)

私たちは
「もたらされ」を頂いて
生かされている。

「生命」と「神聖さ」との関わりだ。

それは恵みへの歓喜・感動・感謝となる。

人間の愚考はそれをつまらないものに
エネルギー変換する。

本来はこの活動・現象に
物語も言葉もない。

でも言葉によって
物語によって
人は人であることを思い出す。

二者関係を鋭敏に促せる。

仮定や解釈は如何様にも出来る。
あるいは現実の認識も。

釣りというのは不思議な要素が顕著だったりする。
釣因釣果の同時。
釣ったから釣れた。
釣れたから釣った。
「これ」が「これ」を引き寄せた。

人間の脳は嘘をつく。
嘘をつくために言葉があり
言葉によるものは嘘しかなく
言葉は方便以上にはならない。

なぜどのような経緯で釣れたかの物語は
物語以上にはならず体感それ自体ではない。

人間のやるせなさの要因に
言葉によって自然には無いものに概念を作って
ゆえに自然に還元されないエネルギー変換で
自然の範疇を越えた争いをし疲弊する事があろう。

例えば自然には
ナワバリはあっても国境はない。

微妙なニュアンスであるが
固定的に明確化するほど不足感が増す。

方法論で釣ろうとして
同じようにやって釣れなかった時には
期待依存への反作用の感情が起こる。

ビビビっというのは不足感とは逆の「もたらされ」の
不思議な感覚ではないかと思う。

その瞬間にそれになりきって
既にそれが実現していると言えるようなもの。

というか、これも
あんまり概念として固定的に明確化すると
反転すると思われる。

こう俯瞰していくと
池田先生が示されたもののうち
あえて概念として固定的に明確化する事が避けられたものの中に
だからこそ重要なものも
きっとあり

もしかしたら、それしか無いとまで
言える可能性すらある。

つまるところ師弟不二とは
非二元の体感覚知によってしか
実現されえず

ここに書いた言葉自体は
概念であり全くそれ自体ではない。

要は自分自身の事です。

対象化では無いのです。
彼岸はここに同時なのです。

それへの瞬間の二者関係の電磁的作用が
ビビビという臨場感なのです。

愛なのです。



[847] 釣果だけ(^O^)

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月 2日(土)18時45分5秒   通報   返信・引用

本命アカハタは30cm止まりでしたが
キジハタ45㎝1.2kg

今日もビビビっと来ましたよ、娘の仕掛けが急に釣れそうに見えて、同じ仕掛けに替えての1投目?
それでキジハタです
でも娘の同じ仕掛には来ない?(*_*)

なんだかなぁ~

長めのお題目の功徳でしょうね(^O^)???



[846] 活性の波動

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 2日(土)01時35分57秒   通報   返信・引用

例えば
縄文時代と現代とじゃ
生きるために必要な能力は違う

と、思考概念は考える。

文化を発展させて
人類は進化したと考える。

しかし、人間自身というものは変わっていない。
自己機能は一定である。

そこに乖離があって
エネルギー変換後の文化は
手に入れたと思って頼ることで
むしろ人間自身から失われる。

魚の活性など、本来そこに感じ取れる自己機能があって
自然との折り合いがもたらされるものが

文明の力によって根こそぎ捕ってしまえると
そうならないためのルールと抜け道の
根本的な幸福からかけ離れた化かし合いになる。

楽を求めるほどに
ストレス社会へと反転され

「生活のために、生きている」と
「生きるために、生活している」が
反転している。

「楽を得たければ必死に働くか
他人を騙すことに麻痺しろ」
というような命題に

「規定通りにやって自分で考えない」
事によって気づかない選択をする。

そして
「なんだかんだ言っても上手くいっている」
と思い込む。

それは自然の上の
「なるようになる」とは違う。

「好きこそものの上手なれ」
そこに眠っている力。

波動が合致すれば
生きていることで生活ができる。

好き、楽しい、直感、釣果に直結。

そんな風にきっと
みんながなっていけるように
「創価家族」「地球民族」なんて
言うべきであって

比べて「これ以外ダメ」っていう規定の中で
決める偉い人と、従う一般人があって

既定の枠から外れないための
相互の縛り合いの追い立てみたいな

好きな事も我慢して
組織のために働くのが美徳みたいな

そうなってしまったら
人間の力、凡夫の力も仏の力も法の力も
衰えるのは当然じゃないか。

貧乏人と病人

仕事と家庭

各分野エリート排出と創価家族の団結

↑これが会員個々人の幸福のためなのか
組織の中のエリート貴族のためなのかで
まったく逆転する。

池田先生の思いと後続の違いである。


創価エリートと組織規定に従う団結

財務貧乏とストレス性疾患

「会長は偉いんです」っていう会憲・会則
「財務貧乏とストレス性疾患」を生み広げる力ない宗教。

そんな麻痺したおかしさに支えられる政党。

組織信仰なんて、ホントに功徳ないし
むしろその悪を責める方が功徳があるよ。

間違いない。

身なりさん、釣り楽しんできてくださいね~(^-^)/

<蓮の落胤>「創価学会員物語」の終焉
http://hasu-no-rakuin.hatenablog.com/entry/2017/09/01/045106

<アルベアのブログ>
「生き方」と「生活」の乖離現象
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12291238976.html

「生活のために、生きている」「生きるために、生活している」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12305717523.html

「相対的現象・現実」「絶対的現象・現実」から見た「生死の智慧」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12305966143.html

「体感」とは「思考・概念」の変換
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12306272756.html

「観念観法」1
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12212969271.html



[845] しみじみと

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 9月 1日(金)21時44分38秒   通報   返信・引用

暑さも一段落してしみじみとする風が吹くようになりました。
明日は久し振りに娘と釣りに行ってきます。

本命はアカハタの40㎝オーバー

不思議なもので三時間釣れてなくても急に釣れる気がし出してほんとに釣れるんです。一度や二度でなくほぼ毎回です。逆に釣れる気がしないままほんとに釣れないこともあります。海というか宇宙全体の波動がすこしだけ取り込めてるのかも知れないですね(^O^)

魚の食い気を察知できてるとか、見えない潮の動きが体に伝わってるのか分かりませんが(^_^;)

楽しんで来ま~す?(^-^)v



[844] しみじみ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 9月 1日(金)05時50分34秒   通報   返信・引用

逆もまた真。
しみじみと不思議なものですね。

しみじみと言えば
振り返ってみれば
「黄金の3年」って
しみじみ、すごい「時」だったと思う。

時に巡り合わせている
実感があったものね。

何ものにも代えられない宝です。

そこで出会った
サイヤさんも身なりさんも
久遠、永遠の宝です。



[843] 逆もまた真

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月31日(木)17時29分34秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは清潔な身なりです。(^O^)

中学2年生の時の数学の先生が好きな言葉を紹介してくれました。
「真実は1つ」
それともう1つ
「逆もまた真」

当時は、なんのこっちゃと 思ってましたが最近少し分かる気がしてきました。

これしかないけどこれだけでもない。

単純だけど超複雑

ミクロだけどマクロ

(^_^;)



[842] 階層と創発とイノベーション

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月30日(水)12時05分6秒   通報   返信・引用   編集済

人・心の師「久遠実成の釈尊」
法・己心の法「皆成仏道の法華経」
一箇・解(さと)り「我等衆生との三つ全く差別無し(理の一念三千)」
↓↓↓
人・心の師「久遠元初自受用身の日蓮大聖人」
法・己心の法「凡夫即極の南無妙法蓮華経」
一箇・覚(さと)り「余所に求むる事なかれの大御本尊(事の一念三千)」
↓↓↓
人・心の師「永遠の師匠の創価三代」
法・己心の法「仏法の生命論の人間主義」
一箇・不二(さと)り「人間革命による広宣流布(実の一念三千)」
↓↓↓
人・心の師「あるがまま自然の愛」
法・己心の法「もたらされる」
一箇・悟り「今ここ(無作の一念三千)」

教義としてどうあるべきかというようなことではなく

その時代時代、その地域の文化地域の文化
その宗教宗教は違っても

自分自身に落とし込む体感を実現する上では
それは人の中から人が消えるという人として自身があり
それは法の中から法が消えるという法として空があり
ゆえに一切が開放され蘇生し円満であるだけの全体が
比較対象の一切が消えて定義が無いので
「思議や言語化が出来ない」である。

このようである以上
全ての覚者はこれを師として悟ったのであり

それは外に求めるものでは無く
自身に落とし込むという過程で発見するものである。

「対象化が無い」「主客が無い」であり
仮にそれをエネルギーと呼ぼうとした時
言葉にした瞬間、対象化されてしまい

「エネルギー」と「エネルギーでないもの」が
分離されてしまい差異が生じる。

そういった差異のない、その全体と
個々別々の仮の相対世界の認識の間に

起こす創発・イノベーションの智慧というものが
南無妙法蓮華経であるとも言える。

創発<人事労務用語辞典の解説> (コトバンク)
~~「創発」とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない特性が、全体として現れること。物理学や生物学などで使われる用語「emergence」(発現)が語源で、自律的な要素が集積し組織化することにより、個々のふるまいを凌駕する高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象あるいは状態をいいます。所与の条件に基づく予測や計画、意図を超えたイノベーションが誘発されるところから「創発」と呼ばれ、組織論やナレッジマネジメントの分野では、個々人の能力や発想を組み合わせて創造的な成果に結びつける取り組みとして注目を集めています。~~
<世界大百科事典内の創発の言及>(同コトバンク)
~~…たとえば,細胞とそれから構成される生体組織や,社員個人とそれが構成する会社組織など。 この二つの階層間には,〈創発emergence〉と呼ばれる非線形なフィードバックが働く,と人工生命の哲学は主張する。すなわち,下の階層における個々の構成要素(個人)の自由な運動が,上の階層における全体的なパターン(社会の状況)を生み出し,またこのうえの階層のパターンが,下の要素(個人)の運動の境界条件としてフィードバックし,個々の運動を間接的に支配する。…~~

創発という言葉は
こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 唯識に生きる 第5回「唯識の科学性」の
立教大学名誉教授 横山紘一氏とカリフォルニア工科大学教授 大栗博司氏の対談中
語られた言葉からという経緯である。
http://o.x0.com/m/563688
~~私たちの思考っていうのは言葉で思考しているわけですから私が「自分は何であろう」と問うというのは言葉で問うている。
もちろんそのとおりですよね。
でもそういう言葉を表現できるという事はそういう思考がその背後にあるという事だと思うんですよね。
脳が言葉を作り出したと…。
そうですねええ。
「自分」という言葉が指し示すものは一体何かと。
簡単に言うとね「自分」ってあるかどうかは科学で証明できないと言われましたけど私はもう単純にね「自分!自分!」と。
それでこう手を見て「誰の手ですか?」「自分の手だ」とね。
それで「手」という名詞は見えるけど「自分」という言葉ねこれに対応するものをこうやって目を開けてもいいし目をつぶってもいいからその言葉そのものが指し示すものを探してみろって言うんですよみんなにね。
そしたらもう誰も見つからないわけだ。
でもそういう意味では手もないかもしれないですよね。
というのは手っていうのもこれは手の中の分子がこういうふうに結び付き合っているわけでそれをどんどん分析していくとただ単に原子がこういう形に関係し合ってここに存在してるわけですから分析していくと手自身はなくなってしまうわけですよね。
そういう理解のしかたの時に一番難しいのはその個々の要素からどういうふうにしてこういう手というこの一つの機能を持ったものが一体として動くものが現れてくるか…。
科学では「創発」という言葉を。
「創造」の「創」と「発生」の「発」と創発と。
そういうふうに個々の原子みたいなものから出来ているものが関係し合い相互作用し合ってその手という一つの機能を持った実体が出てくるというのはこれ創発という現象なんですね。
でもそれをよくよく見てみるとその手というものはそれは1個としてあるものではなくってその原子たちの集まりとしてしか存在してないものですよね。
ですから「自分」というのもそれと同じものの意味でないという。
つまり脳の中に個々に分けていくと結局脳の脳細胞とかニューロンの間の相互作用でそういう情報処理が行われてる。
それをまあ世界モデルとして「自分」というふうに考えているわけだと思うんですけれども。
あの変な事を聞きますが素粒子論とかねそれから宇宙論をやっても人間の苦しみとか悩みはなくなりませんよね。
それはもちろんなくならないですよね。
そこが全くね方向性が違うわけだ。
科学の目指すものというのは…私たちの住んでいるこの世界の仕組みを理解しようというのが科学の目指す事なんですけれども唯識の目指すものというのはむしろこの世界の自分がたまたま生まれてきてしまったこの世界がどんなものであるかというよりはその中の私自身の心の働きがどういうものであるかと。
そういう理解したい方向が違うという事…。
やっぱり苦しみなんですよ。
なぜ苦しみが起こるかと言ったらね全部自分が主体的に真ん中にあるわけだ。
自分の身体自分の家庭自分の国自分の会社自分ってね。
全部自分なんですよ。~~

仏法の指導者というものが
どういった資質を持つべきであるか

まぁそれも「どうでもいい」んだけれども

どっちから
どっちを見ればどうなのかということを

まず「どっち」と「どっち」があるのかを
区分けするところからが必要になる。

それをしているのがアルベア論である。



[841] 忘却の見ないために見てしまう選択

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月27日(日)23時57分45秒   通報   返信・引用   編集済

教相(文上)において仏が語っているものは思考概念の知識であり
観心(己心)において仏がもたらせるものは現象の体感である。

「仏は常にここにあって法を説く」という法華経の知識に対して
「仏の説く法が常にもたらされている」という体感が文底である。

それは問えばリターンがあるということであり
仏との対話の実現である。

アルベアのブログにニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」が紹介されたが

法四依
依義不依語(義に依りて語に依らざれ) を考えるならば

「神」と「仏」という語の違いではなく
その現象の在り方を問い、同質の意味が見て取れる。

私個人の、志向性はもちろん
「御本尊に照らして考えてみます」という
そこから必ずリターン(答)を得てみせるという
体感を願う祈りに始まっていて

始まりがそれであるならば
そこからの内容は、それと不二である。

気づきの幅が無限に広がりうる
「法華経現象」「南無妙法蓮華経現象」の
全容と宇宙と我との、真如・非二元の探求である。

語に依る探求でなく、義に依る探求であればこそ
特定の宗教の思考概念ではなく
普遍的・科学的な視点に立つことを可能にし
より多様性に対して有意義をもたらすことが出来るのだ。

それは、そのためには
限定的な知識によって決めつけるのではなく
相互を活かしきる智慧が必要である。

智慧ということは
「~しなければならない」「~してはならない」
という枠に囚われることのない
その瞬間に応じた、真如・非二元の気づきのための
促しである。

依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
知識の押し付けでなく、智慧によって促すのだ。

私にとってアルベア論の律動法は
「法華経現象」「非二元」をより体感する促しである。
義を了解するための二者関係間の伝達である。

何かに熱中する時、集中的に見えているものと、見えていない事がある。
見えている対象化されているものだけを見る時
見えていない事が欠けている事は不了義の部分が出来る。

御本尊に祈る時
別のものと思わない一心に、法華経が了義経(円満の法)として
その一心を見れば蘇って思い出すことによって、
仏との対話の方法が開かれるのであり

己心の外にあると対象化してしまえば
たちまちに不了義経になり
沈黙に対して愚考をくりひろげるのである。

依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)

創価三代の会長が一心に定めた大御本尊を
「大謗法の地にあるから」と対象化して切り離すのは

了義経として機能するべき信心を
不了義経化して捨てることである。

権力迎合のための選挙支援や
盲従の資金源のための弘教運動の
負担を減らすために信仰を縮小。

百害あって一徳の功徳もない。

大御本尊が後世の造立だとして
御本尊を求める一心の強さによる
特別な御本尊であるとも見ることは出来る。

まぁ、それは思考概念という所になるが
それにしても2014年の会則改正は
義のない語による智慧のない無慈悲な切り方だった。

ともあれ「大御本尊」の経緯を考えれば
どうしても説明は人為的にならざるを得ない部分がある。
肯定するにせよ否定するにせよだ。

だから、この問題に対しては特に
「法華経現象」「南無妙法蓮華経現象」の
全容と宇宙と我との、真如・非二元の
己心の仏との対話によってもたらされる法による解決がいる。

無記、ただある。
それは説明の概念にはならない体感による。

それは、どのような形にせよ
法はもたらされていたし
法はもたらされているし
法はもたらされていく。

戸田先生、池田先生が体感したことは
私たちもすでに体感しているということが
本質的に師弟不二である。

そんなバカな
戸田先生、池田先生は特別だという思いに熱中して
対象化するから見ないという選択をして忘れているのだ。

永遠の生命の上では
全ての存在、日蓮大聖人も釈尊もイエスも不二で体感している。

だから、思い出せば、知識を越えた対話が成り立つ。
そこに法がある。

思い出せば、それにあふれている。

人生とは
未体験パターンを体感する
衆生所遊楽の舞台なのである。



[840] 対の価値

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月25日(金)18時02分50秒   通報   返信・引用

宇宙に孕まれている矛盾を見て取るということは
宇宙が矛盾なく存在していることと矛盾しないという
それ自体が矛盾としてあり

これに善悪は無い。

仏教史に孕まれている矛盾を見て取るということと
創価教学が矛盾なく存在し得るということを矛盾させないことは
臨場感の涌出のエネルギーの空であり

これに正邪は無い。

私はあなたの善悪ではないし
私はあなたの正邪ではない。

これは個々の思考概念には
その志向性の違いがあり
重要度の順序が変わって
表現が異なるということである。

私とあなたの善悪は同じものであるし
私とあなたの正邪は同じものである。

これは重要度の順序を解除して
志向性を体感の現象として見れば
全く別々のものなどない一つである。

思考概念というものは
志向性によって重要度の順序を分離抽出した体系であるが
分離が生じる際には対となる裏分離があり
むしろ、その裏の分離の価値をもって
抽出された表の価値も等価として価値付けされる。

「南無妙法蓮華経と唱えることは
意味が分からなくても効果がある」
というのは正しく伝えられれば正しく唱え効果があり
「効果があることに価値や意味がある」のでもあり
「価値や意味が分かればこそ効果を引き出せる」
というのも効果が現れない場合、何が悪いかの確認に必要である。

一つの概念に、置き換え、裏の意味、裏の価値
そういった重要度の体系がある。

置き換えによっては
「同じように、あるいはそれ以上に効果があるなら
南無妙法蓮華経と唱えるスタイルでなくてもよい」
ということも、等価として言えるのであるが
その重要度をどう置くかは個々人の志向性なのである。

日蓮大聖人の時代、日蓮大聖人にとって
南無妙法蓮華経以上のものが無いと確信したから
それしかないものとして
その他一切三世十方の総体に対して等価の
南無妙法蓮華経として広めた。
と言っても、その時点ではどれだけ広めえたか。

信じて行うということは誰の責任でもなく
自身の責任であるということだ。

自身の作り出した重要度の順序の中で
それを仏や神(諸天)として信じているのである。

御本尊と自身を同じとして見るということは
全く事実として、その時それは同一の事の
置き換えの違いにすぎないものなのである。

弘教の方法の概念に摂受と折伏がある。
『佐渡御書』 に、「仏法は摂受・折伏時によるべし」(957P)
『開目抄』 には、「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(235P)
『観心本尊抄』で「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(254P)
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-184.html

これの置き換え、裏の意味、裏の価値
を考えてみる。

まず、摂受・折伏に強く触れているのは
佐渡期の限定的期間のようだ。

その上で
~「折伏を前とす、常不軽品の如し」(御書235ページ)とする『開目抄』の一節は、実は古写本には存在しません。~
<気楽非活>摂受と折伏について。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/23/000000

~日蓮の云う折伏が、行儀の中でも武力・暴力の介入を認めるもの~
という読み解き方もあり
平和思想との矛盾の声もしばしば
様々な立ち位置・角度からあがるところです。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/imanari001_inf.html

創価教学の表の概念は
「末法という邪智・謗法の者の多い時だから
正しい日蓮仏法による折伏が正しいのだ」
という感じではないかと思います。

ただそれだけでは

佐渡期の日蓮大聖人への「間違っているから、そんな境遇に陥ったのではないのか」
ということに対する「むしろ正しい」とする「弁明」の論拠・根拠を

あらかじめ防衛線として張って
がむしゃらに前進するための糧としたにすぎないほどの価値になる。

本質的には払拭しきれない矛盾も抱えている。

そこで、より抽象度の高い
俯瞰の見方が必要になるのではないか。

自我の執着の解決が、本来仏法の方向でもある。

「こういう時だから、こういう方法でやれば
自我を貫き通せる」という一面だけでは
自我の執着の本質の、素直な解決策ではない。

それは過去から未来への視点だけであって
未来から過去への視点が欠けているのである。

だから反転すれば
「個人が時に随って行う」のではなく
「時の全体性が縁に随ってもたらせる」のである。

より重要な本門の随縁真如の智である。

一切が脱落した「I am」という不変真如の理に対して
気づかせるための神仏の声としてもたらされているのである。

不変真如の理と随縁真如の智の
表裏・二者関係によって気づきが現象化するのである。

全ては必要な事として起こったし
起こっているし
起こっていくのである。

昨日が目標とした8月24日であるが
期待依存したような
期待依存されたようなものの
執着の帰結ではなく

「抽象度の階層に対する自由」への
当たり前の自然さの
同じ今ここの響き合いの光・振動、
三世のトリプルポイントの
<言葉で定義できない>としての
もたらされなのであった。



[839] 「従因至果」「従果向因」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月24日(木)02時24分15秒   通報   返信・引用

最後の方、ちょっと急ぎ気味で書いたので
一足飛びだった感がありますね。

経緯としてはyoutube動画で少し興味をもった
苫米地氏の、アマゾンで売れているらしい
「苫米地英人、宇宙を語る」を買ってみて
2/5ほど読み進めてみて

それは脳機能学者ゆえに深く精通していて
脳機能学者ゆえに突っ込みどころも満載と
思うんだけれども、その中で
「時間は未来から過去に流れているのは
今、哲学などではもはや常識」的な
「今回は、だから深くは触れないが
その前提で読み進めてほしい」的な内容があったので

思考実験、体感観察などをしてみて
瞬間の中に「これかな?」という感覚はあると確認できる。

たぶん、体感の次元と
思考概念の次元では落差は大きい。

今ここがプラスマイナス0の時間である時
認識される時間の流れがプラスの時間流として分離する時
その分離を経験する視座はマイナスの時間流としてあり
そのプラスとマイナスが不二として今ここの空相がある。
これは同時に、実相というものが何であるかということでもある。
これは意識の使い方の、技術・覚知であり
思考概念とは異なる「体感」である。

コップが割れるという事が起こったら元には戻らない
これを不可逆的と言い、人間の認識世界のスケールの事象は
多くは不可逆的に見え、時間は一方通行のように見える。
それを全体の常識とするところに人我の決めつけがある。

極大、極小の世界、時空の伸び縮み・星の軌道・素粒子の振る舞い等々は
逆回しすれば、同じ法則の下で、逆の経路をたどっていく可逆的であり
時間の正負は意味を成さない領域がある。

これは「在り方」を言っていて中立的。

さて「思考概念」ですが
思考概念だからダメというものではなく語ります。

将棋のコンピュータープログラムで言うと
まずは基本ルールのプログラムだね
棒銀戦法を覚えさせたら強くなるかな?
中飛車を覚えさせたら強くなるかな?
王手飛車取りのチャンスを逃さなければ強くなるかな?
詰将棋のパターンを覚えさせたら強くなるかな?
という因を積み重ねていって果につなげていこうという
「従因至果」というのが過去から未来ということ。

王を詰ませるという大前提
有利な局面に達するという中前提
有利に進めるための戦法を取るという小前提
その中でトライ&エラーで逆算するという
「従果向因」の行動体が未来から過去ということ。

勝利からの逆算
勝っているという確信が先にある
成仏が確定しているという確信が先にある。

そうすると「今ここ」の捉え方が反転する。

<宿坊>『法華経の智慧』から『御書の世界』へ  投稿者:多様性万歳
http://6027.teacup.com/situation/bbs/36064

「気づき」「体感」とは何も行動しなくなるのではなく
行動の全てが歓喜というベースによってなされる
そのトリプルポイントであってこそとも言える。

「従因至果」「従果向因」というのが
小難しいただの論理で、実生活に役には立たないと思うなかれ。

「子育て」というところに落とし込んでいるブログがヒットしました。
<森へ行こう(心とからだと子育てと)>
「考え方を学ぶ」(従因向果 従果向因)
https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201612250000/

「苫米地英人、宇宙を語る」では
極小のビッグバンの宇宙は
エントロピーが極大になるというような話を
脳機能学を軸に語られている。

それはそれとして
「今ここ」に「未来からの視座」と「過去からの経験」があり
一心がそれらを「場」の上に涌出させている。

「脳の場のクセ」「場の在り方の違い」があるだけと反転してみれば
「視座」も「経験」も実在ではなく無いとも言える。

無いかといえば有るし
有るかと言えば無い。

そういう「空」である。

宗教的思考概念としては
指摘の記事<時間は未来から過去に流れるという話>
によってみられるところからの
密教と日蓮仏法の
在り方同士の在り方は
曼荼羅本尊や一生成仏にも関わる問題でもある。



[838] 因果同時

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月23日(水)16時33分6秒   通報   返信・引用

ご紹介に時間が過去に流れるやつ見ました(^O^)

こんがらがりましたが結局いまが結果であり因でもあるみたいな?

今"だけってことですね(^.^)



[837] 階層 悟りの階梯

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月23日(水)12時46分57秒   通報   返信・引用

物質的宇宙というのは
人間が仮に受諾・創造している
超弦理論的世界の法則の約4千万パターンと比べて
6パターンの整合世界。(仮諦)

数え尽くすことが出来ないということの
象徴的例題は巡回セールスマン問題
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47988

というものがある。

仮に30都市を最短で巡回するための計算をしようとすると
しらみつぶしに4.42×10の30乗通りを比較することになり
計算速度10テラフロップスで25京年かかる。
(「プレステ4」は1.84テラフロップス、地球シミュレーターは35.86テラフロップス)

量子コンピューターというのが期待されているのは
そういった複雑な計算に対して
途中のしらみつぶしをすっ飛ばして
エネルギー状態の調和として瞬間的に解を求められるから。
(素人理解かも?)

人間が普段、やるしかなくてやっている生活は
そういった複雑性に対して
最適解とはいかなくても
経験を通してそれなりの解を実行していくこと。

個々人の仕事・趣味・生活にしても
そのトライ&エラーによって成熟していくし

様々な分野において
叡智の積み重ね、
継承・発展がある。

だから、本格的に実用的な量子コンピュータが
まだ実現しないということをもって

例えば将棋のような複雑なゲームにおいては
そう簡単にコンピュータが
人間の優位性を越えることは無いだろうと考えられていた。

しかし、AIというものが
それをあっけなく覆す。

<youtube>2017年 NHKスペシャル ~人口知能 天使か悪魔か2017年 羽生善治~
https://www.youtube.com/watch?v=OIrJ4pzs5c8

将棋は二次元+時間のゲーム。
9マス×9マス×手数。

この限定性に対する
パターンの経験において
コンピュータが人間を圧倒していく。

AIが経験を獲得し積み重ねていくものである以上
人間が数局やる間にAI同士の数千数万局を経験し
圧倒していく。

ここでAIは、膨大な経験があるから強く
どういった考え方・理論で勝つのか、なぜその手が強いのか
AIを作ったプログラマーにも分からない。

AIの打つ手は時に、あっと驚く独創的なものでもある。
AIは最後の勝利への道筋があるだけで途中の執着がない。

つまり、示し顕せる論理の無い法空と
執着がない無我によって
今ここに対する最適の智慧を発揮する

階層の違いに対する無抵抗受容の一実相である。

より大きなものへ還元されることは死であり
限定的な意味をもって存在することは生である。

<宿坊>生命の不思議  投稿者:一人のSGI
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73350
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73351
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73352
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73353
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73354
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73355
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73356

普通、死とは何だろうと
生の側から死の側を考えることはあっても
逆は無いように思うが

それは、6パターン整合性の認識後の世界に
意味を添加する試みであって
死はこの6パターンに限定されない。

認識する前には生死は不二であり
死の側から生の側を見る時に智慧となる。

この時、時間はどちらに向かって流れているだろうか?

<時間は未来から過去に流れるという話>
http://bloom.at.webry.info/201105/article_2.html



[836] 仏法の勝負

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月21日(月)12時27分15秒   通報   返信・引用   編集済

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」(四条金吾殿御返事、1165頁)
何にでも勝つことじゃなくって
仏法の本当の勝負所に勝つために
平時の信行学がある。

成仏を開くか否か
「迷い」に住するか「悟り」に住するか。

それは形式ではなく
響き合いの中にある。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73297

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」
というのが何に対応しているかを見ると

「王法と申すは賞罰を本とせり」であり
「故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」です。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51784.html

功徳だ罰だと言っているものが
はたしてどちらの性質のものであるのか。

少なくとも近年の執行部の
「池田先生との響き合い」への排除
である改竄や意向の無視
教義変更や査問活動

あるいは政党の支援中心の活動
しかも与党の強引さに加担というもの自体
王法活動団体になっている。

王仏冥合なんて言葉が
ずいぶんと都合よく解釈されているのだろう。

そんな言葉一つで仏法が負けていれば

言葉巧みに自在にしようという力に負けて
とても世雄なんて呼べやしない。

口先と本質が違っている。
それはダブルバインドであり
それに対して真面目であろうとして
抱え込んでしまえば

心を病んでしまうのは
それは当然にあることだ。
http://thoughtsandlife21.hatenablog.com/entry/2017/08/21/080049

それは気づくためのシグナルのはずなのに

「心の弱さだ」なんて一蹴して排除する。

だから深刻化する。
その深刻化している事にも気づけない、あるいは無視する。

口先と本質が違うことへの本格的な改革
それに手を付けようとするとしたら

誰にどんな風に賞讃され
どういったところの機嫌を損ねて罰せられるか

そんな賞罰を本としている人種が
信濃町学会本部を動かしている。

そのおかしさに声を上げて
賞罰をちらつかされても
実施されても屈せず

声を上げている人間もいる。

その主張や手段は様々かもしれないが
俯瞰によって視座を上昇させ

仏法の世界を雄弁に語るのだ。

なぜ「正しい仏法」と信じられるもののはずなのに
これほど多くの人たちが多く苦しまなければならないのか。
自分で選んで入信した者だけではなく
親が入信していて、素直に信じて
何かおかしさを抱えて病んでいる子供も多い。

口先と本質が違うことを平気でやり押し付け
省みず人を傷つけることが強さと言うなら
そんな強さはいらない。

それが我見と言うなら私は我見で十分だ。

何が勝つことが民衆の勝利であるのか。

私たちは!勝とう!



[835] 生命現象として見る

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月19日(土)11時53分8秒   通報   返信・引用

しかし書いてみて逆に気づいてみると

ーーこれはただ誰に向けているのでもない言葉であり
ただその時そう見える記号であり
それに対してどういう感情が起こるかは
一切自身の問題であり

問題が有るということに気づけるのならばむしろ
「ありがたい」とも受け取れるものである。

<かんながら>お悩み専用スペース
http://abetoshiro.jp/archives/3305993.html

↑これもクッションです。

「自負する」という言葉があるが
自負する必要ってあるのだろうか?

「私は〇〇だと自負している」
これって分離宣言とも言える。

大石寺から分離した宗教団体は創価学会だけではなく
その分離の元凶は
大御本尊を中心とした戒壇思想にあるのではないか?

顕正会なんて顕著ですよね。

アブラハムの宗教と言われる
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教

共通の聖地であるエルサレムは争いの種であり
「国際管理地区」として国連に管理されている。
http://honkaramanabu.seesaa.net/article/446280668.html

下種の日蓮仏法と言っても
南無妙法蓮華経と唱える宗教が
どれぐらい枝分かれをしているかを見れば

その下種というものは
自負というものとは別の何かでないと

平和にはつながらないのではないか?

どの仏教宗派にも
基本的には仏の真髄は自分のところにあると
自負して開かれている事だろう。

「悟りの生命現象は同じ」ということによって
自負の解除をすることが
平和へと繋がらないだろうか?

最も意味を持たないシンボルというのは
そういう方向性を持ちえないだろうか?

生命現象として見る。

<イマジン・ハッピー・ライフ>法華経唱題による徹底的な生活実践指導
http://imagine-happy-life.tokyo/blogs/post/24

御本尊への勤行唱題が正しいっていう自負の思い込み信じ込みではなく
生命現象として見てみる。

俯瞰しなければ戦争は無くならないのです。

<youtube>Why war won't over?なぜ戦争がなくならない?02
https://www.youtube.com/watch?v=8ZxIkcUO6P0

最も正しいと思うものによって
むしろ分離していく。

日蓮大聖人・大御本尊
正宗教学・学会教学
戸田先生の指導・池田先生の指導

いかに愚考の歴史であり
それを生み出しているものは何かである。

後世の一心の愚考なのである。
固定化された絶対な特別というものを分離する愚行である。

分離させて持ち逃げすれば溝は埋まらない。
そもそもそれを生み出したのはその行為だ。

最も意味を持たないシンボル。
所有者のいないシンボル。

体感によって
その高い抽象度を
歓喜のエネルギーとするのだ。



[834] 涅槃

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月19日(土)00時10分28秒   通報   返信・引用   編集済

未練や執着が有ったら涅槃じゃない。
でも、涅槃でも願いや慈悲はある。
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
との通り。

つまり仏性(非二元)の上での願いというものは
未練や執着とは全く異質のものである。

きれいさっぱり未練も執着もない上で

何者も今以上になるということは無いし
何者も「今ここ」「これ」以上のものを得ることは無いと
完全に受容している上で

すでに比較すべきものの何も無い
一即全、全即一の
ただ慈悲、ただ願い、ただ智慧だ。

それはその時、完全に成就されている。

本仏というならそういうことであり
「日蓮大聖人」というのは
最も意味を持たないシンボル
というのは
その境智を褒め称えればこそである。

仏性(非二元)というものは
解除・解放・開放によってあるのだ。

自我機能の囚われが無明であり
気づきによる実存が法性なのである。

同じ御本尊を信じても
自我機能による決めつけが介在する分だけ
無明に覆われているのである。

誰の問題でもなく自身の問題である。

大御本尊はここにある。

むろん思考概念のレベルや
未練や執着のレベルで言っても
それは違うだろうし

必ずしも「大御本尊」なのかどうかは
その実在に対しての
その人の信心によるかもしれないが

私がこの掲示板で言う分には少なくとも
「大御本尊」なのである。

「最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
https://plaza.rakuten.co.jp/anboclub/diary/201008300013/
(随筆「我らの勝利の大道」20)

ただ雨は降り
ただ声は響き
ただ熱は迸り

それはいささかも変わることなく
まさに今ここなのだ。

学会員が何を誇り
学会員が何に奮起し
学会員が何に怒り
学会員が何を柱として
歴史を刻んだのか。

堂々と歴史を語れない欺瞞の組織になるためだったのか。

悟りとは言っても
そういう思いに蓋をすることによるものでは無いのだ。

編集追加<Care of the Soul>投影~思考は現実化しない♪~
https://ayukablog.wordpress.com/2017/08/13/投影~思考は現実化しない♪~/

押し殺したり単純に忘れたりすることと
解除・解放・開放は違う。

本当に晴れやかに
きれいさっぱりとなるまで
最後までやりきる。

いまさらやめてはだめなのだ。

自身の本質はシンプルなはずである。

複雑になっているのは知らず知らず言い訳であり
ごまかしである。

自身は今ここにしかいないし
本質はどの時もこの時も一切変わらず
「今ここ」というものしか無いのである。

ここに一切が含まれて
これが一切である。

この事実だけが事実であり
誰も逃れることは出来ない。

これ以上のものも
これ以下のものも無い。

一心が世界を地獄にも
一心が世界を仏国土にもするのである。

どの如是の面
どの世間に対してもである。

心王というものは
一人一宇宙
一人一宗
一人一本仏でもあるのだ。

不二なのだ。



[833] そもそも宗教

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月17日(木)03時17分10秒   通報   返信・引用

エネルギーは高いところから
低いところに向かって流れる。

会長から会員の方向。
御本尊から信仰者の方向。

でも、それだけだと縦社会ですよね。
平等的な仏法じゃない。

空という状態から正邪を見出す
その分離過程にエネルギーが生じる。

非二元から二者関係が生じる
そこにエネルギーが生まれる。

初めからガチガチに分離した自分であれば
そこにはエネルギーは生じないわけだ。

自己をエネルギーの高い
一心の三智の状態にするから
そこから何か行動をする時に
それがエネルギーとして放出する。

それを実現させたのが
戸田先生であり池田先生だ。

その次元を継げるものがいるのか?

本質として今、何が現象化しているのか?

大御本尊をキープできるだけの
空の体感の後継者がいなくなっている
という正法としての存続問題だ。

言葉であれ人であれ組織であれ対象物であれ
そのものが、そのものとして
絶対であることが無い事は

そもそもそれが仏法だ。

苫米地英人氏の動画が
これはなかなか面白い。

うん、まぁ、これは、
見てどうかは、自己責任だけどね。

アルベア論のぷるぷる気功の張永祥先生とも絡んでいるみたい。
<アマゾン>ドクター苫米地&神の手氣功師「すごい氣が出るDVDブック」

だから信用性が有るという話しではないのだけれど。

<youtube>苫米地博士による『人はなぜ、宗教にハマるのか?』紹介動画
<youtube>苫米地博士が語る「気功の科学」 【苫米地英人×長倉顕太】
<youtube>【苫米地英人VSダイゴ】宗教と超能力との関係とは?

<youtube>【悪用厳禁!】苫米地英人「一瞬で相手をひとめ惚れさせる方法」
一瞬で相手をひとめ惚れさせる方法自体より、前半の話が、面白い。
方法自体はね、悪いことに使ったら還著於本人だと思いますよ。
話しの中でも出てくるけど、今世を越えた血脈まで信じさせる手法でさえありうるってことだね。
思い込み信じ込みへの介入の技術。
次元は違っても、創価学会という宗教団体が
そういった類の技術を一切使っていないかと言うと
善悪の判断はおいておいて、無くはないでしょう。
いやむしろ、臨場感があればこそ力ある宗教でありうる面が有るしね。
善悪無記。ただある。



[832] ざっくり

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月15日(火)23時37分32秒   通報   返信・引用

神秘体験→自己機能
教学との整合性→自我機能
在り方の変容→意識機能

発迹顕本→受信すべきものと発信すべきものの表裏

大御本尊→仮和合のシンボル

妙法→空を包摂する一心の三智

//一個宗教団体としての物語の塊

縁起の法→エントロピー型のゲシュタルト
空→最も情報を持たない一つ
(人間>霊長類>哺乳類>動物>生物>依正不二>ただ在る>有無に非ずという空)

空を包摂する妙法の大御本尊というシンボルを中心とした
中心に近いほど強い意味を持つエントロピー型のゲシュタルト

ここに神秘体験という自己機能が重ねられることによって
分離された神話世界でなく現実の上に展開する妙法

だが、そういう「思考概念」に偏ると内実が無くなる。

//

例えば、平行線をたどる二つの宗教があって
そこに一つの切り口で直線を引いてみると
そこに現れる角度は同じになる。

生命論の空観と
道元の生命観は

同じ「仏法」に対して
同じ「空」で切り口を入れるので
そこに現れる「角度」は同じである。

日蓮大聖人は様々な経典を
都合よく使っているようにも見ることが出来るが
何と何が同じであるかの指し示しと見れば
その全体像の包摂だとも見れる。

その包摂は
「日蓮大聖人の」己心の法をベースとして成されている。

この「日蓮大聖人の」という括りをどう見るかが
信仰者の在り方を左右するところとなる。

教義というものはえてして
指さされている太陽そのものではなく
さしている指を研究してありがたがる。

その超克のための自己機能の体感であり
他宗に対する批判が
自宗に対しても超克として現れなければ
それはただ、歪んだ偏頗な「指」になる。

歪んで正しい方向さえ示していない指。

ただ衆生を迷わせるだけである。

//

思い込みと信じ込みを分けてみると

思い込みとは
自分がどういう価値基準であるかを決めつけること

信じ込みとは
属している集団の価値基準が正しいと決めつけること

相互に強化される。
例えば、「信仰なんだからこれが当然だ」
という風にだ。

だが、釈尊・龍樹・日蓮らがした本質が
そういう在り方の否定だとしたらどうだろう?

信じれば信じるほど遠ざかる何かが
同じ一つの事の捉え方の中に生まれ得る。

だからある意味
戸田先生は空の覚知へ導こうとしたところもあるが
その空観が定着しなかった時点で
大乗仏教としては失敗だという一面もある。

しかし、池田先生が各方面
様々な識者たちと語り合ったことなどで
チャンスが残されている。

普遍性を開く道が残されている。

普遍性のために仮に考えてみると
「日蓮大聖人」というのは
最も意味を持たないシンボルとして
意味を持つ信仰である。

南無妙法蓮華経として一切が平等の
無限の価値の信仰である。

もちろんそれだって
思考概念であっては同じである。

いずれにしても
自我機能・自己機能・意識機能の見分け・区分けというものが成されなければ、ただただズルズルと終わるだけである。

<youtube>苫米地英人「仏教・釈迦の悟りの内容とは?」/博士の自由な対談 (映像版) [ 2010年6月17日 ]
https://www.youtube.com/watch?v=t9HqpMAtU9Q
↑般若心経のくだりは、阿羅漢果の特別性の否定に大乗仏教運動があるんだから、そこをつっこんでもしかたないだろうというつっこみを、つい思考概念で入れたくなるが、まぁ、一つの思考概念として、説明されているものではある。
今回の記事で、一部、この動画の縁起の概念と空の概念を採用している。

<youtube>【5金スペシャル・Part2】矢作直樹氏:霊魂と肉体: あの世とこの世を分かつもの
https://www.youtube.com/watch?v=z6bjgNLYCjY#t=2302.657542
へぇ、スピリチャル勉強してるんだ、って感じです。東京大学名誉教授という肩書で堂々と語っている。近年の一部学会員の、ちょっとでもオカルトの気が有るものを拒絶する姿勢と比べて、どちらがより生命に対して真摯な態度であるかということだ。

<youtube>価値基準と無限の価値の無意味の非二元の話
https://www.youtube.com/watch?v=iKhNuV7e-9s
作ってみた動画だ。思い込みと信じ込みの違いの気づきはここから。アウトプットの時にもたらされるものは多い。

<youtube>Fermat's Last Theorem: フェルマーの最終定理
https://www.youtube.com/watch?v=se7s17x39eA
以前にも紹介したことがあるかとも思うが、数学ミステリー白熱教室よりである。より高い次元から見た「同じ」の模索の可能性。



[831] 昔からある場所

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月14日(月)01時13分36秒   通報   返信・引用

言葉は不便だ。
言葉は思考だからだ。

言葉は便利だ。
言葉は指し示しであり現れだからだ。

不可思議という言葉は
不可思議そのものではない。

不可思議があるということを示しているにすぎない。

考えることが出来ないものの覚知に
一体どれだけ言葉を重ねることに意味があるだろうか?

考える自分があるという風に
考えによって自分を考える自分があるという時

考えている自分を考えることが出来るということは
その時それは考えられているのであって考えているのではない。

自分というものは考えによって考え出されているにすぎない。

何も、何の違いも知らず何の言葉も持たない時には
あなたはただ訪れる現象だ。

例えば数学であれば
全ての自然数の和=-1/12
全ての素数の積=4π^2
といった一見、通常には理解出来ないような式も
論理的に突き詰めて理解されるべきものである。

ところが覚者によって
「これ」「今ここ」「妙法」等と言われるものの本質は
本当の不可思議の気づきそのものであって論理では無いのだ。

その本質は何の救いもなく
完全な救済である。

宗教やスピリチャルや哲学は
それを思考で理解しなければ
それになれないわけではなく

もしかしたらあるいは
何の予備知識もなくその本質に気づいてしまったら
あまりにもいたたまれないから
指し示し導くと同時に
はじめから緩和するための嘘としてあるのかもしれない。

方便というやつである。

説明できる何かのためではなく
不可思議のためのそれなので
それを分析しても
それの現れではあっても
そこにはそれは無い。

本質は初めから救われている。
救われておらずいたたまれないのは
マインドであり自我機能である。

しかしそれは解放され救済されるのである。

自我機能・自己機能・意識機能の区分けによって
スムーズに救済されるのである。

最初はそういうスタートなのだ。

後世の人間の思考概念が
あーだこーだとややこしくして
選民気取り・選別者気取りで
一向に救済が無くなっているのである。

ただあることに
あってみなさいということである。

何を考え出さなくても
初めからそれであることを思い出すために
ただ一心が有るということに
考えを付け足さずに素直に向かうのである。

誰の言葉だからどうだなんてことは
そこで考える必要はない。

自身があるだけだ。

我見を恐れる?
誰の言葉を信じるかの選択も我見だし
自分一人で判断するのが我見だというのも我見だ。

我見を捨てるというなら
一切のマインドのおしゃべりから離れることだ。

その時そこに、どんな感じがあるのか
味わうのだ。

忘れられていた自分自身を思い出して
受け入れて、味わうのだ。

その本質は、深く味わえば
自分(だと思っていたもの)だけのものでは無いのだ。

だからその本質の味わいこそが
本当に我見ではないものである。

それまで自我機能であった時には
全く余所ごとの物語であったり
全く空虚な言葉にすぎなかったものが

それらが本質の体感であることに反転する。

ああ、全くその通りなのだ。

仏の言葉は、神の言葉は
全くその通りに
ここにあふれているのである。

<youtube>エックハルト・トール
https://www.youtube.com/watch?v=aKlIBhTkHSw
https://www.youtube.com/watch?v=iWJyabSgaKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VUHzA67Teck
https://www.youtube.com/watch?v=VWV6-hFNuKw
https://www.youtube.com/watch?v=uAthYt7zUUk

律動法1.スワイショウ
<youtube>【実演】究極の朝の運動Ⅰ【両手振り運動】
https://www.youtube.com/watch?v=N16QwFFjcT8

2.プルプル気功
【究極の朝の運動Ⅱ】実践編ぷるぷる運動
https://www.youtube.com/watch?v=P-4SXh6tCb4

3.火の呼吸
瞑想 カパラバティで心地よく ~毎朝ヨガ習慣~
https://www.youtube.com/watch?v=BuGPJakuJLg
ヨガ動画 (2-1) :カパーラバーティ呼吸法
https://www.youtube.com/watch?v=_EuTE7QQAPU

4.スワイショウ

イメージ
生命現象~ゴールデンワールド~
https://www.youtube.com/watch?v=NfdgKZ7HR4U

気分転換<youtube>Hello, Again ~昔からある場所~ - MY LITTLE LOVER(フル)
https://www.youtube.com/watch?v=ULnypfsI4og



[830] 五百塵点劫

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月11日(金)15時18分55秒   通報   返信・引用

三次元+時間というのは
認識後の固定化の相対的世界である。

幅と奥行きが入れ替わったとしても
高さと奥行きが入れ替わったとしても
歴史は対称性から外れない。

だが、時間と奥行きが入れ替わったら
それは、この認識の物語は塗り変わってしまう。

時空の入れ替わりのパターン
1×2×3×4で24パターンの内

1×2×3の6パターンだけが
認識後の物語においても対称性を保つ。

三次元と時間に一貫している光速においては
時間経過はなく距離だけが存在するので

光速にとっては24パターン全てが
物語の無い対称性を保っている宇宙になる。

超弦理論の11次元の入れ替えパターンは
1×2×3×4×5×6×7×8×9×10×11で
約4千万(39916800)パターンになる。

先ほどの光速不変の24パターンは
この約4千万パターンの内にある。

この約4千万パターンの中には
光速を超えた伝達があるという
光速の法則が破れる量子力学的世界もある。

約4千万パターンの入れ替えで対称性を保つためには
超弦理論的世界の法則である必要がある。

シュレディンガーの猫に言われる
観察されて初めてあることがある
量子力学的世界も含まれる宇宙である。

つまりこの約4千万パターンの入れ替えで対称性を保つ宇宙は
有るのでもあり無いのでもある真理の宇宙である。

約4千万パターンの内の一つである
人間にとって正規の認識後の宇宙に
一念三千を観じ、三千通りの現れと見る。

約4千万パターンのそれぞれにも三千通りの現れを見れば
約4千万×三千で1200億通りになる。

この1200億通りが瞬間瞬間であり
1200億×1200億×1200億×・・・
というフラクタルが展開する。

さて、あなたは
この全てのパターンを一つ一つ読み上げ尽くすことが
出来るだろうかどうだろうか?

その、することが出来ないことが
されているのがこの宇宙である。

「今ここ」である。

光速の法則で時間の前後は無くなり
量子力学においてはその距離も無くなり逆行もあり
有るのでもなく無いのでもない。

例えば素数が無限にあることは
分かっている素数を全て掛け合わせ
1を足してみると、
まだ分かっていない素数を見つけないと
因数分解できないので
それはどこまでいっても終わらなく無限である。

無限でありながら
一つでもあり
無でもある。

実際に読み上げられている一つ一つの経験が
一念三千である。

それは差異があるということの強調ではなく

認識後だけに固定化されているような差異は
本当の真実からすれば
取るに足りないということである。

このように非二元の知見というものは
認識後の思考による見方とは異なるのである。

1200億×1200億×1200億×・・・
そのどれもが、対象化されるから認識されるものであり
純粋な気づいている意識ではない。

気づいている意識であるということは
誰にとっても間違いなく当たり前であり

認識後からして当たり前で無いのは
この気づいている意識は
何が所有しているものでもなく
所有者がいないということである。

完璧なものは無いということは
全ては完全であるということでもある。

全てのパターンは
ただあるのである。

非二元が死ぬということは無い。

不死を得る。

ただ、そのままでは観念論である。

現実にそれを現象化・技化する智慧が必要になる。

そのための物語や方便がある。

<無限の宇宙>仏陀の悟り
http://amurita.upgrade12.net/2014/01/budda/

↑なんだか笑ってしまうところもあるが
そういうパラレルな中現界の物語も
1200億パターンのうちの一つなのだろうきっと(笑)



[829] 人生いろいろ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月10日(木)06時09分4秒   通報   返信・引用

身なりさん、いつもどうもです。
必要が起きて生かされている。
全部がそうですね。

優れた作家が偉大な人格の持ち主とは限らない。
優れた数学者が冷静な客観視の持ち主とは限らない。
崇高な伝道師、教師でも人間であるときは何をするかはわからない。

数学者の例、

<youtube>3-2. 五次方程式が代数的に解けないわけ
https://www.youtube.com/watch?v=qwYyXtttns0
最初に数学者ガロアの紹介があります。

彼の物語を近年のラノベタイトル風にすると
「私の論文が通らないのは
どう考えても
こくおうが悪い!」だそうです。

私もある意味、
「私の論文が通らないのは
どう考えても
執行部が悪い!」
ということから始まっている部分もある。

「さとり」に関して言うと極端な話
オウム真理教の麻原彰晃が学んだという
ダンテス・ダイジの書籍を見ると
他の悟りを求める方法と比較して外れてはいない。
魅力的ですらある。

オウム真理教があれだけの事件を起こしておきながら
アレフとして存続する信者とは何なのか。

でも立場を変えればもしかしたら
平和思想をこれだけ反故にされておきながら
未だ公明党の支持を止めない学会員の方がおかしいのかもしれない。

物事の見方というのはそれぞれだ。
でもそれだけを言うと、何も始まらないので

そのためのアルベア論
そのための法華経
そのための日蓮仏法
そのための池田先生の指導

それの用い方がある。

最初で最後は「自身の選択」である。

さて、ちょっと俯瞰。
<wiki>宗教一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E4%B8%80%E8%A6%A7

その全ての覚者は「これ(久遠元初)」を師として悟りを得た。

ここで久遠元初とは「今ここ」の最初の二者関係だ。
最初の気づき、気づいている意識だ。
非二元から、最初の選択なのだ。

「師弟」「主従」「親子」
その最初の選択なのである。

選択によって重きが変わり
思考概念によって歪曲し固定化し閉塞する。

主に仕えることがメインの宗教か
親孝行のような義を重んじる宗教か
師弟の伝達による宗教か。

大元を尋ねれば一つなのだ。

包摂として見るならば、その全部・全体である。

たとえ無宗教という主張であれ
どんなとんでも宗教であれ
この存在の気づきである以上
何者もこれ以外にない。

個別としての絶対完璧は無いけれども
指し示す促しは「これ」なのだ。

どれだけ「これ」そのものかということには
脱個別ということになり

そこにおいて私はいないのである。

まぁ、難しいことは分からなくとも
大笑いできる日がある今を
楽しんでいきましょう。



[828] 蘇生さんへ追伸

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月 9日(水)22時14分1秒   通報   返信・引用

ご無沙汰してます
がたまに覗いて全記事読ませてもらってます。

伝道師パラマハンサ・ヨガナンダ

記憶が定かなら彼も晩秋を汚していた気がします。
その手の話は多いみたいで、嫉妬によるデマかもしれませんが、もし本当でもそれはそれで面白いですね

どんなに崇高な伝道師、教師でも人間であるときは何をするかはわからない
自我機能のエラーなんでしょうかねぇ
しゃばでは何でもありですね(^O^)

それでは陰ながら投稿楽しみにしてます。
またお邪魔します。

サイヤさんもお久しぶりです。
掲示板解放ありがとうございます。
平凡な生活の楽しみの一つにさせてもらってます。



[827] 必要な人しか目の前にいない

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 8月 9日(水)22時03分42秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは
清潔な身なりです

歳をとる度に環境が変わりまわりの人たちも変化していきます。

よくよく考えるとその時々で不可欠な人ばかり

今もそう
好きなひと嫌いなひと苦手な人と相手に抱く感情は違えど、どうやら今の私に必要な人ばかりのようです

うまく言えないですが好きな人といるとストレスが発散される感じで、嫌いな人といると考えさせられ自分を省みることができるし、苦手な人と接すると単純に鍛えられます。

なんだかんだで今日も笑えたし、まとめて私なんでしょうね
題目が上がらないときはそれさえも必要な流れで、しばらくするとご本尊の前から離れなくなったり
そんな凸凹があっても笑ってるんで上手くいってるんでしょうね

きっと 明日も大笑いしますよ

なにせ娘と夜釣りの予定ですから(^O^)



[826] 厳在

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 9日(水)07時20分50秒   通報   返信・引用

ビートルズやスティーブジョブズらに影響を与えた
ヨガの伝道師パラマハンサ・ヨガナンダという人物がいる。

瞑想によって得た体感知を
彼はアメリカに渡って
それを科学として語り広める。

つまり、宗教的な霊学から
宗教性を排除した化学的な哲学として開いた。

共通性の普遍の体感知である。

<パラマハンサ・ヨガナンダのコトバ>
http://mandalaya.com/s7.html
http://mandalaya.com/pa-yo.html

ジョンレノンの
イマジン
https://www.youtube.com/watch?v=M0d_P-QMdNQ

あるいは
Let it be
https://www.youtube.com/watch?v=IgpJD5KzR0k

一方、創価学会第二代会長戸田城聖先生は

ともすれば本来は閉鎖的な
よもや、日蓮を信じないところにおいては
どこにも通用しない日蓮正当概念に

自身の体感知によって
化学的な哲学の側面を取り入れた。

つまり、科学的な哲学から
生命論を開いた宗教的な霊学として蘇らせた。

アニメ人間革命 第4巻「生命の庭」(獄中の悟達)
https://www.youtube.com/watch?v=WNR6nSWnFCs&t=572s

”厳として存在するもの”の覚知

このシーンは先の薬王品とも重なる。
(あるいは意図的に重ねられたか)

ともあれ、その両者
ヨガナンダと戸田先生

宗教的な霊学と化学的な哲学との”済度”。

その太極の脱構築。

そのどちらでもあり
どちらでもない第三の道を
池田先生は持っていたかもしれない。

ヨガナンダの言葉のページの中に
~「あなたは単にお金を稼ぎ、子供を作り、死んでいくために生まれたわけではありません。
 あなたには輝かしい究極の目的があります。

 あなたは無限ある神から生まれて来たのです。

 あなたが求め、夢見てきたものすべてを満足させるものが、
 神なる場所で、気付いてもらうのをじっと待っています。

 神の無限の宝庫は、あなたのものです。

 どうして ぐずぐずするのですか。
 どうして回り道ばかりして無駄に時間を過ごすのですか?
 まっしぐらに神の元に行きなさい。」

仏教ではこれを「菩提心を得る」といいます。
覚りを開くために生まれてきたと、気付くことなのです。
       (おん・ぼうじしった・ぼだはだやみ)~
と、あるけれども
これは思考概念の区分けでは真言系の発菩提心になる。
http://mandalaya.com/sidai.html

法華経においては
如来の一切の所有の法
如来の一切の自在の神力
如来の一切の秘要の蔵
如来の一切の甚深の事
の自得である。
https://blogs.yahoo.co.jp/jojon_folk/887040.html

本来ならば日蓮大聖人が”先駆け”であるならば
以下に陸続と続くべきものではなかろうか?

固定的・閉鎖的な思考概念がそれを妨げ
特別化の分離に隷属する。

<Care of the Soul “魂のケア” 溝口あゆか公式ブログ>
https://ayukablog.wordpress.com/2017/08/03/みんなが密かに求めているもの♪

“想像してみよう、国境がない世界を(Imagine there’s no countries)”
“あなたは私のことを夢想家と言うかもしれない。(you may say I’m a dreamer)”

律動法は、太極の済度の
直接的な気づきの手法であり

国境も、宗教の違いも
そこには無い。

それは厳とした存在なのだ。



[825] 止観と薬王品

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 8日(火)06時07分23秒   通報   返信・引用

まず、<アルベアのブログ>藤本晃の「悟りの階梯」kotaroさんのコメント
~『止(サマタ)瞑想と観(ヴィパッサナー)瞑想の違い:p130~』のところで、
『生滅を繰り返しているのだけど実体としてあるかのように見える現象をしっかり捉え、その滅する瞬間を見極めて無常を「体験」するのが、悟るための観瞑想。「ずーっとそこにある(はずの)一つの対象」に心を集中し続けて現世の超越的な楽を得るのが、禅定のための止瞑想。観瞑想と止瞑想は、本来、水と油のように異なる瞑想なのです。禅定と悟りも、別ものです。禅定は、心が物質的な束縛を離れて味わう超越的な、しかし現世での心の楽です。悟りは、滅の瞬間の、何ものにも触れない寂静です。』とある。~

次に
妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三 現代語訳
を見る。
~この一切衆生喜見菩薩は自ら願って苦行を習い、
日月浄明徳仏の教えの中に於て、雑念を去り仏道修行に専心し心身を整えるために一定の場所を歩き回り、一心に仏になる事を求めて一万二千歳の年月を満たし終わった。その身が清らかであるため、三千大千世界の生命のあるものすべての生まれる時や死ぬ時、上下・好醜・善所悪所が悉く身の中に反映され現れる状態(現一切色身三昧)を得た。
この心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得て、心は大いに歓喜した。そして、こう思って言った。
私が三十二相をそなえた仏の生身の形を現わす動揺しない状態を得たのは、皆これ、法華経を聞くことによって得た力である。
私は今、当然、日月浄明徳仏および法華経を供養するべきである。
即時に、この心を一つの対象に集中して動揺しない状態に入って、虚空から天上に咲く白い蓮華・天上に咲く白い大きな蓮華・細かく粉末にした黒栴檀を降らし、
何もない空間の中に満たして雲のように降らし、また閻浮提州の南のはてで取れた栴壇の香を降らした。
この香の六銖(4.6グラム)の重さは、その価値が娑婆世界に等しい。これを以って仏に供養した。
この供養をなし終って、心を一つの対象に集中して動揺しない状態から立ち上って、自ら思い言った。
「私が、神通力でいくら仏を供養したとしても、身をもって供養するに越したことはないだろう。」
そこで、諸々の香、栴檀・琥珀・乳香・畢力迦(インドヤコウボク)・沈水・膠香を飲み、
また、チャンパカ・諸々の華香油を飲んで千二百歳の年月を満たし終わった。
その後に、香油を身体に塗り、日月浄明徳仏の前に於いて、天の宝衣を自ら身にまとい、
諸々の香油を注ぎ、神通力の願によって自らの身を燃やした。その光明は、普く八十億のガンジス河の砂の数に等しい世界を照らした。~

「日月浄明徳仏の教えの中に於て、雑念を去り仏道修行に専心し心身を整えるために一定の場所を歩き回り、一心に仏になる事を求めて」
=悟るための観瞑想
=教えられた「動」の方法によって心身を整える

「心を一つの対象に集中して動揺しない状態(現一切色身三昧)」
=禅定のための止瞑想
=逆説的に、「これ」によって心に大いに歓喜をもたらせるのが法華経というエネルギー

「私が、神通力でいくら仏を供養したとしても、身をもって供養するに越したことはないだろう。」
=身口意の内の身の供養へ、意で唱える題目→口で唱える題目→身で唱える題目

「神通力の願によって自らの身を燃やした」
=法のため人のための誓願による発熱・発光・燃焼
=身をもって具体的な現象化をさせて灯明・灯台となる。

信仰形態としてではなく
普遍的な生命現象として「同じ」を見る。

信仰形態を見れば法華経は
塔を立てて仏の遺骨を供養するような
そういう物語でもある。

その教相ではなく
観心の文底だ。

「薬王品の広宣流布」は「宿王家菩薩」に付属されている。 <気楽非活>
一つのモデルケースの物語だ。

他得の対象である。

自得の寿量品の何であるのかを
俯瞰するためでもある。

それらは、ただ一つでもあり
無限に多角的でもあり
それ自体が無いのでもある。

ただあり
あるようにある。



[824] 九識

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 6日(日)05時43分24秒   通報   返信・引用

眼を開けている時に見えているものは
実在そのものではなく
創られたビジョンである。

だから、思考で考えがちであることとは逆に
眼を開けている時にあるビジョン世界が
眼を閉じている時にもあるということは無く

眼を閉じている時にある世界こそが
眼を開けている時にもあるのである。

それは同様に
音、味、匂い、感触、思考、存在、業の流転
についても、そのようである。

つまり、それら以前の
久遠元初から見れば
生死は不二である。

色心も不二である。

曼荼羅本尊というものはビジョン伝達である。
それは実在ではなく瞬間の光である。
そこに教義・教学は存在していない。

池田哲学も、戸田教学も、日寛教学も
弟子日興も、師日蓮も、天台教学も、諸経典も
釈尊の言葉も無い。

それらは思考を開いている世界だけにある
思考概念である。

良くも悪くも曼荼羅本尊は
ただ日蓮の慈悲による瞬間の光である。

久遠元初の瞬間の光の慈悲としてならば
その瞬間には
瞬間の音も味も匂いも感触も思考も存在も業の流転も
その瞬間に同時にあるのである。

その瞬間には
曼荼羅本尊という存在も業も
自分という存在も業も
別々にあるということはなく
その瞬間だけがあるのである。

無限に瞬間しかない事において
「これ」があるだけであり
全ては「無」でもある。

無量無辺 即 我実であり
一瞬 即 本行菩薩道である。

そうである歓喜のメロディーの太陽として
音律以前の音律を
南無妙法蓮華経に顕している。

本来は「無」「空」の光の歓喜である。
宗教的転換の表現なのである。

個別であるという時には
池田先生であれ日蓮大聖人であれ
体感体であると同時に
思考概念体でもあるという
意識体である。

違えば違うということが
違いとして見られる。

非二元においては
無限に同じ、「これ」という一つ、「無」「空」しか無い。

思考するかぎり
違いが違いとして認識され現象化するので
有るものが有り続け
「それ」と「これ」という別々であり
差異ある有限が有限の中にある。

非二元において思考は
するのではなく
ただ久遠なのだ。

日蓮大聖人にとっての
その何もかも久遠の
その一瞬の光のビジョンとしての
曼荼羅本尊なのである。

元より、無限に同じ、「これ」という一つ、「無」「空」なのである。

思考より以前、存在より以前、業より以前である。

無記すらない無無記である。

九識とはそういうことである。



[823] いよいよ8月

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 8月 2日(水)12時01分32秒   通報   返信・引用

仏教の思考概念の上に信仰を確立している者にとって
成仏のためのきっかけとなる最初の気づきとは

思考概念の呪縛・循環に対する気づきの大きな衝撃と現れます。

「信じる」ことが「信じ込み」になっている気づきの反転です。

鳥は卵からかえる前、自分が鳥であることを知っているだろうか?
人間は生まれる前、自分が人間であることを知っていただろうか?

親なる存在によって形成された
護り育むための一時的機能性。
思考概念の枠組み・殻。

それを世界の全てと思い込み
それを永遠に守ろうとしても
いずれ失われるのは外から俯瞰すれば明白だが
未だ世を知らない者は、自分には関係ないと思っている。

禅であれ念仏であれ大乗仏教には
八識までの識に対する覚知は含まれている。

http://parabuddha.blogspot.jp/2011/10/04_18.html
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html

南無妙法蓮華経は九識心王真如の都だから
それよりも勝れている?

本当にそうですか?
それは何ですか?それはどれですか?

~「守」まず、師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を習得する第一段階。
「破」経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第二段階。
「離」これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、思うがままに至芸の境地に飛躍す る第三段階。~
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki05.html

「気づき」の3階梯~ルパート・スパイラ2017/01/17 に公開8分59秒
https://www.youtube.com/watch?v=MNiB3h_tdJU

ルパート・スパイラさんは溝口あゆかさんが
非二元について最も影響を受けた人物です。

ルパート・スパイラさんの話は生の法華経的であり
溝口あゆかさんの方法は一心三観的です。

大和田菜穂さんの話は
八識の側からの語りです。

そのような開かれた見方が出来ないならば
それは”閉鎖的”です。

アルベア論は開き・和合し・蘇生する見方です。

時を見誤れば、閉鎖的な「守」は
大きな害毒となります。

割れた卵の殻を拾い集め繋ぎ合わせ
元に戻ろうとしても、それは叶いません。

鳥の本願は大空へ飛翔することです。

同時代現象として起きているのです。
本願の道は已(すで)にあり今あり当(まさ)にあるのです。

創価という枠組みの七識(存在前提)を経れば
本来、苦楽善悪無記の八識の暴流(ただあるという変化)が
対苦・対楽・対善・対悪として
個の自分の執着の六識の上に激しく感情として現れます。

思考概念によって反転しているのです。

存在前提を強化しようとしても
破れ、循環してしまうのです。

幾重もの相対が現象化するのです。

開き・和合し・蘇生するとは
探求の終わり・相対の終わりです。

反転できないという不可能を
反転できるという可能にするのです。

復活・救済・蘇生です。

ワンネスからの視点であり
無・空からの視点であり
無限からの視点です。

トリプルポイントへのサポートが開かれている
今年の夏です。

体感覚知・了解へチャレンジしてください。

<アルベアのブログ>夏休み・夏期講習会の開催
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12297937411.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12297937629.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12297952995.html



[821] 縁非縁六大秘法

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月29日(土)03時28分53秒   通報   返信・引用

「意を体して」のパラドクスの
思考概念の上での回答が
信の題目・行の題目である。

確かにそうだ。

で、あるということは
日寛上人はこれをパラドクスとして
認識したということでもある。

認識したから区分けをした。

で、認識後の区分けの
言葉・思考概念だけを「縁」とすれば
思考概念の上書き、信じ込み思い込みになる。

だからその六大秘法の信じ込み思い込みだけでは
パラドクスの本当の解決にはならない。

十界の内九界までは
様々な事を「縁」として現れる。

だが仏界だけは現しがたい。

ここまではいいかな?

だからそのための
三大秘法ないし一大秘法・六大秘法がある?

まぁ、そうあせらずに
もうちょっと考えてみましょう。

「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」(p1358)

これらの秘法は
自作でない虚空会です。

日蓮大聖人の自作でないとするならば
誰の自作でもない。

誰もいない、私はいない側です。

その虚空会の側には
前霊鷲山会の、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれずに
此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となるという

このことは「無」「空」の側に全てが平等に縁していることによって
つまり「非縁」であり

「非縁」であるということは
「縁」となる枠組みや対象化がなく

ゆえに「日蓮仏法」ではない。

だから、私が展開している
純粋な日蓮仏法でない部分は
だからこそ純粋な日蓮仏法でもある。
(言葉だけを見れば詭弁です。)

単縁・日蓮仏法では思い込み信じ込みの
九界各別であり

縁非縁・日蓮仏法であって初めて
純円一実がある。

ここに縁・六大秘法と
非縁・六大秘法が開かれる。

律動法は非縁・行の題目、勤行となる。

「縁非縁」は「生死」「妙法」である。

ここに全ての「同じ」が開かれる。

多重構造です。
フラクタル構造です。

本尊の覚知の同じを成(ひら)くのです。

<宿坊>覚知と本尊  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71311

「無」「空」は実際には「今ここ」だけれど
「体感」としては何億年、何百億年
それでもなお完全には達しない過去という「非縁」なので
「久遠」ともいうのです。

大乗仏教は、これの体感によって形成されている。

ここに書いていることは思考概念です。

同じと書いた瞬間に同じという思考概念に変換されます。
志向性は、個々別々に違います。

非縁について
<気楽非活>龍樹の『中論』を読む (1)~(6)
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/02/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/03/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/10/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/13/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/24/000000
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/07/28/000000



[820] 動(あた)ると信が内発する血脈

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月27日(木)14時13分47秒   通報   返信・引用

生死一大事血脈抄<創価教学研究室 (Tommyのブログ)>
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_51938.html

「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり」

法とは、境として、自我で納得できる側。
通常、人間が「この世界を生きている」と思っている世界の現れ。
自我が「この世界」と「観じる」のが「法」であり「生」である。

妙とは、境ではなく性であり、普通、自我では実在を納得できない側。
量子的確率性・可能性、虚数的パラドックス性、超常的霊性、超克的空性
そういった「実在認識野(仮名)」で実在として認識できない側。
通常、人間が「この世界に実在しているリアリティー」を実感できない側。
「言語」「思考」「実在認識」が深く癒着している状態では「観じられない」
不可思議、不可説の妙観の側に「妙」があり「死」がある。

虹の色に橙を見ない民族にとって、橙は存在していないだろうか?
虹の色に橙を見る民族にとって、橙は本当に橙として存在しているだろうか?

虫の声を聞けない民族にとって、虫の声は存在していないだろうか?
虫の声を聞ける民族にとって、虫の声は本当に虫の声として存在しているだろうか?

このこと(此の生死の二法)によって十界を味わっているというのが
十界の当体なのである。

「生」の側の「実在認識」から「生死」の「実存解明」への飛翔が
「当体蓮華」ということであるが、その思索だけでは実際の飛翔と比べ
限定的な思考領域のカオス運動の偶発にしかすぎず
「分かった」ような気がしたけど「あれ?うまく説明できないや」
「ん?あれ?どういうことだっけ?チンプンカンプンだぞ??」
と、元に戻ってしまうことが起きる。

「当体」とは「道理に中(あた)る」「本体に該当する」「去来する如の動き」であり

「動とは動(あた)ると読むなり」となる。

「歓喜に動(あた)る」「本因本果に当たる」「正法光に中(あた)る」です。

「歓喜に動(あた)る」ので「感動」するのです。

「律」とは歓喜・感動のリズムであり
それを呼び呼ばれて集まらせるのが「律動法」であり

その律動の心身が本因本果・本願の功徳聚の当体となるのです。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無し」
という功徳聚の当体です。

文字曼荼羅本尊が顕しているそれです。

「所詮臨終只今にありと解(さと)りて信心を致して」

「臨終の覚悟」というものは、五段階によって反転します。
それは二者関係を通して経験するのです。
志向性は違えども同じように経験するのです。

思い詰めた決意から
感動の詰まった脈動へと蘇るのです。

苦を解いて覚めて悟った如(真如・如理・如智・如動)。

つまりこれは、苦(さと)り、解(さと)り、覚(さと)り、悟(さと)り、如(さと)りです。

苦悩即真如。
この十界世界全部が「さとり」と「識」るのです。

「(現代訳)総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
 もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものである。」

後半の原文は「然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、 若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、 剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し、」です。

「意を体して」というのは異体同心の解釈であろうが
意図思惑によって、バインドのパラドックスがある。

「教義解釈」の「限界性」でもある。

ただ「南無妙法蓮華経と唱えたてまつる」「行」が重要なのか
「行」自体ではなく、その文底の「意義」が重要なのか
はたまた日蓮大聖人の「意思」が重要なのか
(自称)広宣流布の団体の「意向」が重要なのか?

例えば会社の採用面接で
「2×5は?」と質問されて
A君は即座に「10」と答えた。
B君は「会社の意向に従います」と答えた。
A君は落ち、B君が採用された。

それが正しい在り方かどうか考えて
どうでもよくないなら消えない。
どうでもいいなら消える。

解かれなければ留まる。

「妙法」「生死」「十界」のパラドクスです。

「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、 『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ。」

はたして日蓮大聖人滅後の今
生死の二法がどう腑に落ちるのか。

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、 生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、 煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」

臨終正念のために備えること。(死の五段階を習う等)
逆説的に、それが祈念である。

死んだ後の事は死んでみないと分からない
だから現世利益が重要だといっても

仏法の意味として捉えるなら本来は

臨終正念といってもその時になってみないと分からない
だから気づきによって目先の損得に一喜一憂することから離れ
今生きている中で正念の実証を示していきなさい、である。

難に遭い人我の煩悩があるから苦しみを見るということも
そのまま「さとり」なんだと解(さと)り、覚(さと)り、悟(さと)り、如(さと)っていきなさい。

その煩悩即菩提・生死即涅槃が信心の血脈であり
そうでないならば、法華経を持っても正念は無い。

「委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。」
詳しくはまた申し上げよう。恐恐謹言。

<アルベアのブログ>重力と恩寵・シモーヌ・ヴェーユ 「考える事・生きる事」より
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12296199060.html



[819] 言葉

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月26日(水)13時56分30秒   通報   返信・引用   編集済

「開く」は二者関係の電磁的な反転の気づき現象。
「成(ひら)く」は脱落した「在る」のそれそのまま。

「開く」という瞬間そのものを
さらに「成(ひら)く」と
そこには誰もいない全体が有無を超克している。

前霊鷲山会から後霊鷲山会への反転現象の瞬間そのものに
虚空会が全てとして全ての有無を超克している。

法華経によって法が構成されているのではなく
現象の構造があって法を法華経として構成している。

「真我に聞けば是は真如なり」
「『私はいない(非二元・悟り)』に『置いて(信→put→置く)』は
『今ここ(諸法実相)』は『個即全体(一念三千・妙法蓮華経)』である」

<かんながら(引っ越しされている)>私はいない
http://abetoshiro.jp/archives/3019548.html

前霊鷲山会 input 虚空会 put 後霊鷲山会 output

前霊鷲山会・後霊鷲山会には私がありストーリーがある。
虚空会には私がなくストーリーがない。

法華経原典と鳩摩羅什訳妙法蓮華経の構成の違いは
このこと(是の事)(直接的メッセージ・信)の
直接知(開の成)によって
まさにその時からoutputへの反転を可能としている。

<気楽非活>二処三会は存在しない。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/06/19/005408

経典としての法華経自体をより完全なものへと構成していくストーリー
(法華経へのinput)から
完全な経典の法華経を元に攻略筋を発見し攻略していくストーリー
(法華経からのoutput)への反転である。

ゲーム開発からゲームをプレイしてもらうへの反転のようである。

十如是等の組み入れ、後霊鷲山会のロック解除・完成
プレイヤーが一念三千のアイテムをゲットしていき
南無妙法蓮華経状態(御本尊)を目指す。

非二元の側から突き放した言い方をすれば
開発もプレイも、そういったストーリーは「どうでもいい」。

「成(ひら)」かれれば、ただ「在る」。
御本尊の累乗的救済世界は、「ただある」に「ある」。

救済の一つ一つの「ストーリー」は
衝撃→歓喜といった風に現れる。

<アルベア論>「衝撃の心構え」
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/437
<アルベアのブログ>「死の五段階説」は「衝撃の五段階」⇒反転」⇒「歓喜の五段階」
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12247566127.html

非二元の側から言えば
あって終わり、それだけ。
連鎖もストーリーもない。

仏眼があるから
仏眼がそのままでその他の四眼を得ている。
仏眼にストーリーはなく
他の四眼を得ているからストーリーがある。

立正安国論
「旅客」の「近年の大災害」への「嘆き」
衝撃の五段階、認めたくない現状
なぜ日本がこんな目に遭うのか
仏法を頼って救済を求めているが
一向に良くならない苦しみという四段階から始まっている。

対して「主人」の法華経の「気づきの五段階」から
対話が繰り広げられるという
「ストーリー構成」になっている。

その異の苦(個々人としての苦しみ)は
同じ日本人、同じ人間、同じ生命という同苦である。

あって終わり。
それ以上何も起こらないから蘇生が開かれる。

言葉にすればパラドックスを感じる。
「そんなバカな」と怒る。

その「怒り」の正体は何であるのか?

衆生本有の妙理へ気づくための縁として
受容という五段階を迎えられるかどうか?

<宿坊>衆生本有の妙理を観ずる! 投稿者:螺髪
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72474

特定宗教の正当性として見るのか
普遍の現象の諸法実相として見るのか?

例えば、虚数というものは腑に落ちにくい。
人間の感覚と
計算上、矛盾があるかどうかが食い違う。

<虚数は存在するか?>
http://www.geocities.jp/x_seek/imaginary_number.html

自我機能はストーリーに変換できないと納得しない。

自我機能は、本当は納得いかない不可思議な事だらけだけど
適当なストーリーを創作して納得することにしている。

その納得速度の突破に律動(因)とトリプルポイント(果)が同時にある。

納得しようとすること手放して(果)
存在のメッセージのままを腑に落とす (因)。

音の壁」と「熱の壁」を同時に超えるようなもので
それが同時であるということは光速だということである。

概念世界でなく今ここです。
難しく考える必要はなく
皆が完全に「出来ているのです」。

考えることが出来ないようなことを
「既にしている」のです。

それは誰かがいてしているのではなく
「私はいない」なのです。

<youtube>【不思議】頭がおかしくなりそう。有名な4つのパラドックス。
https://www.youtube.com/watch?v=gyjiuKqQmJk

【衝撃】「日本人だけなぜ?」あの声が聞こえるのか!?唖然・・・世界もビックリ…!
https://www.youtube.com/watch?v=UMsAHZf2bbg

日本人だけが持つ感性!第7感??日本にだけある言葉【海外が感動する日本の力】
https://www.youtube.com/watch?v=L8HSvUGsAQU

「もったいない」という日本語は
「環境 3R + Respect」を一言で表せる
世界でも類を見ない言葉だそうです。

では、南無妙法蓮華経とは・・・?



[818] 日蓮と同意

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月25日(火)04時46分59秒   通報   返信・引用   編集済

「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
これは大石寺教学、学会教学にとって文証である。

諸法実相抄の一文である。

日蓮大聖人が生きていた時であるならば
同意であるかどうかの呼吸はそこにあるだろう。

生きていた日蓮大聖人と交流があった者にとって
あえて日蓮大聖人を本仏と呼ぶこともない。

しかし滅後においてそれは本覚の反転の作為になる。

本覚を約束されたいならば
日蓮の教えに信伏随従しなさいという偶像崇拝化である。

本覚を美辞麗句化し、利用し、二項対立化して
本覚を謳いながらその体も用も具わっていない教団となる。

それは、諸法実相抄を肯定する側にも
否定する側にも影響をもたらし思考概念化し
結果、日蓮系教団において誰も悟りが解らないという
ダブルバインドの現象化をする。

だから、滅後においては逆説的に
地涌の菩薩の実際の体感覚知を了解することが
御本仏日蓮大聖人を自身の内に呼び起こすことになる。

これが理証である。

つまるところ
戸田先生の獄中の悟達が、その現証なのだ。

「だから、創価学会が正しい」と言うのでは
それはまた偶像崇拝化の危険性が高い。

事実、体感覚知のある池田先生が公の場に姿を現さなくなって
わずか数年のうちに現象化している。

地涌の菩薩とは何だろうか?

方便品で如我等無異「我が如く等しくして異なること無からしめん」
という始覚の仏の誓願に

見宝塔品で六難九易が説かれるも
勧持品で三類の強敵が現れようともと
疑いを起こさなかった迹化の菩薩が

涌出品でまるで仏の姿そのものの
無数の立派な菩薩の登場に度肝を抜き
動執生疑を起こす。

寿量品で久遠が明かされる。

久遠実成の釈尊に久遠の自覚があるのはもちろんだが
当然のこととして久遠から教化された地涌の菩薩にも久遠の自覚があるだろう。

久遠とは、思考においてはどこまで考えても
辿り着くことの無い、認識の前の今ここである。

そこは非二元という真如であり
そこには「I am」という真我があり
世界(三世十方)になる前の等しさがあり
三千の異なりと一念という無の瞬間のそのままである。

「仏とは生命」とは
このことの戸田先生の志向性の表現である。

久遠の自覚了解である。

法華経の非二元が了解されれば
日蓮と同意なのである。

それは仏界即九界、九界即仏界であり
始覚の迹化ではなく久遠の本化であり
南無妙法蓮華経である。

法華経の智慧158
日有の教学思想の諸問題(4)(宮田幸一)



[817] 求道心と四仏知見

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月24日(月)03時27分30秒   通報   返信・引用

<大白法・平成9年4月16日刊(第476号より転載)教学用語解説(26)>四仏知見
http://tidouji.la.coocan.jp/yougo/4/476a.html

「求」を「開」けば「示」になるという
二者関係の反転になる。

「道」に「入」れば「悟」になるという
二者関係の脱落の不二になる。

「求」は受信、インプット「示」は発信、アウトプット
「開」とは電磁的な気づき現象

また「求」は弟子「示」は師匠
「開」とは胸中に開く十法界の本尊

「道」とは中道、道理に中(あた)る生かされている今ここ
「悟」とは非二元、空の自性の「I am」
「入」とは即仮に入観している。

また「道」とは無上道、未曽有の極まるところの無い法
「悟」とは不可思議、不可説を妙観する智慧
「入」とは気づくためのリアリティという慈悲。対象としての事象、法華経、大御本尊。

「心」に「仏知見」を「識」らせるという
九識心王真如の開示悟入が始覚諸仏の出世の本懐。

「一心」の「仏識三身(妙法蓮華経)」の「観(I am)」の
久遠九界即久遠仏界、久遠仏界即久遠九界、
体解即観心、観心即体解の正法十法界一念三千が南無妙法蓮華経。

世々間々は一心の道のパラレルワールドであり
瞬間の三千は非時非処非想という有無の同時の量子力学的振る舞いであり

人間人間は衆生世間衆生世間であり
その世々間々も一心の三諦である。

世間の十如是が十界互具であり
少しでも不完全のあるものを握りしめ囚われれば
累乗的に矮小化し対立化する。

無疑の受容の「信」という受信アンテナを
一仏乗の大事の因縁の流れに広く開き
それを発信し宣べ示し球の布とする。

宇宙即我、我即宇宙の智慧の門、智慧チャンネル。

人我の見は人我の見に引きずられる。
内虚にして外事あるのみ。

思考概念を手放す。

その方途の律動法。

さっぱりとシンプルに
今ここの輝きがある。



[816] スイカ・スイカ・スイカ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月23日(日)03時05分0秒   通報   返信・引用

野菜か果物かは人間の側から見た
便宜的な概念で

スイカは野菜であろうとか
果物であろうとか
そういうことはせず
自然のままに
あるがままにある。

人間だけかもしれないですね
人間であるために
人間らしくあろうと努力をするのは。

「生命」とは何か?
「生き方」とは何か?

「仏教」とは何か?

例えば厳しい戒律を遵守し法と共にある高僧が
村々を巡回し、「ありがたや、ありがたや」と言われて
供養を受ける。

その高潔がその世界に秩序と道徳をもたらし
和合の安寧に満たされる。

それがそれとしてそうあり続けるなら
それも仏教だろう。

しかしてまず内部から
法と共にある高僧であろうとしすぎるがために
和合ではなく分離へと反転する。

あるいは外的要因
産業革命やグローバル化によって
時代の要請が変わる。

法は、高僧とだけ共にあるのではない。
大衆の中に、それまでに培われたものが
その一人ひとりの和合への在り方を問う

実際的な、生き方の運動になる。

和合とは何か?と問う時
それは「本来の生命とは何か?」であり
「本来の生き方とは何か?」であり

その諸法実相は十如是であり

即仮、即空、即中であり

即無始無終無量無辺である。

「仏とは生命なり」であるならば
当然、思考としては「生命とは何か?」を考える必要が出てくる。

「生命哲学」であり「生命論」である。

「禅問答みたいだ」ということを
邪宗的で必要のないことだという
俗創価思考がある場合があるが

ごく、浅い反応的思考概念であるならば
仏法志向ではなく俗志向なのである。

『みみずを二つに切った。両方動いているが仏性はどっちに行った?』
http://www.plinst.jp/musouan/aoyama04.html

これは道元禅師の正法眼蔵の公安である。

~「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」
これこそ永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。

不潔な拘置所にはシラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミはのこのこと遊びにはいだしてきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。
まず一匹をつぶしたが、他の一匹はそんなことにとんぢゃくなく動いている。

つぶされたシラミの生命は、いったいどこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか。
また、桜の木がある。あの枝を折って花びんにさしておいたら、やがてつぼみは花となり、
弱々しい若葉も開いてくる。

この桜の枝の生命と、もとの桜の木の生命とは別のものであるか、同じものであるのだろうか。
生命とはますます不可解のものである。~
http://nitiren21.blog.shinobi.jp/生命論 戸田城聖

一方これは創価の生命論です。

全く違う別々のことを言っていますか?
同じ生命の仏性のことを言っていませんか?

このことの覚知には「空」の覚知が必要なのです。
体感覚知、体解です。

~いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。

われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。

大宇宙の生命それ自体である。これを「空(くう)」というのである。「空」とは存在するといえば、その存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。

たとえていえば「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現して見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて、怒るという性分が現れてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。~

こういう説明に、思考概念で
分かったつもりになって何の役にも立たない。

道元禅師の正法眼蔵の公安のリンクのページの中に
~この『悉く仏性有り』という見方は、たとえばさくらんぼの中に種があるように、私の中に仏性の種と言う尊いものをもっているから、持ち主の私も尊い、というような考え方となり、切り口によっては尊くないところばかりになりかねないという一面もあります。~
とある。

創価の現状として
純粋に悪でしかない存在があり
その悪を切るという
そういう思考概念として現象化しているのではないか。

戸田先生の存命中は、獄中での体感知から
その空へ思考概念の結びつけをしながら
その思考概念からの脱却・昇華として
信仰の活動があり

そこに功徳があったのかもしれない。

その体感知の師弟不二を
わずか池田先生だけが昇華させた。

マグドナルド・ベイン「心身の神癒」を
感性の鋭い人が目を通せば分かるように
本質は宗教を越えてある。

そのことを戸田先生は
「日蓮をはじめ、釈尊、キリスト、マホメット(ムハンマド)といった宗教の創始者たちが一堂に会して『会議』を開けば、話は早いのだ」
と言ったが

池田先生は、それをもっと
本質的・実際的・実践的に対話の道を開いていった。
http://12393912.at.webry.info/201005/article_1.html

本質の響き合いです。
響き合い飛翔することを目指した。

鳴るべき音が鳴り重なり
奏でられるメロディーの飛翔。

その歓喜。

それはそれとし
律動法から導かれるものによって

まぁ、法華玄義なんてものは
こういうタイミングでもなければ
なんとなくすらも分からないものかもしれないし

色々と不思議なリズムです。

<宿坊>法華玄義・譚玄本序  投稿者:体長1.3mの巨大猫
http://6027.teacup.com/situation/bbs/71994
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72033
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72053
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72074
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72109
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72138
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72166
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72193
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72235
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72286
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72335

気分転換<youtube>2人でハンドベル-butterfly(バタフライ-木村カエラ)
https://www.youtube.com/watch?v=fBx77fuX0YI

パチスロの絵柄にベル・スイカ・チェリーが多く使われる理由 ... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1043056670

この角度からも、スイカはフルーツの認識のようですね??

しかしスイカは野菜だという話もよく聞くし、
認識的にはそっちによってました。



[815] スイカは野菜か果物か

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2017年 7月20日(木)17時28分54秒   通報   返信・引用

皆さんこんにちは
清潔な身なりです。

スイカは野菜か果物か

いまだに大真面目に論争があるようです。
どちらの意見ももっともだけども、決定打に欠けるようです。

うちの息子に訪ねると

昨日のスイカは果物だった
なぜなら甘かったから

だそうです。
もっともですね。

少なくとも息子にとって昨日のスイカは果物だった

これを 否定するのは無理のようです。

世の中こんなものみたいですね(^.^)



[814] 普賢に優劣無し

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月20日(木)13時14分5秒   通報   返信・引用   編集済

人間に優れているも劣っているも無い。
人間に優劣があるところは
一切衆生が等しく遊楽している所の
自受法楽ではない。

酒・金・女
地位・名誉・人脈
真・善・美

あるものはあるものとして
「ただ女房と酒うちのみて」

無いものは無いものとして
「世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。」

これがあるだけという
このままの真理を理解する賢さといっても

それは瞬間の在り方だけであって
そんな「賢さ」という自分が不変のものとして
在り続けることは無い。

善への心根も、美への感性も
同様である。

今どれだけ関心を持っているか
どれだけ「好き」でやっているのか。

誰かがやってくれるだろうといっても
そんな「誰か」は「仏眼」の上には存在していない。

「誰か」に期待依存している分だけ
「仏力」は閉ざされている。

「仏力」が閉ざされていれば
「法力」は劣化していく。

なぜ「法」が劣化していっているのかに気づけず
あれに期待し、これに依存し
ますます「仏」を見えなくしているのが
創価の現状である。

「好き」だから「真似をしてみる」
ここにおいてストーリーのある意図思惑であっては
結局、そこまでしか現象化しない。

意図思惑の無い
そこにおいて純粋さが開いていく。

自分の賢さではなく
普遍の賢さが開かれる。

東より太陽が昇り
光のエネルギーが届いていくと
世界そのものが無限に賢いという
感謝が輝いているのだ。

自分が賢くなろうとして握りしめてきたものを
手を放し普遍へと返していくのだ。

真実を失うことなく
思い続けることが消える。

思考することのスペックは限られている。
この限定性に個別の自分の物語を見ている。
これの容量や使い方が頭脳という自分の賢さで

法華経を締めくくる「普賢」とは区別される。

普賢とは、頭脳しない方、思わない方の
賢さなのである。

思いを消費しないことによって
この真実がこのままに真実なのである。

留めることなく
留めるものなく
留まるものない。

一瞬一瞬が、ただその在り方である。

囚われを外すのだという思考概念で
囚われは外れない。

頭脳という側は囚われである。
全ての事は普遍の側なのである。

ここへは一種、
言葉としてお題目を並べている。

律動法による「ビリビリ感」の
多角的観察の

瞬間瞬間の掘り起こしの
二者関係のための模索です。

思考することにあるのではなく
あることにあるのです。



[813] 都の月をば

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月16日(日)11時13分27秒   通報   返信・引用

「十方とは十界」ということは「道」ということです。

個々別々としては「道の先」に「目的」があり
「どの道をどのように行くか」に境界、違いがあるという
ストーリーの在り方です。

「六道」「四聖道」「八正道
「道を開く」「道を歩む」「道を修める」「道を継ぐ」

絶えず道に流れ通うのが血脈であり
未来にまで流れ通わせるのが広宣流布です。

世界とは
過去・現在・未来という三「世」に渡って
十方に十界という境「界」が在るという相です。

済度と言って渡され済んでも
世界は世界として三世十方の法界です。

此岸と彼岸は振り返れば同じという非二元です。
全ての道は今ここへ繋がっていて
全ての道は今ここから繋がっていて
全ての世界には今ここしか無くて
全ての今ここには特定の永遠無限の個別は無い。

異時異所でありながら同時同所である二而不二。

思考概念では妙法はパラドックス化する。

藤子不二雄の作品にSF短編シリーズがある。
普通はSFとはサイエンス・フィクションであるが
藤子不二雄は「すこしふしぎ」と当てている。

視点によって現れる不思議によって
概念が揺らぐ衝撃が起こる。
http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20130227

それは「すこし」という適度なところで
ストーリー化されている。

妙法は不思議そのもので違いを持たない。

十方世界には十方微塵世界・三千大千世界
というような数限りない境界・差別の世界があり
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/jsekai.html

しかもそれは一心の方便であって
今ここに同時同所である。

それぞれを、やるということは「術」であり
それぞれが、あるということが「道」である。

術は独自的な流派となり
道は同一的な在り方となる。

弓道と禅道に同一性の概念もある。
http://www.kajita-m.jp/0002%20matui4manabutanosisa.htm

「中てる弓ではなく、中る弓を引く」
https://www.youtube.com/watch?v=qQPI87-ahy4
木の中に仏が宿る
http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/houwa32.html

道を修めることは素直で謙虚です。

道々に道を求める求道から
ただ十法界として在るという救済へ

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命

妙法を俯瞰するという一心に
素直に柔軟に在って
「自分の道」というそれぞれでなく
修めて皆済され足りている

三世十方は権である。
実がそれらでないならば
今ここを離れて実があるはずがない。

今ここの実相の本来が法華経である。

「これ」

法華経の智慧226
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8023



[812] 衆生所遊楽

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月13日(木)13時09分26秒   通報   返信・引用

「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外(ほか)の遊楽なきなり。経に云く「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)」云云。此の文、あに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。衆生のうちに貴殿もれ給うべきや。所とは一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。遊楽とは我等が色心・依正ともに一念三千・自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」とは是なり。ただ世間の留難(るなん)来(きた)るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合(あわ)せて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいた(致)し給へ。恐恐謹言。」

四条金吾に対して「四条金吾よ」ではなく
「一切衆生」との呼びかけから始まる。

一切衆生即四条金吾、四条金吾即一切衆生である。

四条金吾が南無妙法蓮華経と唱えていること
一切衆生が南無妙法蓮華経と唱えていること
日蓮大聖人が南無妙法蓮華経と唱えていること

それが常住している事
自己機能の受容によって法を楽しむ。

衆生所遊楽とは
どういう所で誰が遊楽しているのか。

所を言えば四条金吾の肉体即一閻浮提の
今ここの依正不二の色法であり

誰かを言えば四条金吾の精神即一切衆生の
「I am」の自他不二の心法であり

遊楽とは四条金吾個別の人我の見ではなく
その色心不二・一念三千・自受用身の仏知見であり

「南無妙法蓮華経と唱うる」とは
しかもその四条金吾と仏知見に分離が無いことの気づきである。

「口は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり、此の妙は前三教に未だ之を説かず故に秘と云うなり、故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり」(714)

十界曼荼羅は十方曼荼羅でもあり
十界の相貌は「方」、主題の不思議宝塔は「便」であり
文字曼荼羅本尊が一心の方便でもある。

「自分とは誰か?」
自性の中心核は無い。

では誰が「南無妙法蓮華経と唱うる」のか?

全体、一念三千がそのまま
南無妙法蓮華経と唱えているのである。

南無妙法蓮華経と唱えている全体の外には世界は無い。

十方十界が南無妙法蓮華経と唱えている不思議が本尊であり
それへの気づきが自受用身であり
それは遊楽である。

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(御書三二九頁)

全体そのものが尽きることの無い
慈悲によって生かされている南無妙法蓮華経なので
現世安穏・後生善処である。

「世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。」
「ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。」

憤怒のままに暴れるのではない。
愚痴を愚痴で終わらせるのではない。

観心の本尊への気づきとするのだ。

あなたは何だ?
四条金吾という一瞬の夢のために瞋り尽きるのか
法華経の行者として一切衆生の遊楽を味わうのか

一瞬の夢の苦は一瞬の夢の苦と覚り
法華経の行者の遊楽をこそ遊楽と開いていくのです。

歓喜の中の大歓喜の自受法楽へと向かうのです。

じたばたするのは強盛の信力とは言えませんよ。
雄大な心に末法万年の広宣流布が完成されるのです。

悩みの本当の解決へと
しっかりとエネルギーを向ける。

全体のエネルギーがそう働くのであれば
どうして解決しない悩みがあろうか?

個別の人我の見で見るから
そのエネルギーの向け方や解決のスパン
解決の可能性、願望の真偽、効果などが
思考概念として対象化され
「こういうものだ」「こんなものだ」と
解決されないことの自己機能になる。

思い込んでいることではなく
信じ込んでいることではなく
ただ願って起こっていることの
回復改善として自己機能をし
悩みを解決させる。

気づけばそれは起こっているのだ。

気づいている歓喜を選択していくのだ。

<アルベアのブログ>「悩み」とは⇒自我機能の働き作用
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12292138743.html

気分転換
怪獣倶楽部~空想特撮青春記~(全4話 計100分)
http://www.dailymotion.com/video/x5p38nh
http://www.dailymotion.com/video/x5q2smb
http://www.dailymotion.com/video/x5r4y48
http://www.dailymotion.com/video/x5rwzsm



[809] 立正観

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 6日(木)12時23分42秒   通報   返信・引用   編集済

噂は噂、都市伝説、街談巷説、道聴塗説、話半分
好きですよね、人って。

自我機能が自我機能を引っ張る、翻弄される。

嘘を作った意図思惑に、見抜いたという思い込み。

あれが本当、これが本当、どれが本当?
これが嘘だからあれも嘘?

主義主張、自己都合の思考概念。

だからそれは「どうでもいい」

今ここに関係ない。

御書にしても御本尊にしても
ただ紙と墨、あるいは木と漆と金箔。

ただそれがあるのを
一心がそこに何があるのかを見る。

色→受→想→行→識

仏教を学んでも、仏教を智慧化技化できない学者が
あれやこれや、あーだこーだと言う。

選挙戦のお好み焼き理論という俗論がある。
選挙を頼まれる人は、それほど深く精通していない人がほとんどなので
新しい話を聞くたびに、なるほどと思ってそっちにひっくり返る。
だから選挙というものは、ひっくり返して、ひっくり返されて
それでも最後にもう一度ひっくり返して投票してもらうのだと。

仏法の深淵からすれば限りなく薄っぺらい。
投票依頼を受けさせるのは簡単で、保たせるのは難しい。

「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」

その場限りの思考概念の納得で信じることを受け入れるのは簡単だが
体感からの揺るがない自得を持つことは難しい。

なぜ難しいかと言うと、授受の二者関係の双方に
意図思惑が働くから難しい。

意図思惑の無い「空」の体感が意図思惑に隠されるから難しい。

つまり意図思惑が消えれば反転する。

これしかないという空しか伝わりようがなく、それは失われなく
むしろ全くズレブレのない思考概念を完全に伝える方が難しい。

立正観抄」という御書がある。

この真偽問題(花野充昭)を見ると、
いかに思考概念の主義主張の世界であるかが垣間見える。

それはそれとして、御書の内容を見る。

そこには、禅天魔の達磨の禅観と
法華経による妙禅の一心三観・一念三千の観法が
分けられている。

しかし
一心三観・一念三千の観法と言っても
未だ天台智顗の可思議による
法華経の不可思議の妙観への行者の修行の方法にすぎない。

ゆえに
一心三観・一念三千の観法を修行すると言っても
肝心の法華経を貶めては元も子もない。

「理」→「事」→「動」であるべきところが
その血脈を失う。

日蓮大聖人は「法華経しかないという全体」
事の一念三千の御本尊を己心に見て顕わし
「動」へという
「南無妙法蓮華経 日蓮」を開いた。

(言語化に難あり、あえて深く言語化すべきではない)

御義口伝 方便品八箇の大事 第一 方便品の事
「南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり」等々

「理」→「事」→「動」への繰り返し確認の引用である)

「動」の中においては不可思議であって
「可思議」は無・空であって
思議できるような一切は消える。

「日蓮仏法」というものも消える。
日蓮大聖人という個別も消える。

禅天魔の達磨の禅観と
法華経による妙禅の一心三観・一念三千の観法の違いも消える。

「動」→「事」→「理」への反転が開かれる時にあっては
それ自体がそれ自体で一切である。

如来寿命は0であり
如来寿命は∞であり
如来寿命が1である。

言葉をいくらなぞっても、
そこには捨て去られるべきものがあるだけだ。

律動法によって「動」を知る時に復活する。
「動」によって開き蘇生し円満となる。



[808] アビダルマ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 4日(火)13時35分17秒   通報   返信・引用   編集済

気楽非活」さんの言っていることを
ざっくりと考えてみるもので
不勉強により、正確性を欠くかもしれない。

まず諸行無常っていうことで
この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するもので
不変のものはないということを
釈迦牟尼仏が入滅に際し、沙羅双樹の木の下で説いたとされる。

しかして非想非非想処を目指すにあたって
釈迦牟尼仏の残した教え(ダルマ)と向き合い
覚知すべき一定の体系を研鑽し(アビ)
その究極の法(アビダルマ)の上に全てを説明しよう

つまり諸行無常を諸行無常として成り立たせている
三世不変のアビダルマの覚知が悟りへの道だという学派が
上座部仏教の説一切有部だと、ざっくりと言えるだろうか。

参照アビダルマ哲学入門  阿毘達磨倶舎論入門   改訂版

眼,耳,鼻,舌,身,意の六根
色,声,香,味,触,法の六境
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識 の六識
合わせて十八界とする。

また、五位七十五法 等を書いた
世親(天親)の『倶舎論』が有名である。

五位七十五法における
「心王」の位置が興味深い。

御書「一念三千理事」では
仏法発展の順を追って倶舎論から
十二因縁が説明されている。

原始仏教から部派仏教にかけて行われたもので,すべての存在を五蘊(ごうん),十二処,十八界などの諸要素(法)に分析し,そこに自我はない(人空)と見るものである。これは,自我への執着を絶つことを目的としたが,諸要素の実在を肯定する多元論的実在論に陥った。(世界大百科事典【空観】より

倶舎論を書いた世親(天親)は、その後
弥勒を開祖とする大乗の瑜伽行唯識学派に転向している。

この学派は
ヨーガ(=瑜伽(ゆが))の実践の中に唯識の体験を得、教理にまとめた。

現在我々が知っている九識論の元になっているそれであり
実践的に六識を発展させたとも言えるか。

ウィキ阿摩羅識を見ると、概要が分かる。

説一切有部が不変の法という境を見出そうとしたのに対して

唯識学派では
法という境に求めるのではなく
思考を受けている意根に求めるのではなく
認識する意識の内奥の性を求めた。

日蓮仏法においては
九識心王真如の都という「仏性」ということになる。

さて、回り道をしたが、中論の龍樹を見よう。

時代的には瑜伽行唯識学派より前
中観派の祖師が龍樹である。

上座部仏教の説一切有部に対して

まぁ、ざっくりと言うと
自我機能の探求による思考概念の上書きの愚考だと断じて
相対的現実の見方、三つの区分けを論じたという事だ。

上座部仏教が法が実在し自分が空であるとするのに対し
大乗では仏性があり、一切法は空になる。

で、気楽非活さんが言ってるのは、その空である法を
一念三千として体系化して対象化するのなら
元の木阿弥で思考概念になるのではないのか。

そこに重きを置いたら、
大乗の運動から外れているのではないのか。

そんな感じだろうか?

南無妙法蓮華経とは何なのか
御本尊とは何なのか

究極の法が
有るのか無いのか。

考える限り
思考概念の「考え」だよねそれは。

しかし考えてみることがあるから
それを思考概念の「考え」と見分けることも出来る。

仏性と法と仮観が一心に在る。
分離していない真如の真我。

1973年阪神タイガース対中日ドラゴンズ
延長戦ノーヒットノーランを達成した江夏投手は
自らのホームランで試合を終わらせたという。

相対的には

大地が震動しなくても
自らが震動すれば大地が震動している。

法華経に描かれる振動の先。

そこに自ら何を見るか。

ただそれ



[806] 無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 7月 1日(土)13時05分47秒   通報   返信・引用   編集済

前々回の~法華経における釈尊の第一声に提示された前提の
「諸仏智慧甚深無量其智慧門」という
「是」は「如」であって
他人事の思考概念を元にした一切の修行法
いかなる努力をもってしても
それでは不可能である。~のだけれども

前々々回には~自分自分になってしまえば
ちょっとした差異にも嫉み
拘った正しさが通らないと瞋りに震える。~
とも言っていて、他人事でもいけないし
自分自分でもいけない。

本当の自他不二、「個」即「全体」の
悟りに必要な空の智慧の自受用身。

それのためには
では、どうすればよいのか?

「そんなの智慧の門には以信得入と言って
ただ信じることが大切で、だから
この正しい仏法を唯一世界へ広宣流布している
唯一正しい教団の創価学会の信心が大切なんです。
教学と言っても、これだけが分かっていれば良いのです。」
なんて言う人がいたとして

↑これは、ただの言葉であってどうでもいいのです。

「よく言った、その通りだ」⇔「それは違う、なんたる思考停止か」
↑受け手の作用反作用です。自我機能の思考概念です。

一切引っかかる所の無い
純粋な球の、法のため人のための体感知の無限
このエネルギー、恐れるところの無い、味わい尽くす、これの定まった明晰な静寂、脱構築されるところの、ただある智慧の、空の不二である歓喜の・・・

妙法蓮華経 方便品 第二 には
~舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。~

と、あります。

「深く無際に入り、一切未曾有の法を」
思考概念で認識した後の一切は「既」曾有の法です。
極まるところの無い、起こる前の無限の今ここへ深く入り
一切が未だ何者にも分別されていない存在そのものを

「成就せり」という見方は迹門です。
本門から見ると「成就されている」が
常に分離なくあって法を説いています。
永遠無限そのものの本地です。

そこへ至るにはと見ると迹門の「理屈」です。
本門から見れば、
そこから自然に初めに起こっているものは
という「事象」になります。

無量とは無量心で、無限の覚知からの心です。
理屈を言うと慈・悲・喜・捨です。

無碍とは抵抗値の無い完全な受容の球です。
理屈を言うと法・義・辞・楽説の智慧です。

力とはありのままの体感知のエネルギーが「もたらす」見分け区分けの能力です。
理屈を言うと見分け知る十種類の「得ている」力です。

無所畏とは、後付けの不安要素が無く反転していない元のままです。
理屈を言うと一切智・漏尽(ろじん)・説障道・説尽苦道の畏れるところの無い智慧です。

禅定とは今ここにあるこれです。
理屈を言うと心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修することです。

解脱とは脱構築され終わっている0=∞=1です。
理屈を言うと執着を離れ苦しみの輪廻の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することです。

三昧とは一切全てが未だ味わっていない無限です。
理屈を言うと精神を集中し、雑念を捨て去ることです。

https://blogs.yahoo.co.jp/imnobody0864/22801765.html
http://buddhism.k-solution.info/2013/10/_1_1.html

「理屈を言うと」と分けて言ったけれども
文字化されていることで全て思考概念の理屈になっています。

「事行」に拘っても
そのままには伝わらないのです。

思考概念に変換されてしまいます。

各人の思い思いの解釈になってしまうのです。

禅定・三昧による真理の探求から
無所畏の折伏の事行への志向性が虚しく
思い込み信じ込みの愚考の愚行へと反転してしまうのです。

『御義口伝』「説法とは南無妙法蓮華経なり、心無所畏とは今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と呼ばはる所の折伏なり」(御書 一七七九㌻)

http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yougo%20kaisetu/musyoi/01.html

折伏が御本仏日蓮大聖人の
勇ましく切って折って伏せる特質だという
愚考へと反転するのです。

愚考は組織から利用されるのです。
一つでも少しでも拘りがある者に対しては
その拘りを突いて躍らせることが出来るのです。

拘りを突くいやらしさ、利用非利用の疲弊作用が循環しているのです。
パワーゲーム・マネーゲーム・正義ゲームの化かし合いです。
バイアスのかけ合い、マインドコントロール天下の志向(第六天魔王)
があるのです。

不良不全がもたらされるのです。
グーミンからの脱出方法(解脱)が分からない
もたらされていないのです。

永遠無限の本地からあるがままが説かれ
グーミンからの脱出がもたらされる
ただそれだけのことが本当の折伏です。

律動法を実践すればあり
もたらされでいることが自然であることが
了解されるのです。

解脱でない変革は上書きです。

解脱の変革は上書きではなく
かぶせにいかなくて良いのです。
自然に自発するのです。

内奥から溢れ出る歓喜なのです。

気分転換
<youtube>前前前世 (movie ver.) RADWIMPS MV
https://www.youtube.com/watch?v=PDSkFeMVNFs

<youtube>スピッツ / 運命の人
https://www.youtube.com/watch?v=AMWDAuPx26Q

<youtube>スピッツ / 愛のしるし
https://www.youtube.com/watch?v=7awhzclrBMc
<youtube>PUFFY 『愛のしるし』
https://www.youtube.com/watch?v=i0wWgX9Xg8I



[805] 「   」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 6月29日(木)12時27分34秒   通報   返信・引用

<youtube>100分de名著「維摩経
https://www.youtube.com/watch?v=VnKXI0QEJMg
https://www.youtube.com/watch?v=PGZs2zfK49I
https://www.youtube.com/watch?v=pQyq1690C0Q
https://www.youtube.com/watch?v=49lG04zWBXc

維摩経は御書の中では浄名経の名で出てくる。

大乗の空の思想の経であり不二の法門が説かれている。

一生成仏はその空の不二の法門が大きく関わっている。

<日蓮大聖人と私>一生成仏抄・第四章 迷悟不二に約し題目修行を勧む
http://aoshiro634.blog.fc2.com/?m2=form&no=1226

<師弟不二ARCHIVE>法華経の智慧246
http://sgi-shiteifuni.com/?p=8139

師弟不二って何だろうね。

「池田先生が師匠、私は弟子」というのは
どこまで立派にやり遂げたとしても
それだけでは立派な師弟ではあっても
師匠と弟子が別であって不二ではない。

思考概念の思い込み信じ込みでは
俯瞰が出来なくなる。

都合の悪いことは覆い隠し
「在り方」を歪める。

気づけば「異様」である。

「異様」と見られることに取り合わず
おためごかしの号令に
バイアスに麻痺した中毒の期待依存。

いつかきっと続けていれば?

良くならないですよ。
今ここしか無いのですから。

気づけば
それがそうあるだけ。

無駄とか無駄じゃないとかという分別が
在るままに無いままであり
離れないし離れるし
変換するし変換しない。

師弟不二から師弟不二を見れば
見た次の瞬間には分離して歪んでいて

常に脱構築、解体、再構築できることが
一人立つということであるし
一人立つとはそんなものではない。

どうでもいい。

良いも悪いもなく、ただ、どうでもいい。

「どうでもいい」を「       」

これがあるだけ。
是が如なだけ。

<アルベアのブログ>
「自我機能」⇒「思考・概念」に「気づく」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913873.html

「体感調整」としての「スワイショウ・ぷるぷる気功・火の呼吸」
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913932.html
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287913997.html

「律動法」の実践をすると、
http://ameblo.jp/arubea9/entry-12287914095.html

法師品に「是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の大慈悲心是なり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり如来の座とは一切法空是なり」
御義口伝には「衣とは柔和忍辱の衣、当著忍辱柔和忍辱鎧是なり、座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり、室とは慈悲に住して弘むるゆえなり母の子を思うが如くなり」

思考概念に気づき離れて清浄な男女は
「如」が去来する如是を覚知し
「どうでもいい」の本質を纏い
空性の本分の「個」即「全体」に座して
人びとのためにその覚るところを語りなさい。

気分転換
<youtube>Makoto Kawamoto ? LIVE
https://www.youtube.com/watch?v=0bAb8bHn2IQ

神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる

同じもの同じ感じかたしてるの 愛してる 愛してる 愛してる

<youtube>川本真琴 桜 (makoto kawamoto sakura)
https://www.youtube.com/watch?v=nZTTKgmbTs0

松本「ね、このこ聞いてもすぐ返してくるでしょ」


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